「おしまい」 そう言われて、辻麻美はドキリとした。 もう窓の外は暗い。「夢も同じかもね。現実の投影だよね。あ、この場合の現実っていうのは客観的ねものじゃなくて、一人ずつに見えてる世界のことね」 学校中の女子に評判のコだった。 とても同級生とは思えない、大人びた視線を浴びて、麻美は落ち着かなさげに髪をかきあげている。「今度、よかったら見せてよ」「えと、夢占いって何…?」 夕日のハレーションが包む教室に、二人きり。 麻美のぶしつけな最初の言葉に、皆川由里香は平然と答えた。「何ていうか、秩序ある連想かな? 誰でも出来ることだよ」 麻美が想像していたよりも、暗いイメージの女の子ではなかった。見た目も話し方も軽い感じ。ただ、意味深な物言いと、瞳が異常に大きい事が印象的だった。 黙ってしまった麻美に、由里香の方から話を切り出した。「とりあえず最近見た夢、何でも話してみて。できるだけ細かく覚えてるやつね」 半信半疑で、麻美はおずおず話し始めた。 あの、私んちの屋根に細くて高い塔が立ってて、その塔のてっぺんに私の部屋があって。その部屋、ガラス張りなんだけど、そこから町を見下ろしてる自分がいて。 で、あの、空からパラシュートで小さい人間がいっぱい降ってきてて。それを窓から捕まえて私、…食べてるの。食べ残したら、地面に落としたり。 で、その、急に家のインターホンがなって、やっぱり人を食べてるのに罪の意識っていうかあって、すごいビックリして。 しょうがないから、玄関まで降りていったら、警察の人で。女の人だったんだけど。私あせって、何も聞かれてないのに、ウソついて。 でも、その人は私の家を調べたいって言ってきかなくて。 そこで、目が醒めて。 話し終えると、由里香の目がらんらんと踊っていた。「辻さんって、あれだね。マンガか、小説か、絵か、何でもいいんだけど、やってるでしょ。皆に隠してるんだね。小心者の神様ってイメージがした。…違うかなあ? 無意識の抑圧。人に対して無気力になっちゃうのは、そのせいかも」 約束の食券を渡し、麻美は真っ赤になって顔を伏せた。 次の年、二人は一緒に初詣に行った。 雑踏の中、賽銭を投げる手を止め、麻美はおずおずと言う。「あの、小説書いたの。読んでくれる?」 由里香は驚いて、いいの? 楽しみ! と息を弾ませた。 麻美には、彼女の人気の理由が、今はっきりわかった気がした。
熱くもなく、冷たくもない。 一度味わったら、中々そこから抜け出せない。 けれど・・・ このままほうって置けば、やがて冷たくなってしまう。 12月だと言うのに、ぽかぽかした日が続く。遮光効果のない安物のカーテンからは、毎朝決まって太陽からの目覚ましが降り注ぐ。あたしは重たいマブタをこじ開けて、布団から手を伸ばす。カーテンの裾を少し持ち上げてみる。隙間から見える青空は、あたしの気持ちなどおかまいなしで、これでもかと言わんばかりに空いっぱい広がっている。 「俺達、付き合わないか?」 ダウンジャケットのポケットで両手を暖めながら、篤が言った。あたしは、ただぼーっと月明かりが照らし出す、グレーを見つめた。細身で優しい顔立ちをしている篤にはグレーが一番似合ってると思う。そういえば、このグレーのジャケット、私が見立ててあげたんだっけ・・・。そんなことを思いながら、ふと目線を上に持っていくと、今まで見たこともない真面目なカオであたしをじっと見つめる篤がいた。 昨日あの後どうやって帰ったのか、あまり覚えていない。多分篤はアパートの近くのコンビにまであたしを送ってくれたと思う。覚えているのは、月明かりとグレー、そして別人のような篤のカオ。 あたしと篤は大学が一緒で、そしてとても仲がいい。お互い、女子校男子校だったから、異性の友達の作り方を知らず、けれどそんな妙な共通点が、反って二人の距離を近づけたらしい。あたし達はよく行動を共にする。買い物、テスト勉強、お昼ご飯。あたし達は、性格も正反対なのに何故かウマが合う。 「おまえといると居心地がいいな。俺、こんなの初めてだ。」 そう言いながら、メロンパンを口にほうり込む篤。 「あたしも。」 あたしは、この関係がずうっと続くもんだと思っていた。篤は初めての異性の友達で、けれど女友達くらい、もしくはそれ以上仲がよくて、あたしはその心地よい関係にどっぷりと浸かっていた。 篤のことはスキだ。けど、今のままでも大切なことに変わりはなくて、じゃあ付き合ったらもっと大切になるのかって言ったら正直わからなくなる。今までの恋を思い出しても、答えは見当たらない。けれど、自分でアタタメルコトをしなければ、いつか水に戻ってしまうかもしれない。 空を見る。いつもと変わらない青空。太陽は惜しみなく陽光を降り注ぐ。 そしてあたしは、アタタメラレテイタコトに気づく。
※作者付記: 初めて小説を書きました。どうぞよんでください。
雨の中たたずむきみが居た。雨に濡れた髪が射してきた陽光で光っている。きみがこっちを向いて目が合った。彼の目から涙が零れた。 彼の名前は弘之。俺は灯(あかり)。俺達は幼馴染の小学生。今日の弘之は笑っている。昨日の涙はなんだったんだろうか。「昨日はすごい雨だったな。」俺が昨日の雨を話題にすると、弘之の表情が一瞬固まった。「俺、家にいたからわからんかった。」「え…。そうか。」昨日のことはなんだか言ってはいけないような気がして聞けなかった。 放課後、俺達は秘密基地に向かった。河川敷の木の下に作った俺たちの場所。釣りをしたり、話したり、点数の悪かったテストを隠したりしている。「げ、昨日雨だったから増水してる。」「際々まできてるぜ。どうする?」「ま、とりあえず。行こうぜ。」弘之は先に行く。でも、俺は昨日のことが気になって走って後を追えなかった。「なにしてんだよ、灯。」「…悪い、今行くよ。」こっちを見ている弘之の目。昨日の目と重なる。「俺昨日お前を見たんだ。」「……俺は家にいたよ。」「俺は見たんだ。雨の中にいた弘之を。何かあったのか?」弘之はそっぽを向いて、黙ってしまった。小刻みに震えている。「灯…俺、養子なんだ。」背中を向けて話し出した弘之。「昨日親が話してるのをきいちゃったんだ。それで家に入れなかった。だから、雨の中にいた。」「そうか。」何も言葉がでてこない。俺達は親同士も仲が良くて、家族づきあい歴も長い。まさか養子だなんて考えもつかなかった。「俺、どうしたらいいんだろう?」「…弘之、お前おっちゃんとおばちゃんすきか?」「…うん。」頷きながら弘之の目から涙が溢れてきた。「お前はお前だし、親と仲いいのは俺も知ってる。何も変わらないよ。不安なら今泣いとけ!俺もみんなもお前が好きだよ。」弘之は泣いた。昨日の雨みたいに。俺は寄り添ってそばに居た。「さ、帰ろうか。」「うん。」夕日に照らされた弘之の顔は微笑んでいた。
