| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | Freedom School | 牧田悠花 | 6000 |
| 2 | 友情試験 | のぼりん | 6000 |
| 3 | 珍味 | ラディッシュ・大森 | 5824 |
| 4 | 夢無き街、不思議の国 | フォニックス | 6000 |
| 5 | Rabbit Time | 森岡拓也 | 5988 |
| 6 | 最後の意地悪 | MOKA | 5878 |
| 7 | 植木鉢 | Ehi | 6000 |
| 8 | 少年は剣を持つ | 村玉 | 6000 |
| 9 | Thirty-six. | 楽太郎 | 4166 |
| 10 | 命 | 理久 | 5932 |
| 11 | その明け方をおよぐひと | Ame | 5976 |
| 12 | ひと夏だけの楽園 | 青野 岬 | 5939 |
| 13 | 暗殺者 | 羽那沖権八 | 6000 |
| 14 | 削除 | ||
| 15 | 答えの無い問い | 保田典子 | 5990 |
| 16 | デニッシュの事 | G-gem | 6000 |
| 17 | ウェンストンホテルの夏 | るるるぶ☆どっぐちゃん | 6000 |
| 18 | なみだみち | 伊勢 湊 | 6000 |
秋穂は、バスに揺られていた。
ガタゴト ガタゴト
「次はー、浜口小学校前〜、浜口小学校前でございます」
アナウンスが流れる。
ピーンポーン。
バスの車内に音が響き渡った。
キキィーッ ガタン
ドアが開いた。
秋穂は、座席からひょいと飛び降りると、ドアから外へ飛び出した。
プーッ!
ドアが閉まる。
僕の名前は佐川 秋穂。
浜口小学校の6年生だ。
結構内気な性格で、周りからはガリ勉と呼ばれているが、
スポーツも結構できるので、嫌われてはいなかった。
気分を晴らすため、空を見上げると、真っ青できれいだった。
雲ひとつなく、乾いた空気で、最高の日・・と、秋穂が感じた時!
「カーカーカーカー・・」
からすが秋穂の頭上を通り越した。
しかも、13羽。
「何でこんなにたくさんいるんだよ・・」
つい、秋穂は口に出していってしまった。
13羽・・ 黒いからす・・
考えただけで秋穂はブルッと身をふるわせた。
どっちも不吉じゃないか。
しかし、秋穂はそんな憂鬱な気分を晴らすため、笑顔を浮かべ、
校門から学校の中へと入っていった。
しかし、その不吉な気持ちは、間違っていなかった事になる。
校舎には行った秋穂は愕然とした。
室内履きの靴を履くと、いきなり生卵をぶつけられたのだ。
「佐川!てめえは、いつもいい子ぶってムカつくんだよ!」
「ガリ勉佐川!」
生卵が髪の毛の上で割れて、卵パックになってしまった。
仕方がないので、頭を洗って保健室へ行き、タオルをもらって頭を拭いた。
「へっくし!」
秋穂は派手なくしゃみをした。
「大丈夫? 佐川君。いじめかしらねえ」
保健の女の先生が言った。
「へっくし! 大丈夫・・へっくし! です。へっくし!」
秋穂は眉をひそめた。
今大丈夫です。って言ったのに、もうくしゃみしてるじゃないか…。
「さあ、頭をふいたら教室へ戻りなさい」
保健の先生に促され、秋穂は6−B…秋穂のクラスへ戻った。
クラスへ戻って、教室のドアをあけた秋穂は、再度驚いた。
今度は、黒板中に「佐川のバカ!」「死ね」「ガリ勉野郎」などと、所狭しと書いてある。
秋穂は、首を横に振ってため息をついた。
こんな事に頭を使っている暇はない。
いきなり、なんなんだよ…
「静かに!…あらっ」
秋穂のクラスの担任、三重日彩先生がカツカツと、足音を立てながら入ってきて、黒板を見て目を丸くした。
「誰です! こんな事をしたのは!」
先生は目を三角にして怒った。
ドン!と、プリント、教材類を教卓に置くと教卓に手をついた。
「佐川君、なにかおかしな事…いつもと変わった事とかいじめとかした覚えありますか?」
先生が秋穂の目をまっすぐ見つめていった。
「心当たりはまったくありません」
「そうですか。何の気持ちがあって、佐川さんにこういう事をやったかは先生にはわかりません。しかし、こういう事はあってはならない事です。今日やった人、今度からはやめなさい。見苦しいですよ」
クラス中をグルっと見回して、先生は言った。
先生の言葉は、無駄だった。
最初のいじめ事件から、1週間たった今、いじめはエスカレートしている。
服を隠されたり、暴力をされたりということだった
いじめを受け始めて2週間と5日たった、月曜日の学校帰り、秋穂の人生が変わるような出来事が起ころうとしていた。
秋穂は、また暴力を受け、体をあざだらけにして帰っていた。
「はぁ…疲れるなぁ」
秋穂は、今じゃ校舎の壁や、家の塀に寄りかかりながら歩いていかないと歩けないほどまで衰弱していた。
そして、学校から300メートルほど歩いた所で、秋穂は気づいた。
自分と反対側の人の家の塀に、1人の女の子が腰掛けて足をぶらぶらさせ、こちらを見つめているのを。
「君…」
秋穂は女の子に声をかけた。
しかし、女の子は塀を乗り越えると、足音を立てて、逃げ去ってしまった。
秋穂は首をひねったが、あまり深く考えなかった。
今は、いじめの方がひどいんだから…
しかし、次の日も、その次の日もまた女の子は現れて、秋穂が声をかけると逃げ帰る。ということを繰り返していた。
そして、次の金曜日になると、秋穂はしっかりと給食を食べて、力を少しでもつけた。
今日は、あの不思議な女の子を追いかけようと思ったのだ。
ちょっと、ワクワクしながら、しかし、変な所に迷い込まなきゃいいなあ…そんな不思議な思いをして、例の場所についた。
例の場所に、女の子はいつものようにいた。
秋穂は今日はなにも言わず、塀に近づいて行った。
そして、秋穂は塀に上り、腰掛けた。…瞬間!
女の子はひらりと塀の後ろ側に飛び降り、いつものように駆け足で行ってしまった。
「あっ!」
秋穂は叫ぶと、どてっと草原の上に降り立った。
ザザッ
中側は草原だった。
結構いい感触じゃないか。秋穂はそう思ったが、そんなこと思ってる暇はなかった。
女の子の足は意外に速くて、もう50mくらい先まで行ってしまっていた。
ダダダダダッ
秋穂も駆け出した。
秋穂は、実は足も50m走7秒というから、結構速いもんだった。
ザザザザッ
ぼうぼうにのびた草が、秋穂が走るのをさえぎってなかなか上手く走れない。
しかし、秋穂は考えた。
「僕が走りにくいなら、女の子だって走りにくいはず」
そう思い直して、秋穂は足を少し速めた。
だんだん、道が開けてきた。
草ぼうぼうの荒地から、赤茶げた土の上を走るようになった。と思うと、土の道は意外に短く、あっという間に木にかこまれ、森の中へ入ってしまった。
秋穂と女の子は走り続ける事約15分。
森が終わって、緑色が秋穂の目に飛び込んできた。
(また、森・・?)
そう思った秋穂は、周りをよく眺めた。
すると、目の前には木造りの学校の建物のような場所があった。
「足、速いじゃん。結構ひ弱そうに見えたけど。」
女の子がはあはあと息を弾ませて、草地の上にへたり込んで座っている僕を見下ろしていった。
「どうして、いつ…も逃げて…たんだい?」
僕は質問をぶつけた。
「そんなこといいじゃない。私、香魚。よろしくね。アンタは?」
秋穂はにっこり笑い、はなした。
「僕、佐川秋穂。よろしく。ねぇ、一体ここはどこなんだい?」
秋穂は、周りを見回して言った。
「ここはいじめを受けて、行き場を無くした子供達が通ってる、寮制学校よ」
香魚がいう。
「じゃあ、香魚ちゃんもいじめを受けてたのかい?」
「私は違うわっ 違うけど、通ってるのよ。ここの学校に」
「何でだよ? 香魚ちゃん」
不思議そうな顔をして秋穂が聞いた。
「あのね、秋穂…」
香魚が話し始めたのはこんな内容だった。
香魚も前は普通の学校に通っていたそうだ。
香魚は一切受けなかったものの、その学校はいじめの嵐が吹き荒れていた。
両親は「いじめなんてとんでもない!」といって、他の学校へ香魚を転校させたが、その学校もいじめの嵐。その次に転校した学校も、その次もいじめばかり起こっていた。
両親は我慢がならなくなった。
「もう、私達が学校を作ってあげましょう。いじめを受けた子が、行き場を無くし、自殺や引きこもりに発展しないように、いじめを受け、行き場をなくしたこの学校を作りましょう! 香魚もそこに入れるのよ!」
…と、両親はいろいろな人と話し合い、結局、この森の奥に学校を作り上げてしまったそうだ。
そして、森の奥まで町から通うのは大変なので、寮制にしたそうだ。
そして、香魚もそこに入れた。っという事らしい・・
「それでさ、この学校の名前はFreedom Schoolっというのよ。」
香魚が、ふふんと鼻をならし、秋穂を見た。
「ねえ。香魚ちゃん、フリーダムって、どういう意味?」
「ああ、Freedomの意味がわからないのね。Freedomっていうのは、自由って意味よ。自由学校、って意味…」
「じゃあ、なんでも自由にやっていいの?」
「そういうことじゃないわ。自由にのびのびとみんな暮らしているわ。」
Freedom Schoolの話を香魚と秋穂は少しした。
そして、秋穂はさっきから聞きたかったことを聞いた。
「ねえ。何で僕をこのFreedom Schoolに連れて来たの?」
香魚は、ちょっと考えてから言った。
「秋穂、いじめ受けてるでしょ?全身あざだらけよ。」
「いじめを受けて、行き場を無くしたと思ったの?」
「そういうんじゃなく、秋穂がFreedom Schoolに来たら、楽しいだろうなって思ったのよ」
「えっ?」
秋穂は、香魚のいった意味がよくわからなかった。
「ねえ、秋穂。いいじゃない、ここで生活しましょ」
「でも、親に転校するって言わないと…」
秋穂は目を泳がせた。
「いいのよ、親なんて。お母さん…私のお母さんはなにも言わないわ。授業料はいらないし、服や教材だってお母さんが作ってくれるもの。」
「…でもぉ…」
秋穂は、また悩んでいる。
そりゃあ、誰だっていきなり「私の学校で生活しましょ」なんて言われて、決められるもんじゃないと思う。
「なんなら、私のお母さんに会ってみてよ」
香魚は、秋穂の手を引くと校舎の中へずんずんと入っていった。
会話もなく、ついた所は「先生の部屋」と看板がかかった所。
コツコツ。
香魚は、その扉をノックした。
「香魚です」
「はーい、どうぞ」
甲高い声が中から聞こえた。
「香魚、どうしたの? あら、新しい生徒さん?」
香魚のお母さんらしき人が、秋穂を見て言った。
「お母さん、この子さっき、会ったの。」
香魚が前に秋穂を押し出した。
「あっ 僕、佐川秋穂です。どうも…」
ペコッとおじきをする秋穂。
「ねぇ、お母さん!秋穂さあ、Freedom Schoolにぴったりじゃない!?」
香魚が興奮していった。
「香魚。そんなにあわてるものじゃありません。だいたい、秋穂君はいじめ受けてるの?」
「受けてるよねっ」
香魚がニコニコしていった。
「香魚は黙って。私は秋穂君に聞いてるの」
そういって、香魚の母親は秋穂に視線を向けた。
「はい、いじめを受けてます」
秋穂は信じられなかった。
香魚の母親に見つめられると、隠し事が出来ないように、言葉がするりとのどを通って出てくる。
「そう。じゃあ、私の学校に入りましょ。これが、名簿よ。って言っても、全校で24人しかいないんだけどね… これが、寮の部屋割り。秋穂君は…」
「ちょっ。ちょっと待ってください!」
秋穂は、止めないと暴走しそうな香魚の母親を止めていった。
「本当に、いいんですか?授業料とか…」
真剣な顔で香魚の母親を見つめて秋穂は言った。
しかし、香魚の母親は、
「いいのよ、そんなもの。私たちはボランティアでやってるようなものだから、お金は一切取らないの。私やお父さんを親みたいに思ってくれていいわけ。秋穂君、変な心配しなくていいわ」
秋穂は、「変な」心配ってよく分からなかったが、もう、秋穂の心の中で答えは固まっていた。
「わかりました。この学校に入ります」
秋穂は、香魚と香魚の母親をしっかりと見ていった。
「じゃあ、香魚。案内してあげなさい」
「はーい、お母さん」
「お母さんじゃなく、先生!」
ぴしゃっと、香魚の母親…先生が言った。
秋穂が香魚に連れられて案内された所は、寮だった。
「秋穂の寮は…なんだ、2回の1号室か。あのね、同室の子、すっごい、いい子だよ」
香魚は、寮の部屋の前まで秋穂を連れて行くと、走り去っていった。
「私は、4階の3号室だから」
香魚は階段を駆け上がっていった。
「失礼しまーす」
秋穂はがたっと木造りの扉を開けて、部屋に入った。
部屋は整理整頓されていた。
ベットの上もきれい、机の上もきれい、窓も少し明けて空気の入れ替えをしている。
「君、誰?見かけない顔だけど。ノックしてよ、入る時は」
部屋の中には茶色い髪の毛の男の子がいた。
「こんちはっ。僕、佐川秋穂っていいます。Freedom Schoolの新入生です。ここの部屋なんだ、よろしく」
秋穂がペコッとお辞儀をした。
「なんだ、新入生か。僕は、瑞樹洋平。よろしく」
洋平は腰掛けていたベットから立ち上がって秋穂と握手をした。
コツコツ。
「はーい」
洋平が返事をする。
「秋穂君っ 君の服よ。着終わったのは、先生の部屋にもって来てね。じゃあ、時間割は洋平君に聞いてちょうだい」
先生は、いきなり入ってきて言うだけ言うと、あわてて出て行った。
「先生は、いっつもいそがしいんだよ。着替えたら?」
洋平がうながした。
秋穂が着替えようとすると洋平がじっとこっちを見つめている。
「なっ なに? 僕がどうかした?」
秋穂があわてて言うと、洋平も慌てて返した。
「あっ ずいぶん、秋穂君は華奢だなあと思って・・」
「まっ いろいろ事情があってね。・・」
秋穂と洋平は、いろいろな事をしゃべっていたらあっという間に1時間もすぎてしまった。
「あ、そろそろ、ミーティングが始まるよ。5時からはミーティングなんだ」
洋平と秋穂は立ち上がって、1回へと降りていった。
ミーティングルームと札のかかった部屋に入って行くと、他に25人ほどいた。
「はい、全員そろいましたね。新入生を紹介します。秋穂君!」
「はい!」
先生が甲高い声で言ったので、つられて秋穂も大きな声で返事をしてしまった。
「佐川秋穂です!よろしくっ」
「わ〜い!」
秋穂が自己紹介すると周りから歓声が上がった。
秋穂は、ここで上手くやれるような気がしてきた。
秋穂と洋平はFreedom Schoolの中で、1番の仲良しとなった。
そして、授業の内容は、普通の学校と同じだった。
しかし、話し合いの時間は他の学校より多いし、
休み時間だって多い。
授業が延びれば、休み時間に入ってものびている。
とにかく、「Freedom」な学校だ。
そして、楽しい時は過ぎ、秋穂が入学してから1ヶ月と半月が過ぎた。
「秋穂! お前、僕の日記読んだだろ!」
「ええっ 洋平。君の日記なんて読んでないよ!」
「言い逃れするなよ、僕が席をはずしたあと、閉じてあった日記が開いてたんだからな」
「風がやっただけでしょ? この部屋の窓はいつもあいてるんだから」
「秋穂!」
「もう、やめて!」
バターン!
秋穂と洋平が派手な喧嘩をしていた。
そこに、香魚が飛び込んできた。
「もう…やめて」
ふらっ
「あっ 香魚ちゃん!」
「香魚!」
香魚がずるずると倒れた。
そして、香魚は意識を失っていた。
ピッピッピッピッ…
「んん・・」
点滴を香魚はされていた。
「洋平君、秋穂君、香魚はひどい病気だったのよ。一時は治ったと見られていたんだけど、少し病院に行かない間にこんなに病態が悪化するなんて…」
「お母さん、秋穂、洋平…」
「秋穂。秋穂、私が良くなったら、未来、一緒にFreedom schoolの学園長しよう。後継ぎの男、探してたん・・ん?」
香魚がいきなりむせ始めた。
「看護婦さんっ」
香魚の母親はさっと青ざめて看護婦を、探しに行った。
そして。
1時間後、香魚は命を引き取ったそうだ。
死因は呼吸困難。
香魚は肺の病気だったそうだ。
香魚は、気づいてなかったようですが、秋穂をすきだったようです。
秋穂も香魚が好きでした。
香魚が「学園長しよう」と言ったのは、結婚しよう。という意味もあったのかもしれません。
秋穂はしばらくして夢を見た。
香魚と一緒に生活している夢を。
日常が慌しく過ぎていくと、何か大切なものを忘れているのではないかとふと思う事がある。が、それも大抵の男にとっては、中年になるまでに幾度か経験するある種の感傷にすぎない。
人生の折り返し地点を回りきってしまい、未来よりも思い出の総量のほうが多くなった時、過去の大切さは確実に忘却の闇の中に捨てられる。大切なものは、家族や会社や、それから責任、信用、義務と言うよく似たニュアンスの荷物のことであり、決してかつての何かではない。
岩村の日常も同じである。仕事のために仕事をし、生きるために生きている。毎日が同じで、退屈な変化のない繰り返し。それが悪いと言うわけではなく、それが普通なのであり、「人間はもっとも普通らしく生きる事こそすばらしい」という価値観だってもちろん認められている。岩村にしてみれば、そのことに疑問を挟む余地もない。
が、人生と言うのは面白い。たまに不思議な出来事が日常の狭間の中で起こることがある。忘れたままでいた過去の亡霊が、ふいに顔を出すような瞬間である。それは誰にでもある。普通以上の普通人であるはずの岩村でも例外ではない。
その日、岩村が食事休憩から事務所に帰ってくると、女子事務員が慌しく近寄ってきた。
「係長、吉田さんという人がお見えです。商談室の方でお待ちになっていますので、よろしくお願いします」
「吉田?」
岩村にはその名に聞き覚えがない。すでに岩村は、この時、不思議な日常の狭間の中に入ってしまっている事に、気づかないでいる。
「どこの得意先の担当だったかな?」
会社名もきちんと聞いていないらしい。岩村はやれやれというように片方の眉を吊り上げてみせた。
が、すでに目の前には先ほどの女子社員の姿はない。
苦笑いをするしかなかった。岩村の休憩時間が、誰よりも少しばかり長いのが、事務所の女の子たちに気に入られていない原因らしい。だがまあ、それはどうでもいい。岩村の周りの空気が、ちょっと若々しすぎると言うだけの問題だ。
それにしても、午後から得意先とのアポは一件もないはずである。訝しくはあったが、とにかく商談室に急いだ。先ほどの女子社員の言い振りでは、かなり待たせているようでもある。
ところが、実際に商談室に飛び込み、その客と対面しても疑問は晴れない。会ってから思い出せばいいことだ、とタカを括っていたのだが、一向に相手が誰なのかわからないのである。同年輩の男性で、身なりはサラリーマン風だったが、同じ業界の人間のようには思えなかった。
しかし、その男は先手を取るように馴れ馴れしい口調で話し掛けてきた。
「何、ぼけっとした顔してるんだ。俺だよ、俺」
岩村は思わず考え込んだが、次の瞬間「あっ!」と小さな声を上げた。
高校時代の野球部の同期、あの吉田、ショートのよっちゃんだった。あまりにも突飛で意表をついた対面だったため、思考が中断していたようである。
「よっちゃんじゃないか…」
と言って、岩村は頬を真っ赤にした。すでに中年に達した大人がよっちゃんはないだろう。懐かしさが堰を切ったように溢れ出した。
「元気そうだなあ、仕事がんばっているみたいじゃないか」
「ああ、この通りだ。しかし、何年ぶりだ、お前と会うのは」
「五年前の同窓会以後、全く会っていない。年賀状ももらっていないな」
岩村の筆不精を突いているのだろう。だが、冗談とも思えないような口ぶりで、岩村は少しひやりとした気持ちになった。
今日はなんの用だ、とあからさまに尋ねるのもおかしいと思って、次の言葉を捜していると、吉田が急に暗い表情になった。
「懐かしさは後回しだ。木村が先日死んだのでな、とりあえずその報告だ」
「木村……」
キャッチャーの木村である。
その名を聞いたとき、岩村の頭の中であの時のいやな感情が蘇ってきた。それを察したのか、木村が咎めるような目で岩村を見た。
「俺たちは永遠に親友のはずだよな」
「……ああ」
「三ヶ月前のことだ。木村がお前に電話してきただろう」
岩村は思い出していた。
すでに高校を出て十数年が過ぎていて、木村とは互いにその時以来である。
が、その木村が久しぶりに連絡してきた内容は「保証人になってくれ」というものだった。岩村にとっては、あまりにも突然な話だ。ある暴力団から事業の資金繰りに当てる金、五十万円を金融してもらい、その支払いを数日延ばしてもらうための保証人だった。
当然、岩村は逡巡した。
……いや、返事はすぐに決まった。彼はその頼みを断ったのである。
「しかたないだろう、突然の事だったんだ。それに僕だって家族があるんだぞ」
と、岩村は吉田に向かって噛み付くような声で言った。
「お前、まるで木村が借金を踏み倒すような言い方だな。彼がちゃんと金を返せば、保証人には何のリスクもないんだ」
「だが……」
常識としてそういう場合に保証人になる者は誰もいまい。まともな社会人なら、そのくらいの知識はある。岩村にはあの時のあの対応が悪いとは、どうしても思えない。
「それでも友達か!」
と、突然、吉田が大声を出した。
「木村は保証人がいなければ、命に関わるかも知れないとまで言っていたはずだぞ」
語気を荒げてそれだけ言うと、ふいに吉田の眼が遠くを見つめるように宙を彷徨った。昔のことを思い出したのだろう。
「あの最後の試合が終わったあと、夕暮れのグランドで俺たち九人は誓ったはずだ。俺たちの友情は永久に変わらない。将来、例えばこの中の一人が危機に陥ったときは、全員が集まって助けてやるのだと……」
若い頃の青臭いロマンに過ぎない……とは、岩村は思いたくない。しかし、現実は甘くないのだ。
岩村は口重く尋ねた。
「そういうお前は木村の保証人になったのか」
「当たり前だろう。レフトの佐賀などは、元金の五十万円をすぐに用立てて木村に渡したんだぞ。保証人になるよりも、金をすぐ返すほうが先だと言って……。もちろん、その五十万は木村のために捨てるつもりだったらしい」
「木村は、昔の仲間みんなに金の無心に回っていたのか」
「問題はそう言うことじゃない」
吉田は再びとげとげしい口調になった。
「それが俺たちの関係だったという事だ。それが仲間と言うものだろう」
吉田の剣幕に岩村は言葉も出ない。ただ、妻や子供たちの顔が次々に脳裏を過ぎった。彼が今守らなければならないもの、最も大切な価値は、すでに古臭い友情とは別のものである。
「が、九人のうちお前と同じ事をしたヤツがあと二人いた。どうやら、お前たちは木村の企みにまだ気づいていないようだから、教えてやらなければいけないようだな」
「企み?」
「木村が暴力団から金を借りたというのは嘘だ。あれは俺たち皆を試す、友情試験だった」
「友情試験……?」
吉田はにやりと笑った。先ほどまでとはまったく違う顔になっている。
「木村は実業界で伝説のサクセスストーリーを体験し、一代で莫大な財産を得た。だが、幸運は長く続かない。栄光の絶頂で不治の病にかかり、余命幾ばくもない体になってしまった。その病気はいくら金をつぎ込んでも直らないのだ。ところが、彼には親もいなければ妻も子もいなかった。その財産を残す親戚縁者が一人もいないということだ」
「まさか……」
「そのまさかさ。彼にとって最も信頼できる人間関係は、友情しかなかった。それも俺たちが一番、純粋で正直だった時代のな」
岩村は生唾を飲んだ。
「残念だが、あの友情試験に不合格になったお前たち三人には、木村の遺産は何も残っていないよ。俺も含めた他の連中は、一日にして億万長者の仲間入りになることができたがな。ははは」
岩村の心の中で沸き起こってきた卑しい欲望が、あっという間にどす黒い嫉妬に変貌していくのがわかった。と同時に、取り返しのつかない過ちを悔いる気持ちが、彼を虚脱感に突き落とした。
それは、木村を惜しむ気持ちでなく、残念ながら、金を惜しむ気持ちである。だが、岩村はそのことにまだ気づいていないようだった。
「……で、お前は今さら何でここへ来たんだ。自分らが金持ちになった事を自慢しに来たか」
岩村の感情の起伏は、ついに怒りの気持ちに変わろうとしている。ところが、吉田はさらに不思議な事を言う。
「そうじゃない。今度はお前を誘いに来たんだ」
「どういう事だ?」
「ライトを守っていた、ほら、宮崎のこと覚えているだろ。宮崎が木村の引っ掛けに過剰反応して、暴力団の事務所に単身、談判に行ったらしいんだ。あいつ、昔から早合点がひどかったからな」
「暴力団に金を借りたというのは嘘なんだろう?」
「嘘だから困っているんだ。木村がその与太話の中で適当に名をあげた暴力団が実在していたんだ。宮崎の馬鹿め、木村を助けようとしてその事務所に飛び込んだ。彼の奥さんから泣き声の電話があって、その暴力団に宮崎が人質にとられ、逆に脅かされていると言う。助けてくれと言うんだ。相手は本物だ、ぐずぐずしていると、マジで宮崎の命が危ない」
「なんてことだ」
「これから、俺たちは宮崎を助けに行くつもりだ。お前ももちろん来るだろ?」
「ま、待てよ」
岩村はたじろいだ。
「本気で暴力団に宮崎を迎えに行くつもりか?警察を呼べばいいじゃないか」
「警察は事件が目の前で起きていないと動かない。それに確かな証拠がないとどうしようもないんだ。警察を当てにしていると、取り返しのつかない事になってしまう」
言いながら、吉田が立ち上がった。片手に包丁を握っている。
「とりあえず、台所から妻が使っているヤツを持ってきた。お前の分はここに用意してある」
吉田は机の角に立てかけてあったバットを岩村に渡そうとした。
「俺の子供のバットだ。お前の振りならかなりの破壊力が出るだろう」
「は、早まるな、吉田。これじゃまるで殴り込みじゃないか。僕には妻も子供もいるんだぞ」
「何をいってやがる」
吉田は激昂している。
「俺にだって子供はいるさ。だが、家族やその愛情と、俺たちの友情は天秤に掛ける事はできない。そのどちらも手にとって測れない大切なものだ。今一番、守らなければならないものは何か、その事だけを考えたらいい。こんな簡単な答えはないじゃないか」
吉田は壁際に近づくと、窓を力いっぱい開け放った。
「下を見ろ」
岩村が駆け寄ると、窓の外から名前を呼ぶ声が聞こえる。一人や二人の声ではない。そこにいたのは、あの頃の野球部の奴らである。
揃いも揃って、みごとな中年オヤジたちの集団だった。
セカンドを守っていた三沢は、今だに司法試験にチャレンジし続けて、大変な苦労をしているはずである。その三沢もジャージ姿で混じっていた。日本手ぬぐいを額に巻いて、片手に棍棒のようなものを持っているのが見えた。
県庁で公務員をしているサードの秋山が、スーツのままで千枚通しを振りかざして叫んでいる。
「降りて来い、岩村。皆で宮崎を助けに行くんだ」
続いて、ファーストの多田が、昔のように秋山の側で合いの手を入れた。
「エースのお前がいなくちゃ話にならんぞ」
言いながら、チェーンをぐるぐると振り回している。
岩村は絶句した。
知らず知らずのうちに窓から後ずさった。その肩を吉田が掴んだ。
「さあ行こう。皆が待っている。お前は俺たちの仲間なんだ」
次の瞬間、岩村は肩に乗った吉田の手を力いっぱい振り解いていた。
顔面は蒼白になり、目は血走っている。
「お前たち、自分の言っていることがわかっているのか。僕には仕事がある。仕事を放り出して出て行く事はできない」
「皆、仕事をもっているさ。三沢だって次の試験が近いんだ。だが、そんなことよりも宮崎を助ける事の方が大切だと判っている。それが本当の友情だからだ」
「それは友情じゃない」
吉田が首を傾げた。岩村は言葉を投げつけるようにして言った。
「いいか、友達の保証人になる事も、みんなで喧嘩しに行く事も、それらは全部、お互い同士の甘えに過ぎない。友情と言うのは甘え合いじゃない。もっと自分に厳しく付き合うことだ。例えば僕なら、どんなに金に困っていても友達に借りるようなバカはしない。友達に負担はかけない」
「おいおい」
吉田は大げさにため息をついた。
「わざとらしい言い訳をするなよ。相手に甘えを許さないような関係が友達と言えるか? 負担をかけないことが友情だと言うのか? それじゃあ、友達同士と言う、神様に選ばれた特別な人間関係の意味がなくなってしまうじゃないか」
「ともかく、僕は行かない!」
岩村は叫んだ。自分のその声に驚いたように目を丸めた。
こうなったら、理屈ではない、と岩村は思っていた。
「僕は行かない。悪いけど……行かない」
深呼吸をしながら、同じ言葉を反芻した。徐々に昂ぶった感情が落ち着いていくのがわかる。もちろん、その言葉に後悔はないはずである。
一瞬、異様な沈黙が二人を包んだ。岩村を見つめる吉田の表情が悲しげに歪んでいる。
「それでいいんだな」
「ああ……」
岩村ははっきりと答えた。
「俺はお前に二回チャンスをやった。二回の友情試験にお前は答えを出してはくれなかった」
「友情試験? これもか……」
だが、吉田はもはや何も答えない。ただ、がっくりと落とした両肩に、一抹の寂しさだけを漂わせていた。
岩村が気がつくと、そのまま後姿になったかつての親友は、狭い商談室からその姿を消していた。窓から首を突き出して再び路上を望んだが、そこにもあの中年軍団の影はなくなっている。ただ、窓から飛び込んできた一陣のつむじ風が、灰皿の灰を巻き上げ、ひとり残された岩村の鼻をくすぐって通り過ぎて行っただけである。
――その後、岩村は何事もなかったように日常に戻った。
何かとてつもなく大切なものが通り過ぎていってしまったような感覚が、しばらくの間岩村の心に残り続けたが、それも月日と共に遠のいて行き、思い出せない感情に変わっていった。
あの決断が本当に正しかったかどうかは岩村にはわからないし、同じように他の誰にもわからないに違いない。
だが、それからわずか数年後に、人類は誕生以来未曾有の大厄災に襲われ、絶滅の危機を迎えることになる。
その時、あの日岩村を訪ねてきた男は、すでにノーベル賞を二度も受賞し、世界中にその名を知らない者はいないほどのビッグネームになっていた。
岩村にしてみれば、かつての親友は、自らの人生からあまりにもかけ離れた存在になり過ぎた。もはや、あの時の友情試験に思い至る事は決してないに違いない。
だが、岩村のまったく知らないところで、吉田が総指揮し、木村財団がその全財力を注ぎ込んだ「ノアの箱舟」計画は確実に始動していた。それは人類の存亡をかけた、一大プロジェクトだった。
しかし、そこで選ばれたわずかな人類の中に、岩村とその家族の名前がなかった事だけは確かな事実である。
珍味屋
男はテーブルの上に四角い物を置いた。
百万円ってこんなあっけないかさなんだっと、民子は思った。
「本当にこんなもので良いんですか」
「ハイ、ぜひそれを頂きたい.」
男は喋り方も、抑制が効いて品があった。
「それでは採取させていただきます。よろしいでしょうか」
男はアタッシュケースから、出した大げさな器具を使って私の上唇に出来たかさぶたをうやうやしくはがした。
痛くは無かったが、ちょっと引きつれるような違和感があった。
「おお」
男は小声で言った。
「又新しいかさぶたが出来ます、すっばらしい。ぜひ大事に育ててください。」
「そだてる?」
「私どもはあなた様から採取したかさぶたを、あらゆる面で検討し、吟味したく思っております。
それで先方様が,気に入られて採用となれば、今出来つつ新しいかさぶたも私どもが買い取らせていただく事となりましょう。」
「は〜」
民子は貯金した百万円から二万円を下ろして、服を買った。
小さな鏡で全身を映して見ることは出来なかったが、ベージュのワンピースはなかなか似合っていた。
一週間後にそれを着て、男との約束の場所に行った。
三十分も早く行ったのに、彼は待っていた。
民子を遠くから見つけると、男ははじけるように席を立ち、会釈した。
「喜んでください。あなたの例のものは大変気に入ってもらえました。ぜひ年間契約を結んで欲しいと先方様のたっての御希望です。」
「ええーーつ、別に良いですけど、本当にこんなんでいいんですかー」
「年間契約を結んでいただければ、先方様がどれほど喜ばれるか知りません。
私も嬉しいです。
こんなに大きな契約が取れて・・・
ご覧下さい。
一年に最低五十個の上唇に出来たかさぶたを採取させていただければ、こちらの金額をあなた様に差し上げることになっています。
もちろん前金です。」
誇らしげに男の示した金額は,途方もない金額だった。
振り込まれた金額を何度も確かめてみた。
空恐ろしい数字だった。
おそるおそる全自動洗濯機を買ってみた。
七万五千円引き出しても、通帳の残高は、びくともしなかった。
本当にこんな金額が私のものになったのだ。
しかもかさぶたなんかで。
こんなところに出来るかさぶたがいやでいやで仕方なかった。
風邪気味になると、上唇がこそばくなり、そこに風の花が出来、かさぶたになった。
みっともない限りだった。
早くかさぶたを取ろうとするあまり、またかさぶたが出来てしまう。
マスクしたり、バンドエイドを張ったりしても、またもとの黙阿弥で、かさぶたが出来てしまう。
しかももとのより大きなかさぶたが、出来てしまい、がっかりする。
こんなものがお金になるなんて、半信半疑だったが、通帳のお金は紛れもなくある!
