ある日自炊していたとき、包丁で指の先を切り落としてしまった。指先を布でぐるぐる巻きにして、切り落とした指を持って、車に乗り込み病院へ向かった。病院に着く前に、途中の信号で何度も待たされた。やっと病院につくと、受付で保険証の提示を求められた。俺はあわてていたので、保険証など頭になかったから持って来ていなかった。手は血まみれで切り落とした指を持っている男を目の前に保険証の提示というあまりに事務的な対応に驚いた。とにかく早く治療してくれるよう受付に言った。受付の女はあくまで事務的で頑として受け付けてくれず、とりあえず待合室で待つように言われた。しかたなく待合室でお呼びがかかるのを待った。指を持って、血だらけで。しばらくして看護士が体温計を持ってきた。俺は「待たされるんなら体温計より、鎮痛剤でも持ってきてくれませんか?」と言ったが看護士は体温計を渡し、「もうしばらくお待ち下さい」とだけ言って奥に消えていった。馬鹿にされている気分になったが、他にどうしようもなく、体温を測り体温計を受け付けへ持っていった。それからまたしばらく待たされ、やっと診察室の奥の部屋に通された。脈を計られ、採血された。ちぎれた指を持ったまま。それらが終わると「待合室でお待ち下さい」と言われた。そして待合室で待った。もう血はほとんど出ておらず、ぐるぐる巻きにした布の血が乾き始めていた。俺は便所に行き、小便をして、屁をこいた。もう諦めた。好きにしてくれ、そちらの言うとおりにしますよ。といった気分だった。やっとのことで医者との謁見を許された。医者は「もう少し早く来ていただかないと、指がつながらなくなるところですよ」と言った。俺は「あぁそうですか」と言った。医者はてきぱきと機械的に指を縫いつけた。治療を受けた後、事務員の治療費の計算が終わるまで、又待合室で待った。待たされた時間に比べれば治療を受ける時間など僅かだった。支払いを済ませ、家に帰る帰り道、また信号で何度も待った。やっとのことで家に帰ると、なにも食う気がせず、ウィスキーの水割りの入ったコップをもってソファにぐったりと座りグイッと一口飲んだ。しかしまぁ考えてみれば空港で、駅で、信号で、レストランで、レジで、色々なところでひたすら待たされる。俺は結局は死の瞬間を待っているのだと思った。
死のうと思っていた。最後に美味い酒でもと思い、一番近所のバーに入った。コルトレーンのインプレッションズが、轟音で鳴り、髭の男とか、禿の男とか、そういう埋もれてしまった男たちが居た。たまに女がいた。店に入ったとき、ハイヒールが不安定なリズムを刻んで、出て行った。バーではそれなりの常連だった。カウンターに腰を落ち着けて、バーテンに、いつものと頼むほどに。 右のポケットには、銭があり、左のポケットには、天国があった。三杯開けた。黙って、飲んだ。私には、友達が居ない。どこに行こうとも、居場所がなかった。それが、天国に行く全うな理由だとは、思えないが、それで十分な気もした。とにかく、私にはすることがあまりにもないのだ。 小便がしたくなったので、席を立った。トイレに腰をつけると、カバーもなく、ひやっとしている。いつも、これに驚かされる。尻を拭おうとすると、前の壁に頭をぶつける。これにも驚かされる。目の前に拳銃があった。切れかけた蛍光灯が、その存在を際立たせた。この辺は、ヤクザが多い。誰かがヘマをして、忘れていったのだろう。天国の階段が入った瓶をその隣に置いた。二つが並ぶと、神が最後に選択の余地を与えたのだなという気になった。 ノック。女の声。すんまへん、そこにおもちゃのピストルあらんへん?私は一秒黙った。蛍光灯の音が聞こえた。あ、これですかね?私はドアの上にそれを持ち上げ、女に見せた。すると、細く美しい女の手が入ってきて、ドアの上を這い、それを取った。トイレの壁に水が当たる音がした。水鉄砲。そう言うと女が不安定なリズムを刻んで、出て行った。なんだか、馬鹿馬鹿しくなって、私は、トイレを出た。手まできちんと洗った。 分からないほど飲みジュークボックスは自棄になって自分の体を痙攣させ太い誰かの腕が私の両脇を掴みその途端冷たい風が私の空洞を通り抜けた。 気付けば、体と頭の痛み以外には、いたって普通だった。やはり、外に出されたみたいだ。ポケットを探ると、右のポケットには、銭がなく、左のポケットには、天国がなかった。太陽が、薄い雨雲から出たそうにしていた。街には、私。それ以外には誰も居なかった。ポケットにつっこんだままの腕に、何か虫が這った。私は、馬鹿みたいに這いずり回りそれを払った。