その部屋には遮光の良く効いたカーテンが掛けられていたが、光はスキマを潜り抜け部屋に細く伸びていた。その光の先に男が座っている。手にはタバコを持っているが、口にもっていく事は無く、ただ、光の中にくっきりと映る煙の行方を追い続けるだけだった。そこへ呼び鈴も鳴らさずに突然女が部屋に入って来た。「おっす!」カラッとした声で挨拶して男の方を見るが、男は相変わらず煙の行方を追っている。女は荷物を置くとカーテンと窓の両方を一気に開けた。「今日もサボったんだね。今日もずっと家にいたの?」と女は話掛けるが、男は何も答えずタバコの火を消した。その後も女は、男にあれこれと話掛けるが、男が応える事は無かった。 「どうしたの?」男が突然立ち上がるので女がこう聞いた。「タバコ」男は小さな声で答え、起きたばかりのしっかりしない体でふらふらと歩きだすと、靴も履かず外へ出ていった。扉の閉まるバタンという音色が女にはいつもよりずっと低く感じられた。男はマンションの玄関先にある自動販売機でタバコを買うと、そのまま玄関の階段に座り込みタバコに火を着け空を見上げた。雲は赤く染まり、街はすっかり黄昏に包まれていた。しばらく道行く人や長く伸びた自分の影を眺めていたが、空に星が瞬き始めると男は部屋に戻った。「遅かったね。食べる?」ドアを開けるとカレーの匂いが広がり、鍋の中でカレーいい感じに煮立っているのが男の目に入った。男は女の呼びかけに小さく頷きテーブルについた。「いただきます」と女は言いカレーに手を付け始めたが、男はカレーに手を付けず、ずっとうつむいたままだった。女はそんな男の様子をそのままにしてテレビ番組に夢中になっていたが、ふと、男に目を向けると、うつむいた男の顔から滴が落ちているのが見えた。女は口元まで運んだカレーをとっさにもどした。「心配掛けてゴメン……おいしそうだねカレー……ありがとう」男は声を震わせながら言った。「いいのよぉ。あんなことがあったら誰だってそうなっちゃうよ」と女は男の肩をやさしく抱いた。その小さな手の温もりに堪えきれず、男は大きな声を上げて泣き始めた。男は泣きながら何度も何度も「ありがとう」と言った。次の日、早朝から部屋には誰も居らず、いつもとはまるっきり雰囲気が違った。台所のシンクにはすっかり空になった鍋が水に浸けて置いてあり、カーテンの開けられた窓には青く澄んだ空が広がっていた。
好きなの。本当に、誰よりも、抑えられないくらい。 それを隠すだなんて、変だと思わない?「爽也」 私は今日も彼の名を呼び、首に抱きつく。「何だよ、みんな見てるのに。オイッ、離れろ」 爽也は迷惑そうな顔をするが、私はおかまいなし。「だって好きなんだもん」 爽也はそんな私にはぁ、とため息をつく。でも私は知ってるの。本当は爽也も嬉しがってるって。ただ、ちょっと照れくさいだけで……「千野」 爽也が私の名を呼ぶ。ほらね、やっぱり嬉しがってる。「いいかげんにしろ」 ビクッとした。爽也はいつもと違って真剣な表情で私を見る。そういえば私、この真剣な目に惚れたんだっけ。弓道部の彼の、的を見る真剣な目に。今、的を見るのと同じくらいの真剣な目で、爽也が私を見ている。「加減、ってものがないのかよ」 それだけ言い残すと、爽也はさっさと教室を出てしまった。「う……」 後には状況がつかめないでいる私だけが取り残された。 今日の帰りは1人だった。いつもなら隣に爽也がいる。でも今日は誘いにくかった。―――加減、ってものがないのかよ 爽也は真剣な目で言っていた。あれは本気だ。いつもの冗談なんかじゃない。嫌われたのだ。確実に。 遠くから吹奏楽部の練習が聞こえる。私も引退前までホルンをやっていた。大きな音を出すのが気持ちよくて大好きで、よく先生に注意されてたっけ。「千野」 後ろから肩を叩かれた。爽也だった。「爽也!」 抱きつこうとしたが嫌われたことを思い出し、無理やり抑えた。「帰ろうか」「いいの?」 ちょっと安心した。でも、いつものように手をつないだり腕を組んだり出来なかった。好きなんだけど、嫌われるのは怖かった。「私ね、吹奏楽部にいたとき、よく先生に注意されたの。常に大きな音だから。ピアニシモがどうしても苦手だったの」 まだ吹奏楽部の音が聞こえていた。ホルンの音も聞こえる。ちゃんと、ピアニシモも吹けているようだ。ときどき音がすぅっと小さくなる。「ピアニシモってただ小さい音を出せばいいんじゃなくて、自分の息を出し過ぎないようにって抑えてないとダメなんだ。だからちょっと恋にも似てる」 ホルンの音がまた小さくなった。どうしてあの子は吹けるんだろう。私がどうしても上手く出来なかったピアニシモを。「私ってどっちも不器用だから……」 爽也は黙って聞いていた。否定もせず、あいづちも打たずに。「いつか……どっちも器用になれるよ」 爽也が独り言のようにつぶやいたのを、私は聞き逃さなかった。「……そうだね」 そのあと、爽也のほうから手をつないでくれた。2人で照れ笑いしながら手をつないで帰った。
※作者付記: 私も吹奏楽部でした。ホルンじゃなかったけど。そして、不器用でピアニシモが苦手で、よく先生に注意されてました。
地図の制作会社に、入社して一年半。お互いに「好き」という言葉はいわなかった。 月に二、三度、会社帰りに、先輩と私は、近くのカクテルバーで、ジャズを聞きながら、他愛のない話をし、ときどき会社のグチをこぼした。先輩はドライマティーニを片手に、耳を傾け、少し色素の薄い褐色の瞳で見つめてくれた。透き通るような、その瞳に見つめられ、私は酔いしれるのが好きだった。 だから、〈今夜、いつものところで、飲まないか?〉とメールが来たとき、私は胸を躍らせ、〈OKです〉と送信した。 先輩はいつもと違う深刻な表情で、ドライマティーニに口をつけ、褐色の瞳を私に向けた。カシス・オレンジを舐めながら、見とれていると、先輩はつぶやいた。「北京に転勤なんだ」 カシス・オレンジが、ゴクリ、とのどを通り過ぎた。「むこうの日本企業向けに、地図を作成する話があってね。今度、設立する会社に出向が決まったんだ」「でも、すぐ、帰ってくるんでしょう?」 私は、カクテルよりも強いショックに耐えながら、先輩を見た。先輩は首をふった。「4年は帰って来れないんだ。離れ離れになるけど…お互い、がんばろうな」「そんな…。そんな言い方しないでください。北京なんて、たった2千キロじゃないですか。もっと、遠いところは、いくらだってありますよ…」 私は涙がこぼれた。先輩が肩に手を置き、慰めてくれる。それが余計に哀しくなった。だから、すぐに店を出た。薄暗いビル街を無言で駅のほうへ向かう。 重い空気。 私は耐え切れず、逆に明るく言った。「先輩、地球上で私から一番遠い場所って知ってます?」「…いや。ブラジルかな」「ブー。地球上で一番遠いのは、私のすぐ後ろです。振り向かなければ、ここから、4万キロもむこうなんですよ」 私は笑いながら、先輩の背中にもたれると、大声でいった。「おーい! はるか4万キロ先のせんぱーい! しっかり、働いて来なさーい! 体に気をつけるんだぞー!」 4万キロの向こうなら、これでもきっと、届かないだろう。そう、どうせ届かないなら…。「せんぱーい! ずっと好きでしたー! もっと、先輩と一緒にいたかったでーす!」 しばらく響き、先輩の温かい背中が、やさしく揺れた。「4万キロでも遠く感じないな。北京はもっと近いんだろ?」 はるか4万キロの向こうから、先輩は耳元でささやき、私の肩を抱きしめた。 私はまた泣き出しながら、小さくうなずいた。
