| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 記憶 | 森田英一 | 6000 |
| 2 | Mr.Triangle | 西名玲 | 5902 |
| 3 | 昼下がりのペンギン | 森岡拓也 | 5990 |
| 4 | 『階段』 | 岡部健吉 | 6000 |
| 5 | 心の川 | 有馬次郎 | 6000 |
| 6 | replay(1989) | 谷本みゆき | 6000 |
| 7 | 最後の都市 | 芥川かげろう | 5988 |
| 8 | 家族の朝 | Lapis | 6000 |
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| 10 | 地底怪人の夜 | のぼりん | 5999 |
| 11 | ガギグゲゴ症候群 | 上條 裕 | 5996 |
| 12 | 雪姫 | 七草 姫蝶 | 5866 |
| 13 | 路地 | 林徳鎬 | 5963 |
| 14 | 幻想即興曲 | YOSHIMURA Keiji | 5997 |
| 15 | 雨模様 | Ruima | 6000 |
| 16 | ドーパー | 羽那沖権八 | 6000 |
| 17 | おちこぼれ魔道士の憂うつ | 黍盛 器 | 5965 |
| 18 | 作者要望により公開を終了しました。 | ||
| 19 | 女菩薩浄土 | やす泰 | 6000 |
| 20 | 影 | 摩宮 理久 | 5824 |
| 21 | Red-Bell | さとう啓介 | 6000 |
| 22 | butterfly sameplecase | 隠葉くぬぎ | 5811 |
| 23 | 黒白の刻 | 各務守一 | 6000 |
小さな女の子が泣いている。なぜだろう。女の子の向こうには何か黒い群衆が蠢いているような、そんな空気が漂っている。僕はその女の子に近づこうとするが、何か大きな幕が張られているようで押し返されてしまう。心配だ。どうしたんだろう。何か僕にできることはないのか。僕はもう一度、女の子に近づこうとした。でも、だめだ。どうしてだ。
「いや、理性ではそうすべきだと思っていても、本心は近寄りたくないと思っているからだ」
どこからかそんな声がする。そうなのかもしれない。いや、きっとそうだ。僕は本心でこの女の子を助けたいだなんて、少しも考えていないのだ。関わりたくないと思っているのだ。だから近寄れないんだ。僕はそんな人間なんだ。きっと僕はそんな人間なんだ…。
夢はいつだって現実だ。しかし目覚めて直ぐに、こんな現実的に目の前に現れる夢はない。いつだって夢は数時間経った後に、霧の中からぼんやりと現れてくるのが常なのだ。
「やけに生々しい夢だな」
女の子に近寄れない、あの押し戻される感覚やその泣き声が、今も肌や鼓膜に残っている。まるで今さっき体験したかのように…。
そろそろ梅雨が明ける。
水気のある空気を吸い込むと、僕は一年の中で一番好きな季節の到来に生唾を飲み込んだ。外は梅雨の終わりらしく、不思議な天気だ。太陽は照っているのに、細かい雨がまるで霧吹きのように地上に降りてくる。
田舎のあぜ道を歩いていると、どこからともなく蝉の声が聞こえてきた。一瞬、空耳かと疑った。いくらなんでも早すぎる。まだ僕には蝉の声を聞いて夏を意識する心構えができていないのだ。何かの間違いならすぐに消え去るものの、僕が靴の中に入った小石を取ろうと身をかがめても、蝉の声は耳の中で鳴り響いた。雨に湿った土の匂いを近くに感じたとき、地面が大きく傾いた感覚に襲われ、地上が天と入れ替わった。危ないと思って土を踏みしめ、何とか踏みとどまったがにわかにひどい頭痛がする。見上げると天上には目がくらむほどまぶしい光にあふれていた。
頭痛はなかなか治らなかった。それどころか、さっきよりも平衡感覚が失われてふらふらした感じが増した気がする。なぜかこげくさい匂いをかぎ、僕はそんな中でぼんやりと何かを想い出そうとしていた。
僕は小学生の高学年の頃だろうか、静岡県のどこか山の中の小学校に行ったことがある。それは「ふるさと交換児童」という企画で、その小学校の児童と僕の通っていた小学校の児童が入れ替わり、一ヶ月ほどを過ごすというものだった。僕はその交換児童に選ばれ、静岡の山の中の小学校に“短期転校”をしたのだった。
その小学校はひどく田舎で、生まれも育ちも都会で慣れ親しんだ僕には、何もかもが新鮮だった。向こうの学校の子たちと仲良くできるだろうか、家が恋しくならないだろうか、などといろいろ心配はしたけれど、いっしょに行ったのが仲の良い友だちだったことと、やはりこの環境の変化が楽しくてそんな心配事はどこかに吹き飛んでしまっていた。都会より明らかに濃いと感じる空気や澄んだ川の水、虫の声は、そのすべてが別世界だった。まだ来たばかりだというのにここに住めたら毎日どれだけ楽しいだろうか、と思ったほど気に入った。
僕を受け入れてくれた家は大きな農家で、かやぶき屋根を持っていた。今でははっきりと憶えていないが、田舎訛の言葉で歓迎してくれたことは印象に残っている。僕は着替えや筆記用具の入ったカバンを置くと、さっそく外に出た。
まるで研ぎたての包丁のように鋭く降り注ぐ太陽は、何か肌に刺さっているのではないか、と疑うくらい強烈な熱を持っていた。僕は何度も自分の腕を見ながら、時間が経つに連れて赤みを帯びていく様が変にうれしかった。聞いたことのない声で鳴く蝉は、どんなに目を凝らしても見つからないし、掌ほどある蝶があまりにも堂々と飛んでいる姿を見て、その美しさにしばらく動けなかったことも憶えている。家のまわりをサンダルで歩き回って、僕は何に魅力を感じるかなど考えもしないで、ただその目に映るすべてのものを吸収しようと一生懸命になっていた。なぜそんなに一生懸命だったのだろうか。今考えてみてもそんなことは分かるはずもなく、僕はさっきより痛みの増した頭を抱えて、追憶の世界から現実へ舞い戻った。
家に戻り縁側の窓を開けた。すだれから風鈴をチリリと鳴らしながら入ってきた風は、ただ空気を動かしている現象だ。しかし、ここで感じる風はあの頃、熱い陽射しに照らされた腕で感じたものとは天と地ぐらい違うものだった。僕は部屋の畳にごろんと寝転がると、90度回転した景色をみた。ちょうどすだれ越しから外の色あせた空が見える。この空はあのときの空とつながっているのだろうか。そう思った瞬間、僕はいじわるな睡魔に背中を押された。額から流れる汗が耳をくすぐった。
人は年を重ねるごとに退屈も重ねていく。退屈よりも飽きと言ったほうがいいのだろうか。そう考えると小学生の僕は飽きや疲れや失望感、あるいは遠い将来の不安感など持ち得るはずもなかった。ただ思慮のない動物と同じように生きることを生きていただけだった。
外から帰ると、家には夕食の準備が出来ていた。見たことのない大きな魚が茶色いテーブルの上に、大きな皿や小さな皿といっしょに乗っていた。僕はそれを見ると急に静かになってしまって、一緒に来た友達の横にしずしずと座った。友だちも肩をこわばらせ、黙っている。さっきまでは未知の空間に大きな好奇心を抱いて喜々としていた僕なのに、目の前の未知の巨大魚には好奇心が湧いてこなかった。「たくさん食べてね」と促され、おそるおそる箸を伸ばしてみた。それは魚だということは分かっているのだけれど、一般的な魚のイメージとは明らかにかけ離れていた。口に運んだ瞬間、果たしてそれは何か畑の土を口いっぱいほおばったような、そんな味がした。それがどんな名前の魚なのか、今ではもう忘れてしまったが、これからこんな夕食が毎日続くのかと思うと、腕の日焼けも少し色あせて見えた。
田舎の学校生活も二週間が過ぎた。慣れと飽きが交互にやってくる毎日は僕を退屈させた。しかし、その頃の僕はそれが退屈だという意識もなく、それが感じられるといつも外に出て何かを探そうとしていた。仲の良い友だちは「暇だ、ひまだ」としきりに嘆いていたように思う。僕が「外に行こう」と誘うと「暑いからやだ」と言うばかりだった。
僕は外に出た。ここ二週間、雨は一滴も降らないばかりが、曇りの日すらなかった。ただ毎日同じ晴天。たんぼの稲も体の水分をすべて奪い取られてしまったようだった。ときどき風が吹くと、かさかさとたてる音が物憂げなのだ。その音を聞いて僕は急にさみしくなった。
白く、照り返しのきつい道を歩いていると、道ばたの祠で、ひとりの女の子がしゃがんでいるのを見つけた。手にはスコップを持ち、何かを埋めているようだ。僕は立ち止まって遠巻きにその光景を見ていたが、その女の子が肩をふるわせて泣き出したのを見て、何をしているのかを直感した。そして立ち止まった僕は、その瞬間に後悔したのを憶えている。そこから立ち去ることもできず、声をかけることもできない自分に不甲斐なさを感じた。僕に背を向けてしゃがんでいる女の子までの距離が近くて遠く感じた。
そんな葛藤をしていると、女の子はすくっと立ち上がり、そしてすぐに振り向くと、きっと情けない顔をしているだろう僕の顔を見て、驚いた表情を見せた。と同時に涙で濡れた頬を手でゴシゴシとやった。悲しんでいる女の子を前に、何一つ言葉が出てこない僕。頭の中が真っ白になった僕は、初めて言いようのない男を実感した。そしてほぼ同時にそんなことを実感している自分が妙に滑稽だった。あるいはまた、喜劇役者の悲しみを知ったかのようだった。
「小鳥が死んじゃったの」
女の子は小さく言った。その幼くも憂いを持った声を聞いた瞬間、僕は時間の溝を感じた。同い年くらいの女の子が、急に大人びて見えたのだ。僕はそれを聞くとおもむろに歩き出し、その小鳥の墓の前にしゃがんで手を合わせた。そのときの僕はきっとそれが精いっぱいの、彼女への表現方法だったのだろう。何も言えなかった僕は、長い間じっと目を瞑って、じっと頭を垂れていた。
しばらくして振り返ると女の子は待ちかまえていたように僕に言った。
「夜、お祭りにいかない?」
さっきまでの泣き顔はどこへいったのだろう。女の子は出し抜けにそう投げかけた。僕はその顔を見て初めて女の子が同じクラスの羽田道子だったことに気が付いた。その事実とその誘いの言葉に僕は恥ずかしくなって俯いた。その恥ずかしさのなかには、さっきまで泣いていたのに、どうしてそんなあっけらかんと僕を誘えるのだろう? という戸惑いも含まれていたと思う。しかし、僕には断る理由もない。
「別に、いいよ」
と返事してみたものの、にこっと笑った羽田には見えない蜘蛛の糸が引っかかっているような、そんな居心地の悪い感じがした。
今夜の祭りはこの町で最後の夏祭りだった。山車が出るとか、打ち上げ花火が上がるとか、そんな派手なものはないけれど、テレビドラマで見た田舎の祭りそのものの雰囲気は僕を興奮させた。和太鼓の音、赤と白のちょうちん、金魚すくい、綿菓子、浴衣…。まさに日本の祭りそのものの光景は、できすぎていて、それこそ映画のセットのようだ。僕はあたりをきょろきょろしながら羽田の前を早足で歩いた。
「もっとゆっくり歩いてよ」
羽田はそう言って僕の前に来ると、顔をのぞき込むようにして口を尖らせた。学校でもほとんど話したことがないのに、羽田はずっと前から知っている友だちのように僕に喋りかける。浴衣の彼女はときどきつまづきながら、歩きにくそうだ。僕はなぜだかそれを知っていても、つい早足になってしまう。
そして僕は突然、羽田に言った。
「金魚すくいをやろう」
羽田は急に立ち止まって振り向いた僕に、
「う、うん」
と、少し驚いた顔で返事をした。
実は、金魚すくいなど、今まで一度もやったことがなかった。薄い半紙が張られた小さな団扇のようなもので金魚をすくうことはテレビで知っていたが、実際にやってみると難しいことが分かった。しかし、このゲームに夢中になった僕は屋台のおばさんに何度も銀貨を渡した。羽田はそんな様子を横でただじっと見ているだけだった。僕はますます金魚すくいにのめり込んだ。そして一番大きな黒い金魚に悪戦苦闘し、ついに水槽の縁まで追い込んだ。その暴れ回る黒い物体は、僕にとってもはや生き物ではなく、単なるゲームの対象だった。そして今にも茶碗のなかの獲物となる瞬間だった。
しかし、突然、羽田は僕の腕を強い力でつかむと、何も言わずにその場から引き離そうとするのだ。僕は不意を取られて腕が抜けそうになったが抵抗することもできず、彼女の動きになびいた。女に力ずくで引っ張られている状況をやっと第三者の目で見たときどのように映るのかを自覚した僕は、足を止め、無理矢理羽田の手から腕を振りほどいた。
「なんだよ。もう少しで捕れるとこだったのに」
僕は声を荒げた。しかし、その僕の言葉以上に彼女は最強の武器を持って待ちかまえていた。
彼女は泣いていた。僕は高温に熱せられた鉄の塊が、一気に水の中へ沈められたように冷たくなった。そしてまたあの時と同じように戸惑いながら、しかし、今度はまるで理解できない彼女の行動に疑念すら感じていた。
「なんでだよ」
戸惑いと疑念が再爆発を繰り返し、僕は叫んだ。しかし、彼女は僕の怒りの言葉を聞くと、ますます大きく嗚咽し、その行動がさらに僕の怒りを高揚させた。だが、僕は次に用意した言葉を飲み込んだ。夏の終わりを告げるかのような、涼風が首筋をふっとなでたのだ。すると遠くから祭りの雑踏が、まるで糸電話のコップから聞こえてくる音のように、大きく、小さく僕の耳に届いた。タイミングを逸した僕は何も言えなくなり、それから長い沈黙が続いた。遠くから風に乗ってガラスの風鈴の音が軽く乾いた音を運んできた。
僕はゆっくりと目を開けた。90度回転した風景は依然そのままで、空気の匂いだけが少し変わっただけだった。僕は今見た過去の夢に驚くこともなく、いや、むしろ自然なこととして受け止めていた。夢は断片的でありながら、その空白の部分を埋める部分は記憶が付け足した。僕はそのままの姿勢で、そのまま夢の続きを思い出そうとしていた。
沈黙を破ったのは羽田のほうだった。
「ごめん、ごめんなさい。なんか、急に悲しくなって…。金魚がかわいそうで」
彼女は喉の奥を詰まらせながら、たどたどしい口調で言った。金魚すくいは金魚を捕まえる遊びだ。それをかわいそうだなんて。僕は彼女の言葉を聞いても、なぜなのか納得できなかった。
「どうして悲しいの。どうしてかわいそうなの」
僕はゆっくりとやさしくそう尋ねた。鉄の塊は夏の終わりを告げる夜風ですっかりと冷めていた。しかし、彼女はわからない、と首を振るだけだった。
ゆっくりと体を起こした僕は縁側に出て、すだれを上げた。昼間の太陽は力を使い果たし、西の山並みに寄り掛かっていた。そして夢のなかとは違う生ぬるい風が風鈴を数回チリリンと鳴らした。地面には走り回る蟻の群が、ひからびてしまった蚯蚓を一生懸命巣まで運ぼうとしていた。
彼女はあのとき、どんな衝動を受けたのだろう。暴れ回る金魚が、まるでその後訪れるであろう死を想像させたのだろうか。彼女の飼っていた小鳥の死と瞬間的に重なって見えたのだろうか。しかし、理由が何であろうと、そのとき僕が何も感じなかったのに対して、彼女は何かしらの揺さぶりを受けていたことは確かだ。
僕は縁側に座った。僕は無関心なのだろうか。関心があるように装っているだけなのだろうか。彼女は小鳥の死も金魚の死の予感も同等に扱った。僕は人の不幸に順位をつけるようなことを、知らない間にしているのだろうか。もしくは人の幸福に順番をつけていることはないだろうか。いや、もしそうだとしても、それに善悪の判断はつけることができないはずだ。一瞬、開き直ってみたが、あのころ僕より先に死の匂いを嗅いだ彼女には太刀打ちできない気がした。そして今朝の夢と今日のできごとが今の僕に何かを訴えかけてきているように思えて仕方がなかった。僕らは空気がなくては生きていけないこと、いろいろなものを犠牲にしなければ生きていけないこと。そして何よりも生きることを実感しなくても生きていける人間の怠慢さを、どこかで痛感させられたほうがいいのかもしれない。地面を見ると蚯蚓を運ぶ蟻の群は、ようやく人間の一歩分を進んだところだった。
「ほぅ……でっかい屋敷だな」
それが、その屋敷についての真幌馬の感想だった。
土地の広さだけでもニルル・コルル家の財力は疑いのないものである。ここで開かれるパーティなのだから、相当な人が集まるだろう。真幌馬は、ほくそえんだ。
今、巷を騒がせている大怪盗、Mr.トライアングルが次の獲物に選んだのは、この屋敷の主、大富豪ニルル・コルル氏が所蔵している幻の名画『愛の証』なのである。最も、そのことは真幌馬しか知らない。
「さて、パーティは三日間行われる。その中で、最も多くの人が集まるのは…」
真幌馬は、紅茶とクッキーの匂いのあふれるガーデンパーティに乗り込んだ。
「政治家に大手企業重役、今が旬の俳優…か。さすが、豪華だな」
パーティの面々を順に追っていく。皆、それぞれの話題に夢中である。
ドレスや宝石で着飾った婦人たちの中を通っていくと、パーティの主催者であるニルル・コルル氏と娘のパティア嬢、それに有名建築デザイナーのアスティチーノ・スコラが、リダ国の大統領夫妻と話をしているのを見つけた。真幌馬は、側で聞き耳をたてる。
「それじゃ、お嬢さんもついに、ご結婚なさるのね」
「ええ。スコラ君とはこの屋敷を建てるときに知り合ったんですが、なかなかの好青年でしてね。公に発表するのは、三日目の夜、ダンスパーティのときに、と思っているんですよ」
「こんないいお話をいただけるなんて、僕もはじめは驚いたんですが…」
と、スコラは頭に手をやって、照れている。パティア嬢はふい、とそっぽを向き、
「今日は日差しが強くて…。少し、向こうで休んでますわ」
ふらっとその場から離れた。
「…どうしました?」
真幌馬は、思わず声をかけた。と言うのも、一人になったパティア嬢が、そのまま、その場に座り込んでしまったからだ。
「! あなたは・・・!?」
突然声をかけられて、パティア嬢はびっくりして顔をあげる。その目には、涙が浮かんでいた。真幌馬はドキッとした。もともと、女の子には弱い方である。
そっと、パティア嬢に近づく。
「…声を出さないで」
右手を差し出し、パティア嬢の頬に触れる。耳元で、パチンと指を鳴らした。
「──まぁ…!」
真紅のバラが一輪、真幌馬の手のひらの中からあらわれる。真幌馬はそれを、パティア嬢に渡した。
「Mr.トライアングル──通りすがりの怪盗です」
に、と笑って、真幌馬は言った。
「怪盗…さん?」
「はい。…何かお悩みでしたら、ご相談にも乗りますよ」
「あの…!」
パティア嬢は、焦点の合わない目で遠くを見つめながら、とんでもないことを言った。
「私も、さらってください」
「で、どうなったんだよ! 何て返事したんだ!?」
St.フィリアは、意気込んで尋ねた。真幌馬は、蹄をテーブルにのせるな、と軽くたしなめた。
「どうったっておまえ、この花持って帰ってくださいってのとは訳が違うんだぞ? さらってくださいなんて言われて、はいそれじゃって連れて来れねーだろ。それじゃ誘拐だ」
ニルル・コルル家のガーデンパーティ翌日である。港の古い倉庫で、愛馬St.フィリアと一緒に、遅めの朝食を摂っているところだった。
「でも…」
真幌馬はコーヒーを一口飲んで、言った。
「お嬢さん、切なそうな顔をしてた。ありゃマジだ。笑って、冗談です、あなたもでしょ? なんて言ってたが、本当は何か困ってるんだ。それを一人で抱えてる、そんな顔だった」
「会ったばっかでそんなこと分かるモンかね。ま、さすがは天下のMr.トライアングルさまってとこか?」
St.フィリアはからかったが、真幌馬は、何やら真剣に考え込んでいる。
「ニルル・コルル家のパーティ、二日目…今日はたしか、仮装ティーパーティだったはずだ」
真幌馬は急に、すっと立ち上がる。
「もう一回、あの屋敷へ行ってくる。調べたいことができた」
それだけ言うと、真幌馬は倉庫を飛び出した。
「ったく、すぐ熱くなるんだから。今日は予告状を届けなきゃならんってのに…」
St.フィリアは溜め息をつく。が、口元はゆるんでいた。
「女となるとこれだ。さすがは天下のMr.トライアングル! …ま、予告状書きかえに戻ってくるまで、寝て待つとするか」
パーティ会場は、中世の騎士から魔女から、それはもういろいろな格好の人たちでごったがえしていた。
真幌馬ももちろん、仮装をして来ている。と言っても、ほとんど日常的に着ている衣装なのだが。
「まぁ、あなたは、昨日の…」
パティア嬢が気付いて、やってくる。昨日とは違って、明るく笑っている。
「…私の顔に、何かついていますか?」
パティア嬢はくすくす笑っている。
「ごめんなさい、だって…昨日もおっしゃってましたけど、よっぽどお好きなんですね、Mr.トライアングル。仮装までしてくるなんて!」
「いや、ははは…でも、軽蔑とかしないんですか? 怪盗が好きだとか言ってるヤツなんか」
「あら、私も嫌いじゃないんですよ、あの怪盗さん。悪い人から盗んで、本当の持ち主に返してあげたり、そういう怪盗さんなんでしょう? 素敵だわ、そういうのって」
「はは、そうですね…」
真幌馬は、本気で照れている。
ふっ、と、パティア嬢の笑顔に影が差す。アスティチーノ・スコラがやってきた。
「探しましたよ、お嬢さん! …この方は?」
「私のお知り合いの方です。私がお招きしたんです」
「ほぅ…」
スコラの真幌馬を見る目は、嫉妬に満ちていた。
「それじゃ、失礼しますね」
パティア嬢はスコラの背中を押すようにして、その場から離れた。二人が人込みの中に消えると真幌馬は、なるほど、とつぶやいた。人の間を縫って、ベランダへ出る。
「あまり素性の知れない男と、二人きりでは会わないで頂きたい。…何をおっしゃいます、お嬢さん。私はただ、あなたが心配なだけです!」
下のテラスでは、スコラがパティア嬢と話をしている。それを、陰からそっと見つめる視線があった。
パティア嬢の母親、ニルル・コルル婦人であった。
真幌馬は、ニルル・コルル婦人の表情が、心なしか暗いことに気付いた。この家の女たちは、みんな何か隠して、一人で背負おうとするんだな…。真幌馬はしばらく考え込んで、それから、行動を起こした。
「あぁ、ニック…!」
自室に戻ると、ニルル・コルル婦人は泣き崩れた。
一人でいると、どうしても考えてしまう…! そっくりなあの人を見ていることは、私にはできない。
涙の浮かんだ目は、しばらく虚空をさまよったあと、写真立てに止まった。
幼い頃のニルル・コルル婦人が、人形と一緒に写っている。彼女は、写真の中の彼女が抱えている人形をそっと撫でた。
「本当にごめんなさい、ニック…」
「…お、やっとお帰りか」
日が沈む頃帰ってきた真幌馬を見つけて、St.フィリアは、鼻をブルンと震わせた。
「おもしろいこと、というか、物凄いことがわかっちまった…!」
真幌馬の目は、倉庫の中を映してはいないようだった。相当ショックなことがわかっちまったみたいだな、とSt.フィリアは思った。だから、それ以上は聞かなかった。
「予告状は書きかえて届けてきた。決行は明日の夜…準備しとけ」
「あ、ああ…」
真幌馬は、そのまま寝てしまった。
いったい、屋敷で何があったんだ?
真幌馬の単独行動についての詮索は無駄なことだとわかっていた。が、それは同時に、St.フィリアの最大の暇つぶしでもあった。
今夜は、真幌馬が惚れちまったお嬢さんの顔でも想像して、朝を待つとするかな。
「そろそろ、来そうな気がするな」
と、吾妻は言った。夜の街を、車のライトが通り過ぎていく。
「何がっすか?」
ラーメンのつゆを飲み干すと、部下は聞いた。
「何がっておまえ…Mr.トライアングルの予告状に決まってるだろうが!!」
ペシッと部下の頭を叩いて、吾妻はまた、考え込む。
あの忌々しい怪盗を追いはじめてから、一年が過ぎた。
「でもよかったじゃないですか。予告状を予告できるようになって」
「そんなのうれしいわけないだろう!」
部下の刑事は、また頭を叩かれるハメになった。
「でもあれですね。ヤツが狙うのってどれもこれも、盗まれた側が、実は人から盗んできていたとかばっかでしたね」
「おまえ、あの怪盗が本当はイイ奴だ、とか言いたいのか?」
「あ、いや…」
部下の刑事は慌てて口をおさえたが、遅かった。
「あのぉ…」
食堂の店員が、電話の子機を片手にやってきた。
「お客様の中に、吾妻様はいらっしゃいますか?」
「あ、私です。──何、ニルル・コルル氏から? 誰ですか、そりゃ?」
「世界有数の大富豪の一人ですよ。吾妻さんに直接ってことは、Mr.トライアングルじゃないですか?」
「…もしもし、」
緊張した面持ちで、吾妻は電話に出た。
「ええ、はい。…! ほ、本当ですか!」
─明日の夜、ニルル・コルル・パティア嬢を頂きに参上する。 Mr.トライアングル─
「こんなに刑事がいたら、ヤツも怖じ気づいて帰ってしまうでしょうな」
豪快な笑い声と共に現れたのは、ニルル・コルル氏だった。吾妻は、苦い顔で振り向いた。
「ところで、」
吾妻はあたりを見回して、彼に聞いた。
「やけに人が多いですが…」
「ああ、今日はパーティの三日目なのでね。今夜、娘の婚約を発表するんですよ」
「パーティ!? 駄目です、それが今日を選んだ要因だ! すぐに中止してください!」
「なァにを言ってるんです。こんなに刑事がいるんだ、たとえ捕まらなくても、娘がさらわれるなんてまずありませんよ。それとも、なんですか? パーティを行なったくらいで、あんたらは娘を守れないとでも?」
吾妻は、ぐっと言葉に詰まった。そんなに言われて、中止しろとは言えない。吾妻は渋い顔でうなずいた。
「わかりました。しかし、充分注意してください」
「わかってます。ははっ!」
その間にも人は集まり、広間の時計は、パーティが始まる午後六時を告げた。
紳士たちは、婦人の手をとって、踊りはじめた。ニルル・コルル夫妻も、アスティチーノ・スコラとパティア嬢も踊っている。刑事たちは、念入りに客の行動をチェックしている。
突然、照明が消えた。会場が騒然となる。
「くそっ! Mr.トライアングルが現れるぞ、全員配置につけ!」
吾妻は、会場内の刑事たちに大声で命令した。
「Mr.トライアングル!? 怪盗じゃないか!」
「ここへ来るって言うの!? 冗談じゃないわ、私は帰るわよ!」
客たちは、一斉に出口を目指す。真っ暗闇の中で、パーティ会場は大混乱に陥ってしまった。
「大丈夫、ここなら安全ですよ」
と、アスティチーノ・スコラは言った。
小さな部屋だった。スコラは蝋燭を取り出し、火を点ける。不安そうなパティア嬢の顔が、闇の中に浮かびあがった。
「ここが安心だって? それは違うね」
突然、部屋の窓が開く。Mr.トライアングルだった。
「──怪盗さん…!」
「馬鹿な!? ここは二階だぞ!」
Mr.トライアングルの口元に、笑みが浮かぶ。愛馬St.フィリアが嘶き、はばたいて窓の外を旋回した。
「おい、あれは…!」
「まさか!」
客たちが空を見上げ、驚いている。
「天馬だ!」
Mr.トライアングルは、客たちの声に振り返る。
「どうやら、私の愛馬が見つかってしまったようだ。というわけで、私は仕事を急がねばならない。さぁ、パティア嬢を渡してもらおうか、スコラ!」
パティア嬢をうしろへ隠したスコラは、Mr.トライアングルを睨んだ。
「おまえなんぞに渡すわけがないだろう! 彼女は私の婚約者なんだぞ!」
「いいかげんにするんだ、スコラ。…もうわかってるんだよ、おまえは…」
Mr.トライアングルは、真紅のバラを一輪、投げつけた。トスッと音がして、その花がスコラの肩に刺さる。血は、流れなかった。
「おまえは、人形だ」
スコラはバラの花を肩から抜くと、パサッと床に投げ捨てた。
「おもしろい冗談だな」
「冗談なんかじゃない! もう全部わかってるんだ、おまえがこの屋敷に来た理由も…」
ガシャン、と音がして、スコラの持っていた蝋燭立てが床に落ちた。炎が、みるみるうちに広がっていく。
「もともとこうするつもりだったんだ。おまえが邪魔さえしなければ…!」
スコラは、Mr.トライアングルを睨んだ。
「そうだな、おまえの言うとおりだよ」
くっく、と不敵に笑って、スコラはぐいっとパティア嬢の腕をつかんだ。
「これは復讐なんだよ。この女の母親、エミリへのな! …自分のせいで娘が焼け死んだと聞いて、あの女がどんな顔をするか、楽しみだな!」
「やめて!」
炎の中へ飛び込んできたのは、ニルル・コルル婦人だった。
「…やっぱり、ニックだったのね」
「エミリ…」
二人は、炎の中で見つめあった。
「“ニック”は、あなたが小さい頃からずっと一緒だった、人形の名前ですね」
「ええ、そうです。この家に嫁いでくるときに、実家に置いてきたのですが…」
「そのご実家で火事が起きた際に、焼けてしまった、と」
ニルル・コルル婦人は、ゆっくりと、スコラ──ニックに近づいた。
「あなたをはじめて見たときから、あまりに似すぎていて、一緒にいると辛かった…! 守ってあげられなくて、本当にごめんなさい…!」
「そんな、私は…エミリがもう、昔を全て忘れてしまったんだとばかり、それが…そんなに、思っていてくれたなんて…! なんて…なんて私は、馬鹿なことを…!」
「今からでもまだ、遅くない! さぁ、ニルル・コルル婦人とパティア嬢を連れて、ここから逃げるんだ!」
「俺の背中に乗れ!」
St.フィリアが、窓に近づいた。
「さあ、はやく……おい、はやくしろ!」
「私は、行けない。ここに残るよ」
「駄目よ、ニック! さあ、はやく!」
「いいんだ。…さあ、行って!」
St.フィリアは、窓を離れた。音をたてて、屋敷が崩れる。炎が、全てを呑み込んでいった…。
「へぇ! ニルル・コルルのおっさんが買わされた『愛の証』は、贋作だったのか!」
ラジオでは、昨日の晩の大火事の報道をやっている。
「ああ。それを盗んで、あとであの吾妻刑事んとこに本物を置いてくるつもりだったんだ。けど、燃えちまったからな、全部」
「…アイツと一緒に、な」
一晩中燃えつづけたニルル・コルル邸は、日の出とともに、燃え尽きた。幸い死傷者は出なかったが、焼け跡から、一体の人形が見付かったという。その人形は、涙を流していたという話だ。
「でも、なぁ、真幌馬…」
「んん?」
「あのとき…アイツが行けって言ったときに、俺の腹を蹴っただろ。あれは、なんでだ?」
「…あのまま生きてても、アイツは人間じゃないんだ。普通に暮らすなんて、できないんだよ」
「つまり、思いやりってやつか?」
「ま、そんなもんだな」
真幌馬は一つ、大きなあくびをした。
「さて! 次の獲物、捜しに行くぞ」
ニュースが終わり、ラジオからは軽快な音楽が流れてきた。
ペンギンは正午にやってきた。
NHKの時報が鳴ったと同時にインターホンが鳴ったから、本当に、奇妙なぐらいぴったりに「正午」にやってきたのだ。僕はその時、昼食に食べようと思っていたカップラーメンに熱湯を入れ、蓋をしたところだった。
僕がドアを開けると、ペンギンは「ちょっとお時間よろしいですか?」と言いながら、あの独特の歩き方で部屋に入ってきた。僕が彼の質問に答える前に。
「あの、失礼ですけど、来るところを間違ったんじゃないですか?」と僕は言った。僕にはペンギンを飼っている知り合いなんていないし、ペンギンの知り合いなんてもちろんいなかった。
「あなたは、スズキトオルさんでしょ?」とペンギンは言った。
「そうです」
「じゃあ、間違いない。私はここに派遣されてきたんです」
ペンギンはそう言って、ソファーの横に持っていた鞄を置いて、「どっこいしょ」とソファーに座った。
「派遣?誰から?」
ペンギンはネクタイをちょっと緩めた。そして「申し訳ありませんが、質問の前に、氷水を一杯もらえますか。どうにも、のどが渇いてしまって・・・」と言った。
僕は台所に言って、ビールジョッキにいっぱいの氷水を入れた。ペンギンの身体の大きさからして、普通のコップで足りるとは思えなかったからだ。ついでに食塩も一緒にペンギンの前に出してやった。
「これはありがたい。塩を付けていただけるとは。ペンギンの客は私が初めてじゃないんですか?」ペンギンはくちばしを大きく開けて喜んだ。
「とんでもない。あなたが初めてですよ」と僕は言った。ペンギンの来客なんて滅多にない。
ペンギンは食塩をほんの少しだけ氷水に入れた。そして、それをうまそうに一気に飲み干した。
「おかわりいかがですか?」
あまりにもそののみっぷりが見事なので、僕は思わずそう言った。ペンギンは少し迷ってから、「お願いできますか」と言った。それで僕は台所へ行って、氷水を作った。
「日本の夏は暑いでしょう?」と僕は言った。
「ええ、本当に。ペンギンには堪えますねえ」とペンギンは言った。「私の住んでるところは零下何度の世界ですから」
「今日は天気予報で最高気温が35度だって言ってましたからね。少なくとも40度以上の温度差があるでしょうね」
ペンギンは氷水に食塩を入れた。
「やれやれですね。あなたたちは、どうしてこんな暑いところに住むんです?もっと他にもあるでしょうに」とペンギンは言った。
「それはあなただって同じでしょう?どうしてあんなに寒いところに住むんです?」と僕が言うと、ペンギンは目を丸くして「寒い?」と言った。
「私たちはあそこが寒いなんて思った事は一度もないですよ。住みやすいからあそこに住んでいるんです」
「住みやすいんですか?」
「ええ、私たちにとってはね。どんな生き物でもそうです。自分たちが暮らしやすいところで生きていく。自然の摂理です。これに逆らっているのは人間だけです」
ペンギンは氷水を一口飲んだ。そして得意げに胸を大きく膨らませた。
「話を変えてしまって申し訳ないんだけど、あなたは私に何の用があるんですか?」と僕は言った。
「ああ、そうでした。暑さで忘れてしまうところでしたよ」とペンギンは言って、両羽で器用に持っていたビールジョッキを机に置いた。
「私がここに来たのは、あなたに私の話を聞いていただきたいからです」
「話、ですか」
「ええ、あなたはそこに座って耳を傾けてくださればそれで結構ですから」
ペンギンは羽をパタパタと動かした。
「あなたは私たちが鳥類である事をご存知ですか?」とペンギンは言った。
「ええ、もちろん」と僕は言った。
「そうですか、それは良かった。最近、人間の中には私たちのことを、哺乳類と思っている方が多いんです。ひどい時は爬虫類だと思っている方もいらっしゃるようです。なぜだかお分かりですか?」
「さあ。そんな事を考えた事もないですね」
僕がそう言うと、ペンギンはくちばしをカタカタと鳴らし、身体の割に小さい羽をパタパタさせた。どうやら笑っているようだ。
「これは失礼。当然です。そんな事を考える人間なんていないですよね。しかし、これは私たちにとっては重要な事なんです。なぜ私たちは鳥類に見えないか?答えは簡単です。私たちは空を飛ばないからです」
「ああ、そうですね。確かにそれはあるでしょうね。そう言えばダチョウもあまり鳥類という感じはしませんね」
「そうでしょう。鳥と言えば大空を優雅に飛び回る。そういうイメージが強いですからね。しかし、この事は大きなアンチテーゼを含んでいます」
「アンチテーゼ?」
「そうです。アンチテーゼです。『鳥はなぜ空を飛ぶのか?なぜ飛ばなくてはいけないのか?』ということです。あなたはどうお考えですか?」
僕は少し考えて、「天敵がいないからじゃないですか?」と適当な事を言った。
「ほう。天敵ですか」
「ええ、僕が見たところ、鳥以外に空を飛ぶ生き物は昆虫ぐらいのものじゃないですか。まあ、人間は除きましたけどね。そうなると捕食される事はあまりないですよね、捕食する事はあっても」
ペンギンはまたくちばしをカタカタと鳴らした。そして両方の羽でつかんでいたビールジョッキを机に置いた。その拍子に少し氷水がこぼれたが、ペンギンはそれに気づいていないようだった。
「あなたのおっしゃるとおりです」とペンギンは言った。「確かに、太古の昔。私たちの先祖である、始祖鳥の時代はそうだったかもしれません。しかし、すべての生き物がそうであるように遺伝子の悪戯で進化が起こります。そして進化は鳥類は一種類だけでなくしてしまった。始祖鳥は滅び、スズメ、ツバメ、カラス、ワシ、アホウドリ、さまざまな種類が出てきました」
「スズメはカラスよりも弱いし、カラスはワシよりは弱い」
「そういうことですね。なんのことはない。天敵が誕生してしまったではないですか」
ペンギンはそこで羽を叩いた。ちょうど人間が手を叩いた時のようなパチンという乾いた音がした。
「そこでです。鳥類の一部はこの事に気づいたんですね。空を飛ぶ事の大きなメリットが1つなくなった事に。そしてこう考えたんです。『じゃあ、空を飛ぶ必要はないんじゃないだろうか?地上には敵がいるだろう。しかし空でも敵はいる。だったらどうしてつらい思いをして、重力に逆らって空を飛ぶ必要があるんだ?』。まあ、この事に気づいたのは、鳥類の中で力はないが頭がある種類でしたけどね。力に自信がある奴はそんな事、考えもしなかったでしょうね」
そこでペンギンは少し間を置いた。そしてテレビに目をやった。テレビはNHKを映し出していた。
「お時間、大丈夫ですか?」とペンギンは今ごろになって言った。
僕は後ろを振り返ってテレビの左上隅に映し出されている時刻を見た。『12:34』と表示されていた。
「2時に人がくる事になっているんですが、まだ大丈夫ですね。話を続けてください」
そう言ったが、聞いていてあまり楽しい話ではなかった。でも2時まで僕には別に用はなかったし、「もうやめてくれ」と言うのもペンギンになんだか悪い気がした。