雨がやみ、今日の予定であった庭の草取りを実行しようと私は庭に出た。土は雨のおかげで湿っていて、草は抜きやすかった。 私は草取りが嫌いである。爪の中に土が入ってしまったり、服が汚れたり、そして私の苦手な気持ち悪いミミズと遭遇してしまうからである。そんな私が何故急に草取りがしたくなったのかは、分からない。ふと、私の中の何かがそうさせたのだ。 その少女は何度も繰り返される内乱で両親をなくし、一度も会ったことのなかった遠い親戚の家に預けられた。その少女より3つ年上のその家に住んでいる少年は少女のことが気に入らず、毎日こっぴどく少女をいじめた。少女の体は1週間もしないうちに全身があざだらけになった。しかし少女は他にいくところがないので、誰かに言いつけたら殺す、という少年の言葉を重く抱えてじっと耐え続けた。 しかし全身のあざを隠し通せるわけもなく、少年の母親にそれはあっけなく見つかってしまった。少女は殺されると思い、少年の母親が少年を叱ろうと自分の息子を探している間にこっそりと家を抜け出した。そして、無我夢中に走った。どこにいくかなんてどうでもいい、あの家から、少年から逃げることができれば・・・。どれくらい走っただろうか、見覚えのない場所をひたすら走る。だんだん息が荒くなり、足がガクガクしてくる。全身に疲労がたまり、ついに少女は倒れこんだ。もう少年は母親から聞かされただろうか。もう追ってきているだろうか。走らなければ、もっと遠くまで。そんな少女の気持ちとはうらはらに意識が朦朧としてきた。そして少女は眠りについた。 目が覚めて少女が初めて目にしたものは、足の裏だった。次の瞬間、少女の体は遠くまで飛ばされた。その足はまた少女の方に向かって来る。そのとき、少女は足の持ち主の顔を見上げた。少女と同じように顔にいくつもあざをつくり、怒りで赤くなった少年の顔だった。少年は少女に暴力を加え続け、ついに少女は目を開けなくなった。死んだのだ。 草取りを始めて10分、ついにミミズが姿を現した。私は一瞬立ち上がったがまたミミズの方を向いて座り直した。そのミミズは何故か私の体を憎悪の念で満たした。持っていたシャベルをミミズに振り落とす。何度も、何度も。原形がわからなくなったそれらの物体を土に混ぜ、私は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。そして我に返り、草取りを止めて家へ戻ったのだった。
俺はいつからこんなことをしているんだろう。この街に流れ着いて何となく始めた仕事。 「話、聞きます。話、売ります。」とだけ書いた看板を出した。俺は単にこの腐った街なら刺激的な話が聞けるだろう、それを聞きたい奴もいるだろう、だから話をしたい奴から話を聞いて、話を聞きたい奴に売りつけようと考えた。 この仕事はうまくいった。たぶんこの街が病んでいるから。週に1、2回は話を聞いてだれかに話をした。俺に話をしに来る奴はほとんどが糞みたいな連中。クスリかなんかでラリッてる奴が多いからたぶんそのうち死ぬんだろうけど、死ぬ前に話をしたいらしい。逆に俺の話を聞きに来る奴は真面目な奴、真剣に悩んでる奴が多い。 この間も3回離婚した男が話をしに来た。3回とも孕ませて3回ともおろさせている。ちなみに3回目の胎児をおろさせたその日に別の女とヤッて、それが今の妻だと言う。当然うまくいくはずもなく「そろそろ別れるけど、それもめんどくせぇな」と笑っていた。 この男と同じくらいの歳のサラリーマンが次の日に話を聞きに来たのでこの話をしてやった。ちなみに、「お前」は結婚をした、「お前」は殴った、「お前」は殺した、というように、主語は「お前」。他人のしたことを自分のことのように思わせる。こいつは思い存分罪悪感を背負って帰っていった。話を聞くと、最近浮気をしたらしく、妻に申し訳ないから二度とやらないように自分を追い込みたいらしい。 忘れていたが、明日友人の結婚式でスピーチをしなければならない。7年間泣いたり笑ったりしていないのにうまく話せるだろうか。 そういやあいつ、女の子に泣かされてたな。みんなで悪口言って盛り上がってる時も独りでマンガ読んでたな。卓球上手かったな。俺が突然帰省した時、彼女と約束あるのに最後まで黙ってたな。初めて俺にお願いしてきたことあったな。俺がいつも持っていく手土産のジュース、送ってくれって。お母さんに最後飲ませてやりたいって。 あれ、なんで7年前にあいつに相談しなかったんだろう・・・・・・。 当日、俺は行かなかった。7年前の自分に戻るのが正直怖かった。 もう、戻れない。