銀行に行くと応接間に通される。
お茶が出る。
やっぱり、お金があるんだ。
本当に私のお金なんだ。
民子は電話をしてバイトを止めた。
どぎまぎして電話したが、コンビニの店長はあっさり
「分かりました。」
とだけ言って、電話を切った。
キャッシュで買うといったら、マンション業者は、小躍りした。
中古の小さなマンションが易々買えた。
今日、男がかさぶたを採取に来る日だった。
民子は朝からどの服を着ようかと迷った。
通販で買った花柄のツーピースにしようか、ピンクのTシャツとジーパンにしようか迷った。
丁重にかさぶただけを除いて化粧をした。
男はかさぶたを採取し終わると、ちょっとあなたに言わなければならないことがあると言った。
民子は血が良い具合に盛り上がってきた新しいかさぶたを気にしつつも、胸の高鳴りを覚えた。
男は言いにくそうに話し始めた。
「私がクライアントの要望をあなたに話さなかったのが、いけないんです。
なんせ私はこの商売初めて日があさいもんで・・・・
まったくもって、若く美しいあなたには酷ですが・・・・
この場に及んで、いまさらお金を返すわけにもいかないでしょうし・・・
申しわけないのですが・・・
どうか心して守ってiいただきたい条件があるんです。」
男の額には汗が浮かんだ。
「つまりですねー。そのー、あなたが、男性の方と・・ですね。
交渉・・交接・・つまりですねー・・ええー-と合体?」
男は言葉に詰まって、口をつぐんだ。
「セックスのことですか?」
「そうそう、そうゆうことをなるべくと言うか、絶対なさらないで欲しいんです。
かさぶたにその・・・なんて言うか・・・悪い影響がでるっていうか・・・とにかく・・・味が落ちるんですって。」
「味って!このかさぶた!!私のかさぶたを食べているんですか?
食べるために、五十個のかさぶたを食べるために・・・あんな大金を払う人って何なんですか?」
「ああああー絶対他言なさらないでくださいよ。
あなたにはいずれはお教えしなければならないと思っていました。
そうあなたのかさぶたをお所望する御方は、シシリー島に住む漁師さんです。
もちろんそれは世の中の目を欺く仮の御姿です。
彼は大富豪であらせられます。
この世の中の事象のすべてが彼の欲望を満たさんがために起きているのです。
天変地異さえもです。
最近とみに聞かれるエルニーニョ現象、アレは彼の要望で起きています。
火山の爆発なんかの半分は彼の要望だと聞いています。
信じがたいとお思いでしょうが、そうなんです。
古くはジャネット・リンがオリンピックで大また開いてこけたのも彼の希望をかなえたためなんです。
最近では、日本の誰とは言いません、彼女の涙を見てみたいなどといったため、一連の騒ぎが、しかけられたのです。
びっくりですよね。
信じられないでしょう。
つまり、そうゆうすっごい人なのです。」
「そうゆうすっごい人がなぜ私のかさぶたなんかを?」
「彼は、御小さいときにご母堂様との別れを経験なすってから、かさぶたに執着する、なんてい言うか、変態じみた趣向をお持ちになられて・・・・」
「つまり、お母さんが私みたいにうわ唇に、ヘルペスが出来ちゃって、それがかさぶたになる人だった?」
「そのとうりです。彼はシシリー島の高台の掘建て小屋から見える夕日を眺めながら、スコッチを飲みつつあなたのかさぶたを舌の上に載せ、そのほのかな血の味を味わいつつ、お母様のことを思い出しながら、涙に咽ぶのです。
お母様は、弱冠十九で彼を産んで、彼が三才になるかならぬかの時に五十三の夫に離別を言い渡され、子供は取られるはで、世をはかなんでシシリーの海に身を投げて亡くなられてしまわれたのです。
あなたは今、22才でしょう。
お母様が亡くなられたのも22才なんです。
どんなに世界中が自分の思うとうりになっても、彼は可愛そうな人です。
あなたの上唇のかさぶたをなめてお母様のご無念を思い、夕日を見て涙するのです。
夕日が水平線に落ちて、あたりが暗くなるとき、咆哮のような彼の鳴き声が、島中に響き渡ると言います。」
男は、目に浮かんだ涙をこぼすまいと目を見張っていた。
「お金がいくらあっても、満たされないものってあるんですね。」
「そうです、あなたもこの一年契約が終わったら、結婚するか、何か事業を始めるかした方が良いです。」
民子が男に切なそうな視線を送った。
男は逃げるようにマンションを出ていった。
民子は男をあきらめるにはどうしたら良いだろうかとばかり思って暮らした。
電話帳をめくって、探偵社を探した。
男がかさぶたを採取しにきた日に探偵を張り込ませた。
結果をしらせたいので、出向いてくれと言う探偵社からの電話で、民子は出かけた。
探偵社の応接室にとうされる。
「この方の身辺を調査した結果です。
まーなんと言うか、ありきたりな暇人ですね。
あなたのところに行く以外は、スーパーに買い物するか、保育園の送り迎えくらいしか外出しませんね。
奥さんが警察のキャリヤなので、旦那はハウスキパーみたいなことしています。
お子さんは二人、女のお子さんですね。
奥さんとの仲は・・・奥さんに頭が上がりませんね。
家が奥さんのお父さんの名義になっています。
彼の仕事の件なんですが、『珍味や』ってことだけは分かったのですが、いったいどんな仕事をしているのだか、さっぱり分からなかったんです。
不思議ですね。
会社に行くわけでもなし、給料はスイス銀行から年俸扱いで、かなりの金額が振り込まれていると言う所まで、分かったんですが、それ以上は突き止められなかったんです。
珍味やっていっても仕事をしている気配さえないんです。
それで大金の振込みがあるって、なんか謎めいているんですが、これ以上調べるわけいかなくなりました。
ある筋から、横槍が入ってこの調査を打ち切らなければならなくなったのです。」
「ある筋って?」
「申し訳ありませんが、これ以上の事は言えません。とにかく、調査費は要りませんので、どうぞどうぞお帰りください。」
お金がある。
ひまがある。
若さと健康がある。
好ましい男は、規則正しく訪れては、かさぶたを採取するのみだけで、帰る。
しかも一年の禁欲。
民子と男の恋心は燃えに燃えて,切なさは天井知らず,ギネスにのるかの勢いだった。
上唇のかさぶたをとる際の二人の鼻息の荒さ、脈拍の速さ、上気した顔は,見る人がいたら,その場でえ昏倒するくらいの色っぽさでした。
一年がたって,男はふるえる手で、五十コ目のかさぶたを採取した。
待ちに待った解禁。
二人は激しく抱き合い倒れこんだ。
が、あまり期待が大きすぎるのは良くないみたいで、すぐに別れてしまった。
三十三年後、民子は,偶然池袋で、珍味屋を見つけて声をかけた。
民子はあの金でレディース雀荘を開業して,全国展開していた。
お昼の名物番組の「そこのけそこのけ、女社長がいく」なんかにも出ていた。
ちょっとした有名人になっていた。
民子の外見は、先だってなくなった白塗りの女社長の黒塗りバージョンのようになっていた。
[あら,珍味やさんお久しぶり」
珍味やはなかなか民子のことを思い出さなかった。
民子は、上唇にちょうど出来ているかさぶたを示すと,男は大きく首を縦に振った。
「ああ、あなたでしたか!ひさしぶりですね。お元気でしたか。」
男はたいそう老けていた。
「今も珍味やさんをやってらっしゃるんですか?」
「ええーほそぼそとね。今はあの頃と違ってゲテモノが多くって,苦労してます。しかしあなたは、ご活躍で。この間もテレビに出ていらして、びっくりしました。昔とぜんぜんお変わりなくって・・・」
「あら、いやだ、お世辞がうまいわ。」
確かにお世辞がうまかった。
やっぱり年月が彼女を風化させていなくもなかった。
昔はどこも彼処もパツパツに張り切っていたが、今は水気がとんでいた。
その分、噛みごたえがありそうだし、エキスが濃縮しているようにも見える。
「そう,どこも大変よね.サーところで私,少し店を直したいんだけど,このかさぶた売れないかしら。」
「どれどれ。」
珍味やは、女のシワの寄った上唇に出来たかさぶたをけんぶんした。
「今,マイナーな好みが人気なんで,これはもしかしたら売れるかもしれない。」
男は,背中にしょっていたりっくからPCを取り出して、入力した。
検索かけた。
「アーいました、いました。
五十台から六十代、女性の上唇のかさぶた.単発で、三千円ですな。」
「三千円。ハハハッ」
「すみませんね、安くって。」
昔とかわらず、律儀に男は謝った。
「三千万位だったら,店の2件も改築できるかとおもたんだけど,そうは問屋がおろさなかったみたいね。」
「なんせこのデフレ景気がえらく響いちゃって。」
「そうだと思う.究極の贅沢だもん。」
二人は、飲み屋で話し込んだ。
「こないだ良い注文が、あったんだけど、ある有名女優の膝の裏のあかってやつ。
採取する過程のビデオ付ってやつなんだけど、あれを最後に大きな注文は、ないね。
あなたのかさぶた売っていたときは,ロマンがあったね。
今は,もうグロいもんよ。
欲望の歯止めってのは、ないのかね。
どこまで行くんだろうか。」
「お宅,結構良い暮らしして、ゆうゆう自適かとおもったのに、・・・」
「いや,この商売の危うさですよ。
女房に男ができましてね。女房は邪魔な私を国税局に売ったんです。
あんときゃ、きつかったですよ。
くさい飯十年食いましたから。」
「アラーそんなことあったんですか。それは、それは。それで今はお一人?」
「えぇまー、こんなむさいおっさん、だれも・・・
そこいくと、あなたはたいしたもんだ。ご活躍で、お幸せなんでしょう。」
「いいえ,私は事業なんとかやっては、いますけれど、あなたと別れてから,男運がありませんでした。
あの一年の禁欲期間に,私はありったけの性の幻想を使い果たしてしまったみたい。
どの男もどの男も気に入らない。物足らない。いろーんな男これもだめ、あれもだめ,み-んなだめ!気がついたら一人ぽっち、さみしいもんですよ。」
二人はおずおずと見詰め合った。
二人の肉が落ちて奥まった眼に、小さな火がともった。
「ねぇーこれを肴にスコッチ飲んでみない?」
民子は上唇のかさぶたをそうっとはがし,男に甘えた声で言った。
「ぜひ,お相伴にあずかりたいものですね。」
民子はかさぶたを半分に欠いた。
二人はかさぶたを口に含んで,スコッチを飲んだ。
「あっ!」
民子は、しゃがれた声を上げた。
「小学校のとき、鉄棒で逆上がりをして手を滑らせて、唇噛んだ時の想い出がよみがえったわ!私、体育得意だったの。」
男は黙って味わっていた。
「あなたは、どんな思い出がよみがえりました?」
「私はあなたとのはじめての夜を思い出しました。
あの不手際をです・・・・」
「あら、いやだ、も・・・」
「民子さん、敗者復活戦は、いかがでしょう?」
全国展開していたレディース雀荘を一軒,模様替えして珍味屋をはじめ、店の二階で二人は一緒に暮らし始めた。
表はまっとうな珍味やで,インターネットで例の妙な珍味も売っていた。
イブニング娘の珍味関連が好調で、二人してせっせ瓶詰め箱詰めをしている。
男と民子は店の奥で冗談をいいあっている。
「ふしぎだね。あんなに私が,ぴちぴちして,みずみずしくって食べ時だったそのときは、ろくに見向きもしないで。
フフフあなたったら、干からびて水気が無くなり,シワしわになり,固くなって、色も渋くなった今.この、カイヒモか貝柱みたいになってきたときに,クチャクッチャいつまでも噛みながら,味わっている。
フフフフあんたもわたしも、相当なへそ曲がりだわ。
変わった好みだこと。」
「ハイハイ,私は、なんせ珍味やですからね。」
「フフフフ」
言いなれた冗談を繰り返して言い.そのたび同じように笑った。
電話が鳴った。
しばらく鳴るのに任せ、私はタバコに火をつけた。
中古市で買った、レトロな外観が雰囲気たっぷりの、黒いダイアル式の電話だ。呼び出し音の大きさを調節できないのがタマに傷。これのせいで、何度安眠を妨害されたことか。それでも手放さないのは、私のひねくれた性格の賜物といえる。
デスクの上には、締め切り寸前にもかかわらず書きかけの原稿用紙で一杯になっており、灰皿の上はタバコの灰とフィルターでこんもりと山が築かれている。不精な性格がたたって、ここ数ヶ月は片付けていない。蛍光灯の明かりが、寝不足の目にやけにまぶしかった。
時計を見やると、すでに夜中の2時をまわっている。こんな時間にかかってくるなんて、どうせろくなことではない。いたずらか、もしくは間違い電話か何かだろう。
しかし電話は一向に鳴りやむ様子がないので、やむなく私は受話器をとった。このまま鳴らしつづけられても迷惑なだけだ。
「もしもし?」
「…………」
相手は答えない。私は少し苛立った。こんな時間に、しかも向こうからかけてきて名乗らないとは、どうゆう神経の持ち主だ。
「どちら様で……」
「あんたがアベさん?」
突然返事が返ってきた。キイキイと鳴くような甲高い声。私の知る限り、こんな声の人物に知り合いはいない。
「そうですが、なにか?」
「ああ、よかった。もうダメかと思っていたよ」
相手は心底ほっとした様子でそう言った。
なんのことだか、さっぱりわからない。
「アベさん、すぐここへ来てもらいたいんだ。それも今すぐ。何のことだかわからなくて混乱するだろうけど、とにかく頼むよ。重症なんだ」
正体不明の甲高い声はキイキイと一気にまくしたて、寝不足でぼんやりとする私の頭を激しくかき回した。このところ収まりつつあった、偏頭痛がよみがえりそうで、私はいやな気分になった。
「病人なら救急車をよびなさい。私は医者じゃない。お門違いだ」
そう言って電話を切ろうとすると、待ってくれ!とにかく話を聞いてくれ!とよりいっそう甲高い声が受話器から響いてくる。まるで壊れたスピーカーのようだ。このあわてぶりだと、ここで電話をきってもまたかけてくるかもしれない。しかたなく、私は相手になってやることにした。それにしても、こんな時間にヘンなヤツだ。
「ああよかった……じゃあいまから待ち合わせの場所を教えるからどこかに書いて」
「ちょっと待ってくれ。こんな夜中にかけてくるなんて、いたずらなんじゃないのか?私をからかうつもりならいいかげんに……」
「違う、違うよ!そんなんじゃないんだ!僕はいたって真剣だよ」
再びキンキン声が跳ね返ってきた。ひどい耳鳴りがする。
「それにこの時間じゃないと、僕はあんたに電話できないんだ。本当は電話もしちゃいけないきまりなんだけど、いや今はとにかくそんなことを言っている場合じゃないんだ」
「……わかったよ。で、君はいったい何者なんだ?」
あきれはてた私の問いに、そのキンキン声は信じられない答えを返してきた。
「じつは僕、夢の世界の住人なんだ」
私は自宅のアパートを出ると、車に乗った。
エンジンをかけ、ポケットからメモを取り出し、指定された場所を確認する。このアパートから程近い、大きな公園のようだ。
アクセルを踏み、ハンドルをきりながら私は苦笑した。
(夢の世界の住人だって?)
ばかげているとしか思えない。それに付き合おうとしている自分も酔狂だが、それにしても、夢の世界の住人とはおそれいる。だがいたずらにしては妙だし、相手はだいぶ必死な様子だったので、私は行ってみることに決めた。危険なようなら引き返せばいい。
それに、好奇心が全くないとゆうわけでもない。夢の世界の住人と名乗る輩がどんな顔をしているのか見てみたい、とゆう好奇心が。
夜中であるため道には他の車はおろか人影もなく、車はあっという間に公園に着いてしまった。
適当な場所で車をとめ、私は公園の入り口に立った。
桜の季節も終わり、梅雨に入ろうとゆう春のただなかではあったが、さすがに夜は少し冷える。上着を持ってくるべきだったと、後悔した自分が妙におかしい。
電話では、迎えをよこす、と言っていた。しかしそれらしい人影は見当たらない。そもそも、人ではないかもしれない。この考えに苦笑しつつ、私は公園に入ることにした。
車止めを通り抜け、入り口からまっすぐに伸びる、メインの広い遊歩道に足を踏み入れる。さすがに夜の公園は不気味だった。道端に等間隔で並ぶ水銀灯のおかげで、足元はそれほど危うくないのだが、この青白く浮かび上がった公園の景観は鳥肌ものだ。風でなびく木々のざわめきでさえ、私の恐怖心に拍車をかける。それでも好奇心のほうが勝っているのか、私の足は留まることなくどんどん進んでゆく。
しばらく歩を進めて、私は道の先に妙なものを発見した。
子供らしい背丈の影が一つ、水銀灯に照らされてポツリと浮かんでいた。
あの身長なら、年は多分十歳くらいだろう。まさか子供のいたずら?
だが、近づいてみて、それがただ者ではないことが判明した。
なんとウサギだった。白いウサギが蝶ネクタイに燕尾服とゆういでたちで、こちらを向いて立っているではないか。
向こうもこちらに気づいたらしく、うれしそうに手を振りながらこちらに近づいてくる。まさに、目を疑うような光景。
「よかった、来てくれたんだね!」
幾分声のトーンは落ちていたが、それは間違いなく電話で聞いた、あのキンキン声だった。気が狂ったか、夢をみているのではないか。私はとっさにそう思って、自分の顔をつねってみた。
痛い。
「なにやってるの?さあ、はやく。こっちだよ」
そう言って彼は、呆然とする私の手をつかむと、公園の道を脇にそれてどんどん奥へと入っていった。肉球と少し伸びた爪、そして雪のように白い毛の、奇妙な感触のハーモニー。
皆さんは、ウサギを抱いた経験はおありだろうか。私は小学生のころ、学校の先生が連れてきたウサギを抱かせてもらったことがある。生命の温かいぬくもりと、早鐘のような心臓の鼓動を手に感じ、幼いながらドキドキしたことを覚えている。でも、抱いたことはあっても、いきなりウサギに電話で呼び出され、しかも手を引かれた経験はないだろう。
ウサギはひときわ大きな大木の前まで私を引っ張ってくると、ここで待つように指示した。
「あんたくらいの年の大人を、僕らの世界に招待するのは、原則的にいけないことなんだけど、緊急事態だからきっと大丈夫。ほんの少し待ってくれればいいから、帰っちゃダメだよアベさん」
ウサギはそう、わけのわからないことを言い置くと、大木の陰へと姿を消した。
(緊急事態だって?)
ウサギを待つあいだ、私はつとめて冷静に考えようとした。
多分これは夢だろう。今起きればベッドの上で、私の腕は目覚し時計を求めてデスクの上の原稿用紙や灰皿をひっくり返すに違いない。いやいや、しかしあのウサギの手の感触はまさに本物だった。すると、子供のころの記憶がフィードバックして、まるで現実のように現れているのか?
何がなんだかわからなくなり、私はもう一度、頬をつねってみた。
やはり、痛い。
「許しが降りたよ。さあ、行こう」
再び現れたウサギは、またしても私の手を引っ張り、大樹の裏手まで連れてきた。そして木の根元をなにやらガサガサと引っ掻き回すと、石でできたボタンのようなものを押す。
するとその石の横に、ぽっかりと穴があいたではないか。
「初めてだと腰を打つかもしれないから気をつけてね」
「ゆ、許しっていったいなに?」
あまりの出来事に、心なしか声が震える。
「あんたがこっち側にくるための許しさ。このクスノキがその番人。子供は多少審査がゆるいけどね。とにかく、今はそんなことはどうでもいいから、ちゃんとついてきてよ?」
ウサギは念を押すようにそう言って、穴に飛び込んだ。奥で曲がりくねっているらしく、彼の姿はすぐに見えなくなる。もうここまできたら、夢だろうがなんだろうが追いかけるしかない。
意を決した私は、目をつぶり思い切ってその穴に飛び込んだ。
心のどこかで、このへんてこりんな夢から覚めることを祈りながら。
祈りは通じなかった。
めちゃくちゃにひねくり曲がった、やたらに長いスロープをぬけ、私は放り出されるようにして外に出た。ウサギの忠告も虚しく、私は強く腰を打ったらしい。じいん、と痛みがこみあげ、涙があふれた。これもどうやら本物の痛みらしい。
「アベさん、こっちだよ」
ウサギは手招きをして、こちらを心配そうに見つめている。
「大丈夫?」
「はあ……なんとか」
「初めてなのに勢いよく飛び込むからだよ」
ごもっとも。
絶叫マシンはけっこう好きなほうだが、あのスロープはもう二度と経験したくない。
痛む腰をさすりつつ、私は立ち上がってあたりを見回した。
地下のはずなのに、青々とした空が見える。どうやら森の中のようだ。奇妙に幹のひねくれた木々が、うっそうと生い茂っている。これが彼の言う、夢の世界……なのだろうか。
「ここは夢の世界を統括している女王の庭なんだ。人間の世界とはここでしかつながっていない。それで、重症ってゆうのはその女王のことなんだけど」
「ちょ、ちょっとまってくれ。それならなおのこと私より医者を呼ぶべきなんじゃないのか?私では役には立たないと思う……」
あまりにも不可思議な出来事にいきなり遭遇してすっかり引け腰になった私に対し、彼は強い口調で言った。
「それは、あなたが童話作家だから」
先を歩いていたウサギは、振り返って私の目を覗き込んだ。
赤い瞳の、丸っこくてなかなか愛嬌のある目だが、それはまなざしは真剣そのものだった。
「僕らが存在してゆくにはなにが必要だと思う?夢だよ、人間の見る夢さ。でも今の人間たちは、あまり夢を見なくなってしまったでしょ。特に子供たちがさ」
「確かに私は作家だけど……それなら他にもっといい人がいるはずじゃ」
「女王があんたを選んだんだ。理由はよくわからないけれど……」
そうゆう会話を交わしているうちに、私たちは広い岡に出た。岡の上にはいかにもメルヘンチックな、かわいらしい屋敷が一つ、ぽつんと立っていた。どことなく、『幸せの青い鳥』に登場するお菓子の家を彷彿とさせる佇まい。
まだ幼い私の姪が見たら、きっと大喜びだろう。
ウサギはそれを指差して言った。
「あれが女王のお屋敷だよ」
なるほど、ね。
私は寝室に案内された。不思議なことに、これだけ広い家なのに一人も使用人らしい存在がいない。ウサギの紳士がいるのなら、執事だけにヒツジの……いや、そんな冗談はさておき。
「彼女の力が弱まったせいで、みんな消えかかっているんだ。だから今は、みんな自分の家に引きこもっちゃってる。怖いんだと思う」
ウサギは寂しそうに、そうポツリとつぶやくように言った。ここまでの道すがら、誰にも会っていないのも、このことが関係しているようだ。そういえば、私たちが歩いてきた森でも、鳥の鳴き声一つ聞こえなかった。途中で見かけた木や花にしても、やっと自分を支えているといったかんじで、まるで生気を感じなかったほどだ。
力をなくし、肩をがっくりと落とす彼の小さなうしろ姿に、私は少しばかり同情した。孤独が辛いのは、私も同じだったから。
女王は、花柄を大胆にあしらった、りっぱなベッドに横たわっていた。よくあるおとぎ話に出てきそうな、髪の長いすらりとした美人の、いかにも女王様然とした女性だった。頬はこけ、顔色は思わしくなく、息も絶え絶えといった感じだ。
よほど深刻なのだろう。
「君は、なぜ平気なの?」
「……女王があんたを呼びにやるために、力を僕に託したんだ」
「………」
重苦しい沈黙がしばらく続いた。
妙にいたたまれなくなり、私は口を開いた。
「それで、私にできることは?」
「僕たちの事を童話にして欲しいんだ。そしてそれを人間の世界で広めて、なるべくたくさんの人に見てもらうようにして欲しい。それだけでもずいぶん違うと思うんだ。ここまであんたを連れてきたのは、なるべく僕らのことを理解してもらいたかったから」
ウサギの消え入りそうな言葉に対し、私は言葉に詰まった。
状況はようやく呑みこめたが、軽々しく同意できることではなさそうだ。
私が返事に窮していると、気がついたのか、女王はゆっくりと目を開けてこちらのほうを見た。弱々しくも毅然とした光を失っていないその瞳に、私は強く心を打たれた。
できることなら、なんとかしてやりたい。
私の頭からは、これがよくできたいたずらなんじゃないかと疑う気持ちが、すっかり吹き飛んでいた。ウサギに向き直り、承諾の代わりに小さくうなずくと、ウサギの紳士はうれしそうに微笑んだ。
はにかむような、ウサギの微笑み。
「女王があんたを選んだ理由、わかるような気がしてきたよ」
皆さんは、ウサギが笑うところを見たことがあるだろうか。
あれから数日後、苦心の末できあがった私の童話は、セールス的には大成功を収めた。
内容は、燕尾服を着たウサギの紳士が、夢の国の女王を病魔から救うために立ち上がる、といったようなもの。続編の要望が、出版元にどっさり届くほどの人気ぶりだった。
私の編集担当者はほくほく顔で、童話が英訳され欧米でも出版されることを告げにきた。そして、こうも尋ねてきた。
「いったいどうやってあんな素晴らしいファンタジーが生まれたんですか?」
無論、ノーコメント。言ったところで信じはしまい。
しかし、そんな商業的な成功にもかかわらず、私の心は暗かった。あれ以来、ウサギからの連絡がない。はたして私の本当の試みは、うまくいったのだろうか。
本の部数がどんどん伸びてゆくのに反比例して、不安は広がる一方だった。
ところが、さらに数日が過ぎ、私宛てに届いた一つの小さな小包が、私の心の暗雲を一気に振り払ってくれた。
差出人は不明。どうやら向こうの世界には住所とゆうものがないらしい。
あけてみると、虹のような不思議な色合いのリボンでくくられたニンジンが一束と、ひねた字で書かれた、
「ありがとう」
の一言だけの手紙。それらを見た私は、しばらく笑いがとまらなかった。
なるほど、ウサギらしいお礼だ。
私は普段あまり使わないなべを取り出し、れいのニンジンを刻んでカレーを作った。出来栄えは、まあ私にしては上々。夢の世界の住人たちを思いつつ、ありがたくいただいた。
デスクは今、奇麗にかたづいている。
だがそのうち、きっと前のように煩雑としてくるだろう。
夢の世界に住まう者たちのために、そしてこの世に夢が絶えることのないように、私は続編を出す予定でいる。
偉そうなことを言うようだが、これが私の使命なのかもしれない。
あのウサギの無邪気な笑みも、今ではすっかり懐かしい。
季節は、暑い夏を迎えようとしていた。
ところで皆さんは、ウサギからお礼の手紙と品物を、受け取ったことがあるだろうか。
僕は裁判所にいた。
裁判所といっても最高裁判所とかそんなところではない。ドラマでよく見る家庭裁判所を想像してくれればいい。僕はその被告人席にいた。ようするに裁判官と真正面から向き合うような位置だ。でも、まだ裁判官らしき人物はいなかった。その代わり、僕の右手側に男が座っていた。直感的に書記官だと分かった。彼は白いポロシャツに黒のジャケットを羽織っていた。ネクタイはしていなかった。髪は乱雑にカットされていたが、彼に非常によくなじむ髪型だった。左耳に十字架をかたどったピアスがあった。表情は無表情で、電池がきれたんじゃないかと思うぐらいに微動だにしなかった。瞬きすらしなかった。
『ここになぜいるの?』
舌っ足らずな声がどこからか聞こえてきた。僕は後ろを振り返ったが、そこには誰も座っていない傍聴席が広がっていた。そうだ、僕は何故ここにいるんだ?
