第2回中高生3000字小説バトル
Entry2
三月、電灯に照らし出されたピアニストの五指は、黒鍵と白鍵の 間を自在に舞っていた。観客達は何も知るまい。演奏が終わると同 時に、怒涛のごとく降りしきる拍手と戯れる私の指は、もうその時、 すでに病に蝕まれていたとは。 「次の公演は、無理だ。」 私の主治医は、事も無げに言った。四月中旬になると、私の左腕 は肩から動かなくなってしまっていた。 「…何とか、成らないのか。」 「諦めるしかない。」 私は、私の中に巣くう音楽の虫がうずく音を、確かに聞き取った。 次の公演は、絶対に外すことができなかった。 「それは私にとっても同じだ。次の公演には、ドイツの名指揮者 がやってくる。左腕の不自由なピアニストと共に公演をさせればど うなる?私達楽団の立場は? 」 それを言われると、私は黙り込むしかなかった。 「他の楽団のピアニストに、代役を頼むしかない。」 私の団長は、そう言って私に背を向けた。黙って冷たくなった左 手を持ち上げた。重みがある。まるで、他人の腕だ。 「…私も、代役を探そう。」 団長は、その顔を幾分赤らめていた。 五月のつごもりを過ぎた。 「…だめだ。」 左腕の代役など、そうやすやすと見つかるものではない。師匠が 言っていた。“左腕は、お前の指揮者だ。”と。今度公演するショ パンのピアノ協奏曲は、右手と左手の釣り合いが完璧でなくては、 つたない音楽になってしまう。公演まであと半年足らず。それまで に私と完璧に合う指揮者は訪れるのだろうか。 冷たい雨が、太陽の光と共に激しく窓を叩いた。私が左腕を探し ていた、ある朝の事であった。部屋に色白の青年が入ってきた。 フリセック。彼は、黒く大きいピアノの前に慣れた動きで座ると、 鍵盤を強く弾いた。ショパンの「幻想即興曲」だ。 彼のピアノは、なんというか、女性的で、とても私の音楽とは合 いそうに無かった。しかし、彼の演奏を聞いている間に、もう期限 がすぐそこまで迫ってきていること、そして彼が隻腕である事を考 え、賭けをしてみようという気になった。そして、包帯を巻かれた 左腕がうずいた。どうやら彼は彼を認めたようだ。 「違うな…。」 一通り弾き終わった後の私の感想は、こうであった。たしかに、 彼は私に合わせて弾いてくれた。あとは、感性の問題だ。 「もう一度、弾きましょう。」 私達は、その日、夜遅くまで共にピアノを弾いていた。外の雨は、 次第に止む気配を見せていた。 フリセックは極端な才能を持ち合わせて生まれてきたようだ。一 周間の間に私の感性を覚えこんでしまった。これほどまでに才能の ある者が、何故、他人の片腕になろうとするのか、少し疑問に思う 事がしばしばあった。 八月、もっとも蒸し暑い季節だ。湿度によって、ピアノの響きが 少し変わってしまう時節でもある。 「…どうして、私の方腕になろうと? 」 フリセックは、私の突然の質問に驚きを隠せないようだった。 「フランツ、君が僕に音楽以外の言葉を喋ったのは初めてだよ。」 そう言えば、そうだったのかもしれない。 「じゃあ、聞くけど、君が左腕を探してまで、ピアノを弾きたか ったのは、どうしてだい? 」 少し考えさせられた。ドイツから世界的に有名な指揮者が来る、 私は、その大きな舞台に立ちたかったのだろうか。 最初は、そう思っていたが、次第にその答えに疑問を抱くように なっていた。どうも、違うような気がする。 彼は、私がこの楽団で弾きたかったからではないか、と言った。 そうか。どうやら私は、柄にも無くこの楽団に愛着を持っていたよ うだ。 彼は、いつも一冊の楽譜集を持ち歩いていた。私が練習に遅刻し たりすると、彼は決まってその楽譜集を開き、一人では不釣合いな ほど大きくて黒いピアノの前に座っている。 「次の公演が、最後なんですよ。」 