「よろしいんですか?」そう言いながらペンギンは羽をパタパタと動かした。喜んでいるのか、ちょっとした体操なのかはよく分からなかった。
「それでは続けさせてもらいましょう。どこまで話しましたっけ?」
「空を飛ぶ必要性のない事に気が付いたところです」
「ああ、そうそう。失礼。そうです、気が付いたんですね。ここで私たちには2つの選択肢がありました。大地に降り立つか、私たちのように海に行くかです。そしてダチョウに代表される大地に降り立った種、私たちに代表される海に入った種。鳥類から見れば異種となる者たちが現れたわけです。とりわけ私たちペンギンは異端者として見られました。空を飛ぶ鳥でも、たまに地上を歩く事はあります。しかし、海を泳ぐ鳥などはそれまでいなかったんです」
「どうして海に入ろうと思ったんですか?」
「私たちの先祖は、魚を食べる種類だったんですよ。空から直滑降して海に飛び込み、魚を捕らえる。こういう種だったんですね。ですから海に入ろうと思ったんです。そして私たちの身体はだんだんと泳ぎに適した身体になっていったんです。肺活量が上がり、羽はこのように泳ぎに適した、ひれになっていった」
そう言ってペンギンはひれになった羽をひらひらと動かした。
「地上に降りた種も最初は苦労したようです。やっぱり最初は走るのもそんなに速くないですしね。いくつかの種が滅びました。ですが反対に、いくつかの種は残りました。そして私たち鳥類はそれぞれの種が思い思いのところで生活していくようになりました」
ペンギンは氷水を飲んだ。今度は一気に残っていた氷水を飲み干した。
「今回の私たちの進化は今までの進化とはまったく違っていました。それは私たちは海に帰ったということです。私たちは海から陸へ、陸から空へ、というプロセスをたどって進化してきました。しかし、今回は逆なのです。それも一足飛びに海に帰ったのです。これはある意味では退化だと言えます」
ペンギンはふうっとため息をついた。そして座っていたソファーにより深く身体を沈めた。
「これで私の話は終わりです。何かご質問は?」とペンギンは言った。
「では、1つだけ」
「どうぞ」
「空に未練はありませんでしたか?一度苦労して手に入れたものを手放すのに、未練はなかったのですか?」
「いい質問ですね。私たちの先祖にあたる種は今でも空を飛んでいます。つまり、彼らには二つの派閥があったんですね。だから、海に入りたいと本当に思っていた連中が私たちペンギンの第一波だと言う事です。その第一波には未練はなかったでしょうね。未練があるなら、空に残れば良いですから」
「なるほど。よく分かりました。それにしても、あなたは説明が非常にお上手だ。ご職業は?」
ペンギンはくちばしをカタカタと鳴らした。
「普段は普通のペンギンをやっていますよ。しかし、一年に一回だけ、こういう事をやっているんです」
「そういえば、あなたは派遣されてきたと言っていましたね」
「そうです。マンボウから依頼を受けて、一年に一回。どこかの国の人間に私たちの進化について説明しに行くんです」
「マンボウはどうしてそんな事をさせるんですか?」
「さあ、マンボウたちは教えてくれないんですよ。ひょっとしたら理由なんかないのかもしれません。ただ、やらなきゃいけないからやる。それだけの事なのかもしれませんね」
僕はふんふんと頷いた。
「ちなみに、どの人間にするかを決めるのもマンボウです。世界で一年に一人だけ選ばれるんです」
「世界で一人!」
「あなたはかなり運がよろしいんですよ」
ペンギンはそう言って、またくちばしをカタカタ鳴らした。そしておもむろに立ち上がって、「おや。もうこんな時間ですね。失礼失礼。本当に長い時間を取らせてしまいました」と言った。
「2時にお客さんがいらっしゃるんでしたね。それでは私はこれで退散いたします」
ペンギンはそう言って、ソファーの横においた鞄を持ち、玄関のほうによたよたと歩いていった。僕はペンギンを玄関まで見送るために、後についていった。
ペンギンは一段高くなった玄関の前で、小刻みに足踏みをし、タイミングを計ってからよいしょと飛び降りた。
「ああ、そうそう。これをお渡しするのを忘れていました」とペンギンは鞄の中から本を取り出した。
「これをさしあげます」
そう言って僕に差し出されたその本の表紙には、「PENGUIN STORY」と書いてあり、ペンギンの絵が描かれていた。
「今お話した事をもっと詳しく述べた本です」
僕は本をパラパラとめくってみた。どのページもアルファベットが並んでいた。
「失礼ですけど、英語のほうは・・・」とペンギンは言った。
「知り合いに英語の翻訳をしている人がいますから。その人に頼んで訳してもらいますよ。あなたは英語ができるんですか?」
「もちろんです」とペンギンは胸を膨らまして言った。「私は世界を回らなきゃいけないんですから」
「ああ、そうですね。当然だ」
「それではこれで失礼します。氷水ありがとうございました」
そう言ってペンギンは出て行った。
僕は部屋に戻り、ペンギンの使ったビールジョッキと食塩を片付けた。台所で僕はカップラーメンを食べようとしていた事に気づいた。蓋を開けてみたが、当然ながら麺はのびきっていた。一口すすってみたが、冷めていておいしくなかった。それに食欲もなんだかなくなってしまっていたので、中身を小さなビニール袋に入れ、生ごみのごみ箱に、カップは紙でできていたので、燃えるごみに捨てた。ごみの分別は条令で決まっていたし、何よりもさっきまでペンギンと話をしていたのだ。水を汚すのは申し訳ない。
やれやれ、と僕は思った。世界でたった一人に選ばれるという大きな運をどうでもいい局面で使ってしまった。ペンギンはこれから僕にどうしろと言うんだろうか。
2時を少し過ぎたころに、彼女がやってきた。
「暑いわね、今日も」と彼女はペンギンと同じような事を言った。そして、さっきまでペンギンの座っていたソファーに座った。
「今日の最高気温は35度らしいから」と僕もさっきと同じような事を言った。「アイスコーヒー作ろうか?」
「うん。お願い」
僕は台所に行き、今度は普通のガラスコップにアイスコーヒーを入れた。
「ねえ、あなた、動物、飼ってる?」
僕がアイスコーヒーの入ったコップを二つ持って部屋に戻ると、彼女はそう言った。
「いや、飼ってないよ。どうして?」
「細かい毛がいっぱい付いてるのよ、このソファー」
「毛?」
彼女は自分の服についたものをつまみとり、僕に見せた。それは毛ではなく細かい羽毛だった。
「これはペンギンの羽だね」と僕は言った。
「ぺんぎん?」
「さっきまでペンギンがそこに座ってたんだよ」
「ふうん」
彼女は大して驚いていないようだ。彼女は感情の起伏があまりないのだ。
「ああそうだ。この本を訳してくれないかな?」
僕はペンギンが置いていった本を彼女に渡した。
「ペンギンが置いていった本だよ。僕が聞いた話をもっと詳しく解説してあるらしい」
彼女はその本をパラパラとめくった。
「時間があったら訳しておくわ」彼女は本から目を上げずに言った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「お礼に、ペンギンのもてなし方を教えてあげるよ。ペンギンに氷水を出す時は一緒に食塩を出すんだ。そうするとすごく喜ぶ」
「ありがとう。ペンギンが訪ねて来る事があったらそうするわ」
彼女はそう言って、アイスコーヒーを飲んだ。
窓から見える電線の上に、スズメが一羽止まっていた。ペンギンに氷入りのビニール袋を持たせてやればよかったなとふと思った。
今朝は、歯が疼くのであまり天気はよくないようだ。身体も重いし仕事に行きたい気分じゃない。もし仮に普段と同じように満員の通勤電車にゆられて職場に出向いたところで誰も褒めてくれるわけではない。今年何とか課長に昇進したものの、同期からは大きく遅れて、出世した気分でもない。私が仕事を休んでもこの行き逢う人たちは誰も叱りはしないだろうし、声もかけてこないだろう。
『今年は俺も厄年か……。去年遅ればせながら結婚し、待望の子供ももうすぐ生まれるというのに……』
『なんか……むなしい……』
ぼーっとしながら、私は駅へと続く階段を途中で引き返し、脇の路地へふらふらと何かにひかれる様に歩いて行った。しばらく行くと、小さなビルの入り口の看板が目に飛び込んできた。『こちらから→』それは、ベニヤ板を白く塗ったものに赤いペンキで書いてあるだけのみすぼらしいものだった。一度は通り過ぎようかとも思ったのだが、何となく気になったので少し覗いてみることにした。中は薄暗くシーンと静まりかえっている。階上への入り口は『立ち入り禁止』の立て札があり電灯もついていない。看板は地下へと続いていた。『こちらへ↓』一体何のことなのかさっぱりわからないままゆっくり階段を降りていくと、奥の方から少し人のざわめく声が聞こえてくる。
だんだん灯りも見えてくるようになり、突然私は宴会場の真っ只中にいた。盃、ジョッキーを手に楽しそうに話をしている人たちの傍らで忙しく店員たちが動き回っている。『居酒屋なのか……。変わった店だ、ちょっと寄って行こうか』そう思って空いている席を探したがどうも満席らしい。あたりを見回しながら奥へと歩いていくとまた階段があり、『こちらへ↓』の看板。導かれるまま私は下へと降りていった。
次の階は少し雰囲気が異なり、三、四人程度のグループが六組ほど静かに、しかしにこやかな笑顔で酒を飲んでいた。
「おお、吉田!」客の一人がふいに声をかけてきた。
「山本?……。山本か?!」それは、中学の時の同級生だった。
逢うのはもう二十七年ぶりになるだろうか。彼とは格別仲が良かったわけではないが、通学路がたまたま同じ方向なので、部活がない日などは一緒に他愛もない話をしながら帰ったりしていた。
「おい、久しぶりだなぁ!」かなり酔っているのか山本は私の肩をパンパン叩きながら嬉しそうに、
「みんな!俺の中学校の同級生の吉田だ」
「どうも……吉田です」自分の名前を紹介されるのは少し照れくさい。
「吉田さん、お会いできて光栄です」
「吉田さんやぁ」
「吉田さん」紹介されるや否や満面の笑みをたたえながら皆が握手を求めたり、身体に触ってくる。
「吉田さんにかんぱ〜い!」
「かんぱ〜い!」
気がつくと、山本のいるグループだけではなく、他の席の人まで私の名を呼びながらこちらを向いてにこやかに微笑んでいる。
「ヨ・シ・ダ!ヨ・シ・ダ!」最後には、全員こちらを向いて大合唱。頭をかきながらどうしていいかわからない風をしていると、
「お待たせしました。どうぞこちらへ……」
若い物静かな店員に導かれるままゆっくりと通路を歩いて行くと、みんなが熱い視線をなげかけてくる。『……すこし気味が悪い。……』そういえば、最初にこの店に入った時も私と目が合った人は、必ず微笑みながら会釈していたのを思い出した。
「どうぞ」
彼女の手は地下へと向かう階段を示していた。『またか』と思いながらも、何となく今きた道を引き返す気にはなれなくて、一段一段と降りていった。『……予感はしていた……』暖簾をくぐるなり皆、屈託のない満面の笑みを私になげかけてくる。部屋の大きさは先ほどと同じくらいであろうか。しかし、ここも満席らしい。『熱い!まるで『羨望』にも似た眼差し』が私の五感にチクチク突き刺さってくる。
「こちらです!」通路を奥まで行くと、やはり階段……。一体何階まであるのだろうか。もう酒を飲む気分ではなく、とにかく今の状況から早く逃れたいという気持ちで一杯だった。階段を駆け降り暖簾をくぐり、また降りて……。無垢の笑みの中を私はどれくらい進み、階段を駆け降りたのであろうか。しかも、どんなに速く走っても階段の入り口には必ず彼女がいて「こちらです!」と案内する。しかも客達とは全く異なり一度も私と視線を合わそうとしない。
とうとう彼女を押しのけ自ら階段を降りていった。暖簾の裾を恐る恐る上げ、中を覗いてみると今までと雰囲気が違う。中に入ると誰も私を見ない。席もぽつぽつと空席がある。少しホッとしていると、
「あれ?吉田課長じゃないですか。珍しいですねぇ、こんなところで逢うなんて……」
後ろからの呼びかけに一瞬、『ギョッ』としたが、振り返ると見慣れた顔がそこにあった。
「あっああ」
「どうしたんですか?汗いっぱいかいちゃって……」
「いや、何でもない。ちょっと年甲斐もなく走ったりしたもんだから。はは。…ええと…島崎…君…だったよね?」
「いやだなぁ。部下の名前忘れちゃったんですかぁ。そうですよ、頼りないなぁ。しっかりしてくれないと困りますよぉ。まっ一杯どうですか」
「いやぁ、バカだなぁ忘れるはずないじゃないか。ただ、ちょっと今日は疲れてるのかなぁ」
差し出されたビールを一気に飲み干して、体中の力が抜けていくのがわかった。
「ん〜!やっぱりこれだよねぇ。君はここにはよく来るの?」
「あはは、まさか。たまたまですよ、た・ま・た・ま!」一瞬、意味がわからなかったがそんなことはもうどうでもよかった。
「……、だよなぁ。そうだよなぁ。ままま、飲もう飲もう!」
私達は、いろんな取るに足らない話をまるで子供のようにはしゃぎながら盃を酌み交わしていた。うとうとしながら前の席をみると若いカップルらしい男女が座ってじっとこちらを見ている。『……そういえばこの席に座ったときからいたな……』
「あっ、この方達は?ご挨拶が遅れまして。君のお友達?」
「ああ、彼らはただ相席しているだけですよ。何でも終電に乗り遅れたとか」
「ええ?もうそんな時間か?」
「あはは、そんなものあるわけないでしょう」また、理解しがたい返事。
「そういえば課長。僕の同級生が十回目のチャレンジでやっと司法試験に合格したんです。実は今日、彼の新しい門出を祝うためにここに来たんですよ!」
「そりゃぁすごいね。努力したんだろうねぇ」
「でしょ?でしょ?田中っていうんですが、もう来る頃だと思いますから一緒にエールを送ってあげてください」
「もちろんだとも。田中君だね?!」
そのとき……。『コツコツコツ』
誰かが階段を降りて来る足音。その音にあたりは静まり返って暖簾の向こうをじっと見ている。足音が止まり、暖簾の裾が微かにめくれ上がり一人の青年が顔を出した。突然、歓声が沸き、拍手の嵐……。いつの間にか客席は満席になっていた。
「彼ですよ!彼がそうなんですよ!」誰ともなく、そう耳打ちされた。
「おめでとう!田中!」
「田中さん!」
「田中さん、お逢い出来て光栄です」
「田中君、頑張れよ!」
私も、知らず知らずのうちに彼に大きな拍手を送っていた。彼は、当惑気味に通路を会釈を繰り返しながら通り過ぎていった。
「……こちらです……」
聞き覚えのある声に思わず我に返った。『あの女だ!』彼女はその青年を階下へと案内していった。
「いっちゃうんですか?課長も……」その言葉を後ろに聞きながら、私は何かに憑りつかれたように彼らの後を追っていた。しかし、どんなに急いでも彼らに追いつかない。私が暖簾を上げると彼らはすでに次の階段を降りはじめている。また暖簾、そして階段。繰り返される祝福と歓声の中、人を押しのけながらただひたすら私は走り続けていた。
そんなことを数回繰り返したのち、ある部屋にたどり着いた。今までの部屋とは違い狭く薄暗い。
「あれぇ?吉田君。どうしてこんなとろこに」ぼんやりとした薄灯りの中から、また私を呼ぶ声が……。三名しかいない客はみんな顔見知りだった。一人は去年定年退職した佐藤さん。もう一人は小学校の時の担任の谷先生。最後の一人は、なんとおやじではないか。
「どっどうしてみんなこんなところにいるんですか?おやじも何で……」
「良一、ここが最後だよ。この下の階には誰もいないよ」
「若い女の店員と青年がここを通らなかった?」
「いや、それは違うな!」
「……えっ?」
「吉田君。昔から君はそうだった!」
「なっ何??」
「良一、いい加減目を醒ませ。そんな子に育てた覚えはないぞ!!」
『何がなんだかわからない。みんな酔っ払っているのか?』しかし、部屋の奥にはまた階段があった。一瞬彼女の姿が見えたような気がして、私は再び歩き出した。おやじ達はそれ以上私の顔を見ることもなく、元のように静かに酒を飲み始めた。
『この下はもう誰もいないのか?』真っ暗な階段を降りながら少し不安になってきたが、何故か後ろを振り向くのが怖い。『真っ暗だ……』降りてきた部屋は、全く光がなくひんやりとした空気が漂っている。どこがどうなっているのか分からない。『コツコツ』と自分の足音だけがあたりに鳴り響く。どうも、かなり広い空間があるようだ。突然、何かにつまづいて私は転んでしまった。『いてて、何だ?』手探りで触ってみると、長い紐のついた突起のようなものがある。それをひっぱってみたがびくともしない、もう一度今度は力をこめて引っ張ると、ゆっくりと扉が開き下から光が差し込んできた。
恐る恐る下を覗き込むと、どうも外に出たようだ。基礎工事のようなセメントが見える。3mくらいの高さだろうか。飛び降りたら上がることは不可能な気がする。でも一刻も早く外に出たいし外に出れば何とかなる。そう思い、手で角につかまりながらじわじわと身体をくねらせて足から降りていき、め一杯身体をのばした所で飛び降りた。その瞬間、『バタン!』と扉は閉じてしまった。
飛び降りた反動で少し足が痛いが大したことはなさそうだ。『ここは一体どこなんだろうか?』降り立ったところは、ビルの一階のようでもあるし作りかけの駐車場のようでもある。『剥き出しの鉄骨、表面がざらついて窪んだセメント』建物から出てみると、すぐそこには小高い山々があり、夕日がまわりををセピア色に染めている。目の前には散髪屋があるのだが看板も動いていないし、全く人の気配もない。数軒家はあるものの、道にも家にもやはり誰もいない。
『チンチン』……、電車か?……
一台のチンチン電車が段々近づいてきて、すぐ近くの電停に止まった。私はすぐに飛び乗った。行き先もわからないまま。
電車には双子らしい男の子をと女の子が乗っていた。年の頃は4、5歳くらいであろうか。彼らはじっと私の方を見つめている。それにしてもこの電車はどこに行こうとしてるんだろう、窓から外をぼんやりながめているが家並みは見えるものの、全く人の気配がない。その家並みも段々と少なくなっていく。前を見ると山の奥の方にこの電車は向かっているように見える。
突然、二人の子供達が歌い始めた。
「ここで見るものあっち向き、あっち向き……」
『何なんだ?あっち向き?』彼らはそう歌いながら、電車の進行方向とは逆の向きを横目で何度も示していた。『……胸騒ぎがする……』
「おっ降ろしてください!」そう私は叫んでいたが、電車は止まらない。運転手の方に駆け寄ると誰もいない。『くそっ!』ブレーキも利かない、ドアも開かない。もう我慢できない。「君達も一緒に降りよう!」私の問いかけに、彼らは少し下を向いた後ゆっくりニコっと微笑んだ。幸い電車の速度はそれほど速くない、自転車程度の速度であろうか。私は後ろのドアを転がっていた棒でなんとか抉じ開け二人をかかえて電車から飛び降りた。
起き上がると私はただ一人、駅に向かう通路の真ん中にいた。私の周りをめまぐるしく人の波が通り過ぎていく。しかし、誰も私を見ないし誰も声をかけてこない。『3番線に電車が入ります』その声に、私は慌ててプラットホームへと向かっていた。
満員電車は、いつもと同じように私を押しつぶしながら会社へと運んでいく。会社に到着していつものように仕事をしていると、ふと気になることを思い出した。
「ねぇ、島崎君は今日来てるかな?」
「島崎?……ああ、課長、何言ってるんですか。彼はもう五年も前にやめたじゃないですか。やめたって言っても、入社三ヶ月くらいですぐいなくなっちゃいましたけどねぇ。理由は知らないけど。あっそういえば家の方にも帰ってないらしく、大騒ぎしてましたよ。あっ課長がここに来る前でしたね!」
「え?ああ、そうだったのか。いや、別に何でもないんだ」
『プルルルルッ……ガチャッ!』
「……はい、あっ少々お待ちください。課長、お電話です」
「ん?ああ」
「あ〜もしもし、お電話代わりました」
「パパ、生まれたわよ。うふふふ」
「え?生まれたか。で、男か女か??」
「それは後のお楽しみ、かわいいわよぉ」
「そうか、元気か?」
「元気よ、今日は早く帰れるの?」
「昼から休みとってそっちに行くよ!」
昼食もとらずに私は家内の入院する産婦人科病棟に向かっていた。病室には家内が寝ており、そばに看護婦がひとりいた。
「あっおとうさんですか?おめでとうございます。母子共に健康ですよ。じゃぁ、連れてきましょうね!」そういって、彼女は部屋から出て行った。
「お前の体の方はどうだ?」
「ちょっとまだ痛いけど、大丈夫」
「子供はちゃんと泣いたか?」
「大きな声でね。うふふ!」
しばらくすると、さっきの看護婦ともう一人の看護婦が子供を連れてやってきた。
「は〜い、パパにご対面ですよぉ」
「え?双子?!」
「そうなの、しかも男の子と女の子よ。私達子供の性別も何も生まれるまで知りたくないって言ってたけど。あなたの予想も私の予想も当たったってわけよ」
「そうかぁ。おい見てみろよ、二人とも目を開けて笑ってるぞ!」
「あはは、まだ目は見えないわよ」
「いや、今確かに笑ったよ」
「あなたのお父さんにも見せてあげたかったわねぇ」
「おやじも子供好きだったからなぁ。きっと喜んでるさ。どっかで酒でも飲みながらね!」
……数年後……
毎日繰り返す通勤の道、雑踏の中すぐそばを通り過ぎているのに誰も私と目を合わせようとはしない。相変わらず誰も、私のことなど気にもとめない。会社に行っても仕事以外の事で誰も私には声をかけてはこない。しかし、私はなんとなくこの方が居心地よく感じるようになってきているのだ。家に帰り着いたとき、唯一私を待っている者達がいる。それが本当の幸せだとわかったからかもしれない。
「ただいまぁ」
「おかえりなさい!」
「パパお帰りぃ!!」
「お土産今日ないの?」
「あはは、忘れるはずないだろ」
「今度の日曜日、遊園地連れてってね!」
「おお、そうだったね。よしみんなで行こう!」
「やったぁ!」
何も変わらない。そして漂えど沈みもしない僕が窓ガラスに映っている。その瞳は寂し気で虚ろで決してとらえられない。
こうして徹夜明けの街を、オフィスのブラインド越しに眺めるのは何年ぶりだろうか。
「夜明け前の夜の闇が一番暗くて切ない」といつか君が言ってたのを思いだしていた。
ずっと昔も去年も今年も、未だ森の迷路に佇んでいるような気がする。進むことも戻ることも止まることすらもできない僕は、独り川に立ちたい一心で喘ぎながら流浪の日々にこれまで甘んじてきた。
副都心に広がる街は、空気も冷えこむように澄みわたり、灯りが静かな靄に包まれていて、まるで銀河宇宙のスターダストのように煌めいている。バーボンのグラスを口に運びながら、ぼんやりと心地良くなり始めた頃には、日常の喧噪とは程遠い薄紫色の地平線が、薄いピンク色へと輝きを増し始め、新しい朝を予感させていた。
いつの間にかソファーで寝入っていたのだろう。電話のベルで起こされて時計に目をやると、午前11時を指していた。
「お待たせしました。アド丸プランニングです」眠い目を擦りながら電話に出てみた。
「社長、おはようございます。荒川です。今、村井と私は長野の伊那市庁舎で、森のアスレチックランドの打ち合せ中です」
「ああ、そうだったね」
「社長、これとれたら企画デザイン料だけでも、2千万はかたいですよ」
「ほんとに、いけそうなの?」
「ほぼ、特命ですわ。山梨も長野もこのところゲンがいい。ほな又、連絡いれますゥ」
「何だかうまく行きそうだな。がんばれよ!」
コーヒーメーカーのスイッチを入れ朝刊を開いた。暫くするとまた電話が鳴った。
「すんません何度も。荒川です。社長、この仕事ほぼ受注ですわ。さっき、助役が内緒で教えてくれました。やりましたねぇ。また、毎年恒例の釣り旅にでも出かけて下さい」
「大丈夫かい、仕事のほうは?」声が弾んでいるのが自分でも可笑しかった。
「社長がいたら、事務所は狭もなるし、第一仕事になりません。ほなら又。あ、そうそう毎日電話連絡は下さいよ。では失礼します」
ソファーに座り込むと、もう梅雨前の陽光がやけに眩しくて目を細めながら、自然にほくそ笑んでいた。
「あいつら、気を使いやがって」 ロッカー横に立て掛けてあったフライロッドを右手に持ち、左手でテーパーラインを引っぱりながら、浮かれぎみに素振りをしてみた。
三年前に女房と別れてから一度もあの川には足を運んでいない。結婚してからも、別れるまでに女房を釣りに同行させたことは、二度しかない。一度は大げんかの末に民宿から実家へ帰ってしまった彼女を、引き取りに行ったこともある。
玄関先で、義母はきまり悪そうな顔で伏目がちに言った。
「すいませんね。こんな処まで迎えに来てもらって」
「僕の方こそ、御無沙汰ばかりで申し訳ありません」とだけしか返答できなかった。
その時の彼女は、泣き顔のまま義母の背中越しに冷静に言った。
「釣りよりも何よりも大切なことがあるはずよ。ねえ、わかる?」
僕は咄嗟に苦渋の表情で「わかったよ。釣りは卒業して...」と言いかけて、すべてを飲み込んだ。そうだよな、やっぱり赤ん坊が欲しいんだよねと胸の裡で呟いた。
「あぁ、心の川か......」タバコの煙りの行方を追いながら目を閉じると、耳の奥でせせらぎと川風に揺れる新緑の葉音が聴こえ始めた。想い出の川面の風景が、網膜に鮮明に蘇ってくる。
よし、また近いうちにあの川へ出かけてみるか。何かを見つけることが出来るかもしれない。振り返ると、その日から川面に立つまでに二週間が過ぎていた。
*
夜明けの川だけが、密やかにして、しんみりと流れ続けていた。響き来る水音は、森の静寂に深く溶けこみ、陽光とシンクロする中で川面の精たちが輝きを増し始めている。
僕の頬をやわらかく霧雨がつつみ込む。そして川風に乗った水飛沫が、僕の6年物のウェイダーを霧状の光線で心地よく濡らした。
今年はまた、この川に僕は立っている。右足のつま先のフェルトが何かを喋りかける様に口を開けていても、僕には心強い味方なのだ。いつも、こいつとストリームをかき分けながら歩いてきたのだから。そして、フィッシングベストからは、C.C (カナディアンクラブ)のヒップフラスコが顔を出している。
”カーティス クリーク”( 秘密の川 )
そうだ、自分だけの秘密の場所、自分だけの心の川を求めて釣り師になった大学生の頃、早瀬の脇の草むらに寝転んで読書していた同級生の君が、素敵な響ねと呟いたその呼び名。
「ねぇ、そのカーティスクリークへ連れてってよ!」
「う〜ん、今はだめだね。一人でも他人に教えたらおしまいなんだ。
それに、魚が一匹残らず居なくなってしまうよ」
「へぇ〜他人なの、わたし...?」
「愛すべき同朋でもだめだよ」
「いじわるね!...とても」とび色の瞳がはじめて嫉妬に揺れた。
「釣り師はだれも皆、そんな素敵な川を隠しもっているんだ。内緒のね」
「ずいぶん長い間あなたを見つめ続けて、大抵のことは二人で共有してきた筈なのに。淋しい気分だけは嫌
よ......」
君は、僕の吸いかけのタバコをとりあげ一度だけ深く吸い込み、一度だけウィンクして僕の唇にすんなり戻した。照れぎみにワンレングスの髪を左手ですきながら、栞の四葉のクローバーを鼻に突っ込みおどけてみせた。その時に幽かだが、口紅のストロベリーの香りが漂った。
そんな事を回想しながら流れに身を任せていると、エメラルドグリーンの急流の渦と飛沫の光の乱反射の中で、軽い目眩をおぼえた。ラッキーストライクに手を伸ばし、深く吸い込み吐き出した煙りとの会話が、沈静へと誘ってくれる。
ベストの左胸には、毛バリのダニエルコーチマンと、昨夜遅くにタイングしたミッジフライたちが所狭しと顔を並べ、宝石箱の様相を呈している。
今でも、君がその場でクロッキーしたニジマスの想い出に対峙すると、二人の間に流れる川のことが浮かんでくる。
「卒業したら、やっぱりデザイン関係に進むつもりなの?」
「油絵でも描いて、晴耕雨読といきたいね」
「男の人はいいわね。素敵に老いていける」
「そんなもんか?」
「女性はそうはいかない。時間は残酷なものよ」
「これからもずっとこうして、二人で釣りに来れたらいいね...」
「あなたらしいわ。今でも子供みたいな事ばかり考えてるのね」
ため息まじりの諦め顔が、零れるような美しいシルエットでか細く笑った。
僕は、二本目のタバコをおもいっきり吸い込み無表情を装って吐き出した。煙りの輪が幾つも揺れては消えた。空を見上げると、透き通る眩しさに切なくなり、泪がひと雫頬を伝って、あまりにもあっさりとこぼれ落ちた。
君から貰ったクリールには、腸をとられた三匹のヤマメが艶やかに納まっていた。
「ねえ、オールディーズの曲で’恋の片道切符’というのがあったのを覚えてる?」
「ああ、ニールセダカだろ」
「最近思うようになったの。行く先の見えた列車に乗ってみるのもいいのかなって。同じ人生なんだもの」
「何だよ、その列車ってのは。人生には、終着駅はおろか始発も行き先も何も無いって。突然何言い出すんだよ」
「片道切符は一回切りよ。途中下車はできないの」
「――それで、何か言いたげだなぁ」
「あなたとは長い間、鈍行列車で素敵な旅をしてきたように今は感じてるの。それは、油絵の具の香りや、ロックバンドの練習や、海辺のキャンプ、そして川釣り同伴の読書や、図書館での会話、よく二人で出かけたコンサート、深夜のドライブやプラネタリュウムやテニス合宿など挙げたらきりがない程の想い出を乗せた列車なの」
「それで、なんだよ」
「その想い出が多すぎて、幸せすぎて、たった一年先のことを考えるだけでもとても不安で、淋しくて哀しくなる」
「......」
「うまくは言えないけど、もう列車から降りたらって言う男性が現れたらどうしようって......。何かちょっぴり安定してみたいなぁって」
「僕とじゃ安定しないのか...?」
「今度、父の勧めでどうしても8才年上の石油商社マンとお見合いすることになってて...」
「もしも結婚することになったら、地中海とエジプト周辺で転勤しながら暮らす事になるわ」
僕の曇り顔を下から覗き込む彼女の三白眼は、とても愛おし気だった。
「渋谷で買ったこのクリール、外国製でとても丈夫なの。ずっと使ってね、約束よ」
「結婚か......」その時、僕自身の延長線上にもその二文字が点滅し、ぼんやり見えなくなった。
「とにかく、お見合いの結果は手紙で知らせます。もう卒業したら遠い遠い実家に居ることになるわ。もう春ね!空がどこまでも高くて、こんなにも青くて、息がつまりそうになる」
僕はその晩、行きつけの居酒屋で独りしこたま飲んだ。その日を忘れようとして。いや、自分自身すら嫌になり始めていたのかもしれない。
閉店過ぎに店の主人に起こされた帰り際、忘れかけていたクリールには、パスポート用証明写真が一枚ひっそりと忍び込んだように入っていた。
それはよく見ると、翳りの表情のなかで静かに僕を叱っている目をしていた。
*
もうそろそろ、止めるとするか。 帰り支度を始めながらヒップフラスコに口をつけ、ぐびりと飲って湿った川風に吹かれながら目を閉じてみた。
君が僕の前から急に姿を消して、六度目の春がやって来た年に、七度目の春には赤ん坊の顔が見れるということになって、僕は新しい恋人と結婚を誓ったんだ。
髪型と香水の好みとえくぼ以外は君が重なるくらい良く似ていることにショックを受けた出会いだった。残念ながら赤ん坊の顔は見れなかったけれど、結婚生活はそれなりに充実していたかもしれない。八年間も二人で暮らしたのだから。
心のすれ違いに悩み続けた彼女が君からの突然の手紙を読んでしまったことが結果的には良かったと思っている。彼女自身も吹っ切れたわけだから。
君の手紙は、文面すらぼやけてしまって、記憶の底をあやふやに彷徨っているけれど、とても辛そうなお詫びの言葉で始まっていたように思う。
......覚えているでしょうか。本当にごめんなさい。この様な手紙を、今さらながら書き綴っている自分をとても恥知らずで悲しく思っています。大学卒業前にあなたに手紙を書くと約束したのに、14年もの歳月が経ってやっと書く気になったのですから。
こんなにも長い時間が経ってからしか言えないことがあるんですね。卒業の年のあの春は人生の中で、一番悩んだ季節だったように思えます。
晴々とした時間の中で、誰もが皆新しく何処かへ旅立っていく予感がした。私は独り取り残される。心の有り様は、空港ロビーの希望や晴れやかさではなく、全身全霊で燃え尽きた祭りの後の様な深い弧絶と失望が私を取り巻いていました。
とても大切なものを、これ以上失いたくない。それなら最初から望まなければいいと思ったのです。やはり、私は子供でした。
失うまで生きて失うまで愛すれば、こんなにも後悔せずに済んだのです。もし失っても、残り続けるものがあることに気付かなかった。永遠に巡るものがあるということに......。
(中略)
今でも『 We are all alone 』はよく聴いています。日本訳は『二人だけ』と言う曲。いや二人ぼっちというのが適切なのかな。
出会った頃から、私たちの曲だったような気がします。
長い人生の洞窟を抜けると、そこには何があるのかしら。それを二人で見つけられればどんなにか素晴らしいのに......。
あなたがこの世に生きているから、私も生きて、主人を愛することができると、今正直に言える気がします。
長い手紙になったこと、また私の非常識を本当に許して下さい。あなたの心の川は私の中に、永遠に流れ続けています。
煌めいている私のカーティスクリーク。
さようなら。
*
18年の歳月が過ぎても、川の流れは不変で僕は独りになっても自分だけの川を心の中で、まさぐり続けている。変わったことはといえば、ロングピースがラッキーストライクになり、君が隣に居ないことぐらいだ。
「セ・ラビィ!」
またヒップフラスコにキスをして、夕まずめの君のお気に入りだった深淵横のストリームに、僕はロングキャストを何度も試みた。
右斜の瀬の水面では、蜻蛉の大群の再生と歓喜が死への狂熱と化し、僕の心の深層においては、バロックのチェンバロのリフレーズが鳴り響いている。
時間は誰にも止められない。僕もいつの日かこの場所からいなくなるだろう。儚気な蜻蛉のように。そして土に還る......。
僕はやっと決心したよ。森の迷路が今、開ける予感がしたんだ。
君を墓場までいっしよに連れていく。それから先のことなどわかる筈もない。出来ることなら、この川に君と再び立つことになれば本当にうれしいのだけれど。
君の潤んだ瞳も、大人し気な仕種も、内気な微笑みも、風と戯れる栗色の髪も、そして一番好きな両方のえくぼも全て一瞬の魔法で永遠のものにかえて、きっと持っていける。今だから約束できる。
君が先に心の川を渡り、僕はその後ろの流れにずっと佇んできただけのことだ。
お守りのように身に付けていた君のパスポート写真と、北アフリカのリビア反政府ゲリラによる、路線バス襲撃事件の新聞の切り抜きを読み返しそっと握りしめた後に、静かに川面にほおってみた。それらは渦に巻かれ、溶け込むように水流になじんで見えなくなった。
「C.Cはバーボンの中でも、とりわけガムの味がするわ。雨上がりの湿った朝のロングピースはチョコレートの味がする。両方ともに、あなたと同じくらい大好きよ」
キラキラ笑う君の声が耳の底で響き続けていた。
僕は変わらないし、変われないと呟いた瞬間、銀白色に輝く女神がパーマークを翻し大きくジャンプした。
起こるべきことは、すべて最善の状況で起こるものだといつも言っていた君の顔と重なった気がした。
そうなんだ。片道切符の話を聞いた遠いあの日に、僕自身が最善こそを掴み取るべきだったのだ。黙って君をさらってしまえば良かったのだ。
川にそのままへたり込むと、深い嗚咽に絡まって心の川の流れる音が、蒼く響きながら僕自身を被っていた。
それから本当の川音に気が付くのは、夕立ちの飛沫が頬をしめやかに濡らしてからのことであった。
僕は、帰り道に独りで森を抜けることや、つづら折りになった山道のことや、その途中にある、昔君と過ごした民宿に辿り着くことだけを、祈るように考えていた。
ひとしきり降り続く小雨にけむる中、ただ虚ろな目をして。
「で、ご注文は」
蓮根は、地上げ屋にでも接するごとく、うっとうしげな態度を取る。
無理もない。
ただでさえ忙しいバイト先のバーに、和彦たち4人組は毎日のように訪ねてきて、酒の1杯で粘っては、カウンターまで冷やかしに来る。
和彦たちのやり口は地上げ屋と同じだ。狙いは、1皿のチリポテト、チキンコンボ、チーズの盛り合わせといったかわいいものだが、1人ずつ交代で来る処がかわいくない。
それも直接、蓮根に無心するのならいいが、店主の橋口さんの好意につけこむ処が許せない。
今日は那谷の番らしい。
「ピザが食いたいなら、出前取れ。電話貸してやるから」
蓮根は店の公衆電話の受話器を取って那谷に突きつけ、先手を打つ。
「何で、あれ、すっごい高いよ」
那谷はカウンターに片肘をついて交渉姿勢に入る。蓮根は思う。
こいつ、絶対、将来は取りたて屋になれる。
奥のテーブル席で、いっぱしの大人の顔はしていても食べたい盛りの和彦たちは、当然、チーズの1切れやチキンの1本ずつを分け合っただけでは空腹を埋めきれなくて、ピザとか焼きそばとか、とにかく腹に溜まるものをどうやって手に入れてやろうか考えているだけなのだ。
しかし、和彦たちの本当の目的は、本日お勧めのスパゲッティ・娼婦風でも、シメジのたっぷり入ったキノコのチーズオムレットでもない。
