いつの間にか、ぼくはいじめっこにされていた。 毎日続くいじめにうんざりしている。 昔、いじめが社会的な悪とされた時代、大人たちが立ち上がり、いじめ撲滅運動を行った。 徹底して、いじめは悪い事だと子どもたちに教育した。 過剰に子どもへ干渉し、表向きはいじめが消えたように思えた。 けれど、いじめそのものがなくなったわけではない。 今は、更に悪質なものになった。 少しでも気に食わないクラスメートがいると大げさに騒ぎ、いじめられっこを作り上げる子どもが急増したのだ。 ぼくもそのケースで、たまたま隣の席の子の落とした消しゴムを踏んでしまった事から、クラス全体にいじめが広まった。 ちょっと動いただけで誰かが床に転がって痛がる。 言葉を口にしただけで、その言葉に傷ついて誰かが泣く。 一挙一動が何かしら周りを傷つけるのだ。 ジッと自分の席に座っていたからといって油断は出来ない。 今度は無視をされたと騒がれ、目が合えば睨みつけられたと被害者は増えていく。 そうして、ぼくはクラスメート全員をいじめているいじめっこになってしまった。 いじめっこたちは、ぼくの周りで騒ぐだけではない。 先生に言いつけるし、それを帰りの会で報告する。 「どうして皆をいじめるの?」 そう怒る先生は、クラスメート全員を一人でいじめられると思っているのだろうか。 ぼくは何も言えないで口を噤む。 初めは違うと否定していたけど、証言が揃えば負けてしまうのだ。 どう見てもぼくの方がいじめられているのに、現実は妙だ。 帰り道も油断できず、誰も通らない道を選んで歩く。 家の前で兄を見つけた瞬間、涙がわっと溢れた。 兄に駆け寄るなり、今までため込んでいたものが零れ出す。 今まで、いじめっこになってしまった事は、恥ずかしくて親には言えなかった。 兄は最初、驚いていたけど頭を撫でてくれた。 「お前は立派ないじめられっこじゃないか。よし、兄ちゃんがどうにかしてやる」 にかっと笑う兄に弱々しく頷く。 兄は、翌日小学校に行き先生に直談判したらしい。 その日からぼくの毎日は一変した。 ぼくはクラス唯一のいじめっこから、いじめられっこになった。 皆口々にぼくの悪口を言い、ぼくの事を無視する。 机を無意味に蹴られ、配布物はぼくの手の元には届けられない。 毎日、帰りの会でぼくをいじめるクラスメートが先生に怒られ、居心地の良ささえ感じる。 もう人をいじめないですむと思えば嬉しかった。 ぼくはいじめられっこになった。
「寒いからといって布団のなかであんまり長く縮こまっていると繭(まゆ)になりますよ」 母親が言ったので、そうしてぬくまっていた幼い娘はこわくなり、ようやく布団から抜けだした。朝のやさしい光がそよ風にゆらめくカーテンの間からさしこんでいて、少しまぶしかった。 さて、着がえを終えた娘は食卓について朝食をとっていた。そこで彼女は 「おかあさん、さっきのおはなしほんとう?」 と、聞いた。 「ええ、本当よ。布団のなかでじっとしているうちに体じゅうから細い細い糸がたくさんたくさん出るの。それがぐるぐるぐるぐる体をおおってね、最後には繭になって春がくるまでそこから出られなくなるみたいよ」 と、母親が答える。 なんでも、同じようにして起きるのをぐずっていた近所の男の子がそうして繭になってしまったのだという。春になってようやく繭の後ろがわが割れ、彼がそこから抜けだすと、その背中にはふさふさとした毛でおおわれた翅(はね)が生えていたということだった。 「おかあさん、そのほかはまゆになるまえとおなじだったの?」 