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甚五郎逃走 江戸の、とある下町の飲み屋。 職人らしい男が一人、昼間から呑んだくれている。そこへひょい と声をかける者がいた。 「おやっ、せんせい、甚五郎先生でしょ」 職人は顔を背けた。 「稀代の名匠、飛騨の甚五郎先生、そうでございましょ?」 「知らねえ」 「まぁたとぼけちゃって、今や先生ん事なら子供だって知ってますっ て。何しろ、あの『ほぞ穴の猫』と来たら、もう江戸中の評判…」 「そいつを言うんじゃねえ!」 立ち上がりかけた甚五郎の肩をぎゅうと押し戻すと、男は熱っぽ い目で喋りはじめた。 「いや先生、こいつは是非言わして下せえ、ええ、そもそも柱のほ ぞ穴ん底なんてねえ、組んじまえば外からぁ見えねぇ所でしょ? そこへ先生、昼飯時にちょちょいのちょいって、粋な彫り物を作っ ちまうんだからねえ。ほんのたまたま、他の職人がさ、ふいっと覗 き込んだらまさかそんな事してるんだもんなあ、驚いたろうなあ、 まったくねえ、一生分かんねえような所に限って、凝った仕事を施 す心意気、ええ、あっしは感動しちまってもう、言葉もねえって程 で」 「だったら放っといて呉れ。あの阿呆職人、皆に言い触らしやがっ て」 甚五郎は酒をあおり続ける。 「そうそう、そう言やあ、聞きましたか、千石橋んとこの古い社、 先日風で倒れちまったんすけど、そこで古い落書きが見つかったそ うで」 甚五郎の手が止まる。 「何だと」 「いやね、天井板の裏にね、墨で猫の絵が描いてあったんすよ。社 が壊れねえ限り、絶対見えねえ所でさ。まあ、とんと昔の話でしょ、 誰が描いたか作ったか、残念ながら今となっちゃあ知るよしもありゃ あしやせんが、なかなか面白い話ですよねぇ、先生」 「馬鹿な、ち、畜生」 「いやなに、先生の彫り物細工に比べたら、大した出来映えじゃご ざいませんよ。いやぁしかし先生、昔にも先生の物真似みたいな奴 がいたんすねぇ」 「ものまねッ…」 「でね、先生」 男は甚五郎の耳元に顔を近づけると、そっと囁くのだった。 「こっそり俺らだけに教えて下さいよ、ね。この次は、一体どんな 凄い仕掛けを考えてるんで?」 「うわぁああああ!」 町が嫌れぇだ! 江戸っ子なんて大嫌ぇだ! 二度と来るもんか。いや、来られるもんか! 泣きながら店を飛び出した甚五郎は、そのまま再び流浪の旅へと 立っていった。 一方、江戸では甚五郎の「泣き」が大評判。あの飲み屋も、彼の 置き忘れた傘やら財布やらを名物にして随分繁盛したという。 < 戻る |