皆が皆、何も覚えていなかった。説明してくれる人も、物も何もない。 僕らはただ、まっさらな空間にいた。 おぼろげな人影が幾つか宙に浮かんでいる。 なんだかすべてが頼りないので、その人たちに妙な親近感を感じる。「ねぇ、ねえ、今日は晴れてるのかな? 曇ってるのかな?」 まるで友達のように話し掛ける。 すぐに元気のいい、高い声が答えた。「あっ、さあ! わからないけど。どう?」 彼女は違う人影に話をふった。 すぐにしゃがれた低い声が答える。「そうだな。寒くもないし、暑くもないし。曇ってるんじゃないか?」「そうですか…」 予想していた声とは違ったので、つい敬語になってしまう僕。 突然、一際小さな影がはしゃいだ声音で話し出す。「みんな、みんな、遊ぼうよ。早くしないと学校が始まっちゃうよ!」 学校? すごく懐かしい響きだ。皆、黙ってしまった。 あまりにも何も理解できないので、皆、本当のことを知るのが怖かった。 皆の不安が伝わってきたので、僕は確信に触れるウソをついた。「皆、思い出してくれ! 僕たちは家族で雪山登山をしに来たんだ。今はだから吹雪の中だ。がんばれ、絶対眠っちゃ駄目だぞ!」「なに言ってるの。寒くないっていったじゃない。しかも、私たち家族?」「感覚が麻痺してるんだ!」「違うよ、みんな、宇宙にいるんだよ」「ええっ!?」 子供の発想だと切り捨てることはできない。だって誰も否定できないから。 でも、宇宙って何だ? ついでに、雪山登山って何だ? 何で、眠っちゃ駄目なんだ?「分かった! 聞いて、聞いて!」 女性が声を上げた。「ここは、夢の中なのよ。だから、こんなに何もないの」 なるほど。僕は納得しかける。「夢ならいいが。なんの夢を見てるんだ」 老人の声が否定した。 確かに。普通は夢って、何かしらのイメージがあるもんだ?…夢って何だ? しらないわよ、と女性がむくれた感じがした。 ? しらないわよ? 女性? むくれた? あれ? よく考えたら、何も分かってないぞ。「だから、宇宙にいるんだっっって」 宇宙…か。それでいいか。「よし、宇宙にしよう」 そして、宇宙の細部を描写する。太陽風とか、宇宙塵とか、そんな感じで。 パソコンの前で、そんなことをしている時間が、僕は好きだ。 が、…むー。 やっぱり登場人物に物語を創らせるってのは無理だったか。 だから、設定を…。 いや、才能が…。 ぶつぶつ。
「少し話ししたいんだけど、イイ?」彼女の顔に見える緊張のわりに、その言葉は凛としていた。「このクラスってどう思う、 自分は何かね、男子も女子も、お互いに拒絶してしてると思う。男は男同士でしか話さないでしょ?」たしかに、このクラスの男女は仲が悪い。と言うより、ほとんど会話をしない。自然に各々でグループを作り、皆その仲で生活している。そして、その中に男女が共存できている物は一つも無い。「ちょっと前に、三年のクラスに行ったことあるの。わかる? 三年生って、めちゃくちゃ男女の仲良いの。 それは、二年も一緒に居れば、知ってる人も増えると思うよ。でも、ココの クラスとやっぱり全然違ってた。お互いに遠慮が無いって言うか、・・・ しっかりみんなに自分を見せてた。と、思うの。こっちのクラスって、みんな、自分の殻にこもってるよ。まあ、親しくしてる人には別だけど・・・ 取り合えず、男女は、お互いに自分たちを出してないと思うの。」「相手に自分を見せるのって、やっぱり怖いけど、ソレをしないとホントの友達になれないと思うよ。人って一緒に居れば居るほど、相手の良いトコも、嫌なトコも見えてくるで しょ。でも、ソレを知らないと、相手とほんとに仲良くなれないと思う。だから、私もこのクラスの男子のこと、ちゃんと知りたいと思うの。それで、 しっかり仲良くなりたい。自分が見た三年みたいに。」少し、悔しかった。確かに、自分は怖かった。女子に、本当の自分を見られるのが、そして、嫌われるのが。しかし、彼女との会話で、僕は、やっと気が付いたのだ。自分が殻の中で出たがっていることに、そして、殻から脱出する努力をしてこなかった事に。「私ね、自分の姉に一つだけ尊敬してるトコが有るの。ほとんど覚えてないんだけどね、まだ、自分が小さい頃、姉がいつも遊んでる 仲間の1人を嫌いになって、それで、仲間みんなで話し合って、ソレを解決 してたの。嫌いな人も一緒に。自分なら、どうしただろうと思うの。多分、仲間から弾くか、我慢し続けたと思う。でも、我慢して黙るって、ホントの自分を隠してると思うの。好きな事も、嫌いな事も、相手に直接伝えるのって、凄い勇気がいると思う。 でも、やっぱり、大切な人にはちゃんと伝えていきたいと私は思うの。」屈託の無い、赤い笑顔のわりに、彼女の声は凛としていた。
家に帰ると、そこに男があった。「いた」と表記しないわけは、それが亡骸であるからだった。それは私のベッドの上にあってうつ伏せになっていた。首を見ると若々しかったから、寝ているのだと思った。知らない男がそこにいるという恐怖にかられたが、私は意を決して近づいた。今まで生きている知らない男が自分の部屋にいることがないから比べようもないけれど、今思うときっと私はその男が死んでいることを予測していたに違いない。そうでなければ近づかないはずだろう。 触れるとじっとりした重さがあって、ひやりと不気味なほど冷たかった。生物の中身のほとんどが水であるという事実を知った。それは水をいっぱいに含んだゴム風船の上に、さらに水っぽいスポンジをまきつけたような、じわりと気持ちの悪いものだった。 何故か憑かれたように私はそれを裏返す。生きている人間は軽いのだけれど、60キロ以上はある物体は非常に重かった。動かすたびに水がどこかからあふれ出るのではと怖かった。がんばってもびくともしないけれど、気づけば顔だけこちらを向く。それは青くて気味が悪かったが見たことがある顔だった。私が昔好きだった人に非常に似ていた。でも、きっと別人だと思う。こんなに黒い顔をしているはずはないし、こんなに崩れていたりはしなかった。けれどわからない。私はゆっくりと自分が怖くなってきた。 何故私はこれを動かしたのだろう 何故私はあわてていないのだろう これは、わたしが、殺したのでは、なかろうか?ぼんやり恐怖にうずくまる。 私はその男を非常に好いていた。けれど手もろくに触らなかった。今それが目の前にある。 きっとわたしが、殺したのでは、なかろうか?死体であるにもかかわらずその口元に指をやる自分に気づく。警察がこの指紋に気づいたらどう思うだろう。 殺したのがだれであるのか警察に調べてもらおうと思う。もしかしたら私であるのかもしれないし、違うのかもしれない。何故死体に触れたのか聞かれたらどうしよう、疑われるのが怖い。 けれど、殺したのが私なのか、知りたいのだ。 意を決して110を押す。女の人の声、この軽くはないけれど重くない声に戸惑う。とてもおかしなしゃべり方でしゃべる。「私の、家に、死体があって。」帰ってきたら置いてあって。取り乱し、携帯を何度か落としそうになり、涙ぐみ、この死体がしゃべれたらいいのにと思った。 まだ私を嫌ってる?
