「ゴミ箱にセットしておくと便利なビニィル袋がないからってそれは住人の意思なんであって、たとえ今捨てたこの使用済コンドームから腐臭がし出したとしても、人が腐るにおいには負けると思うのね、わたし。どう思う?」 なんて非常識で馬鹿な女なんでしょう。いや確かに死体よりはましだとは思いますよ、においはね。でも問題はそこじゃなくて、このゴミ箱は使用済コンドーム専用箱ではないということなのだよ。噛み砕いて云うと私の体液と今日ゴミになるであろう山芋の擦ったアレとが一緒くたになるのが想像できてしまうということなのだよ。その上お前は私がせっかく施した栗原はるみ風ハイセンス海苔トッピングまで残してしまったじゃないか。あぁなんて気色の悪い組み合わせなんだろう。こんな思いをしてしまうのもひとえにおまえがゴミの分別という意識に欠けているからだ。 そんな様な言葉をぶつけた直後気づいた、今挙げたゴミは全て生ゴミではないか。しまったこれでは「ゴミの分別に欠ける」とは結論づけられない。そういえばこの女は月一の町内清掃日には一度も欠席したことのない地球に優しい一面も持っていたのだった。少し言い過ぎた、許せ恋人。そんな顔をしないでくれ、「眉をひそめたその美しい表情を見たいから時々こんな意地悪をしてしまうんだ」なんて悪趣味な本音を言ってしまいそうになるじゃないか。さぁ反論してくれ、今の私の非なら喜んで認めよう。 「そんなエゴイストだとは思わなかったわ。」 「エゴイスト」という表現は的確ではない気がするが……まぁいい、そのとおりだ、ゴミ箱の問題は今は保留にしようじゃないか。 「あなた一人の変な偏見より私たち二人にかかわることの方が重大だとは思わないの?」 …何を言っているんだ? 「そんな想像よりも「におい」はより現実的な問題でしょう。」 「まだ言うか、馬鹿女!!体液と死体のどっちがどう臭いなんてどうでもいいじゃないか!」 思わず怒鳴ってしまった。だって馬鹿なんだもの。 「もぅいいわ。そろそろ帰れば?」 うんざりした顔でそう言われたけれど私は帰らなかった。意地っ張りな彼女が死体の腐臭が体液のにおいを消すということを証明するために、自らの体で実験するようなことのないように。
沖縄的DNAは、感染する。感染した者の特徴は、伝統を放置することだ。女性の胎内にはすぐに宿る。沖縄的DNAは妊婦に継承される。過去は訓詁学となり、それを伝統と称するようになった。伝統は行事と名を変え、年々甦った。沖縄的DNA、その動物的血統証が行事の中で脈打っていた。 沖縄的DNAに感染した妊婦から、生まれた子供たちは、先天的に奇怪な道を与えられ、力を頼む者に従い、家庭では社会の乱れや異常な人を数多く知り、道行けば神経を煽られ、通りの壁に叩き付けられて行った。 制度である民主制(デモクラシー)を、彼らは絶対的模範(グルント・ノーム)とした。思想や信条、表現、出版の自由は保障され、民主制という制度がそれらすべてにタッチし、各人の模範は民主制に拠るものとされた。民主制の中でのみ自由は保障され、各人は民主制に基づく思想・信条・表現・出版の絶対的模範を持つことを前提とした。簡単に云えば、何をするにも皆の同意さえあらばいいのだった。住み易い者には住み易く、沖縄的動物的血統証の系譜に名を連ねない者には住み難かった。 高等教育の行き届いた沖縄的DNAの持ち主は、法を犯罪抑止力と信じた。絶対的模範である「民主制度」に従わず、自己の模範や主義に生きる者は、否定され、罵倒された。そうすることで、「民主制度」という絶対的模範を貫徹させつつあった。 俺は、こういう時代の、こういう町に、陳の霊公の亡霊を見た。彼は臣下の妻と通じ、その女の肌着を身に着けて朝に立ち、それを見せびらかした時、泄冶という臣が諫めて、殺された。暗殺・虐殺・裏切り・兄弟相姦・スワッピング・・・・・・あらゆるスキャンダルに、過激な刺激に馴れすぎてから、もう随分経っているので、誰もそれを話題にすることはない、この町で陳公の兄弟姉妹を祝福する牧師を見た。 現代を謳歌する女王たちの足元では、淫らな猫が戯れていた。あの猫のように踊るも大変だとボクは身震いした。現代文明に寄生しながら、それを無視できる仮面を被り、自由の女神の傍らで遊び暮らすのは退屈だと大欠伸を繰り返した。今日も外では運動がさかんに行われている。民主制を絶対的模範とする喧伝が行われている。外の喧騒にはカーテンを引いた。壁掛けの時計の音が異様に部屋一杯に響いている。俺は俺の心を、民主制度から切り離した。これを打明けた以上、今夜にでも異端裁判で悪魔にされてしまうだろう。リンチ死体を俺を俺の心が眺める!
――真夜中にギターを弾いている。そんな寂しい男のお話。 午前三時。ウィスキーを冷たい紅茶で割って飲む。たいして美味しくない。でも、ほかに飲むものがないから仕方ない。酔ってくれれば、気分だからそれでいい。 二流メーカーのギターの音は、たどたどしいフレーズを繰り返すばかりでちっとも上手くゆかず、寂し気で、どうしても気分ばかり沈むので、気分一発、チョーキングかまして誤魔化す。そして、また、ひとくち酒を飲む。・・・煙草がなくなった。買い置きもない。自動販売機もこの時間じゃ売ってない。仕方がないので、灰皿から選って少し長めのシケモクを吸う。 やっぱり、深夜じゃどうしたってこんなカンジだな・・・。わびしい・・・。 若い頃はこんなふうなのがイカすと思ってたけど、三十も過ぎてくると、シケモク吸いながらギターを相手に夜更かしなんて、ちっともカッコイイとは思えない。 「なぁ、おまえ。いい歳こいて何やってんだ」。壁の隙間から声がする。ギターを弾きながら、その台詞を口ずさんでみる。――あぁ、歌だ。――実感だ。 深夜に唄えば、なんだって名曲だ。 何故、カミさんに別れられたのか。・・・よぉくわかる。自分がカミさんの立場だったら、こんな奴ぁほっておく。仕事もロクにしない。かと言って、貪欲に夢を追いかけない。他所からとってくる金より、自前の言葉ばかり多い。うだつの上がらないポーズでいつも、いつまでも、ブルージーなうしろ髪ひかれる孤独な青年でいたい・・・。 カミさんには優しかったけれども、それ以上に自分に優しい。彼女を大事にしているけれども、やっぱり自分の方が大事。一人よがりの愛情だと、彼女も気がついたのだ。――だから、目の前から居なくなった。 真夜中のギターの音は寂しい。アンプにつながない生音は、なおショボい。 小さく口ずさむ歌は、哀れなブルース。 小さい秋の、微かな虫の声。――夜はこつこつと更けてゆく。
歩いていた。ただずっとずっと歩いていた。ここがどこかも分からなかった。目的地も分からなかった。それでも、ただずっと歩いていた。 しばらく歩くと、大きな川があった。「秋宮麻奈さんですね。」20歳くらいだろうか。男の人に会った。「ここは三途の川です。」私はびっくりした。三途の川。おばあちゃんから聞いたことがある。死んだらそこに行くのだと。「わ、私、死んだの?」「まぁ一般的には死んだことになっていますが、正式には死んだことにはなっていません。この川を渡って、初めて死んだと正式にいえるのです。」男の人は丁寧に説明してくれた。「ここをわたれば良いのね?」「はい。でもその前に、川原に石を積んでください。」これもおばあちゃんから聞いたことがある。全部石を積むと、鬼がまた崩すのだ。そして永遠にその繰り返し。親より先に死んだ罰として。「積んだら、あなたが崩すの?」「崩す?」「おばあちゃんから聞いたの。親より先に死んだ罰として、全部石を積むと鬼がまた崩すって。」「それは迷信です。私らはそんな悪い者ではありません。」鬼はハハハと笑っていった。「ただ、証明するのです。本当に死んでよかった者なのかどうか。」私は石を積み上げた。石は自分の背丈だけ積み上げれば良いそうだ。このときだけは背の順が前から1番目でよかったと思う。積み上げながら、いろいろなことを考えた。明日出るはずの給食のビビンバ、仲直りできなかった友達、好きな男の子のこと、釣り好きのお父さん、料理のおいしいお母さん、よく喧嘩したお姉ちゃん、育てていたアサガオ・・・・・「死にたくない。」そう思った。自分がどうして死んだかはよく覚えていないけど、自分はまだ死ぬべきじゃない。石は自分の顔のところまできた。「これ以上積むと、私、本当に死んじゃう・・・」いつの間にか手が出て、石を崩していた。石はガラガラと音を立てて崩れた。最初からやり直しだ。私はまた石を積み上げた。死にたくなかった。未練だらけだった。死んだら、もう誰にも会えない・・・また石を崩していた。 また石を崩した。 また石を崩した。 死にたくなかった。何度も何度も積み上げては、石を崩してしまう。 ようやく気付いた。積み上げた石を崩す鬼というのは、未練だらけの自分だってこと。
