紫色の唇
【ゲスト】田村俊子
みね路は公園の活動小屋の前をぶらぶらあるいて行った。
毛の擦りきれてしまったボーアの心だけが、ごりごりと頸にあたってちょうど木綿の手拭を一すじよれよれにして巻き付けてるようだ。そのボーアと着物の襟の隙から風が染みこんで、骨のとがった肩の上あたりは皮膚を鉋で削りとられているように冷えついてる。みね路はもう一枚風呂敷でもいいからこの上から引っ被りたいような気がしながら、両方の肩をぎゅっと寄せ合うようにしっかりと懐手をして――よく自分の身体の中にこれだけの温味があると思うような乳房のわきへ両手を組み合わして、腮と口をボーアの中に埋めこんでいる。けれどボーアの中も自分の呼吸で濡れたところが風に凍ってしまって、まるで霜柱でも立ったように唇と頬の肌ざわりがひりひり痛んでる。そうして綿の入っていない新御召の薄っぺらな一枚の裾を、風は砂をすくって叩きつけながら、女の両足へ足掻きのつかない様にその薄い裾をくるりと巻きつけて見たり、又くるりと引っ剥がす様に中間へさらい上げたりして、その余勢を女の横鬢のところへ持って行って抛りつけてる。二枚しきゃ纏っていない女の脛は時々露だしになる。その膨らっ脛の肌は鋸の目を刻み込まれたように皹われてきた。
何所の小屋ももう閉館って、二つ三つ残した看板前の灯だけが、暗くなった往来に薄赤い汚点をこぼしている。男に蹴られて倒れかけてる女の青い着物赤い蹴出し、胡粉でぬった白い脛、矢口の渡しのお船の真っ赤な衣裳、真っ黒に乱れた髪の根から何所かにまつわってちらりと翻れている緋鹿の子のきれ、女の曲がった赤い口、――その看板絵が暗い色に包まれながら明かりを受けた部分だけ、毒々した色彩をぼっと浮かしている。みね路は通りすがりに振り返って見た。紫いろの燭光が高いところからみね路の顔の上に流れてきた。
その時に男の外套の袖がみね路の腕をかすって通った。みね路は鳥が翼を振るうように薄い袂をぶるぶるさせて急いで男の方に身体を返すと、男も片足を宙に浮かすようにして女の方を見たが、女が嗄枯れた声で、
「今晩は」
と云いながら傍へ寄ってゆくと、又ぷいと彼方をむいて肩を上げて歩きだした。
「どちらへ」
みね路は追っかけてそう云ったが咽喉がつまってしまって声がでなかった。男は花屋敷の方へ折れてずんずん行ってしまった。みね路は男の後ろから大きな石でも打っ付けてやり度いように、いらいらしながら舌打した。
風に向いて口を開いたばかりに、咽喉がまた熱を盛ってきて、擦りむけた肉の上を軽石でこすられてゆくように痛み始めた。みね路はふところの中の手で咽喉のまわりを撫でた。耳の付根の下のぐりぐりにさわると、そこだけが燃えてる火の玉をつかむように熱くなっている。
真直ぐに十二階の横に入って、さくらやの台所口からみね路はそっと上った。茶の間には誰もいなかった。長火鉢の鉄瓶がおろしっ放しになって、いま炭をついだばかりのようにみどりな炎を立てて火がよくおこり掛けている。みね路は火を見ると急に耳の根を引きちぎられた様に顔の半面が痛くなって、そうして止め度もなく足の爪先が戦えながら、すべての身体中の血がみんな顔から頭の上へのぼって了ったようにくらくらとした。
三尺の入り口の唐紙を開けて座敷の方から女中のおふじが顔を出して此方を見た。狭い額と人を馬鹿にしているような角のある小さな眼が、斜っかけに唐紙の横から見えたと思っているうちに、直ぐまた引っ込んだ。
「お客なんだよ」
みね路はそう思いながら、火鉢のふちへ寄っかかった腕の上へ顔を埋めて隣りの様子を覗う様にじっとしていた。少したって隣りの室で圧しつけられるような女の笑い声がしたと思うと、直ぐおふじが茶盆をもって、先刻の唐紙のところから出て来た。