静寂が闇を造るから僕は。今日死のうと思います。「振り絞って鳴いて、死ぬまで鳴いて、うるさいだけなのよ。」「死んでしまうなら、どうして意味もなく生まれてくるのよ・・・」拭えば拭うほど溢れる。想いは痛みになる。言葉を失ってしまった蛙の、物悲しい泣き声を耳に流した。電信柱についた光に入ってぱちぱちと音になるインセクト。割れたホームのいすに座った影はギシギシ言う。るら。打ち上げたままの花火ならよかった。朽ちることなく輝けばよかった。上を見つめても、かげろうはもう空気をさまよってはいない。「蝉人間って変かな」「人間になりそこなった蝉でしょ」「もう人間になれない 蝉にも戻れない」「知ってる」蛍が死んでいく。あの淡い灯火のように、優しく伝えられたらよかった。鳴くしかできなかった。けれど命尽きるまで君に届けたかった。僕の夏は終わる。伝えられないまま。でも、君はわかってるでしょ。僕が君をすきなこと。僕が死ぬこと。るらるら。肌に触れた貴方を見た。震える羽根の弱さを感じた。知らなかった、こんなにも脆くなっていたこと。「もう行くね」「やだ」「だめだよ」「やだ」「いうこと聞いて」「やだっていってもいくんでしょう」「ごめんね」何故貴方に恋をしたんだろう。小さな蝉に恋をした。魂と魂が惹かれる、それは、人間の間だけじゃなかった。そう思いたいあたしはおかしいかな。雲は静かに走る。線路は月に照らされてた、筈だった、のに。「さっきの質問に答えてよ」るらら ら ら ら。「死ぬために生まれてきたよ 意味なんかない」「意味のない蝉ね」「人間もそれは変わらないさ」「そっか」君に会うために生まれてきた。いえなかった。”来年また会える?”聞かない。そんなわかりきったこと聞かない。来年は君も僕ももうここにはいないから。ただ僕がほんの少し早いだけ。さよならはいわなくていいよね。風がいうから。さわさわ。今度生まれてくるとき、人間になれたら、僕は二度君に恋をするよ。そしたら、その時はちゃんと伝えれるかなあ。ぽと。柱からコンクリートに堕ちた、一匹の蝉。もう動かない。触れずに殻をただ見つめた。魂は今あたしを感じてるのだろうか。ギリギリのこの白線、越えたら貴方がいるのだろうか。周りが冬毛をまとい、ホームの白線を超えて電車に乗った。あたしも中に入った。降りてから空を見上げた。白く濁った息が頬に絡む。もう夏の影はとうに消えていた。
北国に、厳しい冬がやって来た。雪はしんしんと降りつもり、満天の星空は白銀の大地を静かに照らす。そんな東北へ、紘子は帰った。 先月、紘子は医者から余命1年を宣告された。その結果、長年続けてきた仕事を辞めなければならなかった。さらに、恋人を想う気持ちから苦汁のおもいで別れを告げ、逃げるように東京をあとにしたのだった。仕事も恋愛も順風満帆で、誰もが紘子の幸せな将来を確信していたなかでの出来事だった。 ある夜、シンと静まり返った居間で一人、紘子はこたつにあたりながら、ただぼーっと空を見つめていた。『わたしは、いつまで生きられるのか。死を迎える時は、どんな状態なのだろう。苦しいのかな。いっそこのまま眠るように死んでしまえれば。』一人になるとそんなことばかりを考えてしまっていた。 ちょうどその時、障子戸を開け、祖母が顔をだした。「まだおぎでんの?寝れねーのが?そだなかっこで、寒いベー。」祖母が言った。東京に長くいた紘子は、時々このなまりの強い祖母の言葉が分からないことがあった。しかし、不思議と耳は覚えているもので、すぐにたいていの言葉は理解できるようになるのだ。「こたつに入ってるから大丈夫。なんか眠れなくて。」紘子は言った。「こんじも食べれ。ひゃっこくて、んめーよ。」祖母は、廊下に出してあった冷えたみかんを紘子の前に差し出した。小さい頃から共働きの両親に代わって面倒を見てくれた祖母は、紘子にとって心を預けられる唯一の存在だった。「ありがとう、ばあちゃん。」祖母はゆっくりと紘子の隣に座った。「ごめんね。ばあちゃん。私、ばあちゃんにひ孫の姿見せられないね。」そう言ったとたん、紘子はこたつ布団に顔をうずめた。涙があふれてきたのだ。それまで張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れたのだろう。「そんなこと言うでね!」祖母はぴしゃりと言い放った。「ひろちゃんは死んだりしねーよ。嫁っ子にもいげるし、子供も持てる。晃一さんと一緒になれるの、ばあちゃん楽しみにしてるんだ。だから、はよ元気になって。」その声は、それまでに聞いたことのない厳しい口調だった。「でも、ばあちゃん、お医者さんがあと1年て…。」紘子は祖母に悟らせるようにやさしく言った。祖母はにっこりと微笑んだ。「ひろちゃん、心配ね。ばあちゃん、夢見ただよ。ひろちゃんがめんこいやや抱いて、晃一さんと3人で笑ってる夢見ただ。めげぇーこだったよ。」そして少しの沈黙の後、「ばあちゃん、それだけが楽しみなだ。だから、そだなこともう言わねーでけろ。」祖母は、つぶやくように言った。紘子は涙で濡れたこたつ布団をぎゅっと握り締め、無言でうなずいた。その時紘子は心に固く誓った。『もう泣き言は言わない。私、最後まで精一杯生きる。』 それから、3年。紘子は生きていた。不思議なことに、紘子の身体を蝕んでいた癌は、跡形もなく消え去っていたのだ。医者も奇跡とよんでいた。ただ、残念なことに、紘子の幸せを一番に願っていた祖母は、その時すでに夜空の星になってしまっていた。 「ばあちゃんが、私の病気、持って行ってくれたの?いつもそうやって何も言わずに助けてくれたね。最後まで、ありがとう。ばあちゃん、見てるかな?」愛らしい赤ちゃんを抱きかかえた紘子は、晃一とともに星空を見上げた。
※作者付記: 方言の解説おぎでんの…起きてるの?そだなかっこで…そんな格好で寒いベー…寒いでしょ?こんじも食べれ…これでも食べなさいひゃっこくて、んめーよ…冷たくて、美味しいよめんこい/めげぇー…かわいい楽しみなだ…楽しみなんだそだなこと…そんなこと言わねーでけろ…言わないで
「さあ、僕を喰べて……」彼は枯れ木のように細い腕を差し出した。薄い脂分と膨れた筋肉、清流のように流れる鮮血が詰まった逞しい腕は、今や見る影もない。まるで木乃伊のようだ。もはや、死体……。けれど。そんな恋人の肉体に私は欲情していた。ただ……喰べたい──と。私達が生まれ育った場所は、山に隔離された小さな村。バスも電車も通っていない。一本の道路が隣町との唯一の生命線だった。その道も冬の豪雪期になれば、雪で埋まる。そんな時、事件は起こった。最初の被害者は私の家族。狼に喰われたかのように、全身を引き裂かれ死んだ。やったのは、私……。理由はない。しいて言えば──本能。人を喰いたい。その衝動を抑えきれず、実行に移しただけ。だから、私は人を喰らい続けた。あっという間に、山村は全滅した。そして、彼だけが残った。「喰べて……」からからに乾いた声で、彼はもう一度言った。かちかちと奥歯を鳴らしながら、私は首を振った。今、私達は山村から少し離れた洞穴の中にいる。村は全滅した。いつか私を狩りに猟師がやってくる。私は、彼を連れて洞穴に身を隠した。彼の両親は私が喰った。彼は何も言わない。ただ昔の話ばかりしていた。幼き頃の思い出を語り、互いの体を温めあった。私は彼を愛している。でも、今となっては彼が好きなのか、その肉を愛しているのかわからなくなった。彼だけは喰べてはいけない。それははっきりしていた。なのに、彼は言う。喰べて──と。結局、私は彼を喰った。肉は硬かったが、骨は脆かった。喰べている時、彼の記憶が雪崩れ込んできた。一緒に公園で遊んだこと。幼い頃にかわした結婚の約束。学校の通学路。そして、初めての体験。涙が出た。けれど、いつの間にか大きく──ナイフのように尖った私の犬歯は、彼の肉体を引き裂き続けた。まるで、魂を私に取り込むみたいに。そして、しばらくして猟師がやってきた。その翌日、こんな記事が新聞に載ったことを私は知らない。「──山で行方不明になっていた──大学の山岳部のメンバー────さんが約二ヶ月ぶりに無事保護された。メンバーらは──村を出た後──山に向かったが、下山予定日を過ぎても連絡が付かず、村の住民が警察に届け出た。だが山は発達した低気圧によって──中略──しかし、他の九人の安否は未だにわかっておらず──さんの回復を待って、警察は事情を聞くこととしている」私は狼女……。私は人を喰らう。