「溶ける」2月。寒空の下、唐突に彼が言った。なぁ、溶けたくねぇ?意味が解らなかった。昨日の夜中に部屋の窓を開けて冷たい空気を部屋に入れて、明かりを全部消して暗闇の中ジッとしてたらさ・・・。・・・。冷たい空気に洗われて、自分自身が純粋になっていくような感覚になってさ。そのうち自分の体と精神(こころ)が空気中に溶け出していって素粒子レベルまで壊れていって、暗闇と一体化っていうか、大気に溶け込んだっていうか・・・。・・・。分かんない?こんな感じ?でさ、そのまま寝ちゃって朝起きたら何かとても新鮮な感覚でさ。まるで真夜中に溶けていった自分の肉体と精神(こころ)が日の出までに徐々に再生していって、朝日でもって新しい自分が凝固されたって感じ。どぉ、分かんない?・・・。・・・。・・・。分かんない。そうかぁ、分かんないかぁ。今だって、目をつぶって冷たい夜風に身を任せていれば溶け出すことは簡単なんだけど。なぁ、一緒に溶けてみねぇ?う〜ん。君の脳みそが溶けてんじゃない?そうかぁ、そうかもしんねぇ。けど、残念だなぁ。もったいないなぁ。月明かりのない、公園の片隅で彼は一人溶け始めていった。
八月のある蒸し暑い朝、有楽町の駅のプラットホームで、僕は思わず振り向いて、たった今すれ違った人の後姿を探した。それは、とても美しい瞳をした女の人だった。僕は電車に乗り込み、その人は電車を降りた。そこで僕とその人はすれ違った。顔なんか覚えていない。というよりも、顔はまったく印象に残らなかった。うつむき加減だったし、けして美人というわけではなかったようだったから。ただ、その瞳だけは違った。僕はそんなにも美しい瞳を見たのは初めてだった。昔見たことのある、霞んだ水晶の原石の中心で眠るように輝いていた緑色の石を思い出した。陽の届かない地下のプラットホーム、延々と流れ続ける人ごみの中で、ただその瞳だけが僕の心を捕まえたのだ。結局、その人は見当たらず、やがてベルが鳴ってゆっくりと扉が閉まる。僕の乗った電車はゆっくりと走り出した。それでも、僕は窓の外を流れる人ごみの中に、その人を探した。もう一度、あの黒曜石のような瞳を見たかったのだ。電車はスピードを上げ、あっという間にホームを抜け出し、真っ暗闇に突入した。僕は外の暗い壁を眺めながら、さっきの女性の瞳を思い出していた。暗闇に時々、ちかちかとライトが通り過ぎていく。ライトの光を目で追っていると、僕は不意に思い当たった。確証なんて別にない。本当になんとなく思ったのだ。彼女はひょっとして、かすかに泣いていたのではないだろうか、と。あの美しさは、涙の美しさだったのだ。僕の考えに答えるものはなかった。電車はただ走り続け、僕は目的地へと着いた。僕は電車を降りて、地上へ続く階段を上った。地上に出ると、夏の猛烈な太陽が僕を突き刺した。そして僕は、もう一度あの瞳を思い出した。僕は一瞬、少しだけ笑顔になった。毎日気の遠くなるほどの数の人々とすれ違い、遠ざかっていく中で、僕はそのうちのたった一人のことを、今朝はずっと思っていたのだ。恋焦がれるでもなく、憎しみにいらつくでもなく、ただぼんやりと思っていたのだ。まあ、そんな一日の始まりも、案外と悪くないかもなあ。そんなことを思って、僕は暑い太陽の下、焼けたアスファルトを踏みつけて歩き出した。慌しい一日が、また始まるのだ。
白昼のゲームセンターはうるさい。耳の中に蝿がいるかと思う。寛太郎は黙ってる、いや小さく何か口にしているような気もした。倦怠、何もしていないというのに疲労、何もしたくないのに自分が何もできないのは彼のせいだって思っている。競馬ゲームは本物顔負けの馬達が巨大スクリーンの中を走るけれど、お金は一生に一度も増えない。意味ない。寒いね。クーラーきかせすぎみたいじゃない。寛太郎は黙ったままメダルを入れ続けている。あたしの小さな声は聞き取られるはずが無かった。そんなことは知っていたのにシカトしないでよもういい別れるとこれまた小さく言ってあたしは素早くその場から歩み去って見せた。寛太郎にはわけがわかっていないのだろう、追いかけてくる気配が無い。あたしは広い店内を歩き回った。少し走って、日曜の家族の間をすり抜ける。奥さんは綺麗なのに、子供は不細工で、旦那さんは赤ら顔で不潔そうに見える。そして楽しくなさそうだった。小走りのあたしをじっと見ているおじいさんがいた。おそらく年金と暇とで退屈な苦痛を味わっている彼は一人だった。自動販売機の前に座り込んでいる少女達はグレーのスエットをだらしなく着て、あたしを見て笑った。あたしと同い年くらいなのに年下に見えるのはあたしにも彼女達のような時期があったから。寛太郎はずっと追いかけてきててすぐ側まで来てた。そしてトイレに向かって走るあたしの手首をつかんだ。てめえ、おいなにしてんだ。その形相が予想以上に怖かったから彼の右手を振り払って中に入った。息を切らしたまま鏡をみると、あたしの目は真っ赤で涙を流していた。誰かが来て見られると困るので個室の鍵をしめてから壁に寄りかかって背中を滑らせ、そのまま床にへたり込んだ。ズ、ズズ。うまくいかない。あたしの空は真っ黒だ。ゲームセンターのトイレでは、昼か夜か、天気もわからない状態だから。寛太郎はトイレの外で待っている。見ていないけれどわかる。でも手を握ったりキスをしたりして、ごめん俺が悪かったなんて絶対言わないそんな感動の結末はない、あたしが悪いんだから。結局お前が悪いんだろ、とさんざん叱られた後で泣いて謝るあたしを泣けば謝れば済むと思っているのかとさらにお説教が続いて数時間後やっと元に戻るくらいだろう。うまくいかない。でもあたしはとっくに個室から出ていた。それからあたしは沈み浮き上がる樽のようにトイレのドアを押した。
デジカメを構えている孝志の前で、女の子がかわりばんこに気取ったポーズをつくっている。幸子までが、カメラの前でにっこりしたのはショックだった。こんな光景を見たせいか、なんとなく授業に身がはいらないまま一日が過ぎていった。 放課後、保健室の掃除をすませて、だれもいない教室にもどったとき、孝志の手提げかばんからのぞいている銀色のカメラに目がくぎづけになった。気がつくと、カメラを自分のかばんにおしこみ、廊下に飛び出していた。 公園のベンチに腰をおろすと、孝志が撮った写真をビュー画面に表示させてみた。何枚目かで幸子の笑顔がアップになったとたん、どぎまぎして思わず撮影モードに切り替えた。 気分をかえて、おばさんに連れられて公園に散歩にやってきた犬にレンズを向けた。すりきれたモップのような大きな犬だ。 犬は、木の横で片足をあげたりしていたが、急にこっちへやってきて、おすわりをした。『ぼくを写して』とでも言いたそうな顔だ。「一枚だけな…」 家の前で待っていると、孝志は、しょげたような顔で帰ってきた。何やらぶつぶつ言っている。「ごめん!」 カメラを孝志の手におしつけた。 孝志は、だまって家に入るとドアを乱暴にしめた。 次の日の朝、学校へ行くのは気が重かった。 とぼとぼ歩いていると、後ろから肩を叩かれた。ふりむくと、孝志がにやにやしていた。「これ、やるよ」 昨日の犬の写真をプリントアウトしたものだった。「ありがとう。でも、写したのは一枚なんだけど…?」 渡されたもう一枚の写真を見て、息をのんだ。幸子が、ぼくを見つめて笑っていた。
