| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 人を幸せにする歌姫の話。 | 水姫マリィ | 1295 |
| 2 | 幻惑のぬくもり | 沙門 タケル | 2999 |
| 3 | めぐる季節を越えて | 碧瑠 | 2957 |
| 4 | 世界はどこかでつながってる | 佐藤 愁 | 2654 |
| 5 | ネバーランド・ウィズ・・・who? | 芹沢 あおい | 2945 |
| 6 | 天使は笑わない | 七草 姫蝶 | 2375 |
| 7 | 眠れる者を呼び覚ました者 | 鄙川 七生 | 2972 |
| 8 | 日常の憂鬱 | 珠洲 聖 | 2496 |
| 9 | 海驢亭にようこそ | CLUB427 | 3000 |
| 10 | 星屑の丘 | 亜高 由芽 | 3000 |
| 11 | 静かな恋 | 新井一帆 | 1955 |
| 12 | Lolita complex | 関口葉月 | 2853 |
| 13 | 夢兎 | 櫻珂 | 2447 |
昔々、あるところに歌声で人を幸せにする力を持った歌姫がおりました。
彼女は大層優しく、自分がそんな力を持っているということを知ってからは、
世界のあちこちを唄いながら旅して周り、沢山の、本当に沢山の人を幸せにしてきました。
人を幸せにすると、その人の不幸が彼女自身に降りかかるということを知りながらも、
彼女は自分以外の人々の幸せを願って止みませんでした。
歌姫は、淡い栗色で少しウエーブのかかった柔らかい髪の毛を風に揺らせ、
たくさんの痛みを背負いながらも笑顔を忘れずに瞳を輝かせ、
ある町の大きな木の下で歌っていました。
歌姫の、良く通る透き通った声は風に乗って町じゅうを駆け巡り、
彼女の歌を聞いた町の人の心は幸せに包まれるのでした。
一方で、人々の不幸を吸い取った冷たい風は、歌姫の細くて小さな身体に
容赦なく吹き付け、彼女の体力を削っていくのです。
それなのに歌姫は顔色一つ変えず、両腕をいっぱいに空に向かって広げ、
木の葉のざわめきを背に受けて、一日中歌いつづけました。
夜になると、歌姫はぐったりと疲れ果ててしまいます。
彼女は生きるため、人々を幸せにする為に、一日どれほどの力を使っているのでしょうか・・・・。
それでも健気に一日一日を強く生きる健気な歌姫の姿を、
空のうえから神様が密かに見つめておられました。
山の向こうに朝日が昇り、また朝がやってきました。
歌姫はまた、重い身体を起き上がらせ、新しい町へ歩き出しました。
楽しそうに、鼻歌を歌いながら。
だけど歌姫の細い肩には今まで幸せにした人々の苦しみが重くのしかかっているのです。
それなのに歌姫は 笑って・・・・
倒れたそのときも、歌姫の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいました。
哀しいくらい、微かに歌姫の唇は唄いなれた優しいメロディを奏でました。
最後の力を振り絞って、歌姫は幸せを振りまきました。
世界中の人が空の彼方から聞こえるメロディに耳を傾け、涙し、笑いあいました。
歌姫は本当に沢山の人を幸せにして、瞳を閉じました。
その瞳が開くことはもうありませんでした。
空の上から歌姫のそんな哀しい姿を見ていた神様は、
優しい歌姫に最高のプレゼントを贈りました。
動かなくなった歌姫の体が光に溢れ、きらきらと輝いて散り散りになって空に昇っていったかと思うと、
そこに天使になった歌姫の姿が現れたのです。
その顔は相変わらずの笑顔に満ち溢れ、やさしい瞳も、その歌声さえ変わらず、
歌姫は天使になったのです。
ただ、一つだけ変わったことは、
歌姫がどんなに人を幸せにしても自分が不幸になることがなくなったんです。
歌姫は驚き、空を見上げてにっこりと笑い、唄いながら空へ上がっていきました。
その瞬間。
世界中で起きていた戦争も貧しさも全てが消えました。
虐げられていた動物がみな解放されました。
この世に生きとし生けるもの全てが平等に笑える世界になったのです。
今も歌姫は幸せの天使としてこの世界を見守っています。
でも少しだけのどの調子を崩して、幸せを播くことが出来ないまま泣く泣く見守っています。
きっと、また歌姫は帰ってきて、この世界を平和にしてくれるだろうって・・・・
私は想います。
死者を見送る心持にしても、彼のそれはあまりに殺伐に過ぎていた。その惨憺たる心中は、現世の淵から垣間見た死者を迎える世をそのまま反映させているようでもあった。
或いは彼には、彼自身の生ける肉に喰らいつき貪らんとする闇が視えていたのかもしれない。
彼が血の通わない凍えた頬に指を触れた瞬間から、貪欲なそれは彼をも自身に埋めようとしたのかもしれなかった。
――どうして。
進歩の無い疑問は胸に澱み、彼を鬱へと追い詰める。
進歩が無くても無意味な問いであるわけではない。それだから答えを求めて彼は呻き続けるのだ。
――どうして。
空回りするだけとは知りながら、尚も彼は自問する。
あれからずっと変わらぬ問いを。
あれからずっと変わらぬ記憶の傷跡に。
――どうして、あいつが死ななければならなかった?
自分がこうして生きていながら――と、彼は口惜しきにも似た感情で呟き続ける。
――このまま、一体どうして生きて行けというのだろう……。
彼は一人暮らしの殺風景な部屋を見回した。
――この空間を、永遠に守り続けろというのか。この沈黙を、一生保ち続けろというのか。
人を愛するも愛さぬも彼の勝手である。だが、彼は自ら望んで孤独を選んだ。それが耐え難いものとは知りながら、それでも未来永劫この次元から切り離され、永久に時間の中に閉ざされた人に比べれば軽いものだと思う。
彼は別に、亡き人に固執しているつもりは無い。
ただ、失った人の存在の大きさが身に迫り、今は動きようが無いだけだ。
友人が亡くなったのは数日前のこと。
――まだ、信じられない。
儀礼的な弔いを済ませてみても、およそ悲しみなどという感情が湧き上がって来はしない。
悲しむには、あまりに――あまりに衝撃が大きすぎた。
一瞬のうちに感情そのものを通り越して、虚無が襲い掛かる。
隙だらけの心に、死の幻はそっと滑り込む……。
生きる価値とは何だろう。
唐突に、いつか友人に語りかけた言葉を思い出す。
その時はまだ、こんなことになるなんて夢にも思わなかった――
『馬鹿。考えるだけ無駄さ』
友人は言葉こそふざけていたが、口調は真剣そのものだった。
『お前はいいな。無駄を考えるほどの余裕があって。こっちは仕事仕事で、 それも生きるためで、いつの間にか刷り込まれちまったみたいだ』
彼には友人の言う意味が、よく掴めなかった。
確かに自分は親の資財を食い潰すばかりで、暇である。だが、考える意味の無いことではない。仕事で疲れたといっている友人に、『疲れるなら、やめてみれば』と思ったことがある。疑問なんて、精神の解れた所からいくらでも糸口を見つけることができるのだ。解れるに任せておいて、それをしない友人の方が怠慢であるような気さえした。
疲労を素直に受け止め、単に日々を消化してゆくだけの人々の蠢動を、彼は初めて馬鹿らしいと感じた。
……あの時友人を労ってやれず意見ばかりしていた自分を、彼は愚かしいと思った。
今までこんな気持ちになったことはない。自暴自棄にだけは走るまいと思っていたのに、友人との時間を思い返せば後悔ばかりが過ぎる。
生きるって、何だろう?……そんなことはどうでもいい。
――友人にとって、生きるとは、どんな歓びだったのか。
それが知りたくなっても、もう遅い。
つらつらと物を思う内、彼は急に喉の渇きを覚えた。
友人が死して、自分が生理的欲求を覚えるという現実。
生きているんだ、と思う――凄まじく暗澹たる痛みが頭に響く。
生きること――
彼はそれを、詰め込むことであると常々感じていた。
生まれてから、白紙の状態から、欲求を知り感情を覚え表情を学び知識を付け――計り知れない。
勿論、生きただけの時間も記憶となって蓄積される。
新しい時間を積む度、古い時間は褪せてゆく――
悲しくともそれが当然であることは否めない。
こうしているうちにも時間は流れるのだ。彼は胸に手を置く。鼓動が小気味良く打ち続ける。
鼓動とは嘲笑であろうか――こうして鬱の内にいたずらに時間を見送った身にとって。
生きているんだよ、と。人生をどんなに否定しても逆らっても、俺が打ち続ける限り、あんたは確かに生きているんだよ、と。思い煩い、疎ましくなる思いも、俺が打ち続けるから生まれて来るんだ。全ての根源は、間断なく脈打つ俺にある。
あんたが煩うものは、俗世をいくら探しても見つからないもの。
袂の、もっと奥を探っても転がり出ては来ないもの。
……自己を嫌悪する自分に嫌気が差して、一時的に「俗世」なんて言葉を使って逃げているだけではないか。
――友人の死に触発されたとはいえ、何故こんなことを思うのだろう。
だんだん苦しくなってくる。
生そのものが厭わしく思えてくる。
……死を理解していない故に死に憧憬を募らせるのを好いこととは言わない。だが、それをいうなら死を解する者などいるわけが無い。
つまりは誰に咎められることでもない。
彼は別に、死にたくなったわけではない。
だが、以前には死を恐怖と感じる心が無かった。それだけ、彼は取り立てて死が生に勝る可能性などに思考の探りも介入させなかった。
今は怖い。
殺風景な部屋に訪れて来る者が無くなったことが怖い。
このまま孤独に生きてゆこうとは思うが、誰にも会えなくなったら怖い、と思う。
身勝手な話だ。だが、生死の歴然とした差は何よりそこにあるのではないか。
生なら、孤独も身勝手のうちで済ませられる。
死は束縛だ。
だが、死に臆病になることは、それだけ死への意識が芽生えてきているということに他ならない。これが何かのきっかけで転じ、どう変化をきたすのか、ありようによっては死を甘く想う日もいつか必ず来るだろう。
いつかのままでいられなくなった事が、何より彼の恐怖だった――自分が解らない。
彼は家を抜け出した。このままでは確実に息が詰まる。
考えをどこかで散らしてきたい。
当ても無く足に任せてうろついて、ふと彼は道端のダンボールに気付いた。――何だろう?
遠目でも分かった。中に蠢く、真っ黒な物体。
生き物でも捨てたのだろうか?
