第1回6000字小説バトル Entry14
「科学は世界最大の宗教である。」私が高校生の当時、こんな事を言った者がいた。
私の名前は“フリセック”。ピアノの貴公子、ピアノの申し子。いろんな肩書きがあるが、まあ、ただのピアノ好きの青年だと思っていて間違いはないと思う。
今は、彼女の家にいる。いい家だ。広いし、何よりピアノがある。
彼女はバレエダンサーを志していて、その練習のために私は、彼女の練習場でピアノを弾いたことがある。それがきっかけとなり、以来、私達はずっと兄弟のように仲良くなっていた。
練習がうまく行かないときなど、私達はソファの上で寝ころび、頭頂葉を向け合ってしょっちゅう様々な事柄について論争をしていた。その殆ど全てが決着のつかないまま闇に葬られてしまうわけだが。
ところが、冒頭で述べたセリフは、どういう訳かすんなりと決着がついた。
「私は、これはある意味で正解だと思うわ。」
天井でくるくると回る扇風機をぼーっと眺めながら、彼女は言った。
「だって、世界中の殆どの人々が科学技術に依存しているけど、実際それについて詳しい知識を持っている人はほんの一握り。あとの人は“科学を盲信して祈ってばかりいる信者だ”って言いたいのよ。」
「僕も、この文章は間違ってはいないと思うな。」
私は、天上の模様を視線でなぞりながら、言った。
「本で読んでみたんだけど、現代科学では、僕等の常識がほとんど通用しなくなってきているらしい。例えば、電子の存在は整数じゃ表せなかったり、何もないところから勝手にエネルギーを貰ってきたり。筆者はそれらのことに対して、なにかこう、“神秘性”みたいなものを感じたんじゃないのかな。」
「…そうね…。」
これだけだ。たったこれだけで、この文章に関する論争は終わった。論題が無くなると、私達は他に交わす会話もない。ソファーの上で互いに頭頂葉を向け合い、ただじーっと、何もない天井を眺めていた。
「フリセック、ピアノ弾いて。」
「だめ。」
私は、いい加減つかれていた。午前中にも来週のコンサートで弾く曲目を練習し、午後からはついさっきまで、彼女のために鍵盤を弾きどおしだった。指は動く。長目を弾くピアニストの指は驚くほど強靱なのだ。が、それに私の精神力がついてゆかない。
「…何が聞きたいの。」
「“ラプソティー・イン・ブルー”が聞きたい。」
これはまたとんでもない大曲だ。ジャズ、交響曲。ありとあらゆるジャンルに及んだ大作曲家、ガーシュインの代表作。まさに奇想天外とも言える主題が聴く者の琴線に触れる。
確かに、ピアノのパートだけなら弾けない曲ではないが、その代わり、今弾いたらまちがいなく死ぬ。
「お休み。クレア。明日は早いからね。」
「…………。」
彼女、クレアが今取り組んでいるバレエの曲目は、“白鳥の湖”。チャイコフスキーが作曲した四大バレエの一つで、そのけたたましいほどの感情表現は聞く者を圧巻する。私には、ロシアの暗い時代に生まれた大作曲家の、心の吹雪みたいなものに感じられた。
彼女は、いつ見ても可憐だった。髪を後ろで束ねて、白い衣装に身を包むと、あとは羽だけで空も飛べそうだった。
輝いていた。練習の量が違うのか、他の踊り子達の中でもひときわ異彩を放っていた。
私は、というと、自分の練習すらもおろそかにして、曲目を一通り弾き終わるや否や、とっとと切り上げ、彼女の練習ばかりを手伝いにきていた。
「フリセック、いいの?自分の練習は?」
「いいよ。」
本番はあと六日後。本来なら今頃追いつめにかかっている頃合だが、なんだか今日は白鳥が聞きたい。
すると、午後になってから彼女は言った。
「練習に付き合ってあげる。」
「いいの?」
なにしろ、私の方が予定では本番に近かった。彼女は自分の練習を早めに切り上げ、一度、私の練習に手を貸してくれた。
こっちの曲目は、“鍵盤の王者シリーズ”。彼が作曲した曲は、大体にして指がつかれてしまうピアノ曲ばかり。“リストハンド”という、私が勝手に名付けたのだが、非常に大きな手の持ち主でなくては譜面通りには弾けないし、“ラコッツイ行進曲”に至っては、「あれはピアノ曲じゃねえよ。」という感も少しはある。
どうせなら、ドビュッシーシリーズにするんだった。と、今更後悔しても遅い。
でも、弾けない曲ではない。私は王者をひとまず玉座に引き下げ、すぐ横に座っている彼女のために、とある詩人のノクターンを弾いた。
詩人のこのノクターンは、王に多大な感銘を受けさせ、その夜、王は愛の夢を見るに至ったという。
鬱蒼と茂った木々の影が、部屋の中にそそぎ込んだ。もう、夏も終わりに近づく頃。僕らは、ピアノで繋がっていた。
そう、そんな日の夜だった。突如、今までかみ合わなかった論争が、まるで見えない意志に引っ張られているかのようにくっついてしまったのは。
しかし、彼女は用意がよかった。こんな時のために、映画のビデオテープを用意していた。イギリス映画だ。
私達はソファーに座り直し、映画を見守っていた。一度、見たことのある映画だった。
彼女に聞いてみた。