あの女だ。
あの女は―名前がわからないからあの女と呼ぶほかはないけれど―1ヶ月も前に1度来店しただけなのに、いまだに和彦たちを張り込ませるだけのピリッとした魅力を備えていた。普段は、1年の森下の胸がでかい、顔も合わせれば3組の愛子の方がいい、俺は真紀一筋だ、などとペチャペチャやっている和彦たちのいやらしい妄想を超えた、畏怖のような感情を呼び起こす女性だった。
蓮根も例外ではない。時給こそいいものの夜の遅いこのバイト、高3の春までという親との約束だから、そろそろ辞めなければならないのだが。
蓮根があの女のことを思い出そうとしても、うっすらとした微笑の印象しか思い浮かべることはできない。
もうひとつ進んで言えば、笑顔の残像のようなものが、意識の表にある産毛状のものを、ピリッと逆撫でしてかすめるだけだ。
エレベーターが降り始めたときの足元をすくわれるような感じ、鳥肌が立つ瞬間のような感じ、渡り鳥がいっせいに飛び立つときの感じにも似ている。
28か9にも見える彼女を、無謀にもナンパしようとした和彦は、彼女をカウンターの隅に残し、ひとりで去っていった年下男と彼女は、絶対に別れ話をしていた筈だ、と言い張った。
「もうちょっとだけ待て、そしたらチャンスが向こうから来る」
「あいつら、カブトムシでも取りにきたガキみたいだな」
そのときテーブル席で頭を寄せ合う和彦たちを見て、橋口さんは笑って言った。
「こういうのには、コツがある。獲物に気づかれないように、下からそっと手を伸ばしても、たいてい向こうの方が一枚上手で、去り際におしっこひっかけられた上にエサだけ食われて逃げられる。な、焦ると悲惨だろ。女を引っかけようと思ったらな、旨くて離れられないぐらいのエサの調合、覚えないと。向こうからかぶりつかせる。かぷっと。な。なあ、信司。お前だけには教えてやろうか。秘伝のエサの調合。いい場所、知ってるけどなあ」
「え、いいっすよ、遠慮しておきます」
「お前、何を照れてる。カブトムシ、カブトムシ。俺がそんないやらしい男に見えるか」
歳は40代も後半、少し白髪の混じり始めた長髪を後ろで束ねた遊び人風の橋口さんがそう言うと、まだ自分のこともガキだと思っている蓮根には、少なからず真実に聞こえた。
蓮根の年がもう10年、上だったなら、橋口さんの台詞はただの座興だと分かるだろう。
時々、上からジョウロで水を蒔いてみたくもなる。
女を引っかけるのも、大学に入るのも、商売をやるのも、相応に歳を取るのも、みな才能のなせる技なのだ。その上に、ほんの少しの縁に助けられれば望みはかなう。
人それぞれにどんな才能を与えるかは神が決める。神に選ばれた人だけが、足下から枯れたような黄金の色に染まっていく。
「まあ、せいぜい成長しろや。間引かれない程度に。え、青草君」
蓮根の頭の中では、2つの声が重なって聞こえた。前面に出て聞こえるのは橋口さんが今言った台詞、後ろからかぶさるように聞こえるのは少し前に和彦が吐いた台詞。
「もうちょっと、待ってたらチャンスが」
蓮根は考える。1ヵ月経った今でも、和彦の台詞にしがみついているのは、自分がまだ子どもの領分から抜け切れていないからかも知れない。1人で生きていく力がある、とか。それは独善的なとんでもない思い上がりだ。
蓮根は頭の半分を濃密な考えごとの液体で満たして、ピザを盛る白い大皿をキュルキュルと時計回しながら、くたびれた布巾で水滴を拭き取っていく。時々、器用に銜えタバコの灰を床へ落としながら。
少し色素の薄い蓮根の髪が、天井のライトに透かされて明るい色に見える。中学のときは染めていると疑われて、よく教師に引っ張られたものだ。
「…いただけるかしら」
蓮根の思考にいきなり女性の声が割り込んできた。
「は」
灰だけではなくタバコも落とした。皿は落とさなかった。ぼんやりしていて注文を聞き逃していたのだ。あせった蓮根は、拭きかけの皿を流しへ戻すべきか一瞬迷い、指先をさまよわせる。
「ギ・ム・レット、いただけるかしら」
客の女性は、声が聞こえにくかったのかと好意的に受け取って、今度は、1音ごと、区切るように発音してくれる。
「ああ、はい、ギムレット、ですね。ひとつ?」
少しどぎまぎしてしまう。女と初めてしゃべる純情なガキの声のように聞こえないかと蓮根は心配し、自分の頬が赤くなっていないことを願う。男にしては色白で肌の弱い蓮根は、ちょっとした刺激ですぐ肌が赤くなるのだ。
例えば、天井に釣り下がっているライトの、熱を含んだ光にも。
「はい。でも、マルガリータの方が、おいしいのかしら」
まだ考え事の余韻を残して宙をさまよう蓮根の視線を固定するかのように、彼女は蓮根の目を覗き込んで言う。
「え」
なぜこの人はそんなこと言い出すのだろう。蓮根は、余程ぽかんとした顔を見せていたらしく、その人は笑いながらあとを続けた。
「このお店、マルガリータっていうんでしょ。だから、マルガリータがおいしいのかな、って思っただけなの。ぜんぜん違った、かな」
「ここの名前、ね。いい加減なもんですよ。店長とバイトとでメニュー開いてどれにしようかな、ってやって決めた奴ですから」
「ねえ、それ、本当?」
本当ではないと蓮根は思う。しかし、それぐらいにいい加減な理由で決められたことは確かだ。
この店には看板がない。橋口さんはただ、若者が何をするでもなく集まれる場があって、彼らと適当に話ができて、経営もある程度やっていけて、夏には信用できるバイトに店を任せて1ヶ月くらい沖縄の海に潜りに行ければそれでいいのだ。
名前なんてあってもなくても全然困らない。それでも、カウンターで皿を拭いていると、暇な客に、店の名を1日に1度は訊かれる。
暇なのだろうか、この人も。蓮根はそう思い、照れくささもあって、彼女に早く席へ戻って欲しいと思う。彼女の肩越しに、和彦たちがニヤついた視線でこちらを覗っているのが見える。
こういう処で働いていると、少々は悪そうに見えるみたいで、女の客からナンパ染みた声をかけられることが多いのだ。
彼女はなりたての女子大生風で、細い金のネックレスをつけた胸は…まあまあ、ある。開襟風に折られたパリッとしたポロシャツの襟と紺のタイトスカートが主の清潔感をひそひそ声で主張し、脇の辺りまでまっすぐ伸びた髪はポニーテールにまとめられている。
少しあごを上げ気味にして話す彼女の大きな瞳を見つめ返していると、蓮根には、彼女をこのまま帰らせてしまうのは非常に勿体ないと思う。かといって、橋口さんや和彦たちの目の前で口説くのは無謀というものだ。
タイミングが悪いのは縁のない証拠だ。蓮根は自分のあきらめの悪さと、密かに闘う。
視線を下にそらした蓮根の真意を取り違えたのか、彼女は少し焦ったように言葉を足す。
「忙しいのに、ごめんなさい。あの、さっきね、お皿を拭いていた様子がすごく面白かったものだから、声をかけたくなっちゃっただけなの」
「はあ」
蓮根は何と答えてよいものか分からず、仮に相槌を打つ。
「だって、すごく忙しそうだもの」
要領不会得な蓮根の顔を、彼女は笑い出しそうな目で見ている。何で忙しそうだからといって、一方的に詫びられたり笑われたりしなければならなのか。
蓮根は頭の中で彼女の好印象を撤回した。
「手の動きがね、早いの。本当にもう、シャカシャカシャカっていう感じなの。水揚げされた甘エビが空中を掻くみたいに」
彼女の声は、意地悪な笑いをかみ殺しているように聞こえる。
「…」
どうせ俺は猫背だよ、と思って蓮根は相槌を割愛する。
「エビでも鯵でも何でもいいんだけれど、水揚げされた魚って、ピチピチ上に向かって跳ねるでしょう」
彼女の台詞のあとに、何か答えて欲しそうな間があく。
「あわよくば、網の横から飛び出そうとか、思ってるんじゃあないっすか」
ふてくされた声で蓮根は答える。
「違うの」
彼女は、間違った答えを言って欲しかったようで、蓮根の的外れな解答を聞くとぱっと目を輝かせた。何か言いたいことがあるようだ。
「水族館には行ったことある?魚ってね、水の中ではシュッって真上にも逃げられるのよ」
彼女は、謎かけのような会話が好みのようだ。
「水族館に連れて行って欲しい、ってこと」
すくめた肩と嬉しげにできたえくぼが、彼女なりの肯定だと蓮根は受け取る。
蓮根は、左からチクチク頬に刺さる視線を感じた。テーブル席にテニスラケット2本を置いて男がひとりで飲んでいる、訳がないから、やっぱり彼女の連れなのだろう。
先ほどから、蓮根たちの会話の邪魔をするでもなく黙ってじっと見ている。彼女のことを独占したいなら、せめて蓮根に対して睨みを効かすか、彼女のことを席まで引っ張るぐらいのことをすればいいのに、と蓮根は思う。
「彼氏が待っているみたいだけど。いいの」
「んんん、まだ彼氏じゃあないのよね。送ってもらっている途中だけど」
再び彼女の台詞のあとに、間があく。
「それで。ついでにこの場で、俺にどうこうしろと言って欲しいと。」
蓮根は呆れたような口調を目指したが、果たして彼女にそう聞こえたかどうか。
彼女は返事の代わりに、横目であいまいな微笑を洩らす。清楚な女の正体がこれだ。
「迷ってるんだったら止めれば」
蓮根の言葉は、全くきつい言い方にならなかった。
「ありがとう。わたし、水嶋萌黄。お名前は」
「蓮根」
「あら、それだけなの」
彼女は物足りなそうに言った。
「よく知らない人に、名前教えちゃあいけないの。また今度ね」
蓮根は今度こそ、そっけない口調で言い返した。
ゲームの駒のように彼女の思惑通りに動かされてたまるかと、蓮根は返り討ちを試みた。
それでも敵は余裕の笑顔を見せていた。蓮根の魂胆は全部見透かされている。
放っておけないのは、好きの始まり。
車がないから、水族館には行けなかったけれど、海を思わせるブルー尽くしの部屋で、蓮根は腰を動かしながら、薄らかに思う。甘エビも海の中では、こうしてシャカシャカ忙しいセックスをするのだろうか。
甘エビに、合掌。
思えば最初から、蓮根の取るべき行動には全部、ラインマーカーが引かれていたのだ。
「あれ、今日は、髪、下ろして来たんだ」
「どこに行こう」
「昼飯、どこで食おうか」
(ええい、いちいち世話がやける)
(ふうん、結構、気の利くとこもあるね)
「晩飯は」
「あたし行きたい処、あるの」
「じゃあ、そこにしよう」
1回目のデートなんて、全く様子見のつもりで来たから、食事のときから何気なく身体を寄せてくる萌黄をどう扱っていいか、正直、蓮根は戸惑っていた。
寝るのは初めてではないから、蓮根は自分の身体がちょっとしたことで緊張する様を、萌黄に悟られるのは悔しいと思う。だからといって、あまり露骨に身体を避けるのもどうか。来るものを拒んだら、2度と勝負はできないと蓮根は不安になる。
萌黄は男の守りの薄い部分を知っていて、蓮根から誘いをかけるよう仕向けて来ている。プライドを失いたくないために、チャンスを捨てられるか。普通は捨てられない。
店の外の暗がりで蓮根の手を握ってきた萌黄の手のひらも、べっとり濡れているのに気づくと、蓮根は素直に肩を包んでやることができた。
怯えで硬くなっていない女の身体が、こんなにも、とろりとしたやわらかさのあるものだとは知らなかった。
蓮根が初めて寝た相手は15歳の女の子だった。蓮根も16歳だったから、痛いと言っては泣かれ、終わってからまたひとしきり涙を流されたのには参った。
何だか、自分が押さえつけて犯したみたいな気分になって、ひどくあと味が悪かった。
それから1ヶ月の間に3回、彼女を抱く機会はあった。だんだんと口数が減り、あとの会話は重たくなっていった。
別れたあと、彼女はまだ、蓮根に口を訊いてくれない。
寝息、温まった頬、中で動かした指、衣服のたわみ。もう少し長く、そんな彼女のイメージだけで我慢できていたら、彼女はまだ蓮根の方を向いて笑ってくれていただろうか。
イメージだけでは、賄いきれないものがある。
それは、蓮根の手に握れる確かな物事のひとつだ。
萌黄のやわらかな下腹を後ろから抱きこむと、だらだらとした感傷のフイルムが、一旦ガチンと巻き戻りをして高速で回転し始める。
こうして萌黄と指を絡み合わせていると、蓮根は、初めて自分の性別を感じることができた気がする。
萌黄の、ホワイトチョコレートみたいな、小指。アイボリー・ホワイト。蓮根の人差し指。ちょっと白めだけれど、萌黄よりはずっと褐色をした、アーモンド色の肌。
アイボリーとアーモンドの淡いグラデーションが、上下にガッチリと合わさったまま、合わせ鏡の中でまた延々と続いている。
萌黄の手のひらが、蓮根の手のひらを引き連れて鏡に触れる。
「この中に映っているあなたとわたし、1番手前のが3ヶ月後。その次のが1年ぐらいあとで、そのもっと先は、3年後ぐらいかな」
萌黄は、人にしつこく読解を求めるわりに説明が下手。でも萌黄の言いたいことは蓮根には分かる。
俺なら同じことをひとことで表現できる、蓮根はそう思いながら『君の願うようになればいい』とは答えられずに、身体を外して、分け目の辺りから毛先まで、萌黄の髪をすっと撫でてみる。肩の曲線を唇でなぞる。
まだ、現実の手触りを確かめながら進むことしかできない。蓮根は、特にそれを残念だとは思わない。
ただ、まだ盛りの温かい匂いに、顔を埋めてさえいられれば。
西暦2150年のある日。
謎の科学者集団がこの地下都市に現れた。
エネルギーが底をつき、静かに滅びつつある荒廃した都市に
市川孝一は妹の遥と二人で昼食を済ませ、有線放送の明るく軽快な音楽にぼんやりと耳を傾けながら、コーヒーを口に運んでいた。
暗く沈んでしまった世の中のムードを少しでも盛り上げるためだろうか、最近のラジオが流す音楽は明るい曲や癒し系のものが多くなった。
彼らは22歳と17歳の兄妹で、2人きりの生活をすでに3年続けていた。両親も祖父母もすでにこの世にはいない。
玄関のチャイムが鳴った。孝一が応答する。
「市長の柳田康夫です。こちらに市川遙さんという方はおられますか?」
「はい」
「あなた方、特に遙さんのほうにとても重要な話があります。少し時間をいただけないでしょうか」
孝一は遥を呼びに居間へ戻った。
「何か知らねーけど、市長が訪ねてきたぜ。お前に用があるって」
「市長ですって! 私なんかにいったい何の用事かしら?」
玄関の重い鉄扉を開けると、そこには新聞などで見たことのある頭の薄い中年の男の他に、彼を取り囲むように2人の若い男が立っていた。
「実は、市川遙さんに第二京都市の市長としてとても重要なお願いをしに参りました」
「は……はい。私にできることでしたら、何なりとどうぞ」
遥は動揺しながらも、優しい笑顔で答える。
「今から話すことは国家機密に属することなので、決して誰にも喋らないでいただきたい。お2人ともよろしいですか?」
「はい」
兄妹の返事が重なる。
「実はこの第二京都市は本来ならとうにエネルギーが尽き滅んでいるはずなのですが、闇科学結社という謎の科学者集団が密かに発明した永久発電装置によって維持されているのです。しかし彼らは我々の弱みをつき、とんでもない要求を突きつけてきたのです。電力を供給し続ける代わりに、週に一度若い娘の生け贄を差し出せと!我々は密かに、市民台帳データベースに記載されている16歳から22歳までの女性を対象に、公平なコンピュータ抽選を行い、生け贄の女性を毎週選び、彼らに引き渡しています。我々としては非常に心が痛みます。しかし、人類が生き延びるためには、こうするほかになかったのです。次に生け贄を引き渡す日が、三日後に迫っています。そして今回選ばれたのは市川遥さん、あなたです!」
そこまで言い終えると市長と二人の連れは床に両膝をつき、次いで掌と額を強く床にぴったりとつけた。
「お願いします! どうか第二京都市民100万人のために、あなたの命をください!」
孝一も遥も、いつも偉そうにふんぞり返っている権力者のこんな姿を見るのは初めてだった。
「わかりました。そういうことでしたら喜んでお引き受けしますわ」
遙は困惑の表情を浮かべていたが、すぐに冷静さを取り戻し自然な笑顔で答えた。
「おい! いいのかよ。あっさり引き受けちまって。お前に死んでくれって言ってるんだぞ! 第一、こんなメチャクチャな作り話、俺は信用できねえぜ!」
「私は信じる。こんなに真剣に頼んでいるんですもの」
市長は二人の連れと共に立ち上がった。
「信じられないのも無理はありません。しかし、彼らが何らかの方法によって発電を行い、電力を供給してくれるおかげで、我々は5年間も生き延びてこられたのです。もちろん、このことは公にはできません。そんなことをすれば暴動が起こるのは目に見えていますから」
「彼らはいったいどうやってそんな大量の電力を……」
「それは私にもわかりません。企業秘密だそうです」
一呼吸おいて遥の方をまっすぐに向き市長は続ける。
「市民を代表して礼を言います。このご恩は一生忘れません。どうかよろしくお願いいたします。では三日後の午後三時にお迎えに参ります」
市長は丁寧に頭を下げ二人の男と共に、薄暗い闇の中を去っていった。
西暦2100年ごろから地球上でエネルギー不足が深刻になり、それまで廃止の方向に向かっていた超高速増殖炉による原子力発電が再び脚光を浴びた。
世界各国が共同でプロジェクトチームを結成し、研究に研究を重ねた結果、地球人口150億人を養うことのできる完璧なシステムが完成した。
だが事故は起こった。全世界に9711ある原子力発電所を一元的に管理、制御するマザーコンピュータのプログラムが何者かの手によって書き換えられ、システムが暴走を始める。誰にも止めることはできなかった。
世界中の超高速増殖炉が同時に大爆発を起こし、地上にいた人間は瞬時に全て死滅。地上は核汚染された死の世界へと姿を変えた。生き残ったのは世界に15ヶ所ある対核仕様の地下都市の住人だけだった。
食料の化学合成、地下水のくみ上げ、医療、工業、気温や湿度の調整など生活に必要な全てを電力に依存していた地下都市は、地上からの電源供給を絶たれ、次々にその機能を失い滅びてゆく。
京都市の地下に建造されたこの第二京都市は、人類最後の居住地だった。
人類はただ絶滅を待つだけの種と成り下がってしまった。誰もがそう信じて疑わなかった。人々は希望を失い、働く意欲も遊ぶ意欲も失いかけていた。
市長との約束の日の二日前。
遥はこんなときでも当たり前のように高校に通っていた。私は明日までの短い命。そのことは学校にいるときはなるべく考えないようにした。友人たちと過ごす楽しい時間を最後まで大切にしたかったからだ。
市長に約束した通り、例の事は誰にも喋っていない。
遥は親友の佐々木涼子と一緒に下校し、帰り道を歩いていた。行きも帰りも、道は暗闇。50メートル上の天井を見上げても、目に入るのは目印程度に点在する青白い明かりだけである。
「遥、最近なんか元気がないね。」
「うん」
「悩み事でしょう。それもずいぶんと深刻な悩みね。悩みって言うより諦めって感じ」
涼子の言う通り遥は今朝までは悩んでいた。自分はどう死んで行くべきか、死ぬ前に何を成すべきかということに。悩みはやがて諦めに変わった。何もすることはない。誰にも迷惑をかけぬよう、ただ静かに死んでゆけばよい。それが彼女なりの結論だった。
「どうしてそこまでわかっちゃうの?」
「そりゃあもちろん愛と友情のパワーよ」
「何バカな事言ってるの」遥は苦笑したが、すぐに寂しそうな表情に変わった。「でも、誰にも喋っちゃいけないんだ」
「どうして? お互い隠し事はしないって、ずっと前に約束したじゃない」
遥は正直、迷っていた。あれ以来孝一とはほとんど口を利いていない。一人で孤独に悩むのはさすがに辛かった。
「じゃあ、例え話にして、涼子にだけこっそり教えてあげる」
「何でもいいから早く教えて」
「昔々、人類がまだ地上でそこそこ平和に暮らしていた頃、突然宇宙人が1000万機のUFOで地球を侵略しにやってきたの。宇宙人の科学力は地球より5000年分ぐらい進んでいて、地球はあっという間に滅亡のピンチを迎えたのよね。その頃、有名な科学者が宇宙人の言語を解明して、彼らと喋ることのできる翻訳機を発明したの。早速それを使って宇宙人と交渉してみると、一つだけ要求をのんでくれれば地球侵略を止めてもいいと、彼らは言ったのよ。その要求は、地球上で最も美しい女性を我々によこせ、だったの」
幼稚な漫画みたいな話だが、遥があまりに真剣に語るので、涼子は思わず聞き入ってしまった。
「ふうん。その女性って誰だったの」
「もちろん私」
「今日の遙、絶対変だよ。悪いものでも食べたんじゃない?」
「だから例え話だって言ってるしょう」
「でも、それにしちゃ大げさな話ね」
「だから明日突然私がいなくなっても、私のこと忘れないでね。きっと私、宇宙人のおもちゃにされて、殺されちゃうから」
遥の瞳には涙が浮かんでいた。
「ちょ……ちょっと! 本気で言ってるの!」
涼子はうろたえる。
「さようなら。私の大好きな涼子ちゃん」
遥は駆け足でその場を去っていった。これ以上涼子といると、どんどん悲しくなって、大声で泣いてしまいそうだった。
あれから三日後の朝。孝一は公園のベンチに腰を下ろしたまま、ずっと一人で考えごとに時を費やしていた。
公園といってもベンチが一つと二つ並んだシーソーがあるだけで、あまりそれらしいものではない。暗闇の公園を利用する人はほとんどいない。
ここは厚さ二メートルの合金に覆われた、朝も昼も夜もない世界。
人類は青い空を眺めることも、太陽の光を浴びることもできなくなってしまた。
俺はいったい何をすればいいのか? こんな時に、兄として大切な妹に何もしてやれないのがもどかしく、悔しかった。三日三晩考えを巡らし続けても答えは出なかった。
考一にとっては長い長い三日間だった。
「二人でどこか遠くへ逃げよう」
帰宅するなりいきなり、孝一は遙の手を握り言った。散々考えた挙句、こんなことしか思いつかない自分が腹立たしかった。
「だめよ。私が逃げたらきっと代わりに誰かが犠牲になるもの。ほかの誰かを自分の代わりに犠牲にしてまで生きるなんて、死ぬよりつらいことだわ。それに、こんな狭い世界でいったいどこに逃げようって言うの?」
「でも、やっぱりこんなことは間違ってるよ。本当に……お前はそれでいいのか? 何も知らない俺以外の奴らは、お前に感謝なんかしないんだぞ」
「いいのよ。私の大切な人たちがこれからも生きて、私の代わりに幸せをつかむことができるのなら、それでいいの。」
遥のぎこちない笑顔の奥に、哀しみが垣間見えた。
「遥、悲しい時は泣いていいんだぞ」
「嫌。私が泣いたら、見ている人はもっと悲しくなるから」
「馬鹿野郎!俺に遠慮なんかするな!兄妹なんだから」
孝一は意地っ張りな妹を叱り付けるように大声をあげた。
遥は孝一の胸に飛び込み、彼の衣服を濡らした。大声で泣いた。
「言っとくけど、お兄ちゃんが私のこと泣かしたんだからね。あんなに大声で叱るから……」
遥は小さな声で呟いた。
孝一はため息をついた。どこまで意地っ張りなんだろう、こいつ。
市長がこの前と同じ連れの二人と共に遙を迎えにやってきた。
幸一も同行し四人で待ち合わせの場所に向かう。
かなり古い五階建てのビルの最上階の一室に入ると、そこで白衣を着た10人の男達が待っていた。
「お前ら、どうしてそんなに若い女ばかり欲しがるんだ! いったい何をする気なんだよ、俺の妹に!」
部屋に入るなり、幸一は叫び、彼ら全員の顔を交互に睨む。
「失礼極まりない態度だな。誰のおかげで、今まで生きてこられたと思っているんだ? 悔しければ我々に頼ることなく生きる手段でも見つけたらどうだ?」
彼らの中で真ん中の方にいた、40代くらいの黒縁眼鏡をかけた男が嫌味ったらしく言った。
「この悪党め」
幸一は震える拳を振り上げ、彼らに殴りかかる。だが、彼らのうちの若い二人に簡単に取り押さえられる。
「我々に牙を剥いたのはお前が初めてだ。よかろう。お前には特別に見せてやろう。5年間この第二京都市を支えてきたものの正体を、そして死んでいった娘たちの運命を……」
黒縁眼鏡はそう言いながら、なぜか哀しみに満ちた目をしていた。
彼は闇科学結社の代表者で鬼塚と名乗った。
孝一と遙は鬼塚たちに、彼らの研究施設へ案内された。
施設内は病院のようなつくりになっていて、あちこちから薬品の臭いが漂ってくる。
通された部屋の中央にはやや大きめのベッドがあり、遥と同じ年頃の少女が横たわっていた。その周りにはベッドを囲むように、幸一が見たこともない機械がずらりと並んでいた
硬く瞳を閉じた少女にかぶせられた薄く白い布団の中から、何本もの細く透明な管が伸びており、その中を黄色や透明の液体が流れていた。それらは壁際に設置されている何台もの機械につながっていた。
孝一、遥、鬼塚、それに彼のボディーガード二人がベッドを囲んだ。
「まさか、この女の子の身体を利用して、発電を……」
人体を利用した発電を研究している者たちがいるという噂を、孝一は昔古い友人から聞いたことがあるのを思い出していた。
「その通りだ。しっかりと目に焼き付けておくがいい。これが人類生存のための最終手段の、哀れな犠牲者の姿だ」
鬼塚は少女の布団をそっと剥いだ。白いTシャツとやや短めのスカートを身につけた少女の身体はほとんど白に近いピンク色をしている。彼女の腕や太股や体中のあちこちに、直径一センチほどの管が埋め込まれている。
遥は思わずその痛々しい姿に顔をそむけ、手で口元を覆った。
「この娘は今、脳死状態にある。このまま人体発電装置を動かし続けられるのは持ってあと一日だ。この装置は若々しい女性の身体でなければまともに動かすことはできん。女性ホルモンや血液などの体内の分泌物を、少しずつ消費しながら生体化学発電機を回している。そしてこの装置の開発チームのリーダーはこの私だ」
「私たち、今まで何も知らないで生きてきたのね」
遥が呟く。
「なあ、あんたはいったいどんな気持ちでこんな残酷なものを創っていたんだ」
「さあな。あの頃は夢中でそんなこと考えもしなかった。今にして思えば、あれは天才科学者としての意地だったのかもしれん。人類が滅びてゆく様を何もせず見ているのが悔しかったのだよ。こんな時に科学者が何もできなくてどうするんだ、という思いがあった」
「俺は遥を助けたいと思っても、結局何もすることはできなかった。それに比べてあんたはすごいよ。ただの悪人じゃなかったんだな」孝一は心からそう思っていた。
「この娘は私の一人娘だ。実に5年半ぶりの再会だった。私は家族を捨ててこの研究所に移り住み、研究に没頭していたのでね。こんなろくでもない父親との再会を、娘は喜んでくれたよ。本当に優しい娘だった。まさか自分の発明品で自分の娘の命を奪うことになるとは、皮肉なものだな。神は私に最も残酷な天罰を与えてくれた」
鬼塚の黒縁眼鏡の下から涙の粒が零れ落ちた。
遥もつられるように泣いていた。
「一つだけ教えてくれないか。なぜあんたらはあんな脅しみたいなやり方をするんだ? 正直にこのことを話せば政治家達は協力してくれるはずだ」
孝一はずっと胸に引っかかっていた疑問をぶつけた。
「我々の行いは悪だ。誰がなんと言おうとこれは悪なのだ。他人の命を踏みにじってまで生きようとする行いは、人間として最低の行為だ。だから、どうせなら潔く悪党になりきってやろうと思っただけのこと。そして、生け贄という手段を用い、数多くの恨みを買い史上最悪の悪魔の集団として生きる道を選んだのだ」
横たわる少女の小さく弱々しい命の灯が、消えかかろうとしている。
孝一は少女の頬の薄いピンク色がさっきまでよりほんの少し薄くなったような気がした。
ただ死を待つだけの身体は静かに、かすかな鼓動だけを響かせていた。
弟はある夜、私のベットの側に立って今にも泣き崩れそうな声でこう呟いた。
「お姉ちゃん、ママが泣いてる…」
私は目をそっと隣の部屋に移すと、明りのついた隣の部屋でお母さんは苦しそうに蹲っている。
「…そっか、うん。でももう遅いから、寝よ?」
「でも、怖いよ。パパがママを殴る音がするから」
「…手を繋ごう。沙希が眠れるまでずっとそばにいるからさ」
弟の沙希は小学三年生。私は、中学二年生。私の願いとしては、昔のようにお父さんとお母さんが仲良くなって欲しい。それは、毎日お母さんがお父さんに殴られている姿を沙希には見せたくないし、お母さんにもこれ以上傷ついて欲しくないから。
…最初はあの優しかったお父さんがお母さんを殴っているなんて信じられなかったけど。
「おはよう。ママ」
沙希が目覚めるのは私より早い。その為、いつも私は沙希に起こされる。
「おはよう、沙希。今日はお弁当が必要?」
「うん」
沙希は、大きく首を縦に振るとまず顔を洗って歯磨きをしてそれから服に着替えて。私よりもずっと大人。でもね沙希はお母さんっ子で甘えん坊なんだ。
「沙希、お願いだけど優希を起こしてくれないかな?」
「うん、いいよ。ママ」
私は、沙希に起こしてもらうまではまったく起きられない。まったく我ながら恥ずかしい。
「お姉ちゃん、もう朝だよ!」
と沙希が言うと私は目を擦りながら沙希を見た。
「おはよう、相変わらずはやいよね。沙希はえらいね」
「もう、お姉ちゃん早く行かないと遅刻しちゃうよ」
「はいはい」
私は、ベットから下りて制服に着替えた。その後洗顔して、お母さんのいる台所に入った。お母さんの腕には痣が少し痛々しかった。
「お母さん、おはよう…」
「優希、おはよう。紅茶が良い?それとも珈琲が良い?」
お母さんがいれる、紅茶も珈琲も私は好きだ。けれど、今は紅茶を飲む気になれなかったので珈琲をいれてもらう事にした。
トーストを口に含み、温かい珈琲。あっそうだ、お母さんに頼んで牛乳を足してもらってカフェオレにしてもらったんだった。美味しいんだこれが珈琲と牛乳のベストマッチと+α少しの蜂蜜。お母さんはお父さんと結婚する前は、喫茶店していたと言う事で美味し過ぎるこの味に納得している。
これが、我が家で一番幸せな朝の風景。
「…ママ、いっいってきます」
沙希は逃げるように、玄関で靴を履こうとしている。そこへ今、起きてきたばかりのお父さんが沙希に話しかけた。
「沙希、お父さんには挨拶してくれないのかい?」
お父さんは、微笑した。沙希は、今のお父さんが余り好きではない。答えは簡単…今日もあったお母さんの腕の痣。あれはそう、昨日お父さんが蹴ったり物を投げつけた結果のものだ。
「パパ…、行ってきます」
沙希の声は、少し声が低くなっていた。沙希は、お父さんがお母さんを殴る姿が一番嫌いだから、お父さんがギリギリに起きる時間になると丁度決まって学校に行くようにしている。それはお父さんに挨拶すると同時に、お父さんにお願いしているのだ。
「パパ、ママを殴らないで…」
悲痛のお願いは毎日お父さんの手によって破られる。
私も、ずっと良い子にしてた。パパとママにずっと仲良くしてもらいたかったの。そう、みんな嘘でいて欲しかったんだ。
「お父さん、行ってきます」
にっこり笑って、靴を履いて玄関から駆け出した。そして次の瞬間お父さんはお母さんの顔をぶったり折角作ったお母さんの料理をゴミ箱に捨てたりするんだろうと思うと私は耳を塞がずにはいられなかった。
「沙希!」
「…お姉ちゃん」
「ほら!泣かないの。ママがもっと悲しんじゃうから。ほら!笑って男の子でしょ?」
沙希は私がそう言うと毎日笑って学校に行くのだ。
『ママがもっと悲しんじゃうから』
これが、私達のおまじない。どうかどうか神様。
強く握り締めた手を曲がり角で、未練がましくゆっくり離した。
――初めてお母さんがお父さんに殴られている姿を目にした時、お父さんが怖くて仕方がなかった。そんな事よりもずっと何にも知らなくってごめんね。ずっとつらかったんでしょう?ずっと私達の前では笑っていたかったんでしょう?でも、泣いても良いんだよ。だって私達はお母さんの子供だよ?
私は毎日、神様に願うの。
――お父さんがお母さんを、お母さんがお父さんを許して上げられますように。
「ただいま」
午前中に学校が終わった私は残暑の日差しを浴びてから沙希より先に家に帰っていた。
私は、玄関に靴をきちんと揃えて、リビングの扉をゆっくり開けた。そこには普通夜に帰るお父さんがいてお母さんと真剣な話をしていた。
「優希?」
お母さんは私を見た。くたびれた私の目には母の涙が見えた。
「お母さん?」
私は、少し戸惑うようにお母さん達が座るここしばらく家族全員が揃って座ってない椅子にゆっくり腰掛けた。
頃を見計らって、お母さんは重い口を開く。
「今ね、お父さんと離婚の話をしていたの…」
お母さんに似合わない、涙を飲んだ震えた声で。私は震える手をそっと隠した。
「よさないか、子供の前で…」
お父さんはいつもそうだった。そうやっていつも責任ばっかりお母さんに押し付けて重要な事は絶対自分から話さない。そしてお母さんが話したとしても、お母さんをまるで常識が無い様に扱う。ホントはね、最初からそんな風じゃなかったんだ。もちろん大好きだったよ、お父さんも。
お父さんは、毎日沙希がお願いしているもう一つの言葉に気づいてなかったの。もちろん大好きなお母さんさえも。
「ただいま、ママ!今日ね、テストが帰ってきたんだ!」
沙希の声が玄関の方で聞こえる。私は急いで玄関の方に走った。
「優希!まだ、話が終わってないじゃないか!」
と父は、大きな声で怒鳴った。私は、もはやそんな事聞く気にはなれなかった。
「リコンの話なんか聞きたくない!」
私は、そう言い捨てた。玄関にいた、沙希の手を強く握って走り去った。
…沙希がいつもお願いしいること。
『――パパ、ママをずっと守ってあげてね』
それを踏みちぎった、お父さんが憎い…お母さんが憎い…?…分からないんだ本当は。嫌いなんかじゃないし、憎いなんてとんでもない。
好きだよ、ほら昔のように四人で海に行きたいんだ。
ささやかな私と沙希の夢。考え直してくれると言う事を信じて私は沙希を連れ去ったのだ。
沙希は訳も分からなかっただろう。けれど私の強い思いが通じてか、駅に着く頃にはしっかり私の手を握っていた。
捕まるのを恐れて、私は沙希を連れていま到着したばかりの電車に乗った。どこへ行くかも決めないで。持ち金は、財布を持っていたのが幸いだった。
ちょっとした家出のつもりだったのだ。
二人に考え直して欲しかったのだ一番傷つくのは結局お父さんとお母さんと言う事を。――ただ私達はバラバラになりたくなかった。
終点の駅に着くと、そこは見なれた風景だった。家とはかなり離れている場所で、ああそうだ分かった、ここは最初に家族四人で来た思い出の場所だった。
お母さんはここで、お父さんと出会い、恋をしたという。もうすぐ秋だ。
いやしかし少し涼しくなったと言えどまだ少し暑い夏の終わり。海にいるのは家族連れが見える。
電車賃で、財布のほとんどのお金を使ってしまった私は、まだ昼ご飯を食べていない事に気づく。残高は、六二〇円ぐらい。ラーメンが一杯食べられるぐらいか。
私は、沙希と一緒にラーメン屋さんに入った。
「醤油ラーメンを一つ」
私の声は、いつになく震えていた、けれどもし一人だったなら、すでに泣き崩れてどうする事も出来なかっただろう。いま私がここで立っていられるのは沙希がいるからなのだ。
ラーメンが来て、それを沙希に渡す。沙希は、心配そうな顔をして私を見上げた。
「お姉ちゃんの分は?」
と、沙希は尋ねた。私は、確かにお腹がすいていて、そっとお腹をさすったのだが沙希に心配をかけたくなかったし沙希にはお腹一杯食べてもらう為に、――誘拐犯は嘘をついた。
「お姉ちゃん、お腹一杯だから。沙希が食べなよ。美味しそうなラーメンが冷めちゃうから、早く食べな」
「でも・・、お姉ちゃん」
と沙希が聞き返してくる。それでも、私は『一緒に食べよう』という沙希のお願いには乗らなかった。
「ほら、食べなよ。お姉ちゃん、醤油味嫌いだから・・」
沙希は、じっと私のほうを見てからやっと納得したのか深々と手を合わしてからラーメンを食べ始めた。スープも、全て残さずにきれいさっぱり。これが、沙希に出来る私へのありがとうという気持ちなんだろう。
ほら、沙希が笑うとね家族がバラバラになって欲しくないと感じるんだ。沙希は、本当はずっと昔からお父さんっ子だったから、週末のキャッチボールがとても楽しみでいつもグローブを抱いて寝ていた。まるで、昔私が大事にしていたぬいぐるみを抱くかのように。
ほら、沙希が泣くとね家族がバラバラになって欲しくないってより一層思うんだ。
私はまだ、子供だからお父さんがどうしてお母さんを殴るようになったのかは分からない。
だけど、お父さんがお母さんを傷つけたとしても私のお父さんであるには変わりないし、大好きだったお父さんには変わりない。でも、バラバラになるのだけは嫌だった。でも、お母さんが傷つけられるのは嫌だった。
お父さんとお母さんは今何の話しをしているのかな?
私はそんな事を考えずにはいられなかった。
沙希がご飯を食べ終わってから私達は浜辺まで歩いて帰った。さっきまで、海にいた家族連れの観光客はいなかった。浜辺には、地元の人か観光客かがちらりと見えるだけだった。
夏の終わりの風が沙希の頬を吹き抜けると、沙希は堪らなくなって裸足になって浜辺を走った。そういえば、夏休みどこにも行かなかったっけ。
なんて思いながら私も裸足になって沙希を追いかけた。
本当はあの浜辺にお父さんとお母さんが座っていて笑ってるはずだったのに、今は二人っきりなんだよね。迎えに来てくれるはずだよね?そんな事を心の中でそっと考えながら、沙希に思いっきり夏にしては冷たい海の水をかけた。
それから沙希から仕返しを受けて私がやり返して、そのあとどっと笑いが溢れた。私達は最後の夏休みを存分に楽しんだ。
ねえ…帰ったら本当にバラバラになっちゃうのかな?