ひょいと覗き込むと、案の定そこには黒い毛並みの子猫がうずくまって震えていた。
彼は腕を差し伸べ、黒い子猫を掌ですっぽり包み込んだ。弾力のある皮膚と確かな温かみが、抵抗も無く掌中に収まる。
彼はやや荒っぽく子猫を抱き上げた。
子猫は依然として声も上げず、爪も立てない。衰弱しきっているのだろうか。
――この子猫……放っておいたら確実に死ぬかな。
彼はふっとそう思い、子猫の顔を眺めた。子猫は決して目を合わせようとはしなかった。
体にはもう力が入らないのか、それでも意志だけは人間に身を許すまいとしているように。
捨てられて、死ぬ間際で、でも媚を売らない……。
死というものを、この子猫は知っているのだろうか。
――……。
彼はそっと、子猫をダンボールに戻した。
生きるとはなんて、考えるだけ無駄なこと。
友人の言葉がはっきり蘇った。
生がどうでもいいなら、死を意識もすまい。
だが、生死の意味は、そのものの対極からはまた離れたところにはあるまいか。
投げやりに死ぬのも、妥協して生きるのも嫌なら。
どうすればいい?
彼はそのままその場を立ち去った。
僕はずっと、ここで一人だった…。狭くて、透明な壁で外には出られない場所。僕の住処。下はふかふかした、木のようなものを細かくしたもので埋め尽くされている。それを掘り返すと、やっぱり透明な壁。上には、青い空の代わりに、平らな木と、白く光る丸いものが浮かんでいる。この中にあるのは、水が出てくる、銀色の細長いもの。それに、その中でいくら走っても、ぜんぜん進まない場所。そこがこの中で唯一、思いっきりは走れる場所だ。
透明な壁の向こうに見えるもの。“ご主人様”の部屋。見たこともない、へんてこなものばかりおいてある。ご主人様は、毛の生えていない動物。人間。人間は、僕たち動物をいじめる。隔離して、自由を奪って…。でも、ご主人様は大好き。ご主人様の部屋がオレンジ色に染まるころ、ご主人様は僕の住処に、硬い、野菜の味がする食べ物を入れてくれる。何日かに一度は、僕の大好きな向日葵の種も入れてくれる。だから、ご主人様は大好き。
それでも、ご主人様はいつもそばにいてくれるわけじゃない。朝になると、黒い箱を背負って、どこかに出かけてしまう。帰ってくるのは、お昼を過ぎるころ。寂しい。この狭い住処の中で、何もすることがなく、ただ時間を消費している。なんのために、僕はここにいるのだろう?
でも、ここでいくつかの季節を過ごしたとき、ある日突然、僕の住処に新しい仲間が加わった。僕と同じ動物。女の子。僕より一回り大きい。最初ぎこちなかった僕たちも、すぐに仲良しになった。ご主人様は、その女の子を、“スズ”と呼んでいた。それが彼女の名前だと、すぐにわかった。それから、ご主人様は僕のことを“シロ”と呼ぶ。だから、それが僕の名前。
スズが来てから、毎日が楽しくなった。孤独じゃなくなった。暖かい春には、おっかけっこをして遊んだ。一人ではできなかった遊びだ。暑い夏には、2人でぐだ〜ってしていた。僕たちは、夏は嫌いだ。
食欲の秋、今日も向日葵の種はおいしい。太りすぎないよう、気をつけなきゃ。
寒い冬、スズと体を寄せ合う。2人だと、とても暖かい。
こうして、スズといくつかの季節を過ごしたある日、スズに異変が起こった。おなかが大きくなって、ちょっと機嫌が悪い。スズは身篭ったのだ。うれしかった。これでまたここは楽しくなる。僕と、スズと、子供達。ずっとずっと、一緒。楽しみだ。早くみたいな、僕たちの子供。
やがて、スズはたくさんの赤ちゃんを産んだ。毛生えていないけど、僕たちにそっくり。ご主人様も、名前を付けるのに苦労するだろうな。子供たちもすぐに毛が生えて、大きくなった。住処はずいぶんと狭くなったけど、その分前よりもずっと、賑やかになった。温もりと安らぎがあって、とても楽しい毎日。でも、子供たちが生まれてまもなく、ご主人様は子供たちを住処から取り出した。ご主人様は、たまに僕やスズを住処から出しては、撫でたり、顔を近づけて眺めたりする。だから、子供たちもなでなでされているのかと思った。でも、いくら経っても、子供たちは住処に戻ってこなかった…。
僕とスズは泣いた。なんで僕たちの子供を連れていっちゃうの?返して、返してよ。泣いて泣いて、泣きつかれて、ようやく、僕は子供たちが二度と帰ってこないことを知った。そして、何で僕に親がいないのか、わかった気がした…。
僕たちは、また2人きりになってしまった。でも、前よりもずっと寂しい。スズは子供たちがいなくなってしまったショックで、攻撃的になってしまった。僕も、スズに引っ掻かれてしまった。ごめんね、スズ。僕には何もできなくて…。非力な自分が、くやしかった。
2人きりの季節は巡り、またしてもスズは身篭った。僕たちは心から喜んだ。今度こそ、幸せになれる。今度こそ、みんなで楽しく暮らしていける。今度こそ…。僕は無事に子供たちが生まれることを祈った。たとえ僕がどうなっても、スズと、子供たちは幸せであってほしい。それが、僕の生まれてきた意味だから…。だから…。
ご主人様の部屋に、たくさんの人間がやってきた。背中には黒い箱。たぶん、ご主人様の友達。ご主人様と友達は、楽しくおしゃべりをしていた。ふと、ご主人様が立ち上がって、部屋を出て行った。ご主人様は“トイレ”といっていた。どういう意味だろう?
ご主人様がいなくなっている間、ご主人様の友達の注意は、僕たちに向けられた。一人の人間が、住処に手を伸ばし、スズを掴もうとしていた。スズは気が立っていた。おなかの赤ちゃんを守るため、スズはその手に噛み付いた。人間は、びっくりして手を引いた。でも、すぐに怒って、スズを摘み上げた。やめて…やめてよ!僕はスズが連れて行かれないよう、スズにしがみついた。でも、僕は本当に無力で、ちっぽけで…。だから、大好きな人を守れなかった。
それから、スズに何があったのかはわからない。ご主人様が部屋に入ってきて、すぐに怒り出して、友達は慌てて部屋を出て行った。
友達が去ったあと、ご主人様は泣いていた。ボロボロと大粒の涙をこぼしていた。手のひらに、動かなくなったスズを乗せて…。ご主人様が泣いていた。だから、僕にもわかった。スズがもう、ここには帰ってこないことを…。
どうして?僕たちが何をしたの?ただスズは、大切な赤ちゃん達を守っただけなのに。どうしてスズを…。どうして僕の愛する人を奪うの?返して…お願い。スズを…愛する人を…。僕はどうなってもいい。だから…せめて、スズだけは…。
僕はスズの名を叫びつづけた。とめどなく涙があふれた。のどが裂けそうになっても、僕は叫んだ。それでも、僕の声はこの狭い空間に呑まれ、誰の耳に入ることもなく消えていった。
僕は、とうとう独りぼっちになってしまった。何もかもを、失った。そして、一人きりの季節が流れた。何もすることがなく、無常に時が流れて、そして…。
僕には死期が近づいていた。ボロボロになった体を引きずって、僕は天を仰いだ。そこに見えるのは、やっぱり平らな木。
まぶたが重くなってきた。意識が朦朧とする。体が動かない。とうとう、僕の体は倒れてしまった。もう、1歩も動くことができない。いろんな思い出が、頭の中を駆け巡る。ご主人様…大好きだった向日葵の種…すぐに連れて行かれてしまった、大切な子供達…僕にとって、かけがえのない存在…愛する人…スズ。
僕は、何のために生まれてきたのだろう…?この狭い空間で、すべてを失って…。何も残すことができずに…。僕は、まぶたを閉じた。もう、ここにいても仕方がない。僕はもう、疲れてしまった…。
もう一度だけ、まぶたを開けた。そこに見える、懐かしい影。スズ…。スズ、お迎えにきてくれたんだね?涙で目が霞んだ。苦しいからじゃない、うれしいからだ。僕は、知っていた。次にまぶたを閉じるとき、そこに広がる世界。どこまでも続く大地、青い空。向日葵畑を、僕と、スズと、子供たちが駆け抜ける。さえぎるものは何もなく、自由に、のんびりと。大切な存在に囲まれて、ずっと幸せに。
愛しているよ、スズ。だから、もう離さない。ずっと、ずっと、一緒だよ。ずぅっと…。
目の前のスズは、相変わらず暖かい笑顔で僕を見守ってくれていた。それじゃあ、そろそろいこうか、スズ。僕は、ゆっくりと、まぶたを閉じた…。
……。
修一と、ケンカした。
なんか久し振り。っていうか、最近人と馴れ合ってるだけで、意見が食い違ったりとか、口調を荒げたりとかなかったからな。だから、余計に疲れるんだよ。
待ち合わせに二十分遅れたくらいであそこまで言うか? 普通。
あー、ムカツクな!
だいたい修一と俺は、小学校から高校までずっと一緒で家も近くて、お互いのことよく知ってるはずなんだ。確かに俺はルーズで時間に遅れるなんて日常茶飯事だけど、そんなこと修一は知ってる。親友だったら、友達だったら、わかってるんだから、軽く愚痴言う程度でいいだろうに、あそこまで言うことないだろ。本当。
おかげで今日俺は、修一と映画の予定だったけど、出会った途端あんなこと言われたものだから、俺はふてくされて背を向けた。後ろから修一の呼ぶ声が聞こえたけれど、無視してやった。
修一は頑固すぎる。
確かに今日の二十分は遅れすぎたかもしれないけど、あいつ頭いいんだからそのくらい予定内に入れとくべきだろ。それに今回だけじゃなく、何かにつけて遅い、遅いって。二分や三分でもそう皮肉ってくる時があるから、そういう日は俺としてはめっちゃディープだ。人間は機械じゃないんだから。そのくらい遅れたっていいだろう。このせちがらい世の中で、時間に囚われず俺みたく奔放に生きるのは大切だぜ? きっと修一は一分一秒を重んじる評判の悪い上司になるんだ。きっとそうだ。
俺は違う。
流行の最先端を行って、ラフで素敵で危ない青春の日々を満喫するんだ。将来だって有名なシンガーとかになって、全世界を股にかけるんだ。修一とかそこらへんの頭の堅い連中には到底なし得ない偉業を成し遂げてみせる。それが俺の夢なんだ。事細かにしつこく追及してくる修一は悪役さ。語彙と倫理しかない奴だ。
そうさ。あんな奴…。
俺は自室のベッドに倒れこんだ。
午前中のあどけない日差しが邪魔で、カーテンを引いた。その隙間から零れる銀色の陽光は、月光にも似てる。
熱いな。
初夏だからじゃない。暗いシェードの中に沈む俺の頬に、一閃、傷跡のように光る一筋の陽光。じりじりと熱いんじゃなくて。そう…ずっと奥の、心が熱いのだ。
(そうだよなあ。ひとりだけで正当化してたって意味がない…)
俺はダークな雰囲気に身を委ね、午前中のうちから、深い眠りに落ちた。
目覚めたら夜になっていた。
明日は学校で否応無しに修一と対面することになる。そうしたら、何て言ったらいいんだろう。それ以前に、どんな眼をしていたらいいんだろう。
(俺が悪いんだよな。遅れたのは俺。修一はそれを注意しただけだから…)
今更ながらに俺は身の内に罪悪感が込み上げてくるのを感じた。
パソコンを立ち上げた。
そしてインターネットに接続。苦しいこと考えたくなかった。最近お気に入りのあのサイトに行ってない。そろそろ何かアップしてあるかもしれない。それなら、きっと楽しくなれる。そう思って俺はカチリと左クリック。
…だが、別に何も更新されていなかった。
俺は何か嫌になって、次から次へとネットサーフィンした。いつもは保証付きで笑えるサイトも、全然笑えなかった。むしろ、褪める。
俺は無表情のまま浅く深く、クリックとドラックを繰り返した。
そのうちに、妙なサイトを見つけた。
「何だここ…『クリスタル』?」
というサイト名らしかった。背景に綺麗なクリスタルのCGがある。
だが、サイトのコンテンツは『CHAT.』のみ。それもレタリングも何も施されていない、味気ない青い文字。崇は無心でそのフォントをクリックしてみた。
(ハンドルネーム、何にしよう。えーと…)
クライ>はじめまして
SEPHI>あ、こちらこそ。管理人のSEPHIです。セフィって読みます
クライ>管理人さん? 偶然ですね
SEPHI>寂しいサイトでしょ? つい最近開いたばかりで。丁度今チャットが使えるかとかひとりで施行してたんだよ
クライ>ここはどういうコンテンツにするつもりなんですか?