「…この映画の結末、知ってる?」
「知らない。」
クレアは、ソファーの上でうずくまった。
「昨日、録画しておいたの。」
彼女は、イギリス映画は観ない。多分、僕のために録画しておいてくれてたんだと思う。
「…主人公の著名で高慢なピアニストがね、コンサートを三ヶ月後に控えたある日、事故で左手を無くしちゃうんだ。」
「…ごめんなさい。」
何だ?ああ、そうか。私にとっては少しフキツな映画だったかも。
「…いいんだ。それでね、それでもなんとかそのコンサートでピアノを弾きたい主人公が、代わりに左手になって一緒に演奏してくれる人を捜すんだ。最初は全然見つからなかった。僕も、そういう人はなかなかいないと思うよ。
けど、一ヶ月もかかってやっと見つけてね。その人と毎日ピアノを弾いている内に、主人公は段々と、優しくなっていくんだ。でも、彼女は不治の病にかかっていて…。」
彼女は、私の話に聞き入ってくれていた。
「…片手しか持たない主人公が、ピアノを弾く代わりに“別れの曲”の楽譜を本から破り去って、彼のお墓の前に添えるんだ。…そのシーンのセリフが、一番好きだ。」
映画は、淡々と進んでゆく。ピアノは、マルタ=アルゲリッチ。画面からあふれくるような、水飴の如く美しい音楽に彩られていた。ゆっくりと、彼女は言った。
「…ピアニストが楽譜を破くということは、その主人公が二度とピアノを弾けなくなったということを暗示しているのね。」
「弾けないんじゃなくて、彼女以外と弾く気がないんじゃないのかな。どっちにしろ、主人公はピアノを弾かなくなったんだね。」
彼女は、笑った。何か、変なことでも言ったのだろうか。
「なんだか、今日は、いつもみたいな話し合いが出来ないわね。」
いつもの険しい顔が、なんだか落ち着いていた。抑揚の無い声が自然とやわらぎ。彼女のこういうところは、初めて見た。
「ねえ、フリセック。」
「ん?」
「もし、私がいなくなったら、彼と同じ事を?」
少し、躊躇した。ブラウン管は、私達の頬を、ほの明るい青で照らしていった。
「…ああ、するよ。約束する。」
「冗談よ…。」
ピアノを引く前日には、必ず私は、ロンドン市内のとある教会に通っていた。橙色のレンガで形造られた建物の中に入ると、すぐ目の前に神の気配を感じる。大聖堂は、ピアニストとしての僕が生まれた頃から。つまり、18年間、変わらぬ壮大な姿をしていた。
私は、いろんな人達に頼んで、本番前になると聖堂の方隅にある古ぼけたオルガンを弾かせてもらっていた。教会の手前には静かな並木道を挟んで、病棟もあるので、落ち付いた曲目だけを奏でるように心がけている。そう、18年前からずっと変わらぬ、同じ楽譜集を使って。
これが僕のpray(祈り)で、これも18年間、ずうっと変わってはいない。
だから、この教会で彼女に似た横顔を見たときは、思いもよらない事で、ドキッとした。
「……。」
彼女は、僕と目があっても、何事も言わなかった。長い黒髪も今は束ねてはいないし、いつもは簡単な服しか着ていなかったのに、今日は青いドレスを着ていて、別人の様に見えた。やはり思いちがいなのかな、と、思った時に、彼女はさりげなく言った。
「おはよう、フリセック。」
「おはよう。」
彼女は、すたすたと歩いて行ってしまった。
びっくりした。私は、彼女の普段の顔を少しも知らなかった。
祭壇の前で、一心に祈りを捧げる彼女の後姿は、私の知りうる限り誰にも似ていなかった。
優れた芸術家は、感情の高まりが最高潮に達したとき、神の存在を知るという。彼女もまた、芸術家だったのだ。
私は、楽譜集を持ちなおした。彼女とは少し離れた場所になるが、ここで一緒に祈る事にしよう。
コンサートが予定されてからすぐ、私は彼女にもチケットを渡した。特等席。つまりは、上の方の囲いがある席だった。
しかし、彼女はそこにはいなかった。
気が付いたのは、ピアノを弾き終わったときだった。もしかしたら、途中で帰ったのかも知れない。
花束が渡された。きれいな花だ。彼女は、どこだろう。
もう、家に帰ってしまったのだろうか。
私の予想は、外れた。
彼女は、市内の病院に入院しているという。
「…駄目ね、私は。」
バレエの本番も近づいていたというのに、不慮の事故で、彼女の足の骨は砕けてしまっていた。
「…ほんとに…。」
私は、ピアノ曲集の本を持ってきていた。さっきもらったばかりの花束を、窓辺に生けておいた。様々な光を映す彼女の横顔が、ふいに、立ち尽くしている私の方を向いた。
「破くの…?」
「……。」
私は、破かなかった。本を持ったまま、私はその病室から出ていった。
病室は、静かだった。窓辺から見える、茶色い煉瓦づくりの教会から、美しいメロディーが流れてきた。
“雨だれ前奏曲”。
私は、彼女を勇気づけたかった。ただその一心でピアノを弾いた。
足が折れようと、左手が折れようと、死んだ訳じゃない。あの映画の本当の意味を、君はまだ知らない。あの映画の主人公は、舞台に立つことを決して諦めなかったじゃないか。そうだ、君はまだ、死んだ訳じゃない!