奴と私は神道無念流剣術の兄弟弟子で私が弟弟子である。入門の時期はほとんど同じだが、奴の方が1ヶ月早く入門していた。1年経過する頃には奴と私は腕の差がほとんどなく、仲良く語りあったりすることはないが、確かな好敵手としてお互いを認めていた。奴は貧乏旗本の三男である。貧乏旗本にとって部屋住みの次男以降はやっかいもので、養子に出されるか、こうした道場で腕を認められ養子となり道場を継ぐなど家を出なくてはならない立場である。奴はこの道場の娘お凛に恋心を持っているようでありこの道場を継げればと考えているようであった。その点、私は庄屋の息子で気楽なものであった。ただ、お凛に恋心を持っているのは同じだったが。数年後、奴と私は切磋琢磨を繰り返し二人とも師範代となっていた頃、師匠の声がかかり、二人で普段は通されない奥の部屋へ招かれた。娘のお凛が茶を振舞ってくれた。師匠はこう切り出した。「儂は隠居したいと思っておってなぁ。二人で仕合をしてみぃ。勝った者に道場とお凛をやるわぃ。ただし遺恨を残さぬよう真剣でやれ。藩のお役人も呼んで検分してもらおう」私は道場のことより、お凛と所帯を持てる喜びにあふれた。奴も「これは得たり」といった表情に見えた。両者負けるとは露ほどにも思っていない。仕合当日が来た。私と奴は道場の真ん中で鞘を抜き真剣で対峙した。「お主とは数年来共に剣を学んできたが、手加減せぬぞ!」奴はそう息巻く。その剣先が微妙に揺れている。相当力が入っているのが分かる。藩役人の「はじめ」の合図と同時に奴は正眼に構えた。私は下段をとる。奴は慎重になっているなと内心思った。正眼は守りの構えだ。そのままでは剣を繰り出すことが出来ないが、防御は出来る。二人とも手を出すことが出来ない。時間が流れていく。当たり前の話だ。これは真剣勝負だ。体に触れれば切れる。切れれば死ぬ。下手に動くことは出来ない。奴がじれ始めているのが分かった。私もじれてきた。どっちが先に仕掛けるか。奴が仕掛けるとすれば構えが正眼なので振りかぶらなくてはならない。上段ならば一瞬目が隠れる。その瞬間だ。奴が挙動を始めた。私は下段から高速の逆袈裟を仕掛けた。奴がとったのは下段だった。すれすれに鉢を抜け、空を切ったのは私の方だった。奴はよけたのだ。体勢が崩れた。体が一瞬熱くなった。崩れ落ちる体。お凛が奴のところに駆け寄っていくのがチラリと見えたのが最後だった。
静まり返った景色、微かな灯りだけがその存在を示している”星降る月夜”君に会えたのはそんな日だった君は悲しい事があったとかで思いっきり泣いていたねだけど真直ぐに空を見上げる君を可哀想と思えなかった、少なくとも僕にはただ、頬を伝う涙だけがまるで宝石のように輝いて見え、純粋に綺麗だと思ったそのあまりの美しさに声をかける事も忘れていたあの時、君から話しかけられなかったらずっとあのままだったと思う呆けていた僕を見て君は不思議そうな顔をしていたけど君も相当奇妙な顔をしていたんだよ将来の事、夢の事、どうでもいい事、色んな事を話したね月はどうして輝いてるのかっていう話の事は今でも覚えてる太陽の光を反射して夜にだけ輝いて見えるだけと現実的な僕の台詞に君は飛びっきりロマンティックな学説を聞かせてくれたねそんな訳ないと苦笑いしつつもそうであればいいのにと心のどこかで思ってた君と一緒にいればいつかそんな世界が訪れるのではないかと思っていた突然だった月が割れた訳でもなく星が消えた訳でもなかったただ一人君だけがいなくなった信じられるわけなかった、いや今でも信じていないのかもしれない何も考えられなくなっていた、認めたとたん全てが崩れてしまいそうで避けられない事だったか? 変えられない事だったのか?