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『溶解』越冬こあら
ハナミズキとツツジが咲き乱れる駅前広場を抜け「南風荘」という名前のわりにはコジャレたマンションに、しばらく前から大学に来なくなったヒロキを訪ねた。前日に買ったハイヒールが狭い廊下によく響いた。
反応の無い呼び鈴を諦めて、鍵の掛かっていないドアを開けて声をかけると、風呂場の方から返事が聞こえた。
「何やってんのよ」
風呂場のドア越しに、聞いた。
「俺さあ、今溶解してるんだ」
ヨウカイ、なにそれ。
「俺さあ、人間の幸福について考えているうちに、あらゆる不幸の種はこの脳味噌の中に形成された『自我』によって生み出されることに気付いたんだ。つまり、目覚しい進化を遂げた人類が、決して幸福になれない運命にあるのは、無いものねだりを続ける『自我』のせいなんだ」
ジガ、ナイモノネダリ、お風呂に入ってるんじゃないの。
「その問題を解決するには、生命の発祥まで進化を遡り、原点に立ち返らなければならない。すなわち、海中の物質が偶然の作用の下に、原始的な蛋白質を形成した瞬間、それを可能にしたのは、強烈な思念の力で、その『生きたい』という強靭な思念が生命の誕生と進化につながり、人類に繁栄をもたらしたんだが、その思念が必要以上に強力だった為、絶対に幸福になれない『自我』を形成してしまったんだ」
キョウジンなシネン。でも、もうそこもふやけちゃってるんじゃない。
「だから、俺はこの塩化ナトリウム濃度約三パーセントの液体に身を浸し続けることによって、少しづつ溶解し、もう一度無機質に戻り、生命の進化をやり直すことにしたんだ。ただし、今回は『生きたい』と強力に念じるのではなく、『生きてみてもいいんじゃないかなあ』と軽めに想う程度にする。そうすれば、何事においても比較的突き詰めた考え方をしない、幸福に成り易い『自我』を持った人類が誕生するはずなんだ」
それって、シンジンルイってこと。
困ったもんね、文系学生の科学は。基礎を積み上げないで、いきなり実証に挑んじゃうんだから。
それからも何度か「南風荘」を訪ねたんだけど、ヒロキは毎回同じような事を怒鳴るだけだった。そのうち、その声も聞こえなくなって、心配になってドアを開けてみたら白濁した液体に頭髪が浮かんでた。
溶解を果たしたヒロキが、新人類に成って帰ってくると思うとワクワクしたけど、何日もかかりそうで退屈だし、液体はヌルヌルで気持ち悪いので、ポーンと栓をぬいちゃった。
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