17になった今でも、言えない言葉がある。 今でも鮮明に覚えている、五歳の秋。 その日あたしは、お気に入りの赤いワンピースに、キティちゃんの靴を履いてご機嫌だった。母はお化粧をしていて、とても綺麗だった。 だけど四つ上の兄はひどく機嫌が悪かった。いつも優しくて、遊んでくれる兄が何故だか冷たい。あたしは嫌われてしまったのか、不安になった。 「いくわよ」 どこへ行くかは知らない。だけど、こんなにおしゃれをさせてくれたのだから、遠くへ行くことに間違いはない。 そしてどうやら、父はいかないらしい。 幼かったあたしにはその深い意味まで理解することはできなかった。ただ、あんなに暖かかった家が、冷たい空気で覆われていて、居心地が悪かった。 早く出たいと思った。 だけど兄は動かなかった。「お父さんも一緒じゃなきゃいや」だと、玄関に座り込んでいた。それでも母は無理矢理腕をひっぱり、家から出た。兄はすがるように父のほうを振り返って見ていたが、父はただやさしく笑っているだけだった。あたしは何もわかっておらず、なんとも残酷な言葉を父に告げた。 「早く帰ってくるから待っててね」 父は、どう思ったのだろうか。傷ついたのだろうか。それとも、いなくなってせーせーしたと思われたのだろうか。 それでも、最後にみた父は、笑顔だったのは確かだ。 母と兄と三人で、タクシーに乗り込み、ついた先は一件の小さなアパートだった。訪れた部屋には、母と同い年ぐらいの男の人がいた。 ・・・・あぁ、そうか。 母は女の顔で笑っていた。それはとても幸せそうに、父との家では見せなかった顔で。 母はこの人が好きなのだろうか。この人は母を好きなのだろうか。 あたしが兄を好きなように。 幼稚園の先生に可愛い服を自慢したいように。 お化粧も、おしゃれも、この人のために。 兄は何も言わなかった。ただ部屋の隅で、小さくなって泣いていた。あたしはそんな兄を見た事がなくて、どうしていいかわからずに、抱きついていた。 母はきっとそんなことを知らない。 いや、知らせない。 兄がそう言うから。「お母さんを困らせちゃいけない」と言うから。 兄は母を愛しているようだから、あたしも言わない。 その後、母はその人と再婚し、生活をともにしている今でも、言えない言葉がある。 なんだか、兄を裏切っている気がして、言いたいのに 父へ放った言葉が、頭の中を巡って、苦しくて、少し怖くて 今でも、言えない この人を、「お父さん」とは
「死んでしまえばいいのに。そうじゃなきゃどこかへ捨ててきて。」 そろそろこの台詞も聞き飽きた。子供は泣きじゃくりながら、腕の中の仔猫を必死に守っている。大体妻は猫アレルギーの癖に、子供可愛さに先月息子が拾ってきた猫を買う事を許した。それなのにも関わらずアレルギーのため1ヶ月後にはノイローゼに近い状態になり今に至る。 「でもママかっていいっていったもん。」 息子は果敢に立ち向かっている。大抵この辺りになると、私が止めに入らなくてはならない。しかし無償に、息子が抱えている家庭円満を壊した物体が憎らしくなり、ふと呟いた。 「そうだな、浩二。殺せばいい。」 捨てる、という選択は私にとって存在しなかった。とにかくその柔らかい生き物が我が家を崩壊させる事にならなければ、どうでもよかった。 「浩二。ちょっとその猫をかしてみなさい。」 どうやらさっきの私の言葉は聞こえていなかったらしく、息子はまだ私が味方だと思っている。「すてないでね。」と念を押しながら、恐る恐る猫をこちらへやった。 私は猫の首をつまんで、よせばいいのに息子の目の前でその細い首を軽くひねった。息子はヒッと喉を鳴らし、ボロボロに泣きながら動かなくなった猫を抱き上げ、叫んだ。 「パパ、ひとごろし。ひとごろしになっちゃった。」 息子はまだ幼く、言葉をよく理解出来ていない。殺す、という行為は皆人殺しという言葉で収まると思っている。妻も流石にびっくりした様子で、「なんて事するの!」と叫んでいる。彼女も今になって自分の言っていた言葉の意味を理解したのだろう。 私は考えていた。これも当然動物虐待であり、そうすると私は犯罪者になってしまった事になる。