海から上がって、冷たい肌を暑い太陽で焦がす。その間ずっと手を繋いで、遊び疲れたのか沙希は眠ってしまった。
そういえば、まったく待った無しで駆けずりまわしたから、疲れて寝てしまうのは当然か。他に用事もないんだ本当は、…沙希、ごめんね。疲れちゃったでしょう?何にも話してなかった。聞かれたくなかったんだ、でもね沙希は聞く権利あるんだよね。
――家族なんだから。
「沙希…、眠ってるならそのままでいいよ」
夕方の冷たい風が、私の頬を刺すように通り過ぎた。強く握った右手は絶対はなそうとはしない。私は、ゆっくりと深呼吸をした。
ぼんやりと目の前に通り過ぎる漁船を見て、頬に冷たいものが流れるのが分かった。
「パパとママね、離婚しちゃうんだ。リコンっていうのはねバラバラになるって事なんだよ。お姉ちゃんはねそれが嫌だったの。だからね、沙希をこんな所まで連れまわしたりしたの。…ごめんね。ごめんね、沙希」
夕陽が私達を照らそうとしている、真っ赤な太陽が地球がまわる度に空に引っ付いてる。
大好きだよ、お母さん…お父さん。
もちろん、沙希もだよ。だから四人でもう一度やり直そうよ。
夕陽が沈んで、辺りが真っ暗になって私は沙希をおんぶして公衆電話の前に立った。こんな捕まり方は嫌だったけど。電車で帰れるほどのお金もない。それに夜になれば冷えてくる。沙希には風邪をひいて欲しくないから。
これ以上、私の我侭に付き合う必要なんてないんだから。
私は、財布から十円玉を取り出して未練がましくゆっくりといれようとする。
「優希!」
遠くから、声が聞こえた。その声は紛れもないお母さんの声だった。
――気づいてくれたの?
と私は驚きを隠せなくて、十円玉をチャリンっと落としてしまう。嬉しくて私は、涙を現してしまう。
「お母さん・・?」
薄暗い電灯一つの海の道で。
「優希、よかった。」
「お母さん!!」
私は、張り詰めていた緊張が一気に解けてお母さんの胸の中で泣き出してしまった。沙希もずっと前から起きていたのか、私の泣き声に気づいて一緒に泣き出してしまう。
『ママがもっと悲しんじゃうから』
私達のおまじない。ずっと守ってきたつもりだった。泣かないよ、お母さんが困っちゃうから。でもね、ほらやっぱり私は、沙希よりも子供なんだって思ってしまう。
帰り、私はお母さんと久しぶりに手を繋ぐ。電車の中でもずっと沙希は疲れてぐっすり眠っていた。
「――そういえば、お父さんは?」
と、私がお母さんに聞くとお母さんはうつむいた。まるで聞かないでくれと言わんばかりに。それでも、私はお母さんの瞳から目を離さなかった。
「お父さんは、家を出て行ったわ」
とお母さんは静かに呟いた。
大好きだったお父さん。まさか私達を置いて出て行くなんて。でも心のどこかで少し予想してた私がいる。
それよりも、お父さんが大好きな沙希にとっては酷くつらいものだと思う。
「本当に?」
私は未練がましく何度も聞きかえしてみたが答えは同じだった。
最初、お父さんがお母さんを殴っている様子を見た時私は、お父さんがこの家をいずれ出て行きそうだったので怖かったのだ。
半日ぶりに帰った、テーブルの上には離婚届が置いてあって一瞬破り捨てたい衝動に刈られた。
けれど、結局相手の気持ちを自分で操作する事は出来なくて次の日、私と沙希の苗字は父の苗字から母の苗字に変わった。沙希には、話すのがつらかった…、それでも沙希は涙を流さずに最後まで聞いてくれた。
お母さんの話しを最後までずっと聞いているとき、私達は絶対に手を離したりしなかった。
固く結んだ手は、また曲がり角で未練がましくゆっくり離す。
冷たい秋の最初の朝が来た。
「お姉ちゃん、おはよう」
沙希は、いつもの通りに笑って起こしに来てくれる。
「優希、今日は珈琲が良い?それとも・・紅茶が良い?」
お母さんは、普段通り笑いながら注文を聞いてくる。私は、にっこり笑って。
「じゃあ、紅茶をもらおうかな」
お母さんの紅茶の入れ方は繊細でいつも私の好きなレモンティーにしてくれる。ほろ苦い紅茶に甘い蜂蜜が溶けるとき、お父さんがいつでも帰ってこられますようにと私は祈った。
沙希の紅茶にミルクが溶けるとき、我が家で一番幸せな朝の風景が寂しさに彩られた。でも、寂しさもいつかはこの秋の風と共に風化していく。私は夏の終わりを感じそして秋の始まりを心の中でそっと感じた。
新入生歓迎コンパで飲みすぎた僕は、ひとりで店から外に飛び出したらしい。心配そうなみんなの顔が目の前でちらついて、くるくるまわっている。
夜の繁華街を行き交う人々にぶつかりながら、僕は目的もなく歩き続けた。なにしろ下宿に帰るにはまだ早すぎる時間だったし、吐くのなら路上にいるほうが手っ取り早い。
そうこうしているうちに、いつの間にか意識が薄れた。どこをどう歩いてきたのか、ひんやりした空気に吃驚して目を開けると、固い木のベンチの上で転がっていた。あたりは真っ暗闇で人の気配がまったくない。どうやら並木に囲まれた小さな公園のようだった。
すぐ起き上がろうとしたが、体が全然言う事をきかない。酒がまだ抜けていないらしく、頭ががんがんしている。
そのままふてくされたように寝転んでぼんやりしていると、突然不思議な人影が視界の外から現れた。頭上に一つしかない街灯が、まるで全世界を照らしているようにその人物の周囲を浮かび上がらせている。僕は何気なく、薄目を開けてそれを観察した。
驚くほど小さい猫背男である。引きずるような長いコートを着て、夏の夜だというのに、大きなマフラーで顔を覆っていた。
男はきょろきょろとあたりを見回すと、突然足元のマンホールの蓋を開いた。それから、コートの中からおもむろに何やら取り出して、穴の中に放り投げ始めたのである。それがどうやら人間のバラバラの手足のようなのだ。穴の中からそれを受け取る手がのぞいている。
まさかと思いながらも、あまりの出来事に、僕はあやうく悲鳴を上げそうになった。気づかれるとやばいかも知れない。ぐっとこらえたはずが、思わず体が動いた。
「誰だ!」
振り返った男と目と目が合った。と、同時に男の口元を隠していたマフラーがはらりと落ちた。なんと男の顔はネズミ、いやモグラだった。人ではない異形のものである。
僕は今度こそ、腹の底から恐怖のうめき声が出るのを止めることができなかった。その瞬間、男のコートの裏からぼたぼたと地面に落ちたのは、間違いなく人間の手や足である。
「見たな」
「わわわ……」
僕はベンチから弾けるように飛び起きた。モグラ男が猛烈な勢いで、こちらに向かって走り出して来たからだ。
ところが、慌てて足をベンチに引っ掛けた。ひどく気が動転していたこととアルコールのせいだ。僕は無様に転倒し、地面に顔面から突っ込んだ。多量の砂を噛んだが、恐怖で渇いた口の中ではすぐに吐き出すのもままならない。
あっという間に片手をつかまれて、僕は強引に上半身を引っ張り起こされた。
このまま、食われるかもしれない!本能的にそう思った。
が、そこにいたのはモグラ男ではなく、背広を着たサラリーマン風の紳士だった。
「大丈夫か」
紳士は、厳しい口調で尋ねた。年は四十半ばぐらいだろうか、几帳面な七三分けの頭で、表情は穏やかだが目つきに異様な迫力があった。
「君は見たんだね」
なんと答えていいのかわからなかった。ただ、この男は敵ではないようである。
「どこへいったんですか、あいつは…」
「穴の中へ逃げていったよ。もう一度聞くが、君にはあの男が見えたのかね」
黙っていると、男はさらに続けた。
人間の目は、対象のごく一部からすばやくその全体像を組み立てる事が出来るかと思うと、実際に見えているにもかかわらず、見えない、と勘違いしてしまう事もある。奴らはいつも人間のそういう盲点をついて暗躍しているのだ。まあ、そのベンチに腰掛けたまえ。詳しく話をすることにしよう」
話が飛躍しすぎて、最初、僕には何の事なのかさっぱり理解できなかった。それよりも、先ほどの情景が心の中に蘇ってきて、瞬時も穏やかではいられないのだ。
が、男は頓着ないようである。
「心理学の実験でよく使われる『瞬間露出器』というものがある。これは絵や文字を瞬間的に見せて、どんな風に見えたかを調べるものなのだが、これを用いるとよく知っている言葉や絵ほど短時間で理解される事がわかる。例えば、『しじんゆく』とか『いけくぶくろ』というように語順が違っていても、人間にはちゃんと新宿、池袋と読めてしまうものなのだ。絵についても同様で、一般的には、多少不完全なものでも、それが猫に似ていれば猫に、ネズミに似ていればネズミにというように、おかしな部分、足りない部分をすぐに補ってしまう」
「…ということは、僕の見たものはモグラ男ではなかったと…?」
ふと、目の前の紳士が、実は先ほどの化け物なのではないかという疑念が沸き起こった。最初から何もかも騙されているのではないか?そう考えるとさらに恐怖に襲われた。
だが、男はまるで僕の気持ちを見透かしたかのように言った。
「いや、そうじゃないよ。君は、普通の人が見えているのに見えないものが確実に見えているということだ」
男は急に笑顔になった。
「少し逆説的で説明しにくいのだが…いいかい、例えば、瞬間露出器で見る対象がタブー語になると、人間というのは、よく知っているはずの単語でも理解するのに時間がかかってしまう。つまり、見る時間が他の単語の場合よりも長くないと『見えない』のだ。これは、実際には『見えている』のにもかかわらず、頭のどこかでそれがいけない言葉だという制止が働くために、見えなくさせているのだよ」
「僕ははっきり見ました。あれは確かにモグラでした」
男は、僕の表情を覗き込むように観察していたが、突如ベンチを立ち、地面にしゃがみこんだ。
「どうやら君には事の真相をしゃべってもいいようだね」
男が地面を掌で押しのけるように掘っていくと、土の中から鉄板が現れた。さらに土を押し広げると、やはりどこまでも鉄板である。
「見たまえ、いつの間にか、地面の中には鉄板が敷き詰めてられている。都内のあらゆる場所で見られる深夜の道路工事の半分以上は、理由のわからない工事だ。実は、奴らが我々の盲点をついて、密かに地面の下に細工をしていたのだ」
「何のためにこんな事を。しかも奴らって…」
「我々には、日常の中で、いくらでも『見えていない』ものがある。奴らが見えないのも、それが人間にとって、タブーの存在だからだ。奴らは地底怪人、我々人間に対する負の存在だ」
「地底怪人!」
酒が脳にきたか!
常識では到底理解できないほど、馬鹿げた会話。もし、この男がペテン師だとしても、三流以下の法螺吹きに違いないことだろう。すでに与太話の限界を超えている。
「まさか、僕をからかっているのですか」
「残念ながら、これは事実だよ。君なら理解できると信じたからこそ話したのだ。現実にこの鉄板は都内一円に敷き詰められている。あまりにも突飛で想像を越えた危機だから、誰ひとり気づかないだけだ」
「鉄板って、いったい…」
「人間を丸焼きにしてしまおうとする恐ろしい計画だ。古来より人間は奴らの食い物なんだからね。その作戦準備は今や大詰めにきている。ここで阻止しないと、大変な事になる」
「鉄板、丸焼き、人間…!」
僕は一瞬錯乱したのかも知れない。男は呆然と鉄板を見つめる僕の手を掴んで、今度は例のマンホールのところへ引っ張り寄せた。
マンホールの蓋を開けると、底の見えない暗黒の中から、ぷうんと鼻を刺激する臭いがする。明らかにガソリンの臭いだ。
「下水は今ガソリンで溢れている。奴らは、このガソリンに火をつけて、一気に地上の人々を鉄板焼きにしてしまおうと企んでいるのだ」
「いったいどこからこんなガソリンを…?」
「ガソリンスタンドの地下から少しずつくすねてきたのだろう」
…と、その時である。
マンホールの中から、突然毛むくじゃらの手がすっと伸びてきたのだ。
それが目の前の男の胸倉を掴んだかと思うと、あっという間に穴の中に引きずり込んでしまった。僕は腰を抜かして、助けを叫ぶ事も出来ない。
さらに穴の中から出てきたのは、あの地底怪人である。人間と同じ服を着て、どの顔も無個性な同じモグラの顔をしていた。それが、次から次へと這い出してきた。
「なんて悪夢だ!」
「いや、これは夢などではない」
再び男の声が穴から聞こえてきた。
次の瞬間、引きずり込まれたはずの男が疾風のように穴から飛び出し、モグラ男の群れの中に突っ込んだ。
何という跳躍力だろう。
見上げるモグラ男たちの頭上で、さらにつむじ風のように回転した。
あっと叫ぶ間もなかった。そのまま着地した男の周りに、すでに数体のモグラ男が、朽木のように転がっていた。
とび蹴りと旋風脚の複合技だった。しかし凄まじいスピードである。
男は、何事もなかったかのようにネクタイを緩めながら、ゆらりと立っている。
いったい、この男は何者なんだ。
その疑問は、すぐに、ぎぎーっという叫喚にかき消された。モグラ男たちが、四方から飛び掛っていったのである。が、一瞬にして、二体のモグラ男が軸足を刈られて仰向けになった。倒れる間際に、目にもとまらぬ掌底が一体の顎を、そしてもう片方の背刀が別の一体のこめかみを見事に砕いていた。
さらに他のモグラ男はその突き手を絡めとられ、瞬時に小手返しに返されて、受身を取る間もなく後背骨を蹴上げられた。
モグラはドサリと音を立てて転がったまま、ピクリとも動かない。たちまち泡のように解けて、小山のような黒土の塊になった。
間髪を入れずに、さらに二体のモグラ男が男に掴みかかろうとした。が、稲妻のような連続後蹴りで、鞠のように吹き飛ばされ、そのまま数体を巻き込んで束になって転がった。
男は平然と手刀を構え、猫足に腰を落としている。
拳法の達人に違いない。格闘技ファン(もちろん見るだけだ)でもある僕はそう思った。
しかし、いくら達人だとはいえ、楽観できる状況ではない。穴の中から数知れず出てくるモグラ男が、たった一人に怒涛のごとく、次々と挑みかかっているのである。その様は、まるで男自身が巨大な渦巻きの中心になったかのように見えた。モグラたちはそこに吸い込まれるように巻き込まれ、そして渦の外に弾き飛ばされた。
だが、その圧倒的な数の多さに、男の動きが徐々に封じられてきた。
「どうやらこれまでだ」
と、男は集団の蠢きの中で、叫んだ。
「逃げるんだ。走れ!」
もはや、一瞥も後を振り返る事はできない。僕は何度も足を絡ませ、地面に転び転びしながら、死に物狂いで駆けた。
捕まれば確実に殺される。しかもバラバラにされて、穴の中に投げ込まれてしまうのだ。奴らの秘密を知ってしまった僕が許されるはずはないに違いない。
本当に恐ろしい悪夢だった。
自分の悲鳴に驚いて目を覚ますと、僕は下宿のベッドの中だった。相変わらず頭が痛く、ひどい悪寒がした。体中から冷たい汗が出て、シーツをびしょびしょに濡らしている。
時間を知りたい。
そう思って、やっとの事で起き上がった時である。ドアの方からチャイムの音が聞こえてきた。僕は再び不安と恐怖に支配され、あの忌まわしい記憶が蘇ってくるのを痛みのようにきりきりと感じていた。
まさかと思いながらドアの前に立ち、覗き穴から外を見た。しかし、外は真っ暗だ。
すると、相手はどんどんと、けたたましくドアを叩いてくる。僕は泣き叫びたかった。覗き窓からはやはり暗闇しか見えない。
「だ、誰ですか」
「私だ、ここを開けたまえ」
聞き覚えのある声に思わずドアを開けると、顔と顔がくっつきそうになって仰け反った。そこに立っていたのは、あの男だ。どうやら、彼も覗き窓を覗いていたらしい。僕は否応ない現実に引き戻された。
男は僕の体を押し込むようにして、ずかずかと部屋の中に入ってきた。泥と油にまみれて濡れ雑巾のように無残な姿だった。
「君に預けた書類を返してもらおう」
「なんのことかわかりません」
「当然だ。あそこで私が持っているのはあまりにも危険だったので、承諾なしに君のポケットに突っ込んだのだからね」
ズボンの後へ手をまわすと、今まで気がつかなかったのだが、紙の束がポケットにねじ込まれていた。一見して、何を書いているのかわからない。
紳士はその束を引ったくるように取り上げた。
「これは地底怪人から盗んだ作戦書だ。今後の恐るべき計画が明らかになっている」
「ミミズが這ったような字ですね」
「ミミズ文字だ。奴らが使う文字だよ」
「しかし、どうやってあの穴から戻ってきたんですか?」
もはや、疑念はそのひとつだ。
「下水道の下には、奴らの都市アジトが重層的に存在している。下水道からそのアジトを結ぶパイプのバルブを開いて、下水道に充満したガソリンを全部アジトに流し込んだのだ。そのガソリンに火をつけて、奴らのパニックに乗じて逃げ出したというわけだ」
「な、なんということを…」
「そうでもしなければ、我々は鉄板焼きになって食われてしまうところだったんだからね」
言いながら、男は窓際に飛びつくように移動した。カーテンを開けると、なんと外はまだ暗闇である。
「見たまえ、我慢できなくなった奴らが飛び出してきた」
窓から覗くと、あちらこちらで地面がもこもこと盛り上がり、そこからモグラ男が出てくるのが見える。
「これでひとつづつ狙い撃ちするんだ。夜明けまであと数分ある。それまでの戦いだ」
男が手渡してくれたのは懐中電灯だった。
「これは光量を特別に強くした特殊兵器だ。奴らは、光に極端に弱い。なにしろ地底怪人だからね」
僕たちは懐中電灯の光の筋で、地から這い出してくるモグラ男を次々と叩いていった。モグラ男たちは、光に当たるとくちゃっと音を出して、潰れたように死んだ。残るのはやはり、黒土の塊である。
恐ろしく弱い。
しかし、その数がすごかった。いくらでも穴の中から這い出してくる。よくもこれだけの怪物が足の下に潜んでいたものだ。
僕は窓際のモグラ叩きに熱中しながら、紳士に尋ねた。
「その作戦書に書かれているさらに恐るべき計画というのは何なのですか?」
「今は聞かないほうがいいだろう。どうせ、そんな馬鹿な、と呆れるのがオチだからね」
「もうここまできて、驚くような事はありませんよ。すでに僕は都民を代表してあなたの手助けをしているんだ」
男はしばらく考え込んでいたが、意を決したように話し始めた。もちろん、その間もモグラ叩きの手は止めない。
「ガソリンの爆発で地熱を上げる事によって、奴らは恐るべき最終兵器を起動させるつもりだった。その兵器を富士山の下からマントルを通じて都内の地下に誘導しようとしていたのだ」
「な、なんですか、その最終兵器って…」
「…地震兵器、巨大ナマズだよ…」
僕は自分の耳を疑った。思わず叫び声が出た。
「そんな馬鹿な!」
今度はナマズか…。
僕の頭の中はくるくる回っている。
そろそろ夜明けだ。もぐら叩きを楽しんだら、いよいよ今度はこの男の素性を尋ねなければなるまい。
「夜に向って雪が降り積もると、悲しみがそっと胸に込み上げる.....」
聞き慣れた桑田の歌声。だが、どこかしっくり来ない。
小山宏隆36歳、カジュアルウェアー専門のデザイナー。大手のアパレルメーカーを退職し、フリーのデザイナーとして独立して8年になる。デザイナーとしての感性を維持する為、ファッションは勿論、音楽、映画、スポーツなどの流行を いち早くキャッチし、そのすべてを 自分の身体にも心にも適確にフィットさせているという自負は常にあった。しかし、数ヶ月前から、そのフィット感に不快なズレのようなものを感じている。
「年齢的なものなのだろうか?」
聞き慣れたポップ音楽の殆どが、 妙に耳に障るのだ。ヤイコ、グレイ、ミスチル、宇多田、ミーシャ、倉木、ゆず、....、これら新しい音楽を決して拒絶している訳ではない。寧ろ仕事場では、FMラジオから流れるこれらの曲が 無くてはならないBGMになっている。しかし、何度聞いても、聞けば聞くほど、不快なズレを感じ、長年 聞き慣れたサザンやユーミンの歌声さえも、すんなり馴染まなくなっている。
「仕事が上手く行かないせいだろうか?」
数年前までは、小山のデザインは 大いに売れていた。しかし ユニクロなど量販店の安価な衣料品の流通が定着してしまった昨今、自社でデザインを起して独自の製品を作り上げるというコスト高の衣料品は圧倒的に駆逐されている。加えて、「そごう」や「マイカル」など相次ぐ大型店舗の倒産で 本来の流通ルートを失った大量の衣料品や日用品が バッタ物として巷に溢れ、その価格崩壊に一層拍車を掛けている。その為、小山のような一匹狼のデザイナーの需要は著しく減ってきている。
9月のある日、小山は 顧客の企画会社での打ち合せを終え、家路に着いていた。来年の春夏紳士用ジャケットのデザインを何点も持ち込んだのだが、どれも採用されなかった。
「売れるか売れないか分からないデザインに、高い金を払える時代じゃないんだよなぁ。」
長年付き合っている営業担当に露骨に否定されてしまい、小山は 怒りや敗北感というよりも、例えようのない寂しさを感じていた。どのアパレルメーカーも、高いデザイン料を払った目新しい企画でバクチを打つ事をひかえ、既製の売れ筋デザインに少し手を加えた程度の大過ない商品を 細々とでも確実に売ることを考える時代なのだ。
「この調子じゃ、いずれ俺も商売替えだなぁ。」
市場の状況がどうなろうと 自分の感性で生み出したデザインなら必ず売れると信じてやってきた小山だが、その自信の感性に翳りを見てしまい、自分の将来に少なからず不安を感じている。
肩を落として帰る道すがら、1枚470円のトレーナーや 2枚で390円のティーシャツなど明らかにそれと分かるバッタ物がドラッグストアーの店先にぶら下がっているのが目にとまる。中には 小山のデザインをコピーしたものもいくつかある。
「これじゃ、俺のデザインに金払うヤツはいないわな。」
小山は 足を止め そのドラッグストアーを見やる。 1枚350円のCDが 店先のワゴンに山と積まれているのが目にとまる。傍らに置いてあるプレーヤーから流れる山口百恵の唄声。
「ありがとうの言葉を抱きしめながら生きてみます、私なりに......」
その心地よさに、はっとする。
「百恵ちゃん...か、なんだろう、この感じ。」
小山は かぶりを振って、先を急ぐ。同じ通りにあるコンビニ前まで来ると、店内から坂本九の唄声が聞えて来る。
「明日があるさ 明日がある。若い僕には夢がある.....」
思わず立ち止まる。
「どうしちまったんだ、こんな古い唄が 何でこんなにすんなり入ってくるんだろう。」
その晩 小山は 友人の野口を 馴染みの酒場に呼び出した。野口は 地元モード学園の同期生で、今は 婦人下着の専門メーカーで型紙を描くパターンナーをしている。しかし コンピューターグラフィックの発達で 今では素人でも簡単に型紙作りができ、野口にもリストラの風が迫ってきているようだ。
時間が早いせいか、客は まだ小山達2人だけだ。10年以上通っているこの店のマスターも気さくに小山たちの話に付き合っているが、景気のいい話は無く、2人の口からは、愚痴が出るばかりだ。
「どうしたんだよ、2人とも。普段は自信のカタマリでしゃべってるのに、今夜はボヤキばっかじゃん。」
「ボヤキしか出ねぇよ、マスター。これじゃ 俺も じきにプーだ。野口は会社にしがみつくてりゃ、なんとか食って行けるだろうけど。俺なんかホント何にも無いもんな。」
「俺だって同じさ。会社なんて冷たいもんよ。すぐに俺もこれよ、これ。」
野口が右手で自分の左肩を叩く。
「ところでさぁ野口、今日 ナニゲに聴いた山口百恵と坂本九の唄が、何て言うか、すーっと 耳に入って来てさぁ、ホントすーって感じで。トゲトゲしてなくって、最近の音楽には無い心地良さっていうのかなぁ。すごく いい感じだったんだけど、お前、そういうの感じたことないか?」
「なんだよ 唐突に。百恵ちゃんと九ちゃんって、また変わったデュエットだな。」
「ばーか、ソロに決まってるだろ。別々に聴いたんだよ。」
「あっ、そうか、そうだよな。でも お前、百恵ちゃんとか趣味だったっけ?」
「そうじゃないけど、今日 偶然 聴いたのがさ、何だか すごくいい感じでさ。」
「歌は流れるあなたの胸に、懐かしのメロデー!ってか。お前、そんな歳でもないだろう。」
「懐かしいって感じじゃないんだ。何て言うか、古いのに新鮮っていうか。」
「うーん、確かに そういうのって、あるよな。坂本九なんかは、コーヒーのCMだっけ、リバイバルで結構 流行ってるし。他にもリメイクでいろんな曲 出てるよな。ヒッキーに“夢は夜開く”なんてのリバイバルで歌わせたらヒットしたりしてな、ハハハハッ。」
自分のギャグに ばか笑いしている野口を見て、この話を持ち出したことを 小山は少し後悔した。別の話題を探そうとするが すぐには思い浮かばず、無言のまま バーボンのグラスを揺らす。
「それは きっと鼻濁音過敏の症状ですよ、小山さん。」
いつのまに店に入ってきたのか、見知らぬ男が 小山の傍らに立って声をかけてきた。
「はぁ?」
小山は その男の方を見る。
「突然、失礼。私は 竹本といいます。」
その男は、スーツの胸ポケットから名刺を取り出し小山の前のカウンターに差し出した。
「はぁ、竹本...さん。厚生省 環境調査所 S&Vチームリーダー?」
小山は 名刺の文字を声に出して読んだ。野口も黙って その男を見ている。
「ご存知無いでしょうね。S&Vとは サウンド&ヴィジュアル、つまり現代社会の視覚と聴覚が日本人に与える影響を調査している者です。」
適当に話を合わせるだけのつもりで言葉を返したが、竹本と名乗る男は 淡々と語りかけてくる。
「はぁ、始めて聞きました。具体的には 何をされているんですか。」
「テレビ、ラジオ、雑誌、コンピューターなどの現代社会の様々な映像や音響は 気が付かない内に現代人をどんどん虫食んでいます。知能も精神も、また肉体も。私たちはその症状や原因を調べて 今後の医療や教育政策に取り入れる為の研究している、と言った所です、小山さん。」
「はぁ、ところでで、なんで俺の名前を知っているんですか?」
「あなたは 優秀なデザイナーでいらっしゃる。」
「ふー、で、俺に何かご用で? 濁音なんとかって、俺のことなんですか。」
「はい、鼻濁音過敏。ガ行、つまり ガギグゲゴが適切に使われないと、聞く者の聴覚神経に悪影響を及ぼすんです。普通の人には あまり意識されませんが、デザイナーとしての優れた感性をお持ちの小山さんは かなり強く感じていらっしゃるようで。」
「どういうことですか、俺、さっぱり分かりませんが。」
「私どもは、ずっと以前からあなたの事を調査しておりました。今までの結果だけ見ても、 あなたの優れた感性は かなり鼻濁音過敏に冒されている。詳しく検査する為 これから私どもの研究所にご案内いたします。」
突然 店の出入り口の扉が勢いよく開き、黒いスーツに身を包んだ3人の男が入って来た。無駄のない身のこなしが戦闘のプロのようだ。その内の1人が素早く野口に近寄り、躊躇無く 首筋に何かを押し付けた。途端に野口は 気を失った。スタンガンだろうか。店のマスターは、事情を知っているのか 黙って様子を見ている。
「えっ、どういうことだ!お、おい野口、どうした! 俺達が何をしたって言うんだ。」
ぐったりとカウンターに突っ伏した野口をかばおうと立ち上がったが、小山も 首筋に何か冷たいものを感じた途端、意識を失ってしまった。
「気が付きましたか、小山さん。」
小山が目を開けようとするが、強い光に目が眩む。
「あぁー、眩しい、ここは、どこなんだ?」
小山の意識が 少しづつ覚醒していく。
「俺、バーで、そうだ、野口は。うっ、つぅー、痛い。」
頭を左右に動かすと首筋からこめかみにかけて強い痛みが走る。狭い病室のようだが窓はない。小山以外には 誰もいないようだ。脳波でも調べているのだろうか、頭の数箇所に電極のようなものが取り付けてある。
「落ち着いて下さい、小山さん。」
男の声が天井のスピーカーから聞える。バーで 竹本と名乗った男の声のようだ。
「だっ、誰だ? ここはどこなんだ!俺をどうしようってんだ!」
小山が力まかせに起き上がろうとするが 手足が ベットに縛り付けられていて自由が効かない。
「うぅー、いたっ。」
また首筋に痛みが走る。
「落ち着いて、楽にしてください、小山さん。」
「えぇい くそー、どうにもならん様だな。わかったよ、何とでもしやがれ。」
「そう、それで結構、リラックスして下さい。私どもの研究にご協力して頂ければ悪いようにはしません。」
「そう言われてもな、力尽くでこんな所へ連れて来られてるんだ、すでに悪いようにされてると思うが。」
「手荒なまねをした事は お詫びします。こうしなければ、あなたの協力は得られなかった。」
「どういうことかさっぱり分かんないが、黙って言う事を聞くしかなさそうだな。で、俺は 何をすればいいんだ?」
「そう、ご理解頂き感謝します。まず、こちらの話を聞いて頂こう。あなた最近の流行歌が耳障りだと感じておられる、そうですよね。」
「えっ、何のことだ?」
「先ほどバーで お話になってました。」
「あっ、あぁ、それは、 まぁ、そうだけど。」
「あなたの症状は 鼻濁音過敏と言いましてね、放っておくといずれは聴覚神経がやられて精神に異常をきたします。」
「びょっ、病気なのか、俺は。」
「まぁ、分かり易く言えば 騒音公害みたいなものです。最近の歌手が歌の中で発音している 鼻濁音、つまりガギグゲゴの音があなたの耳には合っていない。違いますか?」
「あ、あぁ、まぁ、そうかも知れないが、よくわからん。」
「むふ、では 試して差し上げましょう。」
天井のスピーカーから、桑田の「波乗りジョニー」が流れる。確かにガ行の音がトゲトゲしい。意識すればするほど耳に障り、ついに我慢出来なくなりベットに縛り付けられた全身を激しく動かす。
「やっ、やめてくれー!」
突然 曲が止まった。小山の額には汗がにじんでいる。
「分かりますか? では、次はこれです。」
天井のスピーカーから「上を向いて歩こう」の坂本九の声。すんなりと耳に入ってくる。
「もうお分かりですね、小山さん。典型的な聴覚濁音過敏症候群です。ですが、幸いあなたの場合は まだ ごく初期の症状ですから 適切な治療で必ずよくなります。昔は小学校の国語教育でちゃんと 鼻濁音、nGA,nGI,nGU,nGE,nGO,の正しい発音や使い方を教えていて、こんな問題は起らなかった。 しかし、日教組が教師を単なる労働者に変え 日本語教育をボロボロにしてしまって以来、誰もこの事を気にかけなくなってしまった。音楽教育でも発声は熱心に教えても正しい発音は蔑ろにされている。さらに最近のミュージシャンは 刺激的だからと言ってこれらトゲトゲしい発音を好んで使っています。まるで自殺行為だ。ですから、あなたの様に最近の流行歌をなんとなくトゲトゲしいと感じる現代人が増えているんです。それだけなら大した問題ではないのですが、このトゲトゲしい音が ストレスを増強し、聴覚神経をズタズタにし、やがて人格破壊を引きこすという事実が最近の研究で明らかになりました。無差別殺人や、多重人格症を引き起こす事例も確認されていて、最近のバス乗っ取り事件や、小学校での無差別児童殺害などの狂気の事件にはこの感覚過敏症候群が少なからず影響しているようです。」
「えっ、何だって。じゃ俺も気が狂ってしまうのか!」
「いいえ、小山さん。申し上げた様に、あなたは まだ初期段階です。適切な治療で必ず回復します。その為に ここへお連れしたのですからご安心下さい。明日から本格的な検査を始めますので、今夜は ゆっくり眠ってあなたの優れた感性を休ませておいて下さい。」
スピーカーからの声が終わると同時に、小山の枕元で シューっという気体が噴射されるような音がした。恐らく催眠ガスなのだろう、まもなく小山は意識を失った。
別室でモニターに写る小山の様子を見ていた竹本が 隣りの白衣の男に話し掛ける。
「ドクター、いかがでしょうか。」
「すばらしい。さすがにデザイナーとしての感覚を磨いてきただけのことはある。こんなに見事に聴覚神経が鼻濁音疲弊しているクランケは始めてだ。よくやってくれた、竹本君。」
「恐れ入ります。」
「しかし 実験材料は 多いに越したことはない、どんどん集めてきてくれ。くれぐれも極秘にな。またポケモン騒動のようなミスを犯したら、今度は ペンタゴンが黙っていない。」
「はい、心得ております。」
この研究所には、小山のような聴覚過敏者だけではなく、テレビや映画の刺激映像、出版物の過激な表現など、あらゆるマスメディアの感覚刺激で精神に異常をきたした感覚過敏者が密かに集められている。そして、日常 何気なく使われている社会一般のマスメディアが人体に及ぼす影響を探る研究材料にされている。
しかし、ここでの研究は 医療や教育改革の役に立てられる事は決してない。その目的は、マスメディアに 「ある種の刺激要素」を仕込むことで、それに接したターゲットを無意識のうちに洗脳、思想扇動、人格破壊へ追い込むという感覚兵器の開発なのだ。以前 テレビアニメの映像を見ていた全国各地の子供達が一斉に 引き付けを起した事件も この研究所の光感受性刺激実験の1つだったが、あの時はβ領域視覚刺激が少々強すぎて予想外の犠牲者が出た為 マスコミに騒がれてしまった。
全ては 国民を政府の意のままに操ることを目的として、日本政府が防衛庁と科学技術庁、そしてアメリカ国防省と協力して極秘裏に展開している民意扇動作戦の一環なのだ。
風が刃になり、雪が凍る…。周りには降ってくる雪と足元に降り積もった雪以外何も無く、耳には風の音しか入って来ない…。彼女がその地を訪れると決まってその日の夜はそんな吹雪の夜になる。そして、思い出す…。吹雪の中、振り返ることなく白い闇に消えていったあの子を…。幼いながら、たくさんの寂しさを一人で抱え込み、さらに来るかなしみも逃げることなく、正面から受け止めていたあの子を…。
みどりちゃん…。
彼女は心の中でつぶやいた。
今年も、会いに行くよ。
「みどりちゃ〜ん。」
あたしは旅館につくなり彼女の元へ走った。あたしとみどりちゃんが始めて会ったのはあたしがまだ4歳のときで、あたしとみどりちゃんはお互いに一人っ子で年も同じだったせいか、仲良くなるのに大して時間はかからなかった。私の家は父も母もスキーが好きで、冬休みになると毎年当然のように雪国へ家族で行くことになっている。この旅館は父が大学生の時から毎年来ている旅館で、女将さんとも知り合いだ。その女将さんの一人娘がみどりちゃんだった。将来はおばさんの跡を継いで、女将になるんだねとか言われていたが、みどりちゃんはあまりなりたそうではないようだった。
あたしはここへ来るのが冬休みの一番の楽しみで、みどりちゃんに会えるのが何よりもうれしかった。
そして、あたしがみどりちゃんと出会って、三年後の年の冬…。
「ねえねえ、雪ウサギつくろ。」
「うんっ。」
旅館の庭であたし達が雪ウサギをつくっているのを見て、あたしのお母さんは言った。
「あの二人、本当に仲がいいわねぇ〜。」
「ここまで仲良くなるとは正直思わなかったな〜。」
父も関心しているかのようにはしゃぎあうあたし達を見て言った。
「それにしてもみどりちゃんって本当に綺麗な子ねぇ〜。お母さん美人だったからお母さん似なのね。ちょっと派手だったけど。」
「まあな。女将さんもともと六本木でホステスやってたからな。」
そう…。みどりちゃんは本当に綺麗な子だった。長くて真っ黒な黒い髪。白い肌に大きな目。まるで日本人形のようだった。
「麻耶ちゃん、(とうきょう)に住んでるんだよね。お母さんが言ってた。」
雪をかき集めながら、みどりちゃんが言った。
「うん、そうだよ。」
「みどりもね、昔(とうきょう)にいたんだよ。(とうきょう)の小学校行ってたんだよ。」
「そうなんだ。みどりちゃん、転校したの?」
「うん。」
「前の学校のお友達と離れて、寂しくない?」
あたしが聞くとみどりちゃんはこう答えた。
「前の学校のお友達きらい。みどりの事お母さんが水商売って馬鹿にするから。」
当時小さかったあたしにはよく意味がわからなかった。
「みずしょうばいってなぁに?」
「知らない。お母さんに聞いても教えてくれなかったもん。お母さん、前のおうちでも今のおうちでも、お仕事で疲れたって言って、みどりの話、聞いてくれないもん。」
「………」
あたしはただ、ひたすら黙って聞いていた。悲しい話なのに、みどりちゃんの目は少しも潤んでいるように見えなかった。みどりちゃんは泣き虫のあたしと違って、めったに泣かなかった、が、笑うこともめったに無かった。みどりちゃんを初めて見た時お人形さんのようだと思ったのは、このせいかもしれない。みどりちゃんは常に無表情だった。もっとみどりちゃんが口の端っこを上げてニッコリ笑ってくれてたら、あたしはみどりちゃんの事をお人形さんなんかじゃなく、お姫様みたいだと思っていたと思う。あたしは今でも、ほんとにそう思う。
「みどり、お母さんきらい。」
そう言ってみどりちゃんは木の枝で、地面の雪をがりがり掘った。
「お父さんは?」
あたしの言葉はさらに彼女の悲しみを増大させてしまった。
「お父さん、もういないの。ベッドで寝たまま、起きて来なかったの。お父さん、大好きだったけど、みどりを置いて行っちゃった……。」
みどりちゃんの話はまだ続いた。あたし達ははなしながら、ひたすら雪ウサギを作った。
「次にお父さんになったおじさん、、もっときらい。お母さんのこと、毎日ぶったから。お母さん、これからは二人で暮らそうね、って言ってくれたのに、ここに来たとたん、夜、二人目のお父さんの事呼んで泣いてるの。どうして別れちゃったのかしら…って。」
「どうして?毎日ぶたれてたんでしょう?」
「うん……。みどりにもよく…わからない。」
「ふ〜ん。」
「おじさんも、お母さんも、みっちゃんも、みんなきらい。みんなみどりがきらいなんだ。みんなみどりから逃げて行く。大好きだったお父さんも、行っちゃった。」
(誰もみどりちゃんを嫌ってなんかいないよ。みどりちゃんはいい子だもん。嫌いになるわけないよ!)
