栞の秘密
Sは辞書というものを使うどころか持ってさえもいなかった。S
自身、その事実を知らされたのは、趣味で掌編小説を書き始めて六
作目を数える頃の事、
「Sを論評する前にだ」
同好の者に、こう指摘された時だった。
「誤字、語法の誤り、認許し難い。少しは調べて確かめる習慣を持
たんのか、こいつは」
やや恥じたSは早速書店へと向かったが、辞書という本が存外高
価なのをこれも初めて知る、やむなく足を延ばし、持ち合わせに足
りる一冊を古本の店でようやく入手したのだった。
さてSが本を持ち帰って開くと、中程に一枚の栞が挟まっていた。
Sは気に留めずこれを取って捨てようとしたが、それは叶わなかっ
た。栞は何やら糊でぴったりと頁に貼り付けてあるのだった。
「何?」
Sはすぐこれを剥がそうとしたが、無理すれば辞書の薄い頁を破
いてしまう事は必至なのであった。
「何て事を」
舌打ちしたSは、どこかに不届きな先の持主の名前でも書かれて
ないかと捜したが、無論これは見つからない。それどころか辞書に
は傍線も覚えも書き込まれて居らず、むしろ丁寧に扱われた本なの
に、ここだけなぜかこの有様なのだとSは気付いた。
「何なんだろう」
いったい此奴がこうまでして隠したかった言葉でもあったのだろ
うかと、Sは透かしたり眺めたりして想像していたが、やれやれこ
れはやはり見当もつかぬとやがて匙を投げ、Sはぱたんと辞書を閉
じてしまった。
すっかり日も暮れかかった、ある休日の事であった。
あれから一年、Sは今もその辞書をそのまま使っているのだが、
未だ栞に調べものを邪魔などされた試しはない。
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