フリセックは、色の白い両手で軽やかにピアノを弾きながら言っ た。 「もうすぐ、ピアノが弾けなくなるんです。」 彼はそのことについては黙っていたが、詳しい事は団長から聞い た。彼は当時、不治の病にかかっていたという。ピアノが弾けなく なった私と、もうすぐ命を落として弾けなくなる自分の姿とが重な ったのだろう。団長はそう言っていた。 私は、本棚から一冊の楽譜集を取り出し、席から立とうとする彼 の横顔に差し出した。若い頃よく使った、ショパンのピアノ曲集だ。 窓の外が、赤く鮮やかに染まった。九月。 第二楽章は、ロマンスという題名の通り、旋律の美しい楽章だ。 「…なあ、フリセック。」 ピアノを弾きながら喋った。四ヶ月の絶え間無い練習で、もうこ の楽章は指が覚えていた。 「私が左腕を探していた理由が、やっとわかった気がする。次の 公演、11月は、私が初めて舞台に上がった日だ…。」 声は変わらなかったが、フリセックの音が、少し小さくなった。 「…そうでしたか。」 風が吹いた。枝と枝の間から木の葉が舞い散った。 紅葉の季節が過ぎ、十月となった。公演まであと一ヶ月を切ると ころとなった。 「…出来た。」 「よかったですね。」 ほぼ満足がいく仕上がりだ。フリセックも、満足した様子であっ た。これで後はリハーサルに遅刻さえしなければ、万事うまく行く。 「あ、フランツさん。こっちです。」 遅刻した。舞台の上では既に私達以外の楽団員全員が定位置につ いていた。その中でセンターに位置するドイツの老人が、短い杖で 譜面台を叩く。“さあ、始めるぞ。”の合図だ。 長大、壮大なオーケストラの前奏が始まった。私達よりも多く合 同練習を積んだオーケストラの息は、まさにぴったりだった。哀愁 と甘美な響きが漂う前奏が、一時、凪のように静まると、突如その 中から原石のように鈍く光るピアノが現れる。 「あー。フルート。」 老人が譜面台を叩く。 「もう少し主張してくれ。」 私達は、気を取りなおして演奏を再開した。 鍵盤の上で、二人の指が舞った。私達二人の演奏は、観客を魅了 したのだろうか、わからない。ついに我々は、ピアノ協奏曲を完奏 した。 同時に、会場に拍手が湧き上がった。八ヶ月前の公演とは比べ物 にならないほどの、大きな声援が私達の胸に熱く美しく伝わった。 私とフリセックはピアノの前の小さな席から立ち上がり、右手で 握手を交わした。それから花束を受け取り、並んでお辞儀をした。 それから、まもなく、フリセックは息を引き取った。 「…フリセック。」 私は、彼の墓前に立っていた。足元には、小さな瓶に黄色い花が 数本添えられていた。すっかり動かなくなった私の左腕には、小さ い頃、よく使っていた楽譜集を挟んでいた。 「また、ピアノが弾けなくなってしまったよ。」 青い海から、青い風が吹いてきた。 「でも、そんな事は大して問題じゃあない。」 私の頬に、熱いものが伝った。吹く風に流され、何度も何度もこ ぼれおちた。 「ただ…。残念なのは、今、君のためにピアノを弾く事が出来な いって事だ。」 片腕で本を開き、一ページ目をめくった。そして、その中から数 枚の楽譜を破り取り、彼の目に見えるところに置いた。 フランツは立ち上がると、最後にこらえながら言った。 「今ごろ、気づいても遅いのかもしれないが、君と出会えて、本 当に良かったと思う。」 青い海の見える小さな墓碑の前では、何本かの黄色い花と、ショ パンの“別れの曲”が、いつまでも、風に乗って流れていた。
![]()
◆QBOOKSに掲載の記事・写真・作品・画像等の無断転載を禁止します。
◆投稿された各作品・画像等の著作権は、それぞれの作者に帰属します。出版権はQBOOKSのQ書房が優先するものとします。
◆リンク類は編集上予告なくはずす場合がありますのでご了承ください。