SEPHI>実は考えてないんだ。友達がいてね。そいつとこれから考えようかなって
クライ>友達ですか…
SEPHI>…クライさん。何か悩んでるね。友達のことで
クライ>そんなことないですよ
SEPHI>よかったら話してくれないかな。チャットだけど、よほど運が良くないとこんなサイト来れないから、誰も。クライさん?
クライ>いきなりプライベートに干渉するほど、野暮な人なんですか
SEPHI>ごめんね。ただ、僕ならなんとかできるかもしれないよ
クライ>無責任なこと言わないでください。何もしらないのに
SEPHI>あなたには、謝る意志があるんでしょう? 相手もきっと同じですよ。人と人は同じではないから、もめごとを繰り返します。でも同じでないから、互いの相違点を見つめあって解りあえるはずです。思いきって話かけてみてください
クライ>でも、そう簡単には・・・
SEPHI>じゃあ僕がアドバイスを。いいですか?
クライ>…どうぞ
SEPHI>友と別れて、心が寂しいときは、『ブルークリスタル』を思い出してください。その蒼い水晶の輝きは、闇に置けば、夜の闇の憂いのように冷たく、精緻でありながら繊細で壊れやすい。暗闇のブルークリスタルは、今のあなた。けれどその蒼い水晶を一度昼の陽の下に置けば、磨き上げられた水晶の内部で光は美しく幾重にも屈折し、蒼い透き通った光が溢れます。その煌きは満月の月光よりも流麗で、夏の青空よりも華麗。ひとつ並ぶものがあるとすれば、それは人の心の中の希望。それは明日のあなたであると私は思います。誰にも負けずに輝けると信じていますよ
クライ・退出
SEPHI>がんばれよ。クライ
何であんな『SEPHI』とかいうネットの奴の言葉に励まされるんだろう。
そう考えると、やっぱり修一に声をかけずらい。修一も頑固で、全く今日は俺の方を見ようともしない。そんなこんなで、もう放課後になってしまった。
でも…こんな時、何とかしてこそ友達ってもんだよ。たぶん。
「修一!」
人気のない岐路まで来て、俺は勇気を出した。
「昨日は、その…悪かった。今後気をつけるから…」
「ありがとう。どう仲直りしようかと思ってたんだよ」
おおっ。やっぱりSEPHIの言う通りだった。やっぱり修一はいい奴だ。SEPHIがそれを証明してくれた。
「ところでさ」
「な、なんだ?」
「…ブルークリスタル、輝いてるか? クライ…」
俺は唖然とした。
修一がそのことを知っている理由は、たったひとつ。
「ま、まさか修一、お前が…SEPHI!?」
やっぱり世界は、どこかでつながってる。
「お前に、明日の朝までオレの時間を預ける」
ハルは目を見開いて、相手を凝視した。
たった今ここで人生初の奇跡が起こったばかりだというのに、もう一度それが起ころうとしている。
目の前にいるこの男は、常ならば金の短髪に、切れ長の鋭い瞳が透かし見えるサングラスを装着してブラウン管の中にいる。
髪を黒く染めて、瞳の見えない濃いサングラスをしているとしても、その際立った風貌は隠しようがない。
日がとっぷりと暮れてしまった予備校の帰り道、混雑した駅前の通りで二の腕を掴まれた時には息が止まるかと本気で心配になった。
最初に目に入ったのは浅黒く日焼けした形のよい鎖骨と、その上に乗った、不似合いなほど華奢なシルバーのネックレス。
そのシャネルのオープンハートは、彼が18歳の時に母親から贈られた物だということは、ファンの間では周知の事実である。
おそるおそる後頭部をカクッと逸らせば、形の良い唇が薄い笑みを浮かべていた。
「タカオミさん…?」
信じられないことだったが、「嘘」とは言わない。
中学の時から6年、彼の熱烈なファンを続けてきた。
その自分が、彼を間違うことだけは絶対にないと信じている。
「どうして…」
震える声で尋ねたハルを見て、タカオミはフッと微笑んだ。
彼のトレードマークとも言える、皮肉混じりの微笑。
頭の芯が蕩けるような甘い眩暈を覚え、膝の裏の力が抜けそうになる。
「これ」
彼の長い脚を包んだレザーパンツのポケットから、花柄の封筒が差し出された。
その封筒を、ハルは嫌というほど知っている。その微妙な膨らみの正体が、10枚に及ぶ便箋と、数十枚の中から厳選した一枚の写真だということも。
「お前と一度会ってみたかった」
何度見たかわからない夢の中のタカオミでさえ、そんなことを言ってくれたことはない。
ただ呆然と立ち尽くすハルを面白そうに見下ろしていたタカオミが、ふと腰を落として囁きかけたのが冒頭の言葉である。
ハルはアレグロの速さで8ビートを刻み続けている鼓動を抑える為に、一度ぎゅっと目を瞑ると、大きく深呼吸を繰り返した。それからゆっくりと目を開けて、目の前の男を見つめ返し、そして言った。
至極マジメな顔をして。
「映画、見に行きましょう?」
タカオミが、どうして都心から程遠いこの寂びれた街にいるのかはわかっている。
明日の夜、街のホールで行われるライブのチケットをハルも持っているからだ。
スタッフやマネージャーの目を盗んでやって来たので、明日までホテルに帰ることはできないという。
今をときめくカリスマヴォーカリストと言っても、ハルの厳格な父親が男に敷居を跨がせるとは思えない。
そこでハルが選んだのが、映画館だ。
制服のポケットを裏返せば、期限が辛うじて残っているファーストフード店のクーポンが見つかった。
二人で紙袋を抱え込んで、オールナイトのチケットを持って古びた映画館に入場する。
背景が限りなく暗いフランス映画は、ハルにとっては子守り歌だ。
どれほど左隣に神経を集中させていようとも、緊張の糸はふっつりと切れる瞬間は訪れる。
ハンバーガーを片手に舟を漕ぎ始めたハルの頭が、電気ショックを受けた時のようにビクッと仰向いた。
薄闇に目を凝らせば、肘掛においていた自分の手の上にクロムハーツのリングを嵌めた手が指を辿るようにして重ねられている。
「居眠り禁止」
それがもたらす効果を知ってか知らずか、わざわざハルの方へ腰を浮かせて囁き掛ける。
それからハルの元には、ただの一度も眠りの妖精が訪れなかった。
その後は、アクションものが続いて、最後にハリウッドの人気俳優のアメリカン・ラブストーリーが上映された。
ハルとタカオミのほかには人気のない客席に、切なげなピアノとハルが鼻水を啜る音が響く。
スクリーンには出演者の名前が延々と流れ続けていた。
「泣き虫ハル」
「だって、あんなラスト…やり切れないんだも……」
ぐしっとハンカチで鼻を押さえながら答えたハルは、再びうっと喉を詰まらせた。
「泣くな」
テレビやラジオではついぞ聴いたことのない優しげな声で、まるで小さい子どもを諭すように言うタカオミを、ハルは涙の滲んだ瞳で見遣った。
しかしそこには、スクリーンを反射したレンズがあるだけだ。
ハルの大好きな、野生の豹か何かを思わせる鋭い瞳が和んでいるさまを見ることはできない。
「歌う時しかサングラス外さないのは、プライベートも一緒?」
つい口をついて出た言葉に、タカオミが一瞬表情を凍りつかせたのがわかった。
しかし、すぐに何もなかったように唇が例の微笑を形作る。
「今でも詩、書いてるのか?」
ハルの顔中に笑みがぱっと広がった。
ハルが小さい頃から詩を書いているというのは、ファンレターに書いたことだ。
「受験だからあんまり書けないけど、でもなるべく書くようにしてる」
タカオミは満足そうに鼻を鳴らすと、ハルの手を上から強く握った。
「いつかオレの曲に詞つけろよ」
涙の筋を幾つも作りながら、ハルはくしゃくしゃと微笑んだ。
それを見たタカオミは、どこか寂しげに笑みを返した。
「また会える?」
ようやっと目覚めを迎える街では、スズメが陽気にさえずっていた。
不安げに呟いたハルを、タカオミは不意に抱き寄せ、まるで視線を避けるように肩に顔を埋めた。
「知ってるか?」
何を、とハルが尋ねる前に軽く唇が触れ合う。
「ネバーランドじゃ、信じないと空を飛べない」
唇を離したその位置で呟いたタカオミは吐息だけで笑ってみせた。
「…信じれば会えるってこと?」
無言で、まるでハルの姿を目に焼き付けるように見つめた後、タカオミはさっと身を翻して人ごみに紛れた。
ハルはその背中を見送りながら、朝日を反射したサングラスから透かし見えた瞳の理由を、いつまでもそこに佇んで考え続けた。
「実はオレ、結婚します」
客席から怒号のような悲鳴がどっと溢れた。
十曲歌い続けた後のMCだからなのか、タカオミの声は上擦っている。
いつものシャープな印象とは違い、そのサングラスの奥の瞳は幸せそうに微笑んでいた。
「相手は女優の…」
ハルはアンコールを待たずに、席を立った。
出口からホールを抜けると、広場の中央にあるオブジェにもたれかかった。
「期待してたわけじゃないよ。だって、あたし信じてたもん」
オブジェに這わせた手に、背後から伸びた手が優しく絡む。
「何を?」
耳元で囁きかける声は、昨夜よりも幾らか不安げな色をおびているようだ。
「あたしが昨日会った人、絶対タカオミじゃないって」