2年にわたるシリウス星系の紛争から地球に帰還した晃司は、出征前とはすっかり変わってしまっていた。第5惑星名物の青灰色の砂嵐に晒されていたせいか、東洋人にしては白かった肌はどこかくすんだ灰色になり、黒かった髪も瞳も、陽に透けて灰色がかって見えた。 おかえりなさい、と、帰還兵が降り立つ恒星船のターミナルで私は彼の胸に飛び込んだ。逞しくなった腕が硬く冷たく機械的に私を抱き返す。2年前なら、照れて真っ赤になりながら、汗ばむ手で肩をそっと抱いてくれたのに。 帰還手続を済ませて解放されると、もう夜だった。街灯が冷たく結晶して、凍てつく舗道に冥府の死神のように濃い影を落としていた。無表情に歩く晃司の隣を並んで歩きながら、私は彼の手を握る。昔と同じ、大きな手。でも今は乾いて、強くも弱くもない力で握られたままだ。見上げた彼の横顔の先で、シリウスが禍々しい青白い光を放っていた。 シリウスの戦闘は泥沼の殺し合いだったらしい。晃司とともに出征した部隊も、3分の2が帰還できなかった。一方シリウス軍は壊滅。昔一度だけ写真で見たことのある、見渡す限り青灰色をした第5惑星の砂漠には、憎しみの屍が累々と横たわり、今も乾いた風に吹かれているのだ。 中心街を抜けると、脇道から退役軍人らしい体格のいい男が、黒い空気を掻くようにふらふらと寄って来た。麻薬をやっていることが一目でわかる。男は私たちをねめつけると、いきなり私の胸倉を掴み上げた。暴れる私を羽交い絞めにし、男は私の服をいきなり引き裂いた。業火のような怒りが子宮の奥から噴き出す。晃司は、虚ろな黒灰色の瞳で、ただじっと見ていた。氷点下に凝固した冬の闇のように、彼の心は凍りついている。どれほどの怒りや悲しみをあの星に捨てなければならなかったのだろう。 私は首を締め上げられたまま、見当をつけて渾身の力で男を蹴った。柔らかい感触と、豚を絞めたような悲鳴。男が股間を抑えてうずくまる。私はその辺に落ちていた廃材を掴み、何度も、何度も男を打ち据えた。感覚がなくなる。怒りも、痛みも、何も感じない。 晃司の手が私の腕を取り、私の手は廃材を落とした。大きな乾いた手が、血のついた金臭い私の小さな手を包み込み、こわばる灰色の頬に寄せた。 私は目を閉じた。晃司の手から、頬から、彼の体温が伝わってきて、私は泣いた。
「ばあちゃん!!またお足が勝手に動いちょるよ!!」孫がパタパタと足音を立てながら近づいてくる。「ちぃちゃんかや?」私は声と足音を頼りに、問いかける。もう何十年も前に私の目は見えなくなっていた。「そうやよ。おばあちゃん、いつもお足が動いちょるね?まるでお足だけダンスをしてるみたい。」孫がクスクスと小さく笑う。「ダンスかぁ・・・おばあちゃんの足はまだ覚えているんだねぇ。」ふと、昔がよぎる。暖かく、優しく、愛しい時間が蘇る。私は16歳の頃、日本は戦争という激動の時代に突入していた。戦火は徐々に広がり、私が住む小さな田舎町にも及ぼうとしていた。当時、父が事業で成功を収め、私は裕福な生活を送っていた。時折、父は親しい友人等を集めて小さいながらも盛大なパーティーを開いた。たくさんの人がきれいな服をきてやってくる。しかし、私は人ごみが苦手で挨拶が終わると、いつも庭にあるベンチから満点の星空を見上げていた。家の中からは楽しげな音楽が聞こえる。「何してるの?」声の方へ振り返ると、そこには学らん姿の男が立っていた。同じくらいの歳だろうか、少し上にも見える。「星を眺めてたの。」彼も空を見上げた。「僕の父も星が好きでね、いつも眺めてた。」彼は北の一点を指差して言った。「あそこに一番輝いている星が見える?あれは北極星といってね、世界中どこにいても北の空に見えるんだ。」「あの・・・お父様は?」「去年戦死したんだよ・・・。」聞いてはいけなかった。後悔と切なさが込み上げ、涙が溢れてきた。彼は「いいんだよ」と微笑み、私の隣に座った。それから、私達はお互いのことをたくさん話した。幼い頃の話、故郷の話、家族の話・・・。話題は尽きなかった。家の中の騒がしい雰囲気など気にもかけず、私達は二人の時間を楽しんだ。彼がふと、流れてきた音楽に耳を傾ける。ゆっくりと流れるような美しい曲。彼は立ち上がると、私に手を差し伸べた。「踊ろう?」私はダンスなどしたこともなかったし、なにより男の人に触れたことさえなかった。「踊れません」私は彼の視線から逃げるように俯いた。「一生のお願い。」彼は私の手を引くと自分の方へと引き寄せた。彼のぬくもりが伝わってくる。私の心臓の音もきっと聞こえているだろう。私は恥ずかしさでいっぱいになった。「僕に合わせてくれればいいから。」彼はしっかりと私の手を握り、音楽に合わせてステップを踏んだ。時々彼の顔を見上げると、目が合い恥ずかしくてまた俯いてしまった。とてもとても長い時間に感じた。恥ずかしさはやがて快さに変わり、私はすっかり彼に身を預けていた。言葉はなかったが、確かにお互いを近くに感じていた。音楽が止み、私達の身体は自然に離れてしまった。「もっと早く出会いたかった。」彼はそう言うと、握っていた手をゆっくりと離した。「また会えるわ」私が言うと、彼は切なげに笑った。「僕は明日軍に入る。」それがどういう意味なのか分かっていた。沈黙に時間だけが過ぎていく。「僕は毎日君を想うよ。」パーティーも終焉なのだろうか、皆帰り始めていた。何も言葉が出ない。変わりに涙がとめどなく流れた。彼は「ありがとう」というと、私に背を向けた。「待ってるから」私は精一杯の声で叫んだ。彼は、ふと笑うと手を振った。「北極星をみて。僕も必ず見上げるから。」私は涙で霞んだ彼の姿を一生忘れまいと見送り続けた。それから、私は毎日北極星を探した。雨や曇りの日は気持ちが落ち着かなかった。彼からの連絡はなく、私は空襲で視力を失った。もう北極星も探すこともできない。あれから50年。私は父の知人の紹介で結婚し、子どもにも恵まれた。夫は他界し、もはや私一人となった。一人になると、今まで封印してきた彼と出会った夜を思い出す。そして、あのステップを無意識に踏んでしまう。目の前に景色が浮かぶ。満点の星空と、彼の姿。「おばあちゃんってば!!」孫が服をひっぱる。「ごめん。ごめん。何だったかや?」またあなたに会える日を夢見て、私は今を生きる。