左奥にあるドアがやたらと大きな音を立てながら開いた。眼鏡をかけた神経質そうな女性が入ってきた。長い綺麗な黒髪を後ろでまとめて、蝶の髪留めで留めてあった。なんとなく小学校の授業参観日での担任の先生を連想させた。
続いてウサギが入ってきた。
『うさぎだね』と、また声がした。ああ、ウサギだね。と、心の中で返事をした。
でも正確に言えば《ウサギの顔を持った人》だ。デパートで見るウサギのぬいぐるみの頭の部分だけかぶっている状態で、顔から下はビシッとした黒のスーツできめている。でも、その顔はグロテスクなぐらい〈生のウサギ〉だった。鼻がヒクヒクと動いている。首には懐中時計を下げていた。しかし、違和感というものは感じられなかった。この人の顔はウサギなんだなと、なぜだか納得できた。
「空気が悪いね、窓を開けてもらえるかな?」
そのウサギ人(僕はその生き物をどう呼んだらいいのかわからない。彼はウサギでもあり、人でもあるのだ。ここではウサギ人と呼ぶことにする。)は、書記官に向かってそう言った。書記官はまるであやつり人形みたいな動きで立ち上がり、窓を開けた。涼しい風が窓から入ってきた。
「ありがとう」と、ウサギ人が言うと書記官は頭を少し下げた。やっぱり動きはあやつり人形だった。
「昨夜はちゃんと眠れましたか?」
ウサギ人は机にひじを突き、手を組んで僕を見た。
「ええ、まあ」と僕は答えたが、僕には眠ったという覚えがなかった。
「そうですか、それはよかった」ウサギ人は窓から入ってくる風がくすぐったそうに目を細めた。
「さて」と、ウサギ人は組んでいた手を元に戻した。「ここの裁判所について簡単に説明しておきましょう」
ウサギ人はゆっくりと立ち上がった。そして、ゆっくりとした足取りで、時計回りに法廷を歩き出した。
「あなた方が住む世界では、裁判所は罪を裁き、罪を犯した人間を罰するところになっていますね。しかし、この世界では少し違います」
書記官は僕らの会話を書き留めていった。それはさっき間での動きからは想像できないほど、キビキビとした動きだった。
「つまり、僕は何か罪を犯したわけではないんですね」
ウサギ人は法廷内を一周していた。しかし、僕と彼の位置関係はさっきから少しも変化していなかった。もっと簡単に言ってしまえば僕を中心として、法廷全体が回転していた。どう考えてもおかしな現象だった。でも、僕を含めてその法廷にいる人間はそのことに全く驚かなかった。関心を抱くことすらなかった。
「いえ、あなたは罪を犯しているはずです。そうでなければあなたが被告人席に立っていることはない」
ウサギ人はもとの席に戻っていた。次に彼は彼の隣に座っている、蝶の髪留めをしている女性の前に手を出した。女性は無言で彼女が持っていたファイルから小さなきらきら光る物を取り出した。その光る物は窓から入る陽射しを受けて光っているのではなく、自身が光っていた。彼女がそれをウサギ人の手のひらにポトリと落とすと、その光るものは一枚の紙になった。
「あなたが何をしたかと言いますと・・・」と言いながら、ウサギ人はスーツの胸ポケットから眼鏡を取りだした。そして、その紙に書いてあることを読み出した。彼は一通り目を通し終わると眼鏡を外し、僕をまっすぐに見た。
「いいですか?罪というのは裁けばいいというものではありません。罰金や労役などで償えばそれでいいというものでもありません。解決にはなっていないのです。」そう言うと彼はまた静かに椅子から立ち上がり、窓の方に歩き出した。
「つまり、現実の世界では事実上、罪を解決することは不可能です。一旦過ちを犯してしまえば、それは一生あなたをつきまとうことになるのです」
「じゃあ、どうすればいいんですか?」と僕は尋ねた。
ウサギ人は窓の外を見ながら、黙ってしまった。その間法廷内は、書記官が立てる‘カリカリ’という、ノートに書き込む音で満たされた。ただ、彼が何を記録しているのかよく分からなかった。だって、今は誰も何もしゃべっていないのだ。
「ラビット・タイム」
ウサギ人は突然そう言った。ラビット・タイム?
「この世界はラビット・ホールの中にあるラビット・タイムという世界なんです」
「ラビット・タイム・・・、ですか?」
ウサギ人は、もとの席に戻った。隣に座っている女性は眼鏡を外し、瞼の上から眼をもんでいた。
「先ほども言いましたが、ここでは私が最高責任者です。ハートの女王ではありません」
「何か違いがあるのですか?」
ウサギ人は僕の質問には答えずに、ニッコリと笑った(正確には僕は彼が笑ったように見えた)。そして僕の前に手を差し出した。その手はしっかりと開かれていた。次にその手は何かを掴むような動きを見せた。まるで手のひらに何かが落ちてきたように。
「これがなんだか、わかりますか?」
ウサギ人はそう言いながらゆっくりと手を開いた。そこにはキツネの形のキーホルダーが入っていた。
「キツネの形をしています」と僕は答えた。
「いえいえ、形のことを言っているのではないです。何かこれにまつわることを覚えていませんか?」
僕は全く覚えがなかった。
「いえ、何も・・・」
僕が答えると、ウサギ人はそのキーホルダーをもう一度手の中に握りこんだ。
「そうでしょうね、いえ、そうでなくては困るんです」
「どういうことですか」
「ラビット・タイムでは、過去に無意識に犯してしまった罪を取り扱うのです。ハートの女王は故意に犯した罪を取り扱います」
「無意識・・・ですか」
「そうです。このラビット・タイムとハートの女王が管理している世界のクイーン・タイム。この2つの世界はある共通点を持っています。この2つの世界は、犯してしまった罪を完全に解決させることができる世界なんです」ウサギ人は鼻をヒクヒクさせながら少し興奮気味にそう言った。そして、ゆっくりと大きく息を吸うと「そろそろ、始めましょうか。原告側証人。どうぞ」と言った。
僕の後ろに広がる傍聴席から「はい」という小さい女性の声が聞こえた。振り返ったがそこには無人の傍聴席が広がっているだけだった。
「原告の方ですね」
ウサギ人が言う声がして身体を戻すと僕の前に女性が立っていた。さっきからこの空間は変だ。
『ラビット・タイム』
ああ、そうか。ここはラビット・タイムなんだ。現実の世界とは全く違う世界なんだ。
「えー、シライシキミコさんですか。この宣誓文書を声に出して読んでください」
「キミコ?」
声の正体は僕の婚約者のシライシキミコだった。
「宣誓。この法廷で私が証言することは、すべて虚言でないと誓います」
キミコは顔を下に向けたまま、宣誓文書を読んだ。
「ではここにサインをお願いします」とウサギ人はキミコにペンを渡した。
「はい」
裁判は僕のことなんか、まるで関係ない、というように進行していった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」僕がそう言うとウサギ人は「静粛に」と冷たく言っただけだった。
『怒られちゃったね』と声が言った。
「では、被告人の罪状について読み上げます」蝶の髪留めの女性が立ち上がって言った。
「小学生時代に被告は原告からのプレゼントであるキーホルダーを、彼女の見ている目の前で近くを流れる川に投げ捨て、彼女の心を深く傷つけました。彼女は現在でもそのことを強く気にしており、被告に対する責任は非常に大きいものだと思われます。以上」
ウサギ人はふむと言った。書記官は相変わらず何かを書き込んでいた。キミコはうつむいたままだった。
「さて、キミコさん」
キミコはウサギ人の呼びかけに対して、さっきよりもうんと小さな声で「はい」と答えた。
「あなたは彼に何を望んでいるのですか?」
「私は・・・」キミコはそこで少し言葉を選んだ。
「私は彼にどうしてあの時にあんなことをしたのか教えて欲しいんです。そして、彼が今私のことをどう思っているのかも」
ウサギ人はニッコリと笑いながらうなずいた。
「なるほど。分かりました。被告人、前へ」
僕は座っていた席を立った。と、気がつくと僕はキミコがさっきまで立っていた場所にいて、逆にキミコはさっきまで僕が座っていた椅子に座っていた。
「どうしてそんなことをしたのか、覚えていますね」
「いえ、全く覚えていないんです。そんなことをしたのかすら思い出せない」
ウサギ人は僕を見て、「あなたに言っているのではないです」と言って目線を僕の胸のあたりに移した。
「君に尋ねているんだよ。出ておいで」
ウサギ人はうんと優しくそう言った。その瞬間、僕の身体から青白い何かが抜け出た。
『ごめんなさい』
どこかから聞こえていた声で、その抜け出た何かが言った。小さな男の子が僕の方に背を向けて立っていた。
「十才のあなたです」とウサギ人は僕に向かって言った。「ラビット・タイム、クイーン・タイムは特異な世界です。現実の世界と違って、ここでは“時間”というものが一定の方向に流れていないのです。過去から未来という流れは存在しません。ですから、〈十才のあなた〉は〈今のあなた〉と同じ時間に同じ場所で存在できるのです」
ウサギ人はそれだけのことを僕に向かってしゃべると、今度は〈十才の僕〉に向かって話しかけた。
「シライシキミコさんがくれたこのキーホルダーをどうして捨てたのかな?」ウサギ人はさっきのキツネのキーホルダーを〈十才の僕〉に見せながら言った。
『うれしかったの。でも、女の子のプレゼントが恥ずかしかったの』
「それで、捨てちゃったの?」
〈十才の僕〉はコクンとうなずいた。僕もうなずいた。思い出した。あれは僕にとって生まれて初めての異性からのプレゼントだったんだ。
「気恥ずかしかったんでしょうね。このころはちょうど異性というものを、初めて気にし始める年齢です。そうですね?」
ウサギ人は僕に向かって言った。
「はい、そうだったと思います」と僕は言った。
僕は〈十才の僕〉の後ろ姿を見た。後ろで手をモゾモゾと動かしている。
「原告。前へ」
ウサギ人が言ったとほぼ同時に僕の隣にキミコが立っていた。キミコの前には女の子が立っていた。どうやら〈十才のキミコ〉らしい。
「キミコさん。ご理解いただけましたか。被告は決して悪気があったわけではないんです。あなたのことが嫌いでキーホルダーを捨てたわけじゃないんです」
今のキミコは大きくうなずいた。
ウサギ人は〈十才のキミコ〉の前に来ると彼女の前にしゃがみ、目線の高さを合わせて、キツネのキーホルダーを彼女の手を取って握らせた。彼女は分かったというようにコクンとうなずいた。〈十才の僕〉はその姿をじっと見ていた。今のキミコもじっと見ていた。
『今度はちゃんともらってくれる?』と〈十才のキミコ〉が言った。
〈十才の僕〉はうつむいたままうなずいた。〈十才のキミコ〉は〈十才の僕〉の手を取って、そのキーホルダーを渡した。
『ありがとう。ごめんね』と〈十才の僕〉が言った。
その瞬間〈十才の僕とキミコ〉は今の僕とキミコの中に、それぞれ吸い込まれるように帰っていった。
「さて」とウサギ人が立ち上がりながら言った。
「これで本件に関してほとんどの問題は解決されました。しかし、すべてが解決していませんね、キミコさん」
「はい」とキミコは言った。今までの中で一番しっかりとした返事だった。
その返事を満足そうに聞いた後、ウサギ人は僕の方を向いた。
「キミコさんは今のあなたの気持ちも知りたい。そうおっしゃっていました」
ウサギ人はそう言うと彼が座っていた席に戻った。そして大きな声でこう言った。
「閉廷!!」
僕は驚いて言った。
「あ、あの。すべて解決していないんじゃ・・・」
僕がすべてを言い終わる前にウサギ人は「ラビット・タイムは【過去に無意識に犯した罪を解決する】のです。よってキミコさんの申し入れはこの世界であつかうことではありません」
そう言うと、ニッコリと笑った。
「その問題は現実の世界で解決された方がよろしいでしょう」
ウサギ人は鼻をヒクヒクと動かした。そして、そのまま法廷から出ていった。
蝶の髪留めの女性と書記官は荷物をまとめウサギ人の後を追うように出ていった。ドアが大きな音を立てて閉まった。
そして、僕とキミコだけが法廷に残った。独特の空気が僕たちを包んでいた。何を話せばいいのか。
「ねえ」
キミコがそう言った瞬間、法廷が大きく揺れた。そして、僕の視界からすべてが消えた。
「ねえ、起きて。朝だよ」
僕はベッドの中にいた。目の前にキミコの顔があった。
いつもの部屋だった。
「キミコ?」
キミコはそう言う僕の顔を見て、プッと吹きだした。
「そうよ。どうかしたの?」
「夢・・・か」
「変な夢でも見たの?」
「いや・・・何でもない」
そう言う僕にキミコが抱きついてきた。
「大丈夫?疲れてるんじゃない?」
「いや、大丈夫だよ」
何か頭がぼんやりとする。変な夢を見ていたんだ。なんだっけ?
「ねえ、私のことどう思ってる?」とキミコは言った。さらに抱きつく強さが増したような気がする。
抱きつく彼女の耳に何か光るものがあった。ウサギの形をしたピアスだった。
「これ・・・」とピアスを触りながら僕は言った。
「ああ、これ?かわいいでしょ。《ラビット・タイム》っていう、ブランドなの」
そこで僕は夢の中の出来事を思い出した。なるほど。ウサギ人はまだ僕を無罪放免としたわけではなかったようだ。僕はまだラビット・タイムから抜け出せていない。現実の世界で解決しなければならない問題があるんだ。
「ねえ、答えてよ。どう思ってるの?私のこと」
もうすぐラビット・タイムから抜け出すことができる。出口は目の前にある。そのための答だってちゃんとある。
僕は彼女をギュッと抱きしめた。そして、耳元ではっきりと彼女に答を伝えた。
彼女の耳についたウサギが鼻をヒクヒクと動かしたように見えた。
心地よい風に桜の花びらが舞い散っている。4月某日、大安。これぞ人生最良の日。女にとって最高のゴールであり、新しい人生のスタート。そう、今日は私笹島ひろみの結婚式。仲のよい友人たちに囲まれてささやかな結婚式、傍らには優しい笑顔の旦那様、私の胸は幸せで満ち溢れている・・・とも言えないのである。
これから行われる披露宴には両親への挨拶が待っている。バージンロードを歩くのが嫌で教会での結婚式を諦めたし、独身最後の日は実家には帰らず友人たちと過ごしたのだから、母は、ずっと願っていた「お父さん今までありがとうございました・・・・・」のお決り文句を私の口から聞くことはできなかった。
コンコン。「はい」ふりかえらずに私はそう返事した。「披露宴のお時間です」とうとうきた。私はゆっくり立ち上がって鏡を見た。塗り立ての出来立ての私の顔が涙でくずれることなんてない。そう、これが最後の意地悪なのだから。
父が嫌いだった。嫌いというより憎んでいたと言う表現の方が正しいのかもしれない。暴力的で横暴な父の全てを否定してきたから今の私が在るのだと言える位に。
父は4男3女の7人兄弟の末っ子として博多の下町で育った。親ほどに年の離れている長男と次男はすでに他界していて、母親、つまり私の祖母も長男たちの後を追うように次の年に亡くなった。今日の結婚式にも顔を出していない父方の親戚とは10年ほど交流がなく、私が小2のときに亡くなった祖母の葬式で涙を見せていたのは、唯一祖母に10年間いびられ続けていた母だけだった。最期にはボケていた祖母を末っ子の父に押し付けていた親戚もわずかばかりの遺産相続の話し合いには参加したそうだ。写真でしか知らない祖父はその時代には珍しく180cmの長身で、若い頃に単身で朝鮮に渡り商売をしていたらしい。その後の戦争で日本に戻りそして祖母と結婚したそうだ。気性が荒く、酒好きで祖母は大変苦労したらしい。そんな祖父の性格を1番譲り受けたのが父だったのだろう。
物心ついたときから家での父は絶対であったし、そんな父に常に心の中では反発していた。それでも中学生になるまではこれといった抵抗もできずにいた。しかし、私が中学生になる頃にそれは一変した。元々口が達者で、何かと人前で発言することが多かった私は事あるごとに父に反発していった。
「おかぁさーん、今日の夕飯なんにすると?」
「肉じゃがと―ほうれん草のソテーと―そんな感じたい。」
母は、ぱっと見る限り決して亭主の3歩後ろを歩くタイプには見えない。昔から手先の器用さと運動神経のよさだけがとりえだった母は、週1のママさんバレーにも積極的に参加していたし近所のおばさんの経営する小さな雑貨屋さんにも自分の作った人形なんかを出していた。ちょうどこの週はママさんバレーの試合が続いていて昨日とおとといがその試合だった。しばらくして父が帰ってきた。父は酒飲みだが決して外では飲まない。だから仕事が終わると真っ直ぐ家に帰ってくる。私的には迷惑な話だ。そして酒を飲みながら会社での愚痴話に花を咲かせる。それを延々と母が聞く。月に20冊以上もの本を読み独りでぶらぶら旅行に行く父と、5ページも文章を読むと寝てしまう方向音痴で世間知らずの母だから自然とこの「話す、聞く」の状態になったのも頷ける。
「お前、まさか今日もバレーやなかろうね。」
父は母の目も見ないで、爪楊枝で歯に詰まった食べかすを取りながらそういった。父はジャージ姿の母を見てそう思ったみたいだ。
「あぁ、違うよ。これひろみ達とさっきバトミントンしたんよ。」
そう明るく答えた母に、
「週に3日も家空けるようやったら俺も考えるぞ」
そう父は言い放った。ほら始まった。でもこれくらいいつもの話。いちいち関わる方が馬鹿なんだから。私はそう自分に言い聞かせた。
「大丈夫って」
キッチンに向かった母を父は引き止めて言った。
「大丈夫やなかろうが。家の事もできんようやったら止めてしまえ。」
「ちょっとなん言ようとよ。」
我慢できず私は立ち上がった。
「お母さんがせっかく頑張りよう事自分の勝手で止めさせんどきぃよ」
父は少しも悪びれた様子もなく、
「うるさい。お前が口出すことやなか」
いつもこうだ。私は関係ないって。
「関係なくなかろうもん。こっちはお母さんがバレーのときは色々協力しようのに自分なんもしよらんやん」
「お父さんは仕事で疲れて帰ってきとうのにお母さんおらんかろうが」
どんどんヒートアップする父。
「稼ぎようのあんただけやないとよ。お母さんもやろ。あたしだってあんたなんかのご飯作りたくないっちゃけんね」
「親に向かってなんて口ききようとか!」
ここまできたら後はどうしようもない。父が気がすむまで殴られ、母が泣きながら止めに入る。私は家を飛び出して逃げるか父の怒りが低い日は自分の部屋に駆け込むかだ。この日は母の泣きが効いて「週1以上はバレーに行かんけん」そう母が言ったことで終わった。
後にも先にも私が父に殴られた経過と理由を覚えているのはこの時だけだった。どの子供にとってもそうなのかもしれないが何で殴られたかなんては忘れてしまっても殴られた時の事は昨日の事の様に覚えている。鍋で殴られて鍋がへこんだ事、ダスキンモップで殴られたこと、壁に叩きつけられたこと、確かに虐待とまではいかないけど私の心の奥に傷をつけるには十分だった。私は今でも冗談で軽く叩かれることさえ拒んでしまう。
高校に入ってからは、私の反抗期も終わり、高校が遠く部活にも入っていて朝と帰りが遅く父とはほとんど会話をすることもなくなった。しかし、私は高2の冬地元の大学ではなく東京の大学を目指し始めたので、父に相談することになった。
「お父さん。あたし東京の大学に行きたいんやけど・・・」
その後は言葉が続かなかった。
「行けばよかろうもん」
「えっ」
思いもよらない父の答え。でもやっぱり父は父だった。
「自分で勝手に行けばよかろうもん。大体女のくせに勉強げなせんでよかったい。高校行っただけでよかろうもん。文句あるなら今すぐ高校辞めてもらっても構わんけんね」
その後はもう話すことはなかった。
「わかった。高校出してくれてありがとうございました。それからのことは自分でお金貯めてから決めるけん」
それから3日後父から東京行きの許しが出た。なぜかはわからない。きっと父の気分なのだろう。私は受験勉強中も、大学が決まった後もいつ父に駄目だしされるかとびくびくしていた。結局無事に東京に行くことができ私は充実した大学生活を送った。そう、父のいない平穏な日々を。
「では、続いて新婦の小学校時代からの大親友であります吉永由紀さん旧姓松本由紀さんにお祝いの挨拶をお願いしたいと思います。」
はっと我に帰った。そうだ、今日は結婚式なんだから父のことなんて考えるべきじゃないんだ。私は幸せになるんだから。
「え・・ひろみそして祐介さん御結婚おめでとうございます。え・・ひろみとは小学生の時からの仲なんですけどもーこんな年下のいい男を見つけるなんて想像もつかず、全く羨ましい限りです。・・・・・・・・」
由紀の所とは似たような感じでーつまり父親が。私は家を飛び出したとき由紀の家に行っていたし、由紀もテレビのリモコンで殴られたときも私の家に泣きながら駆け込んで来たっけ。その由紀と成人式の写真取りで一緒になったことがあった。「あーひろみやん。かわいいやん。七五三みたい」
そう言う由紀は落ち着いた緑の着物に頭にはかすみそうが飾られていてそれと比べると確かに私は七五三のようだ。
「やろー?自分でもこれ七五三やんって思うもん」
「ははは」
それから待ち時間の間、懐かしい思い出話と成人式への期待なんかを話して、そして写真も取り終えた。
「ねぇ、由紀これから少し時間あるけどどうする?」
「うーん、とりあえずお父さんに着物姿見せたいけんね。それから連絡するね」「えっ、う、うん」
私は由紀のその答えに戸惑った。写真館を出てから車の中で母が持ち出した話もその事だった。
「由紀ちゃん偉いねぇ。大人やね。お父さんに見せたいけんって普通はそうなのにねぇ。あんたもそんなこと思ったらいいのに」
「・・・・」
そうなんだろうか。同じ様に父親を嫌って父親に殴られ泣いてた由紀が成人できたことを父親に感謝するーそれは由紀が大人になったから?私が子供だからなのだろうか。着物姿と同じ様に。何年たっても父のことは好きになれないしたまに東京から帰ってきてもなるべく父とは話さないようにしてきた。そんな私に母はいつも嘆いていた。
「なんであんたはそげんあるかねぇ。お父さんはあんたの帰りを楽しみにしとって恵美子は帰ってきたとかって会社から電話してくるし飛行機はちゃんと取れたとかってお母さんが怒られよったとよ」
「なんよ。東京行くときはお前とか知らんって言いよったくせに」
「馬鹿やねーあんたが心配やったけん東京行かせたくなかったっちゃろうもん」「えっ」
思わず言葉が詰まった。でも、そんなことで私は変わらない。殴られたことも、押し付けられたあの人の考えも少しも忘れてないから。
「では、続いて新郎新婦による初めての共同作業キャンドルサービスです」
「ひろみ?」
「えっ?」
つい、ぼーっとして祐介が声をかけてきた。
「大丈夫?ひろみ」
「あっ、大丈夫よ。緊張しちゃって」
私と祐介は立ち上がってキャンドルを持った。前方に母とそして父が見えた。昔より白髪が増えて気のせいか痩せた様な気もする。
父は今まで2度程死にかけたことがあり、と言っても母が大げさに心配していただけのようだが私は2度とも父の病院にも行かなければ、ここぞとばかり遊び歩いていた。
父が死んだっていい本気でそう思っていた。死んでほしいと願うわけでもなく無関心だったのだ。
しかし、母はどうしようもないくらいにうろたえ、痩せていきこの人は父がいないと生きていけないんだと思った。
でも、大学に入ってからの私は少し違ったような気がする。東京での独り暮らしが私に孤独を誘ったのか妙に家族が恋しくて母に感謝しない日はなかった。そしてー父に対しても。娘と父親の感動ドラマに柄にもなく感動して号泣した事もあった。でも、きっとそれは独り暮らししていたからであって、父のことを認めたわけじゃないのだと思う。そう、だって就職先も理由もなく反対されるし(詳しくは理由を言わない)年下だって事で祐介を何もわからない小僧呼ばわりするし・・・この人は自分以外に興味がなくて気分だけでモノを言って、怒り以外の感情なんて見たことないんだから。
キャンドルサービスが終わった。いよいよ両親への挨拶と花束贈呈だ。どうしよう。何言うかまだ考えてないよ。
「では、ご両親様への花束贈呈と挨拶です」
きた!どうしよう。ゆっくりと立ち上がる私と祐介。思わず下を向いてしまう。すでに潤んでいる母と真一文字に口をつぐんだ父もステージに向かっている。・・・祐介に手をとられて歩き始めた瞬間、私の頭にはいつかの記憶が…父に対する忘れてた記憶がよぎった。そういえば1度だけ父の涙を見たことがあったのだ。あれは確か私が高校生のとき、家族でテレビのドキュメンタリーを見ていたときのこと。中国の奥地にある民族の村に黄竜という9歳の少年がいた。彼は父親と死んだ母親の間にできた子で継母にひどい虐待を受けていた。黄竜の背中には焼いた墨でつけられた火傷の跡があった。ろくに食事ももらえてない黄竜の体は痩せ細りしかしそれでも彼は医者になりたいと微笑んでいた。ドキュメンタリーの最後に黄竜君が亡くなったという字幕がでた。ふと涙をぬぐうと、いつものようにしゃっくりしながら泣く母の横で父が声も上げずただ一筋の涙を流していた。そして弟や母が気づかぬうちに2階の寝室に行ってしまった。24年間で1度だけ見た父の涙であった。父の涙が意味するものはなんだろう。今までの24年間のことがぐるぐると頭の中を回っていった。父とろくに会話も交わさなかった頃の自分、いつも酒を一人で飲みながら母に愚痴をこぼしていた父の姿、そして、記憶にもない写真でしか知る事のできない私が生まれた時の父の笑顔…
「はい、では新婦ひろみさんに挨拶をしていただきたいと思います」「・・・・・・」
長い沈黙だった。会場がざわつき祐介と祐介のご両親も心配そうに私を見た。
「あたしは・・あたしは父が大嫌いでした。父の横暴なところも生き方も考えさえも否定してきました」
さらに会場がざわつく、母はしゃがみこんでしまった。
「ひろみ・・」
祐介がなだめようとしてきた。私は顔を上げて真っ直ぐに父を見た。父はすでに私を見ていた。生まれてはじめて私の目を真っ直ぐに見ていた。
「でも、わかった。お父さんほどお母さんを愛して大事にしている人はいないって。」
「恵美子?」
しゃがみこんでいた母が立ち上がって父と私を見た。
「横暴で母に意見なんて求めない父でしたけど…母は1度だって父と別れたいなんて言わなくて…それどころか父が病気をするだけでこの世の終わりみたいに…泣いていました。二人はお互いしか見ていなくてそれはー私も大人になって恋をしてはじめて気がついたことなんですが…二人は今でもラブラブなんです」
「ひろみ・・」
早くも母の目は涙であふれていた。
「父が母を愛していたように・・・・・・・・・・・・・・・」
父は変わらずこっちを見ていた。24年間言えなかった思いが私にはある。