「今晩は」
みね路が顔を上げると、おふじは何とも云わずに長火鉢のところへ来て、すっかり火の上へ灰をかぶせて鉄瓶を乗せてしまった。
「意地がわるいねえ。おふじさんは」
みね路は身体を起こしながら、おふじの着物の袖で膨まった筒袖半纏の横を憎そうに見詰めながら出ない声を搾るようにして云うと、おふじは振り向きもしないで台所へ行ってしまった。
「田舎っぺい」
みね路はどす黒い紫が染みついたような唇を噛みながら、鉄瓶をはずしてわざと火をほじくった。
隣室はひっそりしている。茶の間だけに点けた電気が柔らかい色にお上さんの赤い座蒲団を照らしている。茶箪笥の上に飾った穴守様の小さい御神燈の真鍮ぶちが黄金色に光って、お燈明の灯が小指の爪の先のように可愛らしくちらちらと灯っている。その前に積んである銀貨を、みね路は勘定をしようと思って頸を長火鉢の上から向こうへ突きだした。
その時博多の前掛をしめた男がそっと入ってきて、みね路の横に中腰になって両膝を火鉢のふちに押しつけた。みね路は男を見ると黙って笑ってボーアを取った。下から白粉でふちを取ったようになってる緋縮緬の襦袢の襟が出ると男はそれをじっと見た。
「しばらくねえ」
そう云われた男は、丁寧に頭を下げてから、腰から縫いの切れで出来てる巻莨入れを出して中から敷島を一本ぬくと、女の方へ莨入れの口をむけて黙って出した。
「駄目よ。 いただけないの」
みね路はかすれかすれの声でそう云ってから、自分の咽喉を指で叩いて見せた。男は莨入れを中腰の膝の上に乗せると、ゆっくりと巻莨に火をつけて、それから鼻の頭が人と云う字に開いたような平ったい顔を仰向けて莨を吸いだした。
「咽喉へくるようになったかなあ。幾歳だい」
男はやっぱり仰向いたままでそう云った。「馬鹿にして。かさじゃありませんよ」
みね路はまた咽喉に何か引っかかってる様な声で怒るように荒っぽく云った。
男はだまって笑って、何時までも何時までも一本の煙草を仰向きになって吸っている。みね路はぶつぶつと総毛立った、ねずみ色の粉をまぶしたような顔の生地を明かりにさらして、乾き切った黄色い濁りのある白眼を斜にして男の顔を見詰めていた。
「この人には二度呼ばれたことがある」
しかしそんな強味も今のみね路には何の役にも立たない。
みね路はもうひと月も咽喉をわずらっている。始めは医者にも通ったが、それも続かなくなって今はただ打っ遣りっ放しにしてある。悪血が骨の髄を休みなしに腐らしているように、終始うごめき廻っているちいさな動物に、柔らかく肉と骨の間を透してじくじくと蝕まれているように、みね路の身体は懶くって倦怠るくて、そうしてうずうずと性根のない痛みが身体の何所とも云われずにはびこっている。鼻の中がねばついたものを注射されているように鼻の穴が小さく腫れふさがって、唇の色が染みついたようなどす黒い紫を含んできた。みね路はそれを気にしてよく前歯で噛み噛みしたが、どうしても真っ赤なあざやかな血は唇のはじに滲まなくなった。
「病気のなおるまで」
そう云ってさくらやからも断られた。――
女の顔を見ながら落ち着いて茶の間に屈み込んでる男の様子を見ると、みね路には嗄枯れた自分の声にも気がさして、あんまり思い切った口もきけなかった。しかし今日も友達からかりた糸織の前掛を十五銭で屑やに売ってしまって、一日に一度の食にありついたことを考えると、男の懐中に手を入れても若干の金が欲しかった。
しかしこの男の手から自分の掌へ、一片の銀貨を乗せられるまでの苦しい時間を思うと、若いみね路の病気ですがれ切った自分の身体に、それだけの考えと力を満たせるだけにもわなわなと胸が震える様な気がした。みね路の眼は引っ切りなしに瞬いていたが、俯向いてしまうと何も云わなかった。