「……タカオミは、オレの兄貴だ。お前の手紙は、オレが勝手に兄貴の事務所から持ち出した。最初は興味があっただけだ。あんなに綺麗な詩をどんな奴が書くのか……。でも、お前に会って、気が変わった。もっとお前と話してみたいと……。」
そう言った後に、くしゃりと前髪を掴んだ。照れた時のクセらしい。
「一つ教えてくれ。なんでタカオミじゃないとわかった?」
ハルは、「だってタカオミは一重なんだよ。あなたみたいにきれいな二重じゃない」と言おうとして、ちょっと逡巡した後に、言葉を変えることにした。
「キスの、仕方かな?」
6年越しのファンといえど、そんなことは知らない。
そんなことより、さっさと名前を教えて欲しいなと思いながら、ハルはゆっくりと降ってきたキスを、笑みの形の唇で受け取った。
誰も近付くことの無い、錆びたこの塔の上には羽が傷つき、空へ還ることのできなくなった銀色の天使がいるらしい。天使はどんな質問にも答えてくるという―
俺が半日掛けて塔の上まで登りあがった時にはもう陽が暮れようとしていた。手は傷つき、錆びた金属の色と匂いがこびり付いていた。俺は身を痛めてでも天使に聞きたいことがあって、ここまでやって来たのだ…。それは…俺の産まれて来た意味だった。
俺の…俺の産まれて来た意味はなんだ?不幸だらけの十六年間を生きてきて…いや、生きて来たという言葉は当てはまらないのかもしれない。俺は今では自分がもしかしたら生きてはいないんじゃないか…と思う時がある。そのために一度自分の手首を切った。その傷口は結局瘡蓋にしかならなかったが、痛みは感じる事が出来た。そうでもしないと、生きている…という感じが消えるんじゃないか…と…このまま俺はロボットみたいな存在になってしまいそうな気がしていたからだ。
「……。」
噂によるとこの塔はバブル時代に造られた物で、今はもうただの廃墟も同然だ。塔の上は屋上の様になっていた。そこには作られた意味が全くないのではないかと思われる、まるでオブジェのようなよくわからない石の突起があった。突起の高さは俺の身長をゆうに超えていて、天辺は平らでほんの少しくぼんでいる。その上に彼女はいた。それはまぎれもなく天使だった。片方の羽が散り、銀色の髪に銀色の瞳の天使だ。それを見つけた俺は改めて、この突起は彼女が座るためだけに存在しているのだとわかった。夕焼けの赤い光に銀色の髪が輝いていて、温かい風に真っ白い服をたなびかせていた。俺はそんな彼女の周りだけが俺たちの暮らしている世界とは別次元なんじゃないかと思えた。彼女はこちらに気付いたようだった。
「教えてほしい事があるんだ…!」
俺は俺に気付いても微動だにしない彼女に叫んだ。
「俺は…!」
俺が自分の心中をぶつけようとすると彼女は遮るように人差し指を自分の唇の前にかざした。
「私はあなたが私の質問に答えてくれぬ限り、あなたの質問には答えることができません。」
あまりにもあっさりと彼女が答えたので、俺は拍子抜けをしてしまった。
「何だよそれ…」
「あなたが私の質問に答えてくれぬ限り…私はあなたの質問に耳を傾けることすらできないのです…。」
「…」
俺は考えた。だが聞いてもらえなかったらここまで来た苦労が水の泡だ。
「…わかった、聞くよ…」
天使はその銀色の目で俺の眼を見つめながら言うものだから、一瞬、その瞳に吸い込まれるんじゃないかと思った。
「永遠の命を持った時…あなたはそれを何に使う?」
「…は…?」
俺は最初その質問の意味がわからなかった。
「永遠の命…」
俺は想像してみた。永遠の命…。それは古代から様々な権力者が欲した物だ。だが生きているような感触が全く無い俺にとって、それは果てしなく恐ろしい、刑罰の様に思えた。
「そんなんわかんねぇよ…。絶対にあるわけ無ぇんだから…。」
そう答えると天使の美しい顔は泣き出しそうな悲しい表情になった。
「なんでそんな事聞くんだよ?」
天使は答えた。
「私にはその永遠の命があるからです。」
「え…」
「私は羽が散ったため、天に還ることも許されず、ここから動く事もできず、眼も見えず、耳も聞こえず、話すことも出来ません…」
「何言ってんだよ!あんたは現に今俺と会話しているじゃないか!!」
「私の声は、あなたの耳に入っているものではありません。あなたは私の声を、心で感じているのです。私達は今、心で会話しているのです」
「心…?」
それは一種のテレパシーの様なものだった。彼女の声が俺の耳でなく直接頭の中に響いているのだという事には彼女が教えてくれるまで俺は気づかなかった。
「私は永遠の命を持っていながらも、夢も、希望も、名前すらないのです…。私は永遠にここにいなければならない運命…」
「…もう何十年もここで…?たった一人で…?」
「そうです。貴方のような方が来たのも、もう五十年ぶりでないかと…。」
「あんたは…それで平気なのかよ?」
「…私には何もありませんから…。」
「そんな…」
「私は泣くことも、笑うこともできません…。ですからわたしの運命がたとえ幸福であったとしても、もしくは絶望的であったとしても、それらは何の意味も持たないのです…。それでも…私は知りたい。この永遠に絶える事の無い命を、何も無い私でも何かに使えることができるのかを…!永遠に生きる事はつらくてたまらないけれど…」
「……」
銀色の天使はバサリと羽を振るわせた。茜色の沈みかけの太陽の光の中に白い羽が舞った。俺はその中にがくりと膝を付いた。
俺は…俺は何で自分の生きている意味を疑問に持ったりなんてしたんだろうか…
俺は動く事もできるし眼も見える、耳も聞こえる話す事も…笑うことも泣くことも、名前だってある…そして死ぬ事もできる…!!
俺はこんなにも何もかもを持っているというのに俺は自分自身を何も無い抜け殻のような物だと思っていたのだ…この何も無い天使はこんなにも強い意志と澄んだ心を持っているというのに…!
まるで俺の肩に俺自身の…いや、この世の人間全ての憎しみや嫉妬、プライド、競争意識、恨み…それらが全て重くのしかかるようだった。
俺が何も無い天使に会って見つけたものは、何もかもがあるのに彼女よりも果てしなく劣る自分自身と人間達の姿だ…。
この事に気付かなかった方が良かったのかもしれない…。自分がここまで愚かだったと言うことに…
周りにはまだ白い羽が舞っている。そして銀色の天使は瞬きをする事もなく未だ美しさを保っている。
「…ありがとう…気付かせてくれた君には心から感謝しているよ…そして…憎くてならない…」
ただ舞い散る彼女の羽の中で俺の中のずっと止まっていた何かが久しぶりに動いてくれた気がした…
独り、此の場所で泣いている。
独房の中で、独りを体験した。
優しい歌が聞こえる。
アリアの、何処となく淋しい、でも優しい歌。
もう一度立ち上がって見ようと思った。
顔を上げて見ようと思った。
そして、声を出して見ようと思った。
―――密やかな空間で独り決意を擁いたが其れは幻想でしかなく、一瞬の勇気が出たきりだった。過ぎ去ってしまった勇気は再び奮い立つ事もせず、此方に背を向けいじけている。
「さあ、話を聞こうか。」
訊問員が昨日までの調書を一枚一枚捲りながら、私を見る。然し私と言えば俯いたまま何も言わない。其れ所か、微かな震えさえ催している。―――訊問員は、何も言わずに私を見ている。
呆れているのか。其れとも怒っているのか。厭だ、無言は止せ、止してくれ―――此方を見るな。私は只此処に居るだけだ。何もしていない。只、只、只、話を聞いているんだ、其れだけだ。
「般若君、話してくれないと君を此処から出す訳にはいかない。此処は嫌いなのだろう、前から言っていたように。」
ああ、嫌いだ―――。心の中で言った言葉が調書へと送られる。訊問員は漸くと言った風な溜息を附きながら、其れを確認する。
「そうか。じゃあ、話してくれるのかい。」
其れと此れとは話が違う―――私はそうとも言った。然し其れが調書へ送られる事は無かった。―――訊問員が、咎めたのだ。
私は此の侭心で訴えるのだろうか。
何が出来るのだろうか。
今は、訴える事しか出来ない。
何も言う事が出来ない。
地下室の暗い空気に変化があった。
「般若君、話す気になったかい。」
何時もと変わりは無いが―――そう訴えかけると、訊問員は空かさず言った。
「そう言うと思ってな、今日は気分転換にでもと。」
ガチャ、と馬鹿でかい鍵が外れると同時に、訊問員が入って来た。中と外の空気は一緒だが、何処となく新鮮な感じがする。
「さぁさ、行こうか」
私の意見等お構い無しに、腕を引っ張り始めた。然し抵抗する力等持ち合わせていなかった私は、呆気無く外へと連れ出された。
長い廊下を歩く。私を、連れ出していいのか。
「何時からかな、君が此処に入ったのは。」
何時だったかな―――考えてみると、月日が流れるのは早いものである。彼此、十年であろうか。
「未だ二十だもんなァ、君も。」
周りからは随分貫禄があると言われる。然し其れは容姿ではない。容姿と言えど未だ二十である。少年とも、青年とも言えない微妙な位置にある。貫禄とは、「訴え方」か?