「私も・・ずっと・・父に愛されていたんです。父の口に出せない優しさに包まれてここまで来たんです。・・・気づくのが遅すぎて・・照れくさくて言えなかったけど生まれてはじめて言います。お父さん、いままでありがとうございます」
そう言ってお辞儀をしたまま私は泣きました。軽く会釈するつもりが深々と頭を下げていた。押し殺したような鳴き声に顔を上げるとそれは泣き虫な母ではなく、顔をくしゃくしゃにしてなく父でした。生涯で2度目の父の泣き顔でした。しかも今度は号泣でした。
「お父さん、ひろみさんは僕に任してください。お父さんに負けないくらい愛します」
そういった祐介に父は3回大きく頷いた。
それから――父とあつい抱擁を交わしたわけではない。長い間に築き上げたこの微妙な距離は変わることはないし、父の3度目の泣き顔はもうありえないかもしれないし、私も素直でかわいい娘を見せることもいつになることやら。それよりまた怒鳴りあってけんかする日のほうが近いのかもしれない。でも、それでいいのだ。今までとは違って私はもう、父の愛情に気付いているのだから。
歩いている、歩いている。わかることは自分がただ歩いているということだけ。行き先もなければ目的もない。それは歩くなどという普遍的な言葉さえ高尚なものに転化させるくらいに退屈で空虚な作業だった。すぐに作業に飽きて立ち尽くし、目を閉じた。
そこは大きな草原だった。 草はなびいていた、だが何故だろう風が頬を撫でることはなかった。 不思議に思ったけれど、思考を廻らせる前に目にうつるものがあった。花だ。植木鉢に綺麗な花が咲いていたのだ。 なんとなくその花に懐かしさを感じて、手を伸ばす。
ポッ
ひんやりした感覚に少し驚いた。植木鉢には土と花が消えて、波紋が広がる水面があるだけだった。 水面は透き通り、赤い光を洩らしていた。見覚えがある光だった。とても優しくて、暖かい色の光だった。
_今日も夕日はまぶしかった。万年床から起き上がって、夕焼けの空を見上げた。この景色だけは何度みても飽きることがない。 赤く染まった空を覆おうとする暗い青・・ まぁすぐに暗い青が全てを包み込んで夜になるのは解っているのだが、、 赤を応援したくなるのが男心というものだ。 そんなことを考えて、散っていく赤い花を眺めていると 後ろから声がした。
「相変わらず、早起きなのね。」 いつものように俺は振り返ることもしない。
「はぁ・・全く・・」 いつものように呆れたような安心したような溜息を吐き、 いつもの椅子に腰掛けて万年床の上で呆けている俺を見ている。
「暇なやつだな。」
「あんたほどじゃないわよ。」
「それもそうだ。」
「へぇ・・今日はやけに素直なのね。」
「なんか・・そういう気分なんだよ。今日は。」
「そう・・。」 しばらく二人でもう殆ど沈んだ夕日をみつめていた。
「沈んじゃったね。」
「ああ。そうだな。」 そういったやりとりが日常だった。 夕暮れ時に起きてあいつが来て暗くなるまで夕日を眺める。今日のように変な夢を見ることもあるが、それは誤差の範囲内というやつで納得した。
あしたもきっと。_
俺はその日記帳を閉じた。 日付はあの日の前日で止まっていた。 そう。目が覚めたあの日。
起き上がると、そこは知らない場所だった。 椅子に、知らない誰かが座っていて、窓を眺めていた。 彼女は言った。
「やっと起きたのね・・このねぼすけ」 心臓が一拍大きく打った。 体中の血が一瞬沸いたような感覚の後、 不思議と落ち着いていた。 何か、起こるべくして起こったような気がして仕方がなかったのだ。 俺は 俺は・・
「俺は・・・誰だ・・・」 そう呟いた時、一瞬見せた彼女の顔を忘れたことはない。 まるで死刑判決を言い渡す裁判官のような、いや むしろボタンを押す直前の死刑執行人のような気分だった。
「俺は、一体誰なんですか・・?」 重たい一言だった。 彼女の顔を見ればすぐに俺とは親しい間柄であることはわかったし、 そのことが記憶喪失になったということを確信させる根拠でもあった。 しかし、彼女にとってこの事実は俺の考えていることよりも重すぎることであることは明らかだった。 彼女は放心したような目でこっちを見て、急に涙を流し、泣き出してしまった。 何故か俺も涙を流さずにはいられなくなり、年甲斐もなく大泣きしたことを覚えている。
あれから、もう一年がたった。 不思議と、大学の講義の内容は覚えていたので復学にさして時間はかからなかったし、 大学に入ったばかりだった当時は友達は少なかったようで、特に大きな問題はなかった。資産家だった両親はもう5年前に二人とも他界していたらしいが、俺には他人にしか思えなかったので一度も墓に行ったことはない。正直、記憶を失ったことにも俺は悲しさもなにも抱いていなかった。
「日記、読んでたんだ・・」 急に後ろで声がした。いつものように初めて会った日に座っていた椅子に腰掛けて俺の顔を見る。
「カーテン開けますか?」
「それ、何回目かわかってるの?」 微笑みながら彼女はそう答えた。 俺は彼女の知っている俺じゃない。昔の俺は彼女のことは好きだったのだろうか。俺は彼女のことが好きになっていた。そして、昔の俺に密かに嫉妬していた。 日記を読んでいたのは昔の俺に少しでも近づいて、彼女が、「今の俺」を見てくれるようになって欲しかったからだ。
あの日から、窓のカーテンは閉めたままだ。 彼女はいつもの椅子に座って、いつも閉まったカーテンを眺めていた。 俺はカーテンを開けたくて仕方がなかったが、 彼女のあの顔を思い出すと、開けることができなかった。彼女は昔の俺の話はしようとしなかった。前に聞いた時は急に暗い顔をしてうつむいてしまったし、それからは聞いていない。ただ彼女はこの部屋で俺とあのカーテンを眺めさせて欲しいというだけだったようだ。
「暗くなりましたね・・・・家まで送りましょうか?」
「あんたがそんなこと言うの初めてね。いつもは帰る時何も言わないくせに・・」
「俺だってたまには気が向くこともありますよ・・」
「へぇ・・じゃあお願いするわ。二度とないかもしれないしね。」 そう言って彼女は立ち上がり、コートを羽織った。 俺はというと、いつものジーンズにトレーナーを着た地味な服装に少しためらったが、 すぐに思い直して彼女の後を追った。 まだそれほど遅い時間ではなかったのだが、 冬の住宅街は静かで、まるで夜中のような不思議な雰囲気だった。
「あの日のこと、覚えてる?」
「ああ、勿論。言わば俺が生まれた日ですから。」
「そしてあの人が死んだ日なのね・・」 その言葉が胸の中で何度も響いた。 あの人が死んだ日。
「死んだわけじゃないですよ。以前の俺も今の俺も俺であることは違いありません。」 彼女は顔を少ししかめた。 俺はそんな彼女の態度が気に入らなかった。 失ってしまったものは仕方がないじゃないか。俺にどうしろって言うんだ。俺だって、記憶が戻ればそれに越したことはないって思ってるさ。「あなたじゃない。」 急に強い口調で彼女が喋った。 「あの人はあなたじゃないの。記憶が無くなったって言うことは、死んだのと同じなのよ!」
アノヒトハモウシンダノ
俺はその場に立ち尽くした。 この一年間彼女の見てきたものは、俺じゃなくてカーテンの向こうの夕日と、昔の俺なのだ。 解ってはいたがやはりショックだった。 走り去る彼女を追うことはもはやできなかった。
「振られたってことかな。」そう呟くと、どっと悲しさが溢れ出した。
この一年間は俺にとって本当はとてもつらいものだったのだ。彼女を意識するようになったのはいつからだろう。最初はただなんとなく、泣かせてしまったこともあって彼女が部屋に来るのを許していただけだった。そのうち彼女も飽きるだろうし記憶が戻ればそれはそれでいいことだった。でも、いつのまにか…彼女が来るのを楽しみにしている自分が居た。昔の俺の日記帳を見つけたのはそれからすぐだった。あまり面白くない日記だった。でもそれは彼女が何をしに俺の部屋に来ていたのかという疑問に答えうるものだったので、一応前言撤回しておこう。
その次の日俺は彼女にこう言った。
「カーテン、開けませんか?」彼女は急にうつむいて、
「ごめんなさい。」とだけ言った。
その一言が意味するのが何か俺はわかっていたつもりだったのに、何故こんなに…悲しいのだろう。
それから、彼女が部屋に来ることはなくなった。
今、静かな部屋で思う。
何のために生まれてきたのか・・ 何のために生きていくのか・・ 一体何故記憶を失ったのだろう。そんなことばかり考える毎日が続き、俺は少しやつれていた。そんな時、日記帳に一つ目を引く表現を見つけた。
『今日は昨日じゃない。考えるという行為が記憶を元にしている限り、それは後ろ向きでしかない。スカイダイビングみたいなもんなんだよな。考えることって。』
「記憶を元にして考える、スカイ・・ダイビング・・。」なんとなく、本当になんとなくだけど、わかった気がした。
「そう、だよな。」 考えていても仕方ないんだ。自分が遅れながらでも、この世に生まれたことを感謝して、このまま歩む以外にできることなんてないんだから・・・そう思いなおし、カーテンを開けた。 一年間封印されていた窓は埃が溜まっていて少し咳こんだが、明るい光が飛び込んできたのには驚いた。
「もう・・朝だったのか・・・」ふと窓際を見ると、小さな植木鉢が置いてあった。 長い間置いてあったらしく、植わっていたであろう花ももう枯れて、 なにかの花だったとしか解らないほどに茶色にすすけていた。 俺はただなんとなく、そこに水を注いだ。 枯れてしまった花が蘇るわけはなく、すすけた茶色の土が潤っただけだった。
それから3ヶ月がたった。 彼女とはあの日以来会っていない。 勿論彼女がどこに住んでいるかなんて覚えていなかったし、 送っていったときも途中までだったので連絡は向こうからしかとることができないのだから、当たり前といえば当たり前だ。 講義がない日はいつも夕方に起きて、 夕日を眺めて暮らしている。 邪魔なカーテンはもう捨ててしまった。 俺はいつものように、何も植わっていない植木鉢に水をやり、夕日が沈むまで、呆けることにした。 いつか、植木鉢に花が咲いて、後ろから声が聞こえることをただ願って。
あの日私はあの人を失った。 あの言葉を思い出すたびに、今でも悲しい気持ちになる。 でも、あなたは誰ですか?と聞かなかったあたり、 彼らしい冷静な一言だったと思う。 次の瞬間、私の目から瀬木を切ったかのように、涙が流れた。 目の前が何も見えなくなって、ただ泣いた。 彼もそんな私を見て、泣いていた。 まるで、生まれたばかりの赤ちゃんのように・・。
私は彼の部屋に行くことをやめなかった。 いつか記憶を取り戻してくれるかもしれない。 いつものように「暇なやつだな」って声をかけてくれるかもしれない。 そんな、淡い期待を胸に、あの部屋に相変わらず通っていた。その日、彼は日記帳を読んでいた。
_暇な毎日だからこそ、変わり栄えのない同じような毎日だからこそ
_日記をつけて、後でニヤニヤしたいんだよ。
そんなあの人の懐かしいセリフを思い出した。それからだ。彼が私にカーテンを空けてはどうかと言うようになったのは。 私にとって本当はとても嬉しい申し出だったのだけれど、私の中にあるあの人との夕日が彼と夕日を眺めることを拒んだ。彼は少し残念な顔をしていたけど、私は見ない振りをした。
あの人が「死んで」からもう一年がたった。私はまだ彼の部屋に通っていた。何故かと訊かれれば惰性と答えるしかない。ただ思い出に浸っていたかったというだけかもしれない。実際彼も私が通うことを快く受け入れてくれたし、何故まだ通っているのかというよりも通うのをやめる理由がみつからなかっただけかもしれない。あの人と同じ顔をした彼のことは好きだったけど、彼の丁寧な話し方があの人とは違う彼という存在を浮き彫りにして、その気持ちを覆していた。
ある日、彼は私を家まで送りたいと言った。 あの人は決して言わなかったセリフだった。
_「たまには送ってくれてもいいんじゃないの?」
_「・・そこまで暇じゃない。」
_「そう言うと思ったわよ。」
_「・・・また今度気が向いたときに送っていてやるよ。」
_「ふふっ。何優しい男気取ってんのよ馬鹿。」
そんなやりとりを思い出す。 そういえば・・結局一度も送ってくれなかったな・・・ 私はそう思って、彼の申し出を受けることにした。
私は、彼と会うのをやめた方がいいのだろうか・・。
『もし記憶が戻ったら』 その思いも段々空しい物に変わりつつあることを私はわかっていた。夜の住宅街を歩きながらそんなことを考えていた私はふと彼に問いかけた。
「あの日のこと・・覚えてる?」 彼はその日を自分の生まれた日と表現し、あの人が死んだ日と言った私に「俺も昔の俺も同じ俺」と言った。私はとても腹が立った。自分のことさえ何も思い出せないような情けない男に何がわかるというのだろう。 そして残酷な言葉を吐いた。 私はいたたまれなくなって家まで走り出してしまった。 彼は・・・その場に立ち尽くしていた。
それから私はずっと記憶というものについて考えていた。何も覚えていない彼は、記憶がなくても俺は俺なんだって言った。マンガみたいに記憶が簡単に戻るならいいが、あの一年間その気配は全然なかった。その事実を前にして俺は俺だなんてどうして言えるんだろう。彼のそんな無神経さに腹が立って、何度も何度も目覚まし時計の時刻設定をするためのねじをジリジリ言わせながら回し続けた。指が痛くなってそのことにまた腹の立った私は、目覚ましを壁に投げつけてそのまま不貞寝を決め込むことにした。
ジリリリリ!
いつものように唐突に鳴り出す目覚ましの音。でも今日の唐突さは明らかにいつも以上だった。時計は深夜ラジオを聴くには調度いい時間だった。自業自得なのはわかっているが、理屈じゃ納得できないのが女心というものだ。目が覚めた私は顔を洗い、ベッドに腰掛けてラジオのスイッチを入れた。ラジオから聞き覚えのある歌が流れ出した。高校受験のとき、よく聴いた歌だった。ちょっと懐かしくなって目頭が熱くなって、当時のクラスメイトの顔を思い出した。
その時、私ははっとなった。彼のことだ。彼にはこんな懐かしさを感じることができるのだろうか、と。彼にある記憶といえば、私があの部屋に通っていた時のことだけ。彼は私をみて何を思っただろう。彼はあの人に戻ろうと必死だったのかもしれない。少しでもあの人に近づこうとしていたのかもしれない。私があの人の亡霊を追うことは彼の一年を浪費させてしまったのではないだろうか。何も思い出せないという不安の中でもがきながら、彼は何を思っただろう。彼は見ず知らずの私が、昔の彼とどういう関係であったのかを知ろうとしてくれた。 なのに、私は彼をフィルターに、カーテンの向こうの夕日ばかりずっと眺めていたのだ。 彼の気持ちも考えずにあんな残酷な言葉を吐いてしまった。 彼は、記憶を失うという一種の”死”を体験しながら私が、あの人から離れられないのを暖かく見守っていてくれていたと言うのに。
彼は、私のことをどう思っただろうか…。
朝焼けの光を受けながら私は起き上がった。
「結局眠れなかったな。」
あの日本当は、私達は何も失ってなかった。だから…ね。
「相変わらず、早起きなのね。」
「相変わらず、暇な人ですね。」
「あんたほどじゃないわよ」
「夕日、綺麗ですか?」
「いつもと同じよ。」
「そうですか。まぁそうですね。」
「ねぇ、話したいことがあるの。」
「奇遇ですね・・俺もだよ。」
今、俺たちができることは、目の前にある植木鉢に、種を植えることだけなのだから。
その辺境の街には何も無かった。その街を取り囲む深い深い森以外には、本当になにも無かった。ただその森の中には、希少価値の高い「日割り草」と呼ばれる薬草の群生地があった。しかしその事実はあまり知られておらず、やっぱり街は観光名所にもなれないくらい何も無いことになっていた。
何も無いことになっている街の何も無い日常。その一部に、後に歴史を変えるかもしれない騎士の誕生秘話が、隠されていたかもしれない。
ジーン少年はその日、病気がちの母のために薬草を採りに行っていた。両手で抱えきれないほどの「日割り草の葉」を、落としては拾い、落としては拾って家路を急いでいた。この薬草独特のほのかな甘い香りが鼻腔をくすぐる。森の生い茂る木々の下、太陽の光はかろうじて届く程度で、あたりは薄暗かった。しかし、そんなことには慣れている。
森には猛獣が棲み、山賊の類が出没するため街の子供は入ることを許されていなかった。が、
「許されちゃいないが、見張りもいない。罰も無い」
と、ジーンは、申し訳程度に設けられている柵をいつものように飛び越えてきたのだ。
「日割り草」がカサカサとすれる音に、遠くからの鈍い物音が紛れてくる。気になったジーンは帰り道をそれ、音源を目指した。苔むした大木をいくつか通り過ぎ、生ぬるいシダの茂みを掻き分けて進む。音がしている場所はそう遠くないようだったが、いいかげん、いちいち落ちる「日割り草」を拾うのが面倒になる。ヒルが気になったが、ジーンは、上着を脱いで「日割り草」を包んだ。
正面の大木の向こう。ブッとゴムの切れとぶ音に続き、噴水の水の囁き、そして、岩の転がる音と同時に「土熊の首」がジーンの足元に転がって来た!
「……!」
声にならない悲鳴。血のにおいにむせて、仰向けに倒れこんで後ずさりすると、「日割り草」を包んでいた上着がほどけてしまう。血にまみれた首なしの熊と、さらに現れたのは、熊の返り血を浴びた大男だった。男は鮮血に紅く染まったナタを少年に突きつけ、いやらしい笑みをもらす。
「今日はついてる。「土熊」に「日割り草の葉」か。おいガキ、その抱えてんの、置いていきな」
しかしジーンは、おびえてはいたが、「日割り草」を包みなおして抱え込み、渡そうとしなかった。子供ながらに抵抗してみせるジーンに、男は満足そうに破顔する。もとより「日割り草」は貴重だが、どうやらこのガキにとっては、それ以上に必要なものらしい。
「病気の家族でもいるのか?」
男の勝手な推理だが、「日割り草の葉」の効能を考えれば当然行き着く結論だ。少年はふるえる声を絞り出した。
「母さんが病気なんだ。だから、これはあげられないよ。ほしいなら、森の奥に群生地がある……」
男はもう一度笑った。
「俺はそれが欲しいんだよ」
「だからダメだって……!!」
あくまで渡そうとしないジーンだったが、ナタの切っ先を突きつけられ、押し黙ってしまう。
レアアイテムの入手、そして誰かのためにしている努力を踏み砕くという、男の最大の趣味が今なされようとしている。ナタを突きつけただけでこの表情をする少年。これが悔しさに嗚咽する姿を思うと、心が躍った。我ながら悪趣味とは思うが、楽しいのだから仕方ないのだ。
「渡せ」
ジーンは今にも泣きそうな顔で、しかし首を横にふった。「日割り草」の甘い香り。
「群生地を知っているならお前がもう一度行けばいい。おふくろさんの病気も、そう急がなくても平気だろう。わざわざお前が、ここで痛い目にあうこたぁない。それとも、わざわざ痛い目にあいたいか?」
俺はそっちでもかまわないがなと、男は付け加えた。
ジーンは観念してうなずいた。首をたれて表情は伺えないが、悔しがっているに違いない。男は興奮を覚えつつ、少年に歩み寄った。
「そうそう。全部出せよ? 素直にしてれば命までとらねぇんだ」
上着ごと引ったくり、品を定める。めったに手に入らない「日割り草」が、一度にこれだけの量入手できるとは稀に見る幸運だ。
半ば呆然と男を見上げている少年に気付くと、男は視線で「行け」とうながした。
釈然としない。するわけが無い。だがジーンは、わだかまる悪感情を必死に押さえ込んだ。男の言うとおり母の病気は急じゃないし、だったらわざわざ、痛い思いをしない方がいいに決まってる。あの土熊のようにはなりたくない。
だが悔しさがのこる。力に屈するしかできず、力に抗う力を持たない自分が、くやしくてしょうがない。
しかし、さまざまな思いがつのる中、ジ−ンの中でそのとき、一番強かった思いは、開放された喜びだった。何は無くとも生きている。
その事実が、唯一彼の心を救っていた。
「おいガキ。こっち向きな」
再び男が呼んだ。ジーンはまだ何かあるのかと、うんざりだったが、振り向いた。そうしなければ何をされるか分かったモノではない。
男はそう遠くない距離に、しかし、ナタは届かない距離に立っていた。男の構えたボウガンがジーンの体に向けられている。男が、これまでで一番うれしそうに笑っていた。
「……なんで!!」
=命はとらないって!!=
少年の顔が悔しさにゆがむ。男はたまらずに、声に出して笑った。
喜びが絶望に変わった表情。おかしくて仕方ない。これを見るのが楽しみで仕方なかった。これまでにさまざまなツラを拝んできたが、男はこの少年以上の顔を見たことがない。
=最高だ!!=
「日割り草」の群生地というのも魅力的な情報だったが、この険しい森を子供の足で進める範囲はそう広くない。たっぷり遊んだ後で、自分の足で捜しに行ってもすぐに見つかるはずだなのだ。今日は都合のいいことしか起こらない。最高だ。
「ぐははっはっはっは!!」
ボウガンの矢が撃たれる。ジーンは目を閉じることもできずに、次の瞬間には己の体に食い込むことになる矢の先端を凝視していた。
そして、視界が半転する。
「日割り草」よりも甘い香りに、ジーンは包まれていた。少年に向かってきた矢は彼の肉に届く前に叩き落とされていた。叩き落したのは、銀色の一閃。
「なかなか趣味が悪いじゃねぇかオッサン」
銀の剣を振るった男が吐きすてた。
「大丈夫?」
と、小声でジーンにたずねてきたのはジーンを抱きすくめている女性だった。甘い香りは香水か何かだ。ぎゅっと少年を抱く彼女の腕に力が入る。
銀剣の男と女性はどうやら仲間のようだ。二人とも同じ、オレンジ色のコートを羽織っている。春だと言うのに。
女性はジーンを抱えて大木に身を寄せた。少年の安全を確保する。ジーンの肌に触れるコートが暑い。
「そのむさくるしいコート、騎士団のやつらか? 何でこんな辺境に」
「通りがかったついでだよ。つ・い・で!」
銀剣の男は軽い調子で返答した。
「男色童児趣味の変態がいたから職質に来たってわけだよ」
「ちぃッ!!」
変体扱いされた男は銀剣の男にボウガンを向け、矢を連射した。矢と銀剣が風を切る音に、矢がことごとくへし折られる破裂音が続く。
銀剣の男は一気に間合いを詰め、大男の正面で刀身を振り上げると、ボウガンを斬りおとした。
「このっ」
男がボウガンを棄ててナタを取り出すより早く、銀の切っ先が上着に縫いつけられたプレートにつき立てられた。身長差で銀剣は突き上げる形になっているが、動きを止めるにはそれで十分らしい。かっこ悪さは問題ではない。銀剣の騎士団員がその銅版に刻印された暗号を読み上げる。
「盗賊ギルド首都本部・登録ナンバー5121か。お前、フリード・アースターだな?」
わざわざ暗号にしてある登録票をこうも簡単に読み上げられるのも遺憾だったが、それ以上に、プレートには本名までは記されていない。アースターは一瞬、驚きを隠せなかった。が、すぐに思い当たって平静を取り戻す。以前首都で流れていた騎士団の男のウワサ。
「お前が登録ナンバーとそいつの名前を全部暗記してるってクソ野郎か……確か名前は」
アースターが言い終わるのを待たずに、銀剣の騎士団員は再度剣を振り下ろした。かろうじて、ナタでそれを受け止める大男。銀剣の騎士団員は攻撃の手を休めなかった。から竹割り、胴、けさがけ、逆胴、突き。一撃、二撃、三撃と連続して仕掛ける。あるときは大男の耳をかすめ、あるときはナタで受け止められる銀の剣閃。
すごいものを見ている気がした。ジーンはその戦士たちの戦いを食い入るように見つめていた。全身から汗がふき出してくる。背中から腹部へ回り込む、妙に暖かい女性の腕も手伝って、服がへばりつくほど汗をかく。
騎士団員の大振りの一撃をアースターが回避した。アースターはその巨体に似合わない身のこなしで跳躍する。騎士団員の頭上でナタを構えなおし、叫んだ!
「思ったほどでもないな! これが騎士団の実力か!?」
巨体がすぐ後ろまで迫っても、騎士団員は振り向けていなかった。切っ先はまだ、森の腐葉土に突き刺さったまま。
「誰がテメェにホンキ出すかよ」
銀の一閃!
ジーンがその日見た剣閃の中で、それはもっとも速く、鋭いきらめきだった。
切っ先が地面から地面へ、アースターのナタを経由して真円を描いた。ナタはその中ほどから切断され、機能を失う。真円の剣閃に続いて、騎士団員の蹴りが大男のわき腹に入る。見事な脚力で大男は吹っ飛ばされた。
「……っれ?」
ジーンたちが背中を預ける大木の方へ。一直線に。
騎士団の女性はジーンを抱き上げて横に跳躍し、これを回避する。大男・アースターの巨体が大木の幹に打ち付けられ、ジーンたちの目の前に転がった。女性の腕がさらに強く、ジーンの体に食い込んだ。
「ウラーッ!!」
銀剣の騎士団員が咆哮を上げてアースターに突進する。そのあまりの声量にジーンは反射で彼をふりかえった。剣の柄を握る皮のこすれる音がジーンの耳にまで届く。あれはどうみても本気だった。殺す気で向かって行ったに違いない。走る足の一歩一歩が地面から土をえぐりとばし、その軌跡が一瞬で倒れている大男まで伸びていった。銀の剣が伸びる。
「サン!! およしなさい!」
騎士団の女性が声を張り上げると、一瞬、銀剣のサンの動きが止まった。今頃になって、このサンと言う男の疾走が掻き分けた風が、ジーンの頬までとどく。その風が届くと同時に、さっきまでひしひしとジーンに恐怖すら感じさせていた殺気が消えた。
「カシュ。そんな顔をするなよ」
カシュと呼ばれたこの女性がどんな顔をしていたのか。背後から抱きしめられていたジーンにはうかがい知れなかったが、サンの割と平静な声を聞いて、カシュは安心したのか、ジーンを抱く腕の力をゆるめた。
「子供の目の前です。わきまえなさい」
その口調は凛として、事務的だったが、何かを気にかけるような影があった。
「あたり前だ。ガキの目の前じゃ、殺しなんてできねぇよ」
冗談めかしてサンはいった。が、これが冗談でなかったことはジーンにも判った。つまり、子供が、自分が見ていなかったら、フリードアースターはサンに殺されていたのだ。
「あああーー!!」
絶叫とともにアースターが起き上がった。三人が振り返るまもなく再び跳躍し、巨体に物を言わせてサンを押し潰しにかかる。
「チッ」
舌打ちと同時に剣を構えなおす。先ほどの殺気とは明らかに違う。しかし、圧倒的な気迫がサンに満ちる。
「サン…―ッ!!」
カシュが短く、彼の名を呼ぶ。
「わぁってるっ!!」
殺すなとの命令だったのだろう。カシュはどうやらサンの上官らしい。わりに、サンはタメ口をきいていたが。
サンは銀剣を地面に突き刺した。フリーになった右のこぶしに最大級の握力と、上体に最大級の捻転を。向かい来る巨体にあわせてカウンター気味に、強烈なこぶしを叩き込んだ!!
