手のひらのガラスケース(改稿)
深詰 改
下を向いたら目と鼻と口の奥から水っぽいものがあふれてしまいそうだった。肩よりも低いところから僕を見上げて、なにかの花びらをもてあそびながら八重ちゃんが少し的外れな返事をする。
「ずっと、ごめんね、でもありがと、三年間楽しかった」
瞳が潤んで声が震えていた。なのに、それは満面の笑みだった。
この三年間で、覚えているだけでも五回、僕は八重ちゃんに告白した。その度に古いレコード盤のように、この高校で彼氏を作るつもりがないと、八重ちゃんは繰り返していた。でも、八重ちゃんはずっと、なぜか僕のそばにいた。
「じゃあなんで、一緒にいてくれてたの?」
「いっしょにいたら楽しかったから」
「だったらなんで」
頬を膨らませて困ったような怒ったような顔をする。笑った顔よりも僕はこの表情が好きだったかもしれない。この顔が見たくて他愛も無いことで八重ちゃんを困らせたり、怒らせることも何度もあった。
「じゃあ、さいごにごほうび」
背伸びしながら僕の肩に両手をかけて目を閉じた。夢の中で、布団の中で、トイレで、風呂で、計算上少なくとも千回以上は想像し尽くした顔が、目の前で、僕がキスするのを待っている。高鳴る胸、なんて使い古された表現を一億回書いても足りないほど鼓動が無茶な速さで動いていた。
八重ちゃんの柔らかい腰に手のひらを置いて、折れそうなほど震える脚を大きく八の字に開いた。そうして頭の位置を低くしないとキスなんか出来ないほど身長差があることは想像の中で何度も経験していた。薄くはない口唇の上に、壊れ物を扱うようにそっと自分の口唇を重ね合わせる。あかねちゃんの口唇よりもずっと柔らかくて気持ちよくて、何か卑猥だった。三年間変わらない柑橘系の甘い匂い。あっという間にチンコが完全に勃起した。
路地の入り組んだ下町にありがちな三角形の空き地に、ベンチと滑り台とブランコとごみ箱を置いて無理矢理公園にしたような空間の隅っこで、目のふちにたまった涙がこぼれないように懸命にこらえる八重ちゃんを、僕はチンコのことなど構わず力いっぱい抱き締めた。つむじに頬擦りしたら一気に、いろいろな何かがこみ上げてくる。身長に見合わない少し大き目の胸が腹で潰れる感触が、体育祭の仮装行列の先頭で、ベージュの肩紐がはみ出てしまっている自由の女神の姿とか、校庭で屈伸する首元からのぞく胸元を思い出させた。
「は、はやしくん、痛い」
「あ、ごめん」
抱き締めた腕をほどいた途端、落ち着かせ先を失った僕の両手はズボンのポケットへ収まるしかなかった。
「八重ちゃん、なんで今頃になって」
「だってはやしくん、あかねちゃんと仲よかったじゃん」
「それはだって八重ちゃんが」
「だからって、あんなことしちゃうんだ」
何も答えられなかった。八重ちゃんが勝ち誇ったような顔をする。
「大学行ったら、またちがう子と仲よくするんだ」
学校の帰りにこの公園で、こんな風に話をするのもたぶん、きょうが最後だ。あした卒業したら八重ちゃんは仙台のおばあちゃんの家で浪人生活だって言ってた。両親が離婚するから、という理由を聞いたのはおととい、ここのブランコだった。
ベンチに座って僕を見上げ、あっかんべ、と舌を少し覗かせる。
泣くのはいまじゃないでしょ、そう言われたような気がして、ラーメン屋にでも行こうかと、垂れそうな鼻水を指でこすってごまかした。
いつものラーメン屋で塩ラーメンをふたつ頼んで、いつものようにあらかじめ麺を半分、僕の方に入れてもらう。
「こうやってたべるのも、きょうでさいごだね」
「そういうこと言うなよ、おれ泣いちゃうかもしれないよ」
「さっきないてたくせに、ほんとは」
「泣いてないよ、泣いてたのは八重ちゃんのほうだろ」
「ないてないもーん」
ラーメン屋のオヤジが、全くお前らは三年間進歩がねえ、とぶつぶつ言いながら餃子を一皿おまけしてくれた。就職したら代金返せよ。いただきまあす。何も言わずにカウンターにふたり並んでズルズルとラーメンをすする。こうやってよく天井から吊るされたテレビを観たもんだ。
「尚子は、いつ仙台に行くんだ?」
オヤジは八重ちゃんを本名で呼ぶ。一年の一学期、誰かが八重歯ちゃん、と言ったのがきっかけで、それからずっと僕は八重ちゃんと呼んでいた。
「たぶん、来週かな」
「おお、そうか、まあ頑張れよ」
「うん、ありがと」
最初に「八重歯ちゃん」というあだ名が生まれる瞬間、僕はそこにいた。入学直後で同級生の名前の記憶がまだ不確かな頃、誰が可愛いか、どのアイドルが好きかという他愛もない話をして誰かの机を囲んでいた。話が途切れ、何か言わなければと思わされたのでつい、背が低い八重歯の相原って子、と言ったのをその誰かが「ああ、あの八重歯ちゃんね、かわいいっていうかげっ歯類っぽい系の」とデリカシーのない声で受け答えた瞬間、「八重歯ちゃん」が僕の真後ろにいたのだ。
「なぁに、げっしるいって」
「えっ、ああ。相原さん」
セキグチという眼鏡が「こいつが相原さんのこと一番可愛いって言ってたよ」などと余計なことを言う。しどろもどろになりながら懸命に否定しているのがよっぽとおかしかったのか、
「おかしなひとぉ」
と一言残して教室を出て行った。
「終わったな」
セキグチが楽しそうに笑いやがった。どこかよそよそしい始業のメロディが鳴り出す。何度聞いてもこの音が、同じクラスの男子生徒たちが、僕の横を素っ気無くすり抜けていくようで、あまり居心地がよくない。連休に遊びに行く話をする集団が出来上がる頃になっても、この身の置き場のなさはずっと続いていた。下駄箱へ行くのも、ひとりが当たり前になり始めていた。
「やあ、おかしなひとだ」
革靴に履き替えていたら、頭にダンゴをふたつ乗せたような髪型の八重ちゃんが声をかけてきた。
「あのさぁ、そろそろおかしなひとって言うのやめようよ」
「あのさぁ、そろそろやえばちゃんっていうのやめようよ」
顔を見合わせて、二人で噴き出した。何がおかしかったのかは、よくわからなかった。久し振りに学校で笑ったような気がする。
「やえばあちゃん、っていわれてるみたいでやだの」
「わかったよ、じゃあ。八重ちゃんでいい? いまさら相原さんなんて呼びにくいし」
「うーん、いいか、やえちゃんでも」
ふたりで校門を並んで出て、特に何も疑うことなく一緒に電車に乗り、久しぶりにヒット曲の好き嫌いとか、駅前商店街のおでん屋のちくわぶがうまいとか、そんな軽い話を交わしながら同じ駅の改札を出た。会話が続く相手だったとは思わなかった。八重ちゃんも同じ意味のことを言いながら、定期入れを手提げかばんにしまった。
「あれ? そう言えば駅、同じなんだっけ?」
「そうだよ、しらなかったの?」
駅のそばの通称「三角公園」が、いま来た道を二股に分けるところで同時に立ち止まった。僕の家とは違う方角を指さした。ちいさな生き物を突付くような仕草だった。そうか、三中だったのか。
「ちょっとのどかわいた」
「そうだね」
「ぎゅうにゅうとかのみたくない?」
「のど渇いたら牛乳飲むの? なんかこどもみたい」
「べつにいいじゃない」
牛乳を飲むと背が伸びるんじゃなかったっけ? 八重ちゃんが頬を膨らませた。なにがいいたいの?