ちょうど障子の蔭の楷子段をそっと上ってゆく足音がした。すぐ其所から茶の間の方へ顔をだしたおふじが、小さい声で男の名を呼んだ。
男はだまって茶の間を出ると、追っかけるようにまた楷子段を上って行った。
「何しに来たの。お前さんは」
おふじがそう云いながら、長火鉢の前に座って手をあぶった。みね路は返事をしなかった。
「お上さんは何うしたんだろう」
おふじが又そう云って欠伸をした。
「何所へ行ったの」
「お湯さ」
みね路の蒼ずんだ顔と、おふじの赤らんだ何かつぶつぶと吹出もののしている顔とが長い間見合っていた。
「容貌がわるくなったよ。髪の毛が……まあ何うしたってそんなに薄くなったの」
おふじは片手ずつ、掌と甲とを引っくり返し引っくり返ししてあぶりながら、眼を上の方へやってみね路の生え際をながめていた。
「あたし、貧乏しているのよ」
みね路はそう云っている間に何とも云われぬ悲しさが胸いっぱになって来た、病気が重くなった果てに、鉄道往生でもしようとしている自分の姿をふいと眼に浮べた。
「ちっとも身体はよくならないの」
「ああ」
みね路は赤ちゃけた髪のばらついた頭をがっくりと俯向けていたが、突然ふところから出した片々の手で、おふじの腕をつかむと、
「この熱――」
と云っておふじの顔をどんよりした眼でじっと見た。
「お止しよ」
おふじは狼狽てその手を振り放した。
「まあひどいねえ。何うしたってんだろう。急に発てきたの」
みね路はその手で額を押えると火鉢のふちに突っ伏した。
「おみねさん、おみねさん」
おふじは無暗とみね路の身体を揺ったが、みね路は起きなかった。
「お帰りよ。よう。ここで病気にでもなられちゃ困らあね。お上さんの不在に私が困るからさ」
「ああ」
みね路は自分の身体を何所か遠くの高いところへずっと運ばれてゆく様な気がした。だんだん遠くなってゆく程、自分の耳の周囲で、わやわや云ってた騒々しい音も遠のいてゆく――そうして四辺が真っ暗になった。
「おい。しっかりおし」
脊中をきつく打たれて、みね路は目が覚めたように顔を上げた。自分の横におふじと女将のおくめが立っていた。
「何うしたんだね。だらしの無い女だね。さあ帰るんだよ」
一寸の間にみね路の身体に粘った汗が浮いていた。額を押えたままでいたと見えて、額にも掌にも汗がついていた。おくめは手に持っていた石鹸と手拭をおふじに渡すと、火鉢の向こうに坐って、湯呑みに茶をついでみね路に出してやった。
「余程悪いんだね」
みね路はだまってその茶を飲んでいたが、思い出したように頭を振った。おくめはみね路の黄色っぽい荒い新銘仙の羽織を見ながら、長い煙管に煙草をつめてから、火をつけるときに眼を上げてみね路の顔を見た。
「早くお帰り」
みね路は傍に置いたボーアを取って、それを頸に巻き付けた。いつもよりは心が確乎とぴんと刎ねを打って、気の利いた戯談の一つも云える様な開いた気分になってきたように思った。みね路は何とつかず白い前歯をだして笑ったが、おくめは不気味そうに眼を避けて口をきかなかった。
それを見るとみね路は余計、派出派出した態を作って、せめて人好きのする様子だけも人の目に残して帰りたかったが、すぐに気分が黒い雲でも被さってくるように重苦しくうっとりとして、やっぱり物を云うのも大儀になってきた。みね路は黙って立った。いくらか借りて帰ろうと思ったことも、ぴたりと蓋をされたように口に出なかった。
台所口から外に出ると、ちょうど向うの家の裏木戸から男と女が出て来て、右手の抜け裏の方へ曲がって行った。表へ出るまでみね路は、寒さに刺されて身体の戦えがやまなかった。