綾嶺はそこに小さな墓を作った。そこらに転がる石を積んだだけの墓に、摘んできた小さな白い花を添えると、とても明るい感じになった。緩やかに岩に当たって砕ける波も、明るい音をたてる。
そこは綾嶺が、この島で一番好きな所だ。太平洋のみが視界を覆う場所。しかし同時に危険な所でもある。大岩が雑然と一面に連なっている。しかしそこ自体は危険ではなく、そこまで下りてくるのが危ない。崖とまでは言わなくとも、急な傾斜を下らなければならない。人の手が一切加えられていないので、一般の観光客は滅多に来ない。親戚をこの島に持つ綾嶺は、幼い頃からよくこの島に来て、この岩場は兄・弘樹に教えてもらった。
「ユリ姉さん…」綾嶺は墓に手を置き呟いた。
水の弾ける音に驚いて、海の方を見た。岩だらけのここで、人が泳ぐわけがない。
イルカだ。
綾嶺は岩の上を跳ねて、海に近寄った。
一旦そのイルカの美しさに魅せられた。しばらく見ていると、その不思議さにはっとした。腹をこちらに向けたまま静止しているのに加え、それはイルカではなく水だったのだ。イルカの形をした水の塊だった。シャボン玉のように際どくふるえた表面は透け、向こうの海を映していた。
急に「イルカ」が動き出した。舞いながら上へと昇っていき、次に頭から海に突っ込んだ。水しぶきと一緒に、「イルカ」も破裂したようだ。水が綾嶺に降りかかる。目の前はまさに水玉模様。
海からは次々と新しい水玉が生まれ、綾嶺に引き寄せられるように集まっていく。
とうとう大きな水の球となり、綾嶺を包んだ。そこは不思議な世界だった。呼吸をしていないのに苦しくなく、むしろ心地良い安らぎがあった。
水球は綾嶺を包んだまま軽く宙に浮き、そして海の中に戻った。
海の中でも回りの水が体を包んでいるようで、泳がなくともそこに浮かんでいた。
「なんでこんな所に居るんだろ?」綾嶺は考えた。
するとどこからか声がした。辺りには誰もいないが……。
「私は君に呼ばれて来たんだよ」
声に出したつもりもないのに、綾嶺の疑問に答えているようだった。
「あなた、誰?」
何かを呼んだ覚えもないが、綾嶺にはこの様々な不思議が、むしろ楽しみとして感じられた。
「私? 波だよ、知ってるだろ。出前があれば(なくとも、だがね)どんな時代のどんな海にでも、走りに行く。大抵の場合は魚達が……」
綾嶺はうんうんと適当に相槌を打った。辺りの景色を見るのに忙しかったのだ。
長く揺らめく海藻に絡みつく魚達、氷の間を走るペンギン、悠々と流れる大きな体…首長竜(!)、……
由利は弘樹の恋人である。楽天家に近い程に明るい性格だが、弘樹と良く気が合い、綾嶺とも仲が良かった。
夏休みを利用し、3人はこの島に遊びに来た。由利には未知の島だ。それ故にはしゃぎすぎたというのもある。しかし、あの事故は不幸だった。
由利は、3人で岩場へ下りる途中──
……ふと目を前に向けると、距離を隔て、おそらく時をも隔てているだろうずっと遠くに、あの崖が見えた。
「……つまり私もなかな」
「ねえ」
「ん?」
「あそこまで連れていってくれる?」
「まあ、お望みとあらば」
波は少し怒った感じだった。綾嶺に大演説を邪魔されたのが原因らしい。
「話の続き、してくれる?」
辺りの景色が高速に過ぎ去る。
綾嶺は波になった。
「あの花かわいいわね」斜面を下りる途中でユリ姉さんが指差した花は、白く小さな花で、岩間に群生していた。
私は振り返って、その花を見た。綺麗な花だった。ユリ姉さんの少し後ろで、首をひねっている兄さんがおかしい。花の名前を思い出そうとしていたようだ。
「採ってあげるよ」私はほんの軽い気持ちで言った。手を伸ばせばすぐ届きそうだったから。
遠くからでも容易に、"彼ら"のしていることが見えた。綾嶺の中の記憶と、目から入ってくるものとが、重なっているのだ。
渦巻く祈り。間に合え!
