暗い部屋にいると、そのまま溶けて暗闇になってしまいそうだ。 不安に駆られ、私は尋ねる。「今、ここに存在してるのですか?」返事は、無い。私は、抜け殻になってしまったらしい。抜け殻の私は、一体誰なんだろう。抜け殻状態の私に周囲の人達が、気付くことは無い。 パンドラの箱は、とても有名な話だ。開けてはいけない、パンドラの箱。しかし、開けてしまう愚かな人間。そして邪悪や病魔などの全ての災いが飛び出し、世界中を埋め尽くす。途方に暮れる人間達。再びパンドラの箱の中を見る。そこには、とても小さくてふるえている者がいた。「あなたは、誰ですか?」と尋ねる人間。するとそのとても小さくてふるえている者が「私は、希望です。」と答える。 私に残された者は、何だろう。周囲の人達が、私が抜け殻だと気付かせないぐらい力のある者。それは、最後に残された私自身。きっと小さくてふるえているのだろう。 私は、パンドラの箱とは違う。だから、残っているものも『希望』ではないだろう。 いろいろな原因で、人は時に抜け殻になる。抜け殻といっても『無』ではない。もし『無』になってしまったら、いやそんなことはあり得ない。何かが、残っている筈だ。抜け殻状態に耐え切れず、死を選ぶ人、自分や他の人を傷付ける人、偽りの神にすがる人など様々な人がいる。確かに抜け殻状態は、かなり辛い。でも、私の場合は耐えられない程ではない。それは『無』ではないと、信じているからかもしれない。『無』であったら、生きてはいない。楽しいとか、悲しいとか感じることが、まだできるかの様に思わせる者が残っている。これは、ただの幻想なのかもしれない。確かにあるとは、言えない。でも、その幻想を与えている者は、確かに存在している。その者は、失った者を補う為に毎日疲労しながら力いっぱい働いているらしい。なぜなら、一日の間に何度か「休みたい」と、信号を送ってくる。その信号は、頭痛や眠気などである。その者は、私が体調を崩し横になっている日等は、かえって喜んでいる様に思える。 どんな仕事でも同様に作業量が変わらずに作業者が減ると、残された作業者の負担は大変なものになる。もし、10人でやっていた仕事を1人でやれと言われたらどうだろう。私なら、逃げ出す口実を考えるな。 しかし、人間に限らずこの世に存在する全てものは、いいかげんにはできていない。欠けている部分は、他で埋め合わせる。山を見てごらん。もし、変に削れたりしたら重力に耐えられなくなる。当然、元の形に近くなるように埋め合わせる。それが、自然の摂理だ。 抜け殻の私に残された者。私は、その者に感謝すべきなのだろうか。暗闇にならずにいられるのは、その残された者のおかげだ。 私に残された最後の心。その者の名は『意地』である。
街路樹のイチョウはハラハラと散っていた。俺は急いでいた。向かうところは会社の交渉先。さっさとこんな仕事終わらせて。やることはたくさんあるから。「忘れ物ですよ。」急いでいた足を止めた。道の端っこにあるベンチにおばあさんがすわっていた。「あ、ありがとうございます。」その『忘れ物』を受け取るため手を差し出した。が、おばあさんは何も持っていなかった。「あなたの忘れ物は、物じゃないわね。」おばあさんはにっこり笑った。「忘れ物が何か、あなた、分かる?」(何だよ。訳分かんねぇよ。何が言いたいんだよ。)俺はイライラした。ただでさえ 急いでいるのだ。こんな変人と話す暇などない。俺は忙しい。仕事だって今以上にこなさないといけない。裕福な暮らしからはほど遠いこの生活をなんとか変えないといけない。こんな忙しくて気が狂いそうなときに話しかけられたら、当然イライラする。「・・・いいえ。」できるだけ『イライラしてます』と声にこめてみた。「そう。よく考えてごらんなさい。」どこかで聞いたことのある声だった。あったかくて、怒るとものすごく怖くなる声。カバンの中を探ってみても何も忘れ物はなかった。「みつからないんですけど。」「物じゃないのよ・・・でもとっても大切なの。」俺のイライラも限界だ。「いいかげんに・・・・・・・・」おばあさんの目の下に、小さな傷があった。俺がまだ小さい時、母親と喧嘩して同じような傷をつけた記憶があった。「あんた・・・まさか・・・」おばあさんは、俺の手を握った。そして真っ直ぐ俺の目を見た。「空を見なさい。そうしたら、空が余分なものを流してくれるから。」小さいころ、同じことを母にも言われた。「あんた、もしかして・・・」「余分なものさえなくなれば、忘れ物を思い出すわ。」おばあさんはゆっくりと輪郭を消していった。そして、消えた。家に帰って、仏壇に手を合わせた。「母さん・・・・」そして空を見た。空をゆっくり見るのは久しぶりだった。金儲けしよう、出世しよう、裕福な暮らしをしよう・・・・そんな気持ちは少しずつ流れていった。そしてサボり精神がウズウズしてきた。「ふはぁ〜〜。」久しぶりに息抜きした気がした。こんなのほほんとした気分になったのは久しぶりだ。 そして俺は気付いたんだ。忘れ物はこういう小さな幸せじゃないかって。今日の空はまた、特別に青くて透き通っていた。
明日が今日と同じ日でありませんように。 昨日が今日に歯止めをかけませんように。 群青色の空の中心を眺めて、歩いている男女がいる。特に身を寄せ合うでなく、二人は墓地の砂利道を呆けたように歩いている。 風はなく、気持ちの良い秋の真昼間。彼らを無数に取り囲む、迷路のような、遺跡のような墓標の群れが続く。 男は上を向いたまま、女に話し掛ける。「ごめん」 女は男の方を見て、何で? と問いかけた。広々とした墓地の何処かで、子供のはしゃぐ声と犬の鳴き声がする。 男は笑って、わからない、と言葉を返した。「卒業できそう?」 女が逆に男に尋ねた。 男はそれにも笑って、わからない、でももう関係ないだろ、と言い、女に優しげな目を向けた。 女は男に、自分のアルバイト先である洋服店をやめたことを告げた。そして、自分の家族は今日の夕方必ず家で食事を取るということを男に伝えた。 ちょうどその時、二人は霊園にある寂しげで小さな池に差しかかった。水は濁って緑色。そばにある六体の水子地蔵に線香が焚かれ、薄い煙を揺らしていた。 ふと女は立ち止まると、膝まであるスカートを手繰り寄せ、水辺に屈みこんだ。男もそれに習う。二人して、しばらく濁った水を眺める。「今日で、このデートも終わりかな?」 男は何も答えない。それでも、なぜか満ち足りた空気が二人の間に流れる。他人からすれば不自然な沈黙の後、「終わらせないためにやるんだろ」 その声は少ししゃがれていた。そして、これはデートだったのか、だとしたら何て場所にいるんだろうと、男は少し我に返った。 女はあごを引いて、鮮やかな桃色の唇を震わせる。「最初に弟を。次にお母さん。お父さんには一番苦しんでもらうの」「わかってる。俺の家族は俺一人で」「ダメよ」「ダメじゃない」「二人でやるの。全部。一人は嫌だよ」「わかった。ありがとう」 女は泣いていた。男は女が泣くのを見るのはこれで二度目だった。ふつふつと憎しみが胸の中に膨らんだ。 二人のデートコースの最後はいつも、水子地蔵にお参りすることだった。どこか遠くで鳥が鳴いている。 女は地蔵の前に跪くとまたシクシクと泣き出した。 二人は中学生の時、堕胎した子供の名前を覚えていた。 男は突然、脇に突き立った卒塔婆を引き抜くと、地蔵に殴りかかった。 バキッと音を立て、地蔵の首が転がった。 男は女に二度と同じ思いをさせないつもりだった。
※作者付記: 「GOTH」のファンだった大阪の女の子が彼氏と犯した殺人事件をテーマに描きました。決して、中傷や批判ではありません。僕もファンです。
「シロ」は僕がまだ小さい頃、やって来た。母さんの腕に抱かれて、こっちを不思議そうに見ていた。最初は、なんだこいつ、って思った。僕と同じ真っ黒な毛のくせにシロなんて呼ばれてるし、何よりこの家で1番可愛がられてたのは今まで僕だったのに、シロが来てから皆の目は僕から離れていってしまった。その上、僕が毎日母さんと一緒にしていた散歩にまで着いて来る。みんな、シロの味方だった。ムカついて、飛び掛ってやろうとしたら母さんに怒られた。シロは、寝転がってこっちを不思議そうに見ていた。その目を見たら、不思議と気分が落ち着いた。いつからか何かが変わった。僕はシロと仲良くなっていた。シロが遊ぼうと言ってボールを持ってくる。散歩に行こうと駆け寄ってくる。いつの間にか、母さんと僕とシロの散歩が僕とシロだけの散歩へと変わっていた。僕とシロは友達になった。毎日が楽しかった。僕も、シロも、一緒に少しずつ成長して、でも関係は変わらない。僕はシロが大好きになった。何年も経った。僕にはシロの居ない生活なんて考えられなくなってた。それはきっとシロも同じ。シロは体が大きかったから、僕を守ろうとしてた。でも、僕だってシロを守りたかった。その日は雨が降っていた。シロは、こんな日の散歩はあまり好きじゃなかったから、早く済まそうと僕を引っ張った。しょうがないから僕は走ってやった。家へ向かう道を、シロと追いかけっこするつもりで走った。シロが僕の少し前を走っていた。大きな道路へ差し掛かったとき、大きな音がした。ダンプカーがシロに迫っていた。危ない、と思った。全速力で走った。シロを守りたかった。息が切れる。シロに体当たりする。シロが驚いてこっちを見てる。ダンプカーがもう迫ってきてる。僕には逃げる時間がない。それでも、嬉しかった。僕は、シロを守って死んだ。「ごめん、ごめんね。」少年は、泣きながら死んだ犬にすがりつく。少年の母親が、その肩に手を置く。「違うわ。」その声に、少年が顔を上げる。「違うって何が。こいつは僕を守って死んだんだよ。僕のせいで死んだんだ。」母親は、少年を見つめて優しく諭す。「城(シロ)、あなたは守られたの。ね、いい事してもらったときはなんて言うの?ごめんじゃないでしょう。」しばしの沈黙の後、少年は口を開いた。「ありがとう、クロ。」ある雨の降る日、ある黒い犬が、大好きな友達を守って死んだ。
「博士! ついに完成しました」 ここは、とある大学のとある研究室。若い研究生が興奮気味に言った。「長年の研究の成果が…ついに…」 充血した目を左手でこする。彼はこの薬品の調合のために、昨日の朝から今日の夕暮れまで、三十時間以上眠っていなかった。 窓際の椅子で居眠りをしていた髭面の教授がその声に飛び起きた。研究生が持つフラスコを乱暴に奪い取り、唇の右端をつり上げて言う。「す、素晴らしい。私の理論に狂いはなかった。やはり私には天賦の才がある」 傍らで呆れている若者には目もくれない。「これは全人類にとって、革命的な発明である」 彼はひとり悦に入っていた。 彼らが研究していたものは、簡単に言えば蚊取り線香である。と言っても本当に蚊取り線香なわけではない。人類にとって邪魔となるもの、例えば蚊やダニ、それに類するありとあらゆる虫を駆除することが出来る薬品である。虫だけに留まらない。この薬品は、高速道路の騒音や、生ゴミのすえた臭いをも消し去ってしまうことが出来るのである。つまり、人類が「不快だ」と感じるもの全てを排除する薬品なのである。「博士、早速試してみましょう」 そう言うと、研究生は数匹の蚊が入ったプラスチック容器を戸棚から取り出した。 博士は何やらぶつぶつ言っている。どうやら記者会見で何を言おうか考えているらしい。 若者はフラスコを取り返すと、容器のふたの端を開け少量の液を流し込んだ。数秒後、蚊が消えた。「やりました! やはり博士の言う通りになりました。これで人類の辞書から不快という文字が消える」 博士は研究生に近寄ると、目を怒らせて言った。「君、勝手に使用されちゃ困るよ。これは私の研究成果なのだからね」 若者はため息をつく。別に怒りもしない。慣れたことだった。 翌日、広場には巨大な壺が置かれていた。高さは博士の身長の三倍はあるだろうか。騒ぎを聞きつけたマスコミ関係者も来ているようだった。「お、やっと来たかね。一応君にも協力してもらったからね。ずっと待っていたんだよ」 二人を大勢の人間が取り囲んだ。目を輝かせている。「皆さんお待たせしました。今日という日は人類の歴史に永遠に刻まれる一日になることでしょう」 そういうと博士は壺の蓋代わりにしていたビニールシートをはぎ取った。「さぁ、人類に負の感情を抱かせるものよ。全て消えてし…」数秒後、そこにあるのは巨大な壺だけとなっていた。