「ごめんごめん、そこの自販機でよければ、何かおごってあげるよ」
「じゃあ、おごられてあげる」
「はあ? おごられてあげる?」
僕のむっとした表情を静止するように、あたしウーロン茶がいいな、と僕の顔を見上げて二重のまぶたをパチクリさせた。
こんな風に屈託なく、自分が飲みたい物を聞かれもしないのに答えた八重ちゃんが、退屈しかかっていた学校のすみに咲いた小さな花のように見えた。絵には描けるが名前のわからない花だったけど。
ベンチの端と端に座って、黙って缶を握ったままブランコで遊ぶ子供を眺めていた。ふと横目で八重ちゃんの視線の先を追うと、綿あめのような雲が空に低くただよっていた。あれがたべたい、なんて言い出すんだろうか。
「えんぴつ口と鼻にはさんでるとき、なにかんがえてるの?」
空を見上げて八重ちゃんがつぶやいた。そんなところを見られているとは知らなかった。
「なんかさ、クラスの人とあんまし話が合わないなって」
「そっかぁ、あたしとおんなじだ」
学校のそばを流れる川の西と東で、中学で使っていた教科書から何から、かなり違うことを八重ちゃんが教えてくれた。話が合わないのは、おもに東側の人たちらしい。あとで名簿で数えたら、クラスの六割以上が東側で、僕と八重ちゃんが住む区の生徒は五人しかいなかった。
「でもさ、そんなに違うもんかな、話題とか、流行ってたものとか」
と言いながら、ちょっとした言い回しや、歌謡曲以外の音楽の流行が違っていたこととか、刑事と泥棒に分かれて遊ぶ集団鬼ごっこの呼び方が違うこととか、野球よりサッカーが盛んらしかったことに思い当たった。
「ね、ちがうのよ、こまかいことが」
「うーん、確かに。でも、なんでだろ」
「それがわかったら、いまここにいないね、あたしたち」
「そう、だね」
レモン色の手提げの持ち手に結ばれたチープな腕時計を見て、んしょ、と立ち上がり、空き缶を僕に差し出した。
「みたいテレビがあるから、そろそろかえるね」
「うん、じゃあ、あした」
「ウーロン茶ごちそさま。ばいばい」
リュックを背負い、お互いに違う出口へ向かった。振り返って手を振る。空き缶をふたつ持ったままだったことに歩いている途中で気付いたが、道端には捨てずに本棚に飾っておいた。寝る前に空き缶を手に取り、飲み口に残ったグロスの跡に気が付いた。ちょっと興奮した。
次の日、連休を間近に控えていたが席替えがあった。ホームルームで取り立ててすることがなかったので、先生の提案は全会一致で可決された。
黒板に机の数と同じだけ書いたマス目に、廊下側からA1、A2、と記号を振り、その間、生徒それぞれがいま座っている席の記号をノートの切れ端に書いて、教壇の大きな封筒に折り畳んで入れていった。
くじ引きのあと、ここは動物園かというような騒ぎの中、A7と書かれた紙切れをひらひらさせて、さっきまで僕の後ろに座っていたヒグチが近寄ってきた。黒板でその場所を確認して、廊下側一番後ろを見ると、その隣の席に八重ちゃんが座っていた。ヒグチは物言いたそうにニヤニヤと笑っている。
「千円でいいよ」
「は?」
「楽しい高校生活が千円で手に入るなんて安いもんじゃない?」
「い、いらねえよ」
「んじゃ別の八重歯ちゃんファンに売っちゃお」
「ちょっと待った」
一分後、僕は八重ちゃんの隣に座っていた。
「あ、おかしなひとがとなりか」
「それやめようよ、マジで」
「あっかんべ」
教室の窓の向こう側から太陽の光が差し込んできて、八重ちゃんだけが動いているように見えた。北向きだから日差しが入るはずはないのだが、校庭の植栽さえなにか意味ありげに見えた。ちょっと値切って七百円にしなくてもよかった。
黒板を見る振りして背中をやや廊下に向けて座っても、廊下側の一番後ろという位置からしてあまり不自然でなく、そうすることで一日中八重ちゃんを眺めて過ごせることに気付き、小踊りしそうになったのは連休が始まる前の日の午後だった。連休なんか要らない、おれの楽しみを返せ。カレンダーを見たらひどい飛び石連休だったので物騒なことを考えずに済んだ。だから、いま、こうして僕らは呼吸をしていられる。
「わざと教科書を忘れる作戦」を思いついた連休の谷間、その名案を思い出すたびに薄ら笑いを浮かべる僕は、家族全員に気味悪がられていた。年齢の近い妹の険悪な眼差しには殺意すら滲んでいる。妹よ、ならばおまえもあっかんべで男を悩殺してみろ。もちろん言わなかった。
どの授業でその作戦を実行に移すか。そのためだけに時間割を見つめ、授業内容と教師の顔を思い浮かべ、次の現代国語の時間に照準を定めた。いっそ現国の教科書など焼き捨ててしまおうかとも考えたが、それはやめて引き出しに戻しておいた。
待ち遠しい現国を控えた昼休み。わざとらしくリュックを漁っていたところへ、あまり話したことがなかったやつが声をかけて来た。
「ちょっといいかな」
「ああ、大丈夫だけど」
僕の隣の席が空いていることを確認して机に座り、オオタが小声で続けた。
「付き合ってんだろ? 相原と。みんな言ってんよ、手が早えって」
「は?」
「もう、チューぐらいした?」
「いやいやいや」
「まあまあ、落ち着け、どう言い訳しようが、そういう風にしか見えないぞ、お前ら」
顔が真っ赤になっていくのがわかる。耳が熱い。
「昼飯は?」
「まだだけど」
「相原と約束してないんだったら、ラーメン食いに行かね?」
「え? 外に出るのまずくない?」