平屋建ての貸しアパートの前に座り込んで三本目のタバコをにじり消したところで、隣のアパートの引き戸が開いた。見ると、出てきたじじいが引き戸を閉めていた。よれよれのランニングを着た白髪のじじいで、なまっちろい素足にサンダルを引っ掛けていた。赤く充血した目は焦点があってないみたいだし、妙なじじいだな、と俺は思った。 砂利をこするようなじじいの足音が遠ざかって聞こえなくなると、ようやく俺の耳元で引き戸が開いた。「おっせーよ」立ち上がりながら俺は言い、四本目のタバコに火をつけた。白状すると少しばかり気持ち悪かったんだが、こんなときはタバコをふかしてなきゃいけねえ。そうだろ?「ちょっと・・」「ずいぶん待たせてくれんじゃねえか」俺はやつに誤る暇さえ与えねえ。「えらくなったな、おい?」 やつの表情が一瞬引きつる、が、それだけだ。心底俺にびびってやがるんだ。「まあいい、とっととブツをよこしな」「あんたって人はほんとに・・」「お世辞なんか聞きたかねえ!」俺は叫んだ。「とっととよこさねえか!」 やつもやっと諦めがついたらしい。差し出した俺の手に紙幣を握らせる。まったく、みみっちいったらありゃしねえ。こんなはした金が惜しいなんて。 そのうえ俺に取りいろうって必死になって話題探したあげく、何に使うのかなんてそんなつまんねえこと聞いてきやがったから、「さあな、とりあえずタバコでも買うとするよ。誰かさんを待ってる間にずいぶんと吸わなきゃなんなかったんでな」と皮肉を言ってやった。 俺はタバコをくわえたままで、質問という名の恩恵を施してやる。「おまえの方こそこれからなにすんだよ?」 ああやだやだ。憂鬱になるね。やっこさん、これから掃除するんだとよ。掃除!庶民の日常の風景!「まずてめえ、自分のツラ掃除した方がよさそうだな」 捨て台詞を完璧にきめて、俺はようやくこの掃き溜めのようなぼろアパート郡からおさらばできた。 ガキ共がキャッキャ言ってる神社を横切って道路を渡り、俺は千円札を自販機に食わせた。マルボロ以外なに買えってんだよ? まずお釣りをジャラジャラとジーンズの尻ポケットに収め、それからしゃがみこんで(ああ愛しのマルボロちゃん)マルボロに手を伸ばすと、突然すぐ横に気配を感じて俺は顔をあげた。さっき見たじじいの手をつかんだおばさんが立っていた。「あらヨシ君お母さんは?」「あ、いま、そ、掃除してます」
僕の名前は、キララ。流れ星なんだ。僕たち流れ星っていうのは、人間の願い事を、1つだけ叶えることができるんだ。 ほら。星が流れている間に、願い事を言うと叶うってよくいうでしょ。僕らは空から地まで流れている短い間に、人間の願い事を聞いて、それを叶えてあげるんだ。 でも、どんな願いでも叶えられるってわけじゃないんだけど……。 さあ。そろそろ願い事が聞こえてきたよ。 『○○君が私のことを好きでありますように』 だめだよ。そんな自分勝手なお願い。 『××校に合格できますように』 『宝くじが当たりますように』 『明日のテストで100点がとれますように』 ……みんな自分の事ばかり考えてる。自分が一番大切なのは分かるけど……。そんな願い事は叶えられないよ。このまま僕は、かなしく地に落ちるだけ……。 『皆が皆と友達でありますように』 えっ。何だろう。このあったかい願い事は? 『ねぇ、君はなんでそんな事を願うの?』 『だって……皆が皆と友達であるって……素晴らしい事じゃないかな……』 『その願い……叶えてあげるよ』 『ねえ……どんな願いでも努力をすれば必ず叶うと思うんだ……。だから、流れ星さんも素直に自分のお願いをしてもいいんじゃないかな……』 『……うん。……そうだね。ありがとう』 僕も……お願いしてみようかな。 『皆が自分の力で願いを叶えられますように……』
中学生の時、授業終了間際に放送が入った。『校内に犬が入り込みました。危険ですので近寄らないで下さい』 チャイムが鳴ると、複数のクラスから幾人かが駆け出していた。 私には彼らが理解できなかった。 二年後・・・ 私がトイレから手を拭きながら出ると何かが目前に存在していた。何か、というのはそれが異質すぎて頭が受け付けなかったのだ。 幼少の頃動物園で見たそれでは無かろうか? 大きいものは2.5メートルになるという世界最大の鳥・・・ その時、校内放送が入った。『農場から逃げ出したダチョウが校内に入り込みました。危険ですので近付かないでください。繰り返します・・・』 ・・・遅いよ、今頃こんな放送しても遅いよ。「ダチョウ・・・?」 バサっと羽を広げて威嚇された。うわ・・・まずいかなやっぱり。勢いで死の覚悟までして、頭を抱えてしゃがみこむ。パカンッ! タンッ! ボスッ! 何かが飛来して目前の、私にとっての恐怖の具現化に命中した。逃走するダチョウ。「三発命中! いけるぞ、追い込め!」「おうともさ!」 ゴーグルをかけていても目が輝いているだろうと分かる男子生徒が二人、走って来ている。一人は手に・・・パチンコ?「あんた、大丈夫か?」「え?・・・ああ、はいそれなりに」「立てるか?」「はい・・・あれ?」 少々非現実的な出来事に腰が抜けていた。「永田軍曹、先に行け。俺は負傷者を保護してから行く」「な、ずりいぞ自分だけ!」 何がずるいというのかこの人は・・・「敵前逃亡は軍法会議だぞ」「おぼえとけよ平賀大尉!」 投げ縄のような物を懐から取り出した永田軍曹とやらが既に遠く離れたダチョウを追って走る。「何処のクラスだ?」「に、2−Cです」「分かった。急ぐぞ」「え、あ、ちょっ・・・」 私は本当に戦場の負傷兵のように平賀大尉さんの肩を借り、駆け足のような速さで教室へ運ばれるのだった。・・・恥ずかしいなこれ。 授業中、教室の窓から見えたものは校庭でダチョウに引きずられる永田軍曹の姿だった。投げ縄で引っ掛けたのは良いけど最高時速70キロもの生物を止められる訳がなかったのだ。「あ」 サッカーゴールに登った平賀大尉がパチンコを構えている。あ、撃った。当たった。「お〜」 平賀軍曹が体勢を立て直し、踏ん張った。スピードを落としたダチョウに数人の生徒が飛びついていく。まるでラグビーみたいだ。「くすっ」 見るとふん縛られたダチョウへ歩いていく平賀大尉が3階にいる私を見つけ、ぐっと親指を立てていた。思わず私も親指を立てる。 なんとなく、中学の時に犬を追いかけていた人の気持ちが分かった気がした。 でもそんなことよりも、ダチョウ追いかけていた平賀大尉達が歴史の教科書にあるクロマニヨン人みたいに思えて、今頃になって笑いがこみ上げてくるのだった。 ※作者付記: 冒頭部は実話です。
本を読むのが大好き。どんな時でも読んでいる。バスの中でも、電車の中でも、授業中でも、病める時も、健やかなときもって・・・誓いの言葉じゃないいんだから。まぁ、とにかく本を読むのが好き。そんな私は感情移入しやすい。ところかまわず敵に激怒したり、悲しい運命に泣く。そんな私を見て母は言った。「あんまり同情すると人に騙されるよ。」人間不信に陥った悲しい奴め。もしも、感情移入をしなければ、ドラマやマンガや小説、そういうもので感動は望めないと思う。きっと感動するのは、登場人物と同じ境遇立たされたら自分はどうするかと考える。いつの間にか人間はそれを意識しないところでやってしまうすごい動物。そんな、能力を持っている動物に生まれてきたのに利用しないなんてもったいない。そう言うのは言い訳じみている?あんなことを言う母に対して父はこう言う。「本を読むのは、人生の勉強だ。」その通りですよお父さま!本を読めば異世界にぶっ飛んだり、美形の人と恋をしたり、いろんな人の考えを学んだり、と現実では起こりえないことまで体験できてしまうんですよ。周りの人はそれを現実逃避と言うけれど、人生の勉強なんだ、気にすんな!自分の道は自分で切り開け!そんなゴーイングマイウェイな自分がかなり好き。「グロテクスな表現は子供に悪影響だ。」という人がいた。完璧に間違っているとは言わないが、納得いかない。それを読んで、どう受け取るかは本人しだいなんだから、とやかく言わないいでほしい。例えば、これをやったら痛いんだからやめようと思う人もいるだろうし。逆に、ここをさせば死ぬのかと思う人もいるかもしれない。十人十色な訳だから、この世に誰にも悪影響をおよぼさないものなんて、ないのかもしれない。とにかく、どんな非難を浴びても私は本を読み続ける。だって人生の、私のバイブルだもの。 ※作者付記: これを読んで気分を害された方。これは私が思うことだけなので、こういうことを考える人もいるんだなぁ程度に流してください。
