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3000字小説バトル
チャンプ作品
『夏の月』伊勢 湊
窓の外はついこの前まで駆け回ってた夏の太陽に晒されてるのに、蝉の声は妙に遠いし空気も涼しい。僕は病院のベッドからアンバランスな景色を眺めている。丘の上の病院のその窓から見下ろす景色は隠れた絶景スポットにも思える。山裾が広がり、その下に小さな市街地があり、そして港があり海が広がっている。市街地と港の間にある高校の野球部のグラウンドも見える。いまでは人はいない。ちょっと前までは僕もあそこで白球を追い駆け回っていたのだ。でも、先週僕たち三年生の夏が終わった。高校球児のたぶん九割くらいの夏は甲子園大会が始まる前に終わってしまう。そして僕もそのうちの一人だった。
「うわっ、まじじゃ。こいつまじで入院しちょる」
病室のドアが開くなり聞き慣れた笑い声が響いた。
「なあなあ、手術前はまだ笑かしてもええんじゃろ?」
キャッチャーをしていた飯野が腹を抱えている。
「笑えんぞ」
僕は憮然として言うが笑いは止まらない。野球部の頃はピッチャーをしていたせいもあり肩や肘や足首などの痛みがあるとよくこの病院に通ったものだが入院したのは初めてだった。飯野や他のチームメイトも同じでこの小さな港町ではスポーツをするものはみんなたいていその病院に行くのだが、骨折でもしない限り入院することなどまずないのだ。それが野球部を引退し、次の練習のときにはもうグラウンドに立っていない今になって入院。それも怪我とはまったく関係ない盲腸。たしかに笑えてしまって本気で怒れもしない。顔なじみの医者や看護婦にも笑われたくらいなのだ。
「おまえやっぱ切るんか?」
サードでキャプテンの神野がにやにやしながら聞く。たぶんこいつもう知ってる。
「知っとるんやろ?」
「おお、知っとるぞ、知っとるぞ。で陰毛剃るんじゃろ?」
四番の大和田が笑いながら続きを取ってそう言った。
「やかましな。じゃからなんやねん。どうせそのへんのおばはん看護婦に剃られるんや。そんなもん事故や」
いっそう大きな笑いが巻き起こった。みんな口々に「おばはんに陰毛剃られる」と押し殺すように言いながら腹を抱えている。四人部屋だから薄いカーテンの向こうからも笑い声が聞こえてきた。冗談とは分かっていても腹が立つ。ちょっと怒鳴ってやろうか、とそう思ったときである。飯野がふいに顔を寄せて言った。
「でもな、ああいう役はな新人看護婦がするんぞ。香澄ちゃんでもおまえ耐えられるんか?」
息が詰まった。おまえなにいいよるんか、と言おうとしたけど咳き込んで声にならなかった。さっきまでとは違ったにやにや笑いが周りにある。
進藤香澄。新人看護婦。去年田舎町に越してきてからこの病院で働いている。入れ替わりの少ない田舎の病院ではまだまだ新人だ。ショートカットのさらさらした髪がきれいで二十歳は越えてるはずだけど童顔で小さいから年上という感じはしない。この田舎町に育った野良牛のような気性の荒い看護婦とは違い標準語の透き通った声でいつも笑顔で話しかけてくれる優しくてかわいい看護婦さん。これで好きになるなという方が無理な話だ。
「香澄ちゃんはオレらみんなのアイドルじゃ。じゃがな、おまえも盲腸で痛い思いをしとる。じゃからもしそういうことになったらわしらみんな嫌やけど、目をつむっちゃるけえ」
神野が物わかりがいいふうに言う。
「でもな、おまえ勃たすなや。勃起したら香澄ちゃんにどない思われるかよう考ええよ」
飯野は真顔で言ってから困惑する僕を見てかっかっかっと声をあげて笑った。みんな笑った。僕だけが笑えなかった。もしそうなったら、到底勃起せずに我慢できる自信などなかった。