「もう少し遅くに転生していれば、君は此処に居なかったのかも知れないな。」
其れは――如何かな―――
ハハ、と訊問員の微笑が聞こえた。
「少なくとも、俺は君の力が凄い事は分かっているつもりだ。其れに悪用するなんて考えても居ない。」
其れなら早く出してくれ―――私は彼の其の言葉を何度も聞いた。そして、彼は無理さ、俺が決める事では無いのだから―――とも言った。
私には、其れが偽善に聞こえて仕方が無い。勿論彼にはそんな気等更々無いと思うが、如何してもそう思ってしまうのだ。―――何時もの、悪い癖だ。相手を分かろうとしない。
そんな私の気持ちを分かっているのか、訊問員は何時もの台詞の後に必ず言う事があった。
「人の気持ちなんて誰が分かるって言うんだ。分かるのは自分だけでいいんだ。」
其の後、決まって私は彼の事が近くに感じる。一瞬の事だが、其の時がとてつもなく待ち遠しい。
考えている内に、外へと出た。
「此処が気分転換の場所さ。」
見渡す限りの草原に、私は立っていた。
くらくらするほどの緑に、思わず目を瞑る。然し幾ら目を瞑った所で、私が見た緑の記憶は、頭にこびり付いて尚も幻想的な色を見せる。
「如何だ?いい刺激だろう。」
幾ら何でも刺激的過ぎだ―――行き成りこんな場所に連れて来られても、今まで暗い地下の独房に居た私にとって、余にも驚く光景には違いない。
然し―――私が居たのはこんな場所の地下だったのか。十年が経つ今まで外に出た事が無かった。こうして外に出られたのは、此の訊問員の御蔭か。
今までに、幾度となく訊問員は変えられた。
直ぐ殴る者、直ぐ罵声を浴びせる者、喋らない者、泣く者、暗い者。
数えれば切りが無い。然し其れは思い出だ。今はこんなに親切な訊問員が居る。だが、此の時も何時まで続くのか。若し外に出たのが無断だったのであれば問題だ。否、若しかしたら既に移動が決まっているのかも知れない。
如何か、もう少しだけ此処に居て欲しい。
もう少しで、全てを話せるから。
あと少し。
あと、少し。
「般若君、俺。」
「今日で君の訊問員は終わりなんだ。」
皮肉に過ぎる時間は、早過ぎた。
もう、何も話す事が無くなった様にも思える。
外を見て、二年。私も二十二に成った。
変わった事と言えば何だろうか。外に出るようになったとか、藻鍬総帥のレセプションに出席する等、そう言う所か。
だが其のレセプションにもあの訊問員は居なかった。
辞めて、しまったのだろうか。
私は何故か激しい罪悪感に苛まれた。私が悪かったのか。気持ちが揺らぐ。何故だ。私の中の罪悪感が、私の何かを引き出そうとしている。私は、矢張りあれから話しては居ない。
「―――。」
もう、話す事を忘れてしまった。声帯も錆びてしまっているのか、其れとも自らの意思なのか、分からずに居る。
否、分からないのではない。分かろうとしないのだ。私は駄目な人間だ。知る事を恐れている。
此処まで分かっているのに、如何して認めないのだ。後は、認めるだけなのに。
―――私は考える事を止めた。酷く、疲れた。
坂上の櫓の陰から人の声が聞こえる。レセプションを途中で抜け、庭へと出た私は興味本位で其の場所に向かって歩き始めた。
風が頬を叩く。―――歓迎されていないのか―――別に好きな訳でもないし、かと言って拒絶するほど嫌いでもない。普段気にも止めない事なのに、今更自然に好かれようとしている。好きになられた所で何が変わる事も無いが、只此の地と一体でありたかった。何処からこんな感情が湧き出て来るかは分からない。何かが、あの時から変化している。
ポツポツ考えている頭を止めると、私は立ち止まっていた。立っている所は丁度坂上の辺りで、人の声も先程より大きく聞こえた。失礼ながらも私は、其処を覗いて見る事にした。
―――誰か、居るのか。
真実、顔が強張ったのを認めた。
誰も居ない坂上の櫓に、私は愕然とした。
今し方声が聞こえていた筈の場所には、声は愚か其の主さえも居なかった。
何故だ。
何故此処に居ない。
幻聴か?
否、声は確かに聞こえた。
私の頭が狂って行く。世界が、狂って行く。如何なっている、私は何処に居る。私は此処に居る。其れとも消えてしまったのか。今の声のように?可笑しい、何かが可笑しい。矢張り、あの時からだ。何があった、一体何があったのだ。―――思い出せない。胸が、苦しい。
其処は何時もの牢獄だった。夢、だったか。気が附けば全てが嘘に感じる。
案の定、其れは嘘だった。
起き上がって鉄棒の外を見ても、あの訊問員は居た。
長い、夢であった。夢であって良かったと思う。若し夢でなかったら―――
私は其れこそ錯乱して、狂っていたかも知れない。
訊問員は起きた私に気付いたのか、此方に歩み寄って来た。そして微笑みながら言った。
「如何かな?あの夢の後味は。」
―――私は、彼こそが全ての元凶だと確信した。
「たりぃ……」
あたしが一日の感想を言うとこれしかない。
しかもそれがずーっと続いている。
馬鹿馬鹿しい毎日。
生きているのが面倒な世の中。
嘘ばっかりの他人の天使のような悪魔の笑顔。
…どうでもいい人生。
朝起きると、特にあたしに愛情も抱いていないハハオヤに
酒臭い息をかけられながら『あんたの顔を見てると腹が立つ』と言われ、
仕方がないので《学校》という場所に行く。
このままあたしに何も関わらず無事に《学校》につけると思ったらそうでもなかったりする。
行く途中電車に乗るわけだが、なんにも害を与えてない奴らにやたらと軽蔑の目で見られる。
聞こえていると気付いているのかいないのか、まぁあたしには大して関係ないことなのだけれど
奴らが話しているのは「最近の若いヤツは」なんたらかんたら。
後は適当にこの世の中に反抗的だととられる行動全てを
《最近の若いヤツ》に当てはめて言っている。
そんなこと言っている自分たちのほうが変だということに奴らは気付きはしないだろう、
これからさきもずっと。
あたしは…あたしはきっと存在自体が世の中に反抗してるんだろう…。
なんとなく、そう思った。
駅から降りてこれでやっと《学校》に…と思ったが
今日は特にツイていないらしい。
あたしはいつも人の中にいるのが嫌で暗くて細い道を通っていた。
そんな時、たまにそれこそ世の中全てを嫌っている目をしてあたしに声をかけてくる奴がいる。
こんな暗いところに好きでたむろっている奴らの中にロクな奴はいない。
「おい、金よこせ」
と、こんなふうに。
あたしはいつもいつも聞き慣れたセリフに飽き飽きしながら答える。
「ないよ」
これは半分ホントだ。
別に遊ぶ為に外に出歩いているワケじゃない。
あくまで《学校》に行く為にあたしは家を出たんだ。
ところがもちろん奴らは怒るわけで。
鋭く光った…いや、すでに誰かの血がついて使われた跡が見られるから
鈍く光ったナイフを手に握り、あたしの首筋につきつける。
「死にてぇのか」
あたしは思う。
…死にたいのはお前だろ。
だからあたしはいつもそいつの願い通りにしてやる。
願ってる通りにしてやってんだから…別に罪悪感はない。
あたしは異常者じゃないからそんなことに喜びや快感を感じたりもしない。
ただ…そう、ただそいつの願いをかなえてあげてるだけだ。
肉親もいない奴らが、この広い広い、目が回りそうなほどに広く、
忙しく他人に無関心な人々が行き交っている世の中から一人消えたくらいじゃ世界は何も変わらない。
明日も今日や今までとなんら変わらないリズムで
セカイハ、マワルダロウ。
拭き取るのも面倒なので頬に少量の血をつけたまま《学校》に辿り着く。
そりゃあクラスメイト達は驚く。
そして先生と呼ばれる偉そうな人種に「どうした?」と聞かれる。
あたしは「ナイフを突き付けられたんです」と答える。
別に間違っているところは何もない。
…それ以上先生は詮索しなかった。
ムナクソワルイ。
授業が始まる。
面白くもつまらなくもない。
ただなんとなく聞いているだけ。
ただ時間だけが過ぎ去って…。
確かにただごとじゃなく無駄な時間だと思う奴らもいるだろう。
けどあたしにとっては一番幸せな時間だった。
椅子に座っていれば誰にも干渉されない。
窓から吹いてくる風を感じていればいい。
そう、風。
いっそ風になれたら。
なびくだけ。吹くだけ。流れるだけ。
人に存在を感じてもらえるのはホントに少しで、
でも確かに存在していて。
いいかもしれない。
風。
生きることに大して魅力も感じていないあたしにはピッタリかもしれない。
休み時間というやつ。
この世でもしかしたら一番あたしが嫌いな時間。
騒がしい。うるさい。耳障り。
聞こえてくる。
耳を塞いでいるのに雑音に混じってはっきりと。
あたしへの悪口。
あたしが「普通じゃない」って。
ああ、なんか電車の奴らと一緒だ。
こいつらも自分の異常さに気付いていない。
人の悪口を喜びとして、それで自分のストレスを発散し、
それなのにニコニコ笑いながら嘘ばっかり並べて《人並み》の時間を過ごす。
団体行動をとてもとても苦手としながら、それはそれは愛している方々。
その矛盾さに気付いていない。
「私達はこれからもずっと友達だよね」
その裏に隠されたいろいろな感情。
不安、脅迫、孤独感、不信感、安心感…なんだかあたしには理解できない感情達。
綺麗な顔でそんなこと言われたって…怖いだけだ。
そんな感じで午後の授業も終わり、
あたしの幸せな時間は終わった。
あとは家に帰るだけ。
多分。帰りに何もなければ。
「あ、ねぇ! 同じクラスの…そうだよねぇ?」
あともう少しで家に着くというところで誰かに声をかけられた。
そいつはなんの遠慮もなくあたしの顔を覗き込んでくる。
いわゆる優等生という顔をしていた。
しかもみんなに光を分け与える素直な笑顔を浮かべることの出来る人間。
ああ…委員長か。
あたしとは対極にいる人間だ。
「ね、私、ここらへんに住んでるの。あなたも?」
あたしは頷く。
分からない。
あたしなんかに話しかけてなんにも得することなんてないのに。
「一緒に帰ろ」
…邪魔だ。
「あのさ、悪いけどあたし一人が好きなの。
だから…ごめん」
あたしがそう言って彼女を振り切ると
視界の端に彼女の顔が見えた。
とても残念そうで、こんな私に断られたからってなにが悲しいのか理解できないけれど、
あたしはなんだか嬉しいような腹立つような…複雑な気持ちになった。
胸が苦しかった。
「そっか。ごめんね」
彼女は顔を上げると笑ってあたしの前から去っていった。
アア…人を悲しませるって、なんて…なんて寂しいことなんだろう。
素直な感情をぶつけられて、あたしは数分その場に立ち尽くした。
「ただいま」
あたしは家の扉を開ける。
そこにはもちろん誰もいない。
返ってくる返事があるわけもない。
ハハオヤは…多分仕事に行っている。
あたしは考える。
どうして世の中はこんなにも矛盾だらけなのか。
幸せな家庭と家庭とは呼べない家庭。
光の中にいる人間と闇の中にいる人間。
殺すと叫ぶ人間と死にたいと呟く人間。
表と裏。
…あたしには分からない。
なんだか世の中ってムズカシイ。
部屋には窓からただ夕陽が差し込むだけだった。
町の裏通り、ステンドグラスのある扉から、どこか虚ろな青年の顔が覗かせていた。
「いらっしゃいませ。徒然なる海驢亭(あしかてい)にようこそ」
歴史の長そうな大時計、純なレース模様のテーブルクロス、片隅にあるバー。
店員は皆若そうだった。それぞれ女性の声と、男性の声が合唱する。
自然にウエイトレスが青年を一番奥の席に案内した。可愛らしい窓が見える。
青年は驚いた。丁度町の、人が一番集まる広場が見下ろせるのだ。
「ふふ、これが当店の自慢なんですよ。そうでなければこのような人が集まらない場所に料理屋なんて建てませんよ。僕や店員共々、その風景を見るのが日課なんです」