隣の新しい青い屋根の家に若い夫婦が引っ越してきた。二人でうちにあいさつに来て、それで、可愛い奥さんだなと思った。 奥さんの名前は佐倉南。その日の夕方、塾の帰りに郵便ポストをチラっと見たらそう書いてあった。栗毛の肩下の長い髪と、清純そうなイメージに似合わない、右耳の縁の軟骨の3つの透明ピアスが印象的だった。 南さんは次の日の朝、庭の草むしりをしていて、思い切って垣根越しに話しかけたら仲良くなった。そしてよく話をする仲になった。 去年の冬に結婚したとか、先週24歳になったとか、青い屋根の家に住むのが夢だったとか、学生のときバスケをしていて身長が165センチあるけど体重が44キロしかないとか、アメリカに新婚旅行に行ってNBAを見たとか、バイオリンが弾けるとか、色んな話をしてくれた。「私ね、高校で先生をしているの」 突然そう言われて驚いた。朝早く出かけて休日もいないときが多いみたいで何の仕事だろうと思っていたが、南さんのイメージから高校教師は全く連想されなかったのだ。「今の高校生って怖いわよねー」「何の教科ですか?」「数学」美術とか家庭科とか音楽系だと思ったからまた驚く。「…マジですか?」「本当よ。昔からの友達もみんな信じてくれないけど」「すごいですね。うらやましいな…」私は別に先生になりたいわけじゃないけど、可愛い幼な妻みたいな南さんが高校生に数学をバリバリ教えているところを想像したら、一気に憧れの気持ちが倍増した。「…陽子ちゃんは大学受験生でしょ?センターまでもう10週もないわね」「そうですね」 先生だと思ったら途端に受験の相談をしたくてウズウズしてくる。南さんは腕を組んで立っている。「国立なの?」「親が私立はダメって言うんで」「じゃあすべり止めもないのね?」「…落ちたらどうすればいいんですかねぇ…?」私は今までいろんな人にしてきた質問を南さんにもした。南さんは笑った。「…もし落ちたら結婚しちゃいなさいよ」 南さんはニッコリ笑ってそう言った。先生がそんなことを言うなんてと思ったが、南さんが言うと正しくも思えてくる。とにかく、そんな選択肢は私は一度も考えたことがなっかたのだ。 冗談だったのかもしれないが、私はこれがきっかけで大学受験という雰囲気の一種の酔いからすっかり冷めてしまった。 結局大学には受かった。しかしどこかでドロップアウトへの激しい憧れを抱いているのである。
以前はよく、人と話していた。 私の知ってる人達は大概、優しくて親切だったけど、よく嘘をついた。それは私以外の誰かをかばうものだったり、もちろんその人が自分をかばうものだったりしたけど、決して私を傷つけるものばかりだったわけじゃない。 でも、そうと決めた時にはまだ分からなかった。 右手に被せたパックンチョの折り紙(正式な名前は何て言うんだろう? 四枚の花びらを持つ花の中に指を突っ込んで、縦横に開閉させるアレ)としか、私は喋らなくなった。つまり、人と喋る時はパックンチョが代弁することになる。私の本音を。 いつだか、こんなことがあった。私の好きな誰かさんがこう言った。「○○ちゃんって、可愛いよな」 すると、パックンチョが低い声で言う。「時々、意味不明やけどな」 何故か、パックンチョは関西弁で喋る。 自然と友達の間から笑いが起こった。 天然の○○ちゃんはそれまで、男子には一部のファンが、女子には陰の薄い存在だったけど、その言葉がキッカケで皆と仲良く話すようになった。 もちろん良いことばかりじゃない。 大人は皆、気持ち悪いから止めろと言うし、クラスメートの中にも私のことを嫌う人もいる。でも、それだって私からすれば、パックンチョが来る前とどう違うの? と思わないでもない。 今一緒にいるパックンチョは、二十代目に当たる。白い画用紙のニクイ奴。一個、一ヶ月はもつ。つまり、五年生の頃から始めたので、もう二年近くも地声で人と会話していないことになる。何だか、本音で喋っているのかいないのか、分からなくなる今日この頃。 お母さんは私を頻繁に病院に連れていきたがるし、段々自分に自信がなくなってくる。お医者さんは優しく、「あせることないよ。飽きたら止めればいいんだよ」 と言ってくれるけど、お母さんの顔はそう言ってない。「ありがとう」 と関西弁のイントネーションでお礼を言うも、笑いなし。 お母さんは泣きそうになっている。毎回のことだけど。 今日。私がパックンチョと話しながら帰っていると、○○ちゃんが話し掛けてきた。「ねえねえ、あなたの好きな誰かさん、ホントはあなたが好きなんだってよ」 パックンチョが驚いて答える。「あいつはお前が可愛いって言うとったで」 驚いた目で○○ちゃんは反論した。「みんながいる前でホントの気持ちなんか言えるわけないでしょ!」 私は今、部屋でパックンチョを桃色に染めている。 ※作者付記: 宮崎あおいさんのイメージで。
「光る石を探す旅は終わり、また始まる」心の中のもう一人の僕は言う。 そう、またこれから始まる。君を探す旅が 光る石が僕に近づいたときのことを、僕は鮮明に思い出せる。光る石は初めは光ってはいなかった。僕は周りの大人達がなぜ「光る石」というのかそのときわからなかった。でもそれは一瞬にしてわかった。光る石はその硬い体の中に月を隠しもっていかのように静かに輝き始めた。その様は混沌とした深い眠りから眼が覚めたようにゆっくりと穏やかだった。そして立ち上がるようにすっと浮かび、僕に近づいた。それから僕を誘うかのように僕から離れたり、近づいたり、 その様子を見て大人達はさわぎだし、わけもわからぬ僕に「行け」と「旅に出ろ」といい旅の荷物を渡し、僕の背の急かすように押した。 光る石は蛍のようにゆらゆらと進み始めた。大人達は「追って探し出せ」と僕に言い、僕の背を押し続ける。そして僕はそのまま光る石を探す旅に出た。 光る石はあの時と同じようにゆらゆらと蛍のように進んだりしたり、または彗星のように素早くも進む彗星のように素早く進むと僕は光る石を見失い探し始める見つけたら蛍のように動き、また彗星のように進み、見失う。それのくりかえしだった。何日も幾日もただそれのくかえし やがて僕は飽き飽きし、疲れ始めた。そしてついに地べたに倒れこんだ。もうなにもかもがどうでもよくなったここで眠りにつきたかった。 光る石が近づいてくるのが感じられた。僕を見ているようだ。僕の周りをぐるぐる回って、そんなに僕がおもしろいのだろうか。眠りゆく意識の中で僕は思った。僕は眠りにつきたかった。しかしなにかがそれを阻んだ。誰かがささやく、それはいやに聞き覚えのある声だった。「眠るのではなく、進み続けろ」その声の持ち主は僕だった。そして僕ではない「君は誰?」「僕は僕自身さ、つまりお前自身ということさ、そしてお前であってお前ではないのさ」「僕は眠りたいんだ。」「それはお前の本当の意思ではないよ」もう一人の僕は言った「僕は立てないいんだ」「立てるよお前は、かならず立てるよ」そう言ってもう一人の僕は消えた。ボトッという音がした。光る石が僕の手の近くに落ちたのだ。その石には蛍より小さな光が宿っているだけだった。 僕は光る石を手にとった。光る石は震えていた。なにかに打ち震えていた。 僕は光る石を持って家に帰ろうと思った石まだ打ち震えていた。ずっとずっと打ち震えていた。 僕はそっと石に言った。「泣いているの?」石はまだ震えている。「お前は光る石の意味がわかるはずだよ、大人が言わなくてもきっとわかるはずだよ。」もう一人の僕の声が言った。僕はそっと石をなぜた。ごとごつと硬い感触だった。「君はどこかに行きたいの」震える石が微かにうなずいたような気がした。僕は胸の中でちくりという痛みを感じた。そして僕は石に言った。「行って、君がどこかに行きたいてことは僕がまだ未熟ってことでしょう」光る石は行った。蛍のように、彗星のように、そして僕はまた光る石を追う「光る石を探す旅は終わったがまた始まった」心の中のもう一人の僕は言う
