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3000字小説バトル
チャンプ作品
『ジェノヴェーゼ』深詰(霜月)
 右の上の奥の歯の、詰め物がなくなっていた。代わりにはさまっていた鶏肉らしきものを舌の先でなぞると、指先のささくれを撫でてめくるような感触が返ってくるばかりで、それは想像以上にしっかりと、奥歯の鋭い溝に食い込んでいた。さっきまで奥歯に食いついていた、アバンギャルドなバラ細工みたいな形をした金属片は、今ごろ僕の体内を巡っているのだろうか。舌に力を込め、とがらせた先端を肉片に押しつけてみる。彼女とも言えない相手と居酒屋で食べた、ジェノヴェーゼの味がした。
「たまにはおしゃれなお店でご飯食べようよ」
 ふいにその子の声がヘッドフォンから聞こえてきたような気がした。終電間際の地下鉄は混んではいるが、誰かと肩が触れ合うほどでもない。吊革につかまって口腔を舌で探っていると、目の前に座って眠っていた、いかにも仕事が出来そうな印象の女の人の頭が、急に支えをなくしたように後ろへ傾いた。白い柔らかそうなマフラーの首もとから、皮膚の張った、肌のきれいな喉が見える。かすかに口唇が開いていて少し、いたたまれない。じろじろと見ているわけにもいかないのだが、こちらも歯に詰まった不審物と戯れているとうつむき加減になってしまうので、どうしてもその様子が視界に入ってくる。
 だいぶ酔っているのか、白く透き通る喉から上は、ていねいに塗り分けたように赤い。この人をここまで酔わせた原因を想像してみる。飲まずにいられなかった女の事情。仕事のことか恋愛か、だいたいは、そんなところだろう。あるいは両方、社内の不倫とか。口唇の隙間から、桃色の舌が動いているのが見えた。目を閉じて、ふたりのやり取りを想像してみる。歯に詰まった鶏肉を追いかける。かすかなジェノヴェーゼの匂いが鼻腔から抜ける。
「妻が別れてくれないんだ」
「私、もう三十になるのよ。今までの四年間、返してくれるとでもいうの?」
「申し訳ない、もう少し待って欲しい」
「もうそのことばは聞きたくない」
 その上司は離婚する気など、たぶんないのだ。この容姿を、肉体を、刹那のときめきや快楽を、自由に貪ることが出来る状態にしか興味がないのだろう。それにこの女の人と結婚して家庭を築くつもりもない。だからズルズルとこんな関係が続いてしまったのだ。やめた方がいいよ。そんな男と一緒になってもあなたは幸福にはなれない。まだ人生やり直せるよ、きっと。
「やめた方がいいって言ったの、きみ?」
 また、ヘッドフォンに声が割り込んできたような気がした。薄目を開くと、女の人が、顎を上に傾けたまま僕の顔を怪訝そうに見ていた。口唇は閉じていたが、下顎が少し動いている。ガムを噛んでいるような、どこか控えめな動作だ。僕のはガムではなくて、食べかすみたいなものだが。そいつをまた、舌先でなぶる。
「やっぱり不倫には、未来がないのかな」
 密閉式のヘッドフォンをしているから、外の声が聞こえるとは思えない。糸電話が声を伝えるように、ジェノヴェーゼの匂いが、女の人の意識を伝達する媒介になって、穴の開いた奥歯を鳴らしているみたいだ。そら耳や幻聴とは何かが違う、科学的に証明が出来そうな、妙な生々しさがあった。僕の意識も同じように、この人に伝わっているのだろうか。
「伝わってるわよ」
「え? でも、どうして、こんなテレパシーみたいな」
「私にも解らないけど、まあいいじゃない、酔っぱらいのお姉さんとテレパシーで会話してみるのも」
 僕は試しに、奥歯から滲み出るジェノヴェーゼの匂いにことばを乗せてみた。もし、本当に僕の意識が伝わっているなら、右手でピアスにさわってみてください。
「どう? これでいい?」
 お姉さんがピアスを指先でつつき、僕にしか判らないように口だけを少し動かして笑った。ジェノヴェーゼ食べたでしょ。わかるんですか? 右上の奥歯から、ジェノヴェーゼの味がするのよ。そんなものまで伝わっちゃうんですか? さあ、どうなんだろう、きみがジェノヴェーゼのことを考えているからじゃない?