「兄貴に聞いたんだけど、校庭の通用門、押せば開くんだってさ。ぱーっと行ってぱーっと帰ってくりゃ、誰も何も言わねえって先輩に聞いたし」
兄が卒業生だというオオタは色々な情報網を持っているらしい。そんなわけでこっそり学校を抜け出し、カウンターしかないラーメン屋でなかなか美味い大盛り味噌ラーメンを食い、チャイムの音に慌てて教室に駆け戻った。なぜ僕がオオタに声を掛けられたのかは、いまだによくわからない。でもこれがきっかけでレコードやカセットテープを貸し借りする仲になったのだから、まあいいとする。
「どこいってたの?」
「ん? ラーメン屋」
「あー、いけないんだぁ、不良だったんだ、はやしくん」
ふたたびリュックを覗き込む。悪魔の仕業でもない限り、現代国語の教科書は家の引き出しで僕を応援しているはずだ。深呼吸して八重ちゃんの顔を見る。
「教科書、忘れちゃった、現国の」
「日ごろのおこないがわるいからだよ」
「見せてくんない?」
「やーだ。不良はろうかにたってなさい」
「お願い!」
「ふーんだ、じぶんがわるいんでしょ」
教壇の前のオオタがこっちを見て、首元を手で仰いでアッツイアッツイと口を動かしている。僕の後ろの扉から現国教師が入ってきて、何やってんだと、拝み倒す僕の頭を軽く小突いた。
「きょ。教科書忘れました」
「じゃ、立ってろ」
「ほーら、不良はろうかがにあってるのよ」
「嘘だ、おまえ、見せてやれ」
神は実在した。しかも僕の目の前に降臨なされた。先生の自宅の方角には足を向けて寝ないことにしよう。卒業しても年賀状だけは毎年出そう。大人になったらお歳暮も。目の前の生ける救世主に僕は感謝してもしきれない。ヨカッタナ。オオタが口真似をした。前を向け、と顎をしゃくると、こめかみの横の二本指で了解ポーズを返してきた。椅子の向きを前に戻す。グギグギと音をさせて、机を引きずり八重ちゃんの机に付けて並べ、相原先生よろしくお願いします、と頭を下げた。
「よろしい、授業料はラーメンということでよろしいか?」
思わぬ返事に答えが詰る。だめだ、顔の筋肉がいうことを聞かない。喜悦にひきつる頬を精一杯制御して、よろしくお願いします、と言うのがやっとだった。
「ほら、相原林、始めるぞ」
驚いた。なんて奇麗な教科書なんだろう。折れ目はおろか汚れひとつない。どうやって持ち運べばこんな奇跡が起こるのだろうか。八重ちゃんがパラパラとページをめくり、机の境目の溝に教科書の背表紙をすべらせて置いた。
百円シャープを親指のまわりでくるくる回す。逆回転。落とす。他の生徒の音読が聞こえてくる。すでに突っ伏してる奴。ルーズリーフを一枚外して半分に折り、ありがとう、と書いて机の境目に置いた。ラーメンに関する他愛のないやりとりをしていたが、想定外の文字列に驚いてひざが机を蹴り上げてしまい、教師に注意された。
(あした連れてって)
ゆっくりと八重ちゃんの方へ首をひねる。わざと無視するように黒板を眺めている八重ちゃんの真剣な表情とラーメン屋が僕の頭の中ではどうしても結びつかない。
「聞いてるか林」
なぜか教室が笑いに包まれた。ルーズリーフを教科書の下に隠す。
「続き読め」
何も言わずに続きの場所を指差して、つん、と窓の方を向く。ポニーテールにした髪を結ぶゴムが剥き出しであまりかわいくなかったが、僕はもう、あしたのことで胸が破裂しそうだった。口がカサカサに渇き、どうにかこうにか読みきって、疲れ果てたように席につく。僕の机の真ん中に、裏返しのルーズリーフが戻されていた。
(ごくろう)
僕の方は一切見ない。ずっと前を向いたままだ。姿勢も表情もほとんど変わらない。僕も座り直して板書を書き留めることにした。
リュックのポケットに、入学式の日に入れておきながら、まだ使っていないギンガムチェックのバンダナがあったのを思い出した。授業が終わってから、まだ糊が効いていて型崩れしていないそれを八重ちゃんに手渡した。
「なに?」
「髪の毛束ねてるゴム、これで隠しなよ」
「え? リボン、ない?」
両手を頭の後ろに回して目をぱっちりと開いて、やーん、どうしよう、と立ち上がった。
「ないでしょ?」
「うそぉ、どこでおとしちゃったんだろう」
手提げを机の上に置いて中を探っていたが、やっぱりリボンはなかったらしく、困った顔をして口を尖らせた。あまりの愛らしさに呼吸が止まる。差し出した手が硬直してしまった。
「まままだ新品だからきれいだし、おおれ使わないから、気にしないで使って」
「なに、どもってるのよ」
椅子に座った八重ちゃんが、両手を膝の上で突っ張り肩をすぼめて僕を見上げている。僕をからかう新しい材料ができたとばかりに何かを見透かしたような薄笑いを浮かべていたが、いままで見たことのない表情だと気付いて、なにか得をしたような、どこか浮ついた気持ちになる。
「ほほら、遠慮すんなよ」
「じゃ、ちょっとかりるね」
丁寧にバンダナを開いて帯状に折り畳み、腕を上げて器用に髪を結んだ。節目がちな仕草が妙にエロティックだ。チンコが素直に反応し始めたので僕も椅子に座った。
「どう? ヘンじゃない?」
ちいさなあたまを左右に振り、馬のしっぽをひらひらさせた。シャンプーのさわやかな匂いが僕のまわりに漂う。思わず深呼吸してしまった。
「うん、ぜんぜん。かわいいよ」
「ありがと、あらってちゃんとかえすから」
返してくれるなら洗わないで欲しい。なんて言ったらきっと八重ちゃんは
「へんたいはやしさいてー」
とでも言うのだろう。八重ちゃんにならそんなことを言われてみたい。言われた自分がどんな顔をしているのか想像して真顔に戻る。