突き進む海の風。走れ!
先刻より大きく見えるようになった崖が、綾嶺を押しとどめようとする。──だめ。ここで止まったら。
綾嶺は目を堅く瞑って、雑念を退けた。
「無理しないでよ」ユリ姉さんは、花に近づこうと足場を捜す私に、例の調子で明るく言った。「ヘーキヘーキィ」特に意識もせずそう答えた。ユリ姉さんは実はうれしそうに、私に場所を空けるため隣の岩に移った。
一瞬、ユリ姉さんの体がガクッと下がった。「由利!」私はとっさに目を瞑り、兄の声にすがるように顔を背けた。背後から、鈍い音と短い悲鳴が、波音の合間に聞こえた。
"由利"が花に指差すのが見える。
過去の"由利"を助ければ、それ以後の世界である現在の由利も助かるだろう、そんなことは綾嶺は全然考えていない。ただ過去の自分にだけは、悲しい思いをさせたくないだけだ。
"綾嶺"がもそもそと動き出すのが見えた。
もう間に合わない、綾嶺は目を閉じた。2度も、見たくない。
「目を瞑るな」波の声だ。今までのキャラとは打って変わり、妙に説得力のある声だった。
綾嶺は力強く目を瞑り、
「手を伸ばせ」
そして大きく見開いた。
"由利"は"綾嶺"に笑いかけ、隣の岩へと足を掛けた。
綾嶺は両手を高く挙げ、高波となって崖に迫る。力強く!
目を開け。手を伸ばせ。
バランスを崩した"由利"を見て"弘樹"が叫ぶ。「由利!」
目を開け!
手を伸ばせ!
間に合えーー!
"由利"はキャッと短い悲鳴を上げた。
──目を開け!
"綾嶺"は"由利"の恐怖に震えた顔を見た。
──手を伸ばせ!
"綾嶺"は岩に触れていた右手を素早く動かし、辛うじて"由利"のTシャツを掴んだ。慌てて左手で"由利"の左腕を捕らえる。いつの間にか"弘樹"が下に移っており、"由利"の体を支えた。
大波が"綾嶺達"のすぐ下で弾けた。
目を開けという声が頭の中に響き、綾嶺は目を開いた。青い空が見え、目の隅に岩壁が写った。横になっていた。頭が少し霞む。
「アヤネ!」
高い声がぼんやりと聞こえ、次第にはっきりしてきた耳が人の近づいてくる音を知らせた。首を向けると、果たして由利と弘樹がいた。
「ユリ姉さん、無事だったの?」
少し戸惑いを見せながら、綾嶺は声を出した。
「人の心配より、アヤネは大丈夫なの?」
「え?」
そういえば足が痛くて動かせない。
「アヤネ、私を助けようとして落ちちゃったのよ、覚えてない?」
両手を岩から放したせいで"自分"が落ちてしまったのを見た覚えがある。それとも、体験したのだっけ?
「しかしまあ、あんなに運良く大波が来るとはなあ!」
「あっ、波にのまれたのを……覚えてる」
「良かった、頭は平気みたいね」
「足を打ったみたい」
足の方に目を向けると、白いものが目に入った。あの白い花だ。そこには石が積み上げられ、小さな山を形成していた。白い花はその石の下敷きになっていた。たぶんそのおかげで、波にさらわれなかったのであろう。
綾嶺は一番損傷の少ない花びらを取って由利に手渡し、残った花は海へ投げ入れた。
由利は安堵とともに涙をこぼした。
運ばれていく花を、3人各の思いで見送った。
「……時を少し乱してしまったが、少女は別に気にしなかったのだろうよ。こんなに綺麗な花をくれたものな。…いや、話を戻そう、私はこの花のいい飾り場所を探しているのだが……」
波は至る所の住民相手に、そのちゃっかりした自慢話を続ける。