男が一人、部屋で、椅子に座っていた、・・・そうそう、この話しの前に説明しておこう。 この話しは、つい最近の話しになるのかな? 聞いたのは最近ことなんだ。それは間違いない。僕がこの耳で直接、聞いた話しだからね。 これで予備知識はOKだ。それじゃあ、物語りをはじめようか。その男は変わっていた。いつも部屋にいるのだそうだ。彼は、僕に話しをしたのは男なんだが、その彼は、変わった男の近所に住んでいるらしいんだ。そこで、男がいつも家にいるってことは、男が外へ出掛けたためしがないということで、わかるらしいんだよ。 男の部屋からは、そいつの声が煩いくらいに聞こえてくるらしいんだな。いつも「一人で何しているんだ」って、彼は訝った。 そこで彼は、男の家の周りを何度も何度も行き交ったんらしんだよ。すると、そいつの家の近くでは「男は“サトラレ”だ」ということになっているらしんだ。男の心の中は近所中に筒抜けってことさ。だから男が部屋で毎日何をしているかなんて、手に取るようにわかるんんだな、彼には。 彼は、そいつが裏ビデオばかり見ているという証拠をつかんだ。ビンビン聞こえてくるんだ。もう、まるで高感度のセンサーを耳に取り付けられたようだって。そこで彼は男の家の前を、行ったり来たり、そこは人気の少ない住宅地の一画でさあ。ほとんど往来に人はいない。 突然、四、五人のおじちゃん、おばちゃんが通るけど、別段気にとめることないような、お前もそう思うだろう。 ある時、彼は往来の人の冷ややかな視線や声に、気づいた。「他の連中と違って特殊な能力を持っているんだな」と・・・彼は意味がわからなかった。 ある日、「電波のためさ」と、はっきり聞こえた。 すぐに彼は往来の人に抗議した。「オレは若いぞ。あの世まで、まだ電波は届かない。でも、この世は征服ずみだ。あいつの心がビンビンオレに伝わって、この口から吐き出されるんだ」 そう言って、彼は塀から降りた。それからの男か! 何も変わりはしない。ずっと、部屋にいて、椅子に座ってるらしいよ。
時計の針は多分四時あたりを指していた、筈。正確な時間はわからないけれど、窓から差し込む西日がやけに感傷を誘うのでそう思っただけです。本当は今が何時だろうとそんなことはどうでも良くて、大切なのは僕の隣に骨が居る。と、いうことだけなんです。 ※ 骨 私は動けないし喋れないし料理も掃除もできないしあんたの性欲を満たすこともできない。此処に居る価値とか無いじゃん。だってあんたのせいで今私只の骨だし。カルシウムだし。Caってなもんで。えぇ。見たところあなたは鉄分のが足りてないようだけど。顔色悪いじゃないですか。別にいいけど。あぁ、糞っ。早く逮捕されてよね。 ―外見を飾って動く人間なんか滑稽なだけだ。話す価値もない。会話なんてナンセンスなことを君に求めてるわけじゃない。僕がどんなに苦労して骨の君と対面するに至ったか。僕はただ対話がしたいだけなんだ。言葉以外の言語で。ウォッカとロカビリーの関係やなんかについて。ね、隣に居てくれさえすれば僕は報われる。対話をしよう。右翼思想とか宗教とか、際どい話題も今までみたいに咎められたりしないんだから。どうぞご遠慮なく。どうぞ。 骨 なら、私は私を殺したあんたが憎い。だから。 新聞の第一面。被害者は西区のAさん。生前の写真。笑顔のA。見つかったときは骨でした。死因?当然、出血多量によるショック死。司法解剖は無意味。「まさか、うちの生徒があんな姿になるなんて」容疑者、僕の顔が大きく載って。「骨と会話する異常者」「変質者」「狂人」 骨が発信するイメージが何の障害も無く伝達される。 ―そう責めないで欲しい。胸が苦しい。少し悲しい。僕は狂人ではなくて純粋な対話を求めるリアリストに過ぎない。 フラッシュが眩しい。「ご家族はショックのあまりコメントも出せないままです。あ、今容疑者が連行されていきます。あの男、凄惨な事件をおこした、非人間的な犯行に及んだのはあの男です。容疑者はAさんの体に包丁を突き立て… ―それは君の骨に会うための過程だ。僕だって辛かったさ。でも仕方がないじゃないか、少しイメージを止めてくれ、痛い痛い痛い。いや、でも僕はかつて体験したことのない対話をしている。快楽の海に投げ出されたようなジレンマ。 憎い。憎い憎い憎い憎い憎い憎いッ ―あぁ。僕は今対話をしている。 ※ 「呆けてます」 「壊れたか」 「みたいですね」 二人の刑事の目には生きている筈の男よりも隣に居る骨のほうが活き活きとして見えた。口には出さない。しかしお互いそう思っていることは言葉なしでも伝わっていた。
駅構内の伝言板。 申し訳なさそうに、ポツンと置かれている影の薄い伝言板。 携帯電話が、爆発的に普及した現代に取り残されてしまった旧世代の産物。 誰かに何かを伝えるツールとしては、けっして多くを伝えることもできないし、伝わるまでに、かなりのタイムラグが生じてしまう、マイナーでアナロギーな代物。 僕は、その日はじめて伝言板を使用した。いや、正確に言うと落書きをした、、、というか落書きのお手伝いをした。 学校からの帰宅途中。いつもと同じような人ごみの中、いつもと同じような足取りで、いつもと同じような景色の中を歩いていた。ただいつもと違うことは、ふと伝言板に目がいってしまったこと。 そのときはじめて、僕が毎日使っているこの駅に伝言板があることを知った。たぶん、目に映っていたことはあったのだろうが、とくにこれまで意識したことなんてなかった。 不細工な「鳥」の羽ばたいている絵と、その下に書かれた不細工な「はくちょう」の文字。 おそらく、小さなこどもが落書きしたのだろう。絵の下の文字が無ければ、描いた本人が何の鳥を描いたのかとても伝わりそうも無いところとか、無邪気さが目一杯、全面的に押し出されているところとか、なんだか微笑ましかった。 ただ、その不細工な「はくちょう」は、翼の片一方が消えかかっていて、そのときの僕には、怪我をしているように見えた。 その不細工な「はくちょう」が、気の毒に思えた僕は、消えかかっていた翼を描き直してあげることにした。 チョークを手に取り、とくに急いで帰る理由もなかったので、わりと丁寧に消えかかっていた翼を治療してあげた。 手に付いた白い粉をはたきながら、ひとり満足げに完全な姿を取り戻した「はくちょう」を少し離れて眺めた。絵心のない僕が描いたとはいえ、これだけ描けていれば空を飛ぶことだって可能だろう。そんなことを勝手に思いながら、帰路に戻った。 善いことしたような気がして少し気分が良かった。実際には、駅の伝言板に落書きをしただけなのだが、、、。 次の日の朝、なんとなく気になって伝言板をのぞいてみた。 予測はしていたが、昨日の「はくちょう」は、キレイさっぱり消されていた。 そのかわりに今度は、お手本にしたくなるような奇麗な文字で「お陰様でお空に戻ることができました。治してくれたひとへ、ありがとう。」と書かれていた。 思わず吹き出してしまった。 小さないたずら心が、僕にまた小さないたずら心を生ませ、そしてまた、こうやって新たな第三者のいたずら心を呼んで、「はくちょう」が僕にお礼を言っている。 茶目っ気いっぱいで、なんだか夢のある、いたずらの連鎖。 「どういたしまして。」 声にならない声で伝言板に返事をした。 その伝言板は、待ち合わせの変更でも、落とし物があったことでもなく、ちょっとした遊び心と温かい気持ちを僕に伝えてくれた。 プラットホームに上がって、ふとそら見上げると、昨日の不細工な「はくちょう」がのびのびと力強く羽ばたいている姿が目に映ったような気がした。
