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3000字小説バトル
チャンプ作品
『ホリデイ』とむOK
 久しぶりに学生時代の夢を見た。ろくでもない夢だった。俺は寮の風呂に入っていた。それも仕舞い湯だった。レポートか何か立て込んでいて、この時間になってしまったのだった。男子寮の仕舞い湯は最低だ。何十人という思春期後半の男子学生が入れ替わり立ち代り体を漬けて、とどめに夜の練習を終えた体育学部の連中がはち切れんばかりの筋肉を洗った、その後の湯である。俺の体にまとわりつく湯は完全に人肌で、その上風呂として可能な限り汗に近づいていたと思う。一体俺は何をしてるんだろう。俺は悩んだ。悩みながら、しかし他に選択肢も無いように思えて、生理学的に濁った湯に漬かっていた。その時番台の学生バイトが扉の向こうで俺をせかす。あと五分、そう答えたところで目が覚めた。
 カーテンの隙間から外の明かりが漏れている。枕元の時計を見てがっかりした。昼過ぎまで寝ていようと思ったのに。布団が人肌にぬるいのが気持ち悪くて、もう眠れそうになかった。
 仕方なく起きだしたけれど、特にすることもなかった。脱いだ服が床じゅうに散らばっている。そういえばしばらく洗濯していない。俺はシャツや下着や靴下を拾い集めて片っ端から洗濯機へ放り込んだ。洗濯機は俺の脱け殻で一杯になった。
 足元の洗剤を取るために屈んだら、何だか頭が変にゆらゆらした。疲れがたまっているのだろうか。俺は頭を振ってみた。耳の辺りがむず痒い感じがして、指を突っ込んだら大きな塊がぞろぞろと釣れた。脳みそだった。薄汚れた灰色をした大脳皮質は海砂のように指先に細かくざらついた。つまんでいた指を離すと、脳みそは色褪せたTシャツの上にぽさりと落ちた。俺は手前の操作パネルの「念入り」コースに指を止め、ちょっとためらった後「ふつう」コースにした。
 ドラムが回転を始める。そのしゃっくりするような動きに合わせて、白いボディがごん、ごん、と揺れた。「ふつう」コースを指示された洗濯機は一回の洗いと二回のすすぎをして、最後に五分ほど脱水する。決められた工程を訥々と、俺の脳みそを入れたまま全自動で進めるのだ。濁った渦の真ん中あたりに浮かんだ灰色の塊を見ながら、ふと、脱水はやめておいた方が良かったのじゃないかと思ったけれど、その是非を判断しようにも脳みそは今洗ってしまっているのであった。僕はあきらめて上蓋を閉め、ポケットから煙草を出して火をつけた。思い切り吸い込んで、息を止める。別にたいして美味くもない。脳みそのある時と同じだ。開けっ放しの風呂場の鏡に俺の顔が映っている。両耳から二筋の煙が遠い工場の煙突のように立ち昇っていた。
 二週間ぶりの休日だった。何が忙しいというのでもない。いつも通りだ。少しばかり大きな仕事をしばらく抱えていて、そのせいでリズムが狂って小さな仕事がたまっていく。嵐で川に落ちた枝に、枯葉やごみがひっかかって流れをせき止めるような感じだ。すると私生活の方も自然にひきずられて、掃除とか洗濯とか友人との約束とかデートとかいう習慣めいたことが次々と俺の中で優先順位を落としていき、やがて家に帰るとただ服を脱いで湿っぽい布団に眠るだけの生活になる。そんなことを繰り返しているうちに、日常行為は何だか面倒くさい特別な儀式のようなものに変化してしまう。例えば洗濯について言えば、祖父の七回忌とかそういう感じだ。そして一緒に揉まれている俺の脳みそは、海外に移住した親戚に初めて見せた遺影のようにリアリティを失う。それが選びようのない俺の現実だった。せき止められ、どこにも流れてゆかない。
 工程を終えた合図の小さな電子音が鳴った。