 そうだとしたら、味覚や嗅覚だけじゃなくて、聴覚とか触覚も、伝えることが出来ても不思議じゃない。そもそも意識を伝達出来ること自体が不思議なんだけど。
「あの、不倫、してるんですか?」
「隠しても意味ないか。そうよ、不倫してるの、会社の上司と」
 訊いてはみたが、そのあとを続けられない。そう考えた瞬間に、お姉さんが僕に質問した。じゃあ、きみは、大学生? いえ、専門です、映像関係の、おれ、CM、作りたいんですよ。そうか、将来はギョーカイ君か、いいね未来があって。お姉さんが俯いたが、すぐに上を向いて続けた。でも何か恥ずかしいわね、考えたことが全部伝わっちゃうなんて。思わずひとり不気味に笑ってうなずきそうになった。お姉さんは表情をほとんど崩さないで、ほぼ真っ直ぐ前を向いている。頭上に、結婚式場の広告があった。
「結婚じゃなくて、子供を産みたいのよ。どうせならあの人の子供をって思ってたんだけど、本当は誰でもいいのかも」
 地下鉄が地上に出て、お姉さんの隣で英語のテキストを読んでいた予備校生っぽい女の子が席を立った。きみ、座ったら? もうすぐ降りるから、いいです。それじゃ急いで話さなきゃ。お姉さんが笑う。狭い隙間に身体の大きなサラリーマンが腰をおろすなり、大きく舟を漕ぎ始めた。
「シングル・マザーでも別に構わないの、母もそうだったし。赤ちゃんと一年や二年、仕事しないで暮らせるだけの貯金もあるし」
 どうして、赤ちゃんだけが欲しいのだろう。夫という存在、家庭という場所、そういうものは不要なのだろうか。
「物心ついた時には母子家庭だったから、父とか夫って概念がよくわからないの。いなくても何とかここまで来られたし、母より上手くやれる自信もあるし」
 初めて上司を見たとき、本能が、そのオスの子孫を残せと訴えたような気がして、その日のうちにベッドまで誘ったのだと、お姉さんが真っ直ぐ、僕の股間あたりを見つめて目を閉じた。ねえ、テレパシーで、きみの子孫を残してみようか?
 突然ワインの匂いが、鼻から抜けて行った。薄い軟体動物のようなものが、舌に絡みついてくる。強く見つめられた先が、火傷しそうに熱く狭い亀裂に飲み込まれていく。お姉さんが、深くため息をついて、身体を震わせた。
「すごい、本当に、入ってるみたい」
 腰が前後に動いてしまいそうになるのを懸命に抑え込み、イメージ化した運動を奥歯に集中させた。快感を感じる神経だけが機能しているかのような破壊的な絶頂感が、津波のように押し寄せてくる。吊革を握り潰してしまいそうだ。身体中が熱い。このままじゃ下着を汚してしまう、いやそんなこと構うもんか、そう思った矢先、目の前が真っ白になり、全身を鳥肌が覆った。自分の身体が、勢いよく踏み潰されたラミネートチューブになってしまったような気がした。
 お姉さんは脚を組んで身体を小さく屈め、そのまましばらく動かなかった。膝に力が入らない。列車が次の駅に到着する。身体を起こしたお姉さんは、新生児をだき抱えるように両腕で輪を作り、僕に語りかけてきた。目には見えないけど、聞こえるでしょ、泣き声が。
 ほら、パパよ。お姉さんが潤んだ目を閉じる。震える手をおそるおそる盛り上がり切ったジーンズに当ててみた。なぜか乾いたままだった。鶏肉はまだ取れない。奥歯で赤ん坊の泣き声が響く。


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