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『酔仙譚』鳥野 新
 唐の時代、長安の南のはずれに李旦という官吏が住んでいた。物静かな人間であるがたいそうな酒飲みで、彼と酒を飲むと夜明けを見ない時が無いというもっぱらの噂であった。勢い彼の周りに集まるのも酒が強い面々となる。
 この男、五十の齢を越えたのだが元来無骨で奥手、酒を飲むことしか趣味が無いときているため今までなかなか女性との縁がなかった。両親はすでに亡く、見かねた遠戚のものが骨をおりとうとう先日若い妻を娶らせた。だがこちらも新郎に輪をかけた奥手、李旦も娘ほども年の離れた妻をどう扱ってよいかわからず、二人して寝床で背中合わせのまま眠る日々が続いていた。
 友人達もなんとなく二人の仲が巧く行ってないとわかるのだが、当の本人が何も語らないためその話題に触れることもできない。何とかしてやりたいと思っても結婚後さらに酒量が増えた李旦に付き合ってただひたすら酒を飲むことしかできなかった。

 ある日、李旦がいつになくうきうきした様子で友人達を誘ってきた。なんでも先祖代々譲り受けてきた酒が満願の百年を迎えるとの事である。それは是非お相伴に預かりたい、といつもの面々が彼の家に集まった。
「これが例の酒か」
 李旦が抱えてきたのは古ぼけた酒甕であった。
「ああ、親父から伝え聞くところでは……」

 今を去ること百年前、李旦の曽祖父のまだ若い頃。
 初夏の夕暮れ、縁側で一人酒を飲んでいた曽祖父の前に突然腹まで白いひげを垂らした痩せた老人が現れた。聞くと酒の良い匂いに誘われて、この庭に立ち寄ったとの事。
「まあ、一杯いかがです」
 曽祖父の勧めに従って、老人は傍らに腰をおろした。満面の笑みで杯を受け取るとなみなみと注がれた酒をくいっと飲み干す。
 しゃべるでもなく黙るでもなく、味噌を肴に二人は淡々と杯を重ねた。
「ご老人、いけますな」
 トロンとした眼をして、老人は莞爾と微笑んだ。
「それにしても、お主と飲む酒は軽やかな良い酒じゃ。酔、すなわちスイは粋に通じる。酒を飲むのはこうあらねばならぬ、こうあらねばな……」
 次の瞬間、老人はふと黙り込んでしまった。
「どうされました?」
「いや、実はお主の家だが、惜しいことに亡家の相が出ておる。お主の子孫は夫婦仲に難があり跡継ぎに恵まれぬようだ」
「おお、なんと」
 悲しむ当主に、仙人は庭のこじんまりした土蔵を見ながら言った。
「ところでこの家の土蔵はなかなか居心地のよさそうな所じゃな、どうだろうわしは実は酔仙人なのだが、酒甕の中に封じてここに百年ほど逗留させてくれぬか。その代わり、と言っては何だが百年熟睡させてもらった暁にはその酒を希代の美酒に代え、お主の家の悪相を吉相に変えてやろう」
 それは願っても無い事、と曽祖父が答えると仙人はたちまち煙となって彼の傍らにあった酒甕のなかに消えて行った。曽祖父は約束どおりその酒甕を土蔵の中の一番良い場所に置いて、眠りを妨げることが無いように土蔵を封印してしまった。