帰宅する折に、私は珍しく旧国道経由のバスに乗り込んだ。後部座席に腰を下ろして車窓に目をやると、すでに自身の姿が映り込むほどに日は暮れていた。見つめ合うもう一人の私は、ひどく顔が痩けていた。田舎道をひた走るこのバスの利用者は少ない。駅前を出発した時点で、乗客数は5名に満たなかった。車内は埃が立ったように薄暗く、人々の背中には深い影が差していた。 世間の人々にとっては、今日のこの日も何気なく過ぎていく日常の中に埋もれてしまったのだろう。けれど私にとっては、今日という日がどれだけ特別だったことか。誰にも気付かれず、何事もなく過ぎていった25の誕生日が、どれだけ虚しかったことか。口に出して声にしなければ、気持ちなど伝わるはずもないのに、小心者なのだと自分に言い訳をして……。 私を乗せたバスが、踏切を横断して急に大きく揺れた。考え込んでいた私は、一瞬にして我に還った。そうして車内を見渡すと、いつの間にか乗客は私だけになっていた。身体を寒気がおそった。車外の暗闇が恐くなった。『次は終点……』聞き間違いだろうか、そんなに長く走っていただろうか。とにかく、私の降りるバス停からはかけ離れている。「運転手さん! 私、森宿で降りるはずだったんです!」運転席に駆け寄って叫ぶと、運転手はバックミラーごしに私を見て呟いた。「そりゃあ、災難だったねえ」「……何を呑気なことを! もうバスも電車も残っていないでしょう!」私が一方的にまくし立てているうちに、とうとうバスは終点に到着した。運転手は溜め息を一つ吐くと、煙草に火を点けて煙を深く吸い込んだ。鼻を突く匂いが余計に私を苛立たせた。「もういいわ、適当にタクシー拾うから! 扉を開けてよ!」せがむ私の横で、運転手は大げさにエンジンをかけ、バスを発進させた。「……事務所に行くついでだ」取り乱した自分を恥ずかしく思った。 バスは停留所を気にすることなく、目的地までの最短距離を行った。私は運転席の一番近くの席に腰掛け、膝を抱いて窓の外を眺めていた。街灯がチカチカいっているのや、信号の点滅する赤い光も、もう何も恐くはなかった。かえって、心地よいバスの揺れに身を委ねていた。 森宿に着くと、私は運転手に礼を言った。何か言い足りない気持ちと、温かさに包まれたままバスを降りた。家路を辿る道の途中、腕時計を何度も見返して笑った。私の誕生日は、とうに終わっていたのだ。
鍵を失くして、庭から出られなくなってしまった。辺りは黄色や赤の極彩色が枝で留まって庭全体を囲っている。それらが風に吹いて落ちたのか、足元はまるで丁寧に編まれた色とりどりの絨毯のようだ。溜息を吐けばそればかりが空気を震わす。何て静かな庭なのだろう。門は堅く閉ざされている。道行く老人に金属の細身な鍵を手渡され、この庭に入った。しかし鍵はいつの間にかポケットから消えていて、門の前で立ち往生した。そうしているうちに日は暮れ、庭内のライトが5つほど柔らかい光を灯した。正方形のこの庭の一角に申し訳程度に置かれたオブジェに腰を下ろす。緊張して立ちっぱなしだったせいか、腰がギシギシと軋む嫌な感覚を覚える。お腹は空かなかったが、家に帰りたくなった。普段は帰る事が億劫で仕方のないあの家を、心底恋しいと思う。誰も居ないのでその不安をぶちまけることも出来ない。どうなってしまうのだろう、と初めてその後の事というものが頭の中を掠める。そうだ、出られないままだったらどうすればいいのだろう。しかし考えて、やがて無駄だと悟った。出られないんじゃ、どうすることも出来ない。あまりにも静かで、風さえも身を潜めている。鞄の中を漁ったが、ペン3本を収めたペンケースと分厚い参考書位しか見当たらなくて、仕方なく歌を口ずさんだ。あまりに何もなくて、自発的に生み出せる物は音くらいだと思ったのだ。時間を埋めれるものを、それ位しか持っていない。飽きるのも時間の問題かもしれなかった。しかし知ってる限りの様々な音を口ずさみ続ける。夜は更けていった。朝になると、今度は歯を磨いて学校へ行きたくなった。いちいち出向くのが面倒で普段はろくすっぽ聞かない講義も、今なら喜んで聞き入るのにと思う。しかしこの庭から出る術が一晩たった今でも何一つ思い浮かばない。仕方なく、遠い過去の記憶であったラジオ体操をふと思い出して、体を動かしてみる。昔はいちいちこんな体操をする意味がさっぱりわからなかったのに、今やってみると体の節々が音を上げた。陽が照れば暑くなるだろう、雨が降れば濡れてしまうだろう。しかし空は裏切る事無く曇り続け、暇を持余して開いた参考書は普段見るよりもずっと知識の宝庫であることを誇示していた。大嫌いなパンの耳も、今なら与えられればいくらでも食べれると思う。リアルは庭の中だ。しかしこの怠惰な庭で、本当のリアルに戻りたいと、確かに願った。 ※作者付記: 現実が嫌なのに、現実に戻りたいなんて思うのが怖いと思ったのでこんなタイトルです。ホラーと言うわけではありません。
朝起きたらまずテレビに電源を入れる。朝の忙しい時間、テレビを時計代わりに利用するにするのが僕の日課になっていた。そして、しばらく経つと飼い猫がテレビの上で寝転びくつろぐのも涼しくなって来た秋の朝の日課になっているらしい。毎朝余裕の無い時を過ごす僕をあざ笑うかの様に、猫はテレビの時刻を気まぐれに隠す。昨日は後ろ足が一本ダランと垂れ下がり。今日は背中を向け狸の様な短い尻尾が垂れ下がっていた。明日は前足だろうか?等と考えているゆとりは無く、僕は毎日慌てて家を出る。呆れてるいるのか遊ばれてるのかは猫にしか分からない。その仕草に多少のイラつきは感じても、憎むほどでは無いので怒る気にはならないらしい。慌てる朝を過ごしていても心のどこかにゆとりがあるのだろうか?それを、自分に聞いても分からない。でも、猫は知っているのかもしれない。今日は家を出た後に少し時間が有る事に気が付いた。ふと、自分の住む四階を見上げると窓の隙間から短い尻尾が見えた。今まで僕が知らなかっただけで実は毎日窓から見送っていたのだろうか?試しに名前を呼んでみたら、短い尻尾が左右に数回動いた。朝からなんだかちょっと特した気分になった。明日からいきなり早起きは無理かもしれないが、五分間だけ早く家を出てみる事にしよう。テレビの今日の占いより、気まぐれ猫の短い尻尾の方が少しだけ幸せになれそうな気がした。