青臭さの表面にシャンプーやリンス、デオドラント。 つんつんに尖らせた甘い香りを身にまとい、女子学生は群れを成している。 初めての土地なので、ローカル情報は知らない。夜八時台の列車が女子学生で満員になるなんて知らない。横長の座席で小さくなっている俺を囲んで、女子学生の群れはハイティーンなバカ明るい雰囲気を弾けさせている。 耳にねじこんだイヤホンから爆音のロックンロール、突き抜けて女子学生たちの嬌声。群れの視線が時折俺の額のあたりを舐める。 うかつに動けない。監視されているようだ。 制服の大群の中で、俺は黒一点、二十代のメガネ男だ。 半径数メートル内で唯一のスリッポンを、じっと見る。つま先を揺らす。三ヶ月前に買ったばかりだが、少し剥げている。 ローファーの隙間に学生カバンが置かれている。鈍く光る黒みにステッカーがべたべた貼られている。 視界の至る所に乱立する白いソックスと肌色の雑木林。分け入りたい衝動が起こらないわけではない。しかしこらえるほどでもない。衝動は、無邪気さでコーティングされた残酷性を前に、青く沈む。 女子学生の視線と声の無遠慮さ、制服から生まれる圧倒的な存在感。眩しさに萎縮して、衝動は沈み込む。 沈み込む俺の頭上で、プリクラの交換が行なわれる。黄色い爆笑が横断する。 ちら、と目を上げると、白く細い手首が眼前にあった。しなやかに、ブラウスの袖の中に伸びている。 パッツン前髪ボブカット、俺のすぐ前に立っている女子学生と俺の視線が、絡まる。 きつい一文字のくちびるがリップで淡く光っている。 パッツン女子学生が口を開いた。 なに、と素早く動いた。 俺を取り巻く群れが、しん、と冷たく閉じた。 イヤホンからの爆音が静かすぎる。列車の振動が尻を伝って半身を揺らす。パッ ツン女子学生が、俺を見ている。 俺はイヤホンを外して、え、と声を出した。ざらざらした声が、車内に溶けずに足元に転がる。 女子学生は、周囲の群れに視線を走らせながら、オニーサンいま、見てたでしょ、と笑った。とたん、見上げる位置にある無数の白いあごが、一斉にけらけらと揺れ出した。 いま、アタシのこと見てたでしょ、けらけらけら。 女子学生のあごが、肩が、揺れる。 八時台のローカル線が、女子学生を乗せて揺れる。 俺はスリッポンのつま先に再び焦点を合わせる。俺も揺れる。 バッグを胸元に抱え込んだ。次の駅で降りる。
私は牢屋の看守を勤めているもんですけどね、酷いもんですよあそこは。なんていったって、入ってくる輩が酷い。入ってきたら最後、鉄格子越しにこちらのことを蹴って来たり、酷い罵声を浴びせられるんですから。 まあそんな時はねえ、こちらも反撃して、唾を吐いてやったりするんですよ。暴力を振るって問題になったら、まるで馬鹿みたいですもんね。かといって、ただそれをおびえて見てるだけじゃ癪に障る。それでこの方法を使っているんです。そんなものが効くのかですって?効きますよ〜。不快感と屈辱感を同時に与えるわけですからね。その時のそいつらの顔を見たときはこっちも腹の底が凄く愉快になってきます。 私が楽しみなのはそいつらが牢屋から出てきたときです。どんな顔をして出てくるのでしょうかねえ、夢を膨らませて出てくるかもしれませんし、明日をどう生きるのかと途方にくれる人もいるでしょう。そいつらをどうぶっ殺してやるか・・・。それを考えるだけで、心が本当にわくわくしてくるんですよ。私のことをさんざんいたぶってくれた奴に、どれだけ自分の犯した罪が重かったかというのを身をもって分からせてやるんです。 私がやつらを殺すとき、やつらは一体どんな顔をして死んでいくのでしょう?それを考えるだけで、私は興奮に打ち震えそうな気がするんですよ。一種の快楽ですよね、これも。 あ〜早く出てこないかなあ、ぶっ殺してやりたいな〜・・・。 ・・・・・・・・ 「おい、運ばれてきたやつ、大丈夫か?」 「いかれてるね。自分のことをどうやら看守だと思っているらしい。で、俺達のいるこっち側が牢屋だと思っているみたいなんだ」 「確かに異常だな。大丈夫かな?」 「こっちも気をつけないといけないな、逆に殺されないようにね・・・」終
ある晩に兄の作ってくれたホットミルクは、バニラのような後味が残った。表面に張った薄皮は、必ず一番最初にすすった。言いようのない幸福感に包まれた。 熱々のそれを、兄は素早く飲み干して席を立った。背中に、兄が洗い物をする時の食器のこすれる音や水の弾く音を聞きながら、僕はなるべくゆっくりとそれを味わった。 きっと僕には一生かかっても作ることは出来ないのだろうと、ただ何となくそう思ったのだ。 兄は、兄弟の僕から見ても完成された人間性を備えている。博識で頭の回転も速く、また、穏やかで自分の意志をしっかりと持っている。僕はきっと、そんな兄に酔っていた。嫉妬するでもなく、自分を省みるでもなく、かえって誇りさえ抱いていた。 ところがある日、当時大学3年だった兄は、急に帰郷するなり就職はしないと言い出した。僕や両親には有無を言わせず、いつもの調子で淡々と言い放った。兄の様子から、若者の怠惰や逃避からくるものではないと、自ずと悟っていた。それに、兄の説得力ならきっと僕達を上手く納得させただろう。けれど、兄は何も弁解しなかった。ただ強い眼差しで皆を圧倒するばかりだった。 大学を無事に卒業した兄は、僕達の前から姿を消した。最初は宛もなく探し回ったりしたが、一週間もしないうちに一通の手紙が届いた。差出人の住所も名前も記されていない封筒を、やけに丁寧に開いた。 父さん、母さん、それに侠次、心配は無用だ。俺は俺らしく生きる道を選んだ、ただそれだけのことだ。落ち着いたら必ず居場所を知らせる。勝手をしたこと、本当にすまない。 兄が消えてから早5年の歳月が流れた。両親は見る間に年老いて、僕もすっかり大人になったような気でいる。家には毎月、律儀な兄が手紙をよこす。 しかし、未だに消息は分かっていない。 何度作っても、やはり兄のホットミルクの味には程遠い。おかげで僕は、喫茶店を開くという夢さえ持ってしまった。あの味が忘れられなくて、兄を思い出してはキッチンに立つ。何かが足りないといつもそう思うのだが、何も見出せないまま時ばかりが過ぎる。 もう一度、あれを味わうことが出来たら…… いても立ってもいられなくなった僕は、何となく街に繰り出した。南風にのって潮の香りが漂う道の途中、アイスの屋台が出ていた。そう言えば兄さんは好きだったっけ、特に…… きっともうすぐ兄に会える、僕は確信を持って家へと走った。
男はただ無言でビルの前で立ち尽くしていた。「余程ショックだった様だな。」後ろから声がかかる。「未来を夢見て冷凍睡眠したのは良かったが、まさか『こう』なっているとは思いもよらなかっただろう?」「…。」「あンたが眠った後の100年間、世界中で環境破壊が進んだ。さらに石油資源の枯渇、合わせるように穀倉地帯の砂漠化による飢饉。文明崩壊。人類は住処を殆ど失い大激減。世界は滅んだ。」振り返ると、『ならず者風』の男が石畳に腰掛けていた。「?」「俺か?俺はあンたが眠る間際に、財産管理を頼んだ保険会社の者さ。書類とか諸々手続きのために、来たってわけ。」書類は本物だった。こんな口調でも一応エージェントらしい。「滑稽だろう?あんたが眠る前に何と言ったか…『世の中に愛想が尽きた。希望の未来を見る為に私は眠る。』…で、目覚めた先は、夢も希望も無い世界だってんだから。」あからさまな嘲笑。だが男は無反応だった。「…気に障る…何とか言ったらどうだ?」「…生き残っている人類を見たい。」男の声は至極平静としたものだった。「ふん、見ても驚くなよ?あンたが生きていた時代ほど奴らぁ『綺麗』好きじゃあねえんだ。いろいろな意味でな。」車が廃墟と化した街を走る。「本当はあンたの頼みを聞く義理なんてねえんだ。何せあンたは無一文。…親の財産?そんなもん、冷凍睡眠の電気に消えていったさ。死んだ親に感謝するんだな。政府の方針で電力浪費の代名詞たる冷凍睡眠が強制中断されていく中、あんたが今日まで眠っていられたのは、そのおかげだからさ。」エージェントの話を聞いているのかいないのか、男は窓の外をじっと見つめたままだった。「…ふん、着いたぞ」人類の住処は喧騒に包まれていた。少ない食料や生活用品を巡ってあちこちで争いが起こる、まさに無法地帯。「素晴らしい。」「は?」依頼主の台詞にエージェントは耳を疑った。「生きるために手段を選ばない。法も秩序も無い。あるのは生存本能だけ。ここにいるのは、強者と強くなろうとする弱者だけだ。…私の生きた時代は違った。弱者は弱いまま、諦めと格好つけ、庇護を言い訳に弱者がのさばっていた。奴等は口先だけ、建前だけで世界を食い荒らしていた!だがここでは許されない!諦めた弱者はすぐに死ぬ!素晴らしい!希望に溢れた未来だ!私はついに希望を見ることができた!」笑い続ける男に、エージェントはただ呆然とするだけだった。
−彼が死んだ。思いもしない事実だった。私はただ、笑ってた。愛する人の死が、私の中で何かを熱くさせたから・・・毎夜毎夜を重ねあった体の温もりを感じながら過ごした。笑いあい、感触を感じ、奪い、与え合い、貪り合った。そんな彼が私の目の前では息もしない。誰もいない、閉塞された二人だけの空間が、よりよく彼の死を伝えてくれている。まぶたを閉じたまま・・・口付けても開きはしないその口元。彼から絡める舌もなく、私はただ無心に彼自身に口付けていた。強欲は時として牙を向けることもある。それは実感できるのだ。今の私はそういう生き物だから。生臭く、苦く、纏わり付くような不快感がやがては快楽に変わる、爛れて汚れた月と人工の光溢れる世の中。そんな中で、強欲や強制、束縛、自己主張・・・忘れてはならない術なのだ。彼が死んだ。何も言わず、何も叫ばず・・・もう何も言わない、何もしない・・・動きはしない・・・動かない・・・だけど一つだけ確かなものは・・・『これでずっと一緒ね・・・。』真心を込めて、彼の口唇に優しくキスをした。幽かに感じる彼の感触に胸を躍らせて・・・彼の命日は雨降りでした。そよぐ風もないのに、しとしとと鳴る雨の声・・・真昼の時間・・・彼は無口に今も私を見つめ、私を思い、私を愛し・・・薄暗い地下室の底・・・あれから一月、また雨。まだ愛してるの、彼のこと・・・彼が死んだ。思いもしない事実・・・じゃなかった。死因、刺殺の血まみれの彼。『あら・・・?この包丁、洗わなきゃまずいかしら・・・』一月前の雨の日の包丁と私の真心。