それは、僕がこの田舎にきて、四度目の夏だった。 父を交通事故で突然亡くし、僕と母と、母方の祖父に頼るような形でここにきた。都会の片隅に小さく、けれどそれなりにプライドをもってこれまで生きてきた。だから祖父の家、いや、この町の駅に着いたとき、僕という人間がこんな場所で生活していけるのか、不安だった。言葉を失う僕と対照的に、母はそれまでとうってかわってしゃべるようになり、緑が綺麗ね、とか、静かでいいわね、とか、そんなたわいのないことをつらつらいい続けていた。僕はこの時まだ小学校に入学したてで、足し算とか引き算とか、簡単な漢字程度の知識しかなかったが、母の心理状態ははっきり分析できていたような気がする。だからといって気配りできるほど僕は大人じゃなかった。空回りの笑顔を向ける母に、僕はむっとした表情で押し黙っていた。そんな僕を祖父が、明弘は男じゃね、と、笑いながら勘違いなことをいっていたのをおぼえている。 そんなこんなで結局この場所に居続け、僕は四年生の夏休みを迎えた。田舎の匂いもようやく身についてきた頃。その日は外にでただけでTシャツがびしょびしょになるくらい暑い日だった。僕は見た。一匹の黒い龍を。龍は空高く舞うようにとんでいた。その龍の向かう方向へ、僕は走り出した。ほとんど無意識だった。 あの龍を見るのは初めてじゃない。あの日、この田舎へはじめてきた日も、あいつはそこに居た。あの時僕は、ふてくされて祖父が用意した僕の部屋でうずくまっていた。そしてふと窓に目をやると、龍が黙って僕を見ていた。僕も黙って龍を見ていた。しばらく、そんな不思議な時間が流れ、龍は去っていった。僕は泣きも驚きもしなかった。龍のあの優しい瞳が、ただとても切なくて、愛しかった。一つの考えが僕を支配していた。父だ。父が会いにきたのだと。 そのときから姿を見かけるたび、追いかけたり帰っていく方向をじっと観察して待ち伏せしたりしたのだが、あの日以来、龍は背中しか見せない。今日も結局見失った。汗が、湿った土の上にぽたりと落ちて、嫌な感じだ。絶え絶えになる呼吸の中、けれど僕は笑った。ようやく答えをみつけたから。 父の死後、三人で暮らした場所をあっさり離れてしまったことが、まるで父を捨てたようで嫌だった。僕にとって父は「背中」だった。広く、僕はいつもあの場所にもたれかかっていた。父さん。ありがとう。 僕は追いかける。いつか、あの背中をつかまえる。
その森は少年だけの特別な場所だったのだ。村の大人だって知らない、深い緑の森の奥。其処には綺麗な泉が沸いて、色とりどりの妖精が無邪気に戯れている。本当に神秘的な風景だったのだ。朝の木漏れ日が水面に反射して幾千の綺羅星になる。妖精は優しくけがれなく子供の様に無邪気で、騒がしく小賢しい人間よりも少年はずっと妖精の方が好きだった。だから年月を経て再び森を訪れた時、少年は目を疑ったのだ。かつて自分がまだ狡さを知らなかった頃、艶やかな深緑を誇っていた筈の森は、今や荒れきってしまっていた。底の透けて見えた泉は枯れ、春を謳歌していた草木は薙がれ、あれ程美しかった妖精は見る影もなく衰えている。「妖精さん、どうしてしまったの」少年は倒木に腰掛けている妖精に声をかけた。妖精は年老いていた。あの頃若く清らかだった肢体は痩せこけり、豊かな金髪には白いものが混じり始めている。ぼんやりと空を見上げていた視線は焦点が合わず頼りない。妖精は気だるげに目を少年の方に向けた。「あら坊や。久しぶりね」「妖精さん、何があったの? 森はどうなってしまったの?」彼女は瀟洒で華やかなドレスを着ていた筈であるのに、今身に纏っているのは薄汚れた茶色のぼろである。妖精は心なし皮肉げに冷笑して言った。「どうもこうも無いわ!人間が踏み荒らして森はこんなに荒れてしまった。坊やが居なくなった後に、嫌な匂いをさせた人間が沢山やってきたのよ。……もしかして、坊やが呼び寄せたんじゃないでしょうね?」妖精は瞳をぎらつかせて言った。その姿にあの天真爛漫な気紛れさは見当たらない。少年は悲しくなった。妖精は愚痴る様に不平不満を吐き出し始めた。「大体私だって、こんな小汚い服なんか着ていたい訳じゃないわ。人間に見つからない様、土色の服しか着られやしない。昔は良かったわね。朝露で髪を濡らして、菫の花で身を飾り、生糸で織ったドレスでお洒落をして」少年は延々と長い不平を言い出した妖精を見つめた。清純で美しかった筈の彼女の白面は、浅黒く意地悪げに変貌していた。「ああなんて厭な世の中!」
またやってしまった、、、。 カーテンの隙間から差し込む光がまぶしくて目が覚めた。 つけっぱなしだったテレビの中では、まだどこか、あどけなさが残っている女子アナが昨日起こった誘拐事件の捜査の進展を淡々とした口調で説明している。 ゆっくりとした動作で上半身を起こし、部屋をもう一度見渡す。 一度伸びをしてからタバコに火をつけ、まだ眠っている体が起きてくるのを待つ。 いつもの朝と同じ動作。 宙を漂う白い煙をぼんやり眺めながら、記憶の糸をたぐりよせようと試みる。 2件目のバーに入っていったところまでは覚えているのだが、そこからあと、自分の部屋に帰ってきたところまでの記憶がすっぽり抜けてしまっている。 こんなことはザラなので、もう驚くことは無くなってしまった。 もちろん、後悔はする。 でも、ジタバタしたところでどうにかなることでも無いだろう。 僕は、極度に酔っぱらうと記憶が飛んでしまう。 それだけだったら、いたってノーマルな話しなのだが、僕の場合そのときに決まってナニかをウチに持って帰ってしまう。 居酒屋のメニュー表であったり、灰皿、座布団なんかしょっちゅう持ち帰ってしまう。 それぐらいのときには、かわいいものでひどいときには道路に置いてある看板や、今ではあまり見なくなった変速ギアがついている自転車などが家に置かれていることもあった。 さすがに目が覚めると目の前に眼鏡のずれたカーネルサンダースがつっ立っていたときはビビった。 盗難届が出されていたらしく、返しに行ったときに警察署まで連れて行かされ危うく前科一犯になるところであった。 しかしまた、今回は手強いなあ、、、。 いったい記憶無くしてるあいだに僕が、何を思って、どうやってココまで運んできているのか、僕自身知りたい。 一度私立探偵に頼んで、記憶を無くしているあいだの僕の行動を調査してもらおうか。 煙草を一本吸い終わっても相変わらずテレビの中では、昨日起こった事件についての報道をしている。「続いての事件です。 昨夜未明、動物園からライオンが一頭逃げ出すという事件がありました。 ライオンはまだ見つかっておらず、未だに野放しになっているものと思われます。 なお、ライオンのいた檻には何者かが逃がした痕跡が残っており、事故ではなく人為的な事件である可能性が高いとのことです。 周囲に住む住民の方々は十分に警戒をしてください。」 やれやれ、さすがに今回は前科一犯ついちゃうのかなあ、、、。 ていうかまず、どうやって返しに行こう?