現実主義の自分には特に似合わない不毛な考えだと思うそれでもしばらくはそんなことしか考えられなくなっていたとある日だった、君の夢を見た君は初めて会った時のように泣いていたただ夢の中の君はあの時みたいに空を見上げていたのではなく僕の方を、そう真直ぐに僕の事を見つめていた夢の中の君にどうして泣いているのかとたずねると悲しい事があったとだけ言った僕は空に向かい叫んだ”彼女を返して下さい! ”君の涙は止まらなかったもう一度叫ぼうとしたとき君は僕の腕をつかんだ僕はうつむいている君をはじめて見たうつむいて泣く君に僕は耐えられなくなり、ごめんと謝ったもうしないからと約束した、彼女がそれを望んでいないことがわかったから君が顔を上げると同時に僕は夢から覚めた君がどんな顔をしていたのかはわからなかったけれども、僕はなぜか彼女の満足した笑顔が浮かんできたそれ以来彼女の夢を見たことはない僕はそれからこの君のいなくなった世界に居続けているこれからも居続けるのだろう、きっとそれが君の望みだから光のない夜道に月明かりだけが映えて見えた
「あんたの近くにいるから雷落ちないよ」186pのクラスメイトをからかったとき窓の外は土砂降りの雨だった。ワックスで立たせた黒髪が反撃しようと振り返ると、隣の席でシマくんが笑った。 彼は白いページをめくる音が似合う人だ。文房具に例えるなら銀色のシャープペンシルだ。食べ物に例えるなら冷や奴だ。わかりやすく言えば、なんとなく知的で清潔感と透明感がある。深呼吸したときのような、新しい空気が体中に流れる感覚。それが初めて彼を見たとき私が感じたものだ。彼は切れ長の目と、長い手足をもっている。どことなく女性的な容姿だと、その横顔を見ながらあらためて思った。「うわー。傘もってきてねーよ」授業であろうと休み時間であろうと静まらない教室でどこからか聞こえてきた声に何人かが同意したが、シマ君はただ窓の外を見てほほえんでいた。 私は知っている。ある放課後に知ってしまった。なぜ灰色の空を見つめる彼の目が澄んでいるのか。 彼はその日雨の中を歩いていた。ふたり、で。彼より5p以上背の低い女の子はヒザが隠れるスカート丈で、校則通りに2つに結ばれた髪の毛が歩くたびに揺れていた。くっつくわけでもなく離れるわけでもなく坂道を歩いていく二人はまるで仲の良い兄妹みたいだったが、びっしょり濡れたシマくんの肩がそうではないことを語っていた。 今日もその女性のような右手で水色の傘をもち、左肩を濡らして帰るのだろう。温かくて、柔らかくて、優しい。私がそんな言葉でしか表現できないものに包まれながら。 考え続けたら醜い自分に出会いそうで、うらやましい、と思ったところでやめた。本当のことを隠すのも嘘を信じるのも、この先きっと得意なほうがいい。彼が最近大人びて見えるのも衣替えで学ランを脱いだせいにしよう。 いつのまにか長い雨が止んでいて、私はそれまでの気持ちを持て余すかのように机の下で足をぶらつかせた。「避雷針、あんたの背中で黒板見えない」雨上がりの空に光が差しこむ前に女でも男でもないただの私に戻らなければと、小さく肩を揺らして笑うシマくんを見つめながら私は必死だった。
いつも通り、ひとりで家を出た。教科書も定期券も持った。駅でいつもの友達と挨拶を交わし、電車に乗った。2駅目で別れを告げ、またひとりぼっちになった。いつもなら40分程居眠りして紛らわすんだ。そして靴音にリリックを付けて学校まで歩く。そうすれば上の空で1日なんてすぐ終わる。でも、今日ばかりはそうはいかない。 20分程で電車を降りて違う路線に乗り換えた。この座席、いつものより座り心地いぃなぁ。なんて思っていたら居眠りしてしまった。習慣とはおそろしいものだ。起きたときにはもう目的地寸前。前に1度だけ来たことある場所。あの時は、たしか2人で歩いたはずだ。同じコースを歩いてみた。だって、その道しか知らないんだもん。あぁ虚しい…。違う道に、はみ出てみよう。水族館はこちら→って看板発見。おぉ、ひとり水族館だなんてなんとも風情があるじゃないか。池のある広場を抜けて館内入り口へ向かう。途中で、前方をカップルが歩いているのを見つけた。癪だから、池のほとりのベンチで缶コーヒー一気飲みして引き返した。今から行けば午後の授業には間に合うなぁ。なんて、心にも無い弱気な戯言を呟いてみちゃったりして。 駅に戻って電車に乗った。おっきい駅で降りたけど人混みが嫌いなことに気づいた。ひとりぼっちも嫌いだけど。 人気の無い河沿いの公園まで歩いた。デッキの手すりにもたれて向こうの方を眺める。