山に添うた新しい学校の屋根は、眩しいほど光っている。細い流れを隔てて麦畑が遠くまで続いて青い麦の葉はユラユラ動いている。今日は日曜であれば学校には騒がしい音がしない。薪を積んだ荷車も通り過ぎた。
裸馬に乗った男も山の隈に消えた。
四辺に人影は見えなくなって、人間の声は
一時跡を絶った。
弥一は小川の縁に立って、目を張って澄み切った空を仰いでいる。空には一羽の雲雀が羽をキラキラさせて晴れ晴れしく囀っている。弥一の目はその雲雀に吸い取られた。
やがてその雪雀は矢のように麦の中へ下りた。弥一の目は麦畑に注がれた。左右の畑や草叢には
数多の雀と雲雀とが
囂しく囀っている。間もなく他の雲雀が
羽搏きして空に浮かんだ。
弥一は鳥の声が好きであった。鶯
目白百舌鳥、
鳶の声にも聞き惚れた。中にも春の野の雲雀には魂の抜け出たような顔をして、
何時までも聞き惚れる。友達との荒々しい遊戯の嫌いな彼は、ただ一人小鳥の声を追うていた。と云って、
黐竿を持って鳥差しに行く気はなく、ただ自由に歌う声が好きだった。
好きなものは鳥の音ばかりではない。
蜷蜂鈴虫松虫、虫の
音に耳を澄ました。秋の夜は壁を隔てて清いその
音を催眠歌のように聞いて快い睡りについた。
村の者は誰一人、虫の
音鳥の声に心惹かれる者はない。弥一がそれに聞き惚れているのに気付く者もない。
雲雀が空高く
恣に唄うその微妙の音は、弥一の耳にのみ意味深く伝わった。
弥一は
十歳を一つ二つ過ぎたばかり、
身体は弱く学校の成績も悪い。唱歌する他の子供のように声張り上げて面白そうに唄うことはなかった。だが、唱歌の時間は他の学科のように厭ではなくて、他人の唄うのは快く聞かれた。折々は
人気のない野道を歩きながら、独り小声で唄いなどした。
三味線や琴の
音は、弥一が生まれて以来、この淋しい村に響いた事はなかったが、笛の音は一年に一度向かいの峠を越えて訪れて来る。
時節は
定まって四月の末だ。桜の散りかける時分、旅から旅を巡る伊勢の神楽が、この土地にも一日足を留める。
重な家々を廻って後、神社の庭でいろいろな曲芸をするのが例になっていて、その日は大人まで仕事を休んでゾロゾロ後から随いて廻るほどで、神楽が来たという知らせは、村の端から端を湧き立たせる。獅子舞茶碗廻し手鞠取、
抜刀の曲芸、太鼓と笛の囃子が絶えず響く。頬被りした道化
爺、太鼓叩きの色男は村の子供の物真似の種を播いて、次の村へ越えて行く。
弥一はその笛の音が悦しかった。神楽の一群の去った後も、忘れがたい響を耳に残した。独り静かな神社に彳んで心を凝らしていると、今もその音が幽かに響いているようであった。旅から旅と神楽の後を追って行きたくもなった。その
笛吹者は世にも稀な尊い人と思われた。二本の竹の穴から、あんな面白い音を発するのが不思議でならなかった。そして自分の家の物置倉から、古い色取った笛を取り出して試しに吹いて見たが、少しも快い音は出なかった。
食い盛りにも物を欲しがらぬ彼は、夏になるとますます
食気が乏しくなって、顔色は蒼く、手足は
螽蟖のように痩せた。
『弥一にも困るじゃないか、お医者に見て貰うて薬でも飲まにゃなるまい』と、両親は気遣い出した。
でも、差し当たって
床に就く程の病気でもないので一里も隔てた医者の家へ連れて行こうともしなかったが、ある日隣家に大病人が出来て、医者を迎えて来た時に、
序に診察を頼んだ。
医者は何病とも云わないで、ただ勝手に遊ばせて置け、出来れば海水浴にやったらそれに越した養生はないと云った。海を見たことのない弥一は、海岸の旅がしたかった。須磨明石と書物で覚えたその景色のいい明石には、叔母の家がある。暑中休暇に
彼処へでも行きたいと思った。
母も永らく会わない妹を訪ねたくもあったので二三日評議の果て、弥一を連れて、馴れぬ旅路に上った。
弥一は汽車の窓から珍しそうに戸外を眺めた。明石に着いてからは、絶間なく海辺を歩き廻った。恐そうにして海へも浸った。
小波の柔らかい音は嬲るように耳に忍び込む。彼は手で波を追ったり圧えて見たりした。折々は汽船に乱されて、大きな波が強く寄せて来る。
叔母の家は線路の近くにあって、練塀の上に柘榴の花が垂れている。弥一は何時も裏木戸から
泥溝の上の橋を渡って、海や山へ遊んだ。人丸神社への踏切には番人がいる、汽車の来る度に旗を振っている。弥一は側を通り抜ける汽車の
囂しい音に胸を轟かせた。気味悪く覚えた。
四五日経つ間に蒼白い
肌も潮水に染まりかけて、俄に食気づいて来た。これで一月も此処にいれば丈夫になるだろうから、当分
家へ預けて置けと、叔母は母に勧めた。母は一人子を残して帰るのも躊躇されて、一日一日と帰鄉の日を延ばした。
弥一はもう土地に馴れて、独りで遠くまで遊びに行った。夜の星明りに畦道をも伝った。友達もないのに淋しがりもせず、行きたい所へ行った。
知人に声を掛けられたり、意地の悪い朋輩に邪魔をされないで、
恣に波の音や涼しい風を楽しめるのが悦しかった。何時までも故郷へ帰りたくなかった。学校の教場へ入りたくなかった。
ある夕方に風呂から上がると、ウカウカ畦道を通って線路へ上がった。向うの番小屋にも灯火がついていた。弥一はふと幽かな汽車の音を聞いた。耳を澄まし首を地に近づけたが、終いには
軌道に首を載せて聞いた。線路を伝って来る響きにウットリした。
美い夢の中へ誘われるようであった。
幾分かの後、弥一の耳は機関車に引き裂かれて、線路には血が迸った。