私は元来、電車内や喫茶店の中で他人の話を盗み聞きするのが大好きである。昔から、ラジオを聞くのが好きで、よく不意にチャンネルを回し未知の周波数を探し当て面白い局を探すことが趣味だったからかもしれない。しかしながら、この現実にそうそう満足する程の周波数にはめったに出会えない。一番多いのが、男のの経営理論だ。磨り減った靴を履きながら赤ら顔で語る経営のイロハは、それを聞く若い社員の鼓膜にすら弾かれてしまいそうだ。きっと自分の説教も同じだな。と、同じ境遇で思えるものだ。また別の楽しみ方をしている自分にも気付く。他人様が語る人生観や恋愛観に心の中で反論し、自分の意見の方が優れていると実感すると胸がスーッとするのだ。現実の自分は棚に上げ、こと他人の意見に難癖つける時ばかりはカッコの良い、そして一見真理のような意見が出て、俺は一般より上という優越感を持ってしまう。そして今日も家路を急ぐ中で、駅のホームで並びながら周波数をいじりながら待っている。すると、私のすぐ後ろに女子高生と見える女の子が四人並んで来たのだ。彼女達の話は、私達世代には分からない言葉でまくし立てる。そう、丁度ラジオで時折入る外国語の局と一緒だ。音量の大きさにウンザリしてしまう。しかし、そのうちに不意に一人が面白い事を言い出したのだ。 「ねえ、八つ裂きって言葉あるじゃん?あれってどうすれば八つ裂きなの?」およそ若い女子高生などが言う事ではないが、ふと耳に入ったその疑問。なるほど確かに人間の主たる個所、両腕、両足、首を切って胴体を入れても六つにしかならない。仮に胴体を縦に割っても七つだ。うむ、確かに不思議だ。不意に沸いた疑問を心の中で考えている間に電車が遠くに見えた。そこで思考は中断し、ふと後ろを見ると、その女子高生らしき一団がなにやら声を潜めニヤニヤしている。視線を前に戻したが、この顔だがどこかで見た事があるな。と思った。うーむ、そうだ、よくTVのドッキリなどでアイドルの寝顔を撮るリポーターが一通り寝顔を見たあとバクチクなど鳴らして驚かせて起こす前のあの声を殺し、今から起こる事に期待を膨らませているあの顔だ。そう思った瞬間私は、今から乗る筈の電車の前に飛んでいたのである。 「えー、やっぱ六つにしかならないじゃん。」そんな声を聞き、自分でも確認する。だいぶ散らばったが、やはり六つだ。 果たして広辞苑なら載っているだろうか
また面接に落ちた。何度目か忘れたが多いはずだ。部屋に入り、明かりを点けないままに留守電をチェックする。実家から二件、就職について。 無視した。コンビニで買ってきた弁当を食おうと電灯のスイッチを入れる。思わず後ずさった。「何だ・・・これ?」 冷蔵庫の壁面にサルのようなモップのようなものが張り付いていた。「ナマケモノです」「うわ喋った!」 その獣が緩慢な動作でこちらに顔を向ける。「帰ってみたら部屋にナマケモノが居たという事が既にありえないことなのです。喋るくらい大目に見てください」 返事をしたら負けだ。この存在を認めてしまう。そう決意して、弁当を食べ始めた。「動物園が潰れましてね」 勝手にナマケモノが喋り出す。これは恐らく就職難のストレスが見せている幻覚だ。でなきゃCGかなんかだ。「この部屋には暖房器具が無いようでしたので、こうやって暖をとらせて貰っております」 確かに暖かいな、冷蔵庫の横は。「・・・返事をしないからといって私が消える訳じゃありませんよ」「うるさい黙れ」「どうせ疲れてるだけとか思い込もうとしてるんでしょう。無駄ですよ、原因を何とかしない限り」「原因?」「おっと、これ以上は言えませんね。暖かい寝床を手放すのは惜しい」 それからもナマケモノは居座り続けた。 ナマケモノが居ても現実は変わらなかった。面接に行き、落ちる。留守電聞いて、無視する。その繰り返しだった。 夜行性という話だが、こいつは夜になっても少しも動かなかった。食事も排泄も無いとなると、確実に俺の幻覚だろう。「動物園はあなたの脳内にあったのですよ」 相変わらずこいつの言うことはよく分からない。 帰って来いとの連絡の後、仕送りが断たれた。 その日のナマケモノは、なぜか自由に動き回っていた。「そろそろ気付く頃ですかね」 原因・・・か。「要するに、お前は俺なのか?」「はてさて?」「仕送りに頼っていた俺は冷蔵庫にしがみついていたお前と同じ。仕送りが無くなったらお前が動き出した。つまり、就職難のストレスじゃなくて、親の仕送りに頼ってるのに就職できない不甲斐なさが俺にお前の幻覚を見せているんだ」「正解です。だからなんですか? どうやって私を追い出すんです?」「続きだ。動物園は俺の脳内にあるといったな。その動物園が潰れたということは俺が何かを忘れたということ。それは・・・」 そこまで言うとナマケモノは消えていた。脳内の動物園とやらに帰ったのだろう。 俺は荷物をまとめ始める。思い出しに行かなくてはならない。でないと、すぐにまたナマケモノが出てくるはずだ。
「例えば」 静かに、結衣はそう言った。冷たい風の吹き付ける公園はコンビニの灯りを遠く、人の声をやたら響かせる。「例えば……これが、恋じゃないのなら」 大宮結衣という女は、やたら凝った言い回しで、やたら変わっていると有名な女で。それでも、それなりにクラスの女子達に好かれていた女だ。『ねえ、雨宮』 俺の名前を呼ぶ声は、急だろうかそうじゃなかろうが淡々として、その割に好きな売店のパンが無くなっていればやたら哀しげな顔をする。 ー猫だ。猫。大宮結衣という女は、猫にいている。気紛れ、好き勝手で、それでいて人の気を引いて止まない。「恋じゃ、ないのなら? 」 劇口調。まるで、詩でも読むようにそう紡いだ結衣の唇はよく見えない。おんぼろな灯りと、懐かしいばかりの遊具じゃ互いの気持ちを測ることなど出来なかった。何時からか、大宮から結衣へと変わった呼び方は、愛だとか恋だとか言うよりも先にただ、近いと思える存在を作り出した。『雨宮、人は一人じゃ生きていけない。寂しがりだから』 変わった女。変な女。その、変な女といてやたら気分のいい自分。 これが何なのか、俺には分からない。恋だとか愛だとかいうものかすら。「例えばこれが恋じゃないのなら……帰ろうと思う」「何処に? 」「家に。寒いから」 苦笑混じりに、結衣は言った。たまたまであった夜のコンビニ。それなりに続いた会話の途中、懐かしいな、と寄った公園の時計はもうすぐ12時を告げる。「……なら、例えばこれが……」 恋ならば。そう紡いだ唇が、寒さに震えた。最後の方、ひどく震えただろう声に結衣は目を大きくしてーそうまるで驚いた猫のように、そうして笑った。「例えばこれが恋ならば……」
※作者付記: やたら散文的ですが、不器用なー恋愛をうまくそれと理解出来ない2人が、それなりに答えを出そうとしているものです。ただ、2人で一緒にいる空間が気持ちのいい。それがつまりなんなのか、いざ答えを出そうとしています。
