第6回中高生3000字小説バトル Entry6
彼と初めて会ったのは、大手企業に就職した私の、初仕事の日だった。
私はこの春、偏差値ばかり高くて大した授業を聴かせてくれない、それでも割と名の通った大学を結構な成績で卒業し、この就職難の時代(特に女子の就職率は最悪だ)にこれまた名の通った大企業に就職した。エリートコースまっしぐら、先行きは明るく開けている。
そしてまた彼も、同じような人種だった。
偏差値の高さと学費の高さでは日本随一の私立大学を出て就職し、私と同じ部署に配属された。ただ、これは後から知ったことだが、彼の父親はこの会社の幹部らしい。ゆくゆくは彼がそのポストを継ぎ、父親は名誉ナントカという名ばかりの地位について隠居するのだろう。そういう家庭に育った人だ。
彼は一目で上等のものだと分かる濃紺のスーツできっちりキメていて、細身の身体からはいかにもおぼっちゃま、という雰囲気を醸し出していた。そして、割と整ったまだ幼さの残る顔を引き締めて、新入社員の松沢宏樹です、よろしくお願いします、とマニュアル通りの自己紹介をした。
私はと言えば、いかにも安っぽいパンツスーツを着て、就職活動ですっかり板に付いた営業スマイルを顔に貼り付けて、やっぱりマニュアル通りの自己紹介をしたのだけれど。
ようやくまともな仕事(コピーでもお茶汲みでもなく、上司が会議で使う資料を作るのだ)をさせてもらえるようになった頃のことだ。突然彼が、話しかけてきた。
私は同期の女子社員ともまともに話したことがなかった。給湯室や女子トイレであげられる黄色い声の中に入っていく気は、さらさらない。それでもとりあえず、話しかけてくる人の相手はちゃんとしてる。お昼は自分で作った弁当を一人で食べた。入社直後に見つけた、割と見晴らしがよいのにほとんど人目につかない喫煙スペース。そこに彼は、ひょっこりと現れた。
「金井さんって、いつもここでお昼食べてるの?」
無邪気な顔で、そう訊いてくる。片手には会社の近くにある牛丼屋の袋。
私がええ、と笑顔で返事をすると、彼も相変わらずの笑顔で、一緒に食べよう、と向かいの椅子に腰かけた。私は何も言わなかったけれど、彼は特に了解の声を求める様子もない。私はやっぱり何も言わなかった。
入社してから2・3ヶ月、彼と私はそれなりに話をし、それなりにお互いの行動を見ていた。彼はいつも笑顔で、上司にも同僚にも好かれていた。飲み会の誘いにも大抵は笑顔でついて行ったし、どうしてもはずせない用事があって、と断るときも、本当に申し訳なさそうにしていた。私もとりあえず反感を買わない程度には付き合いをこなし、「物静かな人」という評価を与えられていた。
彼は私の向かいで牛丼のふたを開け、紅しょうがをたっぷりのせてかき込み始めた。割りばしの持ち方が少し変だ。その姿を眺めながら、訊いてみる。弁当はもう、食べ終わっていた。
「あなた、心から笑ったことある?」
彼はその声に顔を上げて、訊き返す。笑みの形に細められた瞳が茶色っぽい。
「君こそ。」
私はその返事に満足し、ほんの少し微笑んで、水筒からお茶をそそぐ。
「お茶、どうぞ。」
「ありがとう」
彼もまた、微笑んだ。
それから彼と、週に1・2回一緒にお昼を食べるようになった。それ以外の日、彼は上司や先輩、それに同期の人達と一緒に外に食べに行っている。仕事は二人とも順調で、酒の席で私たちは若手のホープとして上司に背中をばんばんたたかれたりした。
お昼を食べるとき、彼は私を下の名前で呼ぶようになった。私も彼を下の名前で呼んだ。
特にきっかけもなく、そうなった。
彼の声は不思議で、私の平凡な名前も彼が呼ぶとひどく美しく、官能的に響いた。
「麻衣に名前を呼ばれるとゾクゾクする」と、彼は言った。
「俺を見上げる目が挑発的で、いっつも困る」とも。
今日、彼は弁当屋のからあげ弁当を食べ、私はいつも通り自分で作った弁当を食べている。彼は自分の湯飲みを持ってきて、私の水筒のお茶をすすっている。
「麻衣ってさあ、」
彼の目は窓の外の高層ビル群に、私の視線は手元の書類に向いている。
「髪伸ばしたりしないの?」
私は視線も上げず、何も言わなかった。彼も窓の外を見やったまま、話し続ける。
「女の匂いが乏しいって言うのかな。パンツスーツで、ヒールのない靴履いて、仕事もばりばりやって。せっかくきれいな髪なのに、そんなに短くしてさ。」
そこでようやく顔を上げた私の目は、いつの間にか私に向けられていた彼の視線に射抜かれた。
「シーツの上に流れる髪を梳くの、好きなんだ。」
その瞳は茶色っぽくて、小さく灯がともったように光っていた。
その日、私たちは初めてキスをした。
深夜に一人、お湯につかって北風が通り過ぎていく音を聞いていた。
湯船から腕を出し、天井の電球の光を避けるように手を広げた。乳白色の心なしかとろりとしたお湯は、肌の上をするすると滑っていく。
その指先にはカシス色に濡れた爪が光って、私は苦々しく、口角をあげる。
・・・私もやっぱり、女なんだ。
木々の葉のこすれる音がざわざわと響いて、思わず自分の心の音のようだ、と思う。あの人を思うときの心の音のようだ、と。
そしてそんな言葉を思い浮かべた自分にまた、苦笑する。
ようやく肩につくほどの髪はまとめきれずに、後れ毛がお湯につかっていた。