「あした、どうしたらいい?」
「お店、結構流行ってるから駅前に十一時半でいい?」
「うん、わかった」
きょうは次の英文法で終わりだ。あしたの朝飯は食わずに出かけよう、というか何を着ていけばいいんだ。もしかしてこれってデートか? いや、ラーメン屋はさすがにデートじゃないだろう。いつもと同じで、いいよな、たぶん。
「えぃらっしゃい」
ラーメン屋のオヤジの大きな出迎えの言葉に八重ちゃんがたじろいだ。正午前でもカウンターしかない店内は満席で、立って待っている作業服の三人組が煙草を吸っていた。
とんでもなくデカい中華鍋をとんでもなくデカいコンロにガコンガコンと叩きつけて、チャーハンを炒めるオヤジが下を向いたまま僕の名を呼んだ。
「なんだ、きょうも補講か?」
「きょうも、って、補講なんか受けたことないよ、昼メシ食いに来たの」
「となりのちっちゃなお嬢ちゃんは妹さんか?」
お嬢ちゃんじゃないもん。僕の顔を見上げて怒る。怒っているようには見えないけれど。頭をなでてなだめてみたい。よしよし。想像だけで身悶えする。
「同級生、相原さんっつーの」
すかさずオヤジが下の名前を聞く。スケベオヤジめ。八重ちゃんが答えたが、いっぺんに三杯のドンブリに麺を取り分けているオヤジは無反応だった。サラリーマンがひとり立ち上がって、店を出て行く。そこに作業員の一人が座って煙草をもみ消した。ラーメン大盛りみっつね。あいよお。
「なおこは、漢字でどう書くんだ?」
「ほら、向島のムコウに毛が生えたみたいなやつ」
「なんて言いかたするのよ、なおさらのなおとか言えばいいじゃん」
「あ、そうか、熟語が思い浮かばなかったから」
「やっぱり林は補講に行っとけ。で何にする?」
あたしが言ってもいい? いいよ。軽く深呼吸。塩ラーメンふたつください。あいよお、塩ふたつぅ。声には出さなかったが、口は「うわぁ」と言っていた。よく練られたいたずらが成功したこどもみたいに、うれしそうだ。
客の回転が早い。作業員は飛び飛びに三人とも座った。やがてふたつ席が空き、無言でズレてくれたおじさんのおかげで、僕たちはカウンターの中央に並んで座ることが出来た。ほどなく、塩ラーメンがカウンターの一段高くなったところに二杯並び、八重ちゃんの前に細心の注意を払ってドンブリを置いてあげた。
「ありがと」
ベキッと鈍い音がした。八重ちゃんは割り箸が上手に割れず、片方が頭でっかちになっていた。
「はやしくん」
「ん?」
「とっかえて」
よっぽど気に入らなかったのか、むくれている。
「八重ちゃん、弟いるでしょ?」
「なんでわかるの?」
「なんとなく。そうやって弟の箸取り上げてるんだろうなって」
「それじゃなんか、あたしがいじわるみたいじゃない」
きっと、弟くんも「仕方ねえ姉ちゃんだな」と笑って箸を取り替えてあげているんだろう。意地悪だなんて、たぶん思ってない。おれも思ってないよとまだ割っていない箸を差し出した。
ふたりで同時に頭をさげて、いただきますを言う。塩ラーメンは不思議な味がした。野菜が溶け込んだ甘さとしか表現できないが、醤油味や濃い味噌味に慣らされた舌には、この過不足のない風味が小さな衝撃だった。
「ね、おいしいでしょ?」
「うん、なんか新鮮」
美味いのは俺の腕のおかげだとオヤジが割り込む。塩ラーメンとかタンメンが一番難しいんだ、ごまかし効かねぇから。それ以来僕は初めて入るラーメン屋で頼むのは、塩かタンメンと決めている。オヤジの持論はたぶん正しい。塩のマズい店は何を食ってもダメだ。
半分ぐらい平らげたところで、僕たちは何の会話もしていないことにふと気付いた。まだ言うことを聞いていた頃の妹と、台所で昼メシを食っているような感じに似ていた。八重ちゃんは、ふうふう言いながら麺を二、三本ぐらいずつ、小さくて少しぽてっとしたくちびるに運んでいる。こうやって黙ってラーメンを食べているのが、すごく自然で楽しい。横顔に見とれていると、八重ちゃんがもごもごしながら振り向いた。
「おいしいね」
「う、うん」
「こんど、ひるやすみに来ようよ」
ズルズルと汁をすすりながら、うんうんと首を振る。スープがTシャツに飛び散ってきたが、塩ラーメンだからなのか、あまり目立たないので無視した。僕はあっという間に食べ終わってしまったが、八重ちゃんのドンブリには、まだ半分ぐらい残っていた。
「もう、おなかいっぱい」
「まだ半分ぐらいあるじゃん」
「ぜんぶたべたら、ふとるもん」
まあ、そんなお年頃なんだろう。まだ店には途切れずに客が入ってくる。水をおかわりして、二人分の勘定を済ませ、すでに汗ばむほどの陽気の、店の外へ出た。
「美味いもんだね、塩ラーメン」
「でしょ?」
ラーメンを食べている最中からかいていた大粒の汗が、後から後から吹き出てくる。まだ五月になったばかりなのに、セミでも鳴き出しそうな午後だった。
それから駅前の本屋に行って、八重ちゃんが赤川次郎を取ってくれと何度も言うので、好きなの? とたずねると、読んだことがなかったから、と小さな声で表紙をめくる。手が届かなかったからでしょ、とは言わなかった。
オンボロ校舎で唯一空調設備を備えた図書室で『火の鳥』第四巻「鳳凰編」を読んで、また気を紛らそうとしていた。第一巻を読んだのは去年の一学期の期末試験が終わった日、二巻は文化祭の前日。三巻目は十二月、八重ちゃんの誕生日だった。一年生のあいだに三回も同じせりふで振られるとは思ってもみなかった。
「おなじ学校で彼氏をつくりたくないの、なんとなく」