その他の物語と同じようにこの一説から始まろう。 むかし、むかし、あるところに、 男の子と女の子がおりました。男の子と女の子はひとつの林檎の家に住んでおりました。 男の子と女の子は、そこでとても楽しく暮らしておりました。 ある日は、林檎の家の中でつみき遊びをしたり、またある日は、林檎の家の外でおにごっこをしたり、泣いたり、笑ったり、とても楽しい時間でした。 ある日、女の子がじっと林檎の家の壁を見ていました。男の子はたまらず聞きました。「どうしたんだい?」すると、女の子は悲しそうな顔でこう言いました。「この林檎の家が腐ってしまったらどうしようって考えてしまったの」男の子は答えました。「それじゃあ、どうしたらいいか考えようじゃないか」 「砂糖漬けにしてみたらどう?」けれども、そんなにたくさんの砂糖はありません。 「焼き林檎にしてみたら?」でも、そんなに大きなかまどはありません。一日中考えても名案は浮かびません。 その時、男の子が言いました。「食べてしまおう。」 「それじゃあ、アップルパイにして食べましょう。」女の子は言いました。 それはふたりの一番好きなお菓子 男の子はいいました。 「それじゃあ、味付けはどうしよう。」それはふたりの悲しみと、希望がつまった、その涙。ただそれだけでいい。 食べてしまおう。 ふたりの楽しい思い出を。 甘くて、少ししょぱい、アップルパイ。 お腹いっぱいになるまで食べよう。 ふたりのすばらしい時間はお腹の中に、満たして。 「さよなら」 の代わりに、 「いただきます」と「ごちそうさま」
目の前にアヒルがいる。苦しそうな顔している。俺は洗濯物をたたんでいる。母親は仙台の高校で非常勤講師をしている。悲しみは季節はずれの風鈴になびいている。空は黄ばんでいる。太陽は冷たい風を押し退けて、僕のアパートのベランダまで可視光線を送っている。アメリカは死んだ。そんな秋の昼だった。テレビを見ている。下らないバラエティー番組を見ている。出演者のあの偽善的な笑いが耳の奥の方で響いた。耳障りだ。ブラウン菅に向かって茶碗を投げた。というのは嘘で僕は薄荷のメンソール煙草に火をつけた。部屋中に煙が立ち込めて僕は窒息死しそうになった。というのは嘘だが、部屋の湿った空気を入れ換えるため、窓を開けることにした。窓の縁にこびりついた粘性の埃が指にまとわりついたが、それも気にせずに窓を開けようとした。窓はきしきし音を立てながらゆっくりと右へ動いた。しかし窓が五分ほど開こうとする際、力を入れていた腕が凍った。窓のそとから冷たい秋の風と背筋を震わす絶望にも似た恐怖が、6畳のアパートに充満した。一瞬目を疑った。しかしそれはまぎれもない、人間の胃だった。僕はなんだかわからない。なんだかわからないんだが、フケまみれの長髪をかきあげながら、「なぁ、わかっただろ?僕の存在自体が、腐ったみかんみたいにさ、世界を混沌とさせるのさ。」とつぶやいた。なんだか、僕の体の核のほうから、ムラムラと変な、奇妙な、突発的な、なにかどろどろとした液体みたいなのがこみ上げてきた。そしてそいつは僕の体を一瞬にして蝕んだ。僕のジーンズが張り裂けるぐらいに、下半身の突起が膨張している。コレガ性欲トイウモノカ僕はとっさに、先日出会い系サイトで出会った。美佐という若い女に電話をした。受話器が手汗でべとべとになりながら。「世界は混沌としているの」美佐は電話越しに僕にそう言った。僕は部屋を出て、アパートの階段を降りた。一階へ降りた出会い頭に管理人の老婆に出会った。老婆は僕にこう話しかけてきた。「あたいのだんながね、いないんだよ!さっき買い物から帰ったらね、いないんだよ!ねぇ!アンタ殺したのかい?殺したんだね?全く物騒な世の中になったもんだよ。」老婆はそう言うとすぐに101号室の自分の部屋へと戻って行った。そしてしばらくして老婆の部屋から、やかんが沸騰する音が聞こえた。僕は薬局へ行ってキャベジンを買った。
※作者付記: 初めて投稿します。こんなくだらないのでも読んでくれた方がいるのなら、嬉しいです。もし良かったら意見とか叱咤とかお願いします。
胸ポケットから、シルクカットとジッポを取り出し、火を点ける。星空に紫煙が吸い込まれてゆく。「遠いな」とため息をついた。あの日の事が脳裏に蘇る。「秋山さんですね、私、金山といいます。」と名刺を差し出した。R&R商事 マネージャー金山修司と記されていた。「ご用件は、何でしょうか?」と秋山は不審げに問う。「突然のアポイントで、申し訳ありません。」「海外で、仕事してみませんか。」突然の、申し出に、唖然とし、言葉が出ない。「当社は、貴方の能力を評価してます、契約金として300万出します。 給与は、今の3倍でどうでしょうか。」とたたみかける。「ちょ、ちょっと、待ってください。」頭が混乱した。応接ブースを落ち着き無く見回し、声を細めた。「会社で、話す事じゃないでしょう、いきなり尋ねて。」「そうですか、膳は急げと言いますでしょう。」一向に動じない。「参ったな、とにかく、場所を変えましょう。」と席を立ち「これから、現場に行きます、途中どこかで、話を聞きましょう。」 と逃げ出すように、会社を出た。ファミリーレストランに寄る。「貴方の事、当社は調査済みです。失礼ですが、サラ金に300万借金が有りますね、アパートのドアに張り紙が貼ってましたよ。契約金で返済出来ます、それに給与は、1年契約で1000万出します。どうです。」どうだとばかり、言い寄る。痛いところを突く。「仕事の内容は何ですか。」タバコに火を点けた。「今と変わりません、イラクの現場に行ってもらいます。」「イラン、イラク戦争中のイラクですか?」と驚いた。「そうです。だいじょうぶです。」平然と答えた。 戦争がどんなものか判らない。それより、現地では、衣食住は会社持ちで金は使わない、たばこ銭だけ有ればいい。1年で900万か。「判りました、契約します。」R&R商事は、四谷のビルにあった。金山の上司は外人で流暢な日本語を話せた。契約書には1項目条件が付いていた。1甲の指示に従い、乙は、これを履行すること。乙は、甲の指示内容を 何人も、漏洩してはならない。研修期間は3ヶ月受け、赴任の際、ジッポのライターとカルダンのボールペンが渡され、取り扱い説明を受けた。 秋山は、ジッポの蓋をカチカチと鳴らし、”これが、デジタルカメラとは見えないな。”と呟いた。秋山和夫 36歳 独身 CIAの潜入エージェント、施設の情報収集。イラクのキルクーク石油プラント建設の技術者である。
1916年三月、庄次郎は中国山脈に抱かれる島根県那賀郡弥栄村に生まれた。三反百姓の小作人の家に生まれた次男は除け者と言われ、尋常小学校6年間の義務教育を終えるのが精一杯で、殆ど卒業まで学ぶ子はない。利発な庄次郎も例外ではなく、四年生の春には奉公に出された。「中学がだめでしたら、せめて高等科にあげてやってくれませんか」担任の先生は庄次郎の能力を惜しんで強く進言したが叶わなかった。 名人の呼び声高い広島の宮大工の棟梁の所へ弟子に出された。太田川が六つに枝分かれする、京橋川と猿候川に挟まれた段原というところで、大勢の弟子を抱えた棟梁は、出来のよい庄次郎を三年生のとき既に引き取ることを申し出ている。 昭和恐慌の嵐が吹きすさび、朝夕二食の食べ物にも事欠く時代で、養子口がなければ他郷へ働きに出て自活する意外に道はない。丈夫でがっしりした体格の庄次郎は、躊躇なく自活の道を選んだ。労を厭わず陰ひなたなく働き、弟子に厳しいと評判の棟梁に目を掛けられ、奥方にも可愛がられた。一を聞いて十を知り、めきめき腕を上げる。激しい棟梁の職人根性も身につけた。 1936年の春、二十歳になった庄次郎は徴兵検査を受けた。ふんどし姿で身長、体重、視力の検査、更にふんどしも脱いで性病の検査を受ける。学歴など身上調査も受けた。庄次郎は男子の名誉とされた甲種合格となる。 徴兵検査の後はお礼奉公を勤め、その後で暖簾分けなど独立が許される風習になっていた。お礼奉公の庄次郎は中戦争勃発と同時に現役兵として徴集された。中国戦線を転戦すること二年、幸いに掠り傷一つ負わずに帰還した。「職人は銭勘定したらいかんぜよ、金より仕事が大事じゃけんの。ようけ腕を磨いて、貧乏を厭わねえ女房を娶れりゃ職人冥利だ。納得のいく仕事が出きるけんの」棟梁の口癖だが庄次郎は座右の銘にし、宮大工の若き棟梁になった。さあ、これからと言う時、庄次郎に再び召集の赤紙がきた。日本軍がハワイを奇襲攻撃し、米英に宣戦布告した七ヶ月後のことである。「何度戦場に引っ張り出せば気が済むんか、人の命を何じゃ思うとる。秋には子供が生まれるんぞ、命を捧げるわけにいかんじゃろうが、天皇なんぞくそ食らえじゃ」闇夜に怒鳴った庄次郎は、身ごもる妻を弥栄村の母に託して出征した。そして僅か八十八日後、ミッドウエー海戦の大敗で庄次郎は太平洋の藻くずとなった。日本の名工の犬死にである。
轟音をたてながら、大きな船が翼を広げ、飛び立つ。船には、もう二度と会えない友達が乗っているのだ。そのまま遠ざかる船に、僕は手を振ったりすることもなく、ただ小さくなっていくのを見守るばかりだった。「彼は元気でやっていけるさ、僕らが心配してもどうにもならないって」 ハルイは僕を励ますように言う。彼は別れの際も、常に笑顔を絶やしてはいなかった。「もちろん解ってるつもりだよ、ただ、少し寂しいんだ」 友が遠い国へ行ってしまった。寂しくないと言えば嘘になる。「ごめん、そうだね、いつまでもこうしていたって、何にもならないよね」「そうそう、それに僕がいるじゃないか」「ハルイって、前向きだね」 何だか今、とても友情というものを感じた。彼とは胸を張って友達と言える気がする。彼も認めてくれているから。とても、さっき知り合ったばかりとは思えない。「でも君も君だね、今日出会ったばかりの彼との別れを、そこまで惜しむなんて」「友達になったからね」 僕はたまに、この“空港”へと遊びに来る。人が多くて、僕と同じくらいの子供もよく見かける。ここは色んな所と繋がっていて、色んな子がここに来る。僕はそんな子達と仲良くなりに来ているのだ。そしてハルイや、行ってしまった彼とも、ついさっき知り合ったばかり。「ハルイはこっちに住むんでしょ?」「そうさ、だからこんなに早く友達ができて、凄く嬉しいんだ」「僕もだよ、実はちゃんとした友達は君が初めてなんだ」 ここで友達を作っても、またみんなすぐに遠くへと還ってしまう。僕はそんなことを繰り返して、いつしか“友達”というものを見失っていたのかもしれない。「僕ら、良い友達になれるよね」「絶対なるさ、これからよろしく」「よろしく、ハルイ」 きつく握手を交わす僕とハルイ。すでに友を乗せた船は見えなくなってしまっている。彼も向こうの友達と、仲良くやっていけるだろうか。「そういえば、君の名前聞いてないんだよね、何て言うんだい」「ミツルだよ」 僕の“空港通い”も、多分今日で終わるのだろう。そのことを、とてもうれしく思った。
※作者付記: 初投稿させていただきます。まだ最近書き始めたばかりで練習中の身ですが……。
