第9回高校生1000字小説バトル
Entry4
春になったなと感じるのは周囲に花粉症の人が目立つようになっ たからではなく、暖かい今日のような日、小春日和と云うのだろう か、そんな時に空気の波立ちを感じるから。自転車で空を切ると耳 元で透明な渦が巻く。向かってくる微風は僕の皮膚には風として認 識されず、まるで体温と同温の水の中を泳いでいるようだった。風 景を後ろに押し遣りながら僕は何処かを目指す。ペダルを扱ぐ脚は もう疲れの峠を越していた。 身体は脚を動かすことだけを命令されて、僕の思考はそれに逆ら うことは出来ない。そうぢゃなくても道を、道を、道を、何時の間 にかただ前に進むことしか考えないようになっていた。真っ直ぐに 延びる道は果ても無くこのまま僕を永遠の國へ誘う。見えない案内 役はしかし確実に先に立って僕を連れて行く。 道は切り崩した崖の中に在り、右側は下に向かって落ちる地面が 目も眩むような急勾配を見せて、左には斜め上に向かって切り立っ た崖、その上に生い茂る植林が覆い被さる勢いで僕を威圧する。酷 い坂道だった。ペダルが段々重くなる。肺の負担が通常以上になっ て呼吸が激しくなる。肺に吸い込む空気も温度は同じで、酸素を補 給した気分には全くなれなかった。依然として苦しい内臓を抱えた ままペダルを廻す。 僕は何故こんな場処を走るのだろう。一体何を求めて……。 突然、左手の崖の壁が消え失せて、視界が開ける。斜光が眸に突 き刺す。眩しい、けれど脚を止める訳にも行かず走り続ける。鼻腔 に微かに感じていた案内役の香が強くなる。 梅だ。 光に慣れて来た眸に映ったものは、見事に咲き誇った紅梅と白梅 だった。それぞれ一本ずつ隣り合って、拓けた丘の中心に枝を泳が せている。僕は碧空を背景に臨み、自転車を捨て引き寄せられるよ うに梅たちの間に立つ。左右を紅梅と白梅に抱えられて、身動きが 取れない。梅香が強く周りを囲み、僕はそのあまりにも強い香の所 為も有ってその場に立ち竦んでしまった。肺を圧迫する梅香に思わ ず噎せる。 「う……けほッ……、」 思わず倒れ込み胸の中に溜まった瘍りを吐き出すように大袈裟に 咳き込む。吐いた分量だけ更に濃い梅香を吸い込んで、身体の隅々 まで紅白梅に侵された気分になった。 ……宙に舞い散る花弁が無風のくせにしてひらひらと、地面に横 たわる僕の身体を覆い隠そうと落ちて来る。紅と白の花弁が入り乱 れ斑に幕を引く。 梅香に酔った僕は、今、碧空を抱いて微睡む。
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