電車は緩やかにカーブを曲がって、田園地帯の広がる小さな駅を切り捨てていく。透明な光が射しては途絶え、射しては途絶え、僕らの足元に照っていた。こうやって世の中というものは繰り返し、終わっていくのだろう。 ふと向かい側に自分と同じように足元を眺める人影が見えた。まるっこいオバアチャンだ。手拭いを頭に巻いて、お出かけかな。日差しで暖かいのか夢うつつのようだ。そういえば田舎のばあちゃんは元気かな。新年の挨拶をしないのは、もう珍しくもなんともなくなったが、いつまでも、ばあちゃんは僕の味方だ。 電車が小さく揺れたので、そのご婦人はゆっくり顔を上げた。両手で自分の頬を包んでいる。しばらくそうしていると、あっという小さい声を上げ、なんだか懐かしい柄の手提げから巾着を取り出した。出てきたのは、手鏡と口紅。鏡を見据え、口の端にキリリと力を入れたのがわかる。するとまるで思い出し笑いをするように、目尻の力が抜けてきた。今でもはっきり思い出せる。その人は、僕の目の前で女の人になっていった。どうしてみんな、いつのまにか終っていくのか。僕が男になるのはいつ。誰の手を借りれば。 電車がだんだん遅くなって、ゆっくりと止まる。彼女はアナウンスに目を細め、降りる準備をしている。手提げカバンを腕に通し、新聞紙にくるまれた樒(しきび)の束をつかんで、よたよたと僕の前を過ぎていくとき、やわらかそうなその指に銅のような色の指輪が見えた。僕は、なんだかとても大事なものを失くしてしまったようだ。 母親に自分の女を紹介する時は、事後報告で構わないと思っていた。母親のときもそうだったからだ。そんな事はお構いなしに、めずらしく生真面目な彼女の言い分に、バカみたいに魔法を掛けられ、婚約の「許可」を受けに参上する羽目になった。母は母で、いつもの母だった。 結婚に安堵など求めない自分が変なのか。ただ側にいて、愛されてくれるだけでよかった。契約が必要なら喜んでしようと思っていた。それなのに、捕らえられたいのかと思っていたら、逃げ出されてしまった。 いつものよりいくつも早い電車。満員電車には程遠い。大げさな欠伸をしても、誰の反感も買わない。ゴツッと窓ガラスに頭の重さをあずけ、ヤマシイ気持ちで週刊誌の中吊り広告を眺める。新しい年が始まる。
自動車を買い換えようと貯金をしていたのだが、「あらゆる家事をそつなくこなす超高性能メイドロボットが、驚きのこの価格で遂に登場」とのテレビCMにあっさり撃沈されてしまったのだった。 近付いてじっくりと見なければ人間の若い女性と見分けがつかない精巧な外観。オーナーとの自然な会話を可能にした超高性能人口知能搭載。そして炊事、洗濯、掃除を完璧に行える運動性能。一人暮らしで彼女も居ない若い男性、つまり俺を狙い撃ちしたような商品だった。 自動車購入資金+若干のローンでメイドロボットを購入し、取り敢えずスイッチは入れたがオーナー登録やら行動パターンの設定などを取扱説明書と首っ引きでやっている内に深夜になってしまった。設定作業が途中だが、もう寝よう。 朝、目が覚めるとメイドロボットが添い寝をしていた。 「えーと」 無駄に美少女の姿をしているメイドロボットの寝顔を見詰めながら何かを考えようとして考えがまとまらないでいる。 飛び起きてパジャマのズボンとパンツを一気に引き下ろす。じーっと自分の股間のナニを見詰める。特に異状はない。 ゆっくりとパンツとズボンを上げてからメイドロボットに視線を移す。別に着衣が乱れている様子はない。どうやら寝ぼけてナニをしてしまったわけではないらしい。 ホッと一息。そして考える。なぜメイドロボットが添い寝しているのか。そんな命令をした覚えは全く無い。秘めた願望が無かったのかとしつこく問い詰められれば、むにゃむにゃだが、命令はしていない。それともメイドロボットの人口知能が若い男性にありがちな欲求を察知して行動したということなのだろうか。そんなサービスは取扱説明書には記載されていなかった。隠し機能か。 突然、メイドロボットの両眼が見開かれた。微かなモーター音と共にメイドロボットはゆっくりと半身を起こす。 「おはようございます」 メイドロボットの挨拶。しかし、このアニメ声は何とかならないものだろうか。早朝からはちょっと辛いというか、恥ずかしい。 「な、何で俺の隣で寝てたんだ?」 ロボット相手に声を上擦らせてしまった。 「ご主人様がレム睡眠の状態において『セックスしたい、Hしたい、やりてえよおぅーっ』と話しておられましたので、性行為の代替行為として近接状態での横臥をさせていただきました」 アニメ声で事務的に返答された。凄まじく恥ずかしい。 穴があったら入れたい…。
春樹は受話器を置くと煙草をすうためにベランダに出た。実家に帰らなくては…。ふとそんなことを思ったのは知弘の言葉のせいだった。知弘とは中学以来の親友、いや友人の関係で、東京に出てきた自分とは違い地元でせっせと働いている。「お前、いつこっち帰ってくるんだよ。」知弘の言葉にはなぜか怒りがこもっている。「ん?しばらく帰れないんじゃない?今ちょっと仕事が立て込んでてね。忙しいから。」「自分の父親が入院してんのに…お前何考えてんのかわかんないよ。」 煙草の煙は黒い夜空に吸い込まれて一点の白いシミを作った。星は出ていない。出ていたとしてもどうせ見えない。春樹は父の入院を知らなかった。知弘によると胃が悪いらしい。東京で忙しく働く自分のことを父は反対し、母は応援してくれた。果樹園を営んでいる父親としては早く一人息子に受け継いで欲しいのだろう。彼ももう足腰の痛みを訴える年齢なのだ。それなのに、なぜ。「…。なんでトモがそのこと知ってんの?」「この前、春樹のお袋さんにたまたま病院で会って。でもお前は帰ってきてないし、そのことお袋さんに聞いたら、あの子にはあの子の生活があるから、とか言ってたよ。でもやっぱりそんなときぐらい帰ってこいよって思ってさ。」 人のうちのことに首突っこむんじゃねーよ。と春樹は心の中で小さく毒づいた。驚きと戸惑いが交じり合って怒りに変わっていく。「おやじのことは考えてるよ。でも今はどうしても無理なんだ。もうしばらくしたら帰るつもり。いろいろ心配してくれてありがとう。」と春樹の口から言葉がこぼれた。確かに自分の声だったが、まるで他人が自分の脳みそを支配してしゃべっているようだった。自分の父親のことを知らないと知弘に知られたくなかった。 秋の夜空はもう肌寒い。二十七歳の一人暮らしの男がベランダで煙草を吸っているのは、煙草嫌いの両親に引け目を感じるからだ。彼らは自分が煙草の煙を好んでいることを知らないのに、暖かい部屋の中で堂々と煙草を吸うのは申し訳ないような気がする。そんな理由を思い出して、春樹は白い煙を吐き出しながらふっと笑った。
僕はすっと母の財布から一万円札を抜き出した。 金が必要なのは、僕が彼等が大事といいはるバイクに傷を付けたからだ。僕にはそんなつもりはなく、ただ僕が進む道の上にそのバイクがあっただけだった。でも、彼等がそれを聞くわけもなく僕を殴った挙げ句に、金を要求して来たのだ。 僕は学校で会うたびに毎日一万円を請求され、3人で僕を囲む彼等にもう二度と殴られたくないという気持ちによって、いわれるままに金を渡していた。 だって、僕は弱い人間だから、彼等にはむかう事はできない。「馬鹿」 彼女はたった一言、そう言った。彼女の口から出た言葉の重みも知らずに僕はただ頷いた。僕は彼女が屋上から出て行ったあとも、しばらくそこにたたずんでいた。どうしてそんなコトを突然いわれたのか、理由も分からずただ彼女の言葉を呑み込んでいた。 僕は本物の馬鹿だ、彼等のしているコトが間違っていて、僕はそれをどうにかして止めることが出来るはずなのに、それをする術を知らないということを理由にして弱い自分の背中に自分を隠していた。 彼女はその僕に気づいて、本当の僕に向かってそれを投げかけたんだ。 気づくのは遅かった。 彼女はもう、どこにもいない。 真っ黒な服を来た人が並ぶ中に僕も紛れ込んだ。不思議な光景だった。昨日まで僕と話していた彼女が、いまでは木の櫃の中にいるのだ。その姿を見ると真っ白な肌が、もう温かさを失ったコトを主張しているように見えた。 彼女は僕と同じ悩みを抱えていた。それは僕が一番良く知る事だったのに、僕は自分の事ばかりで彼女を励ます言葉を投げかける事をしなかった。 僕は両手を合わせて、そっと彼女の為に祈った。 そして、僕は強く生きようと決めた。 母の財布にそっと一万円札を忍ばす。 僕はもう彼等には負けたくない。だから、僕の持てる力で彼等の行為を止めたい。 僕の為に、僕がこれからも僕である為に。
