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3000字小説バトル
チャンプ作品
『それ以上ではなく、それ以下でもなく』中川きよみ
 「先週の出張で、札幌へ行ったじゃない? スタッフの飲み会の時に岬課長と2人になれたのよ〜。そしたらね、オレ酔っちゃったよぉ、なんて後ろから抱きしめられちゃったの!」
 千夏はワインに上気していっそう華やいだ貌に見えた。
 千夏に飲みに行こうと誘われた時、また岬課長のことかと瞬時に勘付きながら、悠紀子は断るわけでもなく会社の近くのイタリアンレストランに来たのだった。悠紀子は実のところ、妻子ある岬課長に熱を上げる千夏の気持ちを本気にしていなかったし、岬課長のことも口が上手く言い繕うことにばかり長けているくせに仕事が遅く雑なので快く思っていなかった。不倫も調子が良すぎる男も、大嫌いなのだ。でも価値観が違っていても千夏のことは嫌いではない。支社でただ一人の同期で入社以来ずっと仲が良かったし、そのレストランのワインもパスタも悠紀子のお気に入りだった。
「ねえ、脈アリじゃない? 悠紀子はどう思う?」
 千夏は印象的な大きな目をさらに大きくする。
「家庭のある人が真面目に付き合う筈ないと思うわ。千夏、早く結婚したいんでしょう? だったら止めた方がいいわよ。」
「夫婦仲が悪いのよ! どうせ離婚するわ」
「ふうん」
「素っ気ないのねぇ。そりゃ、悠紀子には長い付き合いの彼がいるからいいけど、あんな会社で毎日働いてて出会いなんてないじゃない? もう若い男なんて周りにいないの! 結婚してたって思いっきり射程距離内なんだから!」
 酔いにまかせて千夏はふてくされて開き直る。
「悠紀子が不倫を嫌いなのは知ってるよ。でもさ、悠紀子だって笹山さんのことでちょっと噂になってたよ。どうなの?」
「えっ? 何なに?」
 追加オーダーのメニューに見とれて聞き流していた悠紀子は、不意打ちをくらってぽかんとする。
「どうして笹山さん?」
「私だって聞きたいよ。あんな地味で冴えないオジサンのこと、どうして悠紀子が好きなのか」
 千夏の言葉にカチンときた。その自分の感情にややうろたえて、落ち着くために悠紀子はグラスワインをオーダーする。
「好きって、まあ確かに、私は笹山さんの仕事ぶりは評価に値すると思ってるわよ。でも、それで噂になるの? びっくりするようなこと、言わないでよ」
 でも本当に抗議したいのは、「地味で冴えない」という言葉だった。笹山は無口で外見にはまったく拘っていない。恐らく自己アピール力というものが最初から欠落している。一般受けが良くないことは悠紀子だって知っていたけれど、笹山の頭脳はキレが良いし喋らせると実は結構面白い。そしてなにより誠実な人柄なのだ。それを岬課長なんかに好意を寄せる千夏から切り捨てられるのはあまりに不当ではないか……もちろん、笹山の良さに気付かないタイプだからこそ、岬課長に熱を上げるのだろうが。
 悠紀子は言葉にする代わりによく冷えた白ワインを飲み下す。

 「それって、前も言ってた悠紀子が気に入ってるオジサンのことだろ?」
 芳彦は興味なさそうに言った。どことなく面白くなさそうだった。
「えっ?」
 悠紀子はドキリとする。
「どんなに高価なスーツを着てもびっくりするくらい安っぽく見せることができる、単身赴任のオジサンだろ?」
 悠紀子の部屋に来る度作っているプラモデル製作から顔も上げずに、どうでもよさそうに言った。
「……そう、才能に溢れたそのオジサンよ」
 今朝、笹山がにこやかにピンク色のキティちゃんのクリアケースに入れたままの書類を部長に手渡したのでびっくりした、という話をしたのだった。自宅で娘の持っていたクリアケースをちょうどいいから借りたと言っていた。
「いろんな人がいるよなぁ」
 悠紀子が差し出したコーヒーに何か相槌でも打たなくてはならないと思ったらしく、おざなりで間の抜けた感想を述べたが、芳彦の関心はもはや完全にプラモデルに向いていた。身近な誰かに笹山の魅力を共感してほしかったのだ。でも、当たり前だが芳彦はその相手としてはあまりにもそぐわない。
「わざわざ私の部屋へ来てプラモデルもないじゃない……」
 悠紀子の独り言のようなささやかな抗議を、芳彦は、うん、そうだね、と聞き流す。