むしろなんて事をしてしまったのだという思いよりも、何と脆弱ではかないのだろう、という冷静な見解の方が強かった。 殺すという行為が犯罪になるという意味では、これも息子の言う「ひとごろし」で間違ってはいないのかもしれない。決して動物は嫌いではない。今の私は、どうしてこんな事をしてしまったのかも忘れかけていた。人間は、こうしていつも都合よく罪の意識を忘れようとする。無理に自分に言い聞かせながら、幾度となく。 しかしこれは社会的に問題のある行為だから忘れるのは難しいかもなあ、と呑気に構えながら、ただただ呆然と上を見上げていた。 妻が青い顔をしている。息子はまだ猫を抱えていて離そうとしない。 私の耳には、まだ息子の「ひとごろし」という言葉が焼きついていて離れなかった。 ○作者附記:ここまで過激な内容になるはずではありませんでした。申し訳ありません。
よく冷えた、冬の夜だった。 付き合っていた彼女に突然フラれた、その帰り道だった。 寒いし、悔しいし、情けないしで下手すると涙まで出てきそうな俺の気分に反して、白く浮かぶ三日月はなんだか妙に綺麗で、無性に怒りがこみ上げてきた。 ――あんな月なんかおっこっちまえばいいんだ、馬鹿野郎! 俺は人さし指と親指を上げ、月に向かって腕を伸ばした。 BANG! ご ん 「痛っ……てー!」 何かが空から振ってきて、俺の頭に直撃した。 頭を押さえて思わず蹲った俺の目の前に、白い何かが転がっていた。 「なんだよ、これ……」 それはなんだか荒く削り出した大理石みたいなもので、そのごつごつした表面は所々きらきらと宝石でも埋まっているように光っていた。 その拳大の石を俺は掴み上げた。 「どっから降ってきたんだ?」 上の方をきょろきょろ見回してみる。 「……ま、いいか」 ともかくも俺はしゃがんだままの足が辛くなってきたので立ち上がった。 立ち上がって前を見ると――目の前に電線があった。 「え」 それは確かにいつもは頭上にあるはずの電線で。ついでに家の屋根も目の前だった。 俺は引きつる表情筋を意識しながら目線だけで恐る恐る足元を見た。 浮いていた。 「えっ?ちょっ、えっ……うわっ!」 パニクって訳が分からないままに、気付いたら腰を思いっきりぶつけて地面に転がっていた。 「痛ってぇ……」 慌てて起き上がったら顔の前にあの石が浮かんでいた。 「わ……っ!」 驚いて仰け反ると石は俺を馬鹿にするようにふよふよとそこを回って、そしてあっという間に空へ吸い込まれるように舞い上がって飛んで行ってしまった。 「あ…………」 俺は呆然として石が飛んで行った空を見上げた。 あれはいったい…… 「なん、だったんだ……」 ふと気付いて、さっき石を掴んでいた右手を見た。そこにはきらきら光る砂のようなものが張り付いて残っていた。 俺はそれを零さないように慎重に拳を握り、そのまま手をついて立ち上がろうとして、 「いっ……!」 腰に鈍い痛みが走って思わず尻餅をつき―― 月を見上げると、なんかバカみたいに綺麗だった。 そして、その手に残っていた砂は今も俺の部屋にある。 だから俺はあの事が夢なんかじゃなかったと断言できる。 俺は窓辺に置かれた瓶に目をやる。 薄暗い部屋の中、砂は月の光を浴びてふわふわきらきらと浮かんでいた。 俺はそれを見る度にあの晩の、月との喧嘩を思い出すのだ。 ――あの拳骨は、痛かった。
今の日本では、一つ屋根の下に違う血の流れている人がいるのはめずらしくはないのかもしれない。 それをどう受け止めているのかというのは別として。 もしそれで、似たもの同士が集まるのなら、俺のいるこの場所は本当に珍しくない集団なんだ。 「翔平、おはよう!」 「翔平、予習した?」 「翔平、CD借りてるよっ」 たった一ヶ月前までは俺は、親父と二人暮しだった。 不便だと思ったことはなかったし、どっちかというと親父は残業が多かった。 だから、一人暮らしみたいで気軽だった。 「父さんな、再婚したいんだが…」 まさかと思った。こんなくそ親父に。 相手は会社の同僚。残業の理由は仕事だけじゃなかったって訳だ。 再婚するもしないも親父の勝手だろ。反対はしない。 そういい残して自分の部屋に上がっていった。 