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氷の星に飛ぶ君へ 桜の花びらが散る明るい小山の径を、私たちは展望台を目指し登 っていた。 先を歩く彼が、振り返って促す。 「早く、打ち上げちゃうよ」 「待って」私は立ち止まるとセーターを脱いで持った。 富士宇宙港14時40分発、木星経由、土星第15衛星・タイタ ン行き。 あいつはもう、座席についていることだろう。 片道8年半の外惑星便・・ Tが電話をくれたのは、わずか3時間前の事だった。鳴り出した テレフォンから現れたあいつの滲んだ映像は、一方的に出発を伝え るや切れた。 「だれ? 今のTじゃなかったか?」ベッドからの寝ぼけた声に、 私は塗りかけのバタートーストを持ったまま、ぼんやり答えた。 「土星ロケットに乗って、タイタンに行くって。」 そう、あいつはいつも唐突だった。 宇宙港を見渡す展望台には、私たち以外誰もいない。 遠く離れたこの場所からも、ロケットはとてつもなく大きく見え た。むろんTの姿など分からず、あいつが私を確かめることもでき ないだろう。 スピーカーが、誰に聞かせるとなくガイド音声を流し続けている。 『太陽からの距離およそ14億3000万キロ・・地表温度はマイ ナス180度・・間もなく3分前の秒読みに・・』 Tは秀才で、早くから宇宙生物学の最前線で成果をあげ、その名 を知られていた。その研究室で助手を勤めていた私に、あいつは自 信に満ちた目を輝かせながら、ひたすらに研究の夢を語り続けた。 それは私にとっても胸を躍らせる話であったが、私が頷いてみせ るほどにその視点は遠ざかっていくようにも思えた。 「やっぱり車飛ばして見送りに来て良かったよね。」 「・・うん・・そうね」 スピーカーから秒読みの声が響く。 10、9、8、7、 ある夜、Tの腕の中でまどろみながら私はこう聞かされる。 「タイタンの研究所に移ろうと思う。ついて来てくれるよね」 Tはそのまま二人の将来を囁き始めた。 たぶん、あいつは夢を全て手に出来る男性だろう。溢れるばかり の才能と自信をもって、力強く未来を掴みとってみせるのだろう。 その事には、疑いは無かった。 6、5、4、3、 「・・考えさせて」 私はかろうじて答えた。 2、1、『リフトオフ』 白雲が発射台を包み込み、その頂点よりロケットは、ゆるやかに、 しかし想像を絶した推力に乗って上昇していく。どう、と押し寄せ た風が巻き起こす桜の渦の中で、私たちは青空を、その彼方の氷の 星を仰ぎ続けた。 < 戻る |