演奏を終え、病室に戻ってきた私には、聞かなくてはならないことがあった。
「…聞こえた?」
そう言った途端。彼女は、泣きじゃくってしまった。
それからの私は、朝になると教会に通うようになった。弾くのは、彼女が一番好きな、ショパンの曲目だった。
「練習は、しなくてもいいの?」
「いいよ。」
「また、公演があるんでしょ?」
今度の公演は、ブラームスの“ピアノ協奏曲第三番”。ドイツから名指揮者がやってくることでも、大変な騒ぎだ。だが、私はその曲の練習をしていない。
「教会じゃ、余り激しい曲は無理だから。」
「オーケストラとの合同リハも無理よ。本当に、大丈夫なの?」
何度も何度も私に尋ねてきた。これ以上彼女に余計な心配をかけさせるのもどうかと思った私は、仕方なく練習に赴いた。
そこでの私は、ピアノの貴公子様だった。つまり、この上なく丁重な扱いを受けた。ドイツから来たマイストロは、十数人のオーケストラの指揮よりも、殆どピアノに合わせてくれた。
私は、力の限り演奏した。
すると、突然マイストロが指揮棒で譜面台をコンコンコンと叩く。
「この四小節は、ガラスに映った“炎”をイメージして。今まで以上に輝きを出し、それでもあくまで冷静に、あっさりと。」
つまりは、こう言うことだ。“クールビューティーに”。こっちの方が分かりやすい。
「あ、そうそう。」
指揮者が付け足した。
「ピアノは今のでよかった。」
これだ。おまけに、曲が終結すると、全員から拍手のプレゼントまでもらった。
結局、その日以来私はその曲を弾くことはなかった。
次の日、彼女の様態が悪化した。後でちゃんと検査するまでは分からなかったことだが、当時治療不可能だと言われていた病気にかかっていた。エイズだ。
「フリセック。」
また、新しい花束を飾った。今度は、ちゃんと自分で買ってきた。
「ありがとう…。」
私は、公演に赴かなくてはならなかったが、そのようなことはどうでも良かった。彼女の手を握ると、思っていたよりか弱かったことに驚いた。
彼女に、伝えなければならないことがあった。私は、なるべく暗に彼女にその旨を伝えた。
「…あのイギリス映画を、覚えている?」
「ええ…。」
「同じ事が、現実に起こりそうだ。」
彼女は、驚いた顔をした。私は彼女の冷たい手を逃さないように、両手でしっかりと握った。
「今、ブルックリンに左手を失ったピアニストがいるんだ。…僕はこれから彼の左腕になりにいこうと思う…。」
「……。」
「だから、帰ってくるまで待っていて欲しい。」
彼女は、目に涙を溜め、深く落ち込んだ顔をした。…HIVは血液感染する。多分、私にも感染している…。“映画と同じ事が起こる”、その隠された意味を、彼女はすぐに理解した。
枯れてゆく窓辺の風景に目をやった。木の葉が静かに散った。
「…ねえ。」
「…なんだい。」
「あの映画の最後に、主人公は何て言ったの?」
私は、 えっ と、彼女に目を向けた。
「…寝てて、聞いてなかったの。お願い…。」
私は、彼女のベッドに上った。彼女の隣に座り、主人公の言ったとおり、言葉を紡いでいった。
「……“やあ、元気かい。私はまた、ピアノが弾けなくなってしまったよ。
…でも、そんな事は大して問題じゃあない。
二人の影が、病室の白い壁に真っ直ぐ平行に伸びた。
「本当に残念なことは、今ここで君のために、ピアノを弾くことが出来ないという事だ。どうやら…”」
私に寄り添う彼女の体は、温かかった。長く下ろした黒髪は、かすかな甘い香りを帯びている。薄いラベンダーの香りだった。
「“どうやら、私はピアノよりも大事なものを失ってしまったらしい。”」
彼女は、ただじっと僕の話を聞いてくれていた。表情を見たかった。背中ごしに、見ることは出来なかったが、体を動かす事も出来なかった。
「“…今更、気付いて遅いのかも知れないが。君と出会えて、本当によかったと思う。”」
言い終わった。ふと、教会の壁を見ると、もうすぐ正午の鐘が鳴る頃だった。彼女は、眠ってしまったのか。それとも、もう起きることが出来ないのか。私に寄り添ったまま、すこしも動かなかった。
たとえどちらでも、私に出来ることは、彼女を抱きしめる他になかった。
「…いつ、楽譜を破くの?」
私は、苦笑した。教会の鐘が正午の並木道に静かに鳴り響いた。