動かなくなったアースターを縛り上げるとサンは、手の平を叩いてホコリをおとした。
「カシュ。いつまでそのガキ抱えてんだ」
サンは不機嫌そうに言い放った。
「あら。何か問題かしら」
こともなげに、そしてどこかうれしそうにカシュが言い返す。言いながら彼女はジーンを解放した。彼女の甘い香りが遠くなっていく。
「あ。……ありが。とございます」
サンの闘いが、技とパワーが脳裏に焼きついている。少年の語彙力では表現できなかったが、すごいと、ただただすごいと思った。そのとき多分少年は、感動していたんだと思う。
ジーンは一通り礼を言い終えると、「日割り草の葉」を拾いに走った。そう長くない距離、十メートルも行かないところに上着ごと、「日割り草の葉」はころがっていた。拾い集める。かすかな甘い香り。カシュと同じにおいだが、かなり薄い。ジーンは思はずカシュを振り返っていた。
「で、確認が遅れたが、お前はジーン・アネンモギーで間違いないか?」
カシュを振り返ったはずが、目の前にいたのはサンだった。銀の剣は鞘に収められ、かれの右手に握られている。助けてもらってなんだが、初対面の人間に名前を言い当てられて疑問に思わないやつはいない。
「……えっ?」
思わずそんな声しかでなかった。サンは拾い残しの「日割り草」をつまんで、ジーンに差し出した。
「俺たちはニース・アネンモギー……つまるところ、お前の母親の知り合いなんだよ。ニースの依頼で、お前を迎えに来た」
「母さんの?」
胡散臭そうな顔で少年は相づちをうった。
いろんなことがうそ臭い。息子を迎えに騎士団をよこすなんて。それ以前に、母が騎士団に顔がきくなんて話はきいたことが無い。
そんな疑問を、サンは感じ取ってくれたようだ。
「俺たちがこんな辺境に来たのは別の事件のためだ。ニースに、お前んちに宿を借りることにして、お前を迎えに来たのは宿代がわりってこったな」
「でもなんで、僕が森にいるってわかったの? 立ち入り禁止の場所なのに」
サンは一瞬返答に困っていた。それから一つ息をはいて、笑う。
「ニースはお前の母親だからさ。おまえが秘密だって思ってても、親バレしてることなんて山ほどあるぞ。きっと」
「おやバレ?」
「親は何でもお見通しってことだ」
そういってもう一度笑い、サンはポンとジーンの頭を叩いた。
それが、終わりの合図だった。
ジーンは帰宅したとき、母に森に入ったことをとがめられたが、気にしなかった。その母のために採ってきた「日割り草の葉」は戻ってきたし、騎士団の、騎士の闘いを目の当たりにできた。少年はすこぶる満足だった。
サンが任務を終えるまで、つまりは首都へ引き上げるまで、ジーンは剣を教えろとしつこく迫った。サンは基礎だけ教え、後は自分でと、早々に首都へ帰って行った。一振りの、銀の剣を残して。
ジーンは銀剣を持って森へ入り、強くなるために銀剣を振り回し続けた。
そして十年。
十七歳になり、騎士団入団試験資格を得たジーン少年は首都へ赴くことになる。
「たまにゃいいんじゃないの?」
夫は軽く言った。子供も小学生にもなればあまり手もかからない。私は一人旅に行きたいと申し出たのだ。もともと一人旅などしたことはなかったが、どうしても一つ確かめておきたい事があって、私は家を後にした。
荷物はさほど多くはない、一人旅というものの勝手がわからないので、いざとなれば買って済まそうと思いできるだけ身軽にしたかった。
身軽にしたかったのは荷物だけではなく心もそうなのかもしれない。
御世辞にもいい夫と言うには欠けすぎた主人と、もはやかわいいだけの時期を通り過ぎた息子がその夫に似ている事に気づけば、そこから脱出したくもなる。
そんな疲れが、20年も前の約束を呼び覚ましたのかも知れない。
約束。
それはあまりにも幼く、無邪気なものだった。ただ、きっと初めて愛したという事に舞い上がってしまったのだろう、それゆえに記憶に残ってしまったのか、
私は彼が言い出した言葉を頭の中でゆっくりと反芻した。
「どんなことがあっても、10年後にこの場所で会おう。」
彼とは高校卒業とともに別れてしまった。父の転勤で遠く離れたこの都会へと移り住んだ私には彼との距離に耐えることができなかったのだ。
そう、約束は10年どころか、もう20年を経ている。だからその場所に赴く事にはなんの意味もない。ただ、自分が現実から逃避して甘い記憶に身を浸したい、それだけの甘えで列車に乗ったのだ。
気が付くと列車は随分遠くまで来ていた。
選んだ季節を誤った事に気づいた。
列車のドアが開くとそこは都会より季節が一つ先に進んでいた。身軽にした事を少し恨みながら駅の地下街へと足を進めた。かつて通い慣れたはずの駅。なのに、何一つ思い出せない。
記憶がすっぽり抜け落ちたかのような妙な感覚。まるで異次元に迷い込んだかのような気分が襲う。
一人旅にこんな場所を選んだことの後悔が冷静という感情を失わせていた。そう、記憶が欠落したわけではない、駅が大幅な改装をしたのだ。駅自体が地上二階へと移り、駅ビルまで全改装されている。これでは記憶と照らし合わせようがない。だが、空気の匂いだけは昔とかわっていなかった。だから時が進んでいないような気がしたのだ。
多少の狼狽はあるが、とにかく今は何か上に着るものが欲しい。地下街もかつての安っぽいデパートの偽物のような景色から一変して、まるで銀座の高級店を連れてきたようなブティックが並んでいた。
どうしてここまで変えなければならなかったのか。たかが駅が老朽化し、それを建て替えただけの事実を妙な気分に絡みつけて考えている自分の感情がおかしくて、重かった気分が少し軽くなった。
いつもなら絶対に選ばない色、真黄色に近い山吹色のカーディガンを、変貌した偽物のデパートの跡地にすました顔で建っているブティックでそんな時代の事など知りもしないような若く無愛想な店員から受け取った。いちいち細かい部分にすべて理屈をつけている自分が、やはりこんな場所にくるべきではなかったのだと、また憂鬱が頭をもたげていることに気付いた。
「まるで病気ね。」
胸の中で呟いた。
そう。20年も前の恋を思い出して、胸がときめいている自分を冷静に捉える事が恐くて、そう思いこみたかった。ただ自分にそう言い訳しているだけで、実際はなんの意味もないと知りながら。
カーディガンを羽織るとガラス張りになった窓から街が見下ろせる喫茶店に陣取って、紅茶を頼んだ。ダージリン、オレンジ・ペコ、セイロン・・・。たかが紅茶だったメニューが、いつしか茶葉の名を連ね、コーヒーカップに注がれて出てきたはずの紅茶は、ティーポットにティーコゼーをかけられてマイセン気取りの茶器とともにお目見えした。
こんな事にいちいち苛立つのは、ここは田舎だと思いこんでいたかったからだと、そして、自分の知らぬ土地なら時は永遠に止まっているものだという至って身勝手な思想の結論だと、二口目を口に運んで気が付いた。
列車を降りて冷えた身体は、狂い咲きにも似たカーディガンとご立派になった紅茶で暖まった。そこでようやく、冷静さを取り戻そうとしていた。
ティーポットから2杯目のお茶をカップに注いで、そのカップが空になるころ、ようやく自分のおかれている状況が、冷静に考えるといかにばかばかしいか、ということに気づいた。
ただ、慢性の疲労から脱出願望が芽生え、そこから一人旅をしたくなった。
だが旅をして行くあてもないので、高校卒業まで住んでいた街に来ただけ。ということだ。
なんとも陳腐な理由だが、ならば他人に話さなければいいだけの事だ。高校時代の友達は居るだろうが会うこともないだろうし、父の転勤で住み、父の転勤でまた離れた通りすがりの街だから親戚が居るわけでもない。誰とすれ違っても私は異邦人を気取っていられるだろう。
そう決めつけると20年前の約束をどうすればいいものか、自分の中で納得できないなら、いっそカタをつけてしまえという気分になった。整理してしまえば訳もない。いっそジョークにできるだけのイベントにしてしまおう。
結婚して常識という事を妻として母として振る舞わねばならなかった女は、妙なコンプレックスを昇華させてただお茶目な女子高生時代の自分に戻りつつあった。
決して似合いもしない色のカーディガンのせいだけではないようだった。
ローカル線に乗り換えて30分、かつて通った高校の駅にたどり着くと、時間は間もなく夕暮れが始まる頃になっていた。駅から20分ほど歩けば、約束を交わした公園がある。海を見下ろして、海風がおだやかに吹く公園だった。ちょうど高校に在学中の時に完成して、ベンチも噴水もなにもかもぴかぴかだった。傾斜を切り崩して作ったゲートボール場では毎日のように老人達がゲートボールに興じていた。
記憶の糸をすこしずつ太くしながらかつての道をなぞって歩く。
まっさらで、限りなく黄色に近い山吹色のカーディガンがセーラー服を着ていた頃の妙なはずかしさを思い出させて、それが妙に心地よく、そして公園までの道のりを闊歩し、身体も暖まっていたせいか、なんだかとても楽しい気分になってきた。
足がはずむ。
そして、公園へと向かう裏道を上る。
彼と学校からこの公園と来て、駅へ向かう道の逆をすすむ。
少しばかり、胸を躍らせて、裏道を上る。
少し上って、妙な事に気づいた。
あの頃あれほど綺麗に整備されていた花壇に雑草がぼうぼうと生えているの
だ。
何か違う。
少しばかり浮かれていた気分に翳りがおちた。
息を飲んで、裏道を上りきる。
海が見える…はずだった景色にはびっしりとマンションが建ち並んでいた。
そして、公園は荒れ地になっていた。
ゲートボール場は、草が生い茂り、人が集っている気配などまるでない。
学校からの公園の入口の道は塞がれてマンションの裏手になっていた。
そう、ここはマンションの分譲で公園へ入る道が途切れ、放棄された公園になってしまっていたのだ。
かつて、腰をかけて、日が暮れるまで語り合っていたベンチも、半壊してい
る。
落胆した気分にはあまりに似合ったベンチだった。
手で砂埃を払って、腰をかける。
本当なら、ここからまっすぐ夕日が見えて、それが海へ沈むまで見届けられるはずだった。
今は凪の海さえも吹かず・・・。
ただ、コンクリートの壁に遮られた裏手の影の場所になりさがっている。
腰をかけて、俯いた途端にぼろぼろと涙がこぼれた。
せつないとか、やるせないとか、そんな言葉では形容できない、言い様のない虚しさが胸を鷲掴みにしているようだ。
ぼろぼろと大粒の涙がこぼれていく。
声もなく、ただただ、泣いていた。
裏切られたとか、変貌したとか、そんな事はどうでもよかった。
もはや理屈などどうでもよく、ただ、無心に涙を流し続けた。
10年間の裏切りと、20年間の心残りに、区切りをどこかでつけたいと思っていた。
だが、それは、もっと鮮烈な傷となって、いま刻み込まれている。
気がつけば、嗚咽を上げて泣いていた。
悲しいけれども、どこか気分がいいようにも感じた。
36年生きてきて、おそらく人生の折り返し地点で、
これほど涙を流せるとは思わなかった。
泣いて、泣いて、泣き続けて、そして、大きく深呼吸した。
すると、なんだか、妙にすっきりしてしまった。
足下を見るとずいぶん泣いたらしく、涙の跡がくっきりと残っていた。
ひび割れたコンクリートのブロックが黒くなって染みになっている。
隙間から草が生えているそのブロックを目で追った。
ぼんやりと、ひとつひとつ。
目で追った先にを見上げると、草の中に公園の案内図らしき看板があることに気づいた。
スプレーのペンキでいたずら書きをしてある。
誰もいないのに、泣いてしまった気恥ずかしさで、なんとなく、看板の落書きを読んでみようと立ち上がった。
看板に近づく。泣きつかれてぼんやりした視界の中に、文字がはっきり見えてきた。
大きく「がんばれ」と書いてある。
いたずら書きにしては、気の利いた文句だと、素直に思って、小さな文字に目を凝らした。
再び息づいたはずの呼吸が、また、ぴたりと止まった。
鼓動さえも道連れにして、止まったと思うほどに。
半拍おいて、涸れ果てたはずの涙が、また、
もう涸れるほど、涸れているほど、泣いたはずなのに、
また、ぼろぼろと涙が溢れ出てきた。
さっきより、何倍も、何十倍も、壊れた蛇口みたいに涙が溢れ出てきた。
立っていられなくなって、膝をついて、看板の鉄柱にしがみついて叫ぶように泣いていた。
失った物の大きさと、失った時間の長さを知って、私はただただ泣いた。
泣くことしかできず、わんわんと声を出して、ひたすら泣いた。
泣いてどうすることができるなら、どうにかなるくらい、
生まれたての赤子のように、無心に、ただ泣いていた。
小さな文字には、
20年前のその彼の名前と
10年前の約束の日付が記されていた。
日が暮れていく、泣いている中で、微かに、本当に微かに、海風が吹いた気がした。
そして、彼の声が聞こえたような気がした。
「がんばれ」
と。
初めて命をもぎ取ったのは、保育園に入ったときだったような気がする。それ以降は覚えていないのだ。だが、保育園でのあの出来事は今も強烈に覚えていた。興味本位で、蟻の行列を足で踏みにじった。なぜか列を作ってきちんと歩いているところをみて、無性に壊したくなったのだ。手で潰す、なんてまめなことはせずに一撃でしかもたくさん蟻を殺せそうな方法を選んだ。靴が汚れるなんて考えもせずに、小さな蟻を踏みしかも地面に擦り付けるようにぐりぐりとなじった。潰され死んだたくさんの蟻を見ることよりも、行列が崩れたことに満足感を覚えた。
私はこの時のことを思い出すだけで、子供の残酷さが怖くなった。命など問題ではなく、ただ自分の興味の示すところを徹底的に弄る。すべての子供がそうだとは思わないが、少なくとも私はそういう子供だった。
小学校に上がってからは、そんなことはなかった気がする。そのころ私は男でありながらも虫を潰すことに気持ち悪さを感じ、呪いとか化けて出るのではないのだろうかとそんなことを考えていたからだ。もちろん、犬や猫などに危害を加える気も毛頭なかった。それどころか、怪我をした犬や猫を家に持ち帰ったぐらいだ。親に怒られつつも、私は決してそのことをやめる気はなかった。そのとき私は命を助けるという思いよりも根っからの動物好きで愛しいと思う気持ちの方が強かったような気がする。
中三の時、私が受験の時だ。私は普通に一般試験を受けたのだが、小学校の同じだった男の子が推薦を受けた。そのとき聞いた噂では、面接の時「命とはどのようなものだと思いますか」と問いかけられたという。彼の答えは「大切な物だと思います」だったような気がする。とにかく、それを聞いたとき私は友人と共に笑ってしまったものだ。その質問に対しても笑いが漏れたが、彼の答えも陳腐なものだと思ったのだ。
その頃から私は命は大切などというたった一つの言葉では語りきれないものだと思っていたからだ。もっと答えようがあるだろうと思ったが、今はもしその時自分が同じ問いを投げかけられたら彼が言った言葉以外の答えを出せるだろうかと考えてしまう。きっと口べたな私のことだから上手く答えられないだろう。それにその時の彼の答えは適切であったと言っていいと今は思う。
なぜ私が今こんなことを思い出し始めたのかというと、それは数週間前にさかのぼる。数週間前に事故であっけなく亡くなってしまった私の父。交通事故で亡くなったとは言っても直接の原因は心臓病を患っていた私の父が薬を飲むことを忘れていたことにあったのだが、母は父をはねた車の運転手を攻めた。そうしたい気持ちは分からなくなかった。父とは折り合いの悪かった私であったが、それなりに衝撃を受けていたのだから。
そして、今目の前で安らかに眠っている母ももう長くはないらしい。私は父よりも母の方が早く亡くなるだろうと思っていた。まさかあの頑固な父が、殺しても死にそうになかったあの父が亡くなるとは思っていなかった。もう少しかまってやればよかったと今更ながら後悔の念が私を襲った。
「母さん、今日は天気がいいね」
答えないと分かってはいても、私は母に話しかけることをやめなかった。父が亡くなり、そして数日後父の体を火葬したその日に母は言葉さえ話さなくなった。元々弱ってはいたが、父の死が拍車をかけたのだろうと医者は言った。精神的にも生きることが辛くなり、母は死ぬ準備を始めたのだ。私を置き去りにして死ぬことを選んだのだと私は悟った。だから、せめて彼女が何の気兼ねなく父の元へと逝けるように私は精一杯のことをしようと誓ったのだ。
私は窓を開け放った。風は生ぬるくもわっとしていたが冷房のないここの部屋の空気を一掃してくれた。真夏の日差しが私の目を直撃する。白い雲も視界の中に入ってきて使い古された例えだが綿菓子のようだと思った。青い空。雲があることで空に表情がつくのが分かる。雲のない空ほど寂しい気持ちになるものはない。今日はそうでなくてよかった。父が死んでからというもの、面会時間になると毎朝母の病室に来て空気を入れ換えるのが私の日課となっていた。母は何も話はしない。だが、生きていてくれるだけで十分だ。
そろそろ仕事に戻らなくては。
作家という収入は不安定だが時間に余裕の持てる仕事をしている私。この頃は母につきっきりで全く仕事がはかどらなかったため、仕事が溜まりに溜まっていた。締め切りが危ういものさえもある。私は名残惜しげに窓から離れると、病室の扉へと向かった。
一度、振り返る。
目覚める様子のない母。白いベッドに横たわり、風にはためくカーテンがまるで彼女の翼のように見えた。今すぐ飛び立ってしまうのではないかという錯覚に捕らわれる。
そんなはずはない。
私は自分に言い聞かせるとドアを開けた。ドアがなぜか重く感じ、足を上げるのさえ気怠かった。
母が亡くなってしまったら私は一人になる。私は三十後半の三十六歳でありながら未だ妻も子もなく、両親には本当に心配をかけた。だが、その両親も……。
私は病院から出た。朝とはいえ夏の日差しは強い。そう思い駐車場を横切った。
朝のため駐車場に置いてある車は数えられる……三台だ。病院に比例してそんなに広くはない駐車場だが、三台というのは珍しかった。
そう思いつつ私は道路へと出た。私の今住んでいる家とこの病院はそれほど離れた位置にあるわけではない。なので、私はこの暑い中いつも徒歩で通っていた。おかげで年中部屋に閉じこもるような仕事をしているにもかかわらず、私の肌は健康的に焼けていた。元々そんなに白いほうではないので、焼けるのには時間がかからなかった。
この母のいる病院はまるで森の中に取り残されてしまったかのような場所にある。木々に囲まれ、涼しいといったら炎天下の中よりも日陰があり涼しいのだが、蝉の鳴き声が耳についた。今、私の歩いている道も周りは木ばかりで、一キロメートルぐらい曲がり角もなく続いている。私はいつもここを歩きながら空想に耽る。ここは考え事をしながら歩くのには丁度よい道だ。道から外れない限り、横から車が来て跳ね飛ばされるということがないのだから。
そんなことを考えていた矢先。ふと道の真ん中にある黒い点が目についた。ゴミ、だろうか?
そう思いながら近づいていくと、その黒い点がだんだんとはっきりしてくる。目の悪い私にも見えるぐらいに。
それは蝉の死骸だった。
この木にとまっていたのだろうか? 私は蝉の死骸に一番近いヒョロリとした木を見てそう思った。蝉は黒々とした肥えた体を丸め、仰向けになって死んでいた。蝉はほかの虫に比べたら大きい方なので目についたのだと思う。それに、いつもは気にもしない虫の死骸に気をとられたのは……やはり父の死が原因か。
地上に出てから一週間ほどしか生きることの出来ない蝉。彼らの命が燃え尽きるのはとても早い。そう、人間である私にとっては。そこまで考えてから私は蝉の死骸から意識的に目をそらした。ジメジメとした暑さを思い出したかのように額の汗をぬぐった。
いろんなことに感化されて感傷的になるのは私の悪い癖だ。それが例え父の死に影響されたことであっても、だ。生ぬるい、気持ちを落ち着かなくさせるような風を全身に受けながら私は歩き出した。蝉の死骸など振り返ることもなく。
長い長い一本線の道を抜け、やっと住宅街に入った。平日、それに十時という時間が重なってか、出歩いている人間はいなかった。いつもの曲がり角を曲がり広い道へと出る。自分の住んでいる家も見え始めた。だが私は一気に家へと向かおうとはせず、子供たちに幽霊屋敷と呼ばれているほど荒れ果ててしまっている一つの家の庭へと入った。持ち主がいたら不法侵入で捕まってしまうかもしれない。もう何年も手入れをしていない庭は伸びきった雑草でいっぱいだった。膝までもあるその雑草をかき分け進んでいくと黄土色の何かが視界に入った。それは二匹の犬だった。犬は母犬と子犬で、二匹は私を見つけると側に寄ってくる。餌をくれる人の顔が分かるのだろう。
「ほら」
私はポケットの中からビニール袋に包まれたパンを取りだした。そして、地面に置いてやると母犬がそれを食べ始めた。子犬はまだ食べられないのだ。
私は子犬を抱き上げる。黒い双眸が私をきょとんと見つめていた。
暖かい。
子犬の体温。生きている、命の証。
私は子犬に向かって微笑んだ。
昔、自分は命とは炎だと思っていた。よく昔話などで寿命は蝋燭の炎が消えるまで、と読んだことがあったせいかもしれない。そして、同時に思い浮かぶのが心臓だ。だが、命と心臓は何か少し違う気がする。
私はそこまで考えてから、足に当たる毛の感触に気付いた。どうやら食べきったらしい。子犬を放し、私はその場を後にする。今度こそ本当に帰るために歩き出した。
**********************
そしてそれから数日後のある日このことだ。その日は雨が降っていた。朝から降り続くその雨のせいで私は今日初めて毎日母の病室に行くという日課を怠った。私は車を持っていない。傘を差し行ってもいいのだが、ある雑誌に載せる短編の締め切りが近く担当の人からの電話を受け私は今日一日仕事に没頭しようと決めたのだ。そして、もうかれこれ三時間弱パソコンの前に座り原稿を打っていた。さすがに肩も張りずっと座りっぱなしで尻も痛くなってくる。目も疲れた。それに、そろそろ昼時だ。そう思って私は立ち上がった。
ピリリリリ……。けたたましく鳴り響く電話の音。私はつい最近コードレスに変えたばかりの電話機を見た。また、担当からだろう。口うるさく何度も電話をかけてくる担当に少々疲れを感じながら私は受話器を取った。「もしもし」と典型的な言葉を使った。
「あ、斉藤さんのところでしょうか?」
「はい」
違った。私は聞き覚えのない女の声にセールスか何かかと疑いを持った。電話の相手が慌てたように言う。
「私、山内外科病院の者です」
母のいる病院の名前。それを聞いた途端、不吉な考えが頭をよぎった。まさか……。
そして、次の瞬間その電話相手が言った言葉により、私はその不吉な考えが現実となったことを知る。
母の容体の悪化、そして私にすぐ来てほしいという電話だった。私はすぐさま電話を切ると、玄関へと行き適当に靴を履き傘を手に取った。家に鍵をかけることも煩わしく外へ飛び出すと走り出した。あまり激しい雨ではないとはいえ走れば傘など差していても意味がない。走るのは久しぶりなのですぐに息が切れ苦しくなった。だが、止まらなかった。否、止まれなかった。止まってしまったら嫌なことばかり考えてしまいそうで、怖かったのだ。
嫌だ、頼むから死なないでくれ!
大の男が情けない気もしたが、私は子供のようにそう思い続けた。それ以外の言葉が、見つからなかった。ただ走り、願い、ぎゅっと唇を噛み締めた。服が雨によって濡れていく。水たまりを踏みつけ靴と靴下が濡れた。だが、気にしている余裕なんかない。息が切れ、酸欠のため気持ち悪くなってくる。私は母が気兼ねなく父の元へと逝けるように、と思ったことさえ忘れていた。ただ、生きてほしいと思った。命の灯火が消えることのないようにと。
顔に打ち付けられる雨がまるで涙のようにほほを伝った。いや、私は泣いていたのかもしれない。頭のどこかでこの頃母の様子がおかしいと気付いていた。いつも医者に言われ続けてきた言葉が頭の中をかすめて去っていた。
『今度、容体が悪化したら助かる見込みは……』
苦虫を噛み潰したかのような、言いにくそうに私に言った医者の顔が頭に浮かんでは消える。
私は走り続けた。強く噛み締めていた下唇に小さな痛みが走り口の中に錆の味が広がった。雨も激しさを増してきたように感じられた。木々の合間から病院が見えた。後少しだ。
病院の駐車場に飛び込むと、私は一気に駐車場を横切り病院へと向かう。
そして、病院の中に入った。傘を放り雨で濡れた服を気にもせずに受付に飛び込んだ。看護婦が驚いたように私を見た。幸いなことに今日は受付待ちの人がいなかった。
「どうなさったん……」
「斉藤 静恵の……!」
息も絶え絶えに私は声を絞り出した。看護婦の方はそれで分かったらしく、私にタオルを渡すと緊急手術室前まで案内してくれた。酸欠で頭がぼうっとなっている。息が切れていて、だが走るのをやめたせいで冷静に考えられるようになってきた。まだ、母は死ぬと決まったわけではない。親切な看護婦にもらったタオルで病院側の迷惑にならないように頭や服を拭く。
「ここです」
看護婦の言葉に私は顔を上げた。赤い、手術中という文字が書かれたプレートが光っていた。私は肩の力を抜き、近くにあった椅子へと腰掛けた。両手を握りまるで祈るかのように額にそれを当てた。
「平気、ですか?」
「……はい、すいません。みっともないところを見せてしまって」
「いえ、平気です。お母様のこと、大切になさっているんですね」
「たった一人の肉親ですから」
「……あの、失礼ですがご結婚は……」
「してませんよ」
「そうですか」
その看護婦の言葉を最後に会話がとぎれ、重苦しい沈黙が私たちの間に流れる。時間の進みが、まるで亀の歩みのようにゆっくりに感じた。一秒、一分が遅い。
そして、会話らしい会話もないまま三十分が過ぎた。
……プレートの光が消えた。音もなく開いた手術室の扉。出てきたのは医者だけだった。私はきっとすがるような目をしていたことだろう。医者が俯いて言った。
「ご臨終です」
私は現実から逃げるように、その言葉を拒否するかのように医者の言葉を最後まで聞かず病院から飛び出した。
終わった。私はそう思った。傘も病院に忘れてきてしまった。だが今は頭を冷やしたい気分なのだ。雨に濡れ、私はとぼとぼと歩いていた。うつろな瞳で、私は道路にあるものを発見する。
血。犬の死体。
私は目を見開いた。あれは、あの幽霊屋敷の……。
私は考えるより先に、幽霊屋敷へと向かって走り出していた。
頼む……。
祈った。これ以上ないというぐらい。
雨に濡れた雑草を過かき分けた。手に走る痛みに草で皮膚を切ったことを知るが気にしていられなかった。
「頼む!」
キュウン。私の声に反応して、子犬が草の中から顔を出した。私は安堵と嬉しさで瞳に涙をため子犬を抱きかかえ草の上に膝をつくと、大声で泣いた。自分の腕の中にいる命の暖かさに安心した。
雨はさらに、激しさを増していた……。
海の音は重砲になり、繰り返し午前三時を揺り起こす。世界全てが誰かの心臓の様に鼓動するその夜の海と風は眠る事を許さない、多分、もう二度と。
リズムを失った風景と自分の体を感じ乍ら生島は思う。
傍を歩く女の素肌は、彼女があれ程迄に自慢した馬鹿馬鹿しいジバンシーのコートのたてた襟から2センチ程白く覗く首であり、それですら直ぐに長い髪と不分明に混じり合った闇の群れに溶けて行くのだ。一体今自分がどんな感情を持つべきなのかまるきり彼は分からず、そうなると本当にどんな感情も自分の中には止まらない事を知った。それではとどこかから借り物を持って来る事は今迄の人生で散々やって来た事故に容易かったが、それをしたくない生島は結局漠然とした記憶を垂れ流し乍ら変に安定しない体を持って彼女を何も言わず追い続ける。
そう、借り物はもう許されない。例え愛しさと言う感情はそれで代用がきくものだと知っているにしても。
コートの下は薄いパジャマだけ、薄着で彼等は二月の世界を歩いている。
風が心臓の位置から吹き荒れ闇をも流す真夜中の海を、まるで酔っぱらった二匹の犬の様に何かを探して歩いている。
-1-
真冬子(まゆこ)の父親が死んだのは海が黒く染まる冬だった。
「自殺ですって」
プラスチックで出来た様な妙に軽い声だった。生島が真冬子を覗き込んだのはそれなりの必然性があっての事だ。本当に彼女がここに居る事を今その瞬間に確認しないと彼女は消えてしまいそうだった。モノクロのコート(ジバンシーらしい)を思う様風に靡かせ、膨れ上がる海を前に真冬子は突っ立っていた。
「そうか」
「生島。私は自由なのよ」
まるで黒い鳥で出来ている様な偽物めいた海だ。あれはきっとその内全部飛び立って空を埋める。
「自由って私はもっと違うものだと思ってた。夜明け頃に夏の海にコーラ飲んで一人で泳ぐみたいな、そんな清々したものだとずっと思って、欲しくて、どんな卑しい事でもするつもりだったの。
父が死んで私は自由よ。
でも、私が望んだ海はもう二度と見られない気がするの」
掠れた声の向こうにいるのは、望んだ通りの女にはなれない一人の怯えた子供だった。それだからその怯えを捕まえ、殆ど条件反射の様に生島は言ったのだ。
「じゃあ俺とまた恋でもしてみるか」
自分が容易くこなせる同情だと知っていたから恐らく彼はそう言った。真冬子は驚きもせず自分を見、それから海を見た。「この向こうに私が生まれた場所があって」声に殆ど出さず呟く声が聞こえる。「そこでお父さんは絶望したのね」
それが肯定の返事の恋を彼等は始めた。
-2-
「真冬子、元気そうだったね」
「ああ」
「三十になってもまだきれいだ」
「…ああ」
真冬子と彼女の父親との確執は要するに、田舎の厳しい父親と野心家で優秀な娘の間に起こるであろうそれだ。何処にでもある平凡な哀しみで平凡な苦痛なのは間違いないが、それだからと言って彼女の痛みが軽減される事も無論ない。
大学時代、彼女の最も親しい友人であり一時期は恋人どうしでもあった生島は、彼女が父親の事を俗物だと憎み軽蔑し乍らも怯え切っているのを知っていた。要するにそれが彼女と恋人で居られなかった理由だ。何処か楡の木を思わせる、凛とした姿と気質の彼女の中にあるその膿を、遂に生島には許せなかったのだと思う。
その事について後悔した事はない。実際、別れた後も彼等は確かに友人であり続けた。少なくとも生島にとってはそうだ。実際、卒業し結婚し、仕事に忙殺され挙句離婚していやに身辺がすっきりしてしまうと、そんな時でも「友人」と自分を呼んでくれそうなのは暫く連絡をとっていない彼女くらいに思われたのだ。
実家に電話をすると泣き腫らした声の彼女の母親が出た。そして聞き出した知らない海へと、生島は自動車を走らせたのだ。
「同じ恋をするつもりかい?」
「何だって?」
真冬子と付き合い出してからと言うもの、酒を呑む度に現れるこの年若い友人が誰かと言う見当は生島には付いている。呑んだ頭で一々正確な思考をしないだけの話だ。只分から無いのは何故今更彼が現れる必要があるのかと言う事だ。つらつら表層だけをなぞる思考をして居ると、彼は静かな声で続きを話しだす。
「あんたがあんたを繰り返し、その外に飛ぶ気がないのなら、真冬子に欲しがるものでも買ってやって、あんたの立場をゆるがせない程度の優しさと同情とで接してやればいい。
でももしあんたが間違って居て、失うべきではなかったものを失ってしまうのなら、あんたは深夜、昔の自分の稚拙さを過ぎる程に悔いる事になるんだよ」
その夜の話題は実に散漫だった。直ぐに他にうつり、互いに少しは笑った。その流れの中で生島は酔い矢張笑い、目が覚めた自分のベッドにどう戻って来たのかすら記憶は曖昧だった。
-3-
真冬子と生島の恋は、それが恋と言えるなら、それなりに滑り出していた。
「恋人って何をするものなのかしら」と途方に暮れる真冬子にたいし、生島はその答えを知り尽くしていたからだ。生島は今迄自分に附随する全ての出来事と感情を分析し収め所を見つける事で、降り掛かる膨大な事態に対処していた。「恋人のすること」頭の何処かに入っているそれを言って聞かせる。
「夜中に電話するとかな、食事一緒にするとか」
「セックスは」
「それなりに折を見て。それとドライブ、」
「生島」
「なんだ」
「恋って出来事の集積なの?」
「人生だってそうだ」
「そうじゃなくて選択して自分を恋って言う状況に置くんじゃないの」
恋をしようと言ってから彼等は休日毎に会う事にしていた。会った所で始まるのは堂々巡りの状況分析の真冬子について、鬱陶しさと哀れみをバランスよく持てるのが多分自分という男なのだ。
その日彼等が選んだのは、真昼のドライブだった。ろくに鋪装されていない道路を走る内に海に行く筈だった道を僅かに外れ、そしてもう戻れなくなっていた。潮の匂いの微かにする街並を、おそらくはこの家々の向こうにある海を感じ乍ら彼等はもう三十分ばかり走り続けている。
「いくしまは」
「ああ?」
「生島は何で恋なの?」
助手席を見ると、彼女は首だけを勢い良く窓の外に向けてあとは深く椅子に寄り掛かっている。大学時代とさして変わらない端正な容貌が少しだけやつれ、ターコイズブルーのセーターから出て居る白い首だけが変に生々しかった。殆ど影になった彼女の体のそこだけに日が当たっており、そういえばこいつは色白だったななぞと考えていると彼女はぽつりと呟く。
「なんで私の事好きなの」
「父親を亡くしたお前に同情しているからだ」
「それは半分ね」
煙草の灰を落としがてらそちらにもう一度目を向けても彼女は姿勢を崩さない。そして彼女の言葉に疑問を持つより早く真冬子は重ねて問うて来る。
「何も私達の関係は恋でなくとも良かった筈だわ。
どうして?」
エンジンの回る音がする。
潮の匂いはもう無くなっていた。きっともう自分達は海から遠い場所に居るのだ。横で真冬子がふふ、と笑う気配がし、同時に彼女は見えない海を探す様に窓から身を乗り出した。
