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1000字小説バトル
チャンプ作品
『味噌ラーメンとあなたの隣で僕は。』千希
 うい、という名の人だった。
「はねに、ころも。羽衣と書いて、うい」
 初めて会った時、ういさんはそう言って微笑んだ。年月でこなれた柔らかな声。でもその発音はすこしたどたどしく、僕の頭にはひらがなの「うい」が浮かんだ。今でも、そうだ。

 週末にはよく二人で買い物へ出かけた。ういさんは緩く編んだ白髪を垂らした背筋をぴんと伸ばし、穏やかなペースで歩を進める。歩調を合わせると、その速度は退屈だ。それで周囲に目をやると、普段目につかないことが見えてくる。一輪だけ咲いた季節外れの桜だとか、公園に置き去りにされた小さなズック靴の片方だとか。
 ういさんは、前者を見れば写真を撮ってくれと面倒くさがる僕にまったく使いこなせていない携帯電話(簡単操作をうたったもの)をしつこく差し出すし、後者はわざわざ交番へと届ける。おかげで買い物が終わる頃にはとっぷりと日が暮れている。
 そんな時に2人連れ立って入る近所のラーメン屋が僕のひそかな楽しみだった。なかなか良い店で僕の家からもそれほど遠いわけではなく、一人で来ればいいようなものだったのだが、なんとなくその気にはならなかった。それでそこの味噌ラーメンはずっと、ういさんと二人のときだけの楽しみだった。
「ね、あなたは結婚しちゃあだめよ」
 ラーメンを啜りながらういさんは決まってそんなことを言った。私が寂しくなるから、と言う。大真面目な顔をして、言う。
 なんだよそれ、と僕がわざと不満そうな声を出すと相好を崩し、おかしくてたまらないように笑った。女性に臆病で彼女の一人も出来たことのない僕をからかっているのだ。でも案外、本当にそう思っていたのかもしれない。

 ういさんの死に顔は、きれいだった。眠ったまま、苦しまなかったそうだ。僕は今にも目を開けそうなその顔を側でずっと眺めていた。いくら眺めても、自分の祖母だという実感は、最後まで湧かなかった。幼い僕を捨てて逃げた母の、その母だという認識はあっても実感は、やはり湧かないままだった。
 葬式のあとで僕は、喪服のままであのラーメンを食べにいった。一人で黙々と麺を口に運ぶうち、柔らかなあの声がふいに耳に蘇り、涙が溢れた。後から後からとめどもなく。
 ういさん。僕の、おばあちゃん。一度くらい、そう呼べば良かったかな。でもういさんはきっと嫌がっただろうな。 
 心底嫌そうなういさんの顔がはっきりと頭に浮かんで、僕は泣きながら笑った。

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