……どうしてそう言えなかったのだろう…。今でも時々後悔する。特にこんな吹雪の夜は――。
みっちゃん…後にみどりちゃんのお母さんに聞いた話、みどりちゃんは前の学校で友達がいなかったとゆう…。(お母さんは水商売)といじめられていたらしい。みっちゃんとゆう少女は、そんなみどりちゃんの唯一のお友達だった。二人は本当に仲が良かったらしい。だが…。ある日みっちゃんが言ったらしい。「ごめんねみどりちゃん。もうみどりちゃんとは遊べないの。ままが、みどりちゃんとは遊んじゃダメって言ったから」そう言ってみどりちゃんはほかの子と手をつないで行ってしまったらしい。お母さんの事で娘にそんな事ゆう親もどうかと思ったが、幼いみどりちゃんがその事で大きな傷を負ったのは、間違いないだろう。ここの学校へ来てからも、クラスメイトを怖がり、友達ができずに居た…。あの時のみどりちゃんは圧倒的な寂しさと孤独感に蝕まれていて、七歳とゆう幼さで、大人の世の中の醜い所を知りすぎていた。あたしはみどりちゃんに何も言えなかったし、何もできなかった…。その日もあたしはみどりちゃんと一緒に、楽しく遊んだ。みどりちゃんと遊んだのは、あれが最後だった…。
あれはあしたはもう東京に帰る最後の夜だった。あたしは父と母の間の布団に入り目を閉じたが、いつもならスキーと遊び疲れで、くたくたに疲れたのですぐ眠れるのに、その日はなかなか寝付けずにいた。ただひたすら窓の外に見える降りしきる雪を見てた。その夜は近年にない大吹雪だった。
どうしてあたしはあの時部屋の外へ出ようと思ったのだろう。怖がりのあたしが。それは今だに謎だった。部屋から出るとすぐ、一階へつながる階段がある。下に人の気配がした。パタパタと、急ぎ足だった。あたしは階段の吹き抜けから一階を見た。上から見た廊下を小さい影が通り抜けていった。
「みどりちゃん…?」
こんな真夜中に一体どうしたのだろう…?あたしは全速力で階段を駆け下り、彼女のあとを追った。吹雪の勢で窓がガタガタと動いてた。
ロビーまで行くとものすごい冷気を感じた。
「寒い……。」
窓が開いているのだろうか?
フロントの角を曲がると、玄関のドアが全開だった。そしてその前の呆然と立ち尽くすみどりちゃんがいた。かみそりのような風が吹き乱れ、みどりちゃんの足元には雪がすでに降り積もっていた。あたしもみどりちゃんもパジャマ姿だったので後数分で体が凍え切りそうだった。近くまで寄ると目も開けていられなかった。それほどこの日の吹雪は激しかった。
「みどりちゃん……?」
あたしの声にみどりちゃんは驚きもせず、振り向いた。その時のみどりちゃんの目にはかすかな希望があるように見えた。そんな目のみどりちゃんを見たのはそれが始めてだった。
「お父さんだ……。」
「えっ?」
「お父さんがね、みどりを迎えに来てくれたんだっ!みどりの事呼んでくれたんだよっ!」
「お父さんが……?」
あたしは辺りを見回したが周りはただ吹雪だけ……。しかし幼かったあたしは本当に来たのかなと思った。
「みどりちゃんっ!待って、危ないよ!!」
あたしがそう叫んだ時にはみどりちゃんは吹雪の中に飛び出していた。
「みどりちゃん!」
あとを追おうとしたあたしを拒むかのように一陣の風が私の顔を直撃した。目をこすって顔を上げた瞬間、みどりちゃんは白い嵐の中へ消えた行った。振り返ることもなく……。
「みどりちゃ――ん!」
みどりちゃんの代わりに、返事を返してきたのは今まで聞いたことの無いものすごい風の音…。
「みどりちゃん……。」
あたしは凍りつくような寒さも忘れてへなへなと座り込んだ。自分の体にどんどん雪が積もっていって、風の刃から私を守ってくれた。その雪が私には暖かく感じた。
「なんて暖かい雪……。」
呆然としている私の後ろから声が聞こえてきた。
「麻耶ちゃん!!」
みどりちゃんのお母さんだった。従業員の人も何人か起きてきたようだった。
「何してるの!凍えちゃうわよ!早く中へ入りなさい!誰か!毛布持ってきて!早く!」
ロビーに電気が付けられ、急に旅館内は騒がしくなった。
「麻耶!一体どうしたの!?」
騒ぎを聞きつけてあたしの両親も起きてきた。
「女将さん!みどりちゃんがいません!」
「みどりが……!?」
その言葉にあたしは少しだけ我に返ることができた。
「みどりちゃんは……」
あたしは震えながら凍えた口を開けた。
「麻耶ちゃんっ!みどりはっ!?みどりはどこなのっ!?」
みどりちゃんのお母さんは人形の様に力の抜けて放心状態のあたしのかたをがくがく揺さぶった。半分パニック状態の様に見えた。
「教えてぇぇぇ!!みどりはっ!?みどりはっ!?」
「女将さん!!落ち着いて!!」
何だ…。やっぱりみどりちゃんお母さんはみどりちゃんを嫌ってなんかなかったんだ…。ね、みどりちゃん…。
「みどりちゃんは……。お父さんが迎えに来たから…外に…」
あたしの言葉を聴いてそこに居た人たち…みどりちゃんのお母さん以外全員、はあ?と言った表情を見せた。
「この吹雪のなかを?まじかよ?」
「こんな時間にお父さんがきたっての?」
「えっっ。でもみどりちゃんの・・女将さんの旦那さんは亡くなられたんじゃ…」
母の腕の中に抱かれて・・あたしの意識はそこで途絶えた…。
次の日の朝……吹雪は止み、みどりちゃんの捜索がおこなわれた…。何人もの人を動員し、山中捜索された…。あの吹雪の中、しかもパジャマ一枚で、生きているはずないだろうと誰かがひそひそ話していたのを覚えている…。ほぼ、遺体捜索に近かった。あたしは警察にいろいろと話をさせられた。あの吹雪の中飛び出して行くなんてどれだけ危険か子供でもわかっていたはず…。母親もその事はしっかり言い聞かせていたとゆうのに一体なぜ…? そのような話をあちこちで聞いた。
捜索は何日も行われたが、結局みどりちゃんは見つからず…。きっと遺体が岩の間にでも挟まっているのだろう。雪が溶ければ出てくるだろうと捜索は一度打ち切られたが――ついに春になっても、みどりちゃんは発見されなかった……。そして遺体も無く葬式が行われた。その席で、みどりちゃんのお母さんは、「どおしてみどりを連れて行ったのぉぉぉ!?」と叫んで泣いた。おそらくみどりちゃんのお父さんに向かって叫んだのだと思う。そんなお母さんをみんなは哀れむような目で見ていた。幼い娘を失って…精神が不安定な状態なのだろうと…。あたしは泣きもせずに、糸が切れた人形の様に呆然としていた…。ふとみどりちゃんにはもう二度と会えない事に気付いたのは、それからしばらくしてからだった。
そうしてみどりちゃんがいなくなって…。十回目の冬がきたのだった……。
毎年みどりちゃんの命日には、あの旅館へ泊まり行くのは、あたしの大切な決まり。今年もあたしは母と父と共にこの旅館へやって来た。いつもの様にお線香をあげた後、母たちが話をしている間、あたしは外へ出た。この山のどこかにみどりちゃんはまだいるにかしら…。辺り一面の雪野原。ただそれだけの世界…。今でも時々考えてしまうのは…。あったはずのみどりちゃんの人生…。もし生きていたのなら…みどりちゃんはきっとすごく綺麗な子になっていただろう…。きっと男の子からももてて、彼氏とかできてたかもしれないな…。
空は雲ひとつない青空。太陽の光を受けた雪がきらきら輝いていて…。あの時のみどりちゃんもそうだった…。
あの時、母の腕の中で気絶した時、あたしは夢を見た…。とっても綺麗な、みどりちゃんの夢を…。一面の青空。光を受けて輝く雪野原を屈託の無い笑顔で走り回る、みどりちゃんの夢…。初めて見る彼女の笑顔だった……。
あの時お父さんの姿は見えなかったけど、きっと近くにいたのだろう…。
生きていればきっと良い事がある。死んではだめ。何が何でも生きろ。映画や漫画でよく聞くセリフ。それでもみどりちゃんは…死んで幸せになったのか? 本当にこれでよかったのか?
きっとあたしの中の永遠の疑問となるだろう。夢の中のみどりちゃんは、たしかに笑ってたから。それは本当に綺麗で、まるで…お姫様のようだった……。
一面の青空と、雪…。本当にあの夢と同じだ……。目を閉じればあの夢の情景が…まるで自分がそこに居るかのように思い出せる。きっと永遠に消えることは無い。
ふっと目を開けた時、あたしは遠くに人影を見た。
「……」
雪で反射した光が眩しくて、よく見えなかった。人影は黙ってあたしに向かって元気良く手を振った。そしてこちらに向かって元気欲走り出した。
「あ……」
あたしの少しそばまで来て、その人影はまるで雪に溶けるように消えてしまった。あたしは目を見開いた。
しばらくするとあたしの目からは涙がこぼれた……。
いつかあたしのお母さんがみどりちゃんの事を雪の様な子だと言っていた事がある。雪は冷たいけど、真っ白で何も無いからこそ、何よりも美しいのだろう。ただ、美しくても、みどりちゃんは心を強く塞ぎ込んでいて、氷の様なところもあった。
「………。」
今は空は青くてもきっと今夜は吹雪になるだろう…。みどりちゃんが死んでから、その日の夜はなぜか毎年吹雪になるようになった……。あの夜と同じように…。
……ただそこには、一面の青い空と白い雪…。それ以外は何も無い…。
みどりちゃんは、いつもクールな素振をしてたけど、心に決して癒えない傷を持っていたね…。ずっと一人で寂しかったんだね…。辛かったんだね……。
雪の白色、空の青色、そしてその雪が発する白い光…。みんな忘れないよ。その中にみどりちゃんは確かにいたんだよね―――。
fin
路地
夢の中で、僕は海に浮かんだ大きな氷の上にあぐらをかいて、白熊の話を一生懸命聞いていた。見渡すかぎり世界には氷しかなく氷のないところには黒い海がのぞいていた。どうやらそこは南極だか北極だかそういう場所のようであったが、彼は夏のいちばん暑いときに公園の広場でアイスクリームを売り歩く男のような顔をしていた。つまり、少し疲れていて何だか怒っているみたいだった。そう思ってみると白熊はたしかに、背中にクーラーボックスをくくりつけていたし、お客さんにたいして文句を言っているようであった。
「だからね、いくら寒い夏だからってね、あんなことしちゃあいけないよ、そうだろ?アイスクリームが売れないから言うんじゃないよ。いや、アイスは売れたさ、ただね、あいつらはそれを捨てちゃったんだよ。なんでかって?そんなことオレは知らないよ。寒かったからか、ほかにわけでもあったのか。とにかくアイスクリームを売るのがオレの仕事であってそれ以外のことは聞いちゃいけない。あいつらは捨てちゃったんだよ、みんなで一斉にね」そう言って白熊はクーラーボックスからアイスクリームをひとつ取り出すと僕の前の海にそれを投げた。するとそこに小さな氷の塊が浮かんできて、みるみる大きくなると雪だるまの形になり、やがてそれは雪だるまですらなくなりただの大きな氷のかたまりになって海に水しぶきをあげて倒れた。氷は海面にちいさな波をたてながらぷかぷかと浮いていたが、やがて何か意思をもっているかのように僕たちのいる大きな氷のほうにやってきて、そっとくっつくとそのまま動かなくなった。僕たちの乗っている氷はより大きな氷になったが、白熊のほうはそれには気をとめていないようだった。
「食べないんだったらオレが来年の夏までとっておくのにさ」と言って背中を指すと白熊はため息をついた。「わかるかい?気温がほんの少し下がればあっというまに世界は氷だらけさ。みんなが思っている以上にいろんなことは影響を受けやすいし、ちょっとしたことで変化は起こるんだよ。それが問題なんだ」
僕には白熊の言ってることがよくわからなかったが、それでも彼がなにかに絶望しているように思えなかった。僕は言ってみた。「だいじょうぶ、ほんの少しあったかくなれば氷なんてすぐに溶けますよ」
白熊は少し考えるように首をかしげたあと、なにか納得できる答えを見つけたかのように一人でうなずいてみると、何も言わずに海に飛び込みどこかに行ってしまった。彼の話によるとどうやらまだ夏は終っていないらしかった。
それから僕は目を覚ました。
寝転んだまま窓から外の通りに目をやると、すっかり日が落ちていて、住宅街はひっそりとしていた。
まだ九月にはいって間もないころだったけど、その夜は湿った空気に秋の匂いをわずかに感じることができた。
窓の傍の街灯に小さな虫がたかっていて、プラスチックのカバーの内側にはもっと小さな虫が沢山集まっているのが見えた。虫はほとんど死んでいるかあるいは死にかけているようだった。八月が終って次の季節もまだ来ないのに、そうやって虫が集まって死んでいくのはとても不思議だった。ただ季節を感じない時期だからかもしれない。無人島で演説をふるうことにそれは似ていて、なんだか状況にそぐわず、また永久運動のように繰り返されることが無意味に思えた。
起き上がろうとしたが、うでが思うように上がらず、体が疲れているときに特有の重さがふしぶしに感じられた。
「ねえ明日早いからやっぱりもう帰る。買ってきたものもったいないから食べちゃってね」と彼女が言った。
ほとんど不意打ちにそう聞こえたので僕は、うん、と言って、彼女がいることを思い出した。夕飯の買い物をしに部屋を出ていたのだ。
「今日泊まっていかないの?」
「うん。準備してから行ったほうがやっぱり安心だし、とても大事な用事だから。ご飯だけ作ってこうかって思ったんだけど、ごめんね」と言って空き缶を拾い上げ、細々したものを集めると、バッグを手にとって確認するように部屋をちょっと見回した。狭い部屋だったけど彼女が立ち上がるとたいしたものはなにも残らなかった。テーブルにはのせるものがなかったしごみ箱にはごみがなかった。この部屋にうつって三ヶ月になるが、いざ一人で暮らすようになると、いろんなものが不要に思えて、ほとんどなにも買い足すことなく落ち着いてしまったのだ。
「ねえ、怒ってないよね?」
彼女は怒ってないよ、というように笑顔を見せてくれたが、言葉ではなにも言ってくれなかった。これは悪い兆候だった。
「どのくらい寝てたのかな?」と僕は言った。
「ほんの少しだったと思うけど」
「送ってくよ」
彼女の腕時計をのぞいてみると六時を少しまわっていた。
あたりには人通りがめっきり減り、申し合わせたような沈黙がやってきた。ひきのばされた雲と午後の残り日がまじって、弱いひかりが街のすみずみまで流れだし、僕らのいる路地にもとけこんでいた。この街はなんだか少し元気がないみたいだな、と僕は思いそれから彼女の住む街について考えてみた。
「ねえ、ここでいい。ひとりで帰るから」と彼女が言った。
彼女は立ち止まることなく、静かな住宅街に軽い足音を響かせて行ってしまう。
僕は階段下の暗がりに立って、彼女がかどを折れて細い路地に入るのを見送るかたちになっていた。
とくべつにひどい喧嘩をしたわけでもないし、なにかまずいことを言ったわけでもない。こうやって僕と彼女のあいだには月に一度くらい食い違いが起こり、それでお互いのこころがちょっとばかり擦りきれるだけなのだ。たぶん他のどんな人たちにもそういうことが起こっているだろうし、僕も彼女もそのことをわかるくらいには分別があるからあまり気にしないことにしている。
でも問題は、そうやって僕たちのあいだにあるものが確実に擦りへっていくということだった。それについて言えば他の人がどうであろうとまったく関係ない。世界中の人がそうであるなら、それは世界中が同じ問題を抱えているというだけで、その重みは等しく世界を圧迫しているのだ。
僕はさっき見た夢をおもいだして、彼女にそれを話してみたかった。彼女は白熊の話なんて聞いてくれないかもしれないし、僕のほうにもそれが白熊が出てくる夢だということ以上には、うまく話しの意味を伝える自信はなかった。それでも、その夢にはとても大切なものが含まれているような気がしたし、僕はできるだけ早いうちにそれを知り、彼女に伝えなくてはいけないと思いあとを追うことにした。
彼女のまがった路地は駅前に抜ける細い道で、突きあたりを左に折れてしばらく行くと大通りに出るようになっていた。
僕が急いで路地に入ると、両脇に家屋の並ぶとおりは、夕暮れ時の薄闇を深く落としこんでいて、街灯のあかりがその暗さをよけいに引き立てていた。彼女はその中ほどを歩いていた。
「ねえ、待ってよ」と僕は言った。「ほんとうに泊まっていかないの?」
彼女はほんの少し振り返ると、何も言わずにまた前を向き歩き出した。街灯の明かりがとどかず表情がよく見えなかったが、彼女がなにかを言おうとしてやめたのだという気がした。それとも反射的に振り向いただけで何も言うつもりはなかったのかもしれない。おそらくそうだろう。
彼女のあとを追いながら自分の想像力がどんどん窮屈になっていくのを感じ、少し落ち着こうとしてみたが、頭の中はいっぱいになった灰皿のように役に立たなくなった。そして火を消すことができず僕はあたふたしていた。
なにも慌てるようなことは起きていないしそれはわかっていたが、僕は少しずつ混乱しているようだ。そんなことを考えているうちに彼女に追いついていた。
「ねえ、大きな声で言わないでよ」と言ったあとに、彼女は口元に微笑みを浮かべた。
「うん?ああ、ごめん」僕は彼女と肩を並べて、少しうつむくようにして歩いた。
「今日はだめなの、ごめんね」
「うん。あっ、でも送ってくよ。ここまででてきちゃったし」
「うん。ありがと」と言って彼女は僕のほうをちらりと見た。僕は足元に視線を落として、街路灯にぼんやりと照らされた自分の靴の色合いを眺めていたが、彼女がこちらを向いたのがわかったし、そのときに少しはにかむように
笑ったこともわかった。僕はそれで少しうれしくなった。焦りも急速におさまったようだった。
「ねえ、この路地には七不思議があるんだよ。」と言ったのは僕だった。なんでそんなことを言ったのかは自分でもよくわからなかったが、あるいは自分の想像力を試してみたくなっただけかもしれない。こんな路地にはどんなに探してみても不思議なんてひとつだってなさそうだったし、七つなんてことになれば、ほとんど自分を追い込むようなものだったからだ。
「ふうーん。それってここで起きるの?」
「うん、この路地を男と女が歩いているとね。」
「ふうーん」
僕は落ち着いた頭でもう一度さっきの夢について考えてみた。白熊もアイスクリームもどうでもいい気がしたが、かと言ってそこには物語があるわけでもなく、ただ枠を固定しつつ構造だけを抽出してくるべきではないだろうか?つまりそれは・・
「ねえ、で、どんな話?」
「え?ああ・・」
なんだか不意をつかれてばかりだな、と思い、なにかないかとあたりを見回したが、路地のつきあたりがさっきよりも近づいただけで、壁には選挙ポスターもなければ、チカン注意の張り紙もないし、犬の散歩をする人だっていない。なにか落ちていないか目を走らせてみるが、きれいに扱われているとも思えないのに、道にはゴミひとつ落ちていなかった。両隣にぱっとしない家が並んでいるだけだった。
「ひとつめ。この路地には石原さんの家がある。」と僕は言った。
「うん。」
でもそれ以上の言葉をつなぐ前に石原さんの家の前を僕たちは通りすぎていった。
「次に佐藤さんの家がある。家の前を通るとピアノの音が聞こえてくるんだよ。これでふたつだね」と僕は言った。
「石原さんの家はどうしたの?」
「石原さんの家は通っただろ?」
「佐藤さんの家は誰か住んでいるの?
「佐藤さん夫婦と年頃の女の子一人が住んでるよ。もちろんみんなちゃんと生きてる。」
「なにそれ。全然不思議になってないじゃない」
少し自己過信がすぎるんじゃないかと思い、適当なことを言い出した自分をうらみながらも、僕はみっつめ、よっつめの話を探して先に広がる暗闇に目をこらしてみるが相変わらず状況に変わりはなく、おまけに路地にはあと三軒しか家がなかった。彼女は興味を失っていたが、かまわずに僕は職業的義務感のようなもので話を続けた。七つの話があるとういうことはチャンスも七回というわけだ。好機を狙う打者のように僕は神経を研ぎ澄まし、頭に空気を送り続けた。路地はこの手の通りにしてはずいぶん長くつきあたりまでは折れる道もないので、まっすぐに並んだ街灯に照らされると少しばかり幻想的に見えないこともなかったが、それは単純に物珍しさからくる感覚でしかないようだった。
僕の話は少しづつ物事の細部を語るようになり、登場人物にもずいぶんと複雑な背景を与えたが、それでもやはり決定打にかける話でしかなかった。僕はなんだか近所のうわさ話をでっちあげて一人で吹聴しているような気にまでなってきた。
「結局、加藤さんは年齢のわりには優秀だって評価に落ち着いたんだ。でも非常事態に誰がそんなもの気にするかってことになると誰もとめてはくれなかったんだね」それが五つ目の話だった。
話し終えると僕は後ろを振り返ってみた。ちょうど路地の入り口あたりに僕たちと同じくらいの年格好の男女が歩いてきていた。僕らはしばらく黙って歩いた。
それで僕は白熊の出てきた夢のことをまた思いだした。夢の中では世界には氷と海しかなくて、白熊が警告をしていた。ちょっとしたことで変わってしまう?いまの僕と彼女の関係をどうみたものかよくわからないが、たとえ僕らの関係が冷えたからって世界が凍りつくとも思えないな。ずいぶんとおおげさな夢だ。
僕はもう一度振り返ると、後ろの男女を確認した。低い声で男がなにかを語り、女はとてもうれしそうにそれに答えていた。もしかしたら、しあわせに続いている関係なんてそんなにないのかもしれない、彼らがその最後の一組だってこともありえるな。それともまったく逆で、僕たちだけが問題を抱えているのだろうか?
最後の街灯が薄灰色の壁を照らし、僕たちが路地の終わりまできていることを知らせていたが、話はまだふたつ残っていた。
どちらにせよ、世界はすごくよくできていて、九月に氷の海があらわれるなんてことはないし、白熊がアイスクリームを売り歩くことだってありえないのだ。それに氷なんてあっというまに溶けてしまうさ。そう思いながらも僕はまた少しずつあたまを締め付けられるような気がしてきて、彼女の顔を見た。
「ねえ、次は?」
六つめの話はすぐに思いついた。
「うん。次にね、この路地を抜けると、つまりこのかどを曲がると、男と女は薄暗い夜道で恋人同士が抱き合っているのを見つけるんだ。」
「へえ。当たるかな?」
「間違いないね」
そして僕たちはかどを折れた。
細い道には街灯もなく暗闇がいちだん深まったようで、大通りの明かりも騒音もぼくたちのいるところまでは届かず、川の底にいるようにひっそりとしていた。立ち止まって、彼女の背中にそっと手をまわしてみたが、彼女はなにも言わずにため息をついた。小さくもなく大きくもないなんだか意味のくみとれないため息で、僕はまた少し彼女のことがわからなくなった。
僕たちはただ向き合うような格好で、お互いの顔も見ずにじっとしていた。
それから少しして、後ろを歩いていた男女が僕らのわきを取り抜けていった。彼女は僕のほうを少し見てそれからまた僕の肩のあたりに目をおとした。彼女には、あの路地を抜けてきた男女に六つめの話が本当に起こったことがわかったようだった。
しかし、この暗闇の中で彼らは恋人たちが抱き合っているのをみとめることができたろうか?
「それで最後のはなしは?」しばらくして彼女が言った。
最後の話?
僕は最後の話について考えてみた。世界が凍りつく前に、目の前にいるこの子のこころに届く話をしなくてはいけない。
僕は半分ばかり閉じたまぶたの裏に、どこまでも広がる黒い海を描き、それからそこに浮かぶ大きな氷たちが次々と溶けるところを想像しながらゆっくりと次の言葉をさがした。ほんのちょとしたことで氷なんて溶けるかもしれない。だけどそれには言葉が必要だった。僕にそれを探すことが出来るだろうか?
「科学は世界最大の宗教である。」私が高校生の当時、こんな事を言った者がいた。
私の名前は“フリセック”。ピアノの貴公子、ピアノの申し子。いろんな肩書きがあるが、まあ、ただのピアノ好きの青年だと思っていて間違いはないと思う。
今は、彼女の家にいる。いい家だ。広いし、何よりピアノがある。
彼女はバレエダンサーを志していて、その練習のために私は、彼女の練習場でピアノを弾いたことがある。それがきっかけとなり、以来、私達はずっと兄弟のように仲良くなっていた。
練習がうまく行かないときなど、私達はソファの上で寝ころび、頭頂葉を向け合ってしょっちゅう様々な事柄について論争をしていた。その殆ど全てが決着のつかないまま闇に葬られてしまうわけだが。
ところが、冒頭で述べたセリフは、どういう訳かすんなりと決着がついた。
「私は、これはある意味で正解だと思うわ。」
天井でくるくると回る扇風機をぼーっと眺めながら、彼女は言った。
「だって、世界中の殆どの人々が科学技術に依存しているけど、実際それについて詳しい知識を持っている人はほんの一握り。あとの人は“科学を盲信して祈ってばかりいる信者だ”って言いたいのよ。」
「僕も、この文章は間違ってはいないと思うな。」
私は、天上の模様を視線でなぞりながら、言った。
「本で読んでみたんだけど、現代科学では、僕等の常識がほとんど通用しなくなってきているらしい。例えば、電子の存在は整数じゃ表せなかったり、何もないところから勝手にエネルギーを貰ってきたり。筆者はそれらのことに対して、なにかこう、“神秘性”みたいなものを感じたんじゃないのかな。」
「…そうね…。」
これだけだ。たったこれだけで、この文章に関する論争は終わった。論題が無くなると、私達は他に交わす会話もない。ソファーの上で互いに頭頂葉を向け合い、ただじーっと、何もない天井を眺めていた。
「フリセック、ピアノ弾いて。」
「だめ。」
私は、いい加減つかれていた。午前中にも来週のコンサートで弾く曲目を練習し、午後からはついさっきまで、彼女のために鍵盤を弾きどおしだった。指は動く。長目を弾くピアニストの指は驚くほど強靱なのだ。が、それに私の精神力がついてゆかない。
「…何が聞きたいの。」
「“ラプソティー・イン・ブルー”が聞きたい。」
これはまたとんでもない大曲だ。ジャズ、交響曲。ありとあらゆるジャンルに及んだ大作曲家、ガーシュインの代表作。まさに奇想天外とも言える主題が聴く者の琴線に触れる。
確かに、ピアノのパートだけなら弾けない曲ではないが、その代わり、今弾いたらまちがいなく死ぬ。
「お休み。クレア。明日は早いからね。」
「…………。」
彼女、クレアが今取り組んでいるバレエの曲目は、“白鳥の湖”。チャイコフスキーが作曲した四大バレエの一つで、そのけたたましいほどの感情表現は聞く者を圧巻する。私には、ロシアの暗い時代に生まれた大作曲家の、心の吹雪みたいなものに感じられた。
彼女は、いつ見ても可憐だった。髪を後ろで束ねて、白い衣装に身を包むと、あとは羽だけで空も飛べそうだった。
輝いていた。練習の量が違うのか、他の踊り子達の中でもひときわ異彩を放っていた。
私は、というと、自分の練習すらもおろそかにして、曲目を一通り弾き終わるや否や、とっとと切り上げ、彼女の練習ばかりを手伝いにきていた。
「フリセック、いいの?自分の練習は?」
「いいよ。」
本番はあと六日後。本来なら今頃追いつめにかかっている頃合だが、なんだか今日は白鳥が聞きたい。
すると、午後になってから彼女は言った。
「練習に付き合ってあげる。」
「いいの?」
なにしろ、私の方が予定では本番に近かった。彼女は自分の練習を早めに切り上げ、一度、私の練習に手を貸してくれた。
こっちの曲目は、“鍵盤の王者シリーズ”。彼が作曲した曲は、大体にして指がつかれてしまうピアノ曲ばかり。“リストハンド”という、私が勝手に名付けたのだが、非常に大きな手の持ち主でなくては譜面通りには弾けないし、“ラコッツイ行進曲”に至っては、「あれはピアノ曲じゃねえよ。」という感も少しはある。
どうせなら、ドビュッシーシリーズにするんだった。と、今更後悔しても遅い。
でも、弾けない曲ではない。私は王者をひとまず玉座に引き下げ、すぐ横に座っている彼女のために、とある詩人のノクターンを弾いた。
詩人のこのノクターンは、王に多大な感銘を受けさせ、その夜、王は愛の夢を見るに至ったという。
鬱蒼と茂った木々の影が、部屋の中にそそぎ込んだ。もう、夏も終わりに近づく頃。僕らは、ピアノで繋がっていた。
そう、そんな日の夜だった。突如、今までかみ合わなかった論争が、まるで見えない意志に引っ張られているかのようにくっついてしまったのは。
しかし、彼女は用意がよかった。こんな時のために、映画のビデオテープを用意していた。イギリス映画だ。
私達はソファーに座り直し、映画を見守っていた。一度、見たことのある映画だった。
彼女に聞いてみた。
「…この映画の結末、知ってる?」
「知らない。」
クレアは、ソファーの上でうずくまった。
「昨日、録画しておいたの。」
彼女は、イギリス映画は観ない。多分、僕のために録画しておいてくれてたんだと思う。
「…主人公の著名で高慢なピアニストがね、コンサートを三ヶ月後に控えたある日、事故で左手を無くしちゃうんだ。」
「…ごめんなさい。」
何だ?ああ、そうか。私にとっては少しフキツな映画だったかも。
「…いいんだ。それでね、それでもなんとかそのコンサートでピアノを弾きたい主人公が、代わりに左手になって一緒に演奏してくれる人を捜すんだ。最初は全然見つからなかった。僕も、そういう人はなかなかいないと思うよ。
けど、一ヶ月もかかってやっと見つけてね。その人と毎日ピアノを弾いている内に、主人公は段々と、優しくなっていくんだ。でも、彼女は不治の病にかかっていて…。」
彼女は、私の話に聞き入ってくれていた。
「…片手しか持たない主人公が、ピアノを弾く代わりに“別れの曲”の楽譜を本から破り去って、彼のお墓の前に添えるんだ。…そのシーンのセリフが、一番好きだ。」
映画は、淡々と進んでゆく。ピアノは、マルタ=アルゲリッチ。画面からあふれくるような、水飴の如く美しい音楽に彩られていた。ゆっくりと、彼女は言った。
「…ピアニストが楽譜を破くということは、その主人公が二度とピアノを弾けなくなったということを暗示しているのね。」
「弾けないんじゃなくて、彼女以外と弾く気がないんじゃないのかな。どっちにしろ、主人公はピアノを弾かなくなったんだね。」
彼女は、笑った。何か、変なことでも言ったのだろうか。
「なんだか、今日は、いつもみたいな話し合いが出来ないわね。」
いつもの険しい顔が、なんだか落ち着いていた。抑揚の無い声が自然とやわらぎ。彼女のこういうところは、初めて見た。
「ねえ、フリセック。」
「ん?」
「もし、私がいなくなったら、彼と同じ事を?」
少し、躊躇した。ブラウン管は、私達の頬を、ほの明るい青で照らしていった。
「…ああ、するよ。約束する。」
「冗談よ…。」
ピアノを引く前日には、必ず私は、ロンドン市内のとある教会に通っていた。橙色のレンガで形造られた建物の中に入ると、すぐ目の前に神の気配を感じる。大聖堂は、ピアニストとしての僕が生まれた頃から。つまり、18年間、変わらぬ壮大な姿をしていた。
私は、いろんな人達に頼んで、本番前になると聖堂の方隅にある古ぼけたオルガンを弾かせてもらっていた。教会の手前には静かな並木道を挟んで、病棟もあるので、落ち付いた曲目だけを奏でるように心がけている。そう、18年前からずっと変わらぬ、同じ楽譜集を使って。
これが僕のpray(祈り)で、これも18年間、ずうっと変わってはいない。
だから、この教会で彼女に似た横顔を見たときは、思いもよらない事で、ドキッとした。
「……。」
彼女は、僕と目があっても、何事も言わなかった。長い黒髪も今は束ねてはいないし、いつもは簡単な服しか着ていなかったのに、今日は青いドレスを着ていて、別人の様に見えた。やはり思いちがいなのかな、と、思った時に、彼女はさりげなく言った。
「おはよう、フリセック。」
「おはよう。」
彼女は、すたすたと歩いて行ってしまった。
びっくりした。私は、彼女の普段の顔を少しも知らなかった。
祭壇の前で、一心に祈りを捧げる彼女の後姿は、私の知りうる限り誰にも似ていなかった。
優れた芸術家は、感情の高まりが最高潮に達したとき、神の存在を知るという。彼女もまた、芸術家だったのだ。
私は、楽譜集を持ちなおした。彼女とは少し離れた場所になるが、ここで一緒に祈る事にしよう。
コンサートが予定されてからすぐ、私は彼女にもチケットを渡した。特等席。つまりは、上の方の囲いがある席だった。
しかし、彼女はそこにはいなかった。
気が付いたのは、ピアノを弾き終わったときだった。もしかしたら、途中で帰ったのかも知れない。
花束が渡された。きれいな花だ。彼女は、どこだろう。
もう、家に帰ってしまったのだろうか。
私の予想は、外れた。
彼女は、市内の病院に入院しているという。
「…駄目ね、私は。」
バレエの本番も近づいていたというのに、不慮の事故で、彼女の足の骨は砕けてしまっていた。
「…ほんとに…。」
私は、ピアノ曲集の本を持ってきていた。さっきもらったばかりの花束を、窓辺に生けておいた。様々な光を映す彼女の横顔が、ふいに、立ち尽くしている私の方を向いた。
「破くの…?」
「……。」
私は、破かなかった。本を持ったまま、私はその病室から出ていった。
病室は、静かだった。窓辺から見える、茶色い煉瓦づくりの教会から、美しいメロディーが流れてきた。
“雨だれ前奏曲”。
私は、彼女を勇気づけたかった。ただその一心でピアノを弾いた。
足が折れようと、左手が折れようと、死んだ訳じゃない。あの映画の本当の意味を、君はまだ知らない。あの映画の主人公は、舞台に立つことを決して諦めなかったじゃないか。そうだ、君はまだ、死んだ訳じゃない!
演奏を終え、病室に戻ってきた私には、聞かなくてはならないことがあった。
「…聞こえた?」
そう言った途端。彼女は、泣きじゃくってしまった。
それからの私は、朝になると教会に通うようになった。弾くのは、彼女が一番好きな、ショパンの曲目だった。
「練習は、しなくてもいいの?」
「いいよ。」
「また、公演があるんでしょ?」
今度の公演は、ブラームスの“ピアノ協奏曲第三番”。ドイツから名指揮者がやってくることでも、大変な騒ぎだ。だが、私はその曲の練習をしていない。
「教会じゃ、余り激しい曲は無理だから。」
「オーケストラとの合同リハも無理よ。本当に、大丈夫なの?」
何度も何度も私に尋ねてきた。これ以上彼女に余計な心配をかけさせるのもどうかと思った私は、仕方なく練習に赴いた。
そこでの私は、ピアノの貴公子様だった。つまり、この上なく丁重な扱いを受けた。ドイツから来たマイストロは、十数人のオーケストラの指揮よりも、殆どピアノに合わせてくれた。
私は、力の限り演奏した。
すると、突然マイストロが指揮棒で譜面台をコンコンコンと叩く。
「この四小節は、ガラスに映った“炎”をイメージして。今まで以上に輝きを出し、それでもあくまで冷静に、あっさりと。」
つまりは、こう言うことだ。“クールビューティーに”。こっちの方が分かりやすい。
「あ、そうそう。」
指揮者が付け足した。
「ピアノは今のでよかった。」
これだ。おまけに、曲が終結すると、全員から拍手のプレゼントまでもらった。
結局、その日以来私はその曲を弾くことはなかった。
次の日、彼女の様態が悪化した。後でちゃんと検査するまでは分からなかったことだが、当時治療不可能だと言われていた病気にかかっていた。エイズだ。
「フリセック。」
また、新しい花束を飾った。今度は、ちゃんと自分で買ってきた。
「ありがとう…。」
私は、公演に赴かなくてはならなかったが、そのようなことはどうでも良かった。彼女の手を握ると、思っていたよりか弱かったことに驚いた。
彼女に、伝えなければならないことがあった。私は、なるべく暗に彼女にその旨を伝えた。
「…あのイギリス映画を、覚えている?」
「ええ…。」
「同じ事が、現実に起こりそうだ。」
彼女は、驚いた顔をした。私は彼女の冷たい手を逃さないように、両手でしっかりと握った。
「今、ブルックリンに左手を失ったピアニストがいるんだ。…僕はこれから彼の左腕になりにいこうと思う…。」
「……。」
「だから、帰ってくるまで待っていて欲しい。」
彼女は、目に涙を溜め、深く落ち込んだ顔をした。…HIVは血液感染する。多分、私にも感染している…。“映画と同じ事が起こる”、その隠された意味を、彼女はすぐに理解した。
枯れてゆく窓辺の風景に目をやった。木の葉が静かに散った。
「…ねえ。」
「…なんだい。」
「あの映画の最後に、主人公は何て言ったの?」
私は、 えっ と、彼女に目を向けた。
「…寝てて、聞いてなかったの。お願い…。」
私は、彼女のベッドに上った。彼女の隣に座り、主人公の言ったとおり、言葉を紡いでいった。
「……“やあ、元気かい。私はまた、ピアノが弾けなくなってしまったよ。
…でも、そんな事は大して問題じゃあない。
二人の影が、病室の白い壁に真っ直ぐ平行に伸びた。
「本当に残念なことは、今ここで君のために、ピアノを弾くことが出来ないという事だ。どうやら…”」
私に寄り添う彼女の体は、温かかった。長く下ろした黒髪は、かすかな甘い香りを帯びている。薄いラベンダーの香りだった。
「“どうやら、私はピアノよりも大事なものを失ってしまったらしい。”」
彼女は、ただじっと僕の話を聞いてくれていた。表情を見たかった。背中ごしに、見ることは出来なかったが、体を動かす事も出来なかった。
「“…今更、気付いて遅いのかも知れないが。君と出会えて、本当によかったと思う。”」
言い終わった。ふと、教会の壁を見ると、もうすぐ正午の鐘が鳴る頃だった。彼女は、眠ってしまったのか。それとも、もう起きることが出来ないのか。私に寄り添ったまま、すこしも動かなかった。
たとえどちらでも、私に出来ることは、彼女を抱きしめる他になかった。
「…いつ、楽譜を破くの?」
私は、苦笑した。教会の鐘が正午の並木道に静かに鳴り響いた。
雨がやまない。
もう一週間になる。異常気象だと騒ぎ立てる天気予報によれば、今日も夜まで降り続けるらしい。
――梅雨の季節でもないのに。
早苗は不機嫌だった。学校からの帰り道。いくら傘をさしても、強い雨が体を濡らす。寒いし、柄を持つ手が湿り不快だった。制服のスカートにもいつも以上に皺が残る。雨は嫌いだ。
『沙都美は雨が好きだったけどねぇ』
幼い頃、雨が嫌だと早苗が泣いて暴れる度、母の名を出して祖母は苦笑した。今はもう、いくらなんでも雨が降ったからといってわめいたりはしない。けれど、やはり気分は暗くなる。心が重くなる。雨雲が、体の中にまで満ちてしまう。
住宅街の中の公園を抜けると、もう家は近い。いつもは子供達が遊び回っているそこも、今日は誰もいない。座る者のないベンチ。黒く湿った砂場。滑り台の上では、雨粒が次から次へと鈍い音をたてていた。
雨の日は、世界が色を失う。灰色の雲が地面を翳らせる。くすんだ世界。それが早苗をさらに憂鬱にする。そんな中。
ちらり。
ただ一つ光ったのは。
鮮やかな、色。
突然、視界に飛び込んできたその青に、早苗は顔を上げた。自分が入ってきたのとは逆の入り口――つまり、今向かっている「出口」だ――から、一人の少年が歩いてくる。
一瞬、彼の持つ傘の、眩しいくらいの青に驚き足を止めかけたものの、改めて見た相手は、普通の小学生。特に気にするほどのことはない。ほんの少し勢いを増した雨に、早苗は足を速めた。
そして、少年とすれ違った瞬間。
なぜだか、わかってしまった。根拠は何もない。冷静に考えれば馬鹿らしい。けれど、本当に自然に、わかってしまったのだ。
ああ、雨を降らせているのは、この人だ。
すれ違いざま振り返り、離れていく彼を目で追う。歩調に合わせて揺れるランドセル。水たまりに踏み入っていく長靴。遠ざかるレインコート。
少年はそのまま一歩を公園の外に踏み出し――そこで唐突に早苗の方へと振り向いた。交差する視線。
「ねえ!」
見ていたことを気付かれたのだろうか。しかし、何と言えばいいのだろう。早苗の焦りをよそに、少年は数歩の距離まで近づいて来る。顔をじっと見つめながら、少年が尋ねる。
「雨を降らせているのは、君?」
「は?」
「聞こえなかった? この雨は、君のせいだろ?」
その問いかけに早苗は唖然としてしまい、すぐには答えることができなかった。何とか頭を回転させ、言葉を探す。
「……違うわよ」
「え?」
「雨を降らせているのは、あなたの方でしょ?」
少年は、眉間に皺を寄せた。
「は?」
それから数分後、小さな喫茶店で二人は向かい合っていた。埒のあかない問答の末、屋根のある場所に移動しよう、それが唯一、二人の一致した意見だった。
再び訪れた沈黙。落ち着かず、グラス越しに少年を窺ってしまう早苗に対し、彼は平然とフルーツパフェのアイスクリームをつついている。しかし、先に言葉を発したのは、今度も少年の方だった。
「雨師、って知ってる?」
聞きなれない言葉に、早苗は首を横に振る。少年はペーパーナプキンを一枚抜き取ると、そこにさらさらと字を書いて見せた。
「これで、うしって読むんだ。辞書で意味を引くと「雨の神」って載ってるけど、それとはちょっと別物。昔は中国とかそっちの方で、雨乞い専門の道士のことをこう呼んでいたらしい」
「ふーん。……突然そんな話して、何か関係があるの?」
私がその「雨師」だ、とか言ったら、ぶん殴ってやろうか。早苗は自分に霊感も第六感も全く存在していないことをよく自覚している。とても、その雨師とやらになれるとは思えない。しかし続く少年の言葉は、幸か不幸か、全くの逆だった。
「俺の家系、その雨師なんだ」
「え?」
「雨乞いしたり、逆に雨が降らないようにしたり。あまりに大規模なことは無理だけど、雨に関することなら大抵やるよ」
早苗は信じられず、目を丸くして少年を見つめた。そんな彼女に向かって、少年はぺろりと舌を出す。
「ただし、料金は馬鹿高いけどね。それで、今回はこの町を中心に降り続いている雨を止めるために――あ! 信じてないでしょ?」
「当然でしょ! からかってるんじゃないの?」
「本当だってば」
「それじゃあ、証拠を見せてよ。この雨、今すぐ止めてみせて」
「だから、俺もそのためにこの町に来たんだって。でも、今すぐは無理」
「ほら、やっぱりエセじゃない」
「違うよ! この原因は、君だから。君が止めようと思わなければ、やまないよ」
「そんなこと、できるわけないじゃない!」
「できるんだよ。まあ、俺が近づいたことで勢いは増したかもしれないけど。あくまで根本的な原因は君だよ」
信じがたい話だった。だが、少年の瞳は真っ直ぐで、表情は真剣で。嘘をついているようには見えなかった。笑い飛ばせなかったのは、だからだろうか。あるいは、正反対といえ、私も同じ類のことを感じたからか。
「……私じゃないわよ。そもそも、雨が降ればいいなんて思うわけがない」
「君は、雨が嫌い?」
少年の質問に、早苗は今度は即答する。
「嫌い。降らないと困るのはわかるけど、憂鬱じゃない」
「俺は好きだけどな」
「……お母さんも、好きだったって」
「過去形?」
「私が小さい頃に死んじゃったから。ずっと入院してたし、あまり覚えてないけど」
早苗が幼稚園に入るより前、天国へと去った母。病院以外の場所で共に過ごしたことはないけれど、晴れの日は陽だまりの中、雨の日は雨音の中、いつも笑っていたのをぼんやりと覚えている。それにつられるように、私も――。
……私も?