有名なビルやタワーが並んでいる。曇り空と同じ色だ。あーぁ、せめて晴れていてくれれば、気晴らしの素敵な遠足になったのになぁー。秋なのに足元が冬並みに寒い。だってミニスカートとブーツがお気に入りなんだもん。と強がってみるが、くしゃみがでた。遠くのベンチで弁当食べてるサラリーマンが余計惨めさ誘ったりして。寂しいな、私。 そのまま2時間ぼーっとしてた。キャンキャンって小犬の声が聞こえたから振り返った。でも立っていたのは一人のおじいさん。「おひとりですか?」「はい。」「そうですか。私も、夏に犬が死にまして、それからはひとりになってしまいました。」「…。」だけどおじいさん笑ってるじゃん。羨ましいよ。なんだかビルがゆがんで見える。そろそろ帰ろうかな。
その日、俺は言いたかった。この耳障りな蝉の声に負けないくらいのでっかい声で叫びたかった。連日鳴き続けている蝉にうんざりしていただけなのか、次から次へと流れ落ちる汗に負けそうになっただけなのか。俺はとにかく今にも叫びだしそうだった。「世界は滅びるぞ」と。きっと皆、笑うだろう。きっと皆、引くだろう。きっと、どちらかだ。俺は変な奴になりたかった。皆からお前は変だと言われたかった。きっと皆もそんな願望があるはずだ。だが俺は皆と違う。何が、とは言えないが。とにかく変だと言われたかった。我慢できずにぶちまけた言葉は、あまりにもひどかった。「明日、宇宙人が来るんだって」なんだそれ。とっさに俺は自分の願望を後悔していた。これじゃあ本当に変な奴じゃないか。俺はなにがしたいんだ。変になりたいからと思ってみたり、そこまで変になりたくなかったり。後悔しても遅かった。周りの冷たい空気を感じただけで十分だ。皆の顔なんて見なくたって想像できる。俺は後戻りできずに続けた。「隕石に乗ってやって来るんだって」「お土産は新しい薬だってさ」「何でも治るやつ」なんなんだ俺。なんなんだコレ。俺は嘘つきなのか。でもきっと罪にはならないだろ。こんな話だれも信じない。そして俺は変な奴になれたんだ。真っ白い部屋の中で俺は天井ばかりを見ていたんだ。小さな扉から定時に運ばれてくる食事。一人ずつに与えられたトイレ。風呂は週に三度ほど。薬は毎日飲んだけど、慣れてしまえば大したことではない。なかなか快適だった。せっかく変な奴になれたのに。普通にしようとたかってくる白い虫さえいなければ最高だ。俺は毎日考えていた。虫の駆除の仕方を。だれか教えてくれないか。俺は変な奴だよな?なぁ、そうだろ。鉄格子の向こうから、最後の蝉がひとつ鳴いた。
「あなたの家は固定されました。」、黒い拳銃、真っ青な名刺青年は玄関先でこれらを僕に渡すと、駆け足で帰っていった。僕は途方に暮れた。まるで意味がわからない。この家を買ったのは五年前で、値段も中古物件としては平均的だった。ただ、庭にある椿を伐ら無いという条件でこの家を買った。その条件を出したのは妻だった。僕はこの家を気に入っていたが、妻は気に入らなかった。それでもこの家にしたのは僕が強情を張ったからで、妻がそれに折れたからだ。妻が出した条件を僕は快く承諾した。椿には小ぶりだったものの綺麗な花が咲いているし、僕にとって庭はそれほど重要ではなかったからだ。僕は真っ青な名刺と拳銃――弾が三発入っていた――をパーカーのポケットに入れて散歩に出た。パーカーに手を突っ込み、早朝の意味のわからない出来事を出来るだけ理解しようと青年の言葉を頭の中で反芻しながら、歩いた。あなたの家は固定されました。あなたの家は固定されました。あなたの家は固定されました。あなたの家は固定されました。あなたの家は・・・不意に名前を呼ばれ振り向くと、そこには妻らしき女性が立っていた。その女性は限りなく僕の妻だった。そう、限りなく。微笑む彼女はゆっくりと近づいて来て、僕に名刺を渡そうとしている。無意識の内に僕はポケットの中で拳銃を握り締めていた。しかし、弾はたった三発しかない。経済的に考えても、将来性を考えても、今がその時では無い。僕は拳銃を出す代わりに、真っ青な名刺を出した。彼女はそれを受け取り、僕は彼女の名刺を受け取ってポケットに入れた。僕は出来るだけ平静を装いながら、会釈をしただけで元のリズムで歩き出した。その夜、パーカーから取り出した名刺のせいで僕はますます突き落とされた。その名刺は僕の渡したものと全く同じ、真っ青だった。僕は数時間迷った挙句、庭を掘り始めた。僕は吐き気に襲われながら、スコップを握り締めゆっくりと掘って行った。程無くして、大きな黒い塊が出て来た。その黒い塊を椿の根が覆っていて、塊はガムテープと黒いビニール袋できつく封印されていた。その時、僕の嘔吐は止まる事を忘れ、僕自身も嘔吐している事を忘れていた。僕はぐちゃぐちゃな表情で黒い塊に拳銃で三発打ち込んだ。その次の年、椿は枯れてしまい僕は家を売り払った。今、家は漂っている。ふらふらと、ゆらゆらと。滑り落ちている。ぐらぐらと、ばらばらと。