うるさいなー。何?あれ?神崎なんで泣いてんの?あれ?あれ?あれ?なんで私…私動かないの?1990年 4月21日 午後1:30 桜井佳奈 年齢…14、性別…女、住所…不明、性格…不明、記憶…あやふや、死ぬ前の記憶……不明そう。私桜井佳奈は今日を持って死んだのです。死ぬ前の記憶は全然なく、ただ私を愛していてくれたある人の…。ある人の笑ってくれる笑顔はキチント覚えていす。そして、今その人が私のせいでとても悲しんでいます。だから私は、その人の天使になりたいです。20XX年 4月21日「神崎先生ー。ここ分かんないです。」『どこだよ?はー。そこは、昨日教えたばかりだろ?なんで分かんないんだよ?』オレは、中学3年生15歳の誕生日に彼女だった桜井佳奈を、交通事故で失った…。それからもう何年たつんだろう。オレはまた同じように失いたくがないために恋なんてしないと決めた。そしてオレは、出身校に戻ってきた。…先生になって。そう。悲劇的で、もう笑うことさえ辞めた。あの学校へ。「佳奈。今日からもう一人の天使だね。名前もらった?私はね、ミルキってなったんだよ。早く名前もらってきたら?」顔をうつぶせていた佳奈に呼ぶ声がした。『うん。でもねー。名前もらうと自分のこと忘れてしまうから…。』「そっかー。でもね。私はミルキって名前好きだよ。確かに自分のことは忘れちゃった。でもね、私達は思いでの人の守護天使になれるんだよ?その人を強く思えば自分のこと思い出せるんじゃない?」『そうだよね。行って来るよ。まってってね!』『私の名前は…』「おー、神崎。暇かー?」『あ。君嶋元気だったか?なんかお前中学の時より髪黒くないか?』笑いながら話しかける。中学生の時の一番の良き理解者だった、君嶋にここで会うなんてな…こいつには何でも話したし。笑えなくなった時もこいつのおかげで素直に笑えたな…。しばらく、話してるうちに君嶋は言いにくそうにこういいた。「神崎。言い難いんだけど。佳奈の、墓参りいかねえか?」『えっ。』不意をつかれた。さっき二人で買ったジュースを、吹きそうになった。そんな神崎を、見て笑いながら話を、先に進める。君嶋は、どうだ?とばかりに神崎を見た。流石だな。オレが佳奈の墓参りに行かねえの知ってやがる。でも…。『そうだな。行くか。』ここから新しく始めよう。 『私の名前は、ミシュー』私の新しい名前は暖かくて嬉しかった。すぐにこれを、あの人に伝えなきゃ。ミシューはすぐにミキルのところに飛んでいった。《行こう私を待つ人のところへ。まずは、自分の墓に…》ここで、ミキルと別れた。永遠に。『ここだな。きれいなところで良かったな。佳奈。』墓の前に座って手を合わせている。誰だろう?見覚えがあるような。懐かしいような。あなたが私をよく知る人。そして。私を待ってくれている人。「神崎ー。オレ先に帰るわ。用事が出来た。神崎どうすんだ?」ああ。俺をここまで連れてきてくれたんだな。流石オレの親友だな。「どうするんだよー?」早く答えない神崎に早く決めろと促す。『オレは、もう少しいるは。』そう答えた神崎に「ん。」っと短く答え君嶋は去っていった。「神崎って言うんだこの人。何か暗いな。こんな人が私の…何だったっけ?」『佳奈。オレはもう逃げない。お前が死んだことを認めようかと思う。そしてお前のことを…忘れてもいいか?』「え。」そんなことを言った神崎に佳奈はビックリした。声は聞こえていないから何を言っても聞こえない。それが、悲しかった。記憶にナイのに、ここにいる、この人がこんなことを言うのがものすごく悲しかった。そして思わず 「だめーーーーーーーーー」『え。』聞き覚えのある声。立って辺りを見回す。『佳奈?いるのか?』そんなはずはないかと、またお墓に向きなおした。『佳奈。もう来ない。じゃあな。』そういうと、神崎は来た道を帰ってゆく。一歩一歩が、重たかった。涙があふれ出てくる。そう。あのときのように。ミシューは、イヤ。佳奈は、大きな声で叫んだ。「いちゃイヤ。帰ってきて。」と。きこえないには分かっているけど。その時。神崎がこっちへ走ってきた。自分の名前を言いながら。「見えるの?神崎?」『佳奈?なんで?なんで?』涙で濡れた顔がこっちを見ている。とても嬉しそうな顔がこっちを見ている。「あたしね。て…。」そこまでいって佳奈は戸惑った。こんなこと言って大丈夫だろうか?天使…。だめ言えない。『佳奈。天使だろ。お前天使だろ。帰ってきてくれてありがとう。でもオレ、大丈夫だから。もう大丈夫だから。』それだけ言うと、神崎はにっこりと笑った。「神崎。私を忘れないで。」それだけ言うと、消えていった。安心した。 神崎ありがとう。 忘れないで。ありがとう。 <
私の話を聞いて欲しい。夜。会社から帰宅途中のことだ。私は不意に便通を感じ、急いで近くにあった公園の公衆便所に駆け込んだ。公衆便所はまだ新しく、ありがちな落書きがない。天井を見上げると、電灯が真っ白な光で便所を照らしていた。しかし気持ちよく用を足すことはできたものの、肝心の紙がない。代わりに見つけたのは、紙切板の裏に書かれた落書きだった。↑上を見ろと書かれた落書き。馬鹿な学生が書いたものだろうと、半ば憤怒したものだが、私はつい上を見てしまった。←左を見ろおかしい。さっき天井を見た時、落書きはなかった。確かに電灯の光のせいでよくは見なかったが、何もなかったはずだ。真っ白な天井に、真っ黒なサインペンで書かれた文字を見つければ、否応なく目がいくはず。私は腹の底が冷えていくのを感じながら、また指示通り左を見た。→右を見ろ思わず便器から立ち上がった。なるべく左の壁から離れ、後ろの壁に体を寄せる。左の壁には紙巻器がある。紙を取ろうとした私が、落書きに気が付かないはずがない。だが、そこには太い字で指示が書かれてあった。怖くなった私は個室から出ようとした。だが、また見てしまった。→右を見ろ「ひっ!」と短い悲鳴をあげ、また後ろの壁に張り付いた。左の壁に向かって右。つまり私が座っていた便器の正面となる個室の扉に、落書きが書かれていた。今度こそ見逃すはずがない。扉を見ながら、ずっと用を足していたのだから。右という指示を読み、私はぬるりと背中に蛇が這うような悪寒に襲われた。次の指示は、背中の後ろにあるからだ。私は竦んだ足に渾身の力を込めて動かした。少しずつ動かしながら体を反転させ、壁に向かい合った。落書きはない。代わりにあったのは純白のトイレットペーパー。紙巻器も場所を変えて存在していた。そして持ち上げられた紙切板にはこう書かれていた。どうぞ、お使い下さい「ひやあぁ」と奇声を上げ、ズボンを下ろしたまま私は個室から出た。と、そこには女がいた。長い黒髪に、唇に血のような跡を付けた女は、大きな瞳をカッと広げて私を睨んでいた。洗面所の方からシャーと鋭い音を聞いたが、私はそれが何であるか確認せず倒れてしまった。失いかける意識の中、私は「痴漢!」という言葉が聞こえたような気がした。あのトイレで起きた事件の正体はいまだわからない。ただ話を聞いた者は必ずこう訊ねる。「それは怖い話なのか? それとも笑い話か」
夜になると頭が冴えてくる。アルコールを口に含み、神経を活性化させると仕事が手につく。その前に腹ごしらえをしよう。どうも年をとってくるとカロリーが気になり始める。油ものを控えるようになったのはいつ頃からだろうか。歩いて30秒のコンビ二では生来の面倒臭がりが商品の裏の成分表示、カロリー表示を無意識に見ている。肉汁たっぷりのソーセージを食べたくなったが、今日はやめておこう、靴底が不安定なスニーカーをつっかけ照明のきついコンビ二へ出かける。今日はコンビニに座りこんでいる少年少女たちはいなかった。 34才。フリーター。昔は某企業で働いていた。同僚、上司に悪い人間はいなく、賃金も年のわりにはよかった。だが、ある日突然ヒトと接するのが嫌になった。うるさい、のだ。機械の作動音、足音、電話、笑い声、怒号、歓声、囁き。書類の作成時に耐え切れなくなり、会社から飛び出して以来会社には行ってない。 現在フリーターとは言っても家で行う、内職、のようなもので生計をたてている。街角で配っているティッシューにチラシをはさめていくものだ。1個0.25円。ひたすら透明のビニルを拡げ、チラシをすべらしていく。チラシがビニルを滑り込み、一発でキマルととても気持ちいい。たまに一発でキマルのを楽しみにしながらもくもくと作業を続けていく。無心になるこの時間が好きだ。ヒトの話し声、車の音、携帯の電子音もない、この空間ではビニルのひ弱な音とチラシとチラシの摩擦する音しか聞こえない。いつしかそれさえも気にならなくなる。気にならなくなったと感じた瞬間もまた、気持ちいい。 部屋にある電化製品のほとんどは電源がはいっていない。秒針が騒がしいアナログの壁掛け時計は電池をぬいている。時間はヴィデオの時計を見る。 今日も陽が沈み、頭がだんだんと冴えてきた。いつものようにアルコールを一口含もうとすると、静かな空間をぶち壊す、ドアをたたきつける音が部屋中に響き渡る。誰なのかは、すぐに見当がついた。 朝昼晩関係なく薄暗い、裸電球ひとつだけの部屋。部屋を見渡すと一面がコンクリートの鈍い灰色は心を落ち着かせてくれる。コンビ二の前のガキがうるさくて喉を割いて静かにさせた時、ガキの喉から漏れ出る風が生ぬるくて気持ち悪かったが、この灰色の空間は次第にその感覚を忘れさせてくれるだろう。何より音がないこの空間。ティッシューにチラシをはさめる手の動きをやめられない。
[あっ、まただ」 冬の訪れを伝える冷たい空気の漂う部屋に、ポツリと零す小さな音。 ビーズで装飾されたカーテンのように薄く光る星空を眺めながら、時々肩を震わせて鼻をすするキミの声は、あまりに力無く部屋の真ん中に溶けて消えてしまった。 ソファの上で横になっていたワタシは、顔を上げ彼女の次の言葉を待つ。「ほら、また。ねぇ、ゆうし」 キミがワタシの名を呼ぶ。彼女は続ける。「ほら、絶対無くなってるよ。さっきまであそこに、オレンジ色の星があったんだ。なのに、ちょっと目を逸らしてる間に消えちゃってるの」 キミの声は秋の夜風よりも乾いて、静かな部屋に響いた。キミは言う。「だけど、星ひとつ消えたって、何にも変わんない。誰も気づかない。さっきの星だって、たった一瞬、ちょっと気を抜いただけで、あっという間に闇に飲まれちゃう」 言い終わるとキミは、ワタシの顔をじっと見て、溢れる涙が零れぬように、また鼻をすすった。 ワタシは耐え切れずに、視線をはずしてソファの上に顔を沈める。 目を閉じると、遠ざかる車のエンジン音が鼓膜を震わせ、キミお気に入りのお香の香りが鼻を擽った。 翌朝。ワタシが目覚めたときには、部屋にはもうキミの姿は無かった。 いつも通り仕事に出かけたのだろう。ワタシはソファの上で軽く伸びをして、窓の外へと目をやった。 空は青。陽は高く昇り、星なんて一つも見当たらない。 あの青いカーテンの裏では、星々は今も真空を彷徨い消滅している。そしてキミは、いつものようにヒトの籠の中で、違う顔で働いている。 ふと鼻をすする音が聞こえた気がして、キミの様子が気になった。 だけど、彼女の働く場所さえ知らないワタシに、どうにかできる訳も無く、せめて昨夜、いっしょに眠ってやればよかったなんて考える。 そうすれば、少しは暖かく眠れていたのかも・・・。 今夜もしも、キミがまた鼻をすすりながら星空を眺めていたら、せめて寄り添って慰めてあげようか。 そんな事を考えながら、ワタシはもう一度伸びをしてソファから飛び降り、キミの用意してくれたいつものミルクを一口舐めた。 「ねぇ、ゆうし」ワタシがキミに拾われる前に別れたという恋人の名前で、彼女はワタシに言葉を預ける。それはいつも、何を期待するでもない独り言。 もし今夜、ワタシがそのゆうしのように「ダイジョウブダヨ」なんてヒトの言葉で慰めたなら、どれだけキミは驚くだろう。 おかしいかな?ワタシはキミに恋をしているんだろう。 おかしいね。 だからいつか、キミが闇に飲まれそうになったら。 ワタシは君と話をしよう。君をびっくりさせてあげる。 悩み事なんて、吹き飛んでしまうくらいにね。