そう、あの頃は雨が嫌いじゃなかった。嫌いになったのは、いつだろう。
小雨の日。家にかかってきた一本の電話に、父が慌てて飛び出した日。
どしゃ降りの日。「お母さんは死んだんだよ」。そう言われて、何のことだかわからなかった日。
静かな雨。葬式の日。私はひたすら泣き、涙と雨が黒い服を更に濃く染めた。祖母はそっと私を傘の中に入れた。それでも、涙と共に心に降り続けた雨。
感傷は好きじゃない。トラウマなんか抱えるほど過去に縛られているわけでも、雨が降るたびに母のことを思い出すわけでもない。むしろ今日まで、母の死と雨がこんなにも関係あったことを、忘れていたくらいで。
それじゃあ、どうして――?
どこで私は、雨が嫌いになったのだろう?
『沙都美は雨が好きだったけどねぇ』
脳裏に浮かんだ、一つの光景。
梅雨の頃だったろう。雨の日の病室。父親は用事でおらず、母と二人きりだった。
『あーあ、せっかくお母さんに会える日なのに、雨なんてやだなぁ!』
『早苗は晴れてる方が好き?』
『好き!』
『どうして?』
『だって、雨だと外で遊べないもん』
『そっか。でも、お母さんは雨も好きよ。ほら、見てごらん』
母は細い腕で私のことを抱えあげ。一緒に窓から、雨の降り続く外を眺めた。
『綺麗でしょ?』
『晴れてる方が、きれいだよ。空も青いし』
そう膨れる私に向かって、優しく、本当に優しく母は笑い。そして。
『雨の日はね――』
そこで、途切れる記憶。私ははっと我に返った。
「私……ぼーっとしてた?」
「うん。突然トリップしてたから、声かけられなかったよ」
目の前では、少年がスプーンをくわえ、人懐っこく笑っている。
「何か『思い出しました』って顔してる。教えてよ」
「……母が、雨の日に言っていた言葉があるの。多分、雨が好きな理由だったと思うんだけど。それが思い出せなくて」
「へぇ……」
自分で驚くほど、素直にこぼれ出てきた言葉。それを聞いた少年は、最後のイチゴを口の中へ放り込み、少しの間考え込む。
「その日は、確かに雨が降っていたんだね?」
「それは間違いないけど……?」
「じゃあ、俺の出番だ」
空の器の横にスプーンを置くと、少年は手を伸ばして早苗の腕を掴んだ。驚いて、早苗はグラスを落としかける。
「ちょっ、どうしたのよ?」
「いいから。黙ってて」
彼があまりに真剣な顔をしているから。早苗は無言で彼を見つめた。そして。
「あっ……」
不意に、世界が開けるような感覚に襲われる。足場を失ったような。
そして、次の瞬間。早苗は先ほどの光景の続きを見ていた。
ベッドの上、母親に抱かれながら、幼い早苗は窓の外を眺めている。穏やかな空気。雨の音に包まれた病室。
『雨の日はね――』
母親が口を開く。早苗は窓から視線を離し、母を見上げる。
『雨の日は、世界が光るのよ』
『えー、嘘だよ』
『そんなことないわよ。ほら、よく見てごらん』
自身ありげな母に、早苗は不信の視線を送る。母は笑って、窓の外を指差す。その指先を追って、早苗も窓の外に視線を戻す。
『ほら、世界の全てが、キラキラ輝いているでしょ?』
『――あっ』
草花を、木々を、屋根を濡らした水滴が。キラキラ、まるで宝石のように光る。派手にではない。けれど言われてみれば、あちらで、こちらで、次々と。車のライトが当たるたび、誰かの靴で水しぶきが上がるたび。雫が光る。
キラリ。キラリ。
じっと見ていると、静かに落ち続ける雨ですら、天から降り注ぐ細い細い光の糸。輝きながら、地面へと向かっていく。
光る世界。空は確かに、曇り空なのに。太陽の光は差し込んでいないのに。それでも確かに、光り輝く世界。
綺麗だった。不思議で、じっと窓の外を見つめたまま、早苗は母にぎゅっと抱きついた。
『ね、雨も悪くないでしょ?』
『うん! 今の話、好きだよ。忘れない』
母は語りかける。優しさと、愛を込めて。
『でもね、ほんとは、雨の日だけじゃないんだよ。覚えていてね。この世界は、どんな天気の日でも、どんな時でも、本当はとても綺麗に輝いているんだよ……』
「見えた?」
少年の声に、早苗はここがどこか、そして自分がもう幼くないことを思い出す。目の前には、生意気な少年の笑顔。思わず辺りを見回しても、母がいるわけもなく。
「ねえ、聞いてる? 何か見えた?」
「見えたわよ」
「それで?」
少年の問いかけがどんな答えを促しているのかわからず、早苗はとりあえず、一番伝えたい言葉を口にした。
「……ありがとう」
少年が笑う。生意気。ふざけてちょっと睨んでやる。
『覚えていてね』
脳裏に甦る、母の声。忘れないって言ったのに。こんなにも大切で、愛しいことだったのに。どうして忘れていたのだろう。雨が嫌いだったのも、この思い出のこもった心の欠片を、見失っていたからに違いない。
窓の外に目をやれば、相変わらず降り続く雨。思い出の中、病室の窓から見た景色と重なる。さっきまで色褪せていた世界、光を失っていた世界は、よく見れば、ちゃんとキラキラ輝いていた。店名の書かれたガラスをつたう雫が。通り行く人の傘ではねる雨粒が。
「綺麗ね」
「え?」
少年がきょとんとした顔で聞き返すから、早苗は繰り返すのがなんだか気恥ずかしくなってしまって。だって、なんでもない光景だから。
「……雨もそう悪くないかもしれない、って言ったのよ!」
少年はそれを聞くと、にやりと笑い、唐突に立ち上がった。そして何も持たずに歩き出す。早苗の向かいには、ランドセルがぽつんと置き去り。
「ちょっと、どこ行くの? 待ちなさい!」
早苗の静止には全く耳を貸さず、少年は喫茶店を駆け出していく。他の客の視線が彼を追う。溜め息をついて座席を見れば、ランドセルだけではなく、傘すらも置きっぱなし。嫌な予感を感じながら窓の外を見れば、案の定、頭から雨を浴びる少年が、早苗を早く早くと手招きしている。
「全く……」
ランドセルと学生カバン、二本の傘、それに伝票を抱え持つ。レジで理不尽さを覚えながらも二人分の代金――しかもパフェはジュースの二倍の値段だ――を払い、外に出ようとし。そこで気が付いた。両手の塞がったこの状態では、早苗も傘がさせない。とにかく体でドアを押し開けて、早苗は怒鳴った。
「自分の荷物くらい持ちなさいよ!」
「嫌だよーだ!」
「あんたの荷物でしょ? 捨てるわよ!」
「そんなこと、できないくせに」
図星を指されて言葉に詰まる。と同時に、かっと頭に血が上った。
「待ちなさい! 風邪ひくわよ?」
荷物を抱えたまま、少年を追って駆け出す。もちろん傘はさせないまま。濡れるのは、この際諦める。
少年は笑いながら、早苗の少し先を駆けていく。私、どうしてこんな雨の中、鬼ごっこなんかしてるんだろう。しかも名前も知らない小学生と。疑問が頭をよぎる。けれども、止まる気にはなれなかった。あんな子供にからかわれて、悔しかったから。そしてさらに悔しいことに、雨に濡れて駆け回ることが気持ちよかった。もう、雨は嫌いじゃない。憂鬱なだけじゃないって知ってしまったから。それこどろか。
気が付くと、早苗も笑っていた。それに気付いた少年が、さらに笑う。
もしかしたら、この雨は母が降らせていたのかもしれない。早苗があの言葉を、あまりにも綺麗さっぱり忘れているから。思い出すのを待っていた母も待ちくたびれて。だから、早苗が思い出すように、雨が嫌いじゃなくなるように、この長雨を降らせたのかもしれない。そう思うと、この異常気象は素敵だね。
それから、どこをどれだけ走ったのか。いつの間にか二人は出会った公園へと戻ってきていた。少年はベンチを見つけると、そこがびしょびしょなのにも躊躇わず、駆け寄って座り込んだ。少し遅れて辿り着いた早苗も、迷うことなく隣に座る。服が肌に張り付くのは、雨のせいか汗のせいか。もう二人ともふらふらだった。
弱まった雨が、火照った体を静かに冷やす。早苗はしばらくボーっと空を見上げていたが、はっと思い出して少年に荷物を突きつけた。ついでに軽く頭を小突くと、髪についた雫がキラキラと光った。
「あなた、光ってるわよ」
「君も光ってるよ。……なんて、変な会話だね。誤解されそう」
もう片手は空いていた。けれど、今更傘をさす気になんかなれなかった。セーラー服はすっかり変色しきっている。こんなに濡れて、明日も学校あるのに、乾くのかな。それより、革靴の方が危ないかも。
ねえ、だけど。まるで濡れ鼠みたいになってることなんて気にならないほど。綺麗だね。泣きたくなるほど、綺麗だね。
天を仰ぐ。遠くの空で、雲の切れ間から覗く青。少年の傘の色。鼻の奥がつんとした。少し涙出てるかも。でも、きっとこの雨と溶け合ってわからない。
「雨、夜のうちに上がるよ。仕事、成功だ」
明るい声。結局、この子は本当に雨師なのか。その真偽は謎のまま。だけど、確かなこともある
次に雨が降ったとしても、早苗の心は曇らない。
雨の日に浮かぶ思い出は、母の優しい微笑みと、雨師を名乗る少年の生意気な笑顔。ちょっとせつなく、ちょっと甘く。少しの不思議と、たくさんの高揚感。
そして、世界はいつだってキラキラ輝いているから。
スターターの光と音がスタジアムに響き渡った。
(いける)
会心のスタート。他のランナーを、コンマ〇〇〇七秒は出し抜いている。
風間祥一は身体中の筋力を足に集中し、地面を蹴った。
身体に装着した風圧避け用のブレードが、瞬く間に空気との摩擦で熱を持ち始める。
投与された薬剤が作り上げた肉体と骨格が、ほんの百メートルの間に時速五百キロまでの加速を生む。この常識離れした加速こそが、『ドーパー大会』スプリンター部門の醍醐味。
二呼吸する間もなく、風間は五〇〇メートルコースを走り切った。他のランナーたちは横目にも見えない。
三.五九九九秒。
電光掲示板にタイムが表示された。
(三.六を切った!)
喜びに風間が気を弛めた一瞬。ずっと真正面に向けられていた彼のブレードが、ほんの僅かに傾いた。
(しまっ……)
瞬間、強烈な風圧が減速しきっていない風間を襲う。転倒した彼は、そのまま数百メートル転がって止まった。
観客の歓声と怒声がスタジアムに響き渡る。
(あ、脚は)
痛みはなかった。
しかし。
あるべき場所に、右脚がなかった。
病院から帰る風間は、ほんの少しだけぎこちなく歩く。
人工肢の右脚は、まだ調整が必要そうだった。
「どんな薬も許されるドーパーも、サイボーグだけは御法度、か。参加期限の五年まで、まだ一年も残ってたんだがな」
その時、風間の前で一台の自動車が停まり、中からヒゲを生やした男の運転手と、作業着姿の若い女が降りてきた。
(服のセンスのない女だな)
「風間祥一さんですね」
女が声を掛ける。敬語が少しぎこちなかった。
「キャッチセールスも宗教も間に合ってる」
「違います、川本製薬のドープ課の者です。私は、課長の川本です」
女は名刺を差し出した。
「聞いた事がねえな」
風間は名刺を受け取りもせず、立ち去ろうとする。
「業界ベスト十六に入ってるのようちは」
「手形の多さか何かがか?」
「取引額に決まってるでしょ!」
「川本さん失礼です! 私に代わって下さい」
堪えきれなくなったのか、運転手の男が口を挟んできた。
「申し訳ありません、風間様。計画の最高責任者とはいえやはり川本は技術畑の人間ですので」
「斬新な営業手腕だと思ったが」
「風間祥一様」
運転手の男は、深く頭を下げた。
「あなたのドーパーとしての実力を、我が社に貸して頂きたいのです」
「テストドーパーだな」
車の後部座席に座った風間は、憮然としたままの川本の横顔を見ながら呟く。
「はい」
運転手が頷いた。
「人工肢でドーパーのレギュレーションから外れたとはいえ、風間様の走力はご健在の筈。こう言ってはなんですが、世界レベルのドーパースプリンターとしての実力、このまま腐らせるのはあまりにもったいない」
「だからテストドーパー、か?」
「はい」
「言ってみれば、新薬のモルモットって奴だな」
「引き受けて頂けないでしょうか?」
「イヤなこった」
「なに? 副作用が怖いの?」
挑発気味に川本が口を挟む。
「百メートル走るのに十秒もかかる奴が偉そうに吠えるな」
「失礼ね! 三十秒よ!」
「もっと遅いじゃねえか」
風間は両腕を背もたれに掛ける。
「テストドーパーの話は、もうファーザーやロードなんて大企業から来てんだ。零細企業は、お呼びじゃねえ」
「寄らば大樹の陰ってわけ!?」
「悔しかったら、大樹になってみろよ」
「な!」
「ごもっともです」
言葉に詰まる川本を抑え、運転手が静かに言った。
「ですが風間様」
にやりと彼は笑った。
「音速を超える気は、ありませんか?」
――長い沈黙のあと、風間はバックミラー越しに運転手を見つめた。
「あんた、俺の最高速知ってるだろ?」
「最高時速六六二キロメートル。ちなみに世界レコードが六七〇キロですね」
「単純な算数だ、音速の一一九三キロには目一杯足りねえ」
「そうでしょうか?」
「ドラッグレースの事を言ってるのか?」
「まあそんな顔をなさらずに。確かにドラッグレースは、薬物の使用過多と事故発生率の高さで、ドーパー界にあっても異端です」
運転手の目は、鋭かった。
「でもね!」
川本が強引に口を挟む。
「もしも、超一流のドーパーが、最高の薬を使って最高速だけを目指して走ったら、突破できるの、音速を!」
「音速、か」
風間は目を閉じ、天井を仰ぎ見る。
「それで、あんたたちはそんな馬鹿げた薬を作ってどうする気だ?」
「人間が自分の肉体で音速を超える、それ以上何があるっていうの!」
川本が怒鳴った。
「やれやれ」
小さく風間は溜息をついて笑みを浮かべた。
「ギャラはいくらだ? せめてそれぐらいはまともなんだろ?」
ゆっくりと落ちていく青黒い点滴の雫を、風間は見つめる。
「どうですか?」
白衣姿のスタッフが尋ねる。
「……大丈夫だが、何を入れてる?」
「ナノマシン――分かり易く言えば、血球ロボットです」
「血球ロボットだと?」
「各種血球と同じサイズで、数万倍の働きをするマシンです」
「っと待て」
風間は点滴用の柔らかい針に触れた。
「つまり何億って血球を、一つ一つ作ったってことか?」
「そうです」
「死ぬほどコストが掛かるだろ、それ」
「その代わり、一回の投与で一年は保ちますから」
「無茶な薬だな、しかし」
「川本製薬の社運を掛けた薬剤ですから」
風間は走る。
血中のナノマシンが、筋肉を活性化し、血流をも操る。
まるで、自分の肉体ではないようだった。
案外、脳も操られているのかも知れない。
狂的な加速に驚く間もなく、風間は二〇〇〇〇メートルのコースを走り切った。
「最高時速一〇五〇キロ、ですよ」
スタッフルームでは、ヒゲを生やしたスタッフが、大きく溜息をつく。
「初投与、初計測で、人類記録を超えちゃった……」
川本は呆然と呟いた。
「ドラッグレーサーを元にしたシミュレーション結果は、九〇〇強ですからね。本物の違い、でしょうか」
「――おい」
ドアが開いて冷たい風と共に、風間が入ってきた。
「あ、風間さん、お疲れ――」
「ふざけんな!」
憮然として、風間は座った。
「あんなブレードじゃ、あと一〇キロも上げられねえ!」
「ブレード?」
スタッフたちは顔を見合わせる。
「ち、ちょっと待ってよ」
川本が声を上げる。
「今のブレードだって、ドラッグレース用のチタン・リチウム合金製の最高級品だよ?」
「俺は、ドラッグレーサーよりも二〇〇キロ増しで走ってんだ。同じもんが通用するか!」
「でも」
「ブレードが三ミリ歪めば、ドーパースプリンターは死ぬんだ。金に糸目ぇ付けずに用意しろ! それが出来るまでは、一歩たりとも走らん!」
大きな音を立ててドアを閉め、風間はスタッフルームを出て行った。
「自分の実力を棚に上げて物に当たるなんて最低!」
「……耐えましょう、課長。記録は本物ですよ」
「だから気に喰わないんだよ!」
川本は吐き捨てるように言った。
(いいブレードだ)
ほんの時速三〇〇キロ程度に加速しただけで、風間は実感していた。
どんどんスピードが上がっていく。
新しいブレードは、カミソリのように鋭く空気の壁を切り裂いて行く。人工肢に置き換えられた右脚の動きも、完璧だった。
そして、血管の中を流れるナノマシンも、順調に筋肉を活性化させる。
時速五〇〇、六〇〇、七〇〇――。
体感速度を測りつつ、風間は走る。
新たに用意させた加速用の四〇〇〇メートルトラックを、もう一周走る。
九〇〇、一〇〇〇、一〇五〇。
(この前のベストか)
風間の表情が鋭くなった。
(ここから、だ)
彼はスピードを上げていく。もう、トラックの曲線を走れない。直線コースへ――。
わずか二〇〇〇〇メートルの直線コースを一気に駆け抜ける。
無尽蔵に上がって行くスピード、そして壁のようにまとわりつく空気。空気の摩擦で、ブレードが熱を発する。
(!)
と、ブレードが揺れ始めた。
スピードを上げれば上げるほどブレードの揺れは大きくなり、風間は体勢を維持できなくなる。
(くっ)
気がつけば、彼は速度を弛めていた。
「はぁ、はぁっ、はあっ」
ゆっくりと減速し、立ち止まった風間は、うつむいたまま肩で息をする。
「音速の、壁か」
ぽつりと呟いて、彼はブレードに手を掛けた。
「熱っ!」
加速していく風間のブレードが、激しく震える。これ以上、これ以上揺れたら、音速の壁にぶち当たって――。
風間は減速して立ち止まった。膝が痛む。
「畜生!」
ブレードを引き剥がし、彼はスタッフルームに入った。
「お疲れ様」
川本が心配そうな顔で、風間にタオルを手渡す。
「大分、タイムが上がって来たよ。もう時速一一〇〇キロを超えて……」
「停滞してるのは俺自身が分かってる」
空いている椅子にどっかり腰を下ろし、風間は自分の顔にタオルを掛けた。
「必要なのは、音速の壁をねじ伏せるだけの安定性だ」
川本の返事はなかった。
「ブレードを、あと〇.七グラムだけ重く――あ、それと気温も五度ほど下げてくれ。音速は少しでも遅い方がいい」
タオルを掛けた顔を天井に向けたままで、風間は自分の左脚をもむ。
「風間、さん」
遠慮がちに川本が声を掛ける。
「なんだ」
「脚、大丈夫?」
「まだ走れる」
「違う、大丈夫かって訊いたの!」
「充分走れる」
顔にタオルをのせたままで、風間は答えた。
「医療スタッフから聞いたけど、もう骨も筋組織も――」
「俺が走れるってんだから走れるんだよ」
風間は立ち上がり、顔に掛けていたタオルを川本に放った。
「温度は下がったか?」
「はい」
遠慮がちにスタッフが返事をする。
「よし、もう一本走る。計測を頼む」
「あと一回で音速を突破できなかったら!」
「……もう一回走るまでだ」
ブレードをひっつかみ、風間はコースに出て行った。
「せっかく人が心配してるってのに!」
密度の高くなった音波が、必死に風間に抵抗する。
もう少し。
もう少し。
しかし、激しい揺れにブレードが傾き、またしても空気抵抗に押し戻され――。
「ぬあっ!」
バランスを崩し、風間は転倒した。
がああああああっ!
激しい音と火花が散り、風間は数百メートル滑ってからようやく止まった。
「い、痛たたた」
ふと自分の脚に目をやると――。
「み、右脚が――って、人工肢だったか」
人工肢が、まるで下ろし金ですり下ろされたようにすっかりなくなっていた。
「後一歩で脚が縮む」
大きく溜息をついて、風間は身体からひしゃげたブレードを引き剥がしすと、左脚だけでゆっくり立ち上がる。
「興奮剤でもごまかし切れねえとはな」
遠くに、担架を持って駆け寄ってくるスタッフが見えた。
「もうやめて!」
病室の風間に、川本が怒鳴る。
「やっぱり駄目だよ、今度こんな事故があったら!」
「ちょいとヘマをしただけだ。構うなよ」
風間は新しい人工肢を叩いてみせる。
「そのちょっとのヘマで、宇宙合金製の人工肢が粉になっちゃったんだよ! もしもこれが頭だったら!」
「今、こうして脚が動いて走れる以上、なんの問題もねえ」
点滴の針を自分で引き抜くと、風間はベッドから起き上がる。
「ダメだよ!」
「俺は走れると言っている」
「風間、さん!」
川本はその場で土下座をした。
「ごめんなさい、あたしが馬鹿でした」
床に付きそうなほど、頭を下げる。
「残りのギャラも、違約金も払いますから、だから」
涙の溜まった目で、川本は風間を見上げた。
「お願い、もうやめて下さい」
病室の中が、しんと静まりかえった。
立ち上がり掛けた風間は、ベッドに腰を下ろした。調整前の人工肢が、微かな金属音を立てる。
「――世界一になったことあるか?」
「え?」
「世界一だ。みんな俺の後ろを必死に走る。俺が最速、俺が世界を切り拓く。不遜、自己満足、優越感、言いたきゃ言え、俺はそのためにドーパーの道を選んだ」
風間は真っ直ぐ川本を見つめる。
「そして今、敵は音速だ。誰かの記録なんて手垢にまみれた代物じゃない。人類初、未知の領域だ。ここに到達出来るなら、悪魔に魂だって売ってやるさ。高枝切りバサミだってオマケに付けてな」
何も言えない川本をそのままに、風間は立ち上がった。
「先に、行ってるぜ」
風間は助走を始める。
(世界一、か)
ブレードに覆われた口元が弛む。
(我ながらすっかり忘れてたぜ。こんなハシタ銭で走ってる理由をよ)
人工肢の調子はいい。だが左脚には、ドーパーとしての四年半の疲労が溜まっている。
(これが、最後だな)
時速三〇〇、四〇〇、五〇〇――。
風間はゆっくりと加速していく。
(音速か)
空気抵抗で、ブレードが加熱され熱が伝わってくる。冷たいコースの空気が暖められていく。
(行くか)
風間は直線コースに出た。
九〇〇、一〇〇〇、一一〇〇――。
(来た)
ブレードがガタガタと揺れ始めた。下手に傾けば、また転倒する。
(二本の脚での超音速、人類誰も成し得なかった記録)
転倒の記憶が恐怖となって脚を縮める。
(出来ないかも知れない)
スピードを緩めようとする。
(出来るわけがない)
何より、ブレードの激しい揺れが、強烈に風間を襲う。
しかし。
(怖え)
風間は恐怖した。
(俺は怖がってる!!)