※作者付記: かなり適当感がありますが頑張りました。http://d.hatena.ne.jp/rarara6/
「じゃぁ寝る前に電話するわね」「ん、待ってる」そう言って二人はキスをした。そして幸せそうな顔で、俺のほうをちらりと見た。「バイバイ、じゃぁね!」彼女は俺と、キスの相手に手を振り身をひるがえした。二人は俺の親友とその彼女だ。「なんで俺の目の前でキスするんだよ…」呆れた、という様に俺はタメ息をついた。「あいつ、気にしねぇヤツだからな」少し恥ずかしそうに親友は答える。しかしやっぱり、恥ずかしそうな顔の後ろには幸せの文字が浮かび上がっていた。親友は背も高く、情があってもてるタイプだ。その彼女もスタイルも良く、明るいコなのでもてるタイプだ。二人はいわゆる「お似合いのカップル」なのだ。「ワリィな、今日はあいつの買い物に付き合ってもらって」「いいさ、親友とその彼女の為だからな」俺は苦笑いをした。しかし俺は、顔は笑っていても心では笑いっていなかった。どうすることも出来ない。もがいても、何も出来ない。眠れない夜は続く。くだらないかもしれない。俺は醜いのかもしれない。そう考えるほど、俺は彼女のことが好きなのだ。親友の彼女を好きになるパターンなんて、よくあるけど俺には関係ないと思っていた。だけど実際現実は甘くはない。奪いたいほど、好きになってしまうことだってあるのだ。そんな自分が汚く感じて、俺は気持ちを隠し、二人の前で演技をする日々を続けていた。「…ったよ」親友が小さく言った。「あ、悪い。聞こえなかった」「お前が親友でよかったよ、って言ったんだよ。文句のひとつも言わずに、あいつに付き合ってやれるんだもんな」親友はそう言って笑った。その笑顔に、俺はたまらなくなってくる。親友が憎いわけではない。ただ、どうして彼女の隣にいるのが、俺の大事な親友なのだろう。偶然にも程がありすぎる。俺はむしろ、現実という言葉を憎く感じている。「親友のもの」でなければ、俺は必死に奪っていただろう。全世界を敵に回しても、自分のものにしたかった。だが、親友の彼女だと、どうすることも出来ない。俺は毎日、葛藤しているのだ。彼女が欲しくてたまらない。だけど彼女の彼氏は俺の親友。親友をキズつけることなんて、俺には到底出来ない。親友だけじゃない、彼女も、俺もキズつくだろう。「また、頼むな」「ああ。いつでも呼んでくれよ」そうして俺は、自分に嘘をつき続けていくのだろう。I can do no more俺にはこれ以上、何も出来ない…。
左の胸ポケットから古びた写真と1枚の紙を取り出す。写真に写っているのは、親父、初美、初肇、元基、小3の俺、お袋。 ハツミとハジメは6つ年上の姉と兄、ゲンキは同い年の弟。俺は双子家系の家庭に生まれた。初美と初肇は二卵性、俺と元基は一卵性。俺と元基はそっくりだった。初美と初肇を見ていても、俺たちほどは似てなかった。これが一と二の差か。 俺はゲンキが嫌いだった。 ゲンキは何でも俺の真似をした。そんなゲンキは、俺のドッペルゲンガーだった。だから俺はゲンキのことを「ドッペルゲンチャン」と名付けた。ゲンキは皆から「ゲンチャン」と呼ばれてたから、この命名は我ながら上出来だった。 ある日、俺は違う服が着たくて、わざわざ早く起きて一人で学校に行った。なのに、何を着ていったか知らないはずのドッペルゲンチャンは、同じ服を着てやってきた。呆然とする俺に「気分で選んだのに、タツキとかぶっちゃったね」と笑って話すドッペル。完敗だった。俺が負けたのはこの時だけじゃない。文集「わたしとぼくの夢」の時もだ。別々に書いたのに、夢は同じだった。 小3の2学期の終業式はクリスマスイブで、俺は、終わると一人、家へと走った。朝、見れなかったプレゼントを早く開けたかったのだ。