青年は溜め息を吐いた。そうか、ここのような所を穴場と言うのか。
「どうぞ」先刻のウエイトレスが、水を持ってきた。これまたグラスがアンティークな。
そして何より、青年はウエイトレスに魅入った。年齢も彼と同じぐらいの年頃だろうか。
「ふふ、彼女も当店の自慢です。正直、僕も彼女と同じ年齢……おっと、具体的には言いませんよ、彼女のために。」青年の心を察して主人が言う。彼女は、カウンターの奥に頬を赤らめて走って行った。
どうもここは芸術に堪える店らしい。ここにある美術を全て売り払ったら、どれほどの額になるだろう。
そんな時。鈴が音を発した。
客である彼女は泣いていた。蒼いワンピースの女だ。上から下まで真っ青。まるで涙が服を青くしているような。
いやはや、俺はロマンチストじゃない。
「いらっしゃいませ」今度は男性の独唱だ。女を、ウエイターが案内しようとした。
「いえ、構いません……」構いませんとな。
青年が俯いている内に、スローテンポな足音が近付いて来た。
「ここ、座ってもよろしいかしら」
突然の声に青年が急速に顔を上げる。目の前に、蒼いワンピース……。
青年が拒否する前に、女が座っていた。こうなると、少年という生物は微塵も太刀打ちできない。
最初に、声を出すのは見知らぬ人へ近づく第一歩。
「えと、どうしたのですか……失礼ですが、どうやら心に曇りがあるようですけど」
完全にぎこちない敬語である。しかも、完膚なきまでに相手の心を破壊する一言になりかねず。
病気。聞けば肺炎で母を亡くしたそうだ。同情してしまう。自分も同じくして失ったから。
ウエイターがやって来た。そういえば、まだ注文してなかったっけ。
「えー、じゃ、俺はとれたて茄子のスパゲッティで。貴方は飲み物の方がいいかな。それじゃ、トム・コリンズを。あ、俺のおごりです。同席ですし。」
くすん、と泣き止んだ音。「すいません」
テーブルを赤と薄桃色が飾った。「ささ、どうぞどうぞ」青年はそのカクテルをすすめた。
すると、上目遣いでその女性が彼を見つめた。しまった、お酒はダメだったか。焦りながらも、パスタを口に健気に運ぶ手がむなしい。
「そのスパゲッティ、美味しそうですね……。」
「あ、じゃあ、俺がもう一つ頼みますよ。お金に余裕はありますよ」
「いえ、私が払いますから」うむ。こういう時は彼女にお金を使わせない方がいいのか。それにはどうすればいいか。
「じゃあ、俺のをあげますよ。もうかなり食べちゃいましたけど」しかし、男の食べかけを食べる女かどうか、彼女は。
「いただきます」すんなりと受け取った。しかし失礼だな。おごってもらっているのに。
いやいや矛盾してるぞ、俺。
「それじゃあ、私のもあげます」それまで、おっとりとしていた彼女が突然グラスを一口あおり、青年に差し出した。確かにスパゲッティだけでは口が惜しいのだけれども。
「あ、俺、実は未成年なんです。だから受け取るわけには……」
「大丈夫です。あなた、私よりオトナに見えますよ。ささ、どーぞ」
意外に大胆である。まあ、他人の食べた物をもらう時点で大胆か。
ゴクン。
冷たい飲み物が胃まで届くのを感知できる人間は少々不健康らしい。それが俺だった。
食器がキレイになり、その中身のほとんどが俺の胃袋の中に入った。彼女が本当に何か食べに行こうと思って来たのなら、相当な御節介をやいてしまったか。
「あの、やっぱり初対面の人におごってもらうっていうのはどうかと思うので、私がこの代金を全て払います」
「いえいえ、俺が払いますよ。だって、悲しい事があった後です、ちょっと良い事があってもいいじゃないですか。ですから、これは俺が払います。」
「うん、せめて私が食べたこのスパゲッティ、これだけでも払わせてもらえないでしょうか。あ、すいません。このスパゲッティ、おいくらになりますか?」
「1500Gになります」
高過ぎである。俺は、せいぜい700Gくらいかと思っていたのに。
「それ相応の美味でした。御馳走様でしたわ。」カウンターに行こうとする彼女を追って青年も立つ。
だが。
急に、酔いが回ってきたのだろうか。強烈な眠気が青年に畳みかけて来た。
思わずテーブルに手をつく。まぶたが重い。画面がぐるぐると回転する。
相当アルコールが強かったのか。彼女は酒に強いのだな。
意識が薄れてきた。お酒がこんなに効くものだろうか。否、俺は今まで数回酒を飲んだ事がある。
それなのに、オカシイな……?
「ちょっと、お客さん、起きてくださいよ」ユサユサ
あ。はっと青年が顔を上げる。外はもう暗くなっていた。随分と寝たみたいだ。
「あの、俺と同じテーブルにいた女の人、どうしました?」
「ああ、スパゲッティの代金だけ払って行きましたよ。すっかり元気になられたようです」
よかったですね、とウエイターが笑った。全く同感である。
「それで、あなたに御大事に、だそうです」逆に彼女に言われてしまったらしい。
ゆっくりと立った。トム・コリンズの代金は払わなかった、と。
「トム・コリンズは700Gです」これまた高い。思いつつポケットから財布を取り出そうとする。
……手元に残ったのは、軽い感触だった。ジーンズ越しに足が当たった。
やばい。ない。「すいません、財布取ってきます」と、完全に怪しまれる言葉を言ってのけた。
「それは無理ですね。前にそう言われて、食い逃げに遭ったことがあるんですよ。それにもう閉店なんすよ。困りましたね……。」ウエイターは続ける。「皿洗いでも、手伝ってもらうしかありませんね……。」
うーむ。困った。
やっぱりここは従うしかないか。700Gが皿洗いで済むなら、安いもんだ。
閉店後。
頬杖をついて虚空を見つめる店の主人の後ろから、ウエイトレスが近付いて来た。
「蒼いワンピースの女」の顔をした、この店唯一の筈のウエイトレスだった。
「今日も収穫、ありましたね!」昼の口調と打って変わって、無邪気な少女のそれに変化していた。
ジャラっと細かい金属が擦れる音がする。か細い指先にぶら下がるそれは、紛れもなく財布だった。
主人の口元が、微かに緩む。そして彼は、ウエイトレスの頬に爪を立てる。
彼の爪は決して短くはない。しかし、血は一滴も流出しなかった。
ぺリぺリと、表面が剥がれ、合成ラバーの「蒼いワンピースの女」の仮面が床に落ちた。
「さて、そろそろ切り上げるか。明日の朝には、ここは単なる廃家に変わっているだろうよ」
皆がグルのスリに遭った。チープな話のオトし方、青年はその犠牲になったに過ぎなかったのだった。
君は知っているかい。流れ星はどこへ墜ちるのか。
君も、不思議に思ったことはあるだろうけど、たぶん分からないまま、不思議に思ったことさえ、忘れてしまっているだろうね。
たくさんの星星は一体どこへ行くのか教えてあげよう。
流れ星はね、“星屑の丘”に墜ちていくんだ。
その丘は普段は見えないところ。でも、何十年かに一度、流星雨の夜にだけ、この丘は誰にでもに見えるようになる。正確には、見えていないのだけどね。
星たちが群れてその丘に降ってくるそのときだけ、丘が淡く、ぼんやりと輝くんだ。正確には、丘は見えないままだけど、星屑の光で、丘の輪郭を見ることができるんだよ。そしてこれを見た人が言ったんだ。
あの白銀の丘は“星屑の丘”だ、とね。
僕はずいぶん前から“ここ”にいた。ふっと気がついたときには、もうここにいたんだ。
ずっと時間が止まっているようで、みんなから見れば、僕はずいぶん若く、いや、幼く見えるかもしれない。
この止まった時間の中で、僕は何をしていたかというと、ただ星を見ているだけだった。ここの時間が止まっていても、天空の星星はずっと同じ光を見せることはなかった。
時時、足もとに落ちている星屑で、暇つぶしに腕輪や首飾りを作ったが、それはすぐにどこかへ捨ててしまった。飽きてしまえば、そんな作業さえ、ただの暇だ。
今では、留まることのない星の流れを眺めているのが、唯一の暇つぶしだ。それも、もうすぐ怠惰となりそうだ。
しつこいようだが、ここは時が止まっているため、丘に墜ちた星屑はいつまでも輝きを失わない。空から降って、小さく砕けてしまっても、あの夜空の星と同じ輝きをずっと持っている。
ずっと、ずっと、銀色に。
僕もこの星屑たちと同じだ。輝きはしないものの、いつまでも歳をとらない、若さだけの人であり続けているのだから。
でも、その外見とは違って、僕の心はこの流れた時の分だけ、墜ちてきた星の分だけ、歳をとってしまっている。
昼もない、永遠の夜の中、僕はまだ星を見ていた。
空にふっと一筋、白い光が見えた。
ああ、流星雨か、僕はそう思った。すると背後から、全く知らない人の声した。
「ここはどこなの?」
澄んだ少女の声。ここには僕しかいないはずなのに、別の人がいるのだ。
僕は不思議に思って声の主を見た。その子は真っ白の死装束を着た少女だった。幽霊か。
「ここは星屑の丘」
僕はなんの愛想もなく、簡潔に答えた。
「そう」
少女も同じで、全く愛想がなかった。
「ここは、悲しいところね」
少女はそう言うとそれっきり、黙ってしまった。
流星雨かと思っていたのに、星はあの一つ以降、全く流れる様子はなかった。
しばらく間を置いて、僕から口を開いた。
「どうしてここに来たんだ?」
僕にはこれが不思議でたまらないことだった。ずっと喋っていなかったので、こんな簡単な質問にさえ、言葉を探し、ずいぶんと質問するのにもたついてしまった。
「さあ? わたしも知らないわ」
僕の期待するような答えは返ってこなかった。
「そう」
「ただ分かるのわね、わたし、死んでいるの」
「そう」
それは僕にだって、一目見た瞬間から分かっていることだった。この少女は、もしかしたら何も知らないのだろうか、と思った。
「なんでだろうね。分からないの」
「うん」
淡々とした会話。僕はただ無愛想に返事をするだけ。
ずっと昔に、死人の魂は空に昇ると聞いたことがある。それが本当か、嘘かは分からない。
「ねえ、あなたの名前、何ていうの?」
「僕……? 知らない。君は?」
少女は少しうつむいて考えるふうだった。僕が名前を知らないのは、嘘だ。ただ、忘れてしまって、思い出すのが面倒臭いだけだ。
「わたしの名前。分からないわ」
「そう」
名前さえ分からない、本当に不思議な子だと僕は思ったが、自分も名前を忘れている。もしかしたら、最初から名前なんてなかったのかもしれないなと、我ながら馬鹿馬鹿しいことを思った。
また静かになってしまった。
しかし、僕は何年ぶりに自分自身の声を聞いたのだろうか。ここには誰もいなかったし、歌う趣味もなかったので、声を出す必要などなかった。
人の声を聞くのが久しぶりだと思う以上に、自分の声がひどく懐かしく思えた。
「今夜は、流れ星がたくさんここに降ってくるはずだ」
僕はまた喋りだした。ふいに、自分の声をもっと聞きたいと思ったからだ。
「へえ、そうなの」
少女が無関心そうに言った直後、一筋の流れ星が漆黒の空を走った。
「きれい」
流れ星は二つ三つと増えていき、気付けば雨が降るように、数え切れないほどの星が天空を流れていた。
「なんて、きれいなの」
少女は急に目を輝かせた。いや、星の光が少女の瞳を彩っているだけだろうか。どちらにせよ、少女はうっとりと空を見つめていた。
僕はつい、「こんなの珍しくない」と言ってしまいそうだったが、やめた。いや、言えなかった。
少女にそんなことを言うと、少女はがっかりしてしまうと思ったからだ。それに、今、少女はとても嬉しそうだから。
僕も少女の隣で、今までに何十回も見たことのある流れ星を黙って見ていた。
いつの間にか、星の雨は止んでいた。
僕は少女の隣で、少女に聞こえるよう囁いた。
「もうすぐ、この丘にも星が降ってくる」
「そうなの。楽しみね」
しばらくすると無数の小さな輝く粒が、きらきらと硝子のように澄んだ音をたてて降ってきた。