恐怖を認めた。
もう一歩を踏み出した。次の一歩も、また次。更に速く更に遠くへ。
揺れは最大に達し、そして。
ぷつっ。
左脚の何かが、切れた。
もうブレードを抑えきれない。こんな脚では支えられない。
死ぬ。
「死ぬかあああああっ!!」
風間が叫んだ時。
ふいに全てが静かになった。ブレードは、静かに風を切っていた。壊れたはずの左脚は、すさまじい速さで動いていた。
(音の壁を……)
静けさの中を、風間は走り続けた。
いつまでも、いつまでも。
ドラッグレースで、音速を超えたドーパーたちが、次々とゴールしていく。
優勝トロフィーを手にしたドーパーが控え室に戻ると、一人の老人が座っていた。
「? だれだ、あんた」
「いい走りだった。それだけ言いたくてな」
老人と見えたが、よくみれば目は若く、両足とも人工肢になっていた。
「そりゃどうも。じいさんもドーパーだな?」
「元、な。スプリンターだった」
「ふーん。ま、ともかく出て行ってくれ。ここは部外者立入禁止だ」
「そうだったな。邪魔した」
老人は立ち上がった。
「ところでじいさん、現役のレコードはどれくらいだったんだ?」
「参考記録だが、時速一二三三キロだな」
「大したこたぁないな」
ドーパーは、少し馬鹿にしたように笑う。
「俺は一四〇一キロだぜ」
「流石はチャンピオンだな。格が違う」
老人はドアを開けると、一度だけ振り向き、にやりと笑った。
「もっとも、大したことのない俺の記録も」
彼はドアが閉まる間際に言った。
「十年間ばかし世界一だったがな」
「え?」
――ドーパーの顔色が変わる。
「まさかあんた!」
彼は廊下に飛び出した。
しかし、老人の姿は既になく、一陣の風だけが取り残されたように吹いていた。
ぼんっ
という、どこか間の抜けた爆発音に目を覚ました私は、寝床から身を起こした。
我がご主人のほうに目をやると、ビーカーからもくもくと紫色の煙が噴き出している。
どうやらまた失敗したらしい。
私は、お気に入りである暖炉の上の寝床からそろりと床に降り立つと、四肢をふんばりぐんっとのびをし、あごが外れそうなほどの大あくびをした。
これをやるといつもはたいてい、”いい気なもんだ。誰が飯を食わせてやっていると思ってるんだ?”というご主人の嫌味と舌打ちが降ってくるものなのだが、今日はそれをやる元気もないらしい。がっくりとうなだれ、なにやらぶつぶつと独り言を言っては、 禿げかかった頭をぽりぽり掻いている。
調合を始めてからすでに3日目。
日は暮れかけ、窓から差し込む夕日の陽光は、窓辺の葉っぱばかりの観葉植物に反射し、私の寝床の小さな木箱を赤く染めていた。
我が主人は、いわいる魔道士である。といってもたいしたことはない。魔道士アカデミーでは1、2を争う落第生であったし、箒の乗り方もいまいちへたくそな上、覚えた呪文もすぐに忘れてしまっては大慌てで魔道書を開くという始末である。おおよそ魔道士らしいことは何一つできないと考えていただいてよい。
そんなご主人のたった一つのとりえといえば、薬品の調合だった。これだけは妙にうまく、ほかの魔道士たちにひけを取らないほどの腕前の持ち主なのだが、何しろ根が不器用なせいか失敗することも多い。それでも近隣のゴールジュ(魔法を使えない人々のことをこう呼ぶ)たちからはどういうわけか慕われており、ご主人もいくら落ちこぼれとはいえ信頼を裏切るような男ではないので、足が悪いものがいれば特製の軟膏を、風邪をひいたものがあればよく効く丸薬を、乞われるままにせっせと作っては届けさせることで、なんとかどうにか生計を立てていた。
このあたかも医者か薬剤師のような商売を始めたのには、ちょっとした理由があった。魔道士はたいていアカデミーを卒業すると、更なる修行を求めて別の魔道士アカデミーに再入学するか、魔道士向けの商売(魔道書や杖・箒などの販売や魔道士界に悪影響をもたらす妖魔の取締りなど)に従事するのが一般的である。
だがどの世界にも奇特な、というか変り種というものは存在するもので、よせばいいのにゴールジュに興味を持ち、その研究に身をささげるものもいたるするのである。我がご主人も、そういった変わり者の一人といえるのだが、彼の場合少し違う。だいいち彼は、始めは前者のほう、すなわち魔道士としてまっとうな人生を歩むつもりであった。だがこのご時世(?)、ただでさえ落ちこぼれ魔道士である我が主人を雇ってくれるものなどどこにも居らず、また頼みの綱であったアカデミーの薬剤調合研究部門からも「定員オーバー」を理由にそっぽを向かれ、まさににっちもさっちもいかぬ状況におかれてしまった。まあ要するにアカデミー時代の不勉強が祟ったのである。
そんななか、ゴールジュ研究家であるかつての級友に誘われ、「魔道士はいかにしてゴールジュとの融和を図るか」なる、ほんとにそんな研究必要なのか?と私からすれば首を傾げたくなるような実験の被験者として、ゴールジュの世界に送りこまれたのである。半ば強引に。
はじめこそ、何で俺が・・・と不平不満を並べ立てていたのだが、住めば都とはよく言ったもので、自分の薬剤知識が役立つとわかると大変気をよくしてしまい、またゴールジュの世界に対するもの珍しさも手伝って、徐々に順応してゆき、今ではすっかり町の魔道士さんとしていたについてしまった。日々を重ねるごとに慣れてゆく我が主人を見て、実験は成功とばかりにほくそえんでいた級友の研究家氏は、ゴールジュに魔道士が関わることをよく思わない一部の魔道士に目をつけられてしまい、またもともと魔道士の世界にはゴールジュの研究はできても、その世界に関わってはならないという暗黙の決まりが存在するため、その責任を問われるかたちであえなく投獄されてしまった。皮肉にもそうした”暗黙の了解”のおかげで、我が主人だけはつかまらずに済んでしまったのである。つまり、誰も捕まえにこれないのだ。もっとも、所詮魔道士としては落ちこぼれである我が主人を捕まえようなどと誰も思わないのだろう。
こうして彼は、魔道士としてのまっとうな生活を捨てた代わりに、魔道士の世界では到底味わうことの出来なかった充実した生活を手に入れたのである。
話を元に戻そう。
私は全身のばねを使って、この狭い屋根裏部屋には似つかわしい大きなテーブルにひょいと飛び乗ると、再び主人の顔を見やった。我が主人の顔は、疲労と栄養不足のためげっそりとやつれており、頬はこけ無精ひげはごうごうと生え、愛用の丸めがねは先ほどの煙のおかげですっかり曇ってしまっている。10年前と比べだいぶ広がってきたひたいは、汗でてらてらと輝いて見えた。反面、目には光がない。
テーブルには数々の魔道書や機材、薬の材料となる乾燥させたハーブや薬草が散乱しており、整理整頓を旨とする我が家の家主、マーガレット女史が見たらひっくり返りそうなほど散々な光景になっていた。ビーカーは、諸行無常とばかりに煙を吐き出しつづけている。
主人はあきらめたように首を振り、ふうッとため息をつくと窓辺の観葉植物に向かって小さく呪文を唱えた。すると、植物はまるで動物のようにひょこっと葉っぱを立てると、それをいっぱいに伸ばして窓の留め金を器用にはずし、窓を開けた。主人のごく少ない得意技のひとつである。
冬の寒々しい空気が部屋の中に入り、ぞくりとした悪寒を覚えた私は慌てて暖炉のそばに駆け寄る。その折に、例の奇妙な液体の入ったビーカーをひっくり返してしまい、主人の今日一番の罵声が飛んだ。
「おまえは人の仕事の邪魔をすることしかのうにないのかッ!」
仕事?仕事だって?うまくいってないじゃん。
われわれ猫の思考が読める魔道士という職業は、ひょっとしたら、というかやっぱり、この主人にとっては不幸であるようだ。ゆがんだ主人の顔が、更にゆがんでゆく。
何もそんなに怒ることないって。また作ればいいでしょうが。それに今のは不可抗力だって。気にすることないって。
「お、お、おまえがそんなふうにじゃまして$%#&?!!!!」
怒りのあまり語尾がわからない。まあ、確かに多少のいたずらをしてきたことは認めるが。でもさあ、八つ当たりすんなよなー。だいたい大人気ないって・・・
「うるさい!!」
繰り出されたご主人のけりをかわし、さっとテーブルの下を駆け、階下につづく階段の入り口まで非難する。すかさず主人は手じかにあった魔道書を投げつけてきたがこれも難なくかわして踊り場まで駆け下りる。
鬼の形相でこちらを見下ろす主人。
余裕の表情(?)で見上げる私。
愛嬌のつもりでにゃあとひとつ鳴いてやると、
「でていけ!!」
とまたひとつ本を投げつけてきた。もちろんこれもよける。
今日はどうも、ご主人の虫の居所が悪いようだ。
私はご主人の怒りが収まるまで、とりあえず階下の猫好き夫人、マーガレット女史の部屋に避難することにした。
彼女の出してくれる暖かいミルクとともに。
あいにくマーガレット女史は外出中であった。
なんでもボランティアとか何とかいうものにいっているらしい。
無償で足腰の弱った老人の世話をしたり、親のいなくなった子供の遊び相手をしたりするもの、というのは近所の物知りで通っている野良猫に聞いた話なのだが、どうもわれわれ猫たちには、そうした人間の行動がぴんとこない。
猫の間でも、多少の情報交換(あそこの魚屋はいつも腐っててまずいとか・・・)
や、助け合いはするが、あくまでそれは身内に限ったことであり、よっぽど馬(猫?)の合うもの同士でしかそれは行われない。どこの馬の骨(猫の骨?)ともいいがたいものに対しては、結構厳しいのである。
そんなことを、近隣に住む野良猫たちと話し合ったことをぼんやりと思い出しながら、すっかり暗くなったアパートの廊下をあてもなく歩きつづけていた。
寒い外に出るのははばかれるが、かといって今うちに帰るわけにはいかないので、こうしてうろうろしているわけなのだが。マーガレット女史の存在をすっかり当てにしていた自分が、なんだか惨めで情けない。
そろそろ帰ろうと、階段の上り口に差しかかったとき、突然玄関の扉が開く音がした。こんな時間に誰だ?マーガレット婦人帰ってきたのかな?それとも強盗かな?いやいや強盗ならこんな堂々と入ってこないんじゃないか?などと我ながらくだらないことを心配しながら恐る恐る玄関のほうへ歩いてゆくと、そこにはややふくよかな体を黒いコートに身を包んだクライン神父の姿があった。コートについた猫の白い天敵、雪を払っている。
そうか、外は雪なのか。出かけなくてよかった・・・
「おお、チムニィ。ちょっとお邪魔するよ。おまえのご主人様はいるのかい?」
私の存在に気づいた神父は、人懐こい微笑みを浮かべながら右手を差し出してきた。私はにゃあと一声鳴くと、彼の手にほおずりをした。外の気温のせいか彼の手は氷のように冷たかったが、彼は私の”イイ人リスト”の上位を占める人物なので、これぐらいのサービスはしなければならない。ちなみにリストの最上位は当然マーガレット女史であり、下位を占めるのは近所のガキと魚屋のオヤジと我が主人である。
神父は私のサービスに気をよくしたのか、彼はいかにも人のよさそうな笑みを顔中に広げ、私を抱き上げてアパートの奥へと入っていった。
雪の染みたコートが冷たい。がまんがまん・・・
神父の腕からようやく開放され、慣れ親しんだ我が家の暖炉で温まることができ、ようやくほっと一息つくことが出来た。
我が主人もあの怒りはどこへやら、突然の訪問者に失礼がないようにと部屋をかたずけ、遠慮する神父に椅子を勧めると、いそいそとお茶をいれた。そのうち神父は、低い声で話を始めた。内容はこうである。
神父の教区に、毎週の礼拝に欠かさず出席する信仰心に厚い老婆がいるということ。
ところが最近になって、教会にまったくこなくなってしまい心配して見に行くと、なんと重い病で倒れたということ。
もう余命いくばくもなく、医者ももうすでにさじを投げてしまったということ。
彼女には、たった一人の身内である息子がいるということ。
しかし、遠い国の大きな街に出稼ぎに出ているために、連絡がつかないということ。 たとえ連絡がついたとしても、帰ってくるには時間がかかる、そこで我がご主人の秘薬(秘薬?)を使って、何とか彼女を生き長らえさせてほしい。
せめて、息子が帰ってくるまで。
「・・・しかしね、神父。」
柄にもなく神妙に話を聞いていた主人が、ここで口を開いた。
「もうとっくに90を過ぎた方だろう?毎回礼拝にこれるってことさえ奇跡に近かった。そんな人を回りの勝手な判断で死を伸ばすっていうのは、どうかと思うのだが」
「それは・・・わかっておるよ・・・わかっておるのだが・・・」
普段やさしく、明るい神父なのだが、今日だけは妙に暗かった。
声もいつになく力がない。
「私の兄にもな、一人息子がいてね。私にとっても息子みたいなものなんだ。それを考えるとな・・・」
神父はここでいったん言葉をきった。
「他人事とは思えんのだ」
主人はフームと息をはき、
「・・・まあ、神父にはずいぶんと世話になってるからな。何とかしてみるか。」
と立ち上がった。
「本当かね!」
「あんまり当てにしすぎてもらっては困る。うまくいかなくったって、俺を怨まないでくださいよ。」
神父は全身全霊、といった感じで主人に感謝の言葉を並べ、帰っていった。
主人は、神父の感謝の言葉に気をよくしたのか、はたまた使命感というやつに火がついたのか気合を入れていった。
「さて!ミカルじいさんの痔の薬はあとだ。いっちょうやってやるか!」
えっ、あれ痔の薬だったの?それに三日も失敗していたなんて・・・
数日後・・・
我が主人の気迫の一言は、ついに報われることはなかった。
神父が我が家を訪れた直後、老婆の病状が急に悪化し、そのまま二度と目を覚ますことはなかった。
まるで眠るように死んでいった、という。
われわれ猫の間では、死は限りなく孤独なものである。人間のように自殺を考えたり、自分の利益のためだけに仲間を殺したりする代わりに、死に近づいた猫は、一人で、ひっそりと死んでゆくのである。仲間を寄せ付けず、人目にさえさらすことを拒んで。
もっともこれは、私の猫としての理想に過ぎないのかもしれないが。
ともあれ、一人の老女が死んだ。彼女は、息子のいない寂しさを抱えていたであろうが、けして猫のように孤独な死に方ではなかった。それはクライン神父の教会で行われた葬儀に参列した人々の数を見ればわかる。そのなかにまじって我が主人と、マーガレット女史、そしてなぜか私も出席した。神父の好意によるものだったが、主人に言わせれば特別措置らしい。また、毛の色が真っ黒だから葬式に出ても問題なかろうともいわれた。あまりいい気分ではない。
女史によれば、この老女とは老人ホームとやらでよく顔を合わせており、やさしく気性のしっかりした、いい人だったと涙ながらに語った。ボランティアの一環だったようである。それをややうんざりした表情で聞き流す我が主人。こういうのを人は罰当たりという。誰もこの顔に気づいてくれないのが悔しい。
そんな主人も、老婆に花を捧げたときは、さすがにぐっときたらしい。緊張した面持ちで老婆の入っている棺おけ(すでに花でいっぱいだった)に近づくと、前の人に習って、一輪の花を棺おけに入れ、十字をきる。しかしそのあと、主人はなかなか棺おけから離れず、じっと老婆の安らかな死に顔を眺めていた。目にはうっすらと、普段の主人には似合わない涙を浮かべていた。そして、
「息子さんにあわせてやれなくて・・・すまなかったな」
と一言、そうつぶやいた。
帰りは少々大変であった。
葬式の席で振舞われる、ぶどう酒をマーガレット婦人が大量に飲んでしまい、我が主人とクライン神父をおおいに慌てさせた。仕方がないので、主人が彼女を担いで帰ることとあいなった。この図は大変おかしかったのだが、笑うとまた主人がプッツンしてしまいそうなので、道中笑いをこらえるので精一杯だった。
婦人を部屋におくりとどけ、われわれはまたいつもの屋根裏に帰った。
窓から差し込む冬の夕日の光が、今日だけはちょっとまぶしく思えた。
もうじき死ぬということはわかっていた。
たぶん心臓が止まらないせいで生きているということになるのだろう。身体中に転移した癌は、私の生命の回路をまだ遮断できずにいる。
モルヒネが使えなくなったため、あちこちに神経ブロックの処置を受けた。おかげで苦痛はなくなったが、自分の意思で身体を動かすこともできなくなっている。あとは目を閉じて棒切れのようにベッドの上に横たわるだけだ。点滴と酸素吸入器につながれていても、身体は内側から腐り始めている。自分ではもうわからなくなってしまったが、私の身体からは死期を間近にした者の特有の臭いが漂っているはずだ。
しかし、ほとんど死体とかわらないような身体の中で、頭だけがまだめまぐるしく動いていることを、周りの人間は気づいているのだろうか。救いは、時間の感覚を無くしてしまったことだ。まさに夢とも現ともつかないところを、私の思考は彷徨っている。だが、これもあと二、三日の辛抱だろう。
危篤という知らせに集まった親類縁者たちは、私が死なないことでなんともバツの悪い思いをしている。まるで早く死ぬのを期待するような雰囲気になってしまうが、私にはどうしようもない。最後まで人に気がねしなければならない自分に苦笑するが、もって生まれた性分というものは今さら変えようがない。また、今から変えたところで何になるだろう。付き添う娘が看病に疲れ、やつれていくのだけは申し訳なく思っている。ただ、私は、もう自分の表情すら変えることができず、気持ちを伝えることもできない。
「お父さん、朝ですよ。窓を開けて、空気を入れ替えますからね。今、顔を拭いてあげますよ。あら、髭が伸びてきてしまいましたね。どうしましょう」
時々娘は私に話しかけてくる。反応の無い相手に話しかけることを別段不思議に思ってはいないようだ。
娘が生まれた時、いやそれ以前から、家内は娘に話しかけていた。ひまわりの模様のついたマタニティ。汗で濡れた額を小さなタオルで拭いながらも、洋梨の形に突き出したお腹をいとおしそうに撫ぜて、中の子供に話しかける。家内の声は実に楽しげだった。
「今日はたくさん動いて元気がいいですね。生まれたら公園に連れていってあげますからね。お父さんもいっしょですよ」
もちろん娘からは何の返事も返ってはこない。横で聞いている私にはそれがどうしても不思議でならなかった。なぜ返事をしない相手にいつまでも話しかけることができるのだろう。しかし、家内はそんなことはお構いなしに、満足げな微笑を浮かべて一心に話しかけていた。お腹の中の何も話せない子供に話し掛ける声。今、娘の声は、あの時の家内の声にとてもよく似ている。
思えば嫁いで以来、娘とまともに話したことがなかった。以前は電話をかけてきて、家内に夫のことや子供のことなどあれこれと話していたが、家内が死んでからはそれもなくなっていた。話してきても、私が聞かなかったせいだろう。
私の意に染まぬ結婚をしたことで、娘は私にわだかまりを残している。顔に痘痕のあるフィリッピンの男を、私はどうしても娘の夫として認めることはできなかった。
ずっとまじめに勤めてきた。役所の出納課勤務というまさに版で押したような生活。酒も飲まず、遊びらしい遊びも知らずに過ごした。だからその代わり自分の家庭にだけは、それなりの思い入れがあった。何が悲しくて娘を外人の男に盗られなければならないのだろう。しかも、たった一人の娘を。
ただ、娘には一言もいえず、マニラで行なわれた挙式に欠席したことだけが、私のせめてもの抵抗だった。
「いやなら、いやとはっきりいうべきだったんです」
「だ、だけど幸子が選んだ相手なんだから…」
「だったら大人らしく、素直に認めたらどうですか。何もいわず放りっぱなしにしておいて、いよいよ式になってから自分は行かないなんてあんまりじゃありませんか。そういうウジウジしたところが嫌いなんです」
空港に向かった家内の蔑むような目を私は今でも忘れることができない。
挙式の日、一人きりの私は広くもない家の中をふらふらと歩き回り、埃の積もった子供部屋でしばらく阿呆のように佇んでいた。
意味もなく押入れを開けると、書類やガラクタに混じって、赤いビニールのケースに入った習字道具があった。『6年2組平田幸子』 娘の名前が書いてある。ふたを開けると微かに墨の香りがした。太筆と細筆が丁寧に洗われて、硯の横に並んでいる。
ぽたりと落ちた水のしずくを人差し指でぬぐうと、私は指が黒くなるのもかまわず硯にこすりつけていた。
娘はやがて色の黒い、瞳の大きな男の子を抱いて里に帰ってきた。
「はじめまして、おばあちゃんですよ。大きな赤ちゃんですね。よかったですね」
家内はさっそく孫を抱き上げて話かける。
「お父さん、抱いてやってくださいね」
無理やり抱かされると、なんとも頼りない重さが両手に伝わってきた。黒い瞳がじっと私を見つめる。私もじっと見返していた。結局、腕の中の赤ん坊に一言も声をかけることができず、私は憮然としたまま家内につき返した。これで家内と娘の世界から完全に締め出されたように感じた。娘はこの後さらに二人の女の子と一人の男の子を授かった。
「もう、意識が混濁していますので、ご本人も何を言っているのかわからないはずです」
脳溢血の患者は倒れた後、一時盛んに話をすることがあるらしい。医者はそんな説明をして去っていった。
「お前、どうしたんだ。しっかりしろ」
「ああ、こないだの年金はまだ手付かずで残っているはずですよ。通帳は冷蔵庫のとなりの棚の中に…」
話しかけると意外にしっかりした声が返ってきた。しかし、答えにはまったく脈絡がなかった。
家内は、もともと血圧が高く、気がついた時には医者に通っていたが、薬を飲むのが苦手でついそれきりになる。いつもらったのかわからないような薬が、あちこちの引き出しから薬袋に入ったままよく出てきた。下手に健康に自信があったのがいけなかったのだろう。頭の中で起きた出血は大量のもので、病院に担ぎ込まれた時はもう医者も手の施しようがなかった。
最初の日こそ声が聞けたが、それもしだいに弱まっていって、家内は疲れた時のようにいびきをかいて眠ってしまった。何とかしなければならないと思ったが、眠っている家内にどう話しかけたらいいのかわからない。
「喜久江、喜久江…」
それでも勇気を出して手を握ると、家内の名前を呼んでみた。少し苦しげに眉をしかめたまま、顔をそむけるようにして家内は眠っていた。
〈かっこつけるんじゃない。このまま逝かしてしまって本当にいいのか〉
そう自分を叱りつけてみた。でも、やはりことばは続かなかった。
娘は病室に入るなり、家内の頬をペタペタとたたいて、驚くほど大きな声で話しかけた。
「母さん、しっかりしてよ。私よ、幸子。ほら顔を見てよ」
すると家内はうっすらと目を開けた。しばらくぼんやりと宙をながめていたが、頭を巡らして私を認めると、握っていた手に一瞬だけ力がこもった。
「お父さん、幸子を許してやってくださいね」
家内は、そう一言告げると、また引き込まれるように眠りについた。
不思議と現実感がなくて、家内が逝ってしまうことがまだそれほど悲しいとは思えなかった。ただ、手を握ったままおろおろするだけの自分、それをどこかで冷静に観察しようとしている自意識、そのことがなんとも情けなくて、私は声を上げて泣いていた。
鳥の声がした。鼻先をかすめた風は冷たくて、病院の調理場の匂いがした。いつの間にか夕方が近くなっているらしい。
私がいよいよ入院となると、娘はまたフィリッピンから飛んで帰って来た。実家で何かあると、こうして簡単に娘を送り出してくれる娘の亭主は案外いいやつなのかもしれないと私は思い始めていた。娘は、いつの間にか白髪が増え、背中から見ると中年特有の丸さが目に付いた。死んだ家内も若い頃は折れそうなくらい細い腰つきをしていたが、血は争えず、娘もその後を追うのだろうか。
しだいに一日の大半を眠って過ごすこと多くなり、目を開けていることが辛く、億劫になった。最後に見た娘の姿はどんなものだったか。私は記憶のファイルをめくって頭の中にその光景を蘇らせようとしていた。手術に立ち会ってくれた時か、それとも集中治療室にいた時のことだったか。いずれにせよ、記憶がひどく朧になっていて、娘の顔の細かい部分が思い出せずかなり苦労をした。
風がもう一度私の顔を撫ぜた。
誰かが手を置いたのだろうか。急に枕もとのあたりが沈んだような気がして、ベッドがきしんだ。誰だろう。娘ではない。娘なら先ほど部屋を出て行ったはずだ。看護婦。そんなはずはない。シーツを換えてくれたので、もう夜の検温までここには来ないはずだ。
柔らかい指先を額に感じた。頬を伝い、首筋に触れ、指は私の胸の上でいったん止まった。目をつぶった私の顔を誰かが間近で覗き込むような気配がする。
今度は温かい手のひらが、ゆっくりと輪を描くように私の胸を愛撫している。おかしい。娘が帰ってきたのだと考えようとしたが、これはやはり娘の手ではない。
手のひらは、病身の私をいたわるように、また、なまめかしく誘うようにゆっくりと愛撫を続けた。誰だろう。私は開かない目で、必死に相手を捉えようとしていた。それは女の手だった。
「おまえかい」
あの世から家内が連れに来たのかと思って、私は頭の中で問うてみた。いや、違うだろう。私は家内からこんな愛撫を受けたことはない。手は、私の乳首を弄び、胸から腹へ、さらには下腹部へと漣のように伸びていった。思わずうめき声が漏れた。しかし、酸素吸入器の間からは痰のからんだような小さな音が一度聞こえただけだった。
それは、もう奇怪な出来事とは思えなかった。私は、自分の居場所さえあやしげな死にかけの身だ。感覚はいびつに研ぎ澄まされる一方で、思考は曖昧な世界をすでに往き来している。
ペニスが手のひらに包まれた。おかしい。たしかカテーテルが挿入されていたはずだったが。しかし、ペニスはそんなことをまったく感じさせず、刺激を受けるとしだいに雄々しく昂っていった。もう一方の手がやさしく胸のあたりに置かれる。息がかかると、勃起したペニスは温かく濡れた感触に埋もれていった。私はなされるがまま、快感に身を浸していた。
いったい誰なのだろう。耳元で鼓動がして、ペニスに与えられた快感は耐えがたいほどになっている。時々下半身の方から、甘い吐息さえ聞こえてくるような気がした。その一方で、夢から覚める時のように、頭のどこかが今の状態を否定していた。もう何年も、射精どころか勃起したこともないはずだ。しかし…。
ペニスを咥える女の像が頭の中で結ばれた時、ペニスは脈動して、私は果てた。それは無数の星が浮ぶ宇宙に向かって精を解き放ったような快感だった。
「フフフッ…」
どこかで嬉しそうに笑う女の声がした。
「行かないでくれ」
私は消え去ろうとする気配に向かって叫んだ。その声は頭の中でこだまのように繰り返していた。
「お父さん、いい子にしてましたか」
娘が帰って来た。とたんに今まであった感触がいつのものだったかわからなくなった。あれは何だったのだろう。あの射精は本物だったのだろうか。すべては夢の中のことのように思えた。ただ、カテーテルを取り替える時に、娘が恥ずかしい思いをしないようにと私は心の中で念じ続けた。
次の日も、女はやってきた。私は密かにこの逢瀬を心待ちにしていた。
耳朶からはじまり首筋を伝い下腹部へと伸びていく情熱的な愛撫に、私は全身を震わせて応えていた。私は私の身体を覆う女の肉体を全身で感じていた。滑らかな肌。薄い皮膚を通してはじけるような弾力が伝わる。私もいつの間にか全裸になっていた。豊かな乳房が押しつけられて、尖った乳首が私の胸の上を這いまわる。私の足にしっかりとからみつく足。
「いったい誰なんだ」
そういった途端に、唇を唇で塞がれた。濡れた髪が私の額に触れると、微かに桃の香りがした。
私の脳裏にはふくよかな女の姿が現われていた。いつか展覧会で見た版画家の作品にある女菩薩ような、白い豊満な肉体だった。黒い陰毛がくっきりとしたコントラストを作っている。その時、私の身体も、痩せ衰えた老人から若くみずみずしい肉体へと替わっていた。身体には力がみなぎり、その中心であるペニスもまた屹立していた。
女の身体は一度ふわりと浮き上がると、私の中心の上に座禅を組むようにして、ゆっくりと沈み込んで静かに交接した。女が微笑むと全身が鼓動とともにわななき、何度も何度も繰り返し精を放った。
「お父さん、お父さん」
誰かが呼ぶ声がする。
〈放っておいてくれ〉私は思わず叫んだが、声にならなかった。ぼんやりと目を開けると、私の頭を抱きかかえるようにした娘がいた。
「がんばって。いま先生を呼んでくるから」
身体中に重い疲れが乗って、呼吸がひどく乱れていた。心臓のモニターが大きく複雑な波形を描いている。やはりそうだったのか。私は笑いたくなった。今ならはっきりとわかる。女の名前は死だ。それにしても、なんと甘美な死を私は思い描いていたのだろう。それほどまでに死を恐れていたのか。やがてモニターの波形はゆっくりを形を変えると、しだいに静かな直線になっていった。
白い世界が広がっていた。
上空からは一条のまばゆい光が降りそそいでいる。もはや私も、私自身の実態を失い、思考だけが漂うようにこの白い空間を流れている。その時、私は妻の気配を感じた。
「やはりおまえだったか」
「他の人だったらお父さん恐縮するでしょう。それとも冥土の土産に別な人の方がよかったかしら」
「よそう。久しぶりなんだから」
家内の姿は見えなかった。しかし、私は家内を身近に感じて、ゆらゆらと漂いながら意識だけで話しかけている。
「淋しかったですか」
「葬式のあと独りになってからな」
「いやに今日は素直じゃありませんか」
「そう…。もうこうやって話しているのだから、自分の気持ちなんか偽りようもないじゃないか」
「これで赤ちゃんと話ができるってことかしらねぇ。お父さん…」
「お父さん、お父さん」
呼ばれて、目を開けると今にも泣き出しそうな娘の顔があった。医者が心臓をマッサージしている。
「か、母さんが…」
「母さんがどうしたの」
私はがくがくと揺れながらいった。
「ちゃんと、礼を…いえって…」
「母さんに会ってきたのね」
「その…つまり…。ありがとう」
「何いってんのよ。お父さん…」
続きのことばはいらない。たぶん娘とは、何もいえなくなった私でも、また話ができるのだろうから。私は微笑むとまた白い世界の中に吸い込まれて行った。
1,夢
はぁ、はぁ、はぁ……。
暗い暗い、闇の中。
私は一心不乱に長い長い道を走っていた。
息が切れて、すごくすごく苦しいけれど……でも止まれない。
止まってしまっては、ダメだ。
何で走っているのかも分からないのに、それでも。
止まったら、きっときっと捕まってしまう。
何故かは分からないけれど、そういう漠然とした不安が私の頭の中を目まぐるしく回っていたのだ。
『何に捕まるの?』そう聞かれてもきっと答えられないと思う。
けれど、捕まる。
捕まってしまったら、きっと逃げられない。
もう二度と日の光を見ることはかなわない。
だから、私は逃げているのだ。
逃げなくては、ならないのだ。
でも。
近付いてくる。
大きくなる足音に、近付く荒い息づかい……。
私はもうクタクタに疲れていて、走る速度が遅くなってしまっているというのに、追いかけてきているものは速度がまるで落ちていない。
このままでは……。
このままでは、捕まってしまう。
「や、いや……。」
捕まりたくなんか、ない。
私は自分の体に鞭打って、走る。
走る、走る、走る。
……走る……。
「っっっっ!」
朝の淡い太陽の光がカーテンの隙間から差し込み、冬の肌を刺すような寒さが先程までベッドの中にいて、勢いよく飛び起きてしまった私の顔や手を冷やしてゆく。
また、あの夢だ。
私はそう思いながら、少し出てきた額の汗を拭い、あの出来事が夢であったことに安堵の溜息を吐き出した。
あの夢はもう、三ヶ月前から見ている夢。
何かに追いかけられ、私は必死になって逃げる夢。
いったい、この夢は何を意味しているんだろう?
私は夢を見ると言いようのない恐怖が全身を駆け抜けるのを感じ、不安が私の胸を締め突ける。
私はそんなモヤモヤした気分を振り払うかのように、ひんやりと冷たい床に足をつけて立ち上がった。
どんな夢を見たって私が高校生であることには変わりないし、今日は平日で学校があるのだ。
例え、どんなに気分が悪くたってさぼる事なんて出来ない。
私は部屋の近くにある洗面所へと向かい、着くと始めに鏡の中に自分の姿を映し出す。
寝癖が付き、目も充血していて本当に酷い顔。
私はそんなに美人だとは言い難い顔の造りをしている。ぶすではないのだが平凡すぎる顔であった。
私はそんな自分の顔に溜息を吐いてから、顔を洗い歯を磨く。それから、髪を梳かし髪型を決める。
それらが全て終わると、次は朝食だ。
私は階段を下り、キッチンに向かった。
キッチンに付くと、冷たくなった朝食が置いてあった。
これも、いつものことだ。
私の両親は朝早く仕事に言って、夜は遅くに帰ってくる。顔を合わせない日さえあった。
子供の頃はその事に不満を訴えたこともあったのだが、今ではもうどうでも良くなってしまっていた。
あの人達は自分の子供より、仕事の方が大切な人たちなのだから。
私は、少し表情を曇らせながらそう思い、朝食を食べようと準備を始めた。
2,孤独
「おはよう!由真(ゆま)ちゃん」
「あ、おはよう」
学校に行く道。
そこで、私はクラスメートの女の子に会ってしまった。あまり人と会いたい気分ではなかったというのに。
彼女は私に元気良く挨拶をしてきて、私もその挨拶に答える。そう、ただ答えるだけ。
彼女もきっと、たまたま私がいたから声を掛けたのだろう。
「由真ちゃん、一緒に学校に行こ」
「あ、うん。いいよ」
彼女、山倉 亜佐美(やまくら あさみ)は私の言葉に、嬉しそうに笑って見せた。
私は、そんな彼女の笑顔を嫌なものでも見るかのように眺める。
もちろん、そんな態度は微塵も見せないけれど。
私は、彼女のことがはっきり言ってあまり好きではなかった。
誰にでもいい顔をしている、優柔不断女、八方美人。それが私が山倉に抱いている印象だったから。
だが、私と山倉にどんな因縁があるのかは知らないが、毎朝なぜか会ってしまうのだ。
私はなるべく顔を合わせたくないと言うのに。そんな私の心の中を知ってか知らずか、山倉は私に話し掛けてくる。
私は、独りで居たいのに。
「由〜真〜ちゃん!一緒に帰ろ」
「え……や、山倉さん?」
空が、もう既に赤紫色に染まってしまっている、その時間。
誰もいなくなっていたと思っていた教室の中から顔を出した山倉に、私は思わず驚いてしまった。
委員会で遅くなった私のことを待っていたのだろうか?
私にとっては迷惑でしかないというのに。
山倉は私の気持ちになんか気付いていないようにニコニコと笑いながら、近付いてくる。
仲のいい人なんか、いらないと言うのに。
なれ合いなんか、したくない。
私は人と必要以上に仲良くなろうとはしないし、人も私とは仲良くなろうとはしていなかった。
だが、山倉だけは別だった。
どんなに関わらないようにしていても、あっちから関わってくる。
しかも、鈍くて私が避けているのにも気付かないのだ。
はっきり言って、苛つく。必要以外に私の心の領域に入ってきて欲しくはないのに。
「でも、私、寄るところあるし」
「でもさ由真ちゃんの家って、私の帰り道の途中にあるし。私も、独りじゃ寂しいしさ」
『私も……』というその言葉に、私は思わず顔を歪めてしまった。
それじゃあ、まるで私も寂しいみたいじゃないの!?
私は独りでも孤独でも平気だというのに。私を山倉みたいな弱い人と一緒にしないでよ。私は強いんだから。
「寄るところは、家とは反対方向だから。遅くなるし。山倉さんは、家族が心配すると思うからやめといたほうがいいよ」
「由真ちゃん、それじゃあまるで由真ちゃんの家族は心配してないみたいな言い方だよ。」
「っっ」
私はあまりに鋭い山倉の言葉に、一瞬言葉を失い、それから山倉に一瞥さえもくれずに教室を飛び出したのだ。
……なんなの、あの子!?
あまりの不愉快さと怒りで私は一瞬、山倉に怒鳴りつけてしまいそうになった。
アンタに何がわかるって言うのよ!と。でも私はそれを寸前のところで堪えたのだ。
そして、私は心に決めた。
明日から、本格的に山倉を避けようと。
もう、我慢が出来ない。
あいつとの因縁なんて、私からぶち切ってやる!!!
3,影の恐怖
……逃げないと……。
私はまた何かから逃げていた。
また、また夢なのだろうか!?
でも、この体に走る恐怖は並大抵のものではない。
怖い怖い怖い。
捕まってしまったらどうなるのだろう?
嫌だ。
でも、なんだか昨日よりも後ろのものが追いかけてくるスピードが速くなっているような気がする。
このままでは。
捕まってしまう。
そう思った、その瞬間。
私は、何かに躓いて転んでしまったのだ。
っっっしまった。
そう思ったときには、もう遅かった。
何かが立とうとした私の足を掴み。
そして……。
私は、今まで私のことを追いかけていたものを見てしまったのだ。
それは……。
「っっっ私!?」
そう、私だったのだ。
私は声も出せないまま、もう一人の自分をじっと眺めてしまった。
もう一人の私は、ニヤリと嫌な笑いを顔に貼り付けながら私のことを見下ろしていた。そして、こう言ったのだ。
「やっと、捕まえた。貴女、友達も家族もいらないんでしょ?一人でも生きられるんでしょ?だったら、だったら、影の私と交換してよ」
な……。
あまりの言葉に、私は言葉を失ってしまった。
何を言っているんだ!?
そう言いたかったけれど。
私が口を開いた、その瞬間。
私の意識は、闇に飲まれてしまったのだ。
4,交換した、影と私
気付いたとき、私は……闇の中にいた。
そして、私がこうなる前のことを、思い出してみる。
ああ、そうか。
私は、影になったんだ。
物を見ることも話すことも出来ない、影に。
そんな私に、唯一出来ることは聞くことのみ。
目覚ましの音に、家の近くの電車の音。友達の笑い声に、先生の声。私の知らなかった、声。
……そして、私は誰も私が変わってしまったことに気付いてくれないことに気が付いた。
そう、どうせ私などいてもいなくても良い存在だったのだ。
だから、誰も気付かない。気付いてくれない。
と、私はそこである人物の声が聞こえないことに気が付いた。
山倉 亜佐美の声が、聞こえない。
いつもうるさいほど私に纏わり付いてきたというのに。 どうしてなのだろう?
だが、私は一つ思い出した。
前日、私が彼女と一緒に帰ることを断ったことを。
その事で機嫌を悪くしたのではないだろうか?
あり得る。
私はそう思いながら、何も見えない暗黒の世界の中で、たった一人、孤独を味わっていた……。
「由真ちゃん」
突然聞こえた、山倉の声。
私はその声に、思わず反応してしまっていた。
そして、思い知る。私がどれくらい山倉のことを考えていたのかを。
「なに?山倉さん」
私ではない、私の声が山倉の声に答える。
違うのに。
私は、ここにいるのに。
きっと、山倉も気付かないだろう。 きっと……。
「由真ちゃん、一緒に帰ろうか?」
「うん、いいよ」
なんだか、元気のない山倉の声。
いつもの、山倉らしくない。
彼女はいつも元気に私に声を掛けてきて……ううん、私だけじゃなくて、友達みんなに声を掛け、みんなに好かれて。
ああ、そうか。私はそこまで思ってから、初めて気が付いた。
私は山倉のことを嫌いな振りをしていたけど。本当はとっても羨ましかったんだ。彼女は、私にないものを沢山持っていたから。
それに、私が強がっていたときにも、自分の弱さを知っていて……。
山倉はいつでも強かったのだ。
純粋で、元気がよくって。
誰にでも臆することがなく心を開いて見せることのできる。
私とは、全く違う少女だったんだ。
今頃気付いても、遅いのに。
もし、今度山倉に会うことがあったら、色々謝ろう。
邪険にしてごめんねって。
そして友達になってくれないかな? と。
「由真ちゃん」
私がそんなことを思っていたら、山倉が私ではない私に話し掛けたのだ。
私は、耳を澄ます。
「なんか、今日の由真ちゃん、由真ちゃんじゃないみたい」
!?
気付いてくれてたの?
「何言ってるの、山倉さん。私は、私よ」
「ううん。本当に由真ちゃん本当に今日、変だよ」
「何馬鹿なこと……」
「だって、私の知っている由真ちゃんは、勉強が出来て運動もよくって。すごく責任感のある人なのに、今日の由真ちゃんは変だよ。先生に指されても答えられてなかったし、体育だって真面目にやってなかった。そんなの、私の尊敬してた由真ちゃんじゃないよ」
尊敬、してた……?
私は山倉のその言葉に、思いっきり驚いてしまっていた。
まさか、私が尊敬されるなんて。
山倉の方がずっと私なんかよりもすごいのに。
「良いじゃない。もう、私は変わったんだから。」
「良くないよ!私、いつも由真ちゃんが私のことウザイって思ってるの知ってたけど、それでも良かったんだ。嫌われるのなんか怖くなかったって言ったら嘘になるけど、でも。無関心に、他のみんなと一緒に取られるよりもずっとずっと良かった。だから、戻ってよ。貴女は姿は由真ちゃんの格好をしているけど、由真ちゃんじゃないんだから!!私の大好きな、由真ちゃんじゃないんだから!」
涙が出てきた。
私のことをこんなにも思ってくれている人がいるという事実に対して。
それと同時に……戻りたいと思った。
孤独なんか、やっぱり嫌。
そして、戻れたら……。
戻れたら、やることがある。
私は全て諦めてたけど、お母さんやお父さんに仕事ばっかりしてるなってくいついてやろう。
それに、友達を作るのもきっと難しくないだろうから、話し掛けてみよう。
全てを諦めずに、最後までやりたい!
私が今まで諦めていたその分。
きっと、大丈夫。
今の私になら、出来る。
だから、私の体を返して!
私はもう孤独なんか、望んでいないんだから。
……私がそう強く思った、その刹那。
「由真ちゃん!?」
山倉の叫び声と共に。私の意識が遠ざかっていった……。
5,戻った私と消えた影、そして見なくなった夢
「ん……」
「由真ちゃん!」
私が意識を取り戻した瞬間に聞こえた山倉の声。
私は、その声を聞きながら、目を開け、物が見えると言うことに驚いていた。
……戻ったんだ。
そう、影から自分の体へと。
戻れた。
そう思ったら、私の瞳から、涙が一滴こぼれ落ちる。
「由真ちゃん、どうしたの? 痛いところでもあるの!? いきなり玄関で倒れたから」
「ちが、違うの。山倉さん、今までごめんね」
「由真ちゃん……」
私は嬉しいんだか悲しいんだかわからなくなりながら、ただひたすら山倉に謝っていた。
今まで私がした山倉への態度に比べたら、いくら謝っても足りないぐらいだ。
「由真ちゃん、いつもの由真ちゃんだっっ!よかった。私は、平気だよ。全然、平気。だから、気にしないでよ」
優しい言葉。
私にはそんな言葉を掛けてもらえる資格なんかないというのに。
「……ありがとう」
自然に口を突いて出てしまった、言葉。
前の私なら山倉にそんなことを言うことなんか出来なかったけど、今なら言える。
そして、私は静かに微笑んだ……。
それから。
私はもう孤独がいいなんて思うことはなくなった。
人は、一人では生きていけないということを知ってしまったから。
でも、あの出来事は一生忘れることの出来ない出来事だと、私は思う。
私の人生を変えた、あの事件は忘れない。
影と体を交換した、あの不思議な体験は。
けれど、あの日からもうあの夢を見ることは無くなってしまっていた。
私に、大切なことを教えて、影は消えてしまったのだ。
もう影の意識は感じることはできない。
影は、私のことを助けてくれたのだろうか?
今となってはもう分からないけれど。
でも。
私は、あの時のことを絶対に、忘れない。
私に大切なことを教えてくれた、影のことを。
アナタは、影の存在に気付いているだろうか?