昨日彼女と電話でけんかした。 最終的に別れ話に発展した。いつものことだ。 次の日の朝、起きたらたくさんの糸が体に絡まっていた。 細い糸、太い糸、赤い糸、青い糸、黄色い糸、真新しい糸、ぼろぼろの糸、ピンっと張っている糸、緩んだ糸。様々な形状、色、状態をしている無数の糸がたくさん、たくさん、体に絡み付いていた。 それらは複雑に絡み合って、どうやら解けそうにない。焦って解こうとするとよけいに絡まってくる。まあそういうものだろう。 もう遅刻してしまいそうな時間だ。しょうがないのでそのまま仕事に行くことにした。さっきから緑色の糸が僕を引っ張っている。 通勤電車に駆け込んでから気付いたが、僕以外の人たちにも糸が絡み付いていた。だが個人差があるらしく、青い糸がやけに多い人もいれば、そんなに糸が絡み付いてない人もいる。もしかしたら、みんなにはこの糸は見えていないのだろうか? 会社に着くと上司がカンカンだった。五分の遅刻について二十分もの説教を受けた。この人は時間に関して本当にうるさい。怒られているときに緑色の糸が上司に繋がっていたことに気付いた。よく観察すると、同期のタカハシとか、いつもコーヒーを入れてくれるマミコちゃんだとか、社内のいろんな人たちにそれぞれ異なった糸が僕と繋がっていた。 その日の帰りプラットホームで、僕の数十倍は糸が絡み付いていると思われる人を見かけた。息ができなくなってしまうのではないのかと思うくらいに無数の糸が絡み付いていた。カラフルな季節外れの雪だるまみたいだった。 電車が来た。 雪だるまは線路に飛び込んでしまった。 おかげで、僕の帰宅時間は大幅に遅れてしまい、夕食がのどを通らなくなってしまった。 絡まった糸たちがひどくうっとうしく感じられた。無数に絡み付いた糸に恐怖すら感じるようになっていた。 僕はハサミを取り出した。絡み付いた糸達を切っていった。ジョキ、ジョキ、ジョキ、ジョキ、ジョキ、ジョキ、、、。すべて切り離した。 解放感があった。自由を感じた。何処へでも行けるし、何でもできるような気がした。 次の日、街に人がいなくなった。会社にも誰もいなかった。何処にも誰もいなくなってしまった。ケータイも繋がらなくなった。 淋しいとは思わなかった。ただ、何をしたらいいのか、何をすべきなのか分からなくなってしまった。漠然とした不安が僕を襲った。何でもできるはずだったのに何もできなかった。 走って家に帰った。息を切らしながら、昨日切り離した、たくさんの糸の中から赤い糸を選びだし、握りしめた。 紙コップをその糸の切れ端に繋いで糸電話を作った。 一日中、紙コップの底に向かって彼女の名前を呼び続けた。謝り続けた。 ずっと、ずっと、ずっと、、、、、。 目が覚めた。 ケータイがなっている。「どうしたのよ。ずっと連絡とれなかったから心配したじゃない。ねぇ、ちょっと聞いてんの?」「うん、聞いてる、、、、、、、。これからもヨロシクな。」 もう見えなくなったけど、複雑に絡み合って、時にうっとうしく感じることもある糸は、きっと今も、たぶん確実に繋がっているのだろう。
外はざあざあと音を立てて降る雨。窓ガラスを水滴が伝う。雨雲が月の光を隠しても夜の闇を許さない街の光。ネオン。あの光の中に彼は居るのだろうか?この10階建てのビルの最上階にある部屋の窓からは人は小さすぎて見えやしない。人が見上げるにしても10階建てのビルなんてこの街ではありふれている。きっと彼には見分けがつかないだろう。でも彼が私を探すなんてことがあるわけがないか。あぁ。うつろだなぁ。彼と私をつなぐ糸は切れてしまったのかなぁ。カーテンをつかみ、勢いよく引いて閉じてみる。カーテンは光を防ぎ、私を夜の闇に沈める。不意に明かりのなくなった部屋はなんだか私になじんだ部屋とは違う気がして、私はまたカーテンを開けた。とたんに部屋にあふれる光。ネオン。照らされる私の部屋。ここは間違いなく私の部屋。そして彼はもう居ない。窓から入った部屋は私の理解したくない事実までさらけ出させた。何をする気にもならない。彼と愛し合った日々は決して消えるものじゃない。この部屋からは確かに彼の痕跡はなくなってしまったけれど、それでも私の頭の中には彼との日々は残っている。それは永遠に私の中で生き続けるのだ。消えることはないだろう。私は冷蔵庫から細身のボトルを引っ張り出し、グラスに注ぎ、一息に飲み干した。喉を通過する心地よい刺激の泡。私は目を閉じてゆっくりとそれを味わう。ふと、気づいた。彼との日々はこのソーダ水の泡のようなものだ。私に心地よい刺激を与えてくれたけれど、後には何も残してくれない。私は口を歪めて笑うと、口紅を拭き、化粧を落とし、浴室に向かった。私の幻想と愛の抜け殻を洗い流す為に。終
※作者付記: 自作の小説書いてます。ホームページはhttp://fhp.from.jp/yomikiri/です。良かったら一度見に来てください^^
「なあ、願いが何でも叶うならどうする?」「とりあえず金、次に頭脳」 ざくざくと二人で土を掘り返しながら話している。「夢がねえなあ、それに金があったら馬鹿の方が面白いんじゃないか? 難しいことは考えなくていいし」 雨が強くなってきた。同時に何で自分はこんなことをしているのかって気分も強くなってきた。「馬鹿が金持ってたらあっという間になくなるだろう、それに凄く頭が良かったら金稼ぐのも簡単だし」 スコップの先が硬いものに当たる。もうひと頑張りだ。「ふーん・・・どっちにしろ現実的過ぎてつまんねえな。いいか? 何でもだぞ? もっといいことあるだろう?」 穴の深さは十分だ、次は横に広げてゆく。時折バケツで雨水を汲み出す必要も出てきた。「じゃあ何だ? 世界中の人が幸せになれますように、とでも言うのか」「いいじゃん」「幸せの定義というのも難しいが下手にそんな願いをしたらどうなるか。 ネガティブに物事を考えられなくなって災害対策を考えなくなったりするかもしれない。嫌な事があってもそれを認識しなくなって反省という言葉が消えるかも・・・考え出したらきりが無い」 手がかじかんでスコップを持つ手が震えてきた。誰も居ない教会に入って少し休む。「あー、じゃあそんなのじゃなくて待遇だけ同じにするとか」「意味ないね、すぐに今と同じになる。頭の中まで同じにしたら死人と同 じ。そんな幸せなら願わない方がいいと思うけど」 また二人で穴を掘り出す。目当ての物はもうほとんど姿を現していた。「それで、お前なら何を望む?」「決まってんじゃん」「だろうな」 穴から二人がかりでスコップを梃子にし、目的のものを持ち出す。用意してあった荷台に乗せて秘密基地のように使っている廃屋へ向かう。「恵美を生き返らせてくれ、だ」 掘り出してきた棺を開け、中を確認する。生前と変わらない恵美の顔がそこにあった。「ま、無理なんだけどな」 相棒が鞄から万能包丁を出す。俺はそれを黙って見ている。「恵美の願いは好きな人と一緒になること・・・だったな」「つっても、本当にこんなことを頼まれるとは思ってなかったよなあ」 少女の腿に包丁が刺し込まれた。「こいつの家がキリスト教で助かった、火葬されちゃおしまいだからな。 問題はこの肉をどうやってあいつに食わすか」「・・・ああ」 俺は恵美が死ぬ前に言っていたことを思い出した。『私が死んだら、二人で私の死体を掘り返して肉を一条君に食べさせて。全部は無理だと思うから、残った分は二人で分けてね』 ・・・・・・。「なあ・・・問題はあいつに食わせない分の恵美をどうするかってことじゃないのか?」「かもな。でも捨てるわけにはいかないだろう」 だれか彼女を生き返らせてくれ。 しかし、どうやっても死人は生き返らないのだ。俺は解体されていく恵美を見ながらずっとそのことを考えていた。
「くそっ!」真一はつい興奮してしまい言葉にした。信頼度八十パーセントのリーチが外れたのだ。 なけなしのお金で、パチンコ屋に勝負しに来たのだ。パチンコを打ちだし、かれこれ一時間一つの当たりもない。 真一は財布から九枚目の夏目漱石を取り出した。頼むと一声かけてから、漱石を送り出した。 漱石は四百発の銀の玉に分解された。その玉は打ち出され真一の前を釘に遊ばれ降下してゆく。何発かはスタートに入りはしたが、リーチは無かった。全ての玉が尽き、真一は恐る恐る財布を覗いた。むしろリーチは財布の中身だった。と言うよりピンチだった。 まだ何人かいると思っていた漱石が、残り一人にまで減っていたのだ。 さっきまで夢中になっていた真一だが、ふと我に帰った。というより我を忘れていた、自分自身がバカらしくなった。 ふぅとため息を吐き煙草に火を点けた。真一はふと、さっきまで睨めっこをしていた台に目をやった。 「こんなもんに金使ってたのか。」煙草の煙を吐き出しながら、ボソリと言った。 そして、そんな思いもすぐ忘れ、またここに足を運ぶのであった。
※作者付記: ど素人です。ごめんなさい・・・
僕は大抵人の話を聞いていられない。集中力が無いのもそうだけど、生まれながらの難聴で言葉を聞き取れないのだ。子供の頃は授業などもっての他だった。だけど藍子の夢の話だけは最初から最後まで居眠り無しで不思議と聞き取れた。藍子はとても華奢なのにどこと無く健康的な感じのする女性で、僕と同期だ。その夢は単純だった。ただ、今まで見てきたものが端、タン・・・と。「花が咲いているようだった」と彼女は言う。その中には僕に言えない様なものや、勇気&元気のお墓なんてものもあったらしい。また不思議なのが、僕がそれを聞いている間一度も笑ったりしなかったことだ。「へえ。それ、気持ちの貝塚みたいだね。」言った真剣そのものの僕に藍子も笑わずに、「その通りなのよ・・・ちょっと怖い。」と答えた。帰り道、藍子に貸してもらっているMP3を聞きながら、考えてみた。僕は人の話は聞かないけど、記憶力は特別良いと自負している。藍子の夢の中のもので自分も覚えているものがあった。それは凍りつくような雪の日の雪だるまだ。そいつについて藍子は呆れるほど詳しく説明してくれた。鼻と目が金属の包まれた黒い布ボタンで、口は無い。洗濯バサミの耳が付いてて真緑のタオルケットを羽織っている・・・実に奇抜な雪だるまだ。でも例のごとくそいつのおかしないでたちに噴出す事が出来なかった。その雪だるまは僕の記憶に鮮明だった。でも僕の実家は北海道だし、藍子は滋賀出身のはずだし、なんで藍子が幼い頃見た雪だるまが記憶にあったのか。謎は深まるばかりだった。なんだか苛立った僕はビールが飲みたくなって、すぐ近くのコンビニまで出かけた。今夜は二本飲もうと思ってビールをカゴに入れると、不意に半年ほど前、子に関西大震災の被害について聞いた時のことを思い出した。藍子が何も知らないかのようにはぐらかしたのであまり話したく無いのかなと僕なりに気を遣って、「藍子訛りが無いしまるで関西人じゃないみたいだもんね。」と笑った。僕の脳裏に幼い藍子の姿が浮かんだ。まさかね。僕はすぐにその姿をかき消して、足早に家へ向かった。その次の日から藍子と夢の話をする事は無くなった。それから一年以上経ったある日、藍子に呼び出されて屋上に行くと雪が降っていた。藍子の肩にはもう雪が積もっていた。僕がそれを掃うと、ありがとうと言って藍子は頬を染めた。「ねえ、雪だるまを作った私の初恋の人、教えて欲しい?」
※作者付記: ファミリーコンピューターゲームのマザー2からヒントを得ました。