真冬子は夏の海は白と黒と青なのだと言った。随分寂しい取り合わせだなと納得行かずに呟く生島に笑い「明け方の海をおよぐひとの色よ」と答えた。
「私の知ってる海には二つある。一つは両親と見た真昼の海で、もう一つは夜中に起き出してホテルを抜け出した私だけの、明け方の海よ。
地元の子が瓶のコーラを飲み干して放り出して、そのまま海に入って行ったの。真ッ暗な海だったのに火がついたみたいにざーっと青くなってね。夜が終わったのよ。空はまだ暗かったけれど朝が来てた。
けど私は海に入れなかったの。
その子はどんどん沖に泳いで行くんだけど、私は行けなかったのよ。ホテルでお父さん達が待ってる。
そう思って、行けなかった」
道路に転がって来たコーラの瓶が間に合わずに生島の車の下で砕ける。
その事について話し合う事も無く、その日の彼等はそして別れた。
-4-
同情だと言われても真冬子は生島と恋をし続ける事が出来た。
生島は面と向かってそう言っても収める事のできる人間としか恋をした事がなかったし、実際それ以外の方法は知らなかった。出来事と感情なら、生島は徹底的に出来事を選んだ人間なのだ。出来事を客観的に分析し系統的に整理する事で彼は人生を渡って来れた。一つの出来事にはそれに附随する計算された量の感情。それを超えるものは膨大な出来事の波の中で過ぎる彼の身を滅ぼす。定量を守ってさえ居れば、彼はいつも「与える側」の人間として安定した立場を保ち続けられるのだ。
同情だと分かって居ても真冬子は生島と恋をしていた。
「何故だ?」
面と向かって同情でしかないと宣言されたのに、真冬子は生島を恋人だと言い続ける。だってそれは
深夜自室のベッドに眠り乍ら、分かっているはずの答えを生島は見失っていた。
「真冬子、もう直クリスマスだろう。お前の欲しいものは何だ」
その日も彼等は海に行けなかった。「かっなわないわねー。何処にあるのかしら」と笑う真冬子を見、自動車と人とでごった返す夕暮れの信号待ちのバスの中、生島は問い掛ける。
「あー、要らないわ」
「俺がやりたいんだ」
「欲しいもの今ないのよ」
「海は」
急に言った生島に真冬子は振り返る。
「お前、いつか言ったろう。白と青と黒の海が欲しいって。それを俺はやる」
真冬子の目の中に一瞬あった驚きは、まるで間違って空気中に出てしまった揮発性の液体の様に一瞬で何処かに溶けてしまった。その感情が実に久し振りに見るものだという事を、生島が自分の中で反芻する前に、無くした目の光を隠して真冬子は少し笑った。
「やっぱり無理ね」
「あ?」
「恋とか、いいでしょう、もう」
珍しく真冬子は目を逸らさない。微笑んだまま、彼女は静かに言葉を続ける。
「私達きっと無理なのよそういうの。生島は借り物をあげるのに慣れてるし、私はそういうのを受け取る事に慣れてる。
きっと、私達は最初から間違っているのよ。
あなたは本当に白と黒と青の海に物凄く似たものを私にくれるだろうし、そして私はきっとそれで本当にちゃんと嬉しいんだわ。
でも私達はきっと疾っくに知ってる。
あなたは私にくれるものは偽物で私が全然そんなの欲しくないって事、私はあなたがそう思って居る事と、だのに自分にすら上手にそれを隠し通す事を知ってる。
私はもう、偽物は要らないの。
生島の偽物は精巧で、ほんと、きっと本物以上だけど、だとしても、あなたも偽物をくれてやる人生はもう止めなきゃね」
彼女は急に立ち上がってバスを降りた。驚いて止める間も追い掛ける間もないまま雑踏の中バスはうるりと動き出す。
生島は窓ガラスに両掌を付けて真冬子を目で追った。真冬子は何か喚いて手を振っていた。そして笑って、背を向けた。
バスが山肌に近付く頃、その向こうに真冬子が居た窓から遠くうすりと光る海が見えた。自分達が辿り着く事のなかったその場所を白でも青でも黒でもないと、座る事も出来ない男はぼんやりと考えた。
-5-
「無くしたのか」
深夜、広い部屋に一人でまんじりともせずに居た生島に傍から声がする。部屋の闇と沈黙とを一枚の薄布にした様な、そんな冷たい温度の声と気配だった。
「なあ」
生島は声をかける。
「どうしてお前はここにいるんだ」
「あんたが望んだからだよ」
「俺が?」
発する声に思うより力はない。
「真冬子がどうして同情だと宣言したあんたと恋をしようと思ったか、そしてどうしてあんたはその答えを知らないか教えてやろうか。
あんたは真冬子に恋をしようと言った時の自分の顔を自分で分かって居ないからだよ。
あんたは泣き出しそうな顔で真冬子に言ったんだ。恋をしようって。僕が真冬子に言ったのと同じ表情で、そう言ったのさ。
あんたはそれを知らないけど真冬子はずっと知っていた。父親を亡くした自分に縋っている寂しい男はあんたの方だって事を、
あんたは自分でも気付かずに恋をして居る事を
ずっと分かっていたんだよ」
『そのまま、生島、乗って居なさい』昼間叫んで居た真冬子の声が耳に蘇る。『そのバスに乗ってれば、きっと、海が見える。あなたは、そのまま、海を見るのよ』
「あんたはだから途方にくれたんだ、僕を呼び出すくらいに」
「お前は」
「失ってしまった二十歳の自分を、現在の自分を責める為に呼び出す位に」
「お前は真冬子と恋をしたんだな」
闇に囁きが二粒落ちる。
初めて会った二十歳の真冬子は長い髪をして頬笑んだ。「いつか私きっとあなたと海に行くわ」
滅多に彼女は笑わないのだと聞いたのは随分後だ。「予感がするのよ」
木の匂いのする柔らかな声だと、自分はあの日そう、思ったのだ。
-6-
海鳴りがする。
自動車を降りた夜の海はただ波の音だけが響く大きな空洞だった。空迄昇り跳ね返って地に降りる海を聞き乍ら生島は乗り捨てられたもう一台の自動車から続く裸足の足跡を辿る。
俺達は見つけられるだろうか。彼女が怯える過去を超える事はできるだろうか。その海を超えて彼女が望む海を見つける事はできるのだろうか。
遠くに人影が揺らめいている。走るこちらの足音が例え聞こえたとしても、彼女は振り返る事はないだろう。パジャマに引っ掛けたコートのまま生島は走り出す。
探しに行こう、真冬子。
お前の見たがっている白と青と黒の海を探しに夜の果て迄歩こう。
あと三時間で朝が来る。
その先に見える海の色を俺達は知らない。
海の音は重砲になり、繰り返し午前三時を揺り起こす。世界全てが誰かの心臓の様に鼓動するその夜の海と風は眠る事を許さない、多分、もう二度と。
リズムを失った風景と自分の体を感じ乍ら生島は思う。
決してこちらを振り返らず傍を歩く女の素肌は、彼女があれ程迄に自慢した馬鹿馬鹿しいジバンシーのコートのたてた襟から2センチ程白く覗く首であり、それですら直ぐに長い髪と不分明に混じり合った闇の群れに溶けて行くのだ。一体今自分がどんな感情を持つべきなのかまるきり彼は分からず、そうなると本当にどんな感情も自分の中には止まらない事を知った。それではとどこかから借り物を持って来る事は今迄の人生で散々やって来た事故に容易かったが、それをしたくない生島は結局漠然とした記憶を垂れ流し乍ら変に安定しない体を持って彼女を何も言わず追い続ける。
そう、借り物はもう許されない。例え愛しさと言う感情はそれで代用がきくものだと知っているにしても。
コートの下は薄いパジャマだけ、薄着で彼等は二月の世界を歩いている。
風が心臓の位置から吹き荒れ闇をも流す真夜中の海を、育ち初めの恋を抱えて、朝に向かって歩いている。
洗いたての真っ白いシーツが、青い空にはためいている。やっと洗濯物を全部干し終えて時計を見ると、時刻はすでに十一時を回っていた。
香織はルーフバルコニーに置かれたお気に入りのデッキチェアーに腰を下ろすと、エプロンのポケットから煙草を一本取り出して慎重に風を避けながら火をつけた。吐き出された白い煙が、雲ひとつ無い空に吸い込まれて行く。
マンションの中庭にある公園では子供達が元気に走り回っている。その様子を見守りながらお喋りに花を咲かせる若い母親達のグループが、公園内にいくつかの小さなコロニーを形成していた。
結婚して十年目にやっと授かった子供を去年、流産してしまった。妊娠初期の避けようの無い事態だった。でも夫にはこれで「自分は赤ちゃんを授かりにくい体質なんだ」という言い訳にも説得力が加わったような気がして、香織は内心ホッとしていた。
本当は、子供なんて欲しく無かった。特に姑からのしつこいくらいの電話攻撃には心底、辟易させられた。気持ちはわかるけど、夫だって悪いのだ。結婚する時に「子供はつくらない」と約束したはずなのに、結婚三年目くらいから手のひらを返したように「子供が欲しい」と言い始めた。裏切られたと思った。
初夏の風はどこまでも爽やかで、心の中に巣食う鬱屈した気持ちも全て洗い流してくれるような気がする。この広いルーフバルコニーがあるのは、このマンションの中でも香織の所だけだ。その分、他の部屋よりも割高だったけれども、やはりこの部屋にして良かったと香織はあらためて思った。
二本目の煙草を取り出し火を着けようとした、その時だった。
「眩しい……何!?」
ふいに眩しい光を感じて、香織は手に持っていたライターを落としてしまった。一瞬、何が起きたのかわからなかった。ライターを拾い上げ、気持ちを落ち着かせてからあたりを見回すと、意外な場所にその光源はあった。
その光は香織のマンションから少し離れたアパートの二階らしき所から発せられているようだ。誰かが鏡を使って香織の顔を狙って太陽の光を反射させている。
香織が動くと、その光も一緒に動く。振払っても振払っても、その光は香織の体に吸い寄せられるように貼り付いて、しつこいくらいに離れない。
「まったくもぅ……誰かのイタズラ?」
子供の頃から視力がいい事だけが自慢だった。香織はその強烈な光を避けながら、イタズラの主の姿を確かめようと目を凝らした。その主が、香織に向かって手招きをしているのが見えた。大きく手を振りながら、明らかに香織に誘い掛けている。
香織は自分の中に、得体の知れない好奇心がムクムクと頭をもたげて来るのを感じた。それに、向こうは香織の存在を知ってて仕掛けて来ているのに、自分だけが相手の事を全く知らないのにも無性に腹が立った。香織はその光を連れたまま部屋に戻ると、携帯電話と財布の入ったバックを持って急いで家を出た。イタズラの主を、この目で確かめる為に。
「たしか、この辺だったはずなんだけど……」
マンションを出て少し歩くと、街の景色は一転した。元々、この土地は古くからの工業地帯で、香織の住むマンションのあたりは、大きな工場があった跡地に建てられたものだった。その一帯だけは再開発が進み、道路も広く整備され巨大なスーパーも建てられた。
香織が今、立っているあたりは昭和の高度成長期の時代の面影を色濃く残しており、木造の小さなアパートや昔から営んでいるであろう小さな飲み屋や銭湯などが雑然とした空間を作り上げている。
「おーい、こっちだよ、こっち!」
背後から大きな声がして振り向くと、何軒か先のアパートの二階の窓から見知らぬ若い男が微笑みながら手を振っていた。
「あなた……誰?どういうつもりであんな事したの?」
香織は、不快感をあらわにして男に訊ねた。
「ごめんね、そんなに怒らないでよ。ちょっと話しがしてみたかっただけなんだ。怒らせた事は謝るよ……本当にすみませんでした」
自分よりも十くらい年下だろうか。男は、まだどことなくあどけなさの残る顔で、本当に申し訳なさそうに何度も香織に頭を下げた。
「で、何の目的であんな事を?」
謝られたからって、そう簡単には怒りはおさまらない。香織はぶ然とした表情のまま男を見上げた。
「ねぇ、お腹すいてない?良かったら何か作るから上がっておいでよ」
男は拍子抜けするくらい無邪気な笑顔で香織を部屋に誘った。たしかにお腹はすいていたけれど、見知らぬ男の部屋にいきなり上がり込む事に、香織は女性として当然のとまどいを感じた。
「玄関はそのまま歩いて左にぐるっと回ったとこだよ。二階の五号室だから」
それだけ話すと、男はさっさと部屋の奥に姿を消してしまった。
「ちょ、ちょっと。何なのよ……一体」
香織は納得できない気持ちを抱えたまま、アパートの玄関に向かって歩き出した。いざとなったら大声を出して窓から飛び下りたっていい。普段は慎重すぎるくらいの性格なのに、なぜか今日は大胆な自分に内心驚いていた。
築三十年くらいは軽く経っているだとうと思われるそのアパートは、壁のあちこちが汚れてはがれ落ち、一種、異様な雰囲気を漂わせていた。入り口近くに繋がれた大きな老犬が、薄目を開けてチラッと香織を見てそのまま再び寝てしまった。番犬ではないらしい。
玄関には大きな下駄箱が鎮座しており、住人及び来客者はここで靴を脱いで上がらなければならないようだ。香織は埃っぽい三和土でスニーカーを脱ぐと、下駄箱の一番端に自分の靴を押し込んだ。
五号室のドアの横には『FUKUSHIMA』と書かれた簡単な表札が掲げられている。それをぼんやりと眺めていると、いきなり中からドアが開いて男が顔を出した。
「お待ちしてました。さ、どうぞ、どうぞ」
「おじゃまします……」
香織はドアをわざと少し開けたままおそるおそる部屋に入ると、少し緊張した面持ちで部屋の中をぐるっと見回した。六畳二間ほどの部屋はきれいに片付けられており、こざっぱりした印象を香織に与えた。
「チャーハン、好きですか?」
「え?ああ、まぁ普通に」
「良かった。すぐ作りますから、適当にくつろいでて下さい」
男は冷えた麦茶をちゃぶ台の上に置くと、そのままキッチン(とは言っても、部屋の隅にとってつけたような小さな流し台があるだけだった)に戻り、チャーハンの材料をきざみ始めた。トントントンと包丁を使うリズミカルな音がふたりだけの部屋に響く。
(どうして私、こんな所にいるんだろう……)
何もかもが不思議で、ふと「これは夢なんじゃないか」という思いにかられる。でも夢じゃない。白いTシャツに洗い晒しのシーンズをはいた見知らぬ若い男は、香織の目の前で鼻歌を唄いながら手際よく料理をすすめていく。
「おまちどうさまー。さ、どうぞ食べて食べて」
「……いただきます」
チャーハンをひとくち頬張ると、香ばしいゴマ油の香りが口いっぱいに広がった。たっぷりのネギの香りが食欲をそそる。
「美味しい!」
「そう?あー、良かった」
男は香織の反応を見届けると、満足したように自分も食べ始めた。ヘタな中華料理屋の出すチャーハンよりも、ずっとずっと美味しい。
「ごちそうさま。本当に美味しかった」
「でしょ?実はチャーハンには誰にも負けない自信があるんだ」
男は自慢気に微笑んだ。笑うたびに、長めの前髪がサラサラと揺れ、その奥の丸っこい瞳がまるで子犬の目のようにくるくるとよく動く。
「今、コーヒー入れるね」
「ありがと。あのさ、あんた名前なんていうの?歳はいくつ?」
「名前は福島洋平。福島県のふくしま、に大平洋のよう、にたいらだよ。歳は二十三歳になったとこ」
「二十三!?私よりもちょうどひと回り年下だぁ」
「えーと、あの……」
男は、少し戸惑ったような表情で香織を見た。
「あ、あたし?あたしは安田香織。高い安いのやす、に田んぼのた、お線香のこうに織る。で、やすだかおり。君と同じ未年の三十五歳」
「香織さんかぁ」
「そ。ちょっと煙草吸ってもいい?」
「あ、どうぞ」
香織はバッグから取り出した煙草に火をつけると、窓を大きく開けて満足そうに煙を吐き出した。それを洋平が食器を片付けながら見つめている。
「ここの部屋の窓から、香織さんの住んでるマンションがよく見えるんだ。香織さん、よくルーフバルコニーの椅子に座って美味しそうに煙草吸ってるでしょ。それがなんか気になってて、一度、お話してみたいなってずっと思ってたんだ」
なるほど、ちょうど高い建物の隙間に建つ感じで香織のマンションが一望できる。今までそんな事考えもしなかったけど、あのバルコニーでしょっちゅう主婦がエプロン姿のまま煙草をふかしていれば、それは目立つかもしれない。
「ん……何?ああ、この傷?」
洋平の視線が自分の指先に注がれている事に気付いて、香織は火のついた煙草を灰皿に押し付けた。香織の右手首には直径一センチくらいの丸いやけどの跡がいくつか残っている。
「これ?根性焼きの跡……なんてね。うちの母親の愛人に煙草の火を押し付けられたの。うるさいって。子供の頃の話しよ」
「あ……辛い事、思い出させちゃってごめん……」
「昔の事よ。もう全然気にしてないから大丈夫」
嘘だった。忘れられるはずもない、残酷過ぎる幼い頃の思い出。それは大人になった今でも、香織の心の奥で嫌な音をたてながらくすぶり続けている。
「君……えっと洋平君は、仕事は?それとも学生?」
「働いてたんだけど、年度末で辞めちゃった。なんか俺、駄目なんだ……都会とか……どうしても馴染めなくて。すいません」
洋平は本当に申し訳無さそうにそう言うと、何故か香織に向かってペコリと頭を下げた。そうか、この子も社会に馴染めないはみ出し者なんだ。香織は洋平に妙な親近感を覚え、黙って二本目の煙草に火をつけた。
そんな事があってから、香織は気が向くと洋平のアパートに押し掛けるようになった。時には道すがらスーパーで食料品の買い物を済ませ、豪勢なランチをふたりで作って楽しむ事もある。
洋平は、気のおけない友達のようでもあり、弟のようでもあった。ふたりでたわいないお喋りに花を咲かせ、話し疲れると並んで昼寝をする。金魚が泳ぐ水槽を飽きる事なく眺めて、またお喋り。読書好きの洋平は狭い部屋に不釣り合いなくらいの沢山の本を持っていた。それを読みながら洋平と語り合い、まどろむ時間は香織にとってまさに『至福の時』だった。
「洋平の部屋はさ、まるで楽園みたいだよ。パラダイス!」
「えー?何それ」
「なんかさー、ここに来るとすっごく落ち着くんだよね。不思議。なんでだろう?」
「俺も香織さんと一緒にいるの、すごく楽しいよ」
洋平の事を、男として全く意識していない……と言えば、嘘になる。でも男と女の関係になるのが怖かった。自分が既婚者である事や、あまりにも歳が離れ過ぎている事ももちろんあったけれど、そうなる事で今のこの心地よい関係が壊れてしまう事が何よりも怖かった。
いつまでも過去の傷をひきずる女と、都会に馴染めずにはみ出した男。そんなお互いの傷を舐めあうような関係に今はどっぷり浸かっていたいと、香織は切に願った。
「香織さん、今度神社の風鈴市に行こうよ」
「何?風鈴市?へぇーそんなのあるんだ。いいよ。行こう」
近くの神社では毎年梅雨が明ける頃に、大きな風鈴市が開かれるらしい。
その日の洋平は、なんとなく「心ここにあらず」といった感じでぼうっとしていて元気が無かった。香織ももちろん心配ではあったけど、こっちからあれこれ詮索するのもどうかと思って黙っていた。
風鈴市の日は、朝から真夏の強い日射しが容赦なく降り注いでいた。時折、熱風とも思える湿気を含んだ熱い風が吹くたびに、色とりどりの鮮やかな風鈴達はその体を揺らして美しい音色をたてた。
「うわー、すごい綺麗!夏らしくて風情があっていいね」
露天の屋台で冷えたラムネを買って、ふたりで飲みながら歩いた。こうやって仲むつまじく歩く自分達の姿は、端から見ると歳の離れた姉弟に見えるのだろうか。店先のガラス戸に映るその姿を、香織は少し複雑な気持ちで眺めていた。
「香織さん、この風鈴可愛いよ!ほら、この赤い金魚のやつ」
「あ、ほんとだ。可愛い」
「俺、これ香織さんにプレゼントするよ」
「いいの?……ありがとう」
ふたりは風鈴をひとつ買うと、またぶらぶらと歩いて神社の境内の脇に腰を下ろした。香織の指先には、赤い金魚の描かれた風鈴が涼し気な音をたてている。
「話しがあるんだ」
風鈴の音色を遮るように、洋平が真剣な面持ちで切り出した。
「今住んでるあのアパート、取り壊される事になったんだ」
香織は黙ったまま、洋平の話しに静かに耳を傾けていた。木陰はまるで別世界のように涼しい。蜩の鳴き声が高い空に響いている。
「それで、俺、この機会に田舎に帰って家業を継ごうと思うんだ。オヤジももう歳だし。いつまでもブラブラしてる訳にもいかないし」
「家業って……?御実家は何をしているの?」
「……中華料理屋」
そう答えると、洋平は香織の肩をそっと引き寄せた。蝉の声がひときわ大きくふたりの上に降り注いだ。
八月の終わり、香織の元に一通の絵ハガキが届いた。
『安田香織さま
残暑お見舞い申し上げます。
お元気ですか?俺は汗ダクになりながら、チャーハンを作る
毎日です。俺もがんばります。香織さんもがんばってください。
福島洋平
P.S タバコは控えめに!!!』
それを読むと、香織は笑いながら煙草の火をもみ消した。
あっという間の、夢のような日々だった。洋平は確実に香織の心の中に何かを残し、そして変えて行った。心の傷はそう簡単には癒されないけれど、あの楽しかった楽園の日々が、これからも生きて行く為の少しの勇気を香織に与えてくれたような気がする。
もうすぐ夏が終わる。ツクツクボウシがあちこちで名残り惜しそうに鳴き続けている。来年、また真っ白い入道雲が空に沸き上がる頃までに、また見つけられるだろうか。作り上げる事ができるだろうか。自分だけの楽園を。
香織は絵ハガキをエプロンのポケットにしまうと、替わりに煙草を一本抜き取って指に挟んだ……けれど、黙ってそれを元に戻して立ち上がった。
風が吹くたび、バルコニーの手すりに掛けられた風鈴が、ちりんちりんと心地よい音を奏でた。香織はそれを聞きながら、よく乾いた洗濯物をリズミカルにランドリーバスケットに放り込んでいった。
ダークブルーのスーツ姿の白人の女は、封筒から出した写真を、吉沢長治に手渡した。
「国家元首とは、思い切ったもんだな」
吉沢は白髪頭を指ですく。七十近い年齢の割には、均整の取れた体型をしていた。
「アジファラートは度重なる国連の警告を無視し、侵略行為やテロ組織支援を続ける『ならず者国家』です」
「そしてその武力を支える、指導者トグルク・アム中将」
「彼はテロリスト時代、主にブルジョワ階級や西側諸国を標的にしていましたから、貧民層にとっては英雄です」
女はその顔立ちに似合った、正確で綺麗な英語を話す。
「さしたる産業も技術力も持たないアジファラート共和国の唯一にして最大の力は、彼のカリスマ性です。彼を消すだけで、アジファラート政府は崩壊、自滅するでしょう」
女は吉沢の目をじっと見つめる。
「是非、吉沢さんにお願いします」
「君もトグルクが何て呼ばれてるか知ってるだろう」
「『不死身の男』ですね」
「暗殺未遂に遭うこと十二回、うち七回は決行されたにも関わらず、トグルクはほとんど無傷で生還している。その上、実行犯の検挙率は百パーセントだ」
吉沢は、いかにも好々爺といった笑みを浮かべている。
「引退したロートル工作員に出来る仕事とはとても思えんな」
その細い腕では、小銃も満足に扱えないに違いない。
「ご謙遜を。内閣調査室第三分室でのご活躍、聞き及んでおりますよ。冷戦時の防諜から市民団体代表の粛正まで、失敗した仕事はないとか?」
「見え透いた世辞はやめてもらおう。その程度の仕事をした奴は山ほどいる」
くすっと女は笑う。
「もちろん、失敗した時の保証として、引退者を選んだのは確かです。が、吉沢さんの実績は、それを抜きにしてもトップレベルです」
筋張った両手をテーブルの上で組んで、吉沢は黙り込む。
女はじっと彼の返事を待った。
「――君、名前は何て言ったかな?」
「ルーシー・コネリーです」
「国籍は?」
「米国です」
もう一度吉沢は黙ったが、すぐに右手を差し出した。
「……いいだろう。不死身の男を殺すのも、悪くない」
「ありがとうございます」
ルーシーは握手に応じなかった。
ホテルの一室に戻ったルーシーは、クローゼットの中にあるスーツケースを開けた。
中には、通常のものより一回り大きな無線機が入っていた。
彼女はヘッドフォンを付け、マイクを口のそばに寄せる。
「レッドからホワイトへ」
『ホワイトだ。天気はどうだ』
ヘッドフォンから男の声がする。
「自分で調べて」
『――どうだ、首尾は』
途端に相手の言葉がアラビア語に変わった。
「完璧よ。あの爺さんあたしを国連の情報員だと本当に信じたみたい」
応えるルーシーの言葉も、アラビア語になっている。
「経歴は立派だけど、ね」
『よし、後は爺さんが失敗してくれれば、トグルク閣下の名はより神聖なものになる』
「過去十二回と同じようにね」
ルーシーの笑みには、熱狂が含まれていた。
『必要なものを全てリストアップしてくれ。計画さえ分かっていれば、対戦車ライフルだって防げるからな』
「ええ。では、トグルク・アム閣下に栄光を」
『ああ。栄光を』
ナイフ、拳銃、ライフル、マシンガン、携帯ロケット弾。
地下駐車場に作られた倉庫には、相当量の武器が置かれていた。
「しかし、吉沢さん、久し振りですね」
店主が満面の笑みを浮かべる。
「君の店は変わらないな、中野」
吉沢は拳銃を三丁と、それに合った弾丸を取る。
「店と言うより中立地帯ですから、ここは」
倉庫から出ると、直ぐに射撃場になっている。跳弾防止のケブラーが、壁一面に張られていた。
何名かの客の銃声がするが、完全に仕切られた射撃場のため、姿は見えない。
「何年ぶりかな」
吉沢はチーフテンスペシャルを無造作に両手で構え、引き金を引く。
五発全弾うち尽くすまでに、十秒と掛からなかった。
標的が手元に戻って来る。
中心の黒点を撃ち抜いた弾丸が二発、それ以外の弾丸も中心をかすっている。
「ダメだな、腕が痺れる」
「二十年もすれば、筋力も落ちますよ」
ハーリントン&リチャードソンM九〇〇を取る。
弾倉九発分撃ち尽くし、また標的を見る。
「まだキックが重いな」
「ここで一番軽いのは、そのワルサーPPKのカスタムモデルですが」
「四.三ミリか……」
軽い音が、射撃場に響き渡る。
「造影剤抜きのプラスチックボディあるか?」
標的の黒点に開いた穴は、一つに繋がっていた。
「頭蓋骨撃ち抜けませんよ?」
「護身用だよ」
「他には? 狙撃銃ならいいのがありますけど」
「銃で仕事をする気はないんでな」
まだ熱を持っている拳銃を、吉沢は中年の男に手渡した。
「しかし、今になってどんな仕事です?」
「正義の味方、だとさ」
吉沢は笑って肩をすくめて見せた。
「爆殺?」
公園のベンチで、背中合わせに座った吉沢とルーシーは小声で話す。
「奴の生活は、権力者には珍しく規則的だから、予測可能だ。他に被害を出さずに狙えるポイントも見つけた」
「分かったわ。それで現地にはいつ頃――」
「今から向かう」
「えっ!? こちらでパスポートも飛行機もホテルも用意しますが?」
「滞在予定のホテルはこれだ」
吉沢はゴミを捨てる風を装い、丸めた紙をルーシーの方に放る。
「合流出来なければこちらから連絡する。それもないまま一週間過ぎたら、死んだものと思ってくれ」
ルーシーが紙を開けると、中にホテルの名前と住所に部屋番号、そして必要な物資がびっしり書いてあった。
「必要なのものはこれで全部ですか?」
「それと、過去のトグルク暗殺未遂事件のニュース映像があったら全部くれ。全部だ」
「はい」
何度か確認した後、彼女は紙を呑み込んだ。
「それでは、あちらでお会いしましょう」
「ああ。君も気を付けろよ」
それから吉沢は、表情一つ変えずにベンチを立ち、公園から去って行った。
トルコ帝国から独立した一都市に端を発するアジファラート共和国の町並みは、中東のみならず東洋的な雰囲気がある。
空港近くの賑やかな市街を抜けると、次第に緑はまばらになり、質素な小屋が立ち並ぶ貧民街に差し掛かる。
だが、行き交う人々の目に暗さはない。
「終戦直後の日本と、同じ臭いがするな」
吉沢は呟く。
しばらく歩くと、小屋が取り壊された直後の空き地で、子供たちが遊んでいた。
「――じゃあ、おれがトグルク閣下の第七軍!」
「ずるい!」
「早いもんがちだぜ!」
「うーん、ならぼくは第二軍っ」
「ボクはぁ、ボクはぁ……」
吉沢はその横を通り過ぎる。
貧民街を更に進むと途端に小屋が切れ、背の高い鉄条網の柵が現れた。
「トグルクの基地か」
軍隊に籍を置くトグルクは、若い妻、十歳になる息子と共に基地を住処にしている。これは、世界的にも知られた話だった。
「外出するのは週に一度、家族揃ってのショッピングのみ。ただ、そこを狙った暗殺は全て失敗、か」
巨大な敷地内では、兵士たちが早足で行進している。
「装備はM一六、体さばきも悪くない」
吉沢はそれとなく観察しながら、基地の廻りを歩く。
「三百両のT八〇があるはずなのに、装甲車一台見えん。図面通りか」
建物に切れ目は見えるが、回り込むと別の建物が影になり、中庭に相当する部分は一切見えない。
足を止めず、それとなく兵士の姿を見る。
「予定通りにやるしかなさそうだな」
半周ほどした時点で、彼は基地を離れた。
「こんにちは、コカ・コーラです」
飲料メーカーの制服に身を包んだ吉沢は、基地内の売店に缶ジュース入りの段ボール箱を届ける。
髪を染め、ほんの僅かな化粧で肌を彩っているため、四十代前半、ともすれば三十代に見える。年齢が一番現れやすい手と腕も、軍手と長袖で隠している。
「はい、ありがとう」
店員の中年の女は、受け取りにサインをする。
「では、失礼」
売店を離れた吉沢は、そのまま台車を押して廊下を歩く。そして人が途切れたのを見計らって、柱の陰に身を隠した。
彼は、台車をひっくり返し、裏に貼り付けてあった平べったいバッグから、軍服一式を出して着替える。そして、飲料メーカーの制服をバッグに収めると、台車にアジファラート軍の備品番号シールを貼り付けた。
最早その姿は、書類を運んでいる士官にしか見えない。
それから吉沢は、何喰わぬ顔で台車を押して歩き始めた。
途中、何人かの兵士とすれ違ったが、誰一人として吉沢を気に留める者はいなかった。
アジファラート国際ホテルの一室に、ルーシーはいた。
『娯楽室に仕掛けられた爆弾の処理は完了した。予定通り、弱装火薬に変更してある』
通信機に繋いだヘッドフォンから男の声が聞こえる。
「呆れるほど思い通りに動いてくれたわね、あのお爺ちゃん」
『後は起爆を待って、逮捕、処刑だが、吉沢はきちんと掴んでいるか?』
「ええ、大丈夫。この後落ち合う予定になってるわ」
『決してミスは許されないぞ』
「私が今まで一度だって任務を失敗した事があった?」
『ふふ。心強いな』
空港の出発ロビーでルーシーの隣りに座った吉沢は、無線機を耳に当てていた。
「三、二、一……」
無線機の傍受した軍内の無線が、爆発の混乱を伝えていた。
「よし」
「確認はされないんですか?」
「奴にまた奇跡とやらが起こったら呼んでくれ。アフターケアは必ずする」
彼は小さなバッグを一つ持って立ち上がろうとした時。
ゲートの方から、数名の兵士たちの姿が見えた。
「――感づかれた?」
「まさか、偶然でしょう?」
「殺気は、明らかに俺たちに向けられている」
吉沢は、一度も振り返らずに歩き始めた。
同時に、兵士たちもほとんど同じ早さで歩き始める。
「っ」
吉沢は歩きながら財布を取りだした。そして、硬貨を一枚親指で弾き飛ばす。一直線に飛んだ硬貨が、天井の火災報知器に命中した。
ジリリリリリリリリリリリリリリリ!
防火ベルの音で動揺する人々に、兵士たちの気が一瞬逸れた時、吉沢はルーシーを連れて走り出した。
空港の長い通路を走り抜け、ゲートを反対側にくぐる。
吉沢の脚力は、訓練された兵士に匹敵した。
「吉沢さん!」
ルーシーは慌てて彼に付いていく。
そのまま空港前に停車していたタクシーに駆け寄る。
「どちらまで――」
「出ろ!」
吉沢は運転手を引っ張り出し、運転席に座る。
特徴はないが流れる様な無駄のない動きで、タクシーは道路を駆け抜けていく。
兵士たちが、車に乗り込み追い掛ようとしたが、有り触れたタクシーの姿は、瞬く間に町に紛れてしまった。
「ふぅ、これで一安心ですね」
助手席で背後をうかがっていたルーシーは、前を向い――。
「そうだな」
銃声が鳴り響いた。
拳銃の存在、それを出すタイミング、引き金を引く躊躇いのなさ、バックミラー越しで眼球をピンポイントで撃ち抜く狙いの正確さ。その全てが、ルーシーの想像を超えていた。
ルーシーの手から、スタンガンが落ちる。
「任務後の口封じを予想していないとでも思ったか」
返り血の付いた顔で、吉沢はにやりと笑った。
「この、俺が」
吉沢は車を止め、息絶えたルーシーの内ポケットから盗聴用のマイクを引っ張り出す。
「射撃のチャンスは『見えた時』だ。次に兵隊を使う時は言っておけ」
盗聴器を窓から捨てた後、彼はルーシーの荷物をざっと確認する。
「アジファラート政府関係者か。やはり、クーデターか」
橋に差し掛かった所で、吉沢はドアを開けルーシーの死体と荷物を捨てた。
それから再び無線機を入れる。
「――なに?」
無線機が傍受した通信は、トグルクの無事を知らせていた。
「なるほど、不死身か」
吉沢は車を捨て、道から外れて行った。
トグルクの外出日。
繁華街は、普段以上の活気に満ち、指導者の姿を一目見ようと集まった民衆が、押し寄せる。
トグルクとその家族をSPたちが固め、群衆たちを黒服の男の部下たちがチェックしている。
「狙撃可能なビルのいずれにもヨシザワの姿はありません。爆発物等も発見出来ませんでした」
部下が、黒服の男が乗った車に報告に来る。
「地下は?」
「二分前に異状なしの定期連絡が入っています。航空機の機影も確認出来ません」
「よし、警戒を続けろ」
「逃げたのでは――ありませんか?」
「奴が資料通りの工作員だとすれば、絶対にそれはない。配置に戻れ」
「はっ」
黒服の男と部下たちの警戒も気にならぬ風に、トグルクと家族は店を見て廻る。その様子は、実に楽しげで、暗殺を予感しているようには見えなかった。
「一体、どこだ」
黒服の男は助手席に座ったまま、爪を噛む。
「狙うタイミングは、他にはない筈だ。どこから狙撃する? それ以外の手があったとして、どこから?」
二時間が過ぎた。
「――諦めた、か」
黒服の男は、車のシートから腰を浮かせる。緊張で背中と尻がびっしょり濡れていた。
と、その時。
ズン!