この吊り橋は古く、足を踏み出すたびに不規則に揺れ、ぎしぎしと不気味な音をたてた。僕は今日、ここから飛び降りる。 気がつくと僕の足は、小刻みに震えていた。仕方あるまい。ここは地上80メートルに架けられた橋の上。両側には大きく切り立った断崖絶壁がそびえたつ。荒々しくも、堂々としたその姿には、見るものに美しささえ感じさせる。見下ろせば、長年にわたり、川の流れで侵食されたと見られる奇怪な形をした岩々が転がっている。その間をぬうように、川は冷ややかに、かつ激しく流れる。上流で一週間降り続いた雪が溶け出しているのだろう。いつにも増して流れが速く、水かさが増している。水が流れ落ちる滝つぼには、柔らかな白い泡が、まるで僕を受け止めるクッションになろうとしているかのごとく、もやもやとうごめいている。その時背後からひやかしの声が聞こえてきた。「おい、大丈夫か?顔色悪いぞ。」僕の顔が青ざめているのだろう。無理もない。今からこの谷底に向かって飛び降りようとしているのだから。「あ、ちょっと眩暈がして…。大丈夫。」僕はそう言って必死で笑顔をつくった。しかし、さらに荒々しく、高圧的なトーンでその声は続く。「それなら早く行けよ!手伝ってやろうか?」その言葉と共に、背後から足音が近づいてきた。僕は慌てて両手を広げた。「待って。自分で行きますから。」僕は精一杯の声で懇願した。足音はそれ以上近づいては来なかった。今聞こえるのは、足元の恐怖心をかきたてる川の轟音と、それとは対照的に頭上で穏やかに鳴り響く小鳥のさえずりだけだ。僕はそっと目を閉じた。『僕の人生はこんな形で幕を下ろしてしまうのだろうか。振り返るとこの23年間、勝手なことばかりして、みんなに迷惑かけて…。でも、僕なりに精一杯生きてきたんだよ。ごめんなさい。』僕は静かに目をあけた。ちょうどその時、白やんだ東の空に太陽が顔をだした。柔らかな朝の光が僕の身体を包んだ。夜明けだ。どうやらタイムリミットが来てしまったようだ。残念だ。2005年1月1日、僕は行きます。僕は大きく深く呼吸をした。そして両腕を広げた。いざ!!「さん、にー、いち、バンジー!!!!」 見事、僕の身体は大きく宙を舞った。大成功だ。橋の上で僕を見ていた友人たちは、大歓声を上げていた。僕はさかさまに揺られながらも、彼らに向かって力強くガッツポーズをして見せた。こうしてまた僕らの新しい年がはじまる。
学校から家へ帰ると、電気が点いていなかった。両親は出張中だ。僕は、ふっと安堵の息を漏らした。食べかけの朝ごはんに床に散らばった雑誌。朝、家を出てから誰も家に入った形跡はない。そのことがなぜか僕に安堵感を与えた。「ただいま。」ダイニングテーブルの横にある椅子に座っている双子の兄に声をかけた。返事はない。「どうした。電気も点けないで。」俯いたまま、返事はない。ああそうか、と思った。勉強やら部活やらで忘れかけていたが、僕と兄は喧嘩をしていたのだった。そして、僕はずっと無視され続けていたのだった。「なあ、まだ怒ってるのか。悪かったって言ってるじゃないか。」1週間程前、僕は兄の大切にしていた本を捨ててしまった。僕にはその本の価値がよくわからなかったのだが、読書好きの兄にとってはなくてはならないものだったらしい。新しく買ってきてやる、と僕は言ったのだが、もう販売していないのだと冷たくあしらわれてしまった。「なあ、血、でてるぞ。大丈夫か。」そういえば最近の兄は怪我が多い。しかし、日に日に増えていく傷の原因を教えてはくれない。僕は、無視されているのだから。「お前、無視しかできないのかよ。」いらいらしてきて口調が荒くなる。僕と彼は双子だったが、顔以外は全く似ていなかった。いつも冷静で何でもそつなくこなす兄と、短気で何もかも人並みな僕。僕は、兄が羨ましくもあり、妬ましかった。気づくと、傍に置いてあった花瓶で兄を殴っていた。頭から血が流れる。兄の傷が、増えた。瞬間、全てを思い出した。1週間前のあの日、僕は兄の本を捨ててしまった。必死で謝ったし、買ってくるとも言った。しかし、兄は蔑みの目を向け、僕を無視した。一言も聞き入れてはくれなかった。悔しかった。右手で花瓶を掴んだ。僕は、その記憶を頭から消して1週間過ごしてきたのだ。この家に誰もいなくてほっとしたのは、このことを誰にも気づかれたくなかったからだ。鼻の奥が熱くなった。温かいものが頬を伝う。明日になったら警察へ行こう、と思った。僕はとんでもないことをしてしまった。目が覚めると、僕は自分の部屋のベッドに横たわっていた。部屋を出て、朝食を食べるために1階へ降りていく。兄は、ダイニングテーブルの横にある椅子に座って俯いていた。「おはよう。」返事はない。ああそうか、と思った。僕と兄は喧嘩をしていたのだった。「なあ、血、でてるぞ。」返事は、ない。
そのときはもう港町まで来ていた。ルイを腕に抱えて、私は辺りを見渡した。車の中で煙草を吸っておけばよかった。私は後悔した。心に波風が立つ。今日私はこの場にルイを置いて帰らなければならない。可愛いルイ。真っ白な猫だ。私はルイをきつく抱きしめる。心なしかルイがにゃあと寂しそうに鳴く。私は心を鬼にしようと思った。でも何の罪もない動物たちが、どれだけこれと同じような目に遭っているというのだろう。飼っている動物を捨てるという行為。許されることではないと分かっている。しかし分かっていても、これしか方法がない。愛情がなくなったわけではない。だからこそ余計に決心がつかない。私はルイを抱いたまま立ちつくした。どうしよう。私はどうすればいいのだろう。辺りに人はいない。だがここももう少しすれば人が集まってくるかもしれない。捨てるなら今しかない。「ルイ、ごめんね。」私は持ってきたダンボールの中にルイを入れ、ガムテープで封をした。ルイは一瞬ダンボールに入るのを嫌がった。しかし私は無理矢理ルイを箱の中へ押し込んだ。「ルイ、ごめん、ごめんね・・・」私は泣きながらその場をあとにした。私は走った。冬の風が冷たく頬に吹きつけていた。