きょうも同じ言葉が返ってきて、いったい何のコントなんだと腹立たしいやら切ないやら、また、ひとけのない図書室の一番奥で暗くなるのを待っていた。
何度ページをめくっても、神様の絵や文字でさえも、六月の雨に湿った気持ちの上をつるつると滑っていく。何を読んでいるのかさっぱりわからないから、読み進めるのに時間が掛かる。当番で家庭科室をふたりで掃除させられていた、さっきのやりとりが頭の中でぐるぐるまわる。……あのさ。なぁに? なんで同じ学校じゃダメなの? それじゃさ、はやしくんにとって「かのじょ」ってなに? え? いまみたいにいっしょに帰ったり、おやすみの日に映画みたり、だけじゃだめなの?
彼女って、なんだろう? 身体の関係? そりゃ、八重ちゃんとセックスしたい。けど、そういうことじゃないような気もする。いまのつながりが、どこか不安定で落ちつかないのがいやなんだ。気持ちを支えたり、支えられたり、それが出来る特定の人が、八重ちゃんであって欲しいのだ。とは考えつかずに黙り込んでしまったのが悔やまれる。まだ十七ページしか読み進んでいなかった。背後で風鈴がそよ風に鳴るような、かすかで澄んだ声がする。
「林先輩」
「はい?」
「ここ、座ってもいいですか?」
最近オオタのところによく来てる、ちょっと馴れ馴れしい一年生だった。胸が大きいからやたら目立つ。顔じゃなくて胸しか覚えてなかった。
「他にもいっぱい空いてるよ」
「あの、そうじゃなくて」
ブラウスの下に小高く、薄いピンク色の下着が透けて見える。これでこないだまで中学生だった、というのがすごい。顔をよく見たら、どことなく犬に似ていた。
「座るのは構わないけど」
「五分でいいんです、ちょっと、話があって」
僕はいま、大好きなひとに振られたばっかりなんだ、名前も知らないキミの話を聞いてあげられるような状態じゃない。とは言えなかった。何の話? とさわやかな笑顔で答えたつもりだったが、目と、ほほの周りの筋肉が引きつった。前に座るのかと思ったら隣に座られた。
「相原先輩のことなんですけど」
なんてタイムリー。でもキミに答えるような話じゃない。答える義務もない。というか悲しみが止まらない。
「っつーか、ごめん、名前なんだっけ?」
「あ、ごめんなさい、スドウです、スドウアカネです。スドウは普通の須藤でアカネはひらがなです」
「そこまで聞いてないよ」
「あのぉ、太田先輩に、先輩と相原先輩のこと、聞いたんですけど」
ほっといてくれ。耳をふさぎたくなった。
「あたしじゃ、だめですか?」
ことばの真意がわからない。首をひねってそのことを無言で伝える。須藤さんが座り直して人懐っこい犬みたいな顔を接近させた。
「あたしが、彼女じゃ、だめですか?」
答えにくいことを言うとき、頭をかいてしまうのはなぜなんだろう。だめに決まってるだろ。じゃなくて。
「ごめん、いまとてもそんなことに答えられる心境じゃない」
左目のふちからぽろっと涙がこぼれ落ちた、ように見えた。ちょ、ちょっと待って、そんなスイッチ入れたみたいに急に泣けるもんなのか。
「ああ、あのさ、いきなりそんなこと言われても、答えようがないよ」
「んん、ごめんなさい」
こぼれた涙は床には落ちずにブラウスの大きな胸を濡らしていた。幸い図書室には誰もいない。『火の鳥』を閉じて立ち上がり、リュックを担いで、ちょっと、と手招きして図書室を出た。出たところで行き先に心当たりなんか無い。どこか人目のつかないところを探し歩いてたどり着いたのは体育館の裏だった。
「須藤、さん?」
僕は正直にさっきのことを全部話してしまった。知っての通りの片思いだけど全然脈が無いとも思えない、とか。でも手はつないだことはあるとか。場つなぎとは言え、余計なことまで話してしまった気がする。
「わかりました。でも、新入生歓迎会の時から、好きだったんです、林先輩のこと」
「ちょっと待ってよ、おれ須藤さんのことなんか何も知らないんだよ」
「じゃあ、知ってください、相原先輩のことが好きなままでも、いいから」
須藤さんはうつむいてしまった。
こんな自分でも、誰かが好きになってくれるのは、素直にうれしかった。でも、いま、そんなことを言われても、申し訳無いけどちょっと困る。せめて今日ぐらい、そっとしておいて欲しかった。あしたかあさってか、それか来週か来月にでもなれば、もうちょっとましな事を言ってあげられたかもしれないのに。
「だからさ、もう、泣かないでよ」
「あの、それじゃあ、来週、また放課後、図書室で、待っててもいいですか?」
「うーん、たぶん」
だんだん須藤さんが気になってきていたことに、僕は戸惑っていた。正確に言えば、その大きな胸に興味があっただけだが。八重ちゃんだって、たぶん胸は小さくはないけど、須藤さんのは、何と言うか、規格外な大きさだった。すごいな今の若い子は、と一個下の下級生に思ってしまった自分が情けない。
元気になった犬に引きずられるように、駅まで一緒に歩きながら話していて、新入生歓迎会の罰ゲームで女装させられた僕に、口紅を塗ったのが須藤さんだったことを聞かされた。まったく覚えがない。少し混雑し始めた下り電車に乗る須藤さんを見送って、階段の向こう側のプラットフォームへ走ってギリギリで駆け込み乗車に成功し、車内放送で注意された。
明日、八重ちゃんの顔を見るのが少しつらい。毎度僕を振ったことなんか気にもしていないのがなおさらだった。でも、だからこそ、また友達でいられるのだけど。雨が強く降り出して、車窓で弾ける音がした。もうしばらくは雨の日が続く季節なんだと思うと、気持ちまで湿ってしまいそうだった。