振動が腹に響いた。
「!!」
彼は車のエンジンを掛けながら、無線機のスイッチを入れる。
「どうした! 何があった!」
『ガス爆発です! 小規模な爆発ですから、被害はありません! トグルク閣下たちは避難されました』
「――な、なんだ」
「ここまで来れば安全だな」
トグルクは足を止めた。
「ええ」
SPが振り向く。
「――ん、貴様見慣れない顔だ、な」
トグルクの胸に、深々とナイフが突き刺さっていた。
「い、いつの間――」
他にSPは誰もいなかった。
「あんたの暗殺未遂の光景は、テレビへの露出が多すぎた。SPの行動分析もできるし、変装だってな」
トグルクの心臓は、すでに止まっていた。
「?」
SPは小首を傾げる。
「爆発に巻き込まれた割には、傷がやけに小さいな」
彼は呟きながら振り向く。
「ま、こうなっては些細な事、か」
トグルクの妻が、震えながら息子を庇っていた。
「安心しろ。あんたたちは標的じゃない。少なくとも今はな」
にっと笑ってSPは、身を翻した。
二週間後。
日本の寂れた商店街の電器屋のショーウィンドウのテレビが、正午のニュースを伝えていた。
『――暗殺されたトグルク・アムの息子、アジフ・アムの即位式が行われました』
一人の老人が、テレビの前で足を止める。
画面には、調印式の会場を埋め尽くすアジファラート国民と、美しい少年支配者の姿が映っていた。
『いやあ、無事に即位式が終わってよかったですね』
キャスターがアシスタントに話を振る。
『ええ。トグルクが暗殺された時の様子は、本当に世界中の涙を誘いましたからね』
『父親の死という哀しみを乗り越え、立派な国家を作って行って欲しいものです』
「立派な国家を、か」
老人はテレビの前から立ち去った。
「トグルク時代には決して言われなかった台詞を……もうクーデターの余地もなかろう」
彼はふっと笑う。
「ルーシーも残念がってるだろうな」
商店街の人波に紛れ、老人は瞬く間に見えなくなって行った。
「まあいいさ。仕事は終わりだ」
六円合わない。帳簿が違っているのかそれとも現金が不足しているのか定かではない。だがその日そのことによって残業する破目に陥る。だがゼロ円。収入にはならない。月に十二時間以上越えるとカットされる。男は三十六時間。何を基準にしているのか定かではない。課長以上は勿論どの様な理由であろうともゼロ円。だから残業するか、しないかはその人の有無に関わるのではないかと思うのだが、目の前にいる係長は強引に押し付ける。既に残業は十二時間を越えているのだから。ちなみにこの係長は月に百時間を越える。殆ど午前様。出勤はギリギリの時間に入る。それなのに土日と祭日は何故か出勤している。見かねた支店長は一人増やしたのだが残業の時間は相変わらず。仕事中毒? だが倉庫に在る商品の管理は雑。常に注文が来ると探している。帳簿も一ヶ月で一冊なのだがそれすらどこにあるのか分からない。過去の帳簿をと言われると一日掛けて探す。だから残業の割に仕事はしていない。そんな上司を持ってしまうと最悪である。海が空にあるようなものである。宇宙が地で輝いているようなものである。その様な事態に陥っているのに何故か仕事が辞められない。何故? 何故なんだろう。
六円合わないだけでタダ働きをさせられる。怒っていた。たかが六円されど。二人きりの事務所は息苦しい。目の前にいる奴が吐き出した二酸化炭素を間違って吸い込んでいると思うだけで吐き気がしてくる。何故? 無能だから。いや。肌に合わない。セックスをするわけではないのだから、そんなこと関係ないのに。体臭自体を拒絶したくなる。何故? その質問に答えなければならないのに愚かにも言葉が見つからない。その代わり何故? と云われる度に靄が広がる。いや広げているのかもしれない。
六円合わないだけで残業をしなければならないなんて何て理不尽なんだと思っているだろう。そう突然言い出す。だがどの様に答えていいのか分からず黙っていた。すると机を中指で叩き出した。返事をしないのが気に食わないとでもいいたそうな叩き方。それでも答えられない。今度は床を左足でたたき出す。初めゆっくりで徐々に早める。気が付くと貧乏揺すりと化す。
ああ嫌だな! そう叫びたいのに咽の辺りで止める。ブレーキを掛けてしまったものだから咳き込む。チラッと見ると間違って入ってきた蝿を目で追うような表情をする。咳き込むのを止めたいと思えば思うほど出てしまう。咳は蝿? そう聞きたい。だが聞けるわけない。もう既に決め付けているのだから。それを変えることなんて出来やしない。あきらめるしかない。そうやって残業をするという行為を正当化していた。
それまでして六円を合わせるの? 当然の問いが聞こえる。理由なんてありはしない。ただ気まずくなるのが嫌なのである。恋人でもないのに。恋人ではないけど、一日の大半を狭い事務所の中で直ぐ近くにいるのである。溜め息も聞こえてしまう。だから相手がどの様な人間であっても気まずさは厳禁なのである。
テリトリーの中に人は勝手に入り込んでくる。有無をいやせない。拒絶したくても方法が分からない。勝手に理由が金魚の糞のように付いてくる。我慢しなさいと言うメッセージを奥に秘めて。冴えない上司と夜の闇の中に閉じ込められていた。その証にガラスに映る闇の中にぽっかりと顔が浮いている。ロマンチックなどと言うものには程遠いにもかかわらず雰囲気はその様なものを漂わせる。錯覚に違いない。それでもその錯覚に酔っていたい。願望が弦のように伸びてくる。止めなければという常識が走れと言う欲望と争っている。どちらを選択するかそれはその人の勝手である。もう事務所にいられないという状況にまで追い込んでいる身としては決まっていた。
それでも見たくない顔が直ぐ側に居る。置き物の様に在る。事実は消せやしない。それでも消去したい。しなければならない。自らを脅しても仕方が無い。分かっているのに止められない。苛々は全身を蝕む。息つく事さえ困難に。その時突然席を立つ。どこに行くのだろうか。何も言わない。事務所の扉があく。なかなか帰っては来ない。一人になると帳簿と現金がどうすれば合うのか。そればかりを考えてしまう。帳簿の合計のほうが多い。それならば不足している現金をどうにかすればいい。足せばいい。引き出しの中には私物の小銭入れがある。六円。それくらいなら足しても構いはしない。そう結論したものだから扉の外を気にしながら小銭入れから五円玉と一円玉を取り出し慌てて手提げ金庫の中に入れる
残業をする理由は消えた。あっという間に無くなる。帰り支度をしなければと思いつつも現金と帳簿を見さて照合印を押してもらわなければならない。その様な時に限って帰ってきやしない。苛々してくる。時計を見ると五分も経っていない。待つ時間は長く感じられる。時に終わりが無いような気にもなる。何それ。訳の分からぬ言葉が出てしまう。焦るなと言っても早く帰りたい。タダ働きの残業なんてしたくない。そう叫びたい衝動がヌクヌクと出てきそうだ。辛うじて止める。仕事に感情は禁物なのだから。だあれが決めたの。分からないけど機械のようにこなすことを義務付けられていた。その様に感じているんだ。そういわれても。とブツブツと呪文のような言葉が体の中で走り回っているとやっと扉が開いた。座る前に席を立ってしまった。バカだな。相手が座ってから立てばよかった。後悔は先に立たず。合いましたけどというと伝票とも。え! 何を言っているのか分からない。伝票と帳簿とが合ったのかと聞いているんだ。伝票はと言いながら取り出すと奪い取られた。俺が読むから帳簿と合わせろ。伝票の数字が煩いカラスのような声で響き渡る。ため息を付きたいのを辛うじて止めた。何を言われるか分からない。これ以上を小言などと言うものが増えるのは真っ平だから。帳簿には鉛筆でチェックを入れる。間違いなんて無い。そう思いながらチェックを入れる。すると読み上げた数字の最後が違っていた。一の位である。七と読み上げていた。だが帳簿には一と記されている。え! と聞きなおした。そこが間違っていたんだ。でもと言いながら伝票を見ると確かに7と書かれているような気がする。だが下手な字なのである。七のか一なのか分かりづらい。領収書と伝票をチェックしたかと言われたので領収書を引き出しから取り出す。伝票を書いたのは読み上げた本人なのだから一なのだと思う。だが勘違いと言うこともある。領収書を見ると間違いなく一である。普段から言っているだろう。領収書と伝票はチェックしろと。しまったと思ったのは後の祭り。これで現金と帳簿は合うはずだといわれたが、まさか本人の目の前で五円玉と一円玉を抜くわけにはいかない。入れなければ良かった。それならば正直に謝ればいい。それが出来ない。悔しい。ショックは大きい。立ち直れないかもしれない。それは大袈裟だとは思うが。間違いを認めるのも辛いが詐欺まがいのことをしてしまったという罪悪感が皮膚の上を走る。
現金を数える手が鈍る。勢いが弱い。そして目の前で見ているのだからごまかしようが無い。六円多いのだ。どうした? そういわれても素直にはなれない。今度は六円多いじゃないかといわれても何もいえない。泣きたいほど情けなくなる。お前入れたな! そういわれてそうですよといえるほど初じゃない。
ケラケラと笑い出した。だがその押し殺した笑いなのに事務所の中に響き渡る。その笑いを聞きながら態と数字を間違うような字で書いたという事実に突き当たる。だが責めることは出来ない。領収書と伝票の付け合わせをしなかったのが悪いのだから。
十二時になった。お前はもう帰れと言い放す。そうだよね。終電も無くなる。気は重い。仕掛けられた罠にまんまと嵌まったのだから。一人帰る夜道は辛い。明日は休もうかと思う。病気にしよう。何の病気がいいか。風邪を引いたことにでもしようか。それとも腹痛。食べ過ぎたとはいえない。冷えたからだといえばいい。事務所の床は冷たい。夜遅くまでタダ働きの残業をしたのだから。だがそれを知っているのは一人だけ。それもこの残業を仕掛けた奴だけ。それならば風邪にしよう。そう思って瞬間クシャミが出た。さっきも出たなと思うが知っているのはあいつだけ。皮肉にも。だから理由など考えまい。風邪は予期せぬ出来事で起こるのだから。
その夜はぐっすりと寝られた。目覚めはどの朝よりもいい。だが電話を掛けなければならない。無断欠勤とはいくらなんでも子ども染みている。病気の不利をするのも難しい。弱々しい声を出すにはどうしたらいいのか。息を殺すか。そんな真似できるのだろうか。役者じゃないんだから。出来ないかもしれない。それに寝不足ならともかくぐっすり寝てしまったのだから。一晩くらい起きていれば良かったと思いつつも睡眠を十分取ってしまった事実は変えられない。珈琲を飲みながら言い訳を見つけていた。だがそう簡単に見つかるものではない。仕方が無い一か八か出たとこ勝負。そう決めたら肝が据わった。
受話器を持つと少し不安になる。大きく深呼吸する。落ち着きはしない。犯罪者になったような気分が余計に気分を害する。嘘まで付いて休まなくてもいいものを。だが今日だけはあいつの顔を見たくない。会った瞬間何を言い出すか責任が持てない。犯罪者ではないのだから何を言っても自由なはず。文句があるのならば言えばいい。だが待ったを掛けた。いったところで益々腹が立つばかり。それならば今日一日冷やして明日平気な顔で行くほうがいい。そう結論を出したはずなのに後ろめたさがゾロゾロと歩き出していた。
それでも度胸を出して電話を掛けた。出たのはあいつではない。だがどうしたんだよ! と怒鳴っているのに声を押し殺していた。何かあったのだろうかと思うが用件だけは言わなければという義務が沸々と湧いてきて言葉が辛うじて出てきた。ちょっと熱が出てしまって。まだ話し終わらないのに。早く出て来いよ。こっちはてんてこ舞いなんだから。仕事なんて出来やしない。訳の分からない言葉が続く。そして最後に知らないのか何があったのか。テレビくらい見ろよ! 早く出て来いよ。熱なんて直ぐに下がる。上がるかもしれないけど、出て来い。これは命令だ! そういうと勝手に電話は切れた。一方的に切断された。何がなんだかさっぱり分からないがテレビのスイッチを入れた。
テレビの画面には何故か共に残業をしていた顔が映し出されていた。妻殺しの容疑者として。妻の顔が映し出される。そして犯人である夫の顔が再び現われる。妻を殺した犯人として。その様に言われても昨日まで直ぐ側に居た人が。信じられない。頭の中は勝手にうねりのようなものが現れて回転しだす。何故。問いに答える手立てが無い。それでも何故という問いが木霊する。
殺人犯と化した上司の後に本店から新しい人がやってきた。だが前任者の話は誰もしない。何も無かった。そういう空間が広がっていた。事実、家庭の中のことは誰も知らない。それに仕事以外のことは前任者だけではなく誰のことも知らない。その事実が反って偽の平和を与えていたのかもしれない。だが気にならないわけではない。
何故妻を殺したのか? 不可解な出来事は心に残っていた。何気なく見た新聞に裁判が始まったと記されていた。個人的には付き合いなどしていなかったものだから行く必要は無いと思いつつも気になって仕方が無い。だからというのではないが何回目かの裁判の日に休暇を取った。行くのを躊躇う。どうしようかと思う。だが気になるのだ。いやな奴だったが三年もの間一緒に仕事をしてきた仲間なのだから。気が付くと裁判所の建物の中に入っていた。
何故殺してしまったのかということが弁護士の口から放たれた。妻は少しヒステリー気味だったらしい。何かにつけて直ぐに怒りだす。瞬間的に発火してしまうらしい。だがそのことを不満に思ったことは無いというのだ。妻は責めるというより何でも大袈裟に話すたちらしい。それならばヒステリーとはちょっと違うのではないのだろうか。そう思うが仕事をしていても話をすることはほとんど無い元上司。いや。事務所自体に会話は無い。機械が仕事をこなしているのと同じ。それならば妻の怒鳴る声を聞いても不快には感じなかったのかもしれない。そのことは分からないが。仕事なのだから無駄な話は禁物かもしれない。だが入社してまもなくの頃珈琲の話をしだした。だが珈琲は好きではない。珈琲の銘柄をいわれてもチンプンカンプン。黙ったまま、仕事の手を休めず聞くでもなく聞かぬでもなく。無視したつもりは無いが。その後珈琲の話題は消えた。その後ケーキの話をしてきた。だがやはりケーキもちょっと食べないわけではないが、なるべくなら避けたい。酒なら飲めるしワインの種類だって詳しくは知らないが聞いていて不愉快になることは無い。だが相手は酒が飲めない。そういう席に行くことさえ余り無い。忘年会さえも一次会で帰ってしまう。その席でも誰も話さない。話題はチラホラ出るのだが途中で消えてしまう。だがそれが職場のような気がする。そう言い切っても話をするべきだったという悔いが流れ出していた。
悔いの流れを感じているとハァッとした。六円! あの時は余りのことに言葉が詰まった。でも頭にきていることを飲み込んだ。常に場が不安定になることを忌み嫌ってきた。それが鬱積してこのような事件が起きたのだろうか。そこまで飛躍しなくてもいいのかもしれない。
それならば何故、妻を殺したのだろうか? 妻のヒステリーさえも心地よく思っていたのならば何故? リストラのメンバーに入っていたらしい。それはそうだと思う。誰が見ても仕事が出来ない。それでも真面目にやっている。要領が悪いのかもしれない。会社を辞めなければならない。だが仕事以外に何も無い身としては辛かったのかもしれない。再就職など考えられない。怒りと憎悪で体は真っ赤に燃えていたらしい。いつも冷え切っていた心までもアクシデントによって熱を帯びていた。そうとは知らず妻はいつもと同じようにヒステリーを起こしていた。熱と熱が始めてぶつかる。殺意は無かったらしいがその熱が邪魔だったらしい。力の強い男が女の体を。あっという間の出来事だったに違いない。殺したという感覚は無かったから妻の熱を冷ますために冷蔵庫へ体を入れたというのだ。妻が邪魔なのではない。熱しすぎた体を冷ますために。
新しい上司と何か話さなければならない。そう思うのだが言葉が詰まる。それならば話をしているときだけは仕事の手を休めた。何かが始まるかもしれない。
「今日も時間ぴったりで偉いわね。真面目な患者さんで嬉しいわ。あ、荷物はそこに置いてね。レインコートはそこのハンガーで。椅子はどちらでも千尋ちゃんの好きな方を使って良いわよ」
「あ、はい、山下先生。じゃ、今日はこっち。こちらに座ることにします」
「外はまだ降ってるのかしら?天気予報ではお昼過ぎには小止みになるって。ここからだとお天気がよく分からなくてね」
「ふふっ、そうですよね。このブラインドじゃあ。外は、もう雨あがってますよぉ。こうすると見えるかなぁ?」
「まぁ、そんなことしたらブラインドが折れちゃうでしょ。今日は随分行動的なのね」
「うふ、すみません。で、さっき、陽が射してきたから、傘たたんだんです。そしたら」
「そうしたら?」
「デニッシュ」
「え?」
「だから、デニッシュ!甘くって、バターたっぷりの、クルクルってしたパンです」
「あの、お砂糖とかジャムがかかってるパンね」
「それがぁ、パン屋さんのガラス越しにこう、金色に輝いてて。私、なんかものすっごく懐かしくなっちゃって」
「デニッシュの想い出かぁ」
「はい!とびっきりの」
山下先生には、昔お友達だった友美さんのことお話しましたよね。とっても仲がよかったんですよぉ、私達。食べ物の好みもピッタリおんなじで。ホント、びっくりするくらい。それが分かったきっかけがデニッシュだったんです。不思議ですよね〜。
何かが急に食べたくなる事ってあるじゃないですかぁ。丁度その日も、私、ちょっとムシャクシャしちゃってて、
『これは絶対伊藤ベーカリーのカスタードデニッシュだ!』みたいな気持ちになってたんです。あ、伊藤ベーカリーっていうのは、学校の近くの小さなパン屋さんなんですけど、結構おいしいんですよぉ。で、私なんかイライラすると、こういうほぁって甘いものが食べたくなっちゃうんですよ〜。だから放課後直行して、買い込んでたんです。寮だから、夜お腹が空いたりすると大変なんで、こういう買い食いは寮母さんも黙認してくれてるっていうか。
あ、どうしてイライラしてたかですかぁ?
えーと、新しいお菓子を、皆で食べようって、私が隠して持ってくって話になってたんですよ。でもぉ、休み時間前にそれが担任に見つかっちゃって、一緒に食べようって言ってた人達もしらんぷりで、私だけが叱られて。ショックだったのに、
『随分沢山食べられるのね』なんてイヤミまで。クラス中に笑われたんですよ。それでちょっと。へこんだっていうか。
で、あぁ、夜の話。そんなもんで、なんかとびっきりイイ事しようと思ってぇ。お茶もとっておきのを淹れました。カップなんかローラアシュレイのお花柄を使って。オシャレな夜中のお茶会って思ったんですよ。給湯室からこっそりお湯を運んで、スリリングで楽しい感じがしました。
『いただきます』って1人で手なんか合わせちゃって。で、フッと顔をあげたら。
そうなんですよ〜、先生もう分かりましたぁ?そこに、友美さん。って、この時はまだ知らないんですけど、名前。にこ〜って優しそうな、私より少し年上かなって人が座ってて。
『私もなんだか眠れなくって。おいしそうなデニッシュね』って笑いかけてくれたんですよ〜。
私のいた寮って色んな学校の子が集まってましたから、知らない顔の人がいてもヘンじゃないんです。お湯を取りに行ってカップの用意をしたり、私パタパタしてたんで、開いている扉から美味しそうな匂いでもしちゃって、きっと遅くまで起きてた先輩がつられて来ちゃったんだろうなって。でも人懐っこい人だなって思いました。
そのせいなのかな、2人で5個のデニッシュを、最後の1個は半分個までして平らげる内に、『ちーちゃん・友美先輩』なんて呼び合っちゃう仲になってたんですよぉ。私人見知りなんで、驚きました。やっぱり食べ物の好みが合ってるから気も合った?それともその逆で、気が合うから二人ともデニッシュが大好きだったのかなぁ。ホントに、言う冗談まで分かっちゃって。
『パンがなければケーキを食べれば良いじゃないの、ってこれはパンって言うのかなぁ?それとも、やっぱりケーキ?』
『なんだかマリー・アントワネットみたいですねぇ』
もう初対面の時から盛り上がっちゃったんですよぉ。楽しくて、私、是非またこんなお茶したいなって思いました。そう言ったら友美先輩は、にこ〜って笑って、
『いつでも美味しい物がある時は呼んでね。私とっても食いしん坊なの』って言ってくれたんです。
「そう、それが千尋ちゃんと友美さんのデニッシュの出会いだったのね。甘いデニッシュとお茶なんて良いわ。なんだか先生もお腹が空いてきちゃった。こんな時間ですものね。じゃあ、今日はこのくらいで。次は又土曜日の同じ時間でいいかしら」
「はい、私はそれで」
「気をつけて帰ってね。傘を忘れないで」
「ありがとうございましたぁ。ア、先生私ね、今日すっごく嬉しかった。友美先輩の事、こんなにちゃんとお話できてほんと嬉しかったんです。お母さん、じゃなくて母とかも私が先輩の事話そうとするだけで嫌な顔になっちゃって。だから、もう誰にも言うまいって思ってたんですよ。それをこんな風に聞いてもらえてとっても、嬉しい。」
「失礼しま〜す」
「こんにちは。今日は暑かったわねぇ」
「はい、なんか梅雨がそろそろあけるんじゃないかって言ってましたね。でも私、どっちかって言うと暑いのニガテだから、これからはちょっと辛い季節なんです」
「じゃあ食欲とかも落ちちゃうのかしら」
「ああ、食欲。そうですね。私結構むらがあって、ワガママなんだって思うんですけどすんごく食べられる時と、そうでもない時があって」
『いつも、ご馳走になるばかりじゃ、悪いでしょう。今日は、私のお・ご・り』
ある晩、先輩がたっくさんドーナッツを持ってきてくれたんです。ええと、こないだのデニッシュのお茶会から、4,5回目だったから、知り合って2週間ぐらい経ってたと思います。それまでに、色んなお菓子で盛り上がってましたから、お互いの特に好きな物については、自分よりも知ってるって感じで、それで笑いあったりもしてました。
『もうっ、何で、私の食べたいものがわかるのぉ』『こんな、お姉さんが欲しかったな』なんて、言い合う事もしょっちゅうで。アイスクリームも一番好きなのは、ハーゲンダッツのストロベリーチーズケーキで一致。これは、しつこーいって言う人とまろやか〜と褒める人に分かれるんですよね。で、私達は、もちろん少数派の大好きっ子って分かったんです。思わず、同士とかって。
「千尋ちゃん、とっても、美味しそうだけど、先生もだめだめ派だわ。あのこってりはついてけないの。それで、貴方達は、なんでも趣味があってたのね」
「あ、いけない。またやっちゃいましたね。うふっ。なんか、食べ物の話って夢中になっちゃう」
って、あ、趣味。そうなんですよ。不思議ですよね。友美先輩もなんと私と同じ趣味だったんですよ。食べ物以外の事でも、合う人って合うんですね。ちょっとした手芸なんですけど。もう、すんごいびっくり。
その日も、うーん、ドーナッツが食べたいなって思った私の前に、先輩山盛りのドーナッツそれも、クリーム入りを持って登場。『先輩大スキっ!』って思いました。
えっ?なんでそんな気分だったのかって?私、また落ち込んでたんですよね。ホラ、これ、そうビーズのチャームなんですけど。うふ、可愛いでしょう。実は、じゃあん、私の手作りなんです。子犬のコロちゃん。可愛いのに、その日、学校で壊されちゃって。耳のところがほろって、可哀相ですよね。だから、直すのって難しいけどその夜、宿題やった後頑張ろうって思ってたんです。宿題、もちろん優先ですよ。これでも、私真面目生徒なんです。皆も頼ってくるし、だからやっとかないとヤバイし。で、数学のプリント終えて、ビーズのコロちゃん、お耳つけてあげるわね、その前におやつ欲しいなとか思った時。先輩のおごり宣言だから、びっくりですよねぇ。で、
『アラー、可愛いワンちゃん。なにぃ?かわいそうに、お耳が取れてるんだ。』
『そうなんですよ、で、直そうと思うんですけど』
『新しく作るより、面倒』
『って、どうして分かるんですか先輩』
『だって私、自慢するけどベテランだもん』
『まぁた、自分で言う』
『ホント上手いのよ。だから、ちゃって直したげるから、ちーちゃんはお茶でも淹れてきて。すぐ出来ちゃうから、ね』
うわぁ〜って感激しました。だって、本当にすぐに綺麗にって言うかもっと、可愛く耳がついてなんか、コロちゃん幸せそうに見えるんだもん。その晩もドーナッツが美味しかった。
でも。
「でも?」
「でもぉ、私困っちゃったんですよね。友美先輩とは何かを食べてる時しか会えないんですよ。それも、私が大好きな物を食べる時だけ。学校の時間帯が違うのか、寮の他の場所で見かける事もなくて。だから、楽しくお喋りができるのは夜のおやつの時間だけだったんです。それに、いくら甘い物好きの私でも、お腹には限度がありますよね。でもお茶だけ飲んでると先輩は来てくれなくて。初めに言ってた通り、本当に食いしん坊な人なんだなって思いました。でも正直で可愛い人なんだとも、思いました。それに学校であったイヤな事を先輩に話してると、なんだかそんなのとっても小さな事で、悩む必要なんてないじゃないって思えてきて」
「救われる思いがした?」
「はい」
「だからもっと会いたくなったのよね?」
そうなんですよね。その頃もう私は、ヘンな言い方ですけど、先輩無しではいられないっていうか、出来れば毎日でも会いたい。会わないとたまらない。きっと、恋をしてる人ってこんななのかな、とか。エヘッ!あっ、でもゼンゼンそんなんじゃないんですよ?その、女の子同士でどうこうとか。ただ、美味しい物を食べて楽しくお喋りをする。普段は言えないような事をにこ〜って聞いてもらえて。誰にも迷惑かけてるわけじゃないし。お菓子代だって、家は私にあんまり構ってくれられない分、お小遣いは多い方だと思います。信用もされてるし。だから私、決めたんです。美味しいお菓子があれば先輩が来てくれるなら、毎晩用意しようって。
お喋りの内容なんか大した事じゃなかったんだけど、学校での愚痴とか。やっぱり女の子同士ですから、お洋服とかお化粧の話とかが多かったかなぁ。でも私その頃、洋服がきつくなってきちゃってて、ヤバイなって感じだったんです。やっぱりお菓子が多いのかなって、それは分かってました。女子校で太った子ってマズイんですよね、かなり。だから、危機感ありましたよ。だけどお菓子を用意しないと先輩には会えない。お菓子か、痩せるか。これって二律背反って言うんですよね?うふっ、頭いいでしょう、私。で、これを解決しなくちゃいけない。考えましたよ〜。でも、数学学年主席ですからね、意地もありました。で、意外と簡単な方法を思いついたんです。
『食べなかったことにすればいい』
ね?お菓子は、出しちゃえばいいんです。簡単に言えば、吐いちゃう。って言うほど最初は簡単じゃなかったです。やっぱり人間ですからねぇ。それに、美味しい物好きなんだから、それを不自然に出すのは、苦しいし。でも、吐けば友美先輩とも会えるし、学校でもイジワルされないですむ。太りたくなくて先輩にも会いたい私の、究極の選択だったんです。吐くのもその内コツをつかんで楽になってきて。涙は毎回出ましたけど。
「苦しくても嬉しかったんだ。…大変だったね。そろそろ周りの人も何か気がついてたんじゃないかしら」
「はい。さすがに、毎晩遅くまでお茶を淹れたりお皿をカチャカチャさせたりが続いてたので、両隣の人から寮母さんに苦情が行っていたみたい」
きっと私達、同じようにして問題を解決しようとしてたんだと思うんです。あ、友美先輩と私です。だって先輩もあんなに食べてるのに太ってきてなくて。それどころか、2人ともだんだんウエストとか細くなってきてて、とっても嬉しくて。なんだか、何が起きてもクスクス笑える感じ。つい、大きな声で騒いじゃったりとか。
「寮母さんが見つけた時もそうだったのかしら」
「あ、はい、そうです」
あの時は、そう、またデニッシュでした。でも、カスタードじゃなくってリンゴのジャムだった。甘いいい匂いに惹かれたのか、1匹のハエが部屋中飛び回っちゃって。私虫本当にイヤなんですよぉ。友美先輩ももちろん大のニガテで。あ、虫が好きな女子高生なんてあんまりいませんよね。だから、大騒ぎでした。丁度、春の可愛いワンピースを試着してるところで、気取って合わせてアップルティーを淹れてたんです。なのに、ハエ!でもキャーキャー逃げ回ってる内に、なんだか面白くなってきちゃって。二人共大笑い。
『私たちのアップルデニッシュを守るのよ〜!』
『怯むな、ダルタニャン!』
『なんの、アトス!』
その辺にあった定規を振り回して、お茶を倒して。でもそれも面白くて。笑いが止まらなくなってたんです。
『きゃあぁはははは、お茶が毀れたわ、あははははっ!』
『ハエが、あはっ!ハエが飛んでる〜っ!』
「千尋ちゃん!大丈夫?」
「は、はいっ!あぁ、すみませんっ。ホントにこんなだったんですよね。寮母の坂本さんが私を見つけてくれた時。きっと、怖かったでしょうねぇ。夜中に、飛び切りのよそ行きを着て、デニッシュを頬張りながら大笑いしていたんでしょう?私、1人で」
「そうね」
「後で聞きました。お茶とジャムでベトベトになったお洋服をとにかく脱がせて、ベッドに入れてくれようとするのに、私大興奮してたって。
『ちーちゃん逃げて!』
『友美先輩っ、行かないで!ほら、まだデニッシュがあるし!一緒に食べましょうよぉ』って、そんな事叫び続けてたんですってね」
「そう。辛かったわね」
「はい。とっても。それに、恥ずかしい」