「今日がその百年目なのだ」
 みなごくりと生唾を飲み込んで酒甕を見つめた。先ほど土蔵を開いて持ってきたという酒甕の周囲にはびっしりと緑の苔が付いている。李旦は口のところの埃をそっと払い、蓋の上の布切れを結ぶ紫の紐をほどいた。はらりと机の上に落ちる紐はあたかも美女が夜着の布帯を解くかのよう。
「では、開けるぞ」
 甕の蓋を取るとぱあっと部屋中にくちなしの花に似た軽やかな芳香が広がった。
 柄杓でそれぞれの杯に酒を注ぐ。
 それは空気かと見まごう位に透明。そっと口に含んで転がすと、碧玉を思わせるような涼やかな口当たり。しかし、すぐさま逃げるかのように酒は口の中で広がって消えていった。鼻に抜けていく風雅な香りに誰もがため息をつく。
 息をするのもそこそこに、今度は皆グイと飲む。ひやりとした感覚の後、熱い流れが喉を通り過ぎる。と、同時に頭に突き抜けていく快い酔い。
 余韻に浸る面々に李旦が言った。
「すばらしい。皆どんどんやってくれ」
 その言葉が終わらぬうちに、皆我先にと柄杓を取る。
 注いでは飲み、注いでは飲み。
 カツン。
 残り少なくなった酒をすくおうと、柄杓で底を探った李旦は固い手ごたえを感じた。
「はて」
 柄杓でその固いものを取り出すと、拳ほどあるしわくちゃの種だった。
「この種のせいでこんなに美味しい酒になるのだろうか」
 しげしげと見ながら呟く李旦。
「きっとその種の中身も酒漬けで美味しいに違いない。その種を割ってみたらどうだ」
 誰かの言葉に、皆いっせいに頷く。
 期待の視線を浴びて、李旦は手に持った種をがりりと齧った。
 そのとたん。
「守護神に噛み付くとは、この不心得者っ」
 大音声とともに、しわくちゃの実が杖を持った仙人の姿となった。ぽかんと口を開けたままの李旦の脳天に、勢い良く杖が振り下ろされる。白目を剥いてひっくり返る李旦に仲間が走り寄った。
「お主達も飲みすぎには気をつけるのだぞ、あっはっはっはっは」
 慌てる面々を尻目に、呵呵大笑しながら仙人は煙となって消えていった。
 杖の当たった李旦の頭の部分には、ぽっこりと瘤が出来ている。
 失神した彼を寝床に運び、その夜はお開きになった。

 数日後、瘤が大きくなったという噂を聞きつけた悪友どもが病気見舞いに李旦の家に集まった。そうなると酒が出なくては収まらない。が、さすがに本人は大きな頭を抱え、どんよりとした表情で酒を口に運んでいる。瘤はあれ以来ますます膨らみ、頭に透き通った棗瓜をくっつけたかのようだ。
 好奇心に駆られて李旦の瘤に一人の友人が触れた。
 試みに揺らしてみるとちゃぷちゃぷと音がする。
「水がたまっているらしい」
 これは邪魔だろう、と一同酔った勢いもあり水を抜いてしまえということとなった。
 そのままでは痛かろうと李旦にしこたま酒を飲ませる。
 友人の一人が、先を削尖らせた箸を泥酔した李旦の頭にぷすりと突き立てた。
 ぴゅううううっ。
 箸を抜いたとたん瘤から勢い良く飛び出したのは黄金色の液体。
「おお、おお、甘露、甘露」
 酒飲み共が歓声を上げる。李旦の瘤からはこの前とはまた違う甘い香を持つ酒が吹き出したのである。慌てて徳利や、鍋を総動員して酒を受ける面々。
 なんの騒ぎかと出てきた新妻にも酒が降り注ぐ。
「これは、なんという良い香りでしょう」
 普段は酒など飲まない妻が思わず顔を天井に向けて飛沫を口に受けた。
 ひとしきり酒を吹き出した後、次第に瘤は縮み、酒の噴出もついには止まってしまった。しかしその頃には李旦の悪友どもも、妻も美酒に濡れた土間に酔いつぶれて至福の夢の世界に遊んでいた。

 あれ以来、李旦の瘤は小さくなったもののまだ少量の酒がたまっているらしく彼の頭の穴からはいつも酒の匂いが立ち上っている。
「しかし、残念だな。自分の頭のてっぺんでは飲むことも出来ないだろう」
 友人の一人がからかうと、李旦は珍しく顔を赤らめて、うつむきながらそうではないと言った。毎夜希代の美酒を味わっていると。どうして飲めるのだと友人がしつこく尋ねたところ、実はあれ以来妻が瘤の酒をすすって直接飲ませてくれるのだと重い口を開いた。彼の言うところによれば、酔っ払った妻は今までとは別人で、彼の褥での鬱積もようやく晴れたようであった。

 それを聞いた李旦の仲間達「あのじいさん、なかなかに粋なことをする」と、酔仙人にこぞって喝采を送ったとの事である。


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