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六十億の木曜日 漆黒の虚空に、異形の蛇がのたうつ。 九つに分かれた炎の首が、さらに九つに分かれ、なおその先が無 数の蛇の頭となり、ねじれ合い、絡み合い‥‥ 「先生、どうされました」 「あ、いや失敬、つい考え事をね。この部屋は少し暑い」 天文学者は汗を拭った。 「しかし先生、今年は新彗星が多かったですね」 「確かに」 「こう多いと、先生」 科学部記者は、やや気恥ずかしげに言葉を続ける。 「素人目には何かの前兆ではないかと。現代に彗星が不吉だなんて お笑いですが、まあこの御時世、そんな噂話も流行ったりするわけ です」 「彗星群は、高エネルギー天体による生成の活発化が原因です。突 発流星群にしても、現象としてはありふれたものですね、心配御無 用ですよ」 「成る程。どうも、本日は朝早くから有り難うございました」 記者は立ち上がり、深々と頭を下げた。 「あ、実は今日の先生のお話ですが‥‥或いは夕刊には載らないか もしれません」 「政新党の金融再編案ですね」 「ええ、発表次第じゃ、日本中ひっくり返りますからね。科学コラ ムなんか簡単に吹き飛び‥‥あ、これは、失礼を」 「はは、天文学なんてそんなもの、気楽な趣味の稼業ですよ」 <実際、そう思っていた> 窓から車を見送りながら、学者はこの数日の記憶を辿っていた。 <天文学なんて、雲の上の学問‥‥寧ろそれゆえ、人は星に思いを 馳せてきたのでは無かったか> 神話の怪物、ヒュドラ。それが第一印象だった。 八方にうねる炎の蛇。CG処理され、なお鮮明となった禍々しい 天体の姿に、集まった各国の科学者は一様に息を呑む。 「放射される高エネルギー線は、致命的なレベルを遙かに超え、地 球に物理的損傷をも与えうる。よしんば衝突せずとも、生命を一瞬 で掠め取るには十分過ぎよう」 「天体は毎時千キロの加速を続けている。人々が異変に気付いた時 には、既に衝突しているだろう。そして全ては終わっている」 「今、この事実を知っているのは一握りの科学者に限られている。 ご見解を伺いたい。我々が何を為すべきか」 「だが残された時間はあと、七日に満たないのだ」 いかなる手を打つにせよ、短すぎる時間であった。幸か不幸か、 さもなくば決して意見の一致など無かっただろう。 <避け得ぬ末期を迎える朝に、何も知らぬ子を怯えさせる道理はな い> どこからか、聖歌の合唱が聞こえてくる。 <そうそう‥‥孫にプレゼントも買っておかねば、な> 学者はコートを手に取った。 < 戻る |