プルースト効果、という言葉がある。カスミさんに教えてもらった言葉の一つだ。ある特定の匂いがそれにまつわる記憶を誘発する現象のことで、フランスの文豪マルセル・プルーストの名にちなみ「プルースト効果」として知られている。 僕にも、ハッカの匂いがすると思い出す記憶がある。「白くて雪のような豆腐に、醤油をかけて汚すのは冒涜だと思うのは私だけかな?」 カスミさんはいつものようによく分からないことを言った。 生返事をすると冬の通学途中の小学生のように白い息を吹きつけてきた。この場合は煙だが。「煙草嫌いな人にはやめた方がいいですよ」「うん」 その時、強いハッカの匂いが鼻についた。「ああ、これ?」 提げていた袋から出てきたのは花だ。「私が作った」 それは、細い葉の並んだ茎に所々小さな花の集まりがあるという、見たことの無い花だった。「育てていたのを見舞いで持ってきてくれたんですか?」「そうじゃない、良く見て」 本当にじっくり見ると、その花があまりに整いすぎていることに気付いた。流石は自称職人、作ったとはこういうことか。「造花ですか?」「そう。偽物でも少し工夫すればこの通り」「でもこんな匂いの花なんてありませんよ」「大丈夫。これはハッカの造花だから」 得意げに言うカスミさんの話では薄荷という植物らしい。ハッカというのは化学薬品のことだと思っていたことは黙っておく。「二本作ったから君に一本あげよう」「いやいや、ご家族にでもあげてくださいよ」「見舞いにも来ない奴にやらなくていいと思う。枯らすのも惜しいから、あげる」 枯れる筈も無いのに。どうも家族とはうまくいっていないらしい。礼を言って一本受け取り、匂いを嗅ぐと少し気分がよくなった。「爽快感・清涼感を生じさせ、虫除けにもなるらしい。花言葉は美徳。消化を助ける効果もあるけど造花を齧るのはやめなよ」 それからトレパネーションについて談議し、カスミさんが検査の時間になった。お気の毒に。「戻ったらまた相手をして欲しいな」 彼女はいつものように刹那的な笑いをして、連れられて行った。 その日、カスミさんは病院から逃げ出した。頭の良いカスミさんのことだからなかなか見つからないだろうと思っていたが、本当に見つからなかった。造花だけが残った。 僕の記憶はこの花が朽ち果てるまで残るだろう。そして、ハッカの匂いがする度に辺りを見回して、肩を落とすに違いない。
柄に無く、模様替えなんてしてみた。母が今の私を見たら「どう言う風の吹き回しかねぇ」と笑いながら言うだろう。私は母の優しい笑いを思い浮かべて、苦笑した。 模様替えをした後の部屋は、他人の部屋のように思えるほど模様替えする前と違っていた。今まで溜まっていたゴミや、埃を出して空気の流れが良くなったのだから、当たり前と言ってしまえば当たり前だ。 ふ、と。眼が処分するために隅に寄せたものを捉えた。小さくなって着れない洋服やボロボロなタオルの中に混ざって、まだ使えるマグカップ、時計、香水が並べられている。私は溜息をつき、そっとそれに近づいた。全ての好みの物だ。でも、捨てないと―― そこまで考え、私は目をつぶって深呼吸した。深呼吸した途端、物に染み付いている匂いも混ざって、余計に熱いものがこみ上げた。涙が零れそうになるのを必死に食い止めて、私は手の甲で涙の雫を拭いた。『理衣』 どく、と心臓が鳴り、体が強張る。朝比の声が、聞えた、気がした。朝比は、処分するつもりのこれらを私にくれ、そして、これを処分するきっかけを作った人だ。『理衣、別れよう』 ギュ、と服の裾を握って、私は深呼吸を繰り返した。 朝比の言葉がずっと、離れない。そして、朝比の声が、匂いが、全てが、私を放さない。付き合った当時から別れるまで、私は彼が大好きだった。そして情けないことに、今も大好きなのだ。本当は、いつまでも思い出の詰まった此処に住んで居たくなかった。だからと言って、私は引っ越しが出来るような経済力も無かったし、そんな事が出来る状況でもなかった。 大学はまだ二年もいかなければいけないし、ここには一年前に越してきたばかりなのだ。私はそう考えてハっとした。私はあと“二年も”朝比と毎日顔を合わせないといけないのだ。何故考えなかったのだろう。何故、今まで気付かなかったのだろう。 私はこれを全部捨てても、部屋がすっきりしても、朝比への想いは捨てきれない。なんて情けないんだろう。思わず手近にあった朝比がくれた服に顔を埋めて、泣いてしまった。この捨てきれない感情と、捨てたくても捨てられない物を、私はいつまで持っているのだろう? そんなことを考えたせいで涙が一層溢れてきて、私は涙を捨てるように流した。
※作者付記: 想いを捨てきれないのが情けないことだとは思ってませんので、もし理衣と同じ境遇に居る方も情けないだなんて思わないで下さい。
「身投げ?」私は、瞳の輝きを亡くし、枯れたような風貌をした男に聞き返した。すると男は無言のままそっとうなずいた。曇り空の、波音が不気味に感じる岩肌の上…急な、切り立った崖で、その男は罪を告白してきた。「童謡が好きで、特に『かごめ かごめ』とよく歌っていたのです。」男はやがて一つ一つ選ぶように言葉を出してきた。「身重のその女性も、こんな私のその歌を聞いて笑ってくれました。」かすかに笑う男。だがその笑みは、不快な気分を私に与えた。「それが嬉しくてねぇ。昨夜、この崖に呼び出したんですよ。昨夜というよりも今日の未明ですかね。夜明けの晩です。」思い出すかのように、切り立った崖の先端を見つめながら男は言った。私は何かしら言い表すことのできない不安感に襲われた。「ところで、あなたは「かごめ かごめ」をご存知ですか?」「えぇ。」崖の下を覗くようにしていた男は、急にまた笑顔になって私にそんなことを聞いた。存知ない、なんて嘘は意味のないことだから私は知っていると答えた。「あれねぇ、よく小さい子供が歌ってますけど、本当の意味を知ったら夢が壊れると思うんですよね。や、あるいはまた一つの夢ができるかもしれませんね。」「と、いうと?」「あれはね、子供を身ごもった母親が後ろから、崖の底へと突き落とされる歌なんですよ。」「…本当なんですか?」さすがに、疑った。当然だと思う。逢って間もないこの男にそんなことを聞かされてもたわごとを鵜呑みにさせられてる気分になるのは否めない。だから私は信じようとしなかった。だが男は続ける。「えぇ、本当です。だって実話ですから。」「実話…ですか?」「えぇ。そして、その母親を突き落とした犯人というのが私ですから。」男はそう言うと無邪気に笑い出した。私は、ぞっとした。何故?何故私にそんなことを言うのだ?「崖の下を見ればわかります。今日未明から行方不明になっていた女性の遺体が、波にさらわれてなければあるはずですからね。」男は、けたけたと笑って言った。「…何を、言ってるんです?」私は戦慄して言った。すると男は、今まで笑っていた顔を、全く別のものに変えてしまう。そう、無機質で、映る感情といえば暗く、淀み、沈んだ、とても不快な…常人には真似のできない…そう、異常者たる者のみができるような表情を作り上げた。そして、確かに笑っていた。「あなたも、歌の意味を知っているなら、わかりますよね?」私は、そう言った男の笑みに、自由を奪われたように動けなくなった。そして…「かごめ かごめ かごのなかのとりは いついつでやる よあけのばんに つるとかめがすべった うしろのしょうめんだぁれ?」不気味歌いだし、私の肩に手をかけた。恐怖で声も出ない私は、そのまま…男が導くその道の先へと歩を進め、やがて、灰色の空の下で広く広がる青い海が打つ崖下を視界に入れた。「さぁ、これが歌の本当の物語…。」男の手が、私の背中を押した。バランスを崩した私は、崖の先端で足を滑らし、そのまま…籠目 籠目 籠の中の酉は何時何時出やる? 夜明けの晩に鶴と亀が滑った 後ろの正面誰?「籠目は妊婦。籠の中の酉は胎児。何時何時出やるは出産まであと幾つ?鶴と亀は母と子。滑るは落ちる。後ろの正面は…。」男は静かに歌い、笑い、崖の下を覗くと、また笑い、歌った。