数日後、一時間目の授業が始まる前に、念のためオオタに須藤さんのクラスを聞いて、ほとんど使わずに本棚に飾ってあった新品同様の生物の参考書を譲りに行った。騒がしい教室の真ん中で、須藤さんが周囲に異様なほど短いスカートの女の子たちを数人立たせて座り、楽しそうに何かの替え歌を歌っていた。
入り口のそばで様子をうかがっていた僕に気付いた派手な顔の女の子が須藤さんの肩を強くはたく。ほら、来たよ先輩。黄色い声。見ている僕の方が恥ずかしくなるような、身体中で冷やかす彼女らに背中を押されて、僕の教室では見たこともない、しとやかな歩き方の須藤さんがゆっくり近付いてきた。
「あの、オオタに言われてた、参考書」
リュックの中で表紙が折れてしまった参考書を手渡す。さっきまで折れ目なんかなかったのに。
「あ、ありがとう、ございます」
もじもじするのは別にいいんだけど、胸の下で腕を組んで、その途方もないふくらみを強調しないで欲しい。昨日はすぐ寝ちゃったから、いつもよりちょっと敏感なんだよ、おれは。
短いスカートの取り巻きがヤバーイヤバーイと甲高い声を上げているのを聞いていられなくなり、それじゃ、とひとこと残して教室を後にした。須藤さんがいつまでも手を振って見送っている気がして、振り返ることはできなかった。
三時間目の日本史の授業が終わったら狼のように腹が減った。すばやく立ち上がって、梅雨の湿気で滑らない、建て付けの良くない扉と格闘しているところを八重ちゃんに呼び止められた。
「は、や、し、くん」
八重ちゃんのあたまの向こう、オオタの隣には早くも須藤さんが立っていた。それが何とも息苦しくて、用も無いのにトイレに逃げ込むつもりでいた。ねえねえ、と八重ちゃんが後を付いて来る。さすがにトイレに連れ込むわけにはいかないので階段の踊り場まで歩いた。
「あの一年生、ちょっとこわい」
「どしたの?」
「あたしのことみて、わらうの」
須藤さんが視界に入らないようにしていたからそんなことまったく気付かなかった。どう答えて良いやら。でも八重ちゃんは困った様子もない。
「はやしくんのこともみてたみたいだけど、きづいてた?」
だから逃げたんじゃないか。でもそんなことに気付いた八重ちゃんも大したものだけど。
「うん、なんとなく」
「ふぅん、なんとなくなの?」
手をうしろに組んで、僕を見上げてにやにやしている。僕に一票だけ入っていた学級委員の投票が八重ちゃんのしわざだったのがバレた時と同じ顔をしていた。
「はやしくん、かのじょがほしいんでしょ?」
こめかみの奥でカチンと音がした。自分の顔から笑みが揮発して無表情になり、見せたこともない目付きで八重ちゃんを見据えている自分を感じた。
「いまの言葉、すげえムカついた」
「あ。うそ、いまの」
「おれになら、何を言っても許されるとか、思ってない?」
「だから、うそなの、ごめん」
悔しくて叫び出しそうになった。冗談のつもりだったんだろうとは思う。僕をからかう軽口のレベルとしては普段並みだ。でも。
「わかった。もういい」
八重ちゃんの横を早足に通り過ぎ、一段抜かしで階段を駆け降りた。その日はひとことも誰とも口を聞かなかった。八重ちゃんとも目を合わせなかった。わだかまったものの処理に困って、自分でもどうして良いかわからなかった。
晩飯時も、並べた箸の向きが逆だと妹に噛み付いて呆れた顔をされたり、両手いっぱいの大量のシャンプーを使って髪を洗って身体中泡だらけになってみたり、新聞の白抜き見出し文字を色鉛筆でひとつずつ違う色で塗り潰してみたり、顔写真にヒゲを描いたり色を付けてみたり、意味のないことばかり繰り返していた。新聞紙が淡い色で賑やかになった。意味の解らない経済や政治の記事さえ、軽薄なファッション雑誌みたいに楽しそうだった。
土日は梅雨の中休みで青空も見られたが、天気予報が的中し、月曜日は本降りの雨だった。休みの日だというのに、八重ちゃんに電話する口実も見つからず、部屋に閉じこもってなぜか国語便覧の読破に挑戦し、見事に成功した。
六時間目、国木田独歩と何も見ずに答えたので教師に勉強でもしたのかと聞かれ、誰かが威勢よく吹き出した。それに釣られて教室の気圧が上がったのは悪い気分ではなかったが、そのあと、下駄箱で事案が発生した。
「あの、先輩? きょう、いっしょに帰りませんか?」
「方向逆じゃん」
「駅までで、いいですから」
八重ちゃんはもう帰ったっけ? というか、帰っていてほしい。理由はどうであれ、そんなところは見られたくない。
「ううん、まあ、いいよ、たぶん」
汗が吹き出てくる。耳とか背中とか手のひらとか。校門を出たところの米屋で待ってろと指示された。何を緊張しているんだろう。教室に誰もいないことを祈りながら、まるで空き巣か何かみたいにこそこそと折り畳み傘を取りに戻り、無事、誰にも会わずに米屋までたどり着いた。雨を避ける軒先で、なぜかバャリースを二本抱えて須藤さんが待っていた。
「あ、ごめん、待った?」
「ううん、ぜんぜん、いま来たばっかりです」
「そう、そりゃ、よかった」
「飲みます?」
「飲みます? って、二本あったら、いらないなんて言えないじゃん」
「それもそう、ですね」
屋号が裏返しに書かれたテント地のひさしのふちに、雨粒がテントと同じオレンジ色に染まってふくらんでいた。何を話せばよいのやら、さっぱりわからない。