いつの間にか踏み締めるモノが、堅く暗いアスファルトから重い草地に変わってぃた。そこを僕は何の気なしに歩き続ける。ゃがて足元の草が背丈を帯びてくる。踏み固められた道がアル訳じゃなぃ。ただ進む。言い様のなぃ感覚が支配してぃる、そんな考えがふと頭をよぎる。足を進めて行く度に、このまま止まる事がなぃのではないかと頭の片隅で思う。気がつけば僕は草を掻き分けて掻き分けて、歩き続けてぃた。僕の背ほどもアル草の中を吸い込まれる様に歩く。先の見えない緑の草の間を縫って行く。そして、少し広い空間に気付ぃた。立ち止まって、…ここはドコだ??と思う。そこで僕は美しいものを見た。雪の様でもなぃ、百合の様でもなぃ、白魚の様でもなぃ、ただ、霧の様な肌の少女を見た。アルビノ、とぃう言葉が浮かんだがそれはすぐに消えた。彼女は黒々とした髪を持っていたカラ。少女は何も着てぃなかった。その白ぃ肌を露わにしてぃた。生まれたままの姿で立っていた。まゎりの景色に溶けていきそぅだと思いながら、ぃや、景色が彼女に吸い込まれてぃる様にも思った。僕は、あぁ…と思う。野性児なのかと思う。彼女の足元に白いワンピースを見つけ、あぁ違う、と思う。彼女は僕を見た。そのキレイな体ごと、ピンクの先端の、形のよい乳房ごと僕を見た。それから恥じらう事なくその白い体を僕に見せつける様に、まっすぐに立っていた。周りの緑の中にぽっかりと不自然な白が浮かぶ。視線は合わなぃ。ゎざと焦点を外している様にも思った。ふぃに声が聞こえた。マリや…優しげな老婆の声だった。少女が振り向く。そこには声にふさゎしい優しげな老婆が立っていた。白いワンピースを手に少女はかけより、僕には聞こえない声で彼女に語りかける。僕はそれで全てを悟る。なぜかは分らなぃ。ただ決め付けた。ここには手紙も新聞も届かない、電話も鳴らない、テレビもラジオもその存在の意味をなさなぃ、ただ社会の雑踏から逃れた老婆と美しいその孫のひっそりとした生活がアルだけだ、と。何を気にするでもなく、時に縛られるでもなく、ただ生と性だけが存在する。それだけだ、と。目が覚める。浅い眠りのはずなのにやけに頭はすっきりしてぃた。時計を見る。目覚ましはかけていなかった。テレビを点けてニュースを見ながら、朝食のパンを頬張る。ぁと少ししたら、いつもの様にまた、背広を着てでかける。社会の雑踏の中に埋まっていく。
会社の昼休み、食事に行こうと会社を出たら、目の前を中学生くらいの三人組が、目の前を自転車で通り過ぎて行った。何気に見てると、一番後ろの茶髪が、煙草を道に捨てた。!俺「おい、待て!君等は中学生か!?」後ろから呼び止めた。三人組「…!?」三人は、驚くわけでもなくゆっくり立ち止まって一斉に振り返った。俺「煙草吸ってもいい歳か?君等」茶髪「うるせ〜なぁ!何か文句あるんかぁ?!」俺「…ああ、あるな。お前は何処の中学だ?」三人組みの中のデブ(以下デブ)「はぁ??あんたに教える筋合いはねーんだよ!バ〜カ!」俺「それが、あるんだな…俺には」三人組の中の一人ニキビ顔(以下ニキ)「なんじゃぁ〜!ごちゃごちゃ言ってると殺すぞ!」茶髪「え?あんたポリか?センコウか?…んな訳ねーよな。イイカッコして、シャシャリ出てんじゃねーよ!」俺「俺は煙草は嫌いなんだ」ニキ「だからどうしたってんだぁ?!あぁぁあ!」茶髪「俺が煙草捨てたのが気に入らねーってのか?」俺「…煙草を吸う奴も嫌いだが、捨てる奴はもっと嫌いだ。お前等、5秒待ってやる。拾え」三人組の前に俺は仁王立ちした。デブ「何言ってんの、オヤジ。訳わかんねー!」俺「5!」ニキ「おい!黙れ!何を偉そうに、数数えてるんだ!」俺「4!」デブ「ケイちゃん、こんな奴やっちまおうぜ!」俺「3!」ニキ「この野郎〜!」ニキビ面がズボンのポケットからナイフを取り出した。俺「2!」デブ「させ、刺せぇ!刺してやれ。足でも刺せばおとなしくなるぜ!へへへ…」俺「1!」ニキ「黙れ〜!!!!」ニキビがナイフを突き刺そうとした。茶髪「待て!」茶髪がニキビを制して、ゆっくり自分の捨てた煙草を拾った。俺「…」茶髪「これで良いんだろ…ごめんなさい」デブ「ケイちゃん…」俺「…ああ、今回だけは大目にみてやろう。しかし、次はないぞ」デブ「はぁあ!命拾いしたのは手前の方だろうが!」茶髪「大輔!もう良い!行こうぜ。トシ坊もナイフ仕舞え」ニキビ「…」デブ「覚えてろ!」三人は去って行った。と、俺は妄想してしまった。三人組は悪びれた様子もなく、普通に通り過ぎて行った。俺は、彼等が去ったあとの、ポイ捨てされた煙草を見つめるばかりだった。
頬がこけて、ベッドに横たわる彼女がそっと呟く。「あたしが死んだら泣いてくれる?」ここに来る前に何度も殴ろうと思っていた顔は青白く、けれど殴ったら本当に死にそうだったので、一先ず止めておいた。手首には何度も入れられたであろう、刃物の痕がうっすら残っている。目の端にそれを確認すると、なんとも嫌な気分に駆られた。「ねえ、あたしは必要?」そんな言葉さえ、何故口に出来るのか、不思議でたまらない。「寂しいの」数日前、一緒に遊園地に行って、笑いあった。こんな幸せな日々がずっと続けばいいのに、と言う彼女に向かって、そうだね、と呟くと彼女はまるで子供のようにはしゃいで転んだ。楽しいね、と笑って。寂しいの、と泣く彼女が、妙にイラつく。「私はあんたが死んでも泣かないよ」青白い頬に涙が伝う。折れそうな程細い手が、ゆっくり這って、手先に冷たさを感じた。彼女自身に不快を感じたことは無いのに、握られた手には不快を感じる。「根本的にあんたとあたしは別物の人間だから。あんたの辛いこととか、悲しいこととか、耐えられないこととかあたしには伝わらない。伝わっても、それはあたしが感じるあたしの感情だから」「こんな場面にいて、あたしはあんたの心配より明日の天気の方がよっぽど大事だと思ってる」「あんたを本気で心配出来ないあたしは酷い奴なのかもしれない」ドラマみたいに、友達が辛くて悲しい場面で一緒に泣けるような良い友達にはなれない。もしかしたら私の感情が欠落してるんじゃないだろうか、と思うことさえある。「頑張れって言わない約束してたよね」瞼を閉じた彼女は本当に生きているのか不思議に思うくらい生気がない。とめどなく流れる涙だけが、今の彼女を生かしていた。「鬱病なんてなったことないからね。どんなに辛いか知らないし、だから、こんな風になってるあんたが信じらんない」「けどさ、明日、あんたがいなかったら寂しいよ」「10年後あんたがいなかったら詰まんないよ」「あんたと遊びたくなったらあたしはどうすればいいのさ」「ここに来るまで心臓が痛かったよ?」「死ぬなんて言わないでよ」「人間は必ず死ぬように生まれてきた生き物なんだから、こんなとこで死んだらもったいないよ」「おばちゃんになったらさ、死んでいいよ」「あんたが死んでもあたしは泣かない」「だから」「せめて、あんたが死んだとき、笑って見送れる死に際にしてよ」
帰宅すると玄関に足首がいた。三歳くらいだろうか、白い靴下を履いている。履き口についたレースから察するに、女の子なのだろう。面食らった私は声も出やしない。とりあえず電気をつけてみる。念のため南無阿弥陀仏も唱えてみる。足首は消えないどころか、部屋の真ん中までトコトコ駆けてゆく。どうしよう。誰かに助けを求めるべきかもしれないが、不思議と怖くはない。妖怪だろうが何だろうが、足首だけじゃ大した悪さもできまい。今は猛烈な空腹を満たす方が先決だ。 ひき肉カレーを作っていると、足首が横に来て爪先立ちになった。鍋でも覗き込もうとしているのだろう。思わず微笑む。「いい匂いする?」 もちろん返事など無いが、うれしそうな雰囲気だけは伝わってくる。そういえば、私も子どもの頃は調理中の母の周りをウロウロしてたっけ。 鍋を火から下ろす頃には八時半を回っていた。これといって悪さをするわけではないが、得体の知れない足首にずっと居られるのも気になる。「もう寝る時間だよ」 と言ってやると、空中に走り去った。一件落着? 翌朝目を覚ますと、またどこからともなく足首が駆けて来た。やむなく仮病を使って休暇にする。ついでに掃除だの洗濯だのの雑用も済ませる。その間、テレビの幼児番組を流しておいた。足首が喜ぶかと思って。時々様子をうかがうと、一緒に体操したり、リズムを取ったりしてご機嫌だ。おや、靴下が破けて親指がのぞいている。コンビニで新しい靴下を調達。恐る恐る生温かい足首をつかみ、履き替えさせてやった。それが昼にはもう破けている。どうやら足首は猛スピードで成長しているらしい。今度は私の靴下を履かせておいた。 午後になると足首は本棚の前を行きつ戻りつして、時折じっと動かなくなる。立ち読み、だろうか。夕飯の支度を始めてもその調子だった。妙なもので、寄ってこないとなると少々寂しい。 フッと刺激臭がした。素足になった足首が、ブラシを指ではさんで器用にペディキュアを塗っている。親指が長くて私の足にそっくりだ。塗り終えるが早いか、足首は玄関に向かった。私は慌てて後を追う。「じゃ、もう行きます」 足首はスッと消えた。紛れもなく私の声だった。十八の誕生日、私は同じ台詞を残して家を出たのだ。二度と戻らぬつもりで。二階から見送っていた父の姿は、今も脳裏に焼きついている。 七……八……。故郷へのコール音は果てしなく続くように思われた。
目の前に見慣れない赤い箱が有った。高さはドラえもん位。横幅はドラえもんより小さい長方形の箱だった。「なんですかこれ?」赤い箱に指を指し、通り掛かった先輩に聞いてみた。「これを知らないのか?」「はい。説明の文字が書いて有るみたいなんですが消えてて読めないんですよ」お金が掛かるのはたしか何ですが。と僕は赤い箱の左側に有る縦長の扉を無駄に開けながら悩んでいた。「それはな、五人が力を合わせると景品が五つ手に入るゲーム機だ」ともかく、あと三人集めて来いと先輩が言うので僕は人を集めに走った。三人集めて来ると先輩はエライエライと嬉しそうに僕の頭を軽く数回撫でた。集めて来た三人もこのゲーム機は見た事が無いと言う。「良し。小銭を出せ」先輩、カツアゲですか?と僕達四人はブーブーと文句を垂れた。「成功して景品が五つ出たら俺が奢る。出なかったらお前らの奢りでどーよ?」毎度さわやかな笑顔で賭事を持ち掛ける先輩にしてはいつもより良心的だなと思った僕達は、相当慣れてしまっているのだろう。俺も鬼じゃないから失敗して景品が一つしか出なかったら景品はいらないよ。どうする?と続けて言った後、メガネの奴が小銭を無言で差し出した。サンキュー!! そう言うと先輩は赤い箱に小銭を入れ縦長の扉を開けた。中は縦一列にガラスの棒が五本有り「一人一つ握れ」と言うので皆で扉の中に手を入れてガラス棒を握った。「先輩、どうするんですか?」男五人で縦長の扉に手を入れてガラス棒を握る姿は誰がどう見てもあやしいに違いない。そんな不安を無視して、先輩は楽しそうに事を進めていた。「いっせいの せ! で引き抜くから気合いを入れろ!!」 はい!! 体育会系な僕らに緊張の瞬間が走った。いっせいの せ!! 先輩の掛け声と共に僕らは一斉にガラス棒を引き抜いた。すると、僕らの手には一人一つ液体の入ったガラス瓶が握られていた。「良し。成功だ」そう言いながら先輩は、赤い箱の中心に有る銀色のくぼみで瓶の栓を開け液体を飲んでいた。「あの〜。先輩〜。これは〜。」動揺する僕の言葉を遮るかの様に先輩は、「五人が力を合わせた結果の景品だよ」と肩に手を置き、勿体ないから飲んでおけな。これでお前も共犯者。とニヤリと笑い、メガネの奴に小銭を渡すと去って行った。その後、僕達四人はその液体を飲んだが、気分がスッキリ爽快になるはずの飲料で苦い思いをしたのは言うまでもない。