※作者付記: 文が上手く繋がっているか心配です。
問題集を目の前に、隆幸はため息を吐いた。こんな問題、解こうと思えば簡単に解ける。だが、解く必要性がどうしても見つからないのだ。明確な計画もなくただただ学力を身につけていく時間はとても無意味な時間に思えているのだろう。だから必死で、この時間の必要性を探している。今は、見つかる気が全くしないけれど…。プルルルルルいきなり部屋の電話が鳴った。『誰だ? 下には誰もいないのかな…』隆幸は、鳴り響く電話を手に取る。「はい、もしもし?」「うっ、ひっく、うっ…」泣き声だ。多分、自分と同い年くらいの女の子の。「もしもし? 誰ですか?」「ひっく、無いの…」「え?」「赤鉛筆がないの…さっきまであったのに。あれがないから、丸付け、出来ないの…」隆幸は困惑した。電話相手の声に聞き覚えがない上に、相手の言っていることの意図が良くわからない。「もしもし?何を言ってるの? 電話をかける相手、間違ってない?」「ずっと、探してるのに…。みつからないよぉ…」全く埒があかない会話に苛つきを感じた隆幸は、少々乱暴に電話相手に言った。「じゃあ、別の鉛筆を使えばいいじゃないか。探してる時間が、もったいないだろう。」「ヤダヤダ…。ねぇ、探してよぉ…」「探してって、俺が探して見つかるわけがないだろう…」隆幸は溜息を吐く。「そんなこと無い、一生懸命探せば、見つからない物なんて無いから…」涙声混じりの少女の言葉が、隆幸の頭に引っかかった。「でも…、みつかるわけ…!?」無意識に机の上を掻き分けた隆幸の手に何かが当たった。小さな赤鉛筆。末部に金色で小さな羽根が彫り込まれたそれは、隆幸が所有している物とは違っていた。「これ…」まさか、と言った感じで声を上げた隆幸だが、電話の向こうの少女は嬉しそうに声を上げた。「見つけてくれたの? ありがとう! 今から取りに行くね!」「え?! ちょっと!」どうやって来るのか。それを問う前に、電話は切れた。そして、ふわり、ひらり、と。窓の外を一枚の純白の羽根が舞い降りてきた。鳥が飛んだのだと思った。だが、それは違っていた。「天使…?」羽根を生やし、頭の上にわっかを浮かべた少女が、窓の外にふわりと浮かんでいた。その異例の事態に、隆幸は驚かずに微笑んで色鉛筆を差し出した。「ずっとこんな短い鉛筆を探してたの?」「うん。ちゃんと、みつかったでしょ?」「ちゃんと探せば、見つからない物なんて無いから…」
小さい頃、よくうたった歌があった。それはまるで、異常な愛の形を表した歌のようだと、大人になった僕は考える。柔らかな寝具の中に、僕はいた。同じような夢ばかり断片的に見ている所為で、脳がひどく疲れている。せめて長い時間眠る事ができればいいのだが、夢の途中で現実を見てしまう度に僕は、目を醒まさずにいられないのだ。瞳に映る現実が、あまりに恐ろしすぎて。夢は大抵において、少し奇妙に出来ているものだ。それはきっと、どんな現実も夢よりはマシだと思わせる為の誰かの作戦なのだろうけど、僕に言わせればその作戦は間違っていた。それが証拠に、今僕は醒めようしている。現実から。見覚えのある景色だ。目の前に広がるのは海。ちゃぷちゃぷと波打つ、濁りきった海。僕はなぜか、生温かいそこに浮いていた。まるで流木になったようだと僕は考える。何の意志もなく、漂うだけ。・・ぷかり。視界の先に浮かんだ何かと目があった。不安定に、どんぶらこ、どんぶらこと漂っているそれは、眼球のようだ。そしてそれは次第に遠ざかり、僕から目を逸らしながら、ずぶずぶと沈んでいった。濁りきった真っ赤な海の中へ。僕もそのうち、この海へ沈むのだろうかと考える。原型も留めていない何かがゴロゴロ転がっている、この海の底へ。煮崩れてぐずぐずと形を変えた、何か。沸き立つ泡に揺らされ、ころころと転がる、何か。あれ?それは、僕?目を開けなくては。いや、目なんて初めから開いていた。そうだ。僕は最初から気付いていた。柔らかな寝具など、どこにもないこと。あぶくたった 煮え立った 煮えたかどうだか 食べてみよう揺れながら、少しずつ、僕が崩れていく。そして沈む。ずるりと、引きずり込まれるように、誘い込まれるように、融け込むように。そして僕は、現実に溺れる。ぶく ぶく ぶく ぶくもっと咀嚼してほしい。僕は考える。早くあなたと1つになりたい。融けた脳で考える。暖かな寝具より、生温い舌で包んで欲しい。考える。考える。ぶく ぶく ぶく ぶく ぶく ぶく沈む。それでも僕は今、あなたを好きだと考えている。
11月19日(土)落書き第1号 TATSUYAヨロシク!新しくてきれいな店ができていたので寄ってみたんだけど、大当たり。今日注文したのは、木の子ソースのハンバーグシチュー。ここのシチューは最高。いい仕事してるね。店員のお姉さんも美人。笑顔でご飯3杯いける。火・土のバイト帰りはここで食べることに決めた。11月22日(火)お姉さんが両腕に積み重ねた皿を派手に落とすのを見てしまった。片付けも全部一人でやってたけど、他に店員はいないのだろうか。あわてる顔もかわいかった。お姉さんドンマイ。カルボナーラを注文した達也より11月26日(土)ミキさんへ試作品のかぼちゃプリン、ごちそうさま。かぼちゃの味が濃くて、でも自然な甘さだから、しつこくない。大ヒット間違いなし。これを読んだ人、注文して損はないよ。まだ新しいから、お客さんがあまり来ないね。このノートも俺しか書いてない。こんなにいい店なのにもったいないなあ。友達みんなに紹介しておくよ。あなたの達也より(照笑)11月29日(火)今日はチキンのトマトソース煮にしてみた。やっぱり、何を食べてもおいしい。P.S. ミキさん、昨日はありがとう。今朝、遅刻しなかった? 達也12月3日(土)ミキさん、病気だって? 大丈夫?店に入ったら、いきなり太ったおじさんが出てきて、しかも、ミキさんのだんなだって言うから、びっくりした。だんなのこと、言ってくれれば良かったのに。連絡取れないから心配したけど、病気ならしょうがないか。早く治るといいね。だんなの料理…下手すぎ。スープスパゲティーを頼んだんだけど、まるで煮込みうどんみたいだった。味も衝撃的。スパゲティー茹ですぎ! スープは昆虫の臭い!それに、暗くてあいそがない。これを書いてる今も、厨房の方からじっと見てて、気持ち悪い。ミキさん。これ読んだら言っといてください。あれじゃあ、お店つぶれちゃうよ。そうだ。シチューだけは相変わらずおいしかった。だんなが作った味じゃないね。あれは、ミキさんでしょう? ミキさんの味って感じ。よく煮込んであって、肉が柔らかくて、もう絶品。達也より12月10日(土)達也へこれ読んだら連絡くれ。失恋旅行か?黙っていなくなるなんて、お前らしくないよ。携帯の電源入ってるか?電話、待ってるからな。里村 祐二P.S. お前のほめてたシチューを食べたけど、まずかったぞ。肉も固いし。何の肉だよ、あれ。