「でも今は、千尋ちゃん、落ち着いていい顔をしてるわ。にこ〜って笑うのね」
「友美先輩は行ってしまったけれど、私にはとっても優しくしてくれましたから。私、成長できた気がするんですよ。私の中にいた理想の先輩です」
「そうね、その通りね。友美さんが今の貴方を見たら、誇りに思うでしょうね」
「あ、はい!そうですね、だって、私、今友美先輩みたいに後輩を可愛がってあげてるんですから」
「あら、どういう事なのかしら?」
「だから、ちょっと気が弱いけど、とってもいい子なんです、容子ちゃんって。だからほっておけなくて」
「え?」
「今日も、遊びにくる事になってるんで、一緒にビーズ作るんですけど。その前に、チョコチップクッキーが食べたいって言うんですよぉ。それなら私が得意だから焼いといてあげるわって。約束しちゃったんで、今日はこれで、失礼してもいいですか?」
メリサの後方、テラス沿いの席の辺りで、かしゃん、と音が上がった。
「ごめんなさい」
盆を落としたのは、くすんだブロンドのウェイトレスだった。謝りながら割れたグラスのカケラを、いかにもおっかなびっくりといった手つきで拾い集めている。
「良いのよ。慌てなくても」
側の席にいた品の良いロングワンピースを着た婦人が微笑んだ。
「慣れてないのだものね、仕方無いわ。どれ、私も手伝いましょう」
「え。いや、大丈夫ですよ、一人で出来ます」
「良いのよ遠慮しないで」
「じゃあ私も手伝おうか」
「私も」
ウェイトレスの周りに、にわかに人だかりが出来始めた。
「あ、有り難う御座います」
申し訳無さそうにそのウェイトレスは、顔を俯かせた。
「良いのよ。ねえ、あなた、何年生?」
「二年です」
「そう。じゃあ今年が初めてね。頑張ってね、すぐ慣れるわ」
「はい、有り難う御座います」
「頑張れよお嬢ちゃん」
「楽しいよ、ここは」
仲良くグラスの始末をしながら、人々はその若い、まだそばかすの残るウェイトレスに笑いかけた。
ウェンストンホテルは、この時期だけ学生寮めいた雰囲気に包まれる。教育者でもあるオーナーの「良い環境で働くのは最大の学習である」という意向から、この夏休みの時期だけ地元のウェンストンスクールから学生をアルバイトとして大量に受け入れるのだ。
毎年、学生の4割が参加すると言われているこの伝統は、既に今年で30回を越える、ウェンストンの夏の風物詩になっていた。
ホールはがやがやとした活気に包まれている。その中で、ただ一人メリサだけが黙って荷物をまとめ、席を立っていった。
別にあのウェイトレスやスクールの卒業生達が悪いわけでは無かったが、やはり気が散った。中庭で煙草でも吸ってから自室に戻って仕事の続きをしよう。メリサはそう決めた。
中庭への廊下は、アテネ様式の凝ったレリーフに埋め尽くされた、そこだけでもかなりの美術品的価値が有りそうな、荘厳な作りになっていた。非常に天井が高い。見上げると、天井も見事なレリーフで覆われている。
確かにそれは素晴らしい眺めだった。
壁や柱は綺麗に埃一つ無く磨き上げられ、一糸の乱れも感じさせない。良く見れば長い年月が所々を犯し、傷や痛みが有るには有ったのだが、それらも、この美しい廊下にさらなる深みを与える、手の込んだ細工のようにさえ思えた。
メリサは回廊の見事さに感嘆し、立ち止まる。
(ここもあの時のままか)
その時だった。
廊下の奥、中庭の方で声がした。
言い争っているような激しい声。
メリサが行ってみると、中庭の奥に二人の男がいるのが見えた。一人は背が高く、横幅もがっしりとした黒髪の男。もう一人の眼鏡を掛けている方は、それより若干背が低く、横幅も細かった。
顔付きや物腰から、アルバイトの学生達に間違い無かった。
「なあ、何もあんな風に言う事は無いだろう? もうちょっと皆に気を使ってあげてくれよ」
眼鏡の男の方がどうやら何かを諭しているようだ。
「わざと嫌われるような態度をとることは無いじゃないか」
「うるせえ」
背の高い方は、獰猛に吠えた。
「貴様に何の関係がある。いつもそうやって偉そうに説教くれやがって。何様のつもりだ」
びんと通る声だった。背が高いのもあり、そうやって大声を出すとなかなか迫力があった。
「別に説教をしてるつもりは無いよ」
男の声に負けずに、眼鏡をかけた男は静かに答えた。細い見かけに寄らず、こちらも堂々とした態度だ。
「そういう風に取られていたならこちらが悪かった、謝るよ。済まない。ただ、僕は君のことを思って」
「黙れ」
「黙らないよ。大きな声を出したって無駄だ。なあ、ウェスカー。ちゃんと話し合おうよ」
「馴れ馴れしくウェスカーなんて呼ぶな。級長だか何だか知らんが偉そうにしやがって」
「級長とかそんなものは関係無い。ただ、僕個人として君と話がしたいんだよ」
「俺はお前と話なんか無いんだ」
「ウェスカー。君は一体何が気に入らないの?」
「黙れって言っているだろう」
「ウェスカー」
「黙れと言うのが解らんのなら」
ウェスカーと呼ばれた男は、いきなり相手に飛び掛かった。胸ぐらをその大きな手で掴み、体重を掛け、相手を地面に押し倒す。
「何をする、離せ」
「てめえは前から気に入らなかったんだ。アラン、良い機会だ。ここで決着を付けようじゃないか」
「僕は君と殴り合いなんか望んではいない」
押し倒されながらも、そのアランと呼ばれた男は、もがこうともせず、真っ直ぐ相手を見つめている。
「僕が気に入らなければ殴れば良い。だけどウェスカー、その後でも良いから、僕の話を聞いてくれないか?」
「貴様」
ウェスカーは勢いを付けて右拳を振り下ろした。
がつんっ、という硬く鈍い音が響く。
「ウェスカー。これで気が済んだかい」
「アラン!」
ウェスカーはアランの胸ぐらを両手で掴み、がくがくと揺さぶった。
「もうそんなお芝居は沢山だ。俺が憎いだろう? かかってこいよ。どうした」
「僕は君と話がしたいだけだよ」
アランは口から血を滴らせながらも、穏やかな態度を崩さない。
「まだ昼は済ませてないだろう? これから一緒にどうだい?」
「……!」
ウェスカーはまた拳を振り上げ、殴りかかろうとした。が、結局それを振り下ろしはしなかった。代わりにアランの身体を突き飛ばし、ウェスカーは立ち上がった。
「ウェスカー」
「貴様など、殴る価値も無い」
そう言って彼は埃を払い、服の乱れを直し、くるりと背を向けた。
「ウェスカー。待てよ、話は済んで無い」
「放っておいてくれ」
そう言い放ち、ウェスカーは庭の奥へと駆けていった。
「ウェスカー」
アランはその後も何度か呼んだが、ウェスカーが振り返ることは無かった。
中庭に静寂が戻った。
良い天気だった。その事を、メリサはこの時ようやく知った。
アランは暫くそこにうずくまっていた。が、やがて彼は花壇の白枠に手を掛け、立ち上がろうと身体を起こした。
メリサはどうしようか迷った。放っておくべきだ、と思った。しかし立ち上がりかけたアランがよろけるのを見かねて、結局メリサは中庭へ入っていった。
足音に振り向くアランに、メリサは歩み寄り、ハンカチを差し出した。
「お使いなさい。血が出てるわ」
「見てたんですか?」
アランはさすがに困惑していたようだ。声に先程のような張りが無い。
「まあ、見てた、っていうか、あれだけ大きい声だとね」
「そっか。まいったな」
「まあでも大丈夫よあたし以外は誰も居なかったから。だから安心しなさいねアラン君」
「名前も知られちゃったか」
アランは笑った。
「そうよ。初めましてアラン君」
「初めまして」
アランは身を起こし、言った。そうやって二人並ぶと、彼は頭半分メリサより背が高かった。
少し痩せすぎの身体。筋肉は確かについているが、神経質な印象を受ける。整った顔立ち。正面を向いた。眼鏡をかけているせいか、老成して見えた。
「初めまして。ハンカチ有り難うございます。ええと」
「メリサよ」
「メリサさんか。有り難う。これ、洗って返します」
アランはそう言って、頭を下げた。
アランは落ち着きを取り戻したようだった。良く通る澄んだ声が中庭に響いていく。
「良いのよ。それよりあなた大丈夫? そろそろ昼休み終わるわよ? ケリーは時間にうるさいんじゃなくて?」
「学生バイト担当がケリーさんだって知ってるって事は、メリサさんもウチの卒業生なんですね?」
「まあ、ね。随分前の卒業生だけど」
「バカンスですか?」
「ううん。仕事よ。出張。急に入ってね。じゃ無ければ来ないわよ」
「そうですか。大変ですね」
「まあね。でもあなたも色々大変そうじゃない。ウェスカー君とかさ」
「まあ、そうですね」
アランはウェスカーの名を聞くと諦めたように笑った。
「彼も根は良い奴なんですけど」
「放っておくしか無いんじゃない? 彼もそうして欲しそうだし」
「まあそうなんでしょうけど、でも放っておけなくて」
「好きなの? 彼のこと」
メリサが言った。
「嫌いじゃないですよ。もちろん級友としてね」
アランは真面目に答えた。
「あちらは僕のことは嫌いみたいだけど。でも強くて、自由で、何でも出来て。ああなれたら良いな、とは思いますね。無理でしょうけれど」
彼は癖なのか、眉を寄せて、難しい顔をして笑った。
「じゃあそろそろ僕は戻りますから。ハンカチ有り難うございました。後で何かお礼しますね」
「良いってば。ほら、早く行きなさい」
「はい。では失礼します」
彼はそう言うと、建物に向かって歩き出した。
その後ろ姿を見送りながら、メリサは一人の男の事を思いだした。
(少し似てたな)
中庭のベンチに腰を降ろし、煙草に火をつけて、メリサは一人、呟いた。
夏は穏やかに過ぎて行く。
少年少女達は、次第に日に焼け、黒くなっていく肌と共に、少しずつ大人の顔付きをするようになっていった。彼らの中には、この夏の間に恋をした者もいる。それが叶い、幸せを味わう者もいれば、叶わずに涙した者もいる。永久の愛を誓いながらも、わずか数日で心変わりもするし、嫌いだった子の、今まで知らなかった魅力に、急に恋に落ちたりもする。
それらを照らし、熱し、祝福するように、太陽は一層強く、彼らの頭上に輝いていた。
要するに、それはいつもの夏だった。
だから世界は、太陽は、空は、湿った暑い空気は、少年少女達は、とても眩しく輝いていた。
「ちょっと良いかな」
メリサが中庭のベンチに座って居た所にウェスカーが現れたのは、そろそろ夏の終わりの気配が差し始めようとしていた頃だった。
面長の浅黒い顔。なかなか整ってはいたが、浅黒さのそれが、日焼けなどとは違うように見えて、彼は一人、この夏に異質だった。
「話が有るんだ」
「私に?」
「ああ。急で悪いが」
こけた頬。長い黒髪。体中から溢れ出る力。他の同級生達と、彼は違う生き物に見えた。切れ長の目の光だけが、年相応に幼い。
「そう。良いわ。でも少し歩かない? ここじゃ人が多いし」
「解った」
メリサとウェスカーは並んで歩き始めた。庭の奥にある、丘への散歩道を選ぶ。
「そろそろ夏も終わりね」
「ああ」
「そろそろ黒トンボの季節か」
「黒トンボ?」
「知らないの?」
「ああ」
「呆れた」
メリサは歩きながら振り返り、ウェスカーに笑いかける。
「ウェンストンクロトンボ。ウェンストンの夏の名物。希少種なのよ。こんな小さくて、黒くてね」
「俺は」
ウェスカーが遮るように口を開いた。
「俺は、そんなものはどうだって良い」
静かな山道へ、投げつけるようにその声は放たれた。美しい声だった。この年齢でだけ可能なような、傲慢な声。自分が見つめるもの以外を全てどうでも良いと断じれる、若く、傲慢で、美しい声。
「どうだって良いんだ」
「そっか」
メリサは答えた。
その短い会話の後は、二人は黙って、暫く丘への道を歩き続けた。狂ったように鳴き続ける虫達。青く高い夏草。湿気。草いきれ。そのような夏の真ん中を、太陽に照らされながら、二人は歩き続けていく。
「なあ」
ウェスカーが、やっと口を開いた。
「なに?」
「あんた、最近アランと仲が良いようだ」
「仲が良い、っていうか。少し勉強見て上げてるだけよ」
「あんた、アランと付き合っているのか?」
唐突な質問だった。
メリサは暫し言葉を失った。
「なあ、どうなんだ?」
ウェスカーはもう一度言った。
「付き合ってるも何も」
メリサは笑った。
「そんなんじゃ無いわ。先輩と後輩よ。あたしもウェストンの卒業生だからさ」
「本当に?」
「本当よ」
「そうか」
「ねえ、どうしてそんなこと聞くのよ」
「あいつがどんな人と付き合うのか、興味があった」
溜めすぎた息を吐くように、ウェスカーは言った。
「それだけだよ」
「好きなのね、アランのことが」
メリサの言葉に、ウェスカーは大きく目を見開いた。が、すぐに彼は落ち着きを取り戻した。
彼は静かに、ああ、と答えた。
「どうしてだろうな。他にいくらでも人はいるのに。何であいつなのだろうな」
「そうね。何だろうね恋って」
「ああ」
「いつかその事を伝えるの?」
「そんなこと、するわけ無いだろう」
「それもそうね」
メリサはそう答え、登り切った丘から世界を見下ろした。
この夏も、人々は沢山の言葉を放ち、愛を誓い、約束を交わした。だから夏はそれらの百倍の、言えなかった言葉、忘れてしまった愛、果たされなかった約束達に、今も溢れている。
(あの人はどうしてるだろうな)
遠いあの夏の日に、メリサは恋をした。それを伝えぬまま、夏は過ぎた。
「伝えられる訳が無い」
「そうね」
メリサは答えた。
本当は違うことを言おうと思っていた。伝えてしまいなさい。今すぐ伝えてしまいなさい。本当はそう言おうと思っていた。だがやめた。人生には言えない言葉が一つや二つはあるものだ。
「大変だね」
「そうだな。大変だ」
二人の間に夏の遅い夕暮れが降りていく。昨日よりも少しだけ秋に近づいた夕暮れ。
遠くに、夕日が赤く揺れていた。
「さて、そろそろ帰ろうか」
「ああ。この話は」
「解ってる。誰にも言わないよ」
「有り難う」
二人は黄昏時の道を、少しだけ離れて歩いた。夜に向かって一層強く鳴く、夏の虫達。メリサは空を見上げた。赤く広がった太陽の光。その中に、小さく浮かぶ黒い影。
「見て」
トンボの大群だった。
「クロトンボ」
トンボ達は太陽を横切るように、ゆっくり空を渡っていく。
(伝えれば良かった)
(ああ言えば良かった)
(言わなければ良かった)
(どうしようも無かった)
(忘れよう)
(でも忘れられない)
(伝えよう)
(でも伝えられない)
夏。幾多の思い。幾多の恋。幾多の言葉。頭の中で何度も繰り返した問い。伝えられなかった言葉。
それらを引き連れるように、トンボは空を行く。夏の終わりの空を、トンボは何処までも飛んでいく。
「夏も終わりね」
メリサは言った。
「ああ」
ウェスカーは、振り返らずに答えた。
それから数年後の夏、ウェンストンホテルはオーナーの死を機に、老朽化した建物を捨て、移転することに決めた。住民の反対は届かなかった。残された建物は商社が買い取り、原色も派手な、大型のショッピングモールに変わった。少年少女達が過ごしたあの夏の森は、だからもう何処にも無い。
メリサと二人の少年の友情は、今も続いていた。アランは大学へ進み、そして来年は大学院の予定だ。ウェスカーは軍隊に志願した。彼は近々西部の戦線に配属される。
ウェンストンクロトンボはどうなったか。森を追われた彼らは、しかし絶滅を逃れ、今は国中至る所で季節を問わず見かけるようになった。
人々はそんな小さな黒いトンボのことは気にもしなかったが、メリサだけはそれを見かけるたびに、
(夏は終わったのだ)
そう思った。
「やっすなが、やっすなが」
体育館を震わすような大歓声と手拍子の中、安永は真新しい白いバレーボールを大事そうにその小さな胸に抱え震えていた。体育大会で一番の盛り上がりを見せるバレーボールの決勝戦、マッチゲームのデュース。一番の大切な場面でサーブの順番が回ってきたのはその日ほとんどサーブの入っていない安永だった。
三十年近く前の中学での体育大会、学年最強と謳われたバレーのチームに学年一体が小さく、運動神経が鈍く、ついでに成績も悪い絵に描いたような劣等生の安永を入れたのはあいつにも勝利を味あわせてやろうというのが表向きの理由だったが、もちろんバカにするようないじめ半分の気持ちや負けてしまったときの言い訳になるといった理由がなかったとは言えない。クラスのスポーツ神経万能な人間ばかりを集めたバレーのチームに安永を入れることが既にいじめのようなものだったようにも思う。それでもあの日のバレーボールを安永を含め僕たちは楽しんだ。サーブはほとんど入らなかったが、それまでだったら顔をそらしていたようなスパイクをいくつもレシーブし、ネットの上に手が出なくてスパイクは打てなかったが、ここぞというときにいくつかの絶妙なトスを上げた。他の五人がクラストップのスポーツマンだったわけだから当然といえば当然だったが決勝で最大の敵である六組と当るまでは一セットも与えることなく勝ち続けた。この秋の季節にはいまでも明け方の夢の中、あの日のことを思い出す。
「お腹が痛い」
体育大会の近い十月のこの季節に次男のシンジが良くそう口にするようになったのは中学に入った去年からだった。まさかスポーツ万能だった自分の息子が運動が出来ないなどとは思ってもみなかったが二年連続なのを不審に思った妻が担任の先生に聞いたらしい。「別にいじめられているわけではありません。ただ運動が苦手で体育の時間になると友達から疎ましく思われることはあるみたいなんですよ。ただ成長期ですからじきに体も成長すると思いますし…」信じられないことだった。自分自身スポーツマンであることは自他共に認めるところだし、妻も大学時代に山岳部で知り合っただけに世間よりはタフだろう。長男のマサオに至っては高校で長距離走と水泳のエースであり十五キロある学校まで電車を使わず毎日自転車で通う親から見ても大したスポーツマンで将来はトライアスロンでもするんじゃないかと思える程だ。
だからシンジがスポーツ音痴であるなど信じられるものではなかった。いや、本当は認めたくなかっただけなのかもしれない。分かっていた。体は一般的平均から見てもかなり小さいし、小学校の運動会でもびりっケツが多かった。泳ぎのほうも金槌に近かった。それを父親として心配したことは一度もなかった。しかし「運動が出来なくてもいいんだ」と言ってやったことも、思い返せば一度もない。「すぐに大きくなって運動も得意になるさ、父さんの子供だからな」と言い続けてきた。シンジは中学二年生で、今でもクラスで一番背が低い。
学校休むと言い残し自分の部屋に戻るシンジの後ろ姿を眺めながら飲む朝のコーヒーはなんとなく無機質で味がしなかった。このぶんではテーブルの上に並べられたベーコンエッグとサラダとイングリッシュブレッドのオシャレな朝食も味がしそうにない。西洋風の朝食は結婚するときに僕がリクエストしたものだ。実家はずっと御飯に味噌汁に納豆だったが、だからこそなのかテレビに出てくるオシャレな西洋風に朝食とそのゆったりとした雰囲気に憧れていた。妻は律儀に毎日オシャレな朝食を作り続けてくれている。自分の子供じみたわがままに付き合ってくれてることに大きな感謝はしている。でも頭の片隅でシンジの体が小さいのは朝食のせいかもしれないと思うこともある。パワーの持ちが違うそうだ。テレビで言っていた。長男のマサオのほうが単に特別に頑健にできているだけなのかもしれない。もちろんなんの確証もない話だ。ただキレイに並べられた幸せを絵に描いたような朝食を見ているとときどきやりきれなくなる。シンジは最近は朝食を食べない。朝の早い商社勤めの僕にも最近はゆっくり朝飯をとっている時間がない。昔よりわずかでも多くの睡眠を体が欲するようになってきてパンだけくわえてドアから飛び出すこともたまにある。全て食べ尽くすのはマサオだけで、毎朝手の込んだ朝食を作るために早起きしている妻も最近は用意した半分程しか食べない。やはり若くないということなのだろう。それでも妻は毎日完全な朝食を作り続ける。家族をきちんと維持させる基盤を築くように。
「あなたどうするの?」
マサオが朝食を平らげ元気よく出ていったあとで妻が口火を切った。何かをしなければいけないという確固とした意志の伝わる言い方だった。確かになにかしらの行動が必要なのかもしれない。弟の部屋を寂しげな目でちらりと見ながらも元気な振りをして家を出るマサオの姿が痛ましかった。しかしいったいどうすればいいというのだろうか。想像のつかないことだった。自分だけじゃない。妻もマサオもきっとそうなのだ。
「様子を見る」
俯いたまま言った。
「それでいいの?」
妻が聞いてくる。なんとかしてよ、という聞き方じゃない。妻にも分からないのだ。
「分からない。その…いじめとかに発展したりするのかな?」
妻は朝食にはほとんど手を付けずコーヒーだけを啜る。
「先生は大丈夫だろうって。でも…」
分からないわ、と言葉の続きは容易に想像できた。間違ってもシンジを疎ましく思うことだけはしたくない。それでも心のどこかで家族をシンジと他の三人でタイプ分けしてしまっている自分を見つけてしまう。シンジの気持ちだけがいつからか霧の中にあるように見えなくなっていた。
「オレの考えとかやり方がシンジが望むものかは分からんが…帰りに学校にいってみるよ。できれば昼くらいからでもシンジに学校に行かせて欲しいんだ。自分のいないときに親だけ学校にっていうのもあとからばれると気分悪いだろ」
「どうかしら。正直分からないの。わたしだったらそうでも、あの子がそうかどうかは分からないの」
親失格という言葉が頭を渦巻いた。話はそこで途切れてしまい、どうしようもなくて「行ってくるよ」と玄関のドアを開けた。
昼休みに二度程携帯電話が鳴った。最初の電話は妻からだった。シンジが昼前に学校へ行ったということだった。どういう会話をしたかは聞かなかったが妻の声は軽くはなかった。たぶん僕の声も重かったろう。これで僕も学校に行かないわけにはいかなくなったわけだ。
妻からの電話を切ってから五分と置かずにかかってきた電話は中学の時の同級生、あのバレーの大会で安永やオレと同じチームにいた古賀からだった。この週末、六年前にガンで死んでしまった安永の七回忌にあのバレーチームの五人で線香をあげに行く予定だった。家業である文房具屋を継いだ古賀が会社勤めよりは自由が利くと連絡役になっていた。
「ああ、古賀だけど。なあ、おまえ日曜予定通りで大丈夫か?」
「オレは大丈夫だ。みんなは?」
「大丈夫みたいだぜ。まあ、大切な友達の命日だし、幸いみんな近くにいるしな」
「まあな。でも不思議な縁だよな」
「そうだな。あのチームがこんなに続く友達になるとは思ってもみなかったな」
短い会話のあとで電話を切った。確かにあの決勝戦のあとで僕たちは親友といっていい友達になった。試合後も強く結びついたままのスポーツマン集団の中にひとりの落ちこぼれのチーム。はっきりいってスポーツでも学問でも大きく差のある僕たちと一緒にいるのは安永にとってそれだけで苦痛だったはずだ。劣等感を持たないというわけにもいかなかったろう。そんな中で何倍も苦労し努力したはずの安永が誰よりも早くガンで苦しんで死んだのは不運の一言で片付けるにはあまりに惨い出来事だった。
仕事を早めにあがってシンジの通う学校に向かった。体育大会の練習にきちんと参加していればまだ学校にいるだろう。そういえばシンジの参加する競技もバレーボールだと言っていた。一緒にするわけではないが昼に古賀と電話で話してからシンジと安永がなんとなく重なって見えた。駅から学校に続く長い道を夕暮れの中自分の長い影を追い掛けるように歩く。校門が遠くに見えたとき何人かの学生服姿が固まって出てきて、そのあとから少し離れてもうひとり出てきた。シンジだった。付かず離れずのところをゆっくり歩いている。前をいく五人はみんないい体格をしていた。どうすればいいか分からなかった。明らかに仲間外れだったが特にいじめられているというふうでもなく、むしろシンジのほうから距離を置いているようにも見えた。下手なことをすればもっと悪い方向に進んでいくかもしれない。そう思って足を止めたが、その影の先に見える学生服姿が一瞬だけかつての自分達と重なり、そして元に戻った。シンジの気持ちになってやることは例え親でも難しいのかもしれない。気持ちになれたとしても答えが出せるかは分からない。ただ僕にはそれがなにか間違って見えた。まだ暖かい夕日に照らされてるのに前を行く人影は冷たい雰囲気を纏っていた。シンジも少し先を歩く五人もなにかやり辛そうに見えた。何をどうすれば分からなかったが足は小走りにシンジを追っかけていた。
「シンジ、今帰りか?」
後ろから肩をポンと叩いた。シンジが驚いて振り返り、前を行く五人も振り返った。シンジの顔がみるみる曇っていった。こういう風景を親に見られることと、それをクラスメートに見られることはシンジにとってはひどく自尊心を傷つける辛いことなのかもしれない。すまないとも思う。親としては失格だろう。でも本当に分からないのだ。だからやってみるしかない気がした。
「どうだ、体育大会の練習は。順調か?」
「別に…」
シンジは俯いたまま言った。先の五人も押し黙っている。会話は聞こえているはずだ。
「なんだ別にって。お前勝ちたくないのか?」
酷い一言だった。でも反応して欲しかった。勝ちたい。でも自分がいることで勝ちから遠のいていく矛盾を悩み、それでも闘って欲しかった。安永とシンジを重ねた。でもシンジは俯いているだけだった。何も言わなかった。取り返しの付かないことをしてしまったんじゃないかと恐怖が心に湧き出てきたとき、シンジが足を止めた。先を行く五人も足を止めた。シンジの足元に大粒の涙が流れ落ちた。
「僕だって…勝ちたいさ」
五人が振り向いてシンジを見ていた。やがてひとりが言った。
「だったら明日からもちゃんと来いよ」
次々と言葉が降り掛かる。
「泣いてんじゃねえよ」
「頑張りゃ勝てるって」
「ひとりで勝手に諦めねえでくれよな。優勝狙ってんだから」
僕は五人に会釈をした。その中のひとりが突然大声でシンジの名を呼んだと思うと顔をあげたシンジに大きく手を振りながら言った。
「おまえならできるって。期待してんだからな。じゃあ、明日な」
五人が大きく手を振りながら小走りに去っていった。シンジが遠のいていく影に大きく手を振り返していた。僕は彼等の言葉をもう一度頭の中で繰り返した。あの日のことが胸に浮かんだ。
あの日の安永の最後のサーブは宙の高くに舞い上がった。割れんばかりの安永コールの中、ベースラインに立ち震える手でボールを持っていた安永は突然の叫び声とともにサーブを放った。喧噪は途絶え、誰もが放物線を描くボールの行方を目で追った。高く舞い上がったボールはまさにコートの真中、ネットの上にめがけて落ちてきた。祈った。僕たちだけじゃなかっただろう。面白半分で安永をバカにしに来ていたはずの観客もがみんな祈ったはずだ。ボールはゆっくり落ちてきてネットに当り、そして僕の目の前に転がった。落胆の声が観客から聞こえ再び安永コールが沸き起こった。安永はいつもそういうときにするように片手を頭の後ろに当てて誤魔化し笑いを浮かべて「ごめんよ。やっちまったよ」と言った。その姿がまたみんなの笑いを誘った。近ごろの陰湿ないじめではなかったがやはり一種のいじめだったのだろう。安永はそんな自分をも笑い飛ばすタフさを持っていたのかもしれない。「おまえら笑うなよ−」みんなの期待する言葉がまた笑いを誘った。ただコート上の僕たちは見逃さなかった。安永コールが始まるまでの短い間、あいつは奥歯を噛み締め悲痛な表情をしていた。見ているこっちの顎が痛くなるくらいの悔しそうな表情だった。
試合には負けてしまった。その日の帰りには誰から言い出したともなくチームの六人で帰ることにした。下駄箱の踊りはで「ごめんよ」と言い続ける安永に僕たちは「気にすんじゃねーよ」と肩を叩き校門の先、夕日が影を長く延ばす道を歩いた。あのサーブが良かったとか、あのレシーブは奇跡的だったなとかガヤガヤと話ながら歩いていた。そして突然みんなが黙った。安永が涙を流していた。
「ちくしょう、悔しい」
安永は呻いていた。僕たちは押し黙っていた。考えてみればみんなの晒しものにされて笑われたのだ。あの安永コールはどれ程深く安永の心を突き刺したのだろうかと思った。
「勝てなかった…もう少しだったのに」
そのときみんなが息を飲んだ。安永が泣いたのはそういうことではなかったのだ。自分がすごく嫌らしくて悲しくはないけれど泣きたい気分になった。あいつも勝ちたかったのだ。僕たちと同じように。いやたぶん、僕たち以上に。
「今日は勝てると思ったんだ。みんな上手いし、僕も一生懸命やったのに」
夕日が暖かく体を包んでいた。やがてリーダー格だった鈴木が言った。
「勝てるさ。次は」
「泣くんじゃねえよ」
古川が肩を叩く。
「でも、あんなに頑張ったのに勝てなかった。どうしたら勝てるんだよ」
「頑張るしかねえだろ」
「あきらめなきゃ大丈夫さ」
古賀と鴫原が安永の顔を覗き込んで言う。やっと顔をあげた安永に僕は笑いかけて言った。
「おまえならできるよ」
赤い夕日の光は僕たちの弱さを照らし出し、そして暖かく包んだ。きっと僕たちはこの先ずっと友達で、きっとお互いの存在が必要になるんだろうなと漠然とだけど、はっきりそう思った。
もう薄暗い夕闇の中、シンジとふたり黙って歩く。これで良かったのかどうかは分からない。親としては少し情けないが僕がどうにかしてやるべきことでもない気がしていた。ここに来る前は安永の話をしてやろうとも思っていた。でもいまはその話をしてやることもないんだと思っている。シンジの身にはこれからも辛いことはたくさんあるだろう。それはきっとマサオも同じだし、僕と妻にとってもだろう。いつかいまが思い出となったそのときこそ安永の、僕たちの話をしてやろう。
振り返ると沈みかけた夕日の中にあの日の僕たちが見えた気がした。