後悔した。すげぇ後悔した。 何でこんなに後悔したのかはわかんねぇ。だけど、凄く後悔した。 次の日には籍を入れたらしい。よほど嬉しかったのか、それとも俺の気が変わらないうちにと思っているのか。 知らない間に作業は進んでいって、いつの間にか荷物まで運ばれてきていた。 女物の荷物が…二人分? 「翔平にはお姉さんができるんだ。言ってなかったか?」 そういえばそんなことも聞いた気がする。 でも、この歳で女兄弟、しかも姉さんができるとは思ってもいなかった。 「はじめまして!沙紀です。よろしくねっ」 はれた天気の中に、真っ黒な短めの髪の毛。 俺の義姉さんは言った。 わかんないことがあったら、翔平に何でも聞いてな。そんな、勝手な約束を親父は取り付けている。 部屋に着くまでは質問攻めだった。 家の構造から学校の事、部活は何に入っているか。 陸上部だと答えれば、前の高校では陸上をやっていたとか、冬は思い切り走れないとか。 ありがと、義姉さんはそういって、部屋に入っていった。 少しこげ臭い。 義母さんが晩御飯を作っているらしい。 「料理は苦手なんだけどね…だけど、翔平君の立派なお母さんになりたいの」 初めに会ったとき、そういうことを言っていた。 こんな事になるなら親父の再婚、素直に反対してればよかったとかもちょっと考えた。 朝までは。 朝練がある俺は、いつもより早めに起きていた。 そのときもうすでに、香ばしい匂いが漂っていた。 「早いんだね、ご飯とお弁当、作っておいたよ。」 きっとこいつも俺と同じだったんだ。 全部一人だったんだ。 もってく、そういうと俺は弁当を持って学校へ向かった。 気がきいている。 朝練が終わって、朝飯を食べる。 再婚してよかったかもな、初めて思えた。
雨が好きだと彼女は云う。 「おかしいよ」 僕が一度そう云ったとき、彼女はまるで絶望に瀕したかのような表情になった。御免、とそのときは直ぐに謝った。僕も本気で云ったわけじゃなく軽い冗談のつもりだった。そんなもので彼女を痛々しい表情にしたくなかった。 眼が覚めると朝方の五時だった。窓から見える空は未だ暗い蒼。ベッドの上でじっとしていると、雨が屋根を叩いている音がしているのに気付いた。ばたばたと、騒音ではない煩さが耳へ流れている。 彼女は今日僕の家に来るだろう。 「雨が好きなの」 はじめて彼女がひとりで僕の家に来たときも雨だった。 彼女は丈の長い白のワンピースを着ていた。裸足だった。頭の天辺から足の先まで全て濡れていた。 「雨に濡れた優しいアスファルトの感触が好きなの」 「存在を主張するアスファルトの香りも好き」 「しっとりとした草木のにおいも」 「色とりどりの傘も、全部」 彼女の指先から水が滴っていた。髪は頭蓋骨の形に沿ってぺたりと頭に張り付いていた。肌に密着した白い布は透けて彼女の腕が細いことを教えた。僕は彼女の胸元に眼が行ってしまう自分を必死で抑えた。ゆるやかな曲線を描く乳房のかたちが露わになっていた。彼女は下着を着けていなかった。彼女を抱きたい衝動に駆られた。しかしそれは出来なかった。彼女が薄布一枚で僕のもとへ来たのは僕を誘うためでも何でも無く、ただ全身で雨を浴びたかったのと僕に雨の素晴らしさを伝えたいからだった。 彼女は僕と付き合っているけれど、彼女は僕を愛してはいない。彼女が愛するのは雨だけだった。 「じゃあ、アスファルトや草木は、」 いつだったか、僕が訊ねると彼女は微笑んだ。 「雨に濡れたものは、雨に愛されたもの。私はそれが愛しいだけ」 雨に濡れていないとき、彼女はアスファルトにも草木にも恋慕の情を抱かない。 彼女の家に、傘を差さずに行こうか。 そんな考えが頭を過ぎった。雨に濡れた僕を彼女は愛してくれるだろうか。あの細い腕で、愚かな僕を抱き締めてくれるだろうか。そんなこと、有る筈が無い。 寝返りを打った。開けっ放しだった窓から雨のにおいがした。 「……」 白いシャツにジーンズだけの格好で外へ飛び出す。雨が僕の躯を打った。先程よりも雨脚は強くなっているようだ。 彼女は僕を抱き締めてはくれないだろう。だけど、少しだけでも愛してもらえたら。 嗚呼。 おかしいのは、僕だ。