「学校辞めます」九月のこと。誕生日の前日に行われた三者面談で担任に告げた。お母さんは、私が夢遊病にでもなったなんて思ったに違いない。私達親子は比較的仲良しだから。私だって少しは自分がどうかしてると思ったから。それから少なくとも一ヶ月間、担任は毎日のように私を諭した。「山村さん、それじゃあ一生狭い世界だけで終わってしまうよ」今年も、あと少しで終了する十二月。今日で高山基樹と一年と二ヶ月の記念日をむかえる。基樹は地元の工業高校に通っていて、きわめて温厚な性格に、面白さも持っている人。私達は彼女と彼氏で、あと五年も経ったら夫婦になると信じている。湿気の強い彼の部屋で挫けそうになっている椅子の足をぼうっと眺めていたら、不意に基樹が唇を重ねてきた。そのまま布団に倒れこんで、彼が胸に手を這わせてくるのに合わせて息を荒げているうちに、窓の外で太陽が沈んでいき、小さな町にイルミネーションで明るく染まっていく時が来た。やがて基樹が激しく唸って行為を終えて、私はにカーペットに落ちた下着を取り上げると、素早く着けた。彼が洗面所へ行ってしまったので、テレビを消して窓を開けると、目の前にあるレンタルビデオ屋が次の景色を隠していた。向かって右側には小さな結婚式場がある。そしてそれが大きな月を隠している。左側には道路に走る車がある。…これで、景色はお仕舞いだ。なんて狭いんだろう。「なんて、狭いんだろう」家に着いたのは十二時近くだった。ちょうどお父さんが単身赴任している山形から帰ってきていたので随分怒られた。「門限くらい、守れるだろうが」毎日が、中学の頃と同じようだ。部屋の中で板チョコを食べていたら、歯と歯の間から唾液が何滴も飛んで、宿題のプリントに点々を描いたのでぞっとした。悪寒が楽しくなって何度もやっていたら、煙草が吸いたくなってベランダにでて星空に向かって煙を吐いた。ハー。「綺麗」寒い。かなり空気が引き締まっている。鼻水を啜りながら回れ右をして、遠くを見晴るかした。ど田舎だー、ふふふ。でもここからだとけっこう遠くまで見える。まだ広い…。私にとっては世界はこのくらい、基樹にとってはあのくらいの狭い世界しか見えていないんだ。「なわけないかぁ」しばらく目をつぶってからまた世界を見つめたら、震えが止まらなくなった。薄く積もった雪で煙草の火を消した。「やっぱりこっちのが広いや」
さっきから私を見つめている、白いドアの中央、丸いのぞき穴(本当は何ていうの?)が憎らしい。レンズの向こう側を見透かそうとじっと睨み返してやるが、何も見えない。わかんない。 ドアの前で片足に体重をかけて、残った脚のつま先で、コンクリートをこする。尖ったブーツの先が削れる、ここここ、という音が、アパートの壁に反響する。反響してる? わかんないけど。聞こえてるんなら私の苛立ちを感じ取って、このドアをさっさと開けてくれれば良いのに。ここここ、細かなドリルであいつの心がエグれてしまえば良いのに。 ドアノブに手を伸ばす。冷たいステンレス、手のひらに吸い付いてきて、回す気が失せて、離す。金属の感触が手に残る。ジーンズにごしごし擦り付けて、鼻から息を吐く。一歩下がる。冷たい鉄柵に背中を預ける。 上着のポケットから携帯電話を取り出して開いてリダイヤル。白いドアごしに、あいつの着信音が聞こえる。 いるのはわかってる。ドアの向こうで、あいつは電話に出ない。コールしたらレスポンス、ノックしたらオープン。条件反射から離脱しようとするあいつが憎らしい。自分ばっかり。いつも自分ばっかりだ。私は携帯電話を閉じた。同時に着信音が消えた。「あのさ」 声を張り上げた。意識していた色より、苛立ちが濃い。少し戸惑って、黙った。 白いドア。白い暴動。蘇るジャケット写真。ベースでも叩き壊すか。あれギターだったっけ。ロンドンコーリングだったっけ。わかんないけど。私は何しに来たんだっけ。わかんないけど。開けろよ。 おもむろに鞄に手を入れ、ピストルを取り出す。ドアの真ん中に照準を合わせ、引き金を引く。 なんて、想像の中で爆音が鳴る。頭の中でおさまって、息を吐く。ドア。近づいて、すぐ脇のチャイムを押す。きん、と高い音がドアごしに聞こえる。指を離すと、こーん、と続きが鳴って、来客の存在を知らせる。開けろよ。あいつは答えない。 きん、とまた押す。指先に力をこめて、静止する。じっと押し続ける。指を離す。こーん。 しつこく、また押す。あいつは出てこない。三回連続で押す。きこきこきこん。クイズ番組で正解したみたい。私はなんて答えたの? 右手を握りしめて、あごの横で揺らす。揺らした右手で、ドアを叩く。どんどん。きらきら。揺れるチェーンの微かな音が、小さく聞こえて、ドアが冷たい。あいつは出てこない。 ここにはいないのかもしれない。
私が弟を意識しだしたのはいつだっただろう。六歳下の弟。彼が生まれた時、私はもう小学生だった。ずっと両親と三人で暮らしていた私は、新たな家族の一員の誕生に喜んだものだ。ミルクを飲ませるのも、一緒になって積み木遊びをするのも、絵本を読むのも、おむつを変えることだって、すべて私がやっていた。弟の世話を一生懸命にする姉。そんな私の姿に周りは褒め称えたものだが、私は特に嬉しくはなかった。ただ弟のために何かをしてあげたかった。いつの間にか私は彼の母親になっていた。弟との関係は高校生になっても続いた。周りは仲の良い姉弟だと静かに見守った。でも、ある日、弟は家に恋人を連れてきた。恋人がいることを初めて聞いた私は、激しく動揺した。同時に、そういう自分がいることに初めて気付いた。私は弟の事を“男”として見ていたのだ。そんな胸中を知らずに、弟は淡々と恋人を紹介した。まだあどけなさが残るかわいい少女。私はふと気付く。彼女が、私に似ていることに。弟の中にも私がいる。それに感づいた時、私はこの獲物を生涯のがさないと決心した。そして今から二年前、私は弟の恋人を殺した。さらに実の両親も殺害した。すべては弟と二人きりで暮らすため。私達は恋人同士でも夫婦でもない。血の通った姉弟だ。そのもっとも縁の近い関係であるために、唯一結婚ができない。しかし、それでも私は“彼”と二人きりで過ごしたい。だから、弟から恋人を奪い、両親を殺した。殺人について私は何の罪も後ろめたさも感じていない。私が弟を愛する気持ちに比べれば、人の命など無価値に等しい。だが、私にも一つ不安な事がある。弟が私を愛してくれないこと。それどころか、私が犯人だと思っているらしい。明確に弟がいった訳ではないけれど、言動と態度ですぐわかる。なにしろ私は、弟の母であり妻なのだから。「でもね。その味噌汁の中に入っているお豆腐。それを切ったのって、父さんや母さんを斬った包丁と一緒なんだよね」夕食の場。冗談めかしに言うと、弟は私を睨んだ。憎々しげな視線の中に、恐怖が目を曇らしている。私ははっきりと捉えていた。「冗談よ」と言った後、食器をなおすのに台所へ向かった。背中越しに弟の視線を感じた。憎ければ憎めばいい。恨むなら恨めばいい。そうしてアナタは私から離れられなくなる。だから決して視線をそらさないで。カチャ……。鍵が閉まる音が聞こえた。今日も私は弟を捕獲する。