ある、夏の晴れた日。飼っていたウサギが死んだ。小屋の中、床に敷いた新聞紙は赤く染まっていた。僕は屈んで、小屋を覗き込んだ。そのウサギは随分長い間生きていた。僕がまだ小学生だった頃に親戚から貰ったのだから、10年以上生きていたことになる。そのウサギは目が赤かったので、安易にも「アカ」と名づけた。しかし、僕といえば別段動物が好きだったわけでもなく、世話好きな性格でもなかったので、アカの世話はほとんど親がしていた。その上、最近は部活や勉強の忙しさにかまけて世話どころかアカの姿すら見ていなかった。つまり、アカが居ても居なくても、僕にはこれといって変わりはないということだ。その証拠に涙すら出ない。その日、両親は仕事でこの家に居なかった。僕は夏休みで暇を持て余していた。アカを埋めてやれるのは僕だけだった。暫く考えた後、冷たくなったアカを抱いて公園へ向かった。これ以上ないほどに燃える太陽に遠慮してか、公園には誰もいなかった。僕は、アカを地面に横たわらせ、手で土を掘った。意外にも土は固く、なかなか掘り進められなかった。顎から汗が落ちて、地面ににじむ。「お兄さん。」振り向くと少女が立っていた。「これ、どうするの?」地面に横たわるアカを見て僕に問いかけた。「ああ、埋めたいんだ。」土を掘る手を休め、少女と目を合わせた。「これ、お兄さんの?」「ああ。」「なんで死んじゃったの。」「わからない。」そんな会話が僕と少女の間で何度も交わされた。そして次に、少女はこう言ってきた。「大切だったんだね。」「そうでもないよ。」考えるほどでもなく、僕はそう答えた。すると少女は僕の顔を覗き込んで笑いながらひとこと言った。「嘘。」そしてこうも付け加えた。「大切じゃないなら泣いたりしない。」言われて頬を触ると乾燥していた。それは涙が乾いた後によく似ていた。顎を伝って地面に落ちたのは汗ではなく、涙だった。アカが死んで、僕は泣いていたんだ。兄弟のいない僕にとって、アカは兄弟以上の存在だった。でもいつしか傍に居るのが当たり前で、面倒を見なくなった。それは悲しみと後悔の涙だった。「幸せだった。お兄さん、私のこと好きだったの知ってた。」はっとして振り返ると少女は居なかった。地面に横たわるアカを見ると笑ってる気がした。少女の目は、赤色だったかもしれない。失ったものは大きいことにやっと気が付いた。そして、僕は再び土を掘り始めた。
リサにはまだ翅がない。級友たちが次々に翅を生やす中、彼女だけが取り残されていた。勝気なエリカのはカマキリ、朗らかなキョウコのはテントウムシ。あのタツヤが透明なセミの翅とは驚きだ。がさつな彼にはカナブンか何かのほうがお似合いだが、何も生えていない自分よりはましだ、とリサは思う。高校生にもなって背中にスリットの無い制服だなんて。「焦らない、焦らない。卒業までには必ず生えてくるって。もしかしたらアゲハかも。あれは時間がかかるじゃない」 キョウコは慰めてくれる。黒髪と深緑の目に真っ赤な翅が映え、同性から見ても魅力的だ。彼女こそアゲハであっても不思議は無い。「私、アゲハよりもトンボがいい」 つい、ダダをこねたような口調になる。「そっか。リサはトンボが好きなんだ。軽くてどこまでも飛んでいけそうだもんね」 そう、トンボはいい。テントウムシよりも。虹色が見え隠れするシャボン玉みたいな翅を思い浮かべると、まるで抗議するかのように肩甲骨が鈍い痛みを訴えた。 家に帰るとリサは真っ先に冷蔵庫を開ける。翅成長ホルモンの分泌を促す、と何かの雑誌で読んで以来、ほおずきジュースを飲むのが日課になっていた。リビングでは妹のミカがだらしなく寝そべってテレビを見ている。「おかえり。お母さん、残業だって」「ふーん。またなんだ」 特大のコップにジュースを注ぎながら、それとなくミカの様子をうかがう。中学に入ってから妹はずいぶん背が伸びている。翅だって時間の問題だろう。(うかうかしてると先を越されちゃう) ムスッとした表情で妹の翅祝いをする自分の姿が目に浮かぶ。遠慮がちに喜ぶ妹や、気遣うような笑顔を見せる母。(嫌だ、そんなの) 不意に手元が狂い、ジュースがこぼれる。カウンターの上にたちまちオレンジ色の島ができた。そこでリサは我に返る。ぼんやりしている暇は無い。早く宿題を済ませて夕飯の準備をしなくては。コップを手に二階へ上がる。 少し青臭くて甘いほおずきジュースをガブ飲みしながら、リサは集中できずにいた。宿題よりも来週の「ミモザの夜会」のほうが気がかりだ。煙るようにミモザの咲きこぼれる満月、夜空は光る翅で埋め尽くされるだろう。(タツヤは誰かと一緒に行くのかな) そんなことが気になったりもして。肩甲骨がまた痛みだした。(どうか翅の兆しでありますように) 紫の空に満ちる香りを想いながら、リサはジュースを飲み干した。
「面白い話、してやろうか」 夕日により赤く染まった喫茶店の中で真北栄一はそう切り出した。「面白い話? うん、聞かして」 レモンティーを啜る嘉門唯は目を輝かせながら云う。二人は二年程付き合っている恋人だ。毎週土曜日にこうして喫茶店で雑談を楽しんでいる。 唯は面白い話の類は好きで、いつも栄一の聞き役になっていた。「これはなぁ、波吾琉(なみごりゅう)って云う建築家が設計した、軽井沢にある『星河塔』で起きた奇妙な事件の話」「奇妙な事件?」 唯は不思議そうな顔をしながら首を傾げる。「その夜――」――その夜、波吾琉が設計した“天の川を一望することが出来る”星河塔で一人の男が殺され、彼を殺害した男は最上階の部屋から忽然と消え去った……。 有名な音楽家である刃霧省吾に呼ばれて四人の男女が集まった。 彼らもまた、音楽に精通する者達である。 集結させられた理由と云うのが、刃霧の最高傑作『贖われた微笑み』の音源を四人の内の誰かに渡すと云うものだった。 そして二日目の夜、事件は起きた。 最上階の一室で刃霧が扼殺されていたのである。扉には鍵が掛かっていて、窓にもしっかりと鍵が閉められていた。 容疑は真っ先にその場にいなかった高江之成にかかった。 しかし、そんな“逃げようのない空間”を作り上げた理由も然る事ながら、いかにしてその部屋から脱出したと云うのだろう。 真下が森になっているため、落下時の衝撃が和らぐ可能性はあるが、それ以前に唯一の窓が首すら出せない程小さな物であるため、外へ出ることは不可能に見えた。 『贖われた微笑み』が収められた円盤が盗まれていたことも考慮に入れると、高江以外に犯人はいないのだが……。「で、その方法って? どうやって逃げたの?」 この奇妙な真北の話に唯は当然の如く、食い付く様な眼差しで訊いた。「知りたい?」「うん、知りたい!」「どうしよっかなぁ」真北は好物であるココアを手にしながら、少し焦らす様に云う。「教えてよぉ」「分かった、分かった」 一旦下を向き、少し格好つけてこう云った。「実はごく簡単なことだったんだ。犯人である高江は刃霧を殺した後、部屋を出て鍵を閉めた。それだけのこと」「え?」 唯には全く理解出来なかった。「どういうこと?」「俺は一言も“密室だった”とは云ってないし、鍵が部屋の中にあったとも云ってない」「あっ」 ようやく鈍感の唯も気付いた様だ。「ずるぅい」「じゃあ、もう一つ面白い話をしてやるよ……」 ※作者付記: 1000字ミステリーは非常に難しいですね。勉強になります。
私の夫は数年前同研究職員によって刺殺された 「コンニチハ」 原因はロボットと人間の共存というのを遠回しに示唆するよくできたサスペンス映画だった 近年ロボット工学はめざましい発展を遂げており同時にそれはロボットととの共存という問題も考えなければならない時期になっていた私と夫はロボット工学における製作、開発に大きな役割を担っていた特に最近独立型AIの研究に力を入れており、自分で考え思考するという人に限りなく近い意思を持ったロボットの製作に力を入れていた この研究、以前は社会的に賛否両論だった 意思を持ったロボットという新しい分野に人類の希望を見出そうとする者もいれば近い未来に対する人類の脅威になるのではないだろうかという考えもあった しかし最初は前者の考えのほうがかなりの割合を占めていたのかもしれない だれしもみな新しい未来のビジョンに希望を持ちたいものだろう しかし人もやはり独立した思考をもつAIだ。やはりすべてがみな同じ考えを持っているわけではなかった。あたりまえだ。 この映画は圧倒的後者だった。正直私もこの映画を見た時ぞっとするものがあった。細部まで細かく作られておりそれはまるで近未来の姿そのもののようにも思え、今までの私のロボットに対する価値観について深く考えさせられた この映画が上映されたのちテレビや雑誌にも取りだたされ独立AI製作に反対するものが日増しに強くなり夫の研究も徐々に追い詰められていった。 だが夫はあまり動じているそぶりも無く黙々と製作を続けていた夫は昔から機械以外は不器用な人で友達も全然いなかったらしく毎日機械を弄っていたそうだ。だからこのプロジェクトを任された時夫は嬉しそうに言っていた 「俺は昔から友達がいなくてだから世界中の俺みたいな奴に友達をつくってやれるから・・・なんか夢だったんだ、こういうの」 なんだか私はその時の夫の子供みたいな純粋さに思わず吹き出してしまい怒った夫は自分の部屋に篭ってしまった 私は思う今ここで開発をやめても私達じゃない誰かが必ず同じ道を歩もうとする。それは意思ある者には人の想像を超える希望があるからだ。何も見出せないまま終われるほど人の欲というものは穏やかではない だったら私は夫の純粋な夢に希望を持ちたい 「コンニチハ」私は目の前のロボットに対して少し戸惑いを見せる息子に笑顔で促す 「ほら大丈夫よ、挨拶は?」人見知りしているのか私の後ろで顔を覗かせつつも息子は静かに答えた 「こんにちは」