僕は涙が少ない。 別に心が冷たいわけじゃなくて、角膜の表面を循環している涙の量が人より少ないだけだよ、とコンタクトレンズに替えた時に眼科医が冗談めかして言ったけど、実際情は薄いと思う。泣けてくることなんて全然ない。 眼が乾くとレンズが硬くなって痛むので、一日に何度も目薬を差すようになった。角膜を潤す為の、とろりとした人工涙液だ。点眼するとちょっと泣いたみたいに見えて最初は恥ずかしかったが、すぐに慣れた。だって本当に泣いてるわけじゃないんだから。 おかしいのはチカ先輩だ。 部活動中に僕が目薬を差すと、すぐにハンカチを出す。それで自分の目頭を拭うのだ。眼をうるませた僕の顔を見ると、どうにももらい泣きしてしまうのだという。泣いてもいないのにもらい泣きされても困る。呆れたふりをしながら、僕はいつも少し動揺する。 チカ先輩は美術部の二年先輩だけれど、家が向かいなので幼稚園からの付き合いだ。中学に入ってからチカちゃんと呼んでいたら冷やかされたので、チカ先輩と呼ぶことにした。だからよく知っている。数学の森下教諭とのことも知っている。でも彼女が僕を見て泣く理由だけはさっぱりわからない。幼なじみにもわからないことはいっぱいある。 その日、つまりチカ先輩が森下から一方的に交際の終焉を宣言された日、僕は目薬を家に忘れた。だから意識的に瞬きをし続けなくてはならなかった。チカ先輩はずっと泣き通しだった。要するに泣き虫なのだ、昔から。昼休みの美術室で、僕らは並んで座って途方に暮れていた。 眼がぱきぱきに乾いてきちゃったよ、と僕がこぼすと、じゃああたしの涙を分けてあげる、とチカ先輩は言った。そして火照った指で僕の頬を押さえ、あふれ出る涙を上から落とした。涙は鼻や頬にそれてばかりでほとんど眼には入らなかったし、僕の顔はぺたぺたになってしまった。でも僕は一応礼を言って、それからチカ先輩をぎゅっと抱きしめた。チカ先輩は声を上げて泣いた。 頭に来ることに、その時に風邪をうつされて、僕は2日寝込んだ。更に腹立たしいことには、その風邪はチカ先輩が森下からもらったものだった。新婚旅行帰りの森下の顔に催涙スプレーをお見舞いするのには十分な理由だ。 校長室で詰問されながら、眼が乾いたので目薬を差そうとしたら殴られた。事情は誰にも話さなかった。後で腫れた顔を見せると、チカ先輩は僕の代わりにたっぷり泣いてくれた。
「あのぉ・・・すいません。もし良かったら握手していただけませんか?」これで3回目だった。今まで、人に握手を求めた事があったが、求められた事は今日が初めてだった。夏の日差しで少し汗ばんだ手をズボンでそっと拭いて指し伸ばすと彼女は喜んで僕の手を握り深々と御辞儀をして立ち去っていった。こんな不思議なことは会社に出勤しようとした朝からだった。いつものようにゴミ袋を持ったまま鍵を閉めていたら、見たことの無い奥さんが突然握手をしてくださいと言葉をかけてきた。始めは、他の人に話しているのだと気も留めなかったが真剣な表情で追いかけてきた時はさすがの僕も握手をした。団地とあって回りの目が気にはなったが冷戦が続いている妻との間には好都合の展開だった。さすがに一人だけだと一日の出来事で終わってしまうのだが、満員電車の中でも声をかけられたときにはゆっくりと一生の出来事へと生まれ変わっていた。二度目となると自分の中にも冷静さがあり表情には驚きを隠せていたが、おそらく手はびしょびしょに汗をかいていたと思う。突然、手を繋ぎだした年の差の僕らを見て疑問に思った人も居ただろうが、満員電車の中でその事について止めようとする人もおらず。一駅ものあいだ、彼女に握られていた手はプラットホームに降り立つ頃にはしわしわになっていた。そして、たった今、三人目に握られた手は少し大人になって堂々とした風格を感じる手となっていた。握手なんて何年ぶりだろうか。そう思うと昔、手を握りあっていた妻の顔が目に浮かんできた。昨日とはまったく違う手に違和感を感じながらも家に帰ると妻の姿が玄関にあった。「ただいま」その場にいた妻に驚いた僕は思わず声を出してしまった。さすがに、普段はかけたりしない言葉に躊躇していたが彼女は言葉を返してきた。「おかえり」最近、妻との中に会話が無かったせいか久々に聞いた彼女の声は水の中に居るようなかぼそい声へと変わっていた。僕はもう一度言葉をかけた・・・「ただいま」何を血迷ったのか僕は妻に手を差し伸べながら声をかけていた。妻は驚きながらも私の手を握った。「おかえり」その手はとても温かく優しかった。
「息絶えています」 マサトが壊れた扉の傍で立ち竦んでいる。 彼の後ろで見ていたハルネとアスカも、刃物で心臓を一突きされて死んでいたヤスオを薄暗い部屋の中央で見つけた。 マサト、ヤスオ、ハルネ、アスカは出入り口のない不思議な洋館で目覚めた。どうやら何者かによって連れられたようだ。 理由が分からずに戸惑っていた矢先、幾つもの不可解な現象――異様な速さで進む館内の時間の流れ、揺れ動く天井や窓の外に見え隠れする奇妙な物体などに遭った。しかし、故障した時計や木の葉が揺れている所為だろうという強引な解釈によって一先ず解決した。 そんな中、館内部を調べる為に広間を出て行ったヤスオが戻ってこない。マサト達は彼を捜索すると、内側から板で扉が開かないようになっている部屋を見つけた。扉を体当たりで壊すと、部屋の中央に仰向けで死んでいたヤスオの死体が横たわっていた。「窓は鉄格子で塞がれていますし、扉は内側から板が打ち付けられていて外からは侵入不可能。自殺の線はないので、いわゆる密室殺人というやつですね」「恐い……」 マサトが冷静に云うと、クリーム色の毛皮で覆ったアスカの身体は縮こまった。恐怖と寒さがそうさせているのだろう。「ヤスオがいなくなった時、私達は一緒に居たんだから、外部の人間の犯行ってことよね」 巻き毛が印象的なハルネが長い爪が目立つ指を伸ばし、両手を広げると、マサトは頷いて「はい」と云った。 すると再び天井が揺れ始めた。「一体何なのよ! 私達をどうするつもりよ!」「僕達に恨みを持つ者の犯行かも知れませんね。約二倍の速さで進む時計、動く天井や窓の外の物体は、犯人が僕達を恐がらせる為の仕掛け。そして、魔法のようなトリックを使ってヤスオさんを殺した」 疲れたのか、水を飲むマサト。「どういうことな……ん?」 ふと窓の外を見た彼は驚愕する。「みんな早くここを出ましょう!」「どうしたの?」「いいから、早く!」 小走りで部屋を出て、広間へ向かう。すると、がらぁがらぁという轟音と共に、天井が開き始めた。「何、あれ!」 彼らの頭上に現れたのは、巨大な顔――人間の顔だった。「逃げても無駄だよ。猿以上に人間に近い知能を持ったモルモットが存在するっていうから実験してみたんだ。色々な不思議な状況に置かれたらどういう反応を示すのかってね」 その人間はぶるぶると震える三匹のモルモットを不敵な笑みで眺めていた。
※作者付記: 一応ミステリーを試みました。因みに、タイトルを逆さから読むと、モルモットになります。