「こんな光景、初めて見たわ」
少女はやんわりと笑んで、僕の顔を見た。僕はそんな少女のような笑顔を初めて見た。
笑顔の少女は細い腕を空に伸ばし、銀の粒を集めていく。
死に装束の白が、星屑の光と同化して、少女がそのまま光の中に溶けてしまいそうに見えた。
僕はなぜか急に不安になって、ポケットにたった一つだけ残っていた、星屑の首飾りを少女にかけてやった。
「これをあげる」
「ありがとう」
少女は一瞬驚いたふうに僕を見、そしてにっこりと笑い、何の前触れもなく、ふわりと消えていった。
結局、少女は消えてしまった。いや、空に昇っていった、のだと思う。
僕はこんな出来事もあるのだな、と、いつものようにたくさんの星の欠片を眺めていた。
こんな変わったこともあって、なぜか僕は、どうしてここへ来てしまったのか、思い出そうとしたんだ。
今まで忘れてしまっていたのだから、本当は思い出さない方がいいのかもしれない。でも、あの少女がきっかけで、ふと思ったんだ。
僕も、死んでいるんじゃないかな、と。
それが本当か否かを証明することは僕にはできない。
いや、ここで死ぬことができれば、僕は生きていて、死ねなかったら、もう既に死んでいるのだとわかる。
尖った星の欠片を喉に当てた。目をつむり、思い切り横にひいたが、全く痛みを感じなかった。そればかりではない。血さえ、流れないのだ。僕の横にひく力が弱かったのだろうか。いや、そんなことはない、と思う。
僕は気付いた。これは異様に長い夢。
祖父から聞いた、星屑の丘の話を真に受けて、探しに行ったまま帰ってこなかった僕の夢なんだ。僕はいつまでも、目が覚めないんだ。
起きよ、と祈ったが、何も起こらなかった。
僕はまだ、夢の中だ。白銀の丘の中だ。
この星屑の光は、誰かに届くのだろうか。
さらさらと木漏れ日がさす。
そんな中、彼は一人、本を読んでいた。
静かな落ち着いた雰囲気。
それがこの風景に似合いすぎているような気がして
私は不意に悔しくなった。
いつものようにスケッチブックを広げる。
この風景を切り取るために。
「じゃま?」
ふいに彼が言った。
ひらがなの、こっちが悔しくなるくらいの優しい発音で。
「いいえ」
私は答える。
冷たく自然な発音。
「そう」
優しい静かな返事。
彼はそう言うと、また本に目を落とした。
私も静かに空間を切り取り始める。
鉛筆が紙の上を走る音。
彼がゆっくりとページをめくる音。
さらさらと木漏れ日がふりそそぐ音。
すべての音が優しく、そして心地いい。
不思議と彼のことは、ほとんど気にならなかった。
空気の中に溶け込んでいて。
まるで、この空間ができたときからそこにいたかのように。
不思議だ、と私は思った。
無心に絵に没頭しているのに彼のことばかり考えている。
静かに時は流れる。
彼は何も言わずに本を読み。
私は何も言わずに絵を書いた。
ふいに景色が赤に染まった。
夕暮れ。
彼は、ぱたんと本を閉じた。
見上げた私と視線があう。
「それじゃあ」
彼は静かにそう言って少し笑った。
私は彼を黙って見送った。
彼がいなくなった景色の色が薄れたように感じる。
鉛筆が思うように動かない。
今日はもう無理かな。
スケッチブックをゆっくりと閉じる。
そこに今日の景色を閉じ込めるように。
彼と共に過ごす時間。
それはごくゆっくりと静かに流れた。
彼が来ない日も私は絵を書いていたし、
私が来ない日も彼は本を読んでいたと思う。
ただ静かに、お互いに何も言わず心地よい沈黙だけが流れる。
私はただ景色を切り取りつづけたし
彼はただ本を読みつづけた。
いつのまにか、私はこの空間に惹かれていた。
ある日、私は彼にこう言った。
「書いてもいい?」
あなたを書いてもいい?
彼はやっぱり優しい静かな発音で答えた。
「動かないでいいなら」
彼はそう言うと少し笑った。
私も静かにそれに答える。
彼が本に目を落とす。
私は彼を白いステージの上に切り取っていった。
二人とも何も語らない。
彼は本に目を落としつづける。
私は彼をただ描いていく。
それが自然なことのように。
ごくごくゆるやかなときが流れる。
いつもの唐突な夕暮れが訪れる。
そして、いつものように彼は帰ってゆく。
私は紅いスケッチブックの上の彼を見た。
これは彼じゃないな。
私は静かにスケッチブックを閉じた。
次も、その次も私は彼を書いた。
それでも私は彼を捕まえられなかった。
書いている最中は確かに彼なのに
それが終わってしまうと、それは彼ではなくなった。
彼は一度もそれを見ようとはしなかった。
ただ、そこで本を読み、夕暮れとともに帰っていった。
そして私は紅く染まった彼を見て
やっぱり静かにスケッチブックを閉じるのだった。
ある日、私は彼を書くのをやめた。
そこにある景色を切り取ることにした。
木漏れ日の中、彼が一人本を読んでいるその景色を。
彼一人を切り取るには彼を知らなすぎたから。
私が知っている彼は景色の中にたたずむ彼だから。
私が切り取れるのは知っている彼だけだから。
私は景色の中の彼を切り取ろうと思った。
静かな沈黙だけが流れるその景色を、私はただ無心に切り取った。
気がついたらそれは完成していた。
ちびた鉛筆をゆっくりと置き、じっと見つめる。
紙の上に広がる風景はただ一点、彼に吸い寄せられていった。
そこにはまぎれもない彼がいた。
「見せてくれるかな?」
はじめてあった時のように、ふいに彼が言った。
優しい落ち着いた発音で。
「ええ」
私はそっと彼に近づくと、その風景を彼に手渡した。
本を静かに置くと、彼は私の切り取った風景をじっと見つめた。
限りなく優しい目で見つめる。
ふっと彼が笑った。
「僕みたいだね」
柔らかい優しい声で言う。
まっすぐに投げかけられる言葉。
「あなたですよ」
私も笑ってそう言った。
ひらがなの、自分でも驚くくらいの優しい発音で。
ふいに世界がむらさき色に染まった。
きれいな薄いむらさき色に。
そして景色が赤く染まる。
それでも、彼はじっと私の切り取った景色を眺めていた。
私も黙ってじっと彼を見つめていた。
「ありがとう」
彼は静かにそう言った。
ただ、静かに一言そう言った。
そして、その景色を私に返すと本を拾い上げた。
そして、じっと私を見つめる。
「それじゃあ、また」
いつものように彼は帰っていった。
いつものように静かな別れの挨拶だけ残して。
ふっと景色がぼやけた。
こんなにも静かな恋があるなんて。
私は静かにスケッチブックを閉じた。
彼は不自由で少し臆病な少年だった。
明るくて、朗らかで。
とても素直な、優しい少年だった。
「きみ、名前は?」
「あたし?…あたしは … … … …」
「え?」
急な突風は彼女の声を掻き消した。
聞き返そうと少年が少女を覗き込むと、彼女はにっこりと笑った。
「あなたは?」
可愛らしく澄んだ声に身を固める。
彼はざわりと驚いた心臓を押さえ込み、正太郎、と短く答えた。
「そう」
少女はもう一度にっこりと笑って―――去った。
残された少年は窓の外の彼女の面影を見つめたまま、ぼんやりと佇んでいた。
真っ白い世界の中、やっと『色』を見つけた気がした。
「こんにちは」
もう聞きなれた声に顔を上げる。彼女だった。
「こんにちは」
正太郎も挨拶を返す。
彼女は正太郎が白い壁にもたれて座っている隣に
同じように座った。
彼女は彼にことわることもなく、彼も彼女を咎めることはなかった。
そのまま、なんとはなしに時間が流れる。
ふたりで、同じ方向をぼんやりと見つめる。
それはいつのまにか習慣になっていて、何度目とも考えずにいた。
いや、考えたくなかったのかもしれない。
彼にとって時間は意味のないものだった。
一日の大半を白い壁の内側で過ごし、そのほとんどはベッドに沈んでいる。
時間を感じることはなかったし、果たして感じたところで何があったか。
それは彼女も同じことのようだった。
「…ねえ、君の名前は?」
幾度となく繰り返した質問を口にする。
彼女はいつも曖昧に微笑むだけで、答えようとはしない。
…その笑顔に、いつもなんとなく『まあいいか』という気分にさせられてしまう。
それが何度も繰り返され、彼は未だに彼女の名前を知らないままだった。
まあ、いいか。そんな気分が彼の中にふわりと降りる。
それは不思議な、でも悪くない気分だった。
「暑いね」
「暑いわ」
ほぼオウム返しな返答にも慣れ、むしろそれを彼女らしいとさえ感じる。
まったく慣れとは恐ろしいものだ、と少年らしからぬことを思ったりする。
少し遠くには緑が生い茂っていて、霞みがかってさえ見える。
不思議と虫の気配はなく、さわさわという穏やかな風と木陰、
その上に遠慮のない日差しだけが確かに存在していた。
「…ねえ」
珍しく自分から口を開いた彼女に視線だけ向ける。
彼女の髪がふわりと揺れた。
「猫が死んだわ」
率直な言葉。
その『猫』を彼は知らなかったためか、悲しみも同情も湧いては来なかった。
彼女の淡々とした口調に耳を傾け、次の言葉を待つ。
「黒猫だったの」
「うん」
「飼ってた子は泣いていたわ」
「うん」
「ねえ、死ぬってどういうことなのかしら」
その言葉に、ぼんやりと相槌を打っていた正太郎も驚いた。
彼女を見ると、彼女も正太郎を見た。
先程から全く変わらない表情。
「痛いのかしら。苦しいのかしら」
「…え…」
死とはどういうものなのか。
説明しようとしたが、自分には無理なことに気付いた。
「悲しいものなのかしら…」
どこかぼんやりと言葉を紡ぐ少女。
正太郎はなんとか答えようとした。
「…死ぬっていうことは」
死ぬということは。
生きていないということは。
「…会えなくなることだよ」
身体がそこにあっても、何も応えてはくれない。
彼が考えついた『死』は、それだった。
少女がゆっくりと彼に向き直る。
「それは…悲しいこと?」
「うん」
「あたしが『死ぬ』と、悲しい?」
「うん」
「…なら、死なないわ」
「うん」
「だから、あなたも死なないでね」
「…うん」
少女はゆっくりと漆黒の瞳を閉じた。
白い肌の上、瞳を縁取っていた長い睫毛が伏せられる。
彼はしばし少女に見惚れた。
「ねぇ。きみの名前は?」
「あたし… …あたしは」
不意に、彼の周りに木の葉が集まり始めた。
ざわざわと鳴り合いながら彼を取り囲むように緑が埋め尽くす。
「あたしは、ロリータ」
葉がかすれあう中、不思議に彼女の声がはっきり聞き取れた。
彼女はいつもの笑顔で笑い―――消えた。
正確に言うと、見えなくなった。
視界が緑に覆われ、何故か気が遠くなっていく。
彼は何かを掴もうと微かに手を動かすが、何も捕らえられなかった。
そこには何かがあったのか、何もなかったのか。
「正太郎」
幾度となく聞いた少女の声を最後に、彼は意識を手放した。
「………………………………」
気が付くと、目障りな光が自分を照らしていた。
見覚えのある白い世界。見たことのある人々。
一様に自分を覗き込んでいる大人たちが、彼の目にはどこか滑稽だった。
「…母さん」
考えるよりも先に口が動いた。
彼の傍らにいた女性は泣き崩れ、反対側にいた白衣の人々は歓声を上げた。
素晴らしい、これこそ奇跡だ、感動だと似たような言葉を繰り返す。
少年は彼らの笑顔を見ながら、自分の内部が冷えていることを感じていた。
「………………………」
一人きりになった部屋で窓の外を眺める。
あの少女と見た青い空が広がっていた。
「…ロリータ」
彼女にはもう会えない気がした。
同時に、また会えるような気もした。
『正太郎』
彼女の最後の言葉。
…ああ、そういえば。彼はふと気付いた。
彼女が自分を呼んだのは、あれ一回だったということ。
「…………………………」
彼女の笑顔が、鮮明に描き出される。
「…ロリータ」
あれは。
夢だったのだろうか?