※作者付記: 前回(第28回体感バトル1000文字小説部門)投稿した作品「仮の牢獄」とこの話はつながっております。読んだ後でもよろしいので、この作品が気に入った方は、ぜひそちらもお読みください。
八嶋さんは自動販売機でホットレモネードを買った。 レモネードの缶が取り出し口に落ちて、八嶋さんは投入口に硬貨を3枚入れ、それからレモネードのボタンを押した。 僕が立ちつくすより前に、彼女は溜息をついた。 ゼミの女の子たちの中で八嶋さんは浮いていたけれど、かといって嫌われている風でもなかった。単に人付き合いをしない無口な娘、という位置づけだった。誰かが話しかけると、いつも少し考えてからゆっくりと応えた。教授は時折焦れていたが、誰に対しても丁寧だったし言葉もきちんとしていたので、疎まれる要素は少なかったのだろう。あまり笑わないし人気者になるタイプではなかったけれど、線の細い横顔が綺麗だった。 僕は彼女の華奢な首筋や結ばれた唇や長い睫毛を見るのが好きだった。引っ込み思案で口下手な僕には彼女の気を引けそうになかったが、いつも横目で八嶋さんを追っていた。 図書館にこもって書き上げたレポートを提出すると、初雪が降り始めていた。夕闇の中、八嶋さんは学食の前に一人で立っていた。遅い時間だったので周りには他に誰もいなくて、僕は声をかけようか迷いながら近づいた。 そして不自然なものを見た。「ときどき、世の中と折り合いがつかなくなるの」 両手でレモネードの缶を包むように持って、八嶋さんはそう言った。僕と彼女は並んでベンチに腰掛けていた。人生相談の台詞みたいだな、と僕は思った。でもそうじゃなかった。彼女は世の中そのものと歩調を合わせられずにいた。「特に機械と。時計が進んだり遅れたりするみたいにね」 切符を買う時なんか大変だね、と僕が言うと彼女は頷いた。ボタンを押すより先に切符が出る時もあれば、十秒も経ってから出ることもある。自動改札はもっと厄介だ。電車に乗らずに済むよう運転免許をとろうとしたが、ハンドル操作にも誤差が出ることが判って断念した。電話でも家族以外とは話せない。 だから単純なものが好き、と彼女は呟いて、レモネードを一口飲んだ。白い蛍光灯に照らされるその横顔に見とれながら、僕は暫し言葉を失った。「握手もずれるのかな?」 どうしてそんなことを口走ったのか判らない。首を傾げる八嶋さんに、僕は立ち上がって握手を求めた。彼女はゆっくりと僕の手を握った。それから微笑んで言った。「手、冷たいね」 僕はうまい言葉を見つけられないまま、なぜだか少し泣きそうになって、彼女の手を何度も強く振った。
「お前らお揃いじゃん。ペアルック?」 最初に気付いたのはA彦だった。 B子・C美・D太は一斉にカズとアキを見比べる。 赤のパーカー・グレーのカットソー・カーキーのチノパン・ブラウンのデッキシューズ。違いはアキがスカートであること。「付き合っているの?」 B子はからかった。「偶々だよ」 カズは否む。 彼らは先月大学に入学して、つるみ始めて間もないグループで、その一員のカズとアキは恋人同士ではなかった。むしろグループの中でないと会話が交わせない程度の関係である。 2人が同じ格好なのは本当に偶然だった。 カズはお洒落に疎く、高校生まで母親の買い与えた服を着ていた。その彼が1人暮らしを始め、自ら買い求めたのはユニクロ。多分アキも同様であろう。お互いに全身メイドイン・ユニクロであれば服装の一致などありえない話ではない。「気が合うってことよね」 C美が一言付け加えて、この件は笑い話で終わるはずだった。 カズとアキは毎日服装を変えたにも関わらず1週間連続で服装を同調させた。「そんな控え目な宣言をしないでハッキリと付き合い始めたっていえよ」 D太は憤然とし、他のメンバーもイライラしていた。そしてアキまで恨みがましい目でカズを見ている。 カズには、男女関係で冷やかされることに免疫の無いアキが辛い気持ちになっているのが分かった。そこでアキと2人きりになるタイミングを見計らい、携帯で前夜に翌日の服装を相談することを提案した。 その晩、今まで個人的に女の子へ電話をすることが無かったカズは胸を高鳴らせながら携帯のメモリーでアキを選び出す。電話に出た彼女の声も少し上擦っている気がした。 服装の件はあっさり決まったが、その後会話は弾まず結局5分ともたないで電話を切る。カズは、明日はちゃんと別の話題も考えてから電話をしようと反省した。 不器用な電話であったが翌日から同じ服装になることはなくなった。 日は巡り彼らは2年生となった今もつるんでいる。 一時期彼らの間では、「今日はペアルックじゃないの?」 が流行語になったが、今はその話題すら忘れてしまっていた。 そして2人も電話で相談しなくても服装が一緒になることはない。なぜなら2人は同棲し始め、アキが服装を決めてくれるからだ。同棲は内緒にしている。「久々にペアルックにしてみない?」 クローゼットを覗くアキがいう。 それだけは勘弁して、とカズは思った。
今、いなくなったあんたのコートの羽織って、うずくまって、ぼぅっとして、下を見てる。涙は出ない、どぉと疲れて、脳みそが空中を浮いたようになっていて、まだ下を見ている。今は夜中、この部屋を真っ暗にさせないのは、外のチカチカと灯る街灯。点いたり、消えたりしながら、あんたが座っていた椅子の影を私に見せる。それは、忘れていきそうな残像を思い出さす。 私は目を閉じた。目はぎゅっと痛み、私を少しばかり現実に戻した。部屋は寒い。コートの端と端をぐっと引き寄せた。これで少しは寒くなくなる。だけど暖かくはけっしてならないだろう。私はそっと目を開けた。椅子の影は消えていた。ゆっくりとまばたきをして、また目を閉じる。少し姿勢を崩した、また少し目を開け、やることがなくなってしまった。真っ暗になってしまった部屋の中、私はまだ下を見ていた。街灯の明かりがよわよわしく点いた、あんたの椅子の影には一匹の羽虫の影がとまっていた。やがてその羽虫は、明かりの点いた街灯の方へ飛んでいくだろう。新聞配達のバイクの音がした。夜明けは、近いのだろう。それまで、私は蛹のままでいるだろう。