「参考書、ありがとうございました、まだすっごくきれいなのに」
「成績の悪い証拠みたいで、はずかしかったんだけどさ」
「そんな」
話が続かない。まるで下手くそな卓球かテニスだ。サーブを返したら終わり。きょう僕は何回リターンエースを決めなければならないのだろう。
「あのですね、お礼にと思って、ケーキを作ってあるんです」
「お礼? なんの?」
「参考書の、ですけど」
「いいよ、そんなの、持っててもしょうがないものなんだし、もらってくれて助かってるぐらいなんだから」
「でも」
そしてサービスエースとリターンエースの応酬とほんの少しの下心の末、僕はちゃっかり誰もいない須藤さんの家にあがりこみ、手作りとは思えないほど美味いケーキを腹いっぱい食わされた。甘いものが嫌いになりそうなくらい。コーヒーカップを二つ乗せたらおしまいの、おもちゃみたいな小さく低いテーブルの横から、須藤さんの素足がにょっきりと伸びてきた。反射的に僕は視線を壁に貼られたポスターに向けて、モノクロの映画俳優と見つめ合っていた。
「林先輩」
「え、なに?」
名前を呼ばれて目を見返すと、そのまま黙って、下を向いてしまった。コーヒーカップにスプーンを入れてくるくる回しながら、ようやく聞こえるほどの小さな声で、須藤さんが途切れ途切れに話し出した。聞いておきたいことが、あるんです。
「相原先輩とは、まだ、何も、してない、ですよね?」
「なにをやぶからぼうに」
「ごめんなさい、でも、聞きたいんです」
「こないだも言ったけど、手をつないだだけだよ」
初めて八重ちゃんの手を握ったのは豊島園で次のアトラクションを探していた時だった。長袖一枚が心地よいと思えた秋の初め頃、いつもよりそばを歩く白い丸襟のブラウスにカーディガンを合わせた八重ちゃんと目が合い、勢いで、手、つないでもいい? と尋ねたら八重ちゃんが腕を絡ませてきたのだ。それじゃ手を繋げないじゃん、と言うのが精いっぱいだったが、組んでいない方の手で僕の左腕を曲げさせて、ほら、つなげるよ、と八重ちゃんの右の手のひらを僕の方に見せて少し鼻の穴を広げたような表情をする。思い切って指を互い違いに握り直したら、八重ちゃんは前を向いたまま軽く握り返してきた。そこから先の記憶は残念ながらほとんどない。乾いても湿ってもいない、自分の手と近い温度だったことは覚えている。
ぼんやりしていると、もう少しケーキを食べませんか、と言うみたいに、あたし、いいですよ、それ以上、いつでも、とさらりと言われ、その意味に気付くのに少し時間がかかった。もしかして? と思ったとたんに息が止まり、心の中で八重ちゃんが悪魔と戦争を始めた。
「占いが出来る友達に、一年生になってすぐ現れる先輩が初体験の相手だって言われて」
「ちょっと、そんなことで決めてもいいものなの?」
「でも、その子の占い、すごく当たるんです、怖いくらいに」
「だからって」
コーヒーカップから手を離した瞬間に、手首をふわっと掴まれた。ひんやりとした細い指だった。でもほんとに好きになっちゃったんです。引き寄せられた先はあの途方もない胸の上だった。大きな耳たぶの塊、いや、もっと柔らかかった。手のひらの向こうに、高さが十センチぐらいありそうなふたつのオムライスがあるみたいだった。
膝立ちになった須藤さんが僕の手を胸に抱きしめたまま、にじり寄る。もう、決めてたんです、それが、きょうだっただけだから。しがみ付かれて、バランスを失い、毛足の長いカーペットにもつれるように倒れこんだ。悪魔が八重ちゃんに目隠しをしている。僕の手を胸に触れさせたまま、口唇を重ね、身体の位置を少しずらして抱き締められた。
「せん、ぱい」
そのすぐ後に占いが的中してしまい、あかねちゃんはだれかれ構わず彼女を自称し始めた。残酷というかアホというか、僕にはそのつもりはなかったので、八重ちゃんと帰ろうと思っていたのだが、ここのところは怪我をして部活を休んでいるソフトボール部のシマモトさんと常に行動しているので、声をかけることもできずにいた。告白をかわされた時とはタイプの違う落ち込み方に、自分でも対処の方法がわからずにいた。
八重ちゃんはいつものレモン色の手提げをやめて、身体に不釣り合いなほど大きなリュックを背負うようになっていた。ギンガムチェックの布がやけに派手に見えて、廊下の向こうでそれを見つけるたび、僕は無意識に別の階段を選んだ。八重ちゃんの目を避けて毎日のようにあかねちゃんの部屋へ寄り道して、甘いものを少し食べて、貧しい会話のあと、性欲の発散ばかりしていた。
家でそれを思い出すとき、なぜか顔は八重ちゃんになっていて、あーあ、八重ちゃんに会いたいなぁ、などと罰当たりなことを考えて、またティッシュを消費するのだった。
化粧を覚えたあかねちゃんの部屋で一日中汗だくになっていた夏休みもあっという間に終わり、二学期になると、全校中でささやかれているのではないかと勘違いするほど、あかねちゃんがきれいになった、とあちらこちらで噂になっていた。シマモトさんのけがも回復し、部活動に復帰していた。
体育祭が始まる頃には、あかねちゃんは同級生だけでなく上級生からも注目の的になっていて、いつの間にか、いかにも遊び人風の三年生が「カレシ」を名乗っていた。僕が男前になったという種類の噂は、まったく聞こえてはこなかった。
そんな調子で、僕は数学の追試を受けて三年生になり、また八重ちゃんと同じクラスになった。甘いものが少し苦手になって、代わりに塩ラーメンばかり食べるようになった。