 「笹山さん、会議は金曜日の午前中です。急で申し訳ないのですが資料を明日までに部長に提出してもらえますか?」
 いつもながら、笹山は悠紀子の心遣いに感謝して感心する。業績不振で研究所の人員整理があって、笹山は支社の開発部に転勤になって単身赴任をしている。悠紀子は笹山が金曜日の晩には会社から直接新幹線で自宅へ帰ることを知っているので、見事な秘書の手腕で笹山が出席しなくてはならない打ち合わせや会議を夕方から外してくれるのだ。
 人員整理の対象者になったことを含めて、社交的ではない性格のために損をするのは仕方がないことと諦めていたが、悠紀子のしなやかで的確なサポートを受けて開発部では今までになく自分の仕事が評価を受けていると感じた。
「ハマダが部長との意志疎通を手助けしてくれるお陰で、僕はものすごく助かってるよ。言われなかったら資料なんて提出することも思い付かないからね」
「それはそれは。もう資料ができたんですか。相変わらず早いですねぇ。でも、秘書ごときが手助けできることなんて、本質的には何の価値も変えませんよ」
「いやぁ、それはハマダの卑下だよ。事実、僕はこんなにスムーズに上司と意志の疎通を図れた試しがない。いつもそこで躓くんだ」
「お褒めいただいて光栄です。代わりと言っちゃなんですが、部長が今夜の外部打ち合わせに誰か分かる人を連れて行きたいそうですので、資料を渡すついでに行って頂けます?」
「……なんか、ハメられた気がするなぁ」
「気がするんじゃなくて、ハメたんです」
 悠紀子は笑顔を浮かべる。
「部長は外出中なので6時に会食のホテルで待ち合わせてます。私も行くので、一緒に行きましょう」

 帰宅ラッシュの地下鉄で繁華街へ出て、笹山と悠紀子が地下街をしばらく歩いていると、突然暗闇に襲われた。一瞬にして鼻をつままれてもわからないような闇になり、たちまち辺りはパニックに陥った。慌てる叫びの合間に蛍のように光るのは、携帯電話の画面だろうか。
「ずいぶん大きな停電だね」
 笹山ののんびりとした声を聞いて、悠紀子は心からほっとした。
「ハマダはこっちへ来ていた方がいいね」
 笹山の手が悠紀子の肩を通路中央の柱に導く。悠紀子がおとなしく柱に背をつけると、笹山が庇うような位置に立つ気配がした。度を失って動き回る人たちが暗闇の通路を滅茶苦茶に動き、数度笹山はぶつかられていた。
多分、そんなに経っていない。けれど暗闇の中では時間はとてつもなく長く感じられた。不安のあまり悠紀子が手を伸ばすと、笹山の腕に触れた。思いがけず、暖かな掌が悠紀子の右手を握る。
「このまま、ふたりで逃げちゃおうか」
 ぽつりと笹山がつぶやいた。
「そうですね」
 悠紀子はついつられて本音で返答した。いつものように冗談を切り返す余裕がなかった。
 その時、始まりと同様に突如停電が終わって強烈なフラッシュをたいたような衝撃で光が戻ってきた。悠紀子は一瞬バランスを崩して笹山の胸に倒れ込む。
「あ、ごめんなさい」
 反射的に口をついた言葉を潮に、顔を見合わせて笑った。
「駆け落ちは未遂だね。さあ、行こうか」
 笹山のいつもの飄然とした笑みを、悠紀子は好ましく思う。ただ、それだけ。


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