 ねじれて絡まる洗濯物をひとまとめに掻き出して、床にどさりと落とした。たくさんのシャツと下着と靴下を、カーテンレールに下げたハンガーにかける。乾けばそこがそのまま箪笥になる。やがて洗濯物の間から古い雑巾のような脳みそが現れた。俺は軽くしわを伸ばして、それだけベランダの物干し竿に吊るした。
 淡い色の太陽がはす向かいの小学校の屋上をかすめて、慎ましく昼の訪れを告げようとしていた。脳みそは田舎道でバスを待つ老人の日傘のように頼りなく北風に揺れて、時々太陽を遮る。俺はただじっとそれを見ていた。やわらかい光が汚れた窓と空っぽの頭蓋を透過して、俺の体の中心に届いてそこを暖めた。そんな風に光を感じるのはとても久しぶりだった。そうしているうちに、俺はうとうとと眠ってしまった。
 窓を揺らす風の音で目が覚めると、空の色が少し薄くなっていた。木枯らしに物干し竿が揺れている。俺の脳みそはそこになかった。
 俺はベランダに出て下を覗き込んだ。南側のフェンスに小さな灰色のしみがひっかかって、風に弄ばれていた。俺はサンダル履きでアパートの階段を降りた。眠る間に吹き始めた風は辺りをすっかり冷たくしていた。脳みそはどうにかフェンスにしがみついていた。俺は拾い上げて軽く埃を払った。
 足元で動物の唸り声がした。振り返ると背の低い女に連れられた小さな犬がいた。
「帽子まで洗うの?」
 女がきれいなアルトでそう訊いた。帽子? 彼女の視線は俺の手元を見ていた。帽子。頭に乗せるもの。これも帽子みたいなものか。下着といわれなくて良かった。「ええ。まあ」俺は適当な相槌を打った。彼女の犬が、同じく俺の手のあたりを睨んで足元で小さく唸っている。平面的でいかつい顔をした犬だ。
「うちの人なんて何もしないわ」
「俺だって結婚したらきっと帽子なんて洗わない」
「そんなものかしら」
「わからないけど。洗わないでもやっていけそうな気がする」
「そうかしら。きっと奥さんが洗うわよ」
「そうかな」
「私は毎日洗濯してるわ」
「帽子も?」
「帽子はともかく。いろいろとね。他にあまりやることもないし」
「そう?」
「あなたもダンナの転勤にくっついて見知らぬ土地に行けばわかるわ」
「ダンナを貰う予定はないかな」
「そうでしょうね」
 彼女の犬がまた唸る。
「ええと、アナログ盤のレコードがあるでしょ。一枚だけ残ってた一枚を繰り返し聴いてる、みたいな感じかしらね」
 平面的でいかつい顔をした犬の散歩と、すりきれたアナログ盤。そして脳みそを洗濯する休日。風は休みなく吹いて、彼女と俺の間にある幾つかのものを冷たく乾かして通り過ぎていく。
「ブラームス」
「え?」
「犬の名前」
「ブラームス?」
「私ピアノを弾いていたのよ。結婚するまではね」
 そう言ってブラームスを連れた彼女は去ってゆく。ブラームス。俺は脳みそに顔を近づけて繰り返した。
 冬の空は朱が染みるより早く紫の薄絹を下ろし始める。俺は部屋に戻った。手の中には脳みそがあった。
 拾ってきたものの、どうやって元通りにしまったらいいのか少し悩んだが、こめかみのあたりを押したら簡単に頭蓋が開いた。洗濯機の蓋みたいだった。俺は一応向きを確かめてから脳みそをしまって、また頭蓋を戻した。元の場所に収まった俺の脳みそは、まるで高い熱を出した次の日のように、新鮮で、どこかぎこちない穏やかさだった。
 ブラームスという言葉は、しばらく頭の中であちこちにぶつかって反響していたけれど、やがて毎朝の出勤で通りかかる赤い屋根の家の庭先に佇む女性の記憶に辿り着き、その辺りで落ち着いた。響きのかけらがひとつ体の中心近くまで届いて、そこに残っていた午後の光の匂いがふわりと立ち昇り、小さく鼻をくすぐった。



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