「ほとんど同じだったけど肌が少し青白くなっていてね、頭からはやわらかい角が二本生えていたみたいなの。櫛(くし)みたいにいくつにも分かれた、ほら、こんなふうな角だったみたいよ」 言いながら、母親は指で長い一本の曲線を空中にえがき、それに沿うようにして短い間ごとに伸びるたくさんの横線を付け足した。 「へえ、ちょっとすてきじゃない」 「いいえ、それがそうじゃないのよ。その子はもうそれまでのその子とはまるで変わっちゃったんですって」 「あれ、おかあさん。さっきはほとんどいっしょだったっていってたでしょ」 「うん、見ためはね。でも、心や行動が全部変わっちゃったんですって」 繭からすっかり抜けだしてしばらくすると、男の子のしおれていた翅はしっかりとのび、少し透きとおって青白かった顔にもほのかに赤みと黄みがさした。彼は何も言わず、ひらかれた大きな窓の前までまっすぐに歩いていった。そして、彼の母親と兄の必死の呼びかけもむなしく翅を広げてはばたき、金色や銅色の鱗粉(りんぷん)をふりまきながら飛び去ってしまったのだという。男の子の心の最後のひらめきだろうか、彼は飛びたつときに二しずくの涙をこぼした。そして、それらはきらりと光りながら宙を落ちていったのだという。
ゆっくりと街が目を覚まし、悪臭を吐き出しながら呻き始めた。 その日の朝、母の腕の中で、温もりをお腹いっぱい食べたのを、覚えている。 いつになく強い風が、僕の頬をなでた。突然、不安に包まれた。無意識のうちに、頬に一筋の涙が伝った。不安の洪水の中で、手足をバタつかせながら必死に母の姿を探した。 一瞬だった。手で拭うより先に、風は僕の悲しみと一緒に涙を吹き飛ばした。いつも通りの母の笑顔が、ちゃんとそこにあった。 次の瞬間、僕の体は青すぎる空へと一気に吸い込まれた。 母の姿が、どんどん小さくなる。手を伸ばした。届かないのはわかっていても、そうせざるを得なかった。伸ばした手のずっと先に、母の悲しそうな笑顔が置き去りにされていた。 震えるこの指先に、母の体が触れることはもう二度とないことを悟った。恐怖で凍りついた心とは裏腹に、僕の体は、風の上で白く輝きなが、らひらひら舞った。風に乗っているらしい。 死の臭いの湧き上がる街が眼下に広がる。僕は死に物狂いで逃げた。真っ黒の地面が、途方もなく延々と、僕の下を追いかけてくる。決して風から落ちるまいと、風の体を手で探った。髭でも耳でもどこでもいい、何か摑まっていられるところはないか。しかし、どれだけ探っても、手に触れるものは何もなかった。僕は力なくほほ笑んだ。なすすべもなく、茫然と空を漂うことしかできないようだ。 ふと気がつくと、僕の体は重く生ぬるい臭気にすでに腰まで浸かっていた。追い払うんだ。焦りで言うことを聞かない手で、幾度も空を扇いだ。扇いでも扇いでも、その細かい粒子は、まるで天国の入り口を見つけた罪人かのように、鼻から口から爪の間から、僕の体内に入り込んでいく。強烈な吐き気に襲われた。頭がクラクラする。朦朧とする意識の中で、地球が僕を吸い寄せるのを感じた。 風は、あっという間に僕を振り払って、遠くへ消えていったらしい。最後に見たのは、目の前に広がる黒い地面だった。 その後のことはほとんど覚えていない。吐き気を及ぼす臭気と、焼け石のような暑さ、定期的になり響く頭の割れそうな轟音の中で、ほんの一瞬目を覚ました。油でべっとりと汚れ、黒くなった自慢の綿毛を見て、もう一度飛ぶことを諦めた。たぶん、その時僕の一生は終わったのだろう。最後に思い出したのは、真っ白な綿毛の兄弟と母の笑顔、湿った土の柔らかさ、心地よい草木の香りだった。