そんな俺が家のドアを開けた時だった。ドンっ!!俺は突然頭を殴られた。…?…いや、殴られたような衝撃に襲われた。でも、すぐに痛みは引いた。何だったんだ、と思いつつも、俺はプレゼントのある部屋に走った。 この日、俺は流行のゲームを手に入れて、嫌いだったゲンキを失った。酔っ払いの車にはねられたドッペルゲンチャンは、あっけなく俺の前から去った。 俺はゲンキが嫌いだった。 何でも真似したゲンキ。何でも似ていたゲンキ。この地球という星に一緒に生まれてきた、たった一人の存在。―…俺の大事な弟。 「何だ?写真か?」先輩に話しかけられて、我に返った。「写真と、その紙は?」「これですか?」俺は苦笑いをしながら、紙を渡した。「懐かしいなぁ、こういうの。お、夢叶えたんじゃないか」「えぇ、…なんか恥ずかしいっすね」「?何だ、隣の…ゲンキ?お前双子だったのか」「…えぇ」「このゲンキってやつは今何してるんだ?」「…。空の高いとこで夢を叶えた俺を羨んで見てると思いますよ」「―…。そうか」先輩はそう一言だけ言って、微笑んだ。「今日も良いフライトにするぞ。竜基副操縦官。」
家族ってなんなんだろう。友達ってなんなんだろう。人ってなんなんだろう。私ってなんなんだろう。私は最近こう思うようになってきた。きっかけは5年前のあの、事故以来だ。私は交通事故で姉を亡くしてしまった。事故・・というよりも、私は事件だと思う。姉にはとても人気で優しい彼氏がいた。当然その彼はモテモテだった。しかし彼はとても真面目な人で、浮気1つしなかった。ところが、前からその事をねたんでいた姉の友達が、なにを思ったものか・・突然姉と仲良くし始めたのだった。私は前からこの事について、とても疑問に思っていた。しかし私の姉は疑う事を知らない人だったので、私もそこまで気にはとめていなかった。しかし5年前の事故で姉をひいたのは、事故にあう少し前に突然姉に近づいてきた、あの友達だったのだ。しかし警察は、当然、姉の親友だと思い込み、ただの事故だという事に決まった。しかし私は当然なっとくがいくはずがない。あの時突然姉に近づいたのは、きっと、あの事件のことを計画ずくだったのだと思う。・・・。私は、あの事件の後、約2年間も、部屋に閉じこもり、いわゆる引きこもりになってしまった。というより、周りには引きこもりのように見せかけていた。しかし実際は違う。必死に勉強をして、警察官の免許を取得しよおとしていたのだ。そしてあれから5年たった今、私は女警察官として立派に活躍している。私が警察官になれば、姉と同じ立場の人間も救えると思った。しかし実際は、もっと悲惨な事件ばかりだった・・人が人を殺すのが当たり前だと思っている人・・私はそんなひどい人が許せない。しかし・・・・・最近では、そんな事件にすっかり慣れてしまった私・・・そんな自分が許せなかった・・・人とはなんなんだろう。どうして殺そうとするのだろう。生とはなんだろう・・。もし死んでしまったら、どこへ行くのだろうか。私はなんのために生まれてきたんだろうか。今もそんな疑問を心のどこかにしまって、私はこの仕事を続けています・・・・・・・・・・・・。。
※作者付記: 初めて短編小説を書きました。正直な感想を待っています。どうかよろしくお願いします。
「お〜そ〜れ〜み〜お〜」と、ろくに知りもしない歌の一節を延々口ずさむ坂崎・某は、丁度会社からの帰路にあって、森閑とした裏通りを歩いていた。途中、小腹が空いてきたので、右手にぶら提げたビニール袋から菓子を取り出した。 駅前のスーパーで適当に選んだスナック菓子だった。 パッケージには真っ赤に充血した目玉をヒン剥いて口から炎を吐き出す禿爺のイラストが描かれ、その横に、物々しい字面で「超鬼辛!」などと記されている。 坂崎・某は早速幾つか頬張ってみる。謳い文句のわりに、辛くない。湿気たような味がするだけだ。「何だこれ、ぜんぜん大した事ねぇじゃん」坂崎・某、残りを一気に口の中に流し込んだ。底に溜まった粕まで食べつくすと、袋を路傍に投げ捨てて、事も無げに道を進んだ。 と、暫くして、舌がジンジンし、咽喉の奥がカッカと火照り始めた。「あ……、やっぱ辛いかも」 そう思った頃には時すでに遅し。口腔一杯に広がった香辛料やら食べ粕やらが、各自の仕事に取り掛かり始めていた。 口の中が、燃えるように熱くなりだす。