「なぜ、我のような者を愛せるのだ?」その鬼は、寂しく、矢那の瞳を見つめて問うた。『…私にはわかります。あなたの深い優しさが…。そして、その優しさが、寂しく揺れていることも…。』矢那は、そっと瞳を閉じ、その鬼へ、詠うように柔らかに答える。「…そなたがわからぬ…。人は皆、我を憎む。我は鬼。人に非ず。」『えぇ。人とは違うかもしれません。それでも、それでも矢那はあなたを深く…強く…愛しているのです。』この森に迷い、鬼の住処へと入った矢那がその鬼と出逢ったのは、今宵のように満月が笑う夜の刻だった。森に咲く花を摘み帰り、仕えた中宮の生誕の日の祝い物としようと森に入ったが、不運にも獣の牙に襲われ、逃げ延びれた先がその鬼の処だった。鬼は、矢那を見るなり一言…「ここは人が近寄ろうとする処ではない。女、何ゆえここへ来た?我を…討つか?」その鬼は、重く、迫力のある声でその住処たる洞穴で響くようにそう言った。だが、矢那にはその鬼の瞳と声が震えたように、寂しがっているものに感じられる。『あなたは…?』「我は鬼。人外の者。人を喰らい、そして生きる。女、お前を喰うてもよいのだぞ?この洞穴から出てゆけ。」鬼は睨む。だが矢那は…『あなた…とても寂しそう。』…鬼は、その言葉の意味がわからなかった。だが、その時から、鬼は矢那を受け入れていた。鬼と矢那の出逢いから二度目の満月が夜を支配した時、それは、二人の別れが来た夜だった。「矢那!」鬼が叫ぶ。森は…何者かの放った火に包まれ、赤く燃え盛っていた。鬼の洞穴の入り口。そこには、腹から血を流し、倒れこむ矢那の姿があった。『…ごめん、なさい…。あなたの森を焼かれてしまった…。』「そんなことはかまわぬ!それよりも、傷が…。」駆け寄り、矢那の状態を抱きかかえ、鬼は目に涙を溜めて叫んだ。『あなたのことを知り、討って名をあげようとする野党供が集まってきてます。ここにも、じきにくるはずです…。それを伝え、逃げて欲しくて、ここに…。』血の止まらない体をひきずり、ここまで来た矢那は、ついに洞窟の入り口で力つきて倒れこんでいたのだった。「祖奴等がそなたを…?」『…はい。…ですが、殺してはなりません…。あなたは、鬼。でも、心は人よりも優しき人です。私のことは…かまいはしません…。』抱きかかえられた矢那は、もはや力の入りきらないその手で、鬼の頬に触れ、震えた声でそうつむぐ。「…ならば…生きよ、矢那…。我に逃げろと言うのならば、生きて、我と供に逃げるのだ…。」だが矢那は首を横に振る。『…私は、長くはありません。だから…せめて最後にあなたに会えたこの一時が、私にとっては、心から嬉しいことでございます。』「最後などというな!頼む…死ぬな…生きよ!」『…その優しさが…私の心を癒してくれます。私は、他の誰でもなく、あなた一人を、深く、愛しています…だから…。』鬼が泣き叫ぶ。が、矢那の声はもはやか細く、消えかかりそうな程弱弱しかった。つむぎだす言葉も途切れ、途切れ…矢那の視界は霞、全身の力はもうどこにも入らなかった。『…だから…あなたには生きていて欲しい…矢那は、何処にいても…何処で眠っても、あなたを…。』そして、矢那はぐっと力を振り絞り、状態を起こし、涙を流すその鬼の、人外の口唇に、そっと、口付けた。「矢那…。」『…あなたと、生きて…あなたと…過ごして、私は…。』そこで、矢那のまぶたはもう、開くこともなく、重く、閉ざされた。また鬼も、その心を、矢那の愛と共に、深く、重く、閉ざし…「そなたを失った我は…我の愛は…そなたを亡き者にするためではなかったはずだ…」やがて、燃え盛る炎が勢いを増し、洞窟の周りの木々にも燃え移り、辺りは業火に包まれる中、鬼は、いつまでも、いつまでもその矢那の、冷たくなった体を抱き、涙した。
靴のつまさきに石が入ってた。 ――なんか、足痛いなぁと思ったらさ。・・・でも、どこで靴のなかに入ったんだろう。 道路ってアスファルトばっかりだし、そんなところぜんぜん行ってないよ。・・・不思議。 そう言えばよくもまぁ、こんなにアスファルト道路造ったもんだよね。最近、水溜りとか見たことある? ――そらぁ、アスファルトがほっくれちゃってるところもたまぁ〜に見かけるけどさ。・・・土の匂いって新鮮だよね。 いまさぁ〜、すごく旅に行きたいなぁって思うんだよね。山だとか。川だとか。 ――見たくならない?・・・あ、そう。 でも、もうすぐ春じゃん。立春でしょ。「すぅ〜がこぉもとけぇて〜♪」って言うじゃない。ねぇ。 あぁ〜、どうしよう。今週、休みくれるのかな。くれるといいな。・・・てか、絶対とろう。もう、何ヶ月も連休とってないよ。 ――えっ、正月あっただろって?そらぁ、関係ないでしょ。だって、正月は正月でしょ。 むかしはみんなで歳をとったんだよ。だからみんなの誕生日なんじゃん。したら、おめでとうって集まらなきゃしょうがないでしょ。みんながみんな、東京に住んでるとはかぎらないんだしさぁ。新幹線だって雪で停まるかもしんないし、道路だって渋滞するんだよ。・・・だいたいこれって、旅じゃないし。 ・・・なぁ〜んか。 なんもわかってないよねぇ〜。日本人って。 人間は暮らすまえに生きてるんじゃん。生きてるからこそ働いて、暮らすんじゃんよぉ。働いて暮らすために生きてるんじゃないってことくらい、だれが考えたってわかることなのにさ。重症〜。 ――だろ?だから、旅行きたい。海外旅行とかじゃなくたっていいんだって。・・・生きてるぞ、ここにある。世界があって、俺ここにいるって。そういうことじゃね? わかんないこたないよ。どうかしてるってば。 ――俺が?・・・エ、そうかなあ。 どっちがどうとか、そんなこと考えなくてもいいじゃん。俺が生きてることが大事なんだってば。そうやって、みんながおのおの生きりゃあいいじゃんか。そうすりゃ俺だって、みんなのこと考えてやってみてもいいかなぁって思うし。休み返上して働いたっていい。・・・あぁ〜、ムリかな。 ――ところで、小石。そうそう。 どうして入ったんだろね。・・・わかんないけどさ。 やっぱり俺を呼んでるって気がするんだよね。 ――なにがってさ。・・・あぁ、もう。ダメじゃん。
我が家の大黒柱、おやじは、風呂上りにポマードをつけて布団に入る。 臭いこと極まりない。石鹸のではなく、ポマードの刺激的な匂いがあたりを占領している。観察しようと寝室を訪ねてみると、ポマードで枕が湿っている。ツーンと頭にくる匂いがする。たぶん、リンスをつけたまま寝ているような感じ何だろう。一般人にとっては不愉快な寝心地。彼の寝る前の儀式は、かれこれ40年間続いている。けったいなことだ。ご苦労なことだ。おやじ、曰く、起きた瞬間、スクランブルOKな状態が社会人の常識らしいのだが、未だに聞いた事はない。消防士にも劣らぬ出勤の速さが自慢である。家に帰るなり、緊張の糸をブツリと切り落とすおやじ。飯を食い、テレビを見て風呂に入る不変の人生。風呂上りに、スイッチを明日に切り替えるためのポマードをつけて就寝。変わらない日々が何よりと滑走してきたのか、人を蹴散らし激走したのか。ただ歯車として動き続けただけなのか。いつか、忘れ去られる功績と、札束だけが足跡なのかもしれない。あれはまだ小さなころだった。母親に連れられ、普段家にいないおやじと、一度だけ昼飯を食べた。金曜日だった。高いビル、行き交う大人にたじろぎながら、ひたすら待った。するとおやじは、都会慣れした様相で、助けに現れた。同時に、匂いもやってきた。いつもの様な刺激を、感じなかった。やさしいく、勇ましい男の匂い。「よお」レスキューに現れたのは普段のおやじだった。話しかけられた瞬間、鼻を霞めたその香りは消えうせ、少々恥ずかしくて、悔しい思いに覆われた。大人ぶって都会を闊歩した自分は、この男を頼りにしている。しかし、子供と思いたくない。背伸びはなかなか骨が折れる。自分はもう子供ではないと言い聞かせていた。この頃は、よくおやじを見かけるようになった。根性と忍耐の会社生活も終わりを向かえ、時間が徐々に減速しだす。髪は色あせ、背中は丸みをおびだした。それでもポマードだけは忘れない。そんなおやじに憧れたことはない。近頃、ポマードの匂いがそれほど悪くないと思ったりする。
※作者付記: 恥ずかしくて、気付かない、父への思い。懐かしい匂いがします。