Entry1
桃
サヌキマオ
じいさんはかすかに聞こえる赤子のような声を耳にするとガバと跳ね起きました。しまった! の声を残して外に転がり出ますと、はるか上空から声がする。
「屋根の上か!」
こんな夜更けにはしごを出して、足を滑らせようものならばたまりません。曇っているのでしょう、空に星ひとつ見えません。灯りをもって出てきたばあさんを押し止めると、中に戻って朝からの算段を立て始めました。
鳴き声は、かすかに聞こえます。
元はといえば半年ほど前のことです。いつものようにじいさんは山で柴を刈り、ばあさんは川に洗濯に出かけました。ばあさんが洗濯をしていると、川上から一抱えもある巨きな桃がどんぶらこどんぶらこと流れてきました。じいさんへのいい土産になると思った婆さんは、洗濯物そっちのけで桃を抱えて家に運びました。
夜になり、帰ってきたじいさんと桃を食べると種がごとごとと動きます。なんだか気味が悪かったものの、物好きの血が騒いだじいさんが種をこじ開けますと、中から玉のような男の赤ん坊が出てきて盛大に産声を上げました。子供のいなかったじいさんとばあさんの喜ばないことか、すっかり自分の子供にしてしまいまして「桃太郎」と名付けて大事に育てました。桃太郎は尋常でない早さですくすくと育ち、一月も経つ頃には立派な青年になっていました。
「あれが失敗じゃった」後にじいさんが囲碁仲間に語った話です。「子供がおらなんだで、まぁ大きゅうなるのも飯を食うのも世間様並みと思っていたがとんでもない、普通のこどもの十倍も廿倍も飯を食う子供だったんじゃ」
おかげでじいさんの柴刈りだけでは食っていけず、家にあっためぼしいものを売り払っては桃太郎に食わせました。大きくなった桃太郎がそのままじいさんばあさんの手伝いをすればよかったのですが、ある気分の良い朝、桃太郎が妙にかしこまった様子で「私はこれから世間にはびこる鬼を退治しに鬼ヶ島に参りとうございます」と言うのでした。
「桃太郎や、鬼というのはなんなんだい」
「赤や青の肌をして、角を生やしたむくつけき大男どもです。彼らは自分で働いて稼ぐことをせず、近隣の村々を襲っては財宝や食い物を奪って生計を立てています」
それはお前だ、と言いたいところをぐっと飲み込んで、じいさんは優しく諭しました。
「そんなもの、この村では似たことでもないんじゃがね」
「都では、大変なことになっているのです。私がこうして生まれたのも、この鬼を退治するために違いありません」
桃太郎があまりにも真っ直ぐな目でそういうので、じいさんはそら寒さを覚えました。しかし、ばあさんはにっこりとして桃太郎を応援するのです。
「まあ、桃太郎もこんなに立派に育ったのですから、世のため人のためになることをさせたらよろしいじゃあありませんか」
あんまりにもそう言うものですから、じいさんもそんな気になって衣服を揃えました。陣羽織、手甲脚絆、日本一の桃太郎の幟……揃えたものを着せてみると馬子にも衣装、なかなかの偉丈夫です。もしかすると、ことによっては本当に鬼とやらを退治してくれるのかもしれない。村の人々の好奇の目に晒されながら、桃太郎は峠道をずしずしと歩き、やがて見えなくなりました。
「あれ、おじいさん、おじいさん」
「なんだいばあさん」
「昨日拾ってきた桃の種が見当たらないんですが、なにかご存知ありませんか」
「あれか。ばあさんには非常に言い難い話なんじゃが、今朝になって動かんようになってしまってな、嫌な予感がして開いてみたら、すでに死んでおった」
「あれまぁ」
「大変に悔やまれることじゃが、こんなものをお前に見せるのも忍びないと思ってほれ、裏庭の道祖神様の裏に埋めてしまった」
「そうですが。大変に可愛そうなことをしました」
嘘でした。ばあさんがまた拾ってきた桃の種は元気よく蠢いていましたが、まだ夜の明けやらぬうちに川に投げ捨ててきたのです。
あれだけ食わせて、あれだけ面倒を見て、「鬼退治です」と奴は出ていってしまった。
同じようなものが生まれてみろ。
山の中、独りごちながら振る鉈にも力が籠もります。ふと、耳の端でがさごそと葉の触れる音がする。すわ熊か! と緊張して木の陰に隠れますと、鬱蒼とした森の中でひときわ輝く紅色の――桃です。桃が歩いていました。桃に鳥の、鶏のような足が生えて、根の張り巡らされた獣道を器用に歩いている。
じいさんはあっけにとられていましたが、とたんに全て合点がいきました。やつらは、桃のようななにかは、ああやって自分が居候できる場所を探しているのです。じいさんはたまらずに桃のあとを追いかけました。桃は迷いなくじいさんの家のほうに向かって歩いていくのでした。このまま山を下りると家の裏側に出ます。家の裏側は少し開けていて、申し訳程度のたばこ畑がある。
狙うならここしか無いと思いました。桃が森陰から日向に出たところを見計らって、渾身の力を込めて振りかぶった鉈を投げつけます。鉈は狙い過たず桃を直撃して、瑞々しい実をえぐり取りました。ケーッと一声上げた桃はあたりを見回していましたが、やがて背後のじいさんに気がつくと一目散に逃げていきました。
それからというもの、桃の襲来が始まったのでした。
日が傾いて山の陰に隠れ始めると、裏山の方からひたひたと桃が家に向かって走り寄ってくるのです。初めはただただ怖がっていたばあさんも、仕留めた桃の皮が染料として使えることがわかると、しまってあった弓矢を取り出して訓練をし始めました。昔取った杵柄とはいえ、ばらばらと襲い来る桃を芯で撃ち抜くさまにはじいさんもすっかり惚れ直しました。
習性がわかればこっちのものです。じいさんとばあさんは毎夕毎夕桃を殺して暮らしました。桃から子どもが生まれてくることだけは、あってはならぬことでした。その子どもを殺すようなところを他の村人に見られてしまっては、じいさんばあさんがこの集落にいられません。
そんな矢先でした。
おそらく、桃が跳んだのでしょう。
桃は夕方にしか現れないと高をくくったじいさんに落ち度がありましたし、桃のような畜生は経験から学ばないと思っていたところも愚かでした。
話は冒頭に戻ります。
微かに屋根の上から降ってくる泣き声を聴きながら、眠るような眠らないようなようすでいますと、隣に寝ていたばあさんがむくりと起き上がりました。
「駄目だおじいさん、あたしは莫迦かもしれないが、泣いている子どもを放っておくわけには行かねえだ」
もう夜もしらじら明けるところでしたので、ではいっちょう、と物置からはしごを出して藁葺の屋根にかけました。
ひっそりとしていて、登るはしごの軋む音だけが聞こえます。
「どうですかおじいさん」
「ううん、猫だ」
藁葺の落ちて固まったところに、大きな親猫の腹に三匹の猫が顔を突っ込んでいるのが見えました。
「猫ですか、猫なら良かった」
「良かったというかなぁ」
急に朝日が眩しいので振り返ります。村の中心に続く道が見えて、じいさんはふと、身じろぎもしなくなりました。ばあさんは不安になって声をかけます。
「どうしましたかぁ」
「大変だ」
朝の静けさを破って、車輪のがらがらいう音が聞こえてきます。
「桃太郎じゃ! 桃太郎が帰ってきた」
桃太郎が持ち帰ってきた金銀財宝で、その後幸せに暮らしたかというと、そうでもなさそう。