テーブルの上では細い手が林檎をむいている。赤い林檎がくるくると回るたびに、瑞々しい黄色な果肉が現れ、果皮は赤い流れとなってテーブルに降りてゆく。「ただいま」 スーツ姿の長男がリビングにまっすぐ入ってきた。しゅるりとネクタイをはずす音がする。「聞いてくれよ、母さん。面接に行ったら、急に中止になってさ。その理由が何と、宇宙人が来たからだって。あんな小さな会社に攻めて来る宇宙人なんかいると思う?」「そんな言い訳考える時間があったら、面接の回答でも練習しなさいよ、学。いつまでもプーやってられないのよ」 母は林檎をむく手を休めない。「本当だって。明日もう一回行くけどさ」 皮をむき終わる頃、ぱたぱたと軽い足音で長女が帰宅した。「ただいま。ちょっとお母さん聞いてよ。今日の生物学いきなり休講。あたし今日それだけだったのに。それが、教授が宇宙人対策に出るからですって。信じらんない」「はいはい。薫もサボるならもっとましな言い訳考えなさい。単位落としたら留年なんでしょ」「先生に言ってよ」 続いて、どたばたとにぎやかな足音を立てて、末息子が帰宅した。「ただいま。友達連れてきちゃった。あがっていい?」「保、あんた今日塾の日」「休みだって。それがさ…」「どうせ宇宙人が来たんでしょ。うちの子はそろいもそろって…来週は行きなさいよ」「はあい」「林檎むいたから、手洗ってきなさい。お友達も一緒にね」「うん」 果物ナイフが母の手の中で林檎をきれいに二つに分ける。小さく果汁の飛沫が飛んだ。「美味しそう」「ちょっと待って。保が来るから」 ランドセルを置いて戻った保がだだだだとテーブルにつく。 透明な器に山盛りの林檎から、4つの白い手と、1つの銀色の4本指がみずみずしい欠片を取った。「いただきます…ってこいつだよ宇宙人!」「やだー。保、何宇宙人なんか連れて来てんのよ。友達選びなさいってお姉ちゃんいつも言ってるでしょ」「まあ、いいじゃない。こんなボロ家征服したっていいことなんかないんだし」 母は林檎をしゃりしゃりとかじりながら言った。「どうせサボりでしょ。気が合うじゃない」「あたしはサボりじゃない! こいつのせいよ、休講」「そうだよ。明日面接官の気が変わったらどうすんだよ」「二人とも就職世話してもらったら? 宇宙は広いわよ」「あ、お母さん、宇宙人林檎食べちゃったけど平気かな」
「豊島、中華街行こう」「…今から?」「チンジャオロースー食いたい。ギョーザも」「…じゃあ家に連絡入れてからね」 俺はそう言って制服のズボンの左ポケットから携帯を取り出して家に電話をかけた。なんでそんな突然!と母親に怒られた。水曜の部活帰りでもう7時になりそうだ。本当に突然だから何とも言えない。藤田はいつもそうだ。いつもこう突拍子もないことを言い出す。「藤田はいいの?」「なにが」「家に連絡とか…」「別にいいよ」 ヘラっと笑って俺の一歩前を行く。こいつは自由だ。 学校でだって、遅刻したり次の日は誰よりも早く来たり、真面目に授業を受けているようでノートは取っていなかったり、数学のテストは8点だったくせに物理は90点で「勉強した甲斐があったよ」と喜んでいたり。 部活のバスケでは俺が部長でスタメンポイントガード、藤田は3Pシューター。俺のパスから藤田のスリーが入ったり入らなかったり。1年のとき、ゲーム中に7連続3Pの記録を作って次の大会でベンチ入りしたのにうまくいかなくてまた外されたり。 自由でフラフラしてて、それで今はチンジャオロースー。 最寄りの駅からの地下鉄で目的地に辿り着く。俺たちは早く食いたいとか言ってる割に色々と安い店を探し回っていた。 そしてやっと見つけた店はレストランというより食堂で、中に入ると結構狭かった。しかも中華なのに円卓じゃなくて2人でガッカリした。さらに藤田が俺にメニューを見せずにチンジャオロースーとギョーザしか頼まないのには憤慨した。 帰り道、色んな店を覗きながら歩いた。俺は藤田の背中ばかり見ていた。「…豊島、ボーっとしてんなよ」「あ、ゴメン。なんか疲れた」「部長さんお疲れっスね〜、どーもどーも」「ムカツクから見おろすなよ」「豊島175いった?」「あと3センチ」 でも藤田は183だ。ズルイ。ムカツク。ケラケラ笑ってんじゃねーよ。「まー豊島はそれくらいの方がいんじゃね?美少年ぽくて女子に人気よ★」…女子なんてどうでもいい。できるなら俺はオマエを越したい。「あっ!!」「なに…」 藤田がレトロな感じの雑貨屋に入っていく。そして謎の中国のアーティストのテープを手に取って俺に見せた。「見て豊島。これ欲しかったんだよね。いいダロ」 俺は得意気にそう言ってレジに行く藤田をじっと見ていた。自由だ。なんだかフラっとどこかに行ってしまいそう。…あぁ、俺が見てなきゃ。
バイト先のコンビニで気になる常連客がいる。ちょっぴりロリ顔の可愛い女の子だ。彼女の所作の1つ1つが愛らしくて、僕はバレないようにそっと目で追っている。声を掛けてみたいけど怖い店長が目を光らせているし、第一僕にはそんな勇気がない。僕と彼女は遠くて交わることのない道を歩いているのだろう。 バイトが終わり肌寒い夜道を自転車で帰っていた。十字路に差し掛かったとき携帯が鳴った。非通知設定。誰からだろうと思って出ると『もしもし。俺、ナカちゃんですけど。そこを右折して下さい。近道なんで』と微妙にイントネーションのおかしな男が一方的に喋って切れた。直進の方が家への最短距離だし、知人にナカちゃんと言う人はいない。だから言うとおりにする必要はないけど別に急いでもないので、彼の指示に従った。あまり通ったことのない道。あたりは微かな金木犀の香りで包まれていた。近所に大学があるため学生向けのアパートが何件も建っている。家賃の高そうなアパートの前で誰かが屈んで探し物をしているのに気付いた。よく見るとコンビニの彼女だ。思い切って声を掛けると彼女は僕を覚えてくれていた。母親から貰った大切なイヤリングを落としてしまった、と泣き出しそうな顔をしている。もちろん僕は遠慮する彼女を尻目に一緒に探し始め、すぐに街燈の光に白く輝くパールを見つけ出した。彼女は凄く喜んで何度も頭を下げてくれた。「お礼にお茶でもどうですか?」と部屋に上げてくれるのでは? と期待したけど、それはなかった。でも彼女の役に立てただけで十分だ。それに住まいも分かり少し彼女に近付けたような気がした。この道は少し遠回りになるけど明日から通勤ルートとすることに決めた。 それから度々ナカちゃんからの電話に導かれて、彼女がナンパや痴漢などトラブルに巻き込まれているところへ出くわしては助けていた。ナカちゃんは僕と彼女とが仲良くなる近道を教えてくれていたのだ。 バイトが休みなので映画を見に行った。傍らにはコンビニの彼女こと由紀恵がいる。僕と彼女は正式に付き合い始めた。そして今日が恋人同士になっての初デートである。十字路に差し掛かったとき携帯が鳴った。『もしもし。俺、ナカちゃんですけど。そこを左折して下さい。近道なんで』僕は暫く考えたが彼女の柔らかな手を引いて直進した。なぜなら、これからはわざと遠回りしてでも時間をかけて由紀恵との恋を楽しみたいから。
「世界の破滅よ。平和公園に行かなくちゃ」 良子は、立ち上がりそう叫ぶと、ヘッドホーンを耳から外し、机の上に置いた。「戦争は平和の敵。“戦争を知らない私たち”が立ち上がらずに、誰が立ち上がると言うのよ」と咆哮一発・・・襷のようなゼッケンを肩に掛け、分厚い大学ノートとペンとプラカードを持って教室を飛び出した。 良子はBBCラジオで、紛争が起こったという情報を得たのだった。平和の敵、戦争との闘争に出撃する良子を、クラスメイト達は無力に見送ることしかできなかった。 公園では良子の父、啓一が彼女を待っていた。 啓一の『戦争を知らない子供たち』に対する戦略は、戦争体験者の身体に取り憑いて離れないPTSDを、トラウマを、幻想を、異常体験者の体験を彼らに共有させることで、『戦争を知らない子供たち』の身体を、想像界の領域で捉え直すことだった。「世界の破滅は現実の出来事なのだ、いいね」と啓一が良子に言うと、彼女はプラカードを高々と上げた。それには、―平和を我らに―とポップな文字で書かれていた。「世界は狭くなった。どこで戦争が起こっても、対岸の火事ではないのだ。肉親や恋人という人間関係も、遠くから聞こえてくる進軍ラッパの餌食に、今日にも、明日にもならないとは、誰も保証できないのだ」と言う啓一の言葉が終わらぬうちに、良子は大通りに出て、ノートを開き、道行く人にペンを差し出していた。「平和を我らに・・・お願いします、平和を我らに・・・進軍ラッパの音が聞こえてきませんか? 平和を我らに」 通りを行く群集は、気軽に署名していった。と、一人の男が良子の前に立ち、言った。「日本の社会制度では、他国に戦争を起こしてはならないことになっているんだぜ。他国から攻められ場合、防衛する組織があることを認める社会制度に生きているんだぜ」―パーン。銃声がして、男は道に倒れた。彼の太腿からは、ドクドクと血が流れ、鼠色の道路を赤く染めたいた。「こういう目に合わない限り、お前の様な人間にはわからないんだ」と、啓一は男の身体を跨ぎ、見下ろして言った。「平和を我らに・・・オネガイシマース」と、良子は男にペンを差し出した。
「ここは――」 目覚めると、そこは白い部屋の中だった。 三十センチ×三十センチ程度のプレートが百枚埋め込まれた六つの壁でこの部屋は造られている様だ。「痛っ」 途端に頭がずきずきする。金槌で何度も叩かれた様な痛みだ。 一体何が起きたって云うんだ。 記憶が無い。一般に記憶喪失と呼ばれているが、それに陥っているようだ。 自分の名前すら思い出すことが出来ない。 そして不思議なことに出入り口が無い。 どのような手段で私はこの部屋の中に容れられたのか。 と、突然――。『四百五十九番、入れ』 何かが見えた。「うっ」 先程以上に頭痛が酷くなる。押し潰されそうだ。 今見えた光景は何だろう。 白衣を着た男が三人。四百五十九番と云うのは一体――。『四百二十番は極上だなぁ。これは大成功だ』『この四百二十一番は失敗作でした。やはり少しずつ“ずれ”が生じているのではないかと』 今度は二人の男達が話しているのが見えた。 頭の中に残っているこの妙な記憶は何だろう。 番号の意味は……? 考え出したらきりが無い。とりあえずこの部屋から脱出することが先決だ。 私は即座に立ち上がり、壁に手を掛けた。 しかし出入り口は無く、何の取っ掛かりも無いこの部屋から出ることは不可能。 すると、ゆっくりと重い壁がスライドし始めた。 この百枚のタイルで出来た壁自体が扉になっていたのだ。一人の人間の手で開閉出来るものではない。 壁の向こうには――。 目が覚めると、そこは白いベッドの上だった。 自分の右側を見やると、何とも凄まじい光景が目に入ってきた。「くちゃくちゃ……旨いなぁ、四百五十八番は。本当に“ずれ”などと云うものがあるのか?」「私の計算ミスだったようです」 人間を食べている――? その変わり果てた人間には、腕と脚が除かれていた。 それも、専門医の様ではなく、雑に。「それでは、このクローン四百五十九番を“試食”してみましょうか」 と、同時にフラッシュバックが完全なものになった。 昔は零歳から育てる必要があったクローンを、今は最先端技術を駆使して人間を完全にコピーすることが可能になり、連中は最高肉である人間の肉を喰らっている。 やめてくれぇ! 叫びたくても叫ぶことは出来ない。口はワイヤーで縫われていたのだから。 目が覚めると、そこは白い部屋の中だった。「夢か」 左腕を見ると、『四百五十九番』と云う文字が彫られていた。
※作者付記: Blank Out……意識を失うこと。