―――――死なないわ
―――――あなたも死なないで
彼女にはもう会えない?
今、自分は本当に生きているのだろうか。
彼女に会えなくて。『生きて』いるのだろうか。
「…………………………」
死ぬということは。
会えなくなるということ。
「……ロリータ…」
あれは夢だったのか?
これは現実なのか?
―――――それは、あなたが決めることよ
不意に少女の影のようなものを見た気がした。
「…ロリータ?そこにいるの?」
窓の外で、少女が柔らかく微笑んだ。
幾度となく見た笑顔。糸が緩むような安心感が彼の中に広がった。
「良かった…もう会えないかと思った」
窓を開け放すと、少し遠い少女の髪が風に揺れる。
ふわりと、語りかけるように。
「…ねえロリータ…なんでこっちに来ないの?」
少女は少し彼を見上げ。
かすかに首を横に振ったように見えた。
「…来られないの?」
その問いかけに、正太郎をまっすぐ見つめる。
肯定の意がわかった。
「僕が、そっちに行ってもいい?」
彼女は何も答えなかった。
ただ彼を見つめる目は、優しくて。
すい、と、少女の白い手が差し出された。
それを半ばぼんやりと見つめる。
この手をとったら、もう二度とこの部屋には来られない。
何故か直感した。
多分、母親とも白衣の大人たちにも………
「………………」
これは夢?これは現実?
現実は、どっち?
とろけるような長い長い時間の中、ずっと一緒にいた彼女か。
直感で母親だと悟った女性や、白衣の人々か。
彼はあまり迷わなかった。
「君と一緒に帰るよ。あっちが僕の場所だから」
正太郎は彼女の手をとった。
確かに感触がある。
少し冷たくて、暖かくて、柔らかい少女の白い手。
何故か、ひどく安堵した。
「一緒に帰ろう ロリータ」
ロリータは小さく笑い、二人は手を繋いで窓の外へ出た。
さわりと、開いた窓から緩やかな風だけがその白い部屋に満ちていた。
「坊ちゃん、坊ちゃん、チョットお待ちなさいな、、」
幾分か慌てた様子の声に呼び止められ、少年は歩調を弛めて振り向いた。
見ると其処には窮屈そうな燕尾服に身を固めた白兎が一匹、ちょこんと佇んでいる。
兎の眼はまるで紅色硝子を嵌め込んだようで、純白の毛皮に燕尾服よりも強い印象を与えた。
「何か、」
「あなた此の時計を親方さんに届けて呉れますね?」
逢って間もないというのに、随分と不躾がましい事を云う。
生憎のところ少年は此の類いの馴れ馴れしさを苦手としており、
また紳士的な応対の仕方も心得ていなかった。
「何事だよ、いきなり。“親方”なんて僕は知らない。ついでに君の事もね、」
「莫迦な事を云っちゃあいけません。
弟子が親方を忘れて一体どうするって云うんです。
あなたがわたくし私の事を知らなくたって、私はあなたをちゃあんと知っていますよ。
嘯風堂と時計店の新しいお弟子さんで在りましょう、
それはそれは腕の好い家兎だと、此処らじゃ評判ですからねェ。」
「へェ。」
少年はもう好い加減呆れ返って兎を座視した。
「それでキミは僕が兎に見えるのかい、」
兎は一瞬間の抜けたような表情をしてその紅玉の瞳孔を目一杯見開き、
やがて素頓狂な声を挙げた。
「おやまあ!どうも耳の容が可笑しいと思ったらあなた、女王様と同じ種の方でしたか。
とんだ勘違いですな。大変失礼致しました。
ところで、それならやはりあなたもこれからお茶会へいらっしゃるのですねェ。」
「ああ・・・まァ、そんなところだね。」
何が“そんなところ”なのか自分でも判然としない。
「それなら私も御一緒させて頂いて好う御座いましょか、
見て下さい。ホラ、此の時計。」
そう云って兎は大袈裟に溜息をつ吐くと、先刻から手にぶら提げていた時計を
少年の掌に落した。
予想外にずしりと重い其れは、上等の白金でできた懐中時計だった。
円盤の一角に設けられた小さな鉤には、零れる雫を幾つも連ねたような細い鎖まで引掛けてある。
文字盤の数字は兎の睛の色相と同じ紅玉であしらわれた独特の飾り文字で、
射し込む光の加減によっては暗色の朱になり、また淡紅にもなる。
手の内で色々に傾けると、光彩陸離に色彩は変化した。
片硝子の向うの世界は少年に軽い衝撃を与え、やがて恍惚とさせるに値するものだ。
高価な品なのだろう、
兎の掌にぴったりと収まる規格外サイズの其れは、
職人達の業を駆使して創られた、此の世にひとつの特注品に違いなかった。
「立派なものだねェ、、」
少年が溜息混じりに嘆美すると、兎は誇らしげに目を細め、長い鬣をしきりに撫でた。
「そうでしょうそうでしょう、」
「あァ。まるでキミには釣り合わないよ。」
蝶ネクタイを結んだ胸を得意げに反らせて、兎は少年の皮肉にさえ気付かない。
「だけどこれが一体如何したって云うんだい。」
「もう一度よく目を凝らして御覧になって下さいまし。」
少年は時計を見つめた。
相変らず瀟洒な美しさで少年の心を独占する。
「本当に綺麗だ。」
「ええ、そうなのです、そうなのですけれど、、」
兎はなにやら焦れったそうに襟首のタイを弄んでいる。
少年には、何がそんなに歯切れ悪くさせるのか見当もつかない。
「何が不満だって云うんだい、こんなに素敵な時計なのに。
僕のいえ家庭ぢゃあ、例え誕生日に強請ったとしても買ってもらえそうに無い。」
母さんったら、誕生日にはいつ何時も兄さんのお古しか呉れないんだ、、
と少年はぼやいた。
「しかし其れは時計なのです。装飾よりも先ず、其れとしての役目と云うものがありましょう」
兎の云い方は何故か核心を意図的に逸れて、気短な少年には頗る焦れったい。
「もう良いだろう、
それで結局何が云いたいんだい。」
兎の瞳の中で一瞬、虹彩が閃いた様に見えた。
「止ってしまったんです、針が。
お蔭でこちらは時刻も判らず、お茶会には遅刻してばかりで御座います、、」
兎は嘆いたが、少年は少し退屈だった。
話の先が全く読めない上に、手に届かない物の自慢話まで聞かされて、
あげく挙句には不幸自慢など始めるつもりだろうか。
少年は如何して此処にいるのか、もう良く憶い出せなかった。
立ち去ろうと思い立っても、何処に行けばいいのか判らない。
そもそも自分は何処から来て、何故兎と出逢い、そして何処へ行くのだろう。
幾ら考えても、答えは掴めない。
胸にぽっかりと口を拡げた洞ろな穴が、其れを呑み込んでしまったかのようだった。
「おい兎、、」
呼びかけた声さえも、穴の中でコダマして呑み込まれていく。
波一つ立たない湖面に石を投げ込んだ時のように、深く、深く、波紋を残して沈んでゆく感覚。
応えは返って来ない。
紅玉の瞳の白兎など何処にも居ない。
少年は今、自分が独りである事を知った。
それとももしかしたら、もう随分と前から独りなのかも知れなかった。
≫≫少年は重い目蓋を持ち上げた。
紅く煌くのは夢の残像ではなく、既に大分低い位置を移ろう夕陽である。
森の入り口は柔らかな芝に覆われており、ついうとうとと居眠りしてしまったらしかった。
未だ醒めきらない身体で、ゆっくりと立ち上がる。
と。
シャラリ、と、玲瓏な響きを耳にして、少年は足元に眼差しを落とした。
其処に在ったのは見事な懐中時計。
西陽を吸い込んで紅玉は透徹り、水晶の被せ蓋はその光を拡散する。
少年は先程の奇妙な夢を思い出して微笑った。
夢の兎の瞳が今の光景にぴたりと重なる。
間違いない、此れは彼の白兎の懐中時計、、
背後で何かが動いたような気がして少年は振り返ったが、
其処には何の気配も無かった。
時計が直らない限り、兎は現れない。
その一方で、自分は何時までも彼と繋がっていられるのだ。
そんな気がした。
或る春の日の午后の事だった。