慶大病院の前まで来たとき、背中をポンと叩かれた。振り向くとやっぱりトシだった。「今日は駄目だよ」文学座の稽古場を出るとき巻いたつもりだった。「どっか行くのか」早稲田政経4回生の敏雄は右子と同じ文学座研究生だ。「銀座」右子はさらっと言った。「ホントかよ」午後八時だぜ右子が一人で銀座なんて変じゃんか。誰かと待ち合わせてんのか。「何しに行くんだよ」脳みそがパニクッている。「飲みにだよ」これはやばい。「誰と」「一人だよ」と言って、敏雄の顔も見ずに小走るように外苑東道路を渉った。「俺も行く」「駄目」ぴしゃりとやられた。「銀座の何処だよ」敏雄は諦めきれない。「7丁目の麻里」「ホントに一人なら、俺も一人で行くよ」我ながらうまい手だと思った。「勝手にすれば」右子はJR信濃町駅の改札を入った。「待ってくれよ」敏雄は百円玉と十円玉を流し込んで切符を抜き右子を追った。 四谷駅で快速に乗り換えると、右子の表情が穏やかになった。「麻里って、何で知っているのさ」「パパが好きなところなの」「連れて行ってもらったって訳か」敏雄は安堵した。「勝手な解釈しないでよ」 右子は麻里との出会いを話した。 その日、父に連れられて麻里のカウンターについた。「おめでとう、もう酒の味は知っているんだろうが、まあ二十歳になったんだ、今夜はパパと大いに飲もう」「大いになんて言わないでよ」初めてパパと乾杯した。「あら、お嬢さんだったの、トンちゃん(パパは東という名だ)が綺麗な娘を連れてどうしたんだろうと心配してたの。お嬢さんだったのね。お母さん似でしょう、とっても綺麗。ごめんなさいねお話聞いちゃたの、二十歳のお誕生日なのね、お祝いしなくっちゃ。ちょっと千鳥さん右子ちゃんに誕生祝いのお花を買ってきて」パパも右子も有無を言う間もなく千鳥さんはお財布を持って飛び出した。先客のおじさん達はみんな右子を見ている。穴があったら入りたいと言うのはこの事だと実感した。 その時カウンター奥の古い卓上電話が鳴った。「はいはい、はい」と、言いながら受話器を取ったママが急変した。「何いってんのよ、おまえさんが12時過ぎまで仕事だと言うから、あたしゃ2時まで開けていたんだ。1時頃来て閉まっているわけないだろう」と、怒鳴りだした。 昨夜は某出版社の若い編集員の誕生日だったらしい。ママは麻里でお祝いをする約束をした。平素は昼まで寝ているが、彼の好きな肉じゃがやおにぎり作りで早朝からキッチンに立っていた。「忙しかったの一言で済むものを何んだい、おまえ何時からそんなに偉く成ったんだい」ママは芯から悔しそうだ。右子は銀座は怖いと思った。 パパもおじさんたちもニコニコしている。ブランデー飲みつつ高みの見物だ。「下手な言い訳するんじゃないよ、もう来なくたっていいから、これまでの飲み代ぜんぶ払え」 安月給なのに作家の付き合いで銀座で飲むのは大変だろうと、出世払いと思っても何も言わず飲ませていた。「ビックリしたでしょう、右子ちゃん。ごめんね」と優しく微笑むママは、電話の怒りが嘘のようだった。「新森書房の森田君かね」作家と思しきおじさんがいった。「そう、忙しいのは結構よね」と言うママは美人だった。 右子はパパが麻里に立ち寄る気持ちが分かるような気がした。 勿論その夜は、パパが右子を介抱して深夜の家路を帰った。
たとえばアトリエ・ド・リーブのエクレール。長さ24cmのシュー皮でバナナとクリームをたっぷり挟み、焦がした砂糖のソースを飴状にかけた菓子だ。これをきれいに食べようとするのは至難だ。ホットドッグよろしくかぶりつけば、固い皮に押されてクリームがはみ出る。持ち直すと上面を覆うカラメルが指につく。失敗したくなければ皿の上で一口大に分割するのが無難だ。 彼女は手品のように食べる。優雅によどみなく、嬉しそうに。両手で持った菓子を角度を変えながら巧みに囓り取り、みるみる減らしていく。最後のかけらを満足気に食べ終えると、周囲の5人から感嘆の声が上がる。指先にも口の周りにも一片のクリームもついていない。 自転車にも乗れない彼女がどのような修行を経てこの技術を体得したのかは定かでないが、それは確かに技と呼ぶに値するものだった。そこは認めざるを得ない。 彼女はミルフィーユをフォークで分割できるし、西瓜を頬張っても口の周りがべたべたにならないし、ビッグマックの層を崩さずに完食する。きれいに食べることに関しては天才的に器用なのだ。そして食べるのが大好きときた。彼女の食べる姿を見んが為に、難しい食べ物をおごるという風習が仲間内で生まれたのも不思議からぬことだった。 喝采の中、ふと目が合って、彼女は肩をすくめる。俺は視線をそらす。別に嫌いなわけではない。皆がもてはやすのが気にくわないだけだ。 俺はナポリタンがきれいに食べられない。巨峰をむけば両手が汁だらけだ。でも俺は旨ければなんだっていいだろう派なのだ。汚れた手は洗えばいい。指についたケチャップは舐めればいいのだ。 故に、彼女とはあまりそりが合わない。それでも一緒にいるのは、単に確執が生じる前から友人だったからだ。そんなことで友達をやめるのも馬鹿げている。 と、珍しいことが起きた。彼女が誤ってグラスの水を倒したのだ。水はテーブルを走り、彼女のワンピースにこぼれ落ちた。俺は急いでグラスを確保し、傍らの紙ナプキンの束を彼女に投げて渡した。 彼女のスカートには大きな染みが出来てしまったが、まあ水だ。乾けばどうということもなかろう。と思ったが、彼女は泣き出しそうな顔をした。目を潤ませて、子供のように唇を歪め、濡れたスカートを握ってしょげかえった。 俺は愕然としていた。 彼女がへこんでいたからではない。あろうことかその瞬間、彼女に惚れてしまったからだ。
特急から乗り継いで1時間半。もうだいぶ日も落ちた終点の駅から、故郷の村まではさらにバスで1時間かかる。俺はスーツケースを下げ、ドアを開けて待つ古びた路線バスの、ところどころ錆の浮いたステップを上がった。50がらみの無口そうな運転手の脇を抜けると、乗客は学校帰りらしい女学生と、杖を抱えた老婆だけだ。俺が住んでいた頃と変わりない風景。 そして、入り口の近く、色褪せた二人掛けのシートに蛸が座っていた。 俺はうっかり蛸と目を合わせてしまった。蛸は一本だけ腕を上げて今晩は、と言った。「どちらから」 蛸が俺に聞いた。「東京から」「私は火星からです」 SF作家や宇宙研究家の長い時をかけた考察を鼻息でふふんと吹き飛ばすような姿に、これはいくらなんでもみんな怒るだろう、と俺は思ったが、遠くからたいへんですね、と話をあわせた。「旅行なんです。やっと休暇が取れまして」 蛸は時々、霧吹きで水をしゅしゅっと吹きかけて自分の体を湿らせていた。骨がない体はバスが揺れるたびにぶるぶると震える。蛸はちょっと陸の重力を持て余しているようにも見えた。「一人旅は何かと危ないでしょう」「この国は治安がいいですから」 そんなことを話しながら、俺はこいつから刺身何皿取れるのだろう、とか不謹慎なことを考えていた。「私は少し書を嗜むのですが、旅でもすれば、いいのが書けるかと思いまして」 そうですか、と言いながら、俺は頭の中で、墨、墨、墨…やはり自前か、などと不届きなことを考えていた。「この先の村に、著名な書家の記念館があるのです。そこに行くつもりなんです」 書家といえば、新田の茂じいのことか。あの助平爺が宇宙的な有名人だったとは。「記念館の庭にある四阿で、夕方まで書かせてくれるのです。そうだ。夜、時間があったら、一緒に飲みましょう。美味しい店を紹介してくれませんか」「いいですね」 酒蒸し、たこわさ、たこ焼き、唐揚げ、カルパッチョ、酢蛸…と居酒屋蛸づくしメニューが壊れたメリーゴーランドのように俺の頭の中で高速回転していた。そう、タコメーターが振り切れるくらいに速く。 俺は蛸から目をそらした。窓の外、すっかり暗くなった街灯のない舗道の向こうに、懐かしい村の燈がぽつぽつと灯っていた。 蛸と並んで揺られながら、そういえば、親父も時々旅行者を連れてきては、一緒に酒を飲んでいたっけな、と俺は思った。