「高木くん大丈夫? 盲腸ですって?」
チームメイトたちが帰った病室でふいに声を掛けられた。心臓が止まりそうになった。香澄ちゃんだった。
「えっ、あっ、はい。そうなんです」
「痛い? 切っちゃうんだって?」
「うん、そうなんっすよ」
「でも、盲腸なんていうのはさくっと切っちゃった方がいいものよ。試合残念だったけど、せっかくの夏休みなんだからやりたいこと一杯あるでしょ? だから早く治しちゃおうね。高木くん受験だっけ?」
僕は曖昧に頷いた。考えがまとまらなかった。目の前の香澄ちゃんはすごくかわいくて、自分のあれが握られて毛を剃られることを考えてしまい、もうあそこがむずむずしていた。それと同時に気に障ることもあった。確かに下馬評では僕たちは甲子園出場なんて夢にも思われていなかったし、実際に予想通りの強豪校がその切符を勝ち取った。でも僕たちがその強豪と闘って破れたのは決勝戦だったのだ。
「なんも考えてないすよ。甲子園、いくつもりでいたから」
微妙な空気。ごめん、と香澄ちゃんが小さく言う。
「そうだよね、あんなに何度も怪我してここに来るくらい頑張ってたもんね」
「うん。でも、仕方ないや。夏どうしようかなぁ」
変な空気を吹き飛ばしたくて無理に笑った。
夕方、退屈で飯野が持ってきた雑誌をぱらぱらしていたら手紙が出てきた。飯野の字で宛名は三年野球部一同と書かれていた。
「おまえは香澄ちゃんが毛を剃るんやったらどうせ勃ってしまうじゃろう。やからいい方法を教えちょいちゃる。はっきりと好きやと言うんじゃ。好きな女の子にあそこ触られて勃起するんは当たり前じゃ。そうならんほうが変態じゃ。おまえは知らんかもしれんが香澄ちゃんが監督と会っとるのを神野が見たんじゃ。あの監督がじゃぞ。嫌な監督じゃないけど三十過ぎのおっさんに香澄ちゃんはやれん。おまえに一番手を任せる」
天井を眺めて大きなため息をついた。
まったく寝れなかった。明日は陰毛を剃られる。もしかしたらそれは香澄ちゃんかもしれない。告白の一番手に命ぜられ、ついでに監督とできている可能性まで聞かされた。寝付かれずに自動販売機でスポーツドリンクを買って裏口から駐車場に抜け出た。大きな夏の月が僕を見下ろしていた。アスファルトに腰を下ろし月を見上げているとどこかから声がした。思わず車の影に身を潜めた。
「ダメです。私と一緒になるということは何千万もの借金を背負うことなんですよ?」
それは香澄ちゃんの声だった。何千万の借金?
「あなたに苦労をかけたくありません。言ったでしょ?」
詳しいことは分からない。でも香澄ちゃんの家庭の事情というやつは相当重そうだった。それに対して聞き慣れた声がした。監督の声だった。
「全部ちゃんと考えたよ。無理をするつもりもない。ただ二人で頑張って働けば、もっとはやく借金から自由になれる。オレはそうしたい。君はオレとじゃ嫌か?」
そのあとの返事は聞こえなかった。ただ香澄ちゃんのすすり泣く声だけが聞こえていた。なんだよ、それ。そう思って大きな月を見上げた。動けないままぼんやりと「たとえば一千万円ってどうやって稼ぐのだろう」とぼんやりと考えてみたが、それは月への行き方と同じくらい僕にはまだ謎だった。
結局次の日、予想と期待に反し、おばさん看護婦が僕の陰毛を剃り、僕はそれにぴくりともしなかった。やっぱり恥ずかしくはあったが、自分で剃るとかそういうふうにいうのもバカらしくて素直に剃られた。
手術が終わり数日して僕は退院した。その足で受験のための参考書を買うために本屋まで歩いた。蝉の声がうるさくて、照りつける太陽が暑くて、開け放たれた民家の窓から高校野球のテーマ曲が流れていた。
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