「餃子、冷めるぞ」
オヤジが卒業の前祝いにおまけしてくれた一皿は、少ししょっぱかった。
ラーメン屋を出て電車に乗り、三角公園に戻って記憶にも残らないような話をしていた。ベンチに座ってなんとなく空を見上げ、話が途切れがちになり、八重ちゃんが膝の手提げかばんをぎゅっと抱き締めた。
「男子ってさ、なんでかのじょはじぶんのもの、ってかおするんだろうね」
「みんながみんな、そうじゃないとは思うけど」
「とくにさ、一線をこえると、おおたくんみたいに、おまえ呼ばわりするし、みんなのまえでからださわるし」
「あいつは、元々そういうやつだよ」
地面を向いた僕の顔を、下から八重ちゃんが覗き込んだ。
「あたしにそうしなかった自信、ある?」
ある、と言いかけたが、やっぱり自信はなかった。虚勢を張っても、本当のことを言っても、八重ちゃんが彼女になるわけじゃない。ここまで瞬時に考えて、かなり正直なつもりの答えを返した。
「したかもしれない。でも、それはおれがしたいことじゃ、ない気がする」
「もしもね、どこかではやしくんの彼女になってたら、いままで、こんなになかよくなかったかもしれないよね、わかんないけど」
あかねちゃんとは、あの後なんとなく気まずくて、視界にも入らないようにしてきたから、ほとんど話をしていない。確かに八重ちゃんの言う通りなんだろう。これまでこうして、普通に、きわどい話も出来たのは、友達のままだったからなのかもしれない。
街灯が灯り始めた。八重ちゃんのことばにうなずいた僕の腕に細い腕を絡めて、八重ちゃんがささやいた。
「はやしくんがちがう学校だったらいいのにって、ずっと思ってた」
「え……。それって」
「ばか。ほんとばか」
八重ちゃんが選んだのは、壊れてしまうかもしれないものじゃなくて、終わらないかもしれないことだったのかもしれない。どっちがよかったのかなんてわからないけど、三年間の年表が、手のひらの透明なガラスケースの中にきれいなまま保存されていくような感じがした。
腕をほどいた八重ちゃんの手を握ったら、何だかわからないけど、ありがとう、と言いたくなった。目を閉じてあごを少しあげて、口唇をそっとすぼませた八重ちゃんの顔を、目に焼き付ける。小鳥みたいに、口唇を重ね合い、そして、ついうっかり、八重ちゃんの胸に手を伸ばしてしまった。ふわふわに泡立てた生クリームみたいな手触りは、かなりの奥行きを持っていた。途端に八重ちゃんが身体を離してぷうっと頬を膨らます。
「ほら、やっぱりおとこはえっちだ」
「ごめん、でも、おとこはエッチだよ、やっぱり」
はぁ、と八重ちゃんがため息をつく。あたしだって。うん。
「あたしだって、はやしくんだったらって、思ってたよ」
仔犬みたいに自然に、八重ちゃんが僕の胸にもぐりこんだ。ねえ、ほんとに、あたしなんかが好きだったの? うん、好きだった。ほんとに? 本当に。あたし、なまいきだし、かわいくないじゃん? そこが好きなんだってば。かっこつけちゃって。でもほんとだもん。うそつかない? おれ八重ちゃんに嘘ついたことない。あたしはいっぱいうそついてた。それもおれの好きな八重ちゃんだから。ばかだなあ、あたしなんかに。でもバカでよかったってほんとに思ってるよ。
「あした卒業したら、はやしくんは、もう同級生じゃないんだよね?」
「同窓生っていうのかな」
「はやく卒業しよ、高校なんか」
その意味をたずねようと開きかけた僕の口は、首に腕を巻き付けてきた八重ちゃんの口唇にすぐにふさがれていた。口唇を重ねたまま、バカ、と八重ちゃんが言ったみたいだった。
式典も、教室での最後の挨拶も終わり、色とりどりのペンでサイン帳に名前を書き込む儀式も、もうすぐ終わる。でも、まだだれも教室から出て行こうとしなかった。古びたこの教室を名残惜しむように、何をするでもなく、みんなが入れ替わり立ち話をしていた。
「はい、卒業祝い」
窓際の席で、誰かのサイン帳に自分の似顔絵を描いていると、八重ちゃんが手を伸ばして、平べったい紙包みを僕の顔の前に差し出した。
「いいの?」
「すなおにもらっておきなさい、後悔するよ」
「ありがとう、開けてもいい?」
「うん、いいよ、たぶん、すぐつかえるものだとおもう」
「んん、なんだろう」
丁寧にセロテープをはがし、包装紙の中から、白い紙箱を取り出した。ふたを取り、そこにあったものを見たとたん、胸の一番奥でドキンと大きな音がした。
「八重ちゃん、これ」
「ほら、おそろいだよ」
そう言って後ろを向いた八重ちゃんのポニーテールは、一年生の時、教科書忘れました作戦のあとにあげた、ギンガムチェックのバンダナで結ばれていた。箱の中身は、同じ柄のハンカチと、なくしたと思っていたシャーペンだった。僕の視界の下端だけ、プールを覗きこんでいるみたいに、ポニーテールがゆがんで見える。下を向いたらあっけなく世界が水没してしまいそうだった。
「ほら、ね、なみだをふくのに、すぐつかえるでしょ?」
「使えるわけ、ないだろ。こんなの」
騒がしい教室で、八重ちゃんの声だけが僕の耳に届いていた。使いなよ、ばかはやし。八重ちゃんがちいさな身体を震わせて、声を押し殺そうとする。気持ちのすごく深いところが熱くて、何かが、あふれ出してくる。言葉では足りないのがわかっているのに、僕の中の何かが表現されることを待ち望んでいるみたいだった。
何を言ったらいいのかわからない。わからないから、あいしてるよ、と言ってみた。それは生まれて初めて聞いた自分の、ほんとうの声のように聞こえた。
(了)