目を開けると空があったすごいすごい大きな雲だ 赤く染まった空も綺麗だあたしはまじまじと見たなんで今日の空はこんなに綺麗なんだろう?まだ寝ていたいと思いながら寝返りをうった瞬間、あたしはびっくりして起き上がった。あたしは公園のベンチで寝ていた。慌ててバッグを探すが、ない。いや、それ以前にバッグなんて持ってきたっけ?眉をひそめながら、立ち上がる。人が少なかったのがせめてもの救いだと思った。今は夕方らしい。公園から子供たちが一斉に帰っていき、砂場の女の子と私の二人きりになった。あたしはその女の子にここはどこか訪ねようと、近付いた。見覚えのある子だった。「ねぇ、ここはどこかなぁ?」砂遊びに夢中になっていた女の子は少し驚いている。そして、公園の看板を指差した。ももやま公園それを見てあたしは、ここは母が昔入院していた病院の近くの公園だと気付いた。あたしどうやってこんな所まで来たんだっけ。思い出そうとすると頭が痛い。女の子を振り返ると、砂遊びを再開していた。あたしは、女の子があまりにもあたしに似ていることに気付いて、名前を聞いた。瑠璃あたしだ。「あたしね、久しぶりにお外に出たのみんなお母さんの看病で相手できないから、お外で遊んできていいよって、お母さんが」「そうなの?」そうだった。あの日に限ってそうだったんだ。あたしは久し振りに外に出られたことが嬉しくて、みんな帰っても、一人で遊んでいた。病室に戻ると母は息を引き取っていた。誰にも看取られず ひとりで「でも瑠璃ちゃん、もう夕方だし、帰ったほうがいいのよ」「なんで?」「お母さんが待ってるよ」「でも、次いつ来れるかわかんない」「そうだねだけど次来たらあたし一緒に遊んであげるよ」「わかった、じゃあ帰るね!」「それがいいよ、手を洗ってね」そして女の子は手を洗うと、病院に向かっていった。次目覚めると空ではなく、日に透ける茶色の髪が視界に入った。安藤君があたしの名前を呼んでいた。「どうしたの」言った後、凄く眠くて、あくびをした。ここは、そうだ。あの公園のベンチだ。今日は彼とこのあたりに物件を探しに来たのだった。「よかった、振り向いたら急にベンチに寝てるから。熱射病みたいだ」彼が安心した表情で濡らしたハンカチをあたしの額におく。「そう?」流れた涙は、過保護な彼のハンカチによって頬を伝うことはなかった。 ※作者付記: 初投稿です。拙い文ですが、宜しくお願いいたします。
「花には水をやりましたか。」そう私が聞くと、彼はだいたい「いいえ、まだです。」と答えました。 彼の大事にしていた犬が死んだとき、彼は大変沈んでいました。しかし、それから三日目あたりに、彼はどこからか花(花といってもまだ咲いてはいませんでしたが。)を持ってきて、庭のすみに植えましたが、その後に一向に世話をする気配がありませんでした。彼は、彼の犬が生きているうちは大変よくそれの面倒を見ていましたので、私はこれが不思議でなりませんでした。彼は初日に水をやった限りで、二日目、三日目となにもしませんでした。四日目には雨が降り、五日目にはどこかで遊んできた帰りに水をやっていた様子でしたが、回りの草取りなどの手入れは、やはり全くしないのでした。ですから、私はときどき庭へ出たついでに花の世話をすることがありましたが、とうとうある日彼を呼んで聞きました。 「あなたはどうして花の世話をしないのですか。」 「世話は御父さんがしているではないですか。」 「私はあなたがしないから、しているのです。あなたは、犬をよく世話をしていたではないですか、それは花と犬では違うということですか。」 「そんなつもりはありません。」 「では、どうしたことですか。」 彼は口ごもって、少し顔を下へ向けましたが、すぐに話し始めました。 「犬も花も死にます。可愛がるほど、死んだときは辛いのです。だから、どうしても気が進まなかったのです。」 それは未熟な考えではありましたが、私を驚かせました。彼は彼なりに、考えていたのです。私は本心では彼を信じていませんでした。彼は怠けているのだろうと思ったのです。しかし彼は、犬の死んだことで教訓を受け、それで彼の身の振り方を決めていたのです。それは成長でした。彼は成長する力を持っていたのですから、私はその行き先を、少し照らしてやればいいのでした。 「私も辛いのは嫌です。しかし私はあなたを育てていますが、あなたに食べ物を与えなかったり、字を教えなかったことがありましたか。私はあなたが健やかに育ってくれるのなら、私は辛いことも厭いません。また、それを考えません。あなたが育ってくれるほど嬉しくて、あなたが亡くなる日のことなど考えてはいられないのです。あなたも、あの花が咲いて欲しいから拾ってきたのでしょう。ならば、愛することを恐れてはいけません。」 それから彼は元通り、花の世話をよくするようになりましたが、私にはどうして彼が世話をするのが気の進まない花を持ってきたのか、そういう疑問が残りました。 やがてその花が咲いた頃、彼はある女の子を家へ招きました。彼がなぜ花を持ってきたのか、そのわけは知れました。 「ほら、うちにもこの花があると言っただろう。」 彼は嬉しそうに、彼女に言うのでした。
ぼくの鏡の中のぼく自身は、他の人のそれよりもおっちょこちょいで気まぐれである。たまに反応が遅れたり、右と左を間違って真似してしまうこともある。 生まれてこのかたずっとこんな調子だったので、これが普通なんだろうと最初の頃は思っていた。それが自分にだけ起こっている特殊な現象なんだということを知ったのは小学校五年生のときだった。 ふとしたきっかけから友達に「こういうことあるよねぇ」と同調を求めるようにそのことを尋ねたときに、ナニ言ってんだこいつ、といった感じで軽くあしらわれた。不思議に思ったぼくは、帰ってそのことを母親に話すと、ぼくがおかしくなってしまったのではないかと、本気で心配されてしまった。そのとき、ぼくの鏡についての話は他人に二度としゃべらないでいようと心に誓った。 こんなこともあった。 高校二年生のとき、「どうしてもっとかっこよく生まれなかったのだろうか。」と毎日のように鏡に向かってつぶやいていたことことがあった。そのコンプレックスは、日に日に増していき鏡を見ると怒りさえ覚えていた。当時のぼくは、クラスメイトに片思いをしていたのだ。 すると、ある日鏡の中のぼくは、いじけて家出してしまった。 あのときはさすがに焦った。このままでは美容室にも行けないし、タクシーにも乗れない。生活に様々な支障が出てしまう。結局、次の日には職場復帰してくれて、ぼくは胸を撫で下ろした。 それとは逆に、そのクラスメイトと付き合うことになった日のことである。うれしくて飛び跳ねたい気持ちを押し殺して家に帰ったとき、鏡の中のぼくは現実のぼくに向けて笑顔でピースサインをしてくれた。もちろん現実のぼく自身は、喜びを必死で隠したままである。 気まぐれで気分屋で、ある意味、職務怠慢気味な鏡の中のぼくであるが、ぼくのことをよく理解してくれている大切なパートナーの一人である。 ここだけの話、もう鏡の中のぼくに家出されるのはごめんなので、たまに鏡の中の自分を褒めてあげることにしている。他人が見るとナルシストだと思われるだろうから、絶対に誰も見ていないときに限ってではあるが、、、 そうするとぼく自身も少しだけ元気になれる。不思議と、、、