いつも絶え間なくアナタのことを見ている影の存在に。
影は意志を持っている。
でもアナタはその事を知らない。
そのことに気付かない。
でも。
もしもアナタが孤独を望むのならば、影は黙ってはいないだろう。
だって。
影は孤独の寂しさを、誰よりも知っているのだから……。
白く透き通った風の直線が、サトルのヘルメットをかすめながら通り抜ける。
スピードは空気を切り裂き、排気音はテールで渦巻く気流に巻き込まれながら、微かな高音を残して風鳴りへと変化してゆく。高温の熱を発したエンジンからは、ピストンに送られるガスとそれを制御するバルブの鼓動が熱風の微動を発している。回転数を示す針は9000回転を示し、メーターの警告灯は赤いシグナルを点滅させていた。
(風が冷たくなってきた)
石井サトルはバイクを走らせながら、季節の変わり目をその風で感じた。
秋の終り、学校帰り。今日はバイトも休みだし、いつもの喫茶店でも立ち寄るかと、うっすらと紅黄色に色付いた街路樹のトンネルを、サトルのFZは北風の様に走りすぎた。
その店は大きな楠の木の下にあり『カフェ楠』と、何のヒネリもない名前だった。
サトルはその大きな楠の木の前にバイクを止めてヘルメット脱ぎ、北風の方に目を向けると、寒さだけが彼を見つめた。サトルは一瞬ブルッと身震いして身体を縮こめると、さっさと喫茶店のドアを開けた。
”カランコロン”
「やあ、マスター。今日はすっごいサブサブだよ〜。熱〜いキリマン入れてくんない?」
「なんだよ、そんなにサブちゃんが来てるのか?」
下らない冗談を織り交ぜながら、くわえタバコで大きな望遠鏡を磨いている。マスターは今年四十歳で、未だ独身。ちなみに名前はヤマト。なんか今にも宇宙へ飛び出しそうな感じだ。
サトルはカウンターに腰かけながら
「チッ、お外はもう小冬ですよ〜。ったく、オヤジギャグっていやだね」
「おう? 何か言ったか?」
「いいや、何も言ってませんよ。早くマスターの愛情こもったキリマン飲みたいな〜ってね」
そう言うと、サトルはいつもの店内と雰囲気が違うのに気付き、ゆっくりと辺りを見回した。窓からはスポットライトにでも照らされた様に、陽射しが柔らかく店内に差し込んでいる。
小奇麗にかけられたテーブルクロス、埃の溜っていない金色のブラケットライト、いつもより遥かに輝く花梨のフローリング、なぜだかテラスの出口の所には、珍しく奇麗な花々が飾られている。どこを見ても、みな何かに清められた様な空間だった。
「マスター結婚でもするの。それとも変な宗教にでも目覚めたか? 客いないのに奇麗にしちゃってさ」
「あのな……」
マスターは紺色のカップをサトルの前に置くと、メイプルのカウンターにその影が映り込み、深い輝きをそっとのぞかせる。その輝きの中にマスターの爺臭い顔が映った。
「サトルこれ飲んだらよ、俺の代りに夕暮神社の祭りの準備を手伝いに行ってくれないか?」
彼はカップを両手で包みながら一口飲むと身体が温まったのか、ホッとした顔を上げて
「ああ、今日バイト休みだし、いいけど? マスター暇じゃないの?」
「それがな、今日ここでバースデイパーティやりたいって娘がいてな、その準備で祭りどころじゃ無んだよ。悪いんだが、みのり屋の若旦那がいるからよ、着いたらそいつに聞いて手伝ってくれ」
マスターは今度、望遠鏡の三脚を磨き始めた。
「はいはい。けどさ、何か良いことあるの俺は? ツケが半分になるとか、これから半年間無料とか、学校の成績上げてくれるとか、もしかして宇宙に連れてってくれるとか?」
サトルは、宙を見ながら指折り数え、何にしょうかと迷っていると
「あのね、そんなのあるわけねーだろが。まあ今日のキリマンは俺のオゴリでいいけどな」
「チェッ、せこいね。で、誰よここでパーティなんぞやりたがる奴は?」
「ま、お前も済んだら顔出せよ、そうすれば分かるさ。さあさあ早く飲んで行ってきてくれ」
なんだよ。と言った顔つきでサトルはマスターを見たが、相変わらず三脚を磨いている。しょうがないなとコーヒーを飲み干すと、サトルはヘルメットを抱えてドアに手をかけた。
「んで、場所はどこ?」
「神社の下の集会場だ。サトル飛ばすんじゃねーぞ」
サトルは、マスターの声を背中に受けながら扉を開けて、ヘルメットを軽く持ち上げる格好で合図すると大きな楠の木の下へと出ていった。
木陰で静かに待っているFZを、秋の終りの光りの粒が落葉にも反射して輝かせていた。
彼の親父は、若い時分に自分のミスで転倒してしまい、片足を膝の下から失っていた。サトルがバイクに乗りたいと言ったときに親父は、自分の責任で乗るのなら別に構わないと言って、特に反対はしなかった。逆にそれがサトルには不安だった。自分もいつか事故を起こすんじゃないかと。そう思うと、サトルはバイクに対して真剣に成らざるを得なかった。
キーを回し、セルボタンを押すとコイルの廻る音と共にエンジンに火が入った。スタンドを上げるとシフトを軽く左足で蹴り込み、ちらほらと落ちた枯れ葉の上を勢いよく飛び出した。
街路樹のトンネルを抜けると、空が高く青かった。左に曲がり国道へ出ると、車の流れが幾分速くなった。国道と平行しながら走る貨物列車がサトルを追い越してゆく。サトルは鉄橋までその貨物列車と並走していたが、やがて列車はそのまま抜き去って行き、貨物列車で隠れていた北側の山々が広がった。紅黄色に色付いた山、遠くのトタン葺きの民家、赤く実を付けた柿の木、神社迄の参道の白い幟が見えて、秋終の祭りの匂いを感じさせた。
サトルは左の脇道に入るとその幟を目印にバイクを走らせた。中学校の下の信号まで来ると野球部の掛け声が元気よく聞こえてきた。懐かしいなと思いながら、丘の上をフッと見た瞬間だった。いきなり脇の小道から黒い固まりが飛び出して、サトルは慌てて急ブレーキをかけ、コケそうになりながら止まった。
黒装束に白い襷掛けの小さな男の子がうつむいて立っている。
「おい坊主! 急に飛び出したりしちゃ危ないじゃないか!」
サトルはシールドを上げてその子に言う
「……」
男の子は寂しそうに肩を落として黙っている。よほどビックリしたのだろうと思い、サトルは優しい笑顔を作り、柔らかく声をかけた。
「キミ、祭りの稽古に行くんだろ? お兄ちゃんもこれから準備の方で手伝いに行くんだけど、乗っけて行ってやるよ」
「……」
「なんだ、ガキのくせに遠慮するなよ。俺、サトルって言うんだ、キミは?」
「……秋葉タカシ」
やっと口を利いたと思ったが、男の子はそのまま道路を渡り、コスモスの揺れる土手を駆け上がると、急に振り返り笑顔で手を振って、小さく「ありがとう」と言い残して走り去って行った。
「なんだ、変な奴だな」
サトルは、ぼんやりと呟いてハンドルをおこした。
”チリン”タイヤの下で何か音がした。
覗き込むと、赤くキラキラ光る何か小さな物が落ちていた。バイクを止めてそれを拾い上げると赤い鈴だった。多分さっきの男の子が落として行ったものらしい。そう思いサトルはポケットにその赤い鈴を入れると、夕暮神社へと向った。
「こんちわー、マスターの助っ人で来ましたよ」
「よう、サトルじゃねーか。まだ不良やってんのか?」
みのり屋の若旦那が赤い顔をしてニコニコ笑ながらやって来た。
「不良って事ないでしょ? バイク乗ってたら不良って、オジサン等の時代じゃないんだから。極めて僕なんか真面目ですよ。今日だって、ちゃんとマスターの代りに手伝いに来てるんですからね」
「ごたごた言ってねーで、清次んとこ手伝えや。学生さんじゃ酒は出せないがジュースならいくら飲んでもいいからな」
みのり屋さんが左手で促した先に、大きなしめ縄を出している数人と清次がいた。
「よう。清次も来てたのか?」
「おっ、サトルじゃん。こんな所に珍しいな」
「俺もそう思ってるんだ。場違いじゃないかってね」
「俺なんか親父の代りに毎年だぜ、でもやっぱり祭りは準備からやってなきゃ楽しめないよ」
「そんなもんなんだろうな、みんないい顔してるもん」
清次は中学の時の同級生で同じ野球部だった。地元の進学校に進み、サトルは隣町の工業高校に進学したため、一年半ぶりの顔合わせだった。
「エツオーエツ、エツオーエツ」
集会場の裏庭には、少年義士達が棒の杖を撃合わせながら、威勢の良い掛け声を出していた。
「清次もそう言えば、ガキの頃あの黒装束に襷掛けしてやってたな」
「ああ、あの頃はあれがカッコ良くて、強くなった気がしたな」
「そうだろうなー、見ていて羨ましかったよ。そうだ、俺もちょっくら手解きでも受けてきますか」
サトルは、そそくさと裏庭に出ると、一緒になって掛け声をかけた。
「エツオーエツ、エツオーエツ……あれ〜? この中には居ないな〜」
サトルは少年義士達をじーっと見つめ、先程ひき殺しそうになったガキンチョを見つけようとしていた。やがて練習が終わったらしく、子供たちが集会場の軒下に集まって来たので、サトルは一人の大きな男の子に聞いてみた。
「キミキミ、あのさ、タカシって子知らないか?」
男の子は不審そうな顔つきでサトルを見た後、別の男の子に話しかけ、その子がサトルの前にやって来た。
「おじさん誰ですか?」
「おいおい、おじさんはないだろ、これでも高校生なんですから。俺は石井サトルって言うんだけど、タカシって子を探してるんだ。キミ、もしかしてタカシ君のお兄ちゃん?」
「……そうだよ」
「やっぱりそうか、顔似てるもんな。じゃあ弟はどこ? 家にでも戻っちゃったか?」
男の子は一瞬暗い顔をして
「……タカシは今年の夏に死んだ。車に跳ねられて……」
サトルは驚いた。さっき逢ったばかりの子供が、今年の夏に死んでいた。自分は幽霊でも見てしまったのだろうか? それとも人違いなのか? サトルは慌ててポケットからあの赤い鈴を取りだした。
「これ、タカシ君のじゃないかな?」
サトルの大きな手に小さな赤い鈴が小さく揺れて、”チリン”と静かな音を立てた。その鈴を見つめ、小さな少年義士は小さな声で話し始めた。
「それ、間違いないよ、タカシのだよ。姉ちゃんがタカシにプレゼントしてくれたんだ。でも……その鈴はタカシのお墓に一緒に入れたんだ。その鈴をタカシは大事にしていたから……」
小さな少年義士はそう言うと、もう一度顔を上げて
「でも、それお兄ちゃんが持ってていいよ。多分タカシがお兄ちゃんにくれたんだよ。僕……上手く言えないけど、そう思うんだ」
サトルは、手に乗せた赤い鈴を見つめ、その輝きの中にあの時のタカシ君の笑顔が映った気がした。そして赤い鈴を握り締めると、ため息混じりに呟いた。
「これ、ほんとに俺がもらっていいのかな?」
すると、小さな少年義士は笑顔を作って
「お兄ちゃんも、車とか乗るんでしょ。だったら、タカシのお守りとして安全運転をしてね」
そう言うと、走って裏庭から出ていった。出ていく石垣の手前で一度振り向き、バイバイと手を振った。その姿は先程の土手を駆け上がる時のタカシ君に似ていて、サトルは苦笑いをするしかなかった。
祭りの準備の手伝いも終り、清次と一緒にと、みのり屋の若旦那から晩飯を誘われたが、マスターとの約束で戻らなければならなかったので、丁重にお断りし、かなり酔っぱらったみのり屋さんを清次に預けると、サトルはFZで帰りの道へと滑り出た。
秋の夜空には、赤黄色の月がまん丸と大きく輝いて、星は黄金色に瞬いていた。黒装束の不思議な少年と出会った場所にさしかかると、彼はバイクの速度を緩めて、その子の立っていた場所を見た。そこには奇麗な花がたくさん供えられていて、彼はそれがあった事さえ覚えていなかったんだと、今さらながら気付いた。
夜風は彼の身体を包み込み、ポケットの鈴を鳴らす。大きな楠の木が外灯の明かりを受けて大きなキノコのみたいに見えてきた。
喫茶店の窓からはオレンジ色の光りが揺れて、人が集まっているのがそこからでも分かった。彼は楠の木の下にバイクを止めると、店内を覗くようにそっと扉を開けた。
中では賑やかなパーティーの真っ最中だった。
彼は、その中の中心に懐かしい顔があるのを見つけた。それは、中学時代の同級生で生徒会長の秋葉舞子だった。その顔を見た途端、サトルはドアをバーンっと開け、思わず声をかけた。
「なんだ、なんだ? 会長じゃねーか! どうしたんだよこんな所でさ!」
「おい、こら。こんな所とはなんだよ。お手伝い済んだのか?」
カウンターの中からマスターがグラスを洗いながら、ニヤニヤした顔つきでサトルを見た。サトルはマスターを睨み付けもう一度、舞子の方へ振り向くと彼女が微笑んでいる。
後ろからマスターが小声で
「サトル、今日はその娘の誕生日って事で友達が予約してきたんだ。何でもこの店に中学時代から好きだった人が毎日来てるって事でさ、わざわざ貸し切りまでして彼女に逢わせたかったんだとよ。泣けるね〜。がしかし、それがオメーだとは笑っちゃいますね。え?」
サトルはマスターに振り向き、驚いた顔で自分を指差すと、マスターはゆっくりと頷いた。そこへ彼女がやって来て、彼の肩をたたいた。
「サトル君久しぶりだね。見た目は少し大人になったみたいだけど、その落ち着きの無さは変わってない様ね」
優しく微笑んだほっぺに小さなエクボが可愛かった。みんなの黄色い声援が店内に響き渡る。サトルはポーッと顔を赤らめて、照れ臭そうに黙り込んだ。
彼女は女子高に進学していたので、友達は当然の事ながら全て女の子で、改めて店内を見回したサトルはその異様な雰囲気に埋もれそうになり、慌ててマスターに助けを求めた。マスターは知らん。と言った感じだったが、窓の外を指差し、外へ出れば? と合図した。サトルはぎこちなく彼女を誘って外へ出た。
無風の夜空と楠の木の下。サトルは彼女の隣で遠くの星を見ながら呟いた。
「会長がさ、俺の事こんな風に想ってるとは、思わなかったな」
「そう? あたしはずっと前からサトルの事好きだったよ。気付いてなかった?」
そう言うと、フッと彼女はサトルに寄り添った。
すると小さな鈴の音がして、彼女は何となく懐かしい物を感じる様な瞳で聞いた。
「何の音?」
サトルはポケットから赤い鈴を取りだし、照れた顔で
「お守りさ、小さな少年義士にもらったんだ」
彼女はその赤い鈴を見ると、不思議そうにサトルの鈴を持つ手を上に上げ
「これ……あたしがタカシに作ってあげた赤い鈴だ……」
(えっ!)サトルは驚いた。そして今日あった事を彼女に話すと、彼女は落ち着いた声で小さく「ありがとう」と言って、鈴を持つ彼の手を軽くゆすった。すると、彼女の弟の赤い鈴は、清らかな音色を、秋の夜空に響かせた。
マスターが数人の女の子を連れてテラスで望遠鏡を覗いている。
サトルは彼女の横顔をそっと見つめ
「会長。俺達も星を見ようか?」
そう言って、彼女の手を握りテラスの方へ駆け出す。
すると赤い鈴が揺れ、”チリン・チリン”と小さな音色が広がった。
その音色は、秋の夜空にただずむ全ての者を見守る様に、そっと静かに包んでいった。
相手にされていないかもしれない。
ときどき、貴文は思うことがある。
無防備にさらされた足が、細く白く。暑い季節にはまだあるのに、下着のようなうすいシャツに短いクォーターパンツ。(小学生が体育ではくようなやつだ)
男の部屋でこんな格好でぐっすり眠れるか?
自問自答した結果、やっぱり相手にされていないのか、と思った。
貴文はそっと顔をのぞきこむ。そんなことにはまったく頓着せず上下する胸。長い睫毛。かたごしまである髪は、耳のあたりで軽くウェイブしている。それは一見すると茶色なのだが、光にすかすと緑に見えるのだ、と自慢そうに話していた麻子。綺麗にぬられた爪の色も緑。
不意にううんと呻いて麻子が小さく目を開けた。
うすく開いた目と、のぞきこんだ目とがあう。焦点のあっていない、寝起きの目に射すくめられて、完全に顔を上げるタイミングを逃す。貴文はそのまま大きく口を動かした。
「お・は・よ・う」
麻子はうるさそうに顔をしかめて手をふった。おはようじゃない、まだ寝るわ。そう言って顔をふせてしまう。
貴文はとんとんと麻子のかたを叩く。時計がさししめすのが、もう七時だと気付いたからだ。嫌々、それはもうものすごくいやだという表情で(だって額のたてじわはどうしてくれよう)麻子が顔を上げる。
「七時だ。会社」
「有給休暇」
「今月に入って三回は聞いたぜ?」
「きのう三人組の女の子が全員買ってくれたからいいのよ」
ご丁寧にお友達紹介カードまで書いてくれたしね、と麻子は再び目を閉じた。
麻子は化粧品のセールスをやっている。ひがな一日繁華街にいて女の子に声をかけ、綺麗だなんだとほめたたえ、バカ高い化粧品のセットを買わせるのが彼女の仕事だ。完全出来高制なのでしょっちゅう麻子は「有給」休暇をとっている。
貴文は小さく溜息をついてシンクに向かった。コーヒーでも入れて目をさまさなくてはなるまい。またすうすうと寝息を立て始めた麻子は目の毒だ。
空の向こうにはどんよりとした雲がたれこめている。雨は降っていない。
珍しい。梅雨が終わるにはまだ早すぎるのに。
コーヒーの匂いに目をさましたのだろうか。麻子がごそごそと起きだし、キッチンにやってくる。
おはよう。コーヒーを入れながら貴文が言う。
おはよう。寝癖を直しながら麻子が言う。
コーヒーのカップを軽く掲げてみせる。飲む? という疑問符。
「いらない。コーヒーってこんなにいい匂いなのに飲むと胸焼けするんだもの」
自分専用のカップをだしながら麻子が言う。勝手知ったる何とやらだ。カップとココアの缶(麻子が買い置きしたやつ)をとりだす右手の薬指に針金の蝶がとまっている。
針金の蝶々。
うれしさとさみしさが同時にこみ上げてくる。それは、貴文が麻子にプレゼントしたものだった。
貴文がちょっと前にやっていた割の良い内職に、それはあった。
針金のリングを作る。天使の羽やら、かわいいハート型やら、ちょっとしたビーズを通したり、そんな小細工のようなものを作る。手先の器用さには自信があった貴文にとって、そんなものをひとつ作るだけで50円も貰えるというのはおいしい仕事だった。(ちなみに、それは店で350円もして売られている。ただのような材料費と自分の賃金と、指輪の価格とを見比べて。なんだか複雑な気分になって貴文はその仕事をやめた。)
ひょうほんみたい。
つくえの上に、大量に並んでいる蝶を見て、麻子は言った。右手を差しだして、つくえ向かいの貴文に右手の薬指に針金を巻きつけさせながら。(だからあの店に並んでいるのは、全て麻子の薬指のサイズなんだ)
こんなのが欲しいなんてわからん。
貴文は器用に針金を蝶に変化させながら言った。この頃にはもう、資本主義の驚くべき秘密を知ったあとだったので、もう追加の注文は受けないつもりだった。あっという間に、一匹の蝶が標本に加わる。どうしてこんなのが欲しいんだ、自分で作ればいいじゃないか。
声には出さなかったのに口は動いていたのか、麻子が返答する。
自分でなんて作れないよ。
麻子は耳が聞こえない。唇を読む。生まれつきではない。小学校のなかごろから聴力を失ったらしかった。だからちゃんとしゃべれる。全然聞こえないわけではないらしく(医者によると普通の十分の一程度は聞こえているようだ)それに、読唇術に長けてもいるので、事情を聞かなければ普通の人と同じに見える。
貴文の手の中で蝶がまた一匹生まれ出る。もう良いかな、と思う。ここの店にこんなに貢献してやることもあるまい。
作ってやろうか。
ことん、と小さな音を立てて蝶は標本に舞い降りた。きっとこの音は麻子に届いていないだろう。
良いの?
別に大した労働でもないし。
言って貴文は、麻子の左手をとってその細い薬指にくるくると、いささか緊張しながら(しかし麻子にはそれを悟られないように)針金をふた巻きする。
ねぇ、
形、なにが良い?
あ、ええと。蝶々。
そっと指から針金を抜き取って蝶の形に仕上げていく。さっきまでと同じ作業なのに、見知らぬ誰かのために作るのと、目の前の麻子のために作るのではこんなにも違う。
なんで左手なの?
え?
さっきまで右手の薬指で型取ってたのにさ、急に左手で取ったから。
羽の模様は複雑で、触覚は繊細で、蝶は針金リングの中でも一番むずかしい。カンタンに作っているようでいて、実はけっこう疲れる。特にこんな話題を出されると。
出来上がった蝶は、今度は標本に加わらない。左手をもちあげて、薬指にそっとはめてやる。それはそれはぴったりとはまる。(さっき型を取ったばかりなんだから当然だ)
薬指に指輪をはめる夢ぐらい見たっていいだろ。
そう言えたら。でも、それこそ夢だった。実際口からでてきたのは、実に無愛想なひとことだけ。
べつに。
耳が赤くなっていないかということだけが気掛かりだった。
あの、蝶が。
あの小さな針金の塊が。今とまっているのは右手なのだ。
まだ付けていてくれたのだ、というよろこびもあり、しかし右手にはめられている指輪の意図を思って悲しくなった。
「それ、まだ付けてたんだな」
え、といって麻子はカップにココアを注ぐ手を休めた。
「だから、その、蝶」
なぜだか指輪、という単語は素直にでてこなかった。あんなものを指輪、と称してしまうのはなんだかあんまりな気がしたし、指輪という単語はとにかく気恥ずかしかった。
「これ?」
かわいいから。答えはそれだけ。かわいいから。
何事もなかったようにココアをコップに入れる作業を再開。冷蔵庫を開けて牛乳をとりだすと、ココアを作るにはいささか大きな(しかしミルクナベなどというものは、独り暮らしのオトコのうちに、そうそうあるものではないから仕方ない)片手鍋に牛乳をたぷたぷと注ぐ。そのまま火にかける。
作業の中にも答えはない。だって麻子にとってはかわいいから、で理由は済んでしまっているのだろう。
それ以上の答えなんてあるのか、と貴文は自分の位置に苦笑する。麻子にとって、それは『少し親しい友達がくれたプレゼント』以上でも以下でもないのだろう。
「どしたの? ココア飲む?」
のぞきこまれた目には、今の気持ちなんて見透かされたくない、と思った。でも見透かされた方が絶対に楽にはなるのを、分かっているくせに目をそらす。
「いや、いい」
恥ずかしくて、カップの中に顔をうずめた。コーヒーの気持ちいい湯気を気管支いっぱいに吸いこんで、貴文は。
少しだけむせた。
「バックギャモンしない?」
「俺はなにをしてるのかな?」
仕事だよ仕事。
「ねぇねぇ。前々から思ってたんだけどさ、貴文くらいならあたしが食べさせてあげられるよ?」
「それはなに? 俺にヒモになれと?」
そうじゃないけれど。麻子はむくれてつぶやいた。こういうときの麻子はとてもかわいい、と本当にそう思う。しかしながらそれは貴文にとって、麻子を直視できないときでもある。だから、わざとそっぽを向いて仕事に集中しているふりをする。今日のお仕事は作曲。知り合いのアマチュアバンドなので報酬はスズメノナミダだが、だからといって手を抜いていい理由にはこれっぽちもならない。
とんとんとシャープペンシルの尻でこめかみを叩くが、そんなことでメロディが浮かぶなら世界中みんなが作曲家だ。貴文は一息大きな溜息をついて五線譜が書かれているノートを閉じた。せっかく麻子のためにメシのタネを閉じたっていうのに、かんじんの麻子は視線をまどのそとに走らせている。
「雨、降らないのにじめじめしてるね」
「だから洗濯日和ってわけでもない」
意外と家庭的なのね、とやっと貴文のほうを見た麻子がからかう。プータロウらしくお食事はほとんどコンビニ弁当だけれど、確かにゴミ箱みたいな部屋で万年床に横になってるイメージは湧かないわ。
笑みをふくませて言いながら、麻子は革張りのバックギャモンをあけた。
「光栄だね」
取扱説明書は行方不明だ、ということを知ると、記憶だけをたよりにバックギャモンのコマを並べはじめた麻子の手に、貴文は自分の右手を軽く添えた。
弾かれたように麻子が顔を上げる。顔と顔の距離が驚くほど近い。
「な……に?」
るるるるる。るるるるる。
貴文は立ち上がる。つかつかと歩く。麻子に見えないように舌打ちして。
だから麻子はぽかんとした。そのあとすぐに憤怒の表情で。
「なんなのよ!」
「電話、鳴ってんの。ちょっと待ってて。もしもし?」
あ、タカ? おれ、久志。聞きなれた声に、貴文は文句を言うチャンスも逃す。
電話を左の方にはさんで、麻子に、久志から、と声に出さずに言う。ふてくされている麻子は、果たしてそれを見ていたかどうか。
「どうした?」
「いや、今、外からなんだけど、りくもいてさ。みんなで一緒に映画でも見に行かないかな、と思って」
「お前達のカップルの中に入って行くの勇気がいる」
貴文は笑って言った。が、それは半分以上が本心だった。りくも久志もあれでイチャイチャしていないつもりなのだから恐れ入る、と貴文は小さく毒づく。
「いつも楽しく談笑してるだけだろ?」
「うそつけ」
「それに。今りくが麻子にも電話かけてるから」
りく。
りくの声は、麻子がはっきりと聞き取れる唯一の音だ。と言っても人一倍声が大きいなんてことではない。心因性の麻子の失聴は、確かに人によって聞こえたり聞こえなかったり、という可能性はある。それも麻子が聞こえる、聞こえないを選んでいるわけではない。それは分かっている。しかし。
なぜ聞こえるのが俺の声じゃないんだ。貴文がそう自問したのも一度や二度ではない。
「タカ?」
「あ? ああ。わかった。決めてからまた電話するわ」
「いいけど。いつもの角の所の映画館だから。二時に始まるから。別に四時からのやつでもいいんだけど」
分かった分かった、と適当な返事をする貴文をいぶかりながらも久志はそれじゃ、と電話を切った。
「うんうん、分かった二時ね。じゃあね」
語尾にハートマークが確実についていただろう口調で、麻子が電話を切っていた。りくは麻子の大のお気に入りでもある。チュッと携帯電話をひとしきり愛でたあと、貴文の視線に気付き、繕うでもなく訊いてくる。
「あ、映画。だってね。どうする? 行く?」
「なんの映画だっけ?」
どこまで上の空だったのか、と貴文は自分で自分に嘲笑でもしてやりたい質問をした。訊いたあと実際、鼻で笑った。
「たしか、ラブストーリーよ」
そう言って麻子は、超古典的な恋愛映画だ、とテレビや新聞でしんらつな批評を述べられている映画の名前を口にした。
「あたしは」
麻子が、言いながらくるりとベランダに視線を向けた。今泣き出しそうな空。灰色と言うより黒に近い雲、雲、雲。さっきまではなんだかんだ言ったって、雨は一滴だって落ちてきそうになかったのに。
「バックギャモンしてる」
ひとりでバックギャモンはできないでだろ? それを分かっているのか? 期待していいのか?
「貴文は?」
ぽつり、と雨が硝子を叩いた。
「やめとく」
行くなってさ。雨が背中を押してくれる。
「雨降ってきたし、映画なんか行く気失せた」
麻子の視線とぶつかった。麻子は世にもやさしい笑顔で破顔した。そして、バックギャモンの続きを並べはじめる。
貴文は久志に電話をかけに行く。久志に麻子も行かないって、と伝えるのはどうだろう。思いっきり色男の声でさ。
るるるるる。
久志が電話を取るまでのコールの時間、麻子が訊いてきた。
「ねぇ」
なに? コール音は続く。久志のやつ、りくと「楽しく談笑」してでないんじゃないだろうな、と貴文は不穏な想像をめぐらす。
「さっきの、なんだったの?」
「さっきの?」
るるるるるる。五回。るるるるるる。六回。
「いきなり、手、握ってきたりして」
「ああ、あれ」
只今、電話にでられない状況にいます。留守番電話サービスに……
電話口を押さえて言ってやる。笑いながら。
「右から二番目のコマは三つじゃない、二つ」
電話口を押さえてる手を外して。
麻子から声が飛んでくる。それと大型のクッションも。
「あっ、そう!」
貴文はもろにクッションにあたりながら、笑い声で留守番電話に伝言を入れはじめた。
富士山の見えるこの地方都市に越してきて四か月余。彼女は私の後を逐ってきた。名前を比奈子と云う。この先にある秋葉神社に行けば出会える。そう、其処の角を曲がって、幅一間程の濡れた路地を進めばいい。彼女は死者である。私が殺した。以来、仕事前の夜には必ず彼女に会うことにしている。理由は分からないが。
着いてみると、比奈子は今日も神社の鳥居の上に腰掛けて、私を見下ろしていた。
「遅いではないの?」
「いや、定刻の筈だが」
「ふうん」
言うが早いか、ひらりと地面に降りる。
「今日は何をする?」
「オセロ」
一言告げると比奈子は足音もさせず、ふらりという体で、秋葉神社の石段を上がっていく。私は少し億劫になりながらも後を往く。
(今日こそ私の勝ち)
それはやってみなければ分からない、そう口の中で呟くと、比奈子は振り返り、小さめの赤い唇を尖らせるようにしながら、意地悪、と云い、膝に手をついて笑った。
「いつもと違うな、何か」
「そんなことないよ。私はいつも通り」
この神社は所謂村社といったもので、数間ほどある小高い丘の頂上に社を祀っている。長い石段の下にはお百度もあるが、ここで祈る者を見たことがない。信仰を喪した神社。そして比奈子。いつも思うがお誂え向きである。本殿の前にある、屋根こそ立派だが四方の壁一つない拝殿に二人腰を下ろした。
比奈子は着物の懐に手を差し込み、緑色の布を取り出した。それはハンカチにオセロの目が印刷されたもので、木製の床にはらりとそれを置くと、夜光塗料か何かで印刷されたもののように、賽の目の線が青白く浮かび上がった。続いて黒白の石をその上にざらざらと零す。
「貴方には黒が似合うよ」
黒二枚、白二枚の石を比奈子はハンカチの中央にクロスさせて置く。先攻はいつも比奈子である。白い石を一枚置き、黒を一枚白に。そして私は、黒い石を一枚置き、白を一枚黒にする。彼女は大きめの瞳を真っ直ぐに向けると、いつもと同じ言葉を告げた。
「私が勝ったら、貴方はこちらへ来る約束よね」
「ああ、いつも通りだ。私が勝ったら、此処から帰れる」
私の下半身は既に石と化している。比奈子は勝負が終わらぬ限り、私を解放することはない。将棋、チェス、トランプ。この三年ばかりの間で様々なゲームを比奈子と戦ってきたが、全て私の勝ち。彼女は私を自分の元へ引き寄せるまで、この永遠とも言える勝負を続ける積もりなのである。
「明日は、誰を殺すの?」
菖蒲色の小袖の口から雪のように淡い白さを持った二の腕が伸び、しなやかに長い指が、月の光を跳ね返す石を置く。伏せる目蓋の長い睫が綺麗に影を作っている。
「若い女だ。新新興宗教の教祖ということだ。それ以上のことは知らない」
「綺麗な人?」
「君と同じくらい美人だな」
「抱いたの?」
「抱くも何も。相手は教祖様だ」
そう、と呟いて床からぶら下がっている足をばたばたとさせる。嬉しいのか何なのか? 私は問われれば事実を答える外はない。比奈子は如何なる嘘も僅かな時間のウチに見破ってしまう。死後の人間、殊に死後の女の洞察力は生者の比では無い。
「私を抱いたのは教祖では無かったからかな」
「女は死ぬと、考え方が短絡になるのか?」
私は右上隅に黒い石を置く。斜めに三枚。横へ四枚、更に下に二枚の白石を黒にする。比奈子は白い歯を口元から少し覗かせると、悔しそうに下唇を噛んだ。
「女はいつも短絡的だよ。それの何処が悪いって云うのかな。貴方たち男の方が屈折し過ぎているんじゃない。男はいつもそう。口にしないことが美徳だとでも思っているんだ。結局、卑怯だよ。何時でも手を引けるようにしておく。何も言わないまま、いつまでも私の体に縋り付こうとばかりしてる。そう云われた方がずっとマシなのに。疲れた時に甘えられるように女が必要だと認めたくないだけでしょ。女は都合のいい生き物だと思ってる」
「そうかもしれないな」
「あら、認めるわけ。黙っているのが貴方らしいのに」
比奈子の姿が少しずつ変貌し始める。爪が腐臭漂う黄色に変化し、肌が乾き、張りのあった頬が崩れ始め、目の下の隈がどす黒く落ち窪んでいく。艶の無くなった白い顔は頭蓋に近付いていく。
「その姿は私の前では見せない約束だが」
「こういう姿にした張本人は貴方」
嗄れた声を上げる白骨の乙女は、骨と皮だけになった指先に白い石を摘み、緑の盤に置く。一度に十枚近い黒が白に変わっていく。最早、オセロに触れることなく、石は独りでに裏返っていく。
比奈子が死ななければならなかった理由など、分かろう筈は無い。命じられた人間を殺すのが私の仕事だ。月の下で、桜の下で、そしてこの夜の下で。それが偶然、自分と関わりを持った人間だったというだけのことである。
桜が咲いていた。信号を無視して強引に右折すると、そこに菖蒲色に身を包んだ女が立っていた。大きな衝撃がクルマを襲った瞬間、女は腰の辺りを奇妙にへし曲げ、長い髪を風に飛ばしながら、顎を反り返らせたまま宙に舞った。胸元から首を経て顎へ至る曲線が美しいと思った。バックミラーで地面に落ちる瞬間まで見ていた。前を走る車に追突しそうになって我に返り、アクセルを踏み直した。私は、あの女が比奈子だということは理解していた。
「それで何故?」
何処から取ってきたのか、小さな笹を指先に持って比奈子は唇に当てた。彼女は花開くように元の姿に返っていく。鮮やかさの消えた着物は色を戻し、幾重にも折り畳まれたような首を刻む皺も姿を消した。触れば跳ね返ってくるような、二十歳の肌。陰影を造っていた頭蓋の形はなくなり、月光を白い頬が跳ね返す。比奈子は柔らかさの戻った掌と甲の両方を見つめ、くすっと微笑んだ。双眸は夜の光に潤んだ光を放っている。私は、その微笑に奇妙な懐かしさを憶えた。今日の比奈子はよく笑う。そのせいだろうか。
比奈子は白と黒の石を数える。一、二、三、四、五、六……小さな声で、楽しそうに。
「二つ差だね、今日は勝てるかしら」
「何故そんなに拘る? 私を殺そうと思えば、いつでもお前には出来るだろう」
「貴方に負けを認めさせたいんだ」
「負け?」
何故、私は比奈子を殺したのだろう。そして、彼女はどうして私を殺さないのか。彼女は私の考えていることさえ手に取るように分かる。さっき、比奈子が宙を舞う姿を回想した時、彼女は「何故」と聞いた。そして微笑み。私の心の中で形に出来なかった何かが、確かに組み上がりつつあるような感覚に囚われる。
「どうして私を殺しちゃったんだろうね、貴方は」
「仕事だからだ」
私の声を掻き消すように、比奈子は白い石を置く。私の手前の一列が全て白に変わっていく。形勢不利。今日は勝てないかもしれない。だが、何故だか清々しい気分になってくる。彼女のところへ行くとは、つまり自らの死を意味するにも関わらず。
「恐い? 私のところへ来るのは」
比奈子は右手の人差し指を私の顔の前に立てると、オセロの上の何もない空間の上でくるりと輪を描く。
「この勝負、ナシにしてあげてもいいよ」
比奈子の顔を見上げた。彼女はにこりと笑う。暗闇で鼻をつままれたような気分だ。だが、その提案が至極尤もに聞こえるのは何故であろう。三年間、彼女とゲームを続けていて、負けることがあればその時は命がなくなる時、と自分を理解させてきた。であるにも関わらず、彼女の提案は意外にさえも感じない。
「何故だ? 自分の復讐を果たす積もりなのだろうに」
「そう。その積もりだよ。でも、楽しいでしょ、こうやってゲームをするのが」
「ああ」
「じゃあ、決まり。今日の勝負は無し。その代わり、貴方が子供だった頃のことを教えて」
比奈子の人差し指が再びオセロの上で円を描いた。オセロは乾いた音と共に枯葉の山となって空に飛び散った。
私は祖父に育てられた。故郷は何処なのか分からない。両親がいたことは憶えているものの、物心ついた頃にはナイフを握らされていた。拳銃の扱いも習った。組み打ち術、剣道、その他諸々。十歳の頃に祖父と二人で最初の殺しをした。祖父はこの道の専門家で、仕事の段取りから実行までを全て一人でこなしていた。最初に殺した相手は、やはり若い女であった。私はその頃から、夜に自分が殺した女の姿を見るようになったが、祖父はそれを知ってか知らずか、いつも云っていた。「若い女を殺すことに慣れるまでは、独りで仕事をするな」と。十六になるまでに、何十人もの血の味と匂い、死の表情を見てきた。そしてその半分以上が若い女だった。祖父は、徹底して私にそういう相手を回したのだろう。正面から殺さねばならない場合には、必ず相手の瞳を見ろと教えられた。そして、出来ることならば、その女を抱けと命じられたのだ。それが生き残るための術だと。
「それで私を抱いたのね」
「それが理由なのか分からない」
比奈子はその返事に満足そうに頷く。笹の葉を口の前に持ってきて、ふうっと吹いた。私は秋の風が吹く肌寒さを忘れている。
「じゃあ、殺す相手以外を抱いたことはないの」
「無い」
比奈子の腕が伸びてくる。私の左手を握りそっと自分の襟元へ滑り込ませる。柔らかい膨らみがそこにある。私の手はそのまま、果実の先端を探し当てる。彼女を抱き寄せて口づけをした。互いの舌を絡ませて互いの匂いを嗅ぐ。舌が彼女の歯茎を探り、彼女の舌が私の歯茎をまさぐる。右手を彼女の豊かな臀部へ回し、裾から艶やかな太股を撫でていく。唇を襟元へ、そして耳朶を経て耳の穴に舌を差し込む。比奈子の体から力が抜けていき、心地よい重みが上半身を包み込んだ。今度は比奈子が私のシャツに手を伸ばしてボタンを外す。私の胸の上で円を描くように撫でさする。温かい舌が、私の胸腺を経て乳首の形をなぞっていく。そして、彼女はいきなり私の首に両腕をかけた。
「こうして、貴方は殺すの」
「そうしたこともある」
「そう」
比奈子の腕に力がかかった。私は呼吸の苦しさに悶えながらも、彼女の顔を見ていた。瞳の中をじっと覗き込んでいる。このままでいい。彼女の顔には何ら険しさも、厳しさもなかった。無表情でもない。こちらの気持ちが落ち着く柔らかい笑み。拝殿の軒の向こうに白い月が照っている。光に重さがあるのだと初めて分かった。彼女の重さよりも月光の質量の方が大きく感じる。
突然、比奈子は腕に込めていた力を緩めた。私は咳き込み咽せる。彼女は私の頭を抱き、体を寄せる。
「このまま私のところに来てもいい、と思ったでしょう」
私は頷く。それを見て、彼女は顔を逸らして目蓋を伏せる。
「もう、会ってくれなくてもいい。貴方の負けだから」
その言葉の意味をすぐに理解できた。そして何故、自分が人を殺す前に、この女に会おうと思うのかが分かった。私は比奈子に会いたかったのだ。そして彼女の顔を確かめたかった。匂いを、微笑を、そして肌の柔らかさを。何故そうなのかは分からない。ただ、安心する。それ以上に表現のしようがない。
「お前が勝ったら、私はそちらへ行くんじゃないのか」
「すぐ、とは言ってないよ」
石のように硬直した下半身がいつの間にか自由になっていることに気付いた。だが、立ち上がろうとは思わない。私の口は、私には信じられない言葉を吐いた。
「もう少し、お前と一緒にいたいんだ」
「馬鹿じゃないの」
比奈子は顔を逸らしたままである。聞きたくない言葉を、真正面から聞くのが厭だと言っているようだ。
「今の、忘れてくれ」
「その方が貴方らしいよ」
「ありがとう」
「くす、気持ち悪い」
比奈子は、乱れた着物を正して立ち上がる。拝殿から地面にふわっと飛び降りると、漸く私の方を向いた。奇妙な気分になる。部屋に置いてあるトランクのことを思う。中には狙撃用のライフルと、銃弾。自分が明日、富士の裾野にある建物の影に身を潜め、女の頭を撃ち抜くということが、非現実的な夢のように思えてくるのだ。果たして私にとって何が現実なのだろう。
「貴方、憶えてる。一緒に映画を見に行ったことがあるでしょう」
「つまらない映画だったな」
辺りで急に、人の気配がし始めた。二人、三人、いやもっとである。十数人か。本殿の陰、杉林の暗闇、拝殿の上にも。鍛錬によって培われた鋭敏な皮膚感覚が危険を察知している。
「映画はつまらなかったけれど、私は楽しかった。貴方、あの日の帰り道に初めて私にキスをしたよね。男性経験が少ないわけじゃないし、それがどんなものだったのかくらい、わかる」
頭上で鴉の鳴き声が響き、身を固める。肩に下げたナイフ一本でどれだけ倒せるか。
「貴方は、私のこと泣き虫だって言って、よくハンカチを貸してくれた。それに、誕生日にはずっと一緒にいてくれたし。喧嘩だってしてくれた。私は、でも貴方に死んで欲しいなんて思ったことは一度もなかったし、今でも、そんなこと思ってない。例え、貴方が私を殺したとしても、貴方は私を殺したかったわけじゃない。それだけは分かってる」
空から、林から、そして本殿から何か黒いものが飛んでくる。素早くナイフを取り出して左右にふるった。私の切っ先をかわして二度三度と羽ばたく。
鴉であった。無数の鴉が次々と頭上から降りてくる。奇声に近い鳴き声が辺りを満たしていく。数が多過ぎる。私はナイフや手刀、そして蹴りなどを繰り出しながら、一羽、二羽と大地に落としていく。だが、鴉は地面に落ちると黒い影のようになり、骸も残さず消えてしまうのである。そして、新たな鴉が再び天から舞い降りてくる。全く際限が無い。
鴉は私を狙うようでいて、実はそうではなかった。鴉達の目的は、実は比奈子であった。鴉達は上昇と急降下を繰り返しながら、鋭利な爪で比奈子の白い肌を刻んでいく。肩を抉り、腕を切り裂く。菖蒲色の着物には沢山の鉤裂きが出来、彼女は苦悶の表情を浮かべながらも、気丈にも立ち続けている。
「私は本気だったよ。そして、今も本気だよ」
反射的に比奈子を抱きしめていた。目の前が滲み、自分が泣いていることに初めて気付く。比奈子の体は、まるで作り物の粘土細工のように、鴉に蝕まれた部分が欠落してしまっている。無数の鴉は私たちの頭上で輪を描き始めた。
殺せ、早く殺せ。頭上から沢山の女の声が響いている。それは比奈子への抗議の声に聞こえる。鴉達は頭上で一列の編隊を形作ると、天高く上昇していく。
「もっと強く抱きしめて」
自分の感情をどう表現していいのか、分からなかった。生まれて初めて誰かを守らなければならないと感じた。私は壊れたのか?
「嬉しいな」
比奈子が微笑んだ。鴉たちが天空から一本の槍のように一直線に舞い降りてくる。背中に嘴の刃が突き込まれるのを感じた瞬間、漆黒の槍は比奈子をだけを貫いていた。彼女の体の重さが不意に消え、私は何もない空間を掴むような形でその場に倒れた。