擬人化された豚が乳房をはだけている。顔は豚で体は女だ。テニスウェアやチャイナドレスや様々な格好で、十数匹が棚に陳列されている。一体誰がどんな用途でこれを買うのだろう。理解できぬまま、俺はリュックを背負い直す。豚は陶器のようだ。端から叩き落として割ってみるか。ジーンズの尻に千円札は何枚あったかな。多分足りるはずだが、俺は何でも忘れてしまう。 小さな子供が走ってきて、つんのめって転ぶ。額を床にぶつけて目を丸くしているが、泣き出さないのは好ましい。持っていたカゴから未会計の品々が飛び散ってしまったので、拾うのを手伝ってやる。プラスチックの積み木。花火。蛍光色の紐。母親らしき女性が追いついてきて、俺に礼を言う。俺は微笑んで会釈する。彼女が息子に礼を言わせている間、また豚に目が行く。母親もそれに気づき、困惑したように俺と視線で意見を交わす。これちょっと破廉恥ですよね。ねえ。親子が別のエリアに去った後も、俺はその場で思案する。 天井からは大音量のクラシック。いや、それをアレンジした流行歌だ。荘厳なようだが軽薄で、この場には似つかわしい。何を買いに来たんだっけ。豚を見たら忘れてしまった。忘れることにかけては俺は一級品だ。今自分が運んでいる物も忘れてしまえるから、平気で先刻のような顔が出来る。あの母親は俺をいい人だと思っただろう。 その気になれば思い出せる。リュックの中は血の付いたシャツと、札束と、女の手首がふたつ。札束は一番底に入っているから、ここの支払いはポケットの金で賄わねばならない。 忘れることが肝要だ。二度呼吸する間に、意識を記憶から断ち切るのだ。昔、親友の相談に誠実に応じながら、その恋人を毎晩抱いていたように。簡単なことだ。忘れさえすれば、俺はいつも清廉な男でいられる。 正面から、三つ編みの少女がやってくる。手芸のコーナーを横目に見ながら。膝上のフレアスカートに黒い靴下。俺は歩き出す。そう、例えば二分前の記憶を捨てれば。今、彼女の唇を奪うこともできる。ゆっくりと少女に近づく。すれ違うふりをして……彼女の右ストレートを食らって尻餅をついた。何もしてないのに。「あたしエスパーだから」 予想外の言葉と頬の激痛に、僕の悪漢的妄想は四散する。ずり落ちたリュックの口から友達に借りたエッチな雑誌が顔を出して、あたふたと隠す。エスパーって本当かな。真っ赤になって僕は店から逃げ出す。
いつも寄る掲示板のサイトの隅に、見慣れないバナー広告を見つけた。ただ「クスリや」、と、青地に黒の文字。興味を引かれ入ってみる。ページ自体も飾りなく、同じ青の地に「クスリや」の看板。それが唯一の商品なのか、ピルケースの中にたった一粒の青色の錠剤の写真と、「キエるクスリ2520円・税込」の文字。あとは「申し込みへ」と「お問い合わせ」の2つのグレーのボタンだけ。普段なら別だろうが、その時の自分には、その「キエるクスリ」という文字がとても魅力的に見えた。「お問い合わせ」をクリックすると、見慣れたメール作成画面。タイトルに「キエるクスリって何ですか?」、本文に「詳しく説明してください」と打って、送信。翌日、久しぶりのメール受信。十数件のいらないメールの山の一番上に「クスリや」とタイトルの入ったメールがあった。そして本文には、「キエるクスリ」は文字通り、貴方が消える為のクスリで在ります。「キエる」とは、「透明人間と為る」或は、「苦しまずに死ぬ」といった類のモノでは在りません。この薬を服用致しますと、貴方は周りの全ての人々から「忘れられる」ので在ります。「記憶喪失症」というものが御座います、即ち「その人が、その周りの人・周りの物事を全て忘れてしまう」という症状で在ります。「キエるクスリ」の効能はそれとあべこべに、「その周りの全ての人が、その人・その人の周りのことを忘れてしまう」というモノに相成ります。尚、このクスリは劇薬でありますから、使用前にその作用を十分に御勘案の上ご服用頂くことを、よくよくお願い申し上げます。万が一、クスリの効能が見られなかった場合には商品の再発送、又はご返金に応ずるもので在りますが、効能が表れた上での諸問題に附きましては、一切責任を負いかねます。とあった。半信半疑どころか九分九厘疑っていて、それでも「申し込みへ」のボタンを押したのはやはり「そういう気分だったから」なのだろう。申し込みフォームには「御支払方法・代金引換のみ」とあった。つまりはどんな「クスリ」であれ、「ただ金を騙し取られる」事はないということか。3日たって「クスリ」が届いた。青い三角形の錠剤が一粒。じっくり計画を立てた、これが全く出鱈目なら馬鹿らしいが、本当に効果が出た時に対応を間違えたら、それこそどうなるか分からない。まず、飲む場所だが、これは駅近くのファミレスにした。そして、「自分がキエたのかどうか」確認をする。まず行き着け本屋に行く。ここの店主は顔なじみだ、いつも挨拶くらいは交わす。次は友だちのバイト先へ、これでクスリが本物か、ほぼ分かるだろう。シフトを考えて飲まないと。最後に、念のため家族の誰かに会う。父親の帰りの時間に合わせてバス停で待つのがいいかな。そして、ふと思った、もしこれが本物なら・・・。こんな便利なクスリは、どういう形になるかは分からないが、すぐに広まるだろう。「キエるクスリが広まって行く世界」というのは、一体どんな世界になるんだろう?
あたしが買って置いた煙草を2本吸って、あたしがトイレに行っている間にいなくなってた。車のエンジン音が聞こえて、行くんだなってわかった。「こんな時間に居るの珍しいね」少し皮肉混じりのあたしの言葉だったけどあなたは表情一つ変えずにいた。顔を出さない日が何日も続いても、あたしは平気だ。仕事は難しくないし、むしろ来てくれないほうが捗る。だけど、一度現れたら・・・煙草を消して、車のキーに手を伸ばす時、あたしは暗い顔してる。一呼吸おいたあとの言葉は予想通り、「行ってくる」。あなたが去った後は、飲みかけのブラックが机の上に。一口飲んで、苦くて捨てる。あのね、後先考えずに出て行ったあの子をあなたは許せないだろうけど、あたしはすごく羨ましいんだよ。家から戻って来てくれたあの日のあなたと重なるよ。「行かないで」と言いたかった。「待ってる」とは言えなかった。「好き」は言ったかな。もう覚えてない。もう家に帰ったの?あの日のあたしみたいな想いを、あの娘にはさせちゃダメだよ。
※作者付記: 後悔の念です
月を呑みたい。 幼いころ読んだ童話。小熊が水面に浮かんだ月を呑んでしまう。そんなストーリィだったと思う。馬鹿らしい,と当時からやけに醒めていたらしい幼いころの私はそう感じた。・・はずだ。というか今でももちろん思ってる。只の映像なんか呑んだって害も泣けりゃ益もねぇよ。あ,バクテリアが身体に摂取される。ただし熊だから関係ないか。カルキ臭い消毒済みの水なんて,人間様しか飲まないもんな,うん。なんて。 しかし,だよ。今日の私はメルヘンガァル。いや,とうとう私の少ない脳味噌の中の感覚中枢が狂いだしたのか。突然あの童話を思い出した。無性に喉が渇く。この焼け付くような喉の熱を押さえるには,コンビニで売ってる偽物天然水なんかじゃだめだ。月が,欲しい。 そう考えてから一時間。ずっとずっと私は月飲水を探している。でも,どの水も違ってた。綺麗じゃ,なかった。月には美の女神,ビーナスが宿ってるはずなのに。ラブホのネオンが,ビルの非常灯が,携帯の画面が月をかすませてしまっている。・・みんな,消えてしまえばいいのに。 歩き続けて,疲れ果てて失望して。私は家に帰った。窓辺に座ってぼんやりをかすんだ月を眺める。かすんだ月でさえ,私の手には大きすぎるのか。 「久しぶりだな。お前が部屋から出てくるの。」 突然の声に振り向くと,コップ一杯のコーラを右手に,こちらは缶のままのビールを左手に持った父がいた。 「うん。今冬眠から目覚めたとこ。」 父が差し出したコーラを受け取りながら,さらりと応える。 「そうか。・・明日は学校行くのか。」 もう一ヶ月近くも理由もなく部屋でヒッキーの私に,父は今まで何も言ったことはなかった。その彼の突然発した「学校」という言葉に,少し心臓が動く。 「月が呑めたら,行こうかな。」 そう呟いて,その意味をはじき出すために四苦八苦しているであろう父をその場に放っておいて,コップを持ったままベランダに出た。 コップを見て,可笑った。 チェリー味のコーラが入った,ガラスのコップの中に月を見つけた。コーラの色でほとんど見えなかったけど。コーラの気泡で,ボロボロになったみすぼらしい月だったけど。確かに,月だった。 「明日学校行こうかな。」そう,私を追ってベランダに出てきた父に呟く。返事も待たずに,一気にコーラを飲み干した。 炭酸にしたたかむせてしまった。
なんでもできる女はかわいくない。 なんでも知ってますわよ、じゃ色気がない。 だから、男はみんなバカな女にひっかかってしまうんだ。男が支える力は、女の非力さが発揮させている。「できます」、「知ってますの女」じゃ、男は萎えてしまう。 なんでもできて、知っていたとしても、敢えてできぬふり、知らないふりをするのが本当のデキル女なんだ。 そうか。そう言われてみればそうだ。この芸人、なかなかもっともなことを言う。なんか、自分が男として正統化されたような気がする。俺が駄目なのは、なんでもやってしまうあいつのせいなんじゃないか。 あいつは絶対に俺に負けない。しかも俺よりいつも先に行動してしまう。俺をまったくあてにしていない。最近、俺がヤル気にならないのはあいつのせいかもしれない。 今夜は彼女がいないので、部屋でごろっとしながらゆっくりテレビを観ていられる。なんだか緊張感がなくて、糸が切れたカンジに浸っている。とても落ち着くので、こんな無責任な芸人のネタにも一理あると大いにうなずいている。普段、こんな場面に彼女がいると、決まって向こうから反論してくる。男はみんな勝手なことばかり言う、だらしない男がわるいのだ、と。 でも、俺の気持ちの、このやるせなさは一体なんなんだ。これも男がだらしないからか。いやそうではない。俺にだって、自分の女を守ろうという気持ちはあるのだ。そう思ってるところに、彼女が口をだしてくる。思うより先に行動を始めてしまう。俺の考えを聞こうとすらしない。これじゃ俺の出番はない。どうしようもないじゃあないか。そして口には出さないが、彼女は俺を無能あつかいする。 俺はどんどん、やる気をなくす。自信をなくす。彼女になんかする気すら、起きてこない。彼女はそれにイライラする。 悪循環だ。彼女が黙って、一歩下がればいいのだ。 ガチャ、っと音がした。 早いじゃないか。思わず、防御姿勢に入る。
閉じている目に朝日が差し込んで、僕は目を覚ました。カーテンを開けると、雲ひとつない快晴、すずめたちも気持ちよさそうに飛んでいる。いつもとかわらない朝。僕は背伸びをひとつして、テレビをつけた。「…今日も一日がんばりましょう。では最後に今日の運勢を……」コーヒーとトーストを食べながら、僕は熱心に今日の運勢を確認した。今日は恋愛運が絶好調らしい。うきうき気分で家を出て会社に出勤、今日こそは早く仕事をすまして同僚のあの子を食事に誘おう。その後、夜景を見て携帯の番号を聞くんだ。決意を胸に僕は急いで仕事に取り掛かった・・・「先生、今この子笑いましたよ……!!」たくさんのチューブにつながれた男性の横で一人の女性がなみだ目になりながら言った。人工呼吸器の規則的な音がとても大きく耳障りに感じられる。三年目の朝は、三年前と同じように始まった。ただ一つ違うことは、彼が笑ったこと……。この病院に運ばれてからもう三年だ。道路に飛び出した子供を助けようとして交通事故にあったあの日から。「きっといい夢を見ているんでしょう。」主治医は、そう言いながらいつものように患者の脈をはかった。