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3000字小説バトル
チャンプ作品
『幸せの種』伊勢 湊
日曜日の朝、少し早く起きて彼女と電車に乗った。一緒に住み始めてからしばらくたつ。日々は平穏で、全ては垰やかに流れていた。だから彼女がインターネットで都内の公園でフリーマーケットをやっているのを見つけて次の日曜日に行こうと言ったら、僕にはそれを断る理由はない。それがかつて少し奇妙な体験をした公園だったとしても、説明できないことのために流れに澱みを作れるはずもなかった。
フリーマーケットに来るのは久しぶりだった。彼女には来たことがあることは言っていない。公園に来たことがある話だけじゃなくてその頃の話を僕はほとんどしていない。あれは暗くて冷たい季節だった。僕にあるものはほとんどなかった。金が消え、恋人がいなくなり、友達が死んだ。時間が過ぎて振り返ってみればいい思い出になっていたり、飲み屋で苦労自慢のネタに使えるような明るい話にはなりえなかった。あまり思い出したくない季節だ。そんな季節から抜け出せたのは奇妙な日曜日、この公園のフリーマーケットでの奇妙な偶然からだった。
それは古くなったカレンダーばかりが並べられた小さな区画だった。山高帽をかぶった小柄な男が小さな折りたたみ椅子に座っていた。行き場がなく、金もない僕はそのフリーマーケットで何かを見るともなく見て歩いているときに僕はその男に呼び止められた。怒鳴っている訳ではないけれど、驚くほどの大声で。でも反射的に身を固めて声の方を振り向いたのは僕だけだった。周りの誰もはその声に気が付いてすらいないようだった。いやたぶん、実際に気が付いていないのだろう。男はちらりと僕を見てから話しかけた。不思議なことに声は目の前にいる男の口からではなく僕の耳元で聞こえた。僕はその声から耳を塞ぐことは出来なかった。
「土壌は悪くないんだけどな。残念だけど完全に根が枯れちゃってるよ。アンタ、新しい種を買わないかい? 幸せの種を」
ポケットの中をまさぐると硬貨が三枚だけあった。その二枚が百円玉だった。
彼女は人混みのマーケットを精力的に見て回っていた。陶器の茶器のセットの掘り出し物を探すという。僕はその後ろを人にぶつかりながら付いて行く。あの頃に比べてだいぶ太ったのか人混みが少し辛い。でもそれは平和な日曜日の風景だった。朝の嫌な予感を忘れていまいそうな素敵な時間だった。でも小さな角を曲がってそれは逃れられないことだと知った。予感していたことではあるけれど。
「久しぶりだね。待っていたよ。お代を払いにきてくれたんだね?」
耳元で声が聞こえて、僕は山高帽のカレンダー屋の男の方に歩いて行った。たぶん今日このフリーマーケットに来ることを拒んだところで逃れられなかった気もする。だから素直に男の前に立った。
「さあ、どうやって払えばいい?」
いつの間にか彼女が視界から消えていた。
「どうだいその後は?」
山高帽の男が帽子のつばから目をのぞかせる。僕は肩をすくめる。
「幸せだよ。もうすぐ結婚もする」
幸せが何かと聞かれれば答えられないかもしれないけど自分がそうであることは分かる。
「じゃあお代はいただかないとね」
「君のくれた見えない種のせいかどうかはいまいち確証はないけどね」
でもその奇妙な空気から僕はその男がくれた種が自分の人生に何かしらの影響を与えたことは分かっている。僕はそれを失うことがやはり怖い。だからこの男の言葉を聞かないわけにはいかない。
「前に言ったと思うけど、お代はお金じゃない別のもので払ってもらう。物を買うのにはお金。幸せを買うにはその反対の力で払ってもらう」
「反対? 不幸がそれだっていうなら前にならだいぶあったけど、いまは持ち合わせがないよ」
山高帽の男の口元が小さく笑う。
「不幸そのものなんていらない。不幸が出来上がるための力が欲しい」
「不幸が出来上がるための?」
「そんなに難しいことじゃないよ。そこに不安そうな顔をした小さな女の子がいるでしょ? あの子を公園の北の出口から出て地下鉄の駅まで連れて行ってほしいんだ。お父さんとお母さんが待ってるよって」
男が視線をやった先には水色のワンピースを着た小さな女の子が不安を隠せない様子で、でも泣き出しそうにはない強い表情でウサギのぬいぐるみを抱きかかえて辺りを見回していた。
「あの子を駅まで連れて行ったらどうなる?」
「たいしたことにはならないよ。女の子は駅員に保護されてやがて両親に会うだろうよ。少し時間はかかるかもしれないけど。君はここに戻って何もなかったように彼女と再会して家路につくさ」
つまりは、もしそうしなければ彼女とは会えないかもしれないということなのだろう。僕はその可能性について考えた。奇妙で不可思議な力は、奇妙で不可思議だからといってそこにあって手の届く物を奪っていけるのだろうか? あるいは僕はその奇妙な何かに飲み込まれたままで、僕の手はあの小さな女の子の人生になにをもたらすのだろうか? 空を見上げると太陽が眩しい。その反対で小さな女の子にとっての暗い場所、たとえば地下鉄の事務室もやはり存在する。僕がその手を引いていけば。
「さあ、君に選択肢はないよ。君は買い物をしたんだからね。この、僕から」
買い物をした? そうかもしれない。でも実際に僕はなにを買ったのだろう? それはなにか代価を払うべきものなのだろうか。不安に苛まれて彼女の姿を探した。でも見当たらなかった。僕は、女の子の方に歩き出した。さあ、支払いのときだ。耳元で山高帽の男の声がした。
女の子に声をかけた。この女の子をちょっと地下鉄まで連れていく。それだけだ。それで僕は何も失わずにすむ。大丈夫かい? 僕は女の子の手を引こうとした。女の子はその手を固く握りしめていた。僕はそれをゆっくりと開いてみる。そこには2枚の百円玉と一枚の十円玉があった。女の子はお金を持っていた。この先へは進めない。女の子を一人地下鉄においてくること。それは決定的な何かを失わせることになる。
僕はその手を引く代わりに、ちょっとびっくりさせたかもしれないけど、女の子を肩車した。特別に背が高い訳ではないけれどこうすれば遠くまで見渡せるだろう。そして僕たちは公園の南に向かって歩き出した。おまえ許されると思っているのか? 耳元で山高帽の男の声がした。許されると思っているのか? 大きく完璧な輪を小さな歪んだ輪で乱そうとすることこそ許されてはいけないのだ。ないものをあるものみたいに扱うんじゃない。僕は山高帽の男の耳元にだけ声を送った。女の子には気付かれてもいない。大丈夫、僕は、僕たちは何も失いはしない。なにかを失うにしてもこういうふうに失ってはいけないのだ。
少しして女の子が人混みの向こうに手を振った。心配そうな夫婦が駆け寄ってきた。なぜか彼女が一緒だった。
「どうしてこの子のご両親と一緒なの?」
「知らないわよ。小さな女の子見ませんでしたかって聞かれて……。それよりあなたどこ行ってたのよ」
僕は女の子を降ろして肩をすくめた。牧歌的な日曜日の日差しの下で、本当は安心して声を出すことが出来ないでいた。
そのあと彼女はフリーマーケットで萩焼の掘り出し物を見つけ、僕は懐かしい漫画本の全巻セットを三百円で買った。同じ角に、もう山高帽の男の姿はなかった。この時間がいつまでも続けばいいと、家路へ向かういつもより少し空いた電車に乗った。
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