その辛さたるや相当なもので、なおかつ天井というものを知らぬらしい。際限もなく、どんどんどんどん・どんど・どんどん、激していくのである。超鬼辛というのは嘘ではなかった。さすがに堪えきれなくなって、坂崎・某、大きく口を開けホーホー唸った。 多分、夜の冷気に浸して熱気を冷まそうとでもしたんだろう。いやに子供じみているが、窮地に追い込まれた人間なんて、案外そんなもんなのかもしれない。 無論、効き目はなく、その間も香辛料は持てる能力を遺憾なく発揮し続けた。おかげで坂崎・某、イラストの爺の如く血走った目を剥く仕儀となり、後は口から炎さえ吐き出せば親子と見紛うほどの似方だった。 次第に不安が募った。ヒン剥いた両の眼は、二つの意味で血眼になって飲料水を捜し求めた。けれども生憎と、周囲には自販機も水飲み場もありはしない。そこで坂崎・某、せめて味覚だけでも誤魔化そうと思い立ってマルボロを吸い出したのだが、これがまずかった。体内に吸い込まれた煙草の煙は、口腔や咽喉にへばりついた香辛料と一種絶妙な具合に混ざり合い熱を強め、何やら発火寸前のような、不穏な気配が漂いだしたのだ。 あまりの辛さに口元を振るわせ、剥いた目を赤い涙で滲ませながら、坂崎・某、こんなふざけた菓子を拵えた製菓会社に対して怒りの炎を滾らせた。「からッ! からいゾォオッ! こうなったら、訴えてやる!」 そうして、何を叫んでいるのか、また、何処を目指しているのか本人にも分からぬまま、胸の内で滾る炎のまま、闇雲に駆け出した。と、走る側から、坂崎・某の身に異変、いや大異変が起きた。 手始めに、喉ちんこがブワァッと音をあげて燃え出した。火は、たちまち口腔を飲み込んで炎となり、上は頭、下は五臓六腑を貪りつくした。さらにネクタイを焼いた。スーツの上下を焼いた。パンツを焼いた。革靴を焼いた。縁なし眼鏡を焼いた。紙幣を焼いた。キャッシュカードを焼いた。身分証明書を焼き尽くした。坂崎・某はたちまち古びた廃屋のごとくボロボロと崩れ落ちて灰塵と化し、風に吹かれた。と、風が灰塵をあらかた吹き飛ばした後に、非常に珍奇なものが姿を現した。顔も手も足も、総身これ炎製の、男。尤も、炎といってもそれは、一時派手派手しく燃え盛ってすぐに消える類の、浅薄な奴ではなく、静かに、しかし恒久的に燃え続ける、蒼白く美しい炎だった。衣服だの鞄だのアイデンティティだの何だのと、余分な持ち物を一切合財焼き尽くしたせいだろうか。そいつが闇夜を疾駆するその速度たるや、目にも留まらぬほどで、地を這う青い稲妻にも似た。電光石火の速さで縦横無尽に走り回り、アスファルトを焦がした。石畳に焼跡を残した。身に触れた街路樹を、落ち葉を、片っ端から燃やした。納屋を焼き、雑木林を炎で包み込んだ。そうして最後、眠り人たちの夢の底を、青々と照らし出した。
※作者付記: 初です。よろしくお願いします。
黒板のにおいがする、男子の早弁のにおいも。隣の席の男子の制服に付いた煙草の臭いもする。一、二、三、と心で数えた。「俺、煙草臭くない?」いつもみたいに得意な顔して言う。先生は本に夢中、友達は受験勉強に熱中、あたしは日常に飽き飽きしてる。鳥が、窓から見たら蚊の群れかゴミみたいに見えた。あの日恋はあいつらみたいに大分裂したっていうわけだと思う。その日は急いで家に帰った。自転車を漕いで、隣の空を見上げたら砕け散った恋の夕日が真っ赤に真っ赤に燃えている。このままでは電線にぶつかってしまう。あたしの町からは山が五つ見える。その真ん中の山の後ろに夕日は隠れてしまった。あとはただ雲をピンクに縁取った。彼はノーと言った。あたしは自分を呪った。頑張ったんだろう。自分から話しかけた。友達を通して電話番号を聞いて、いきなり電話して驚かせて、彼の心拍数はいい具合に上昇していたはずだった。だけど答えは紛れもなく「ごめん本当にごめん」だった。家に帰って、ドアを閉め二個ある鍵を上から下へかけて、玄関になだれ込みたかったけどいつも通りの場所に鞄を置いてブレザーを掛けるまでは首を垂れることもしなかった。明るい茶色のキッチンの扉を開いてうるさい冷蔵庫の前に立った。冷蔵庫を見る時はまず一番下の冷凍室から順番に上へと開けていく。その結果、一番上に入っていた手のひらサイズの焼酎のオレンジの蓋を開けることにした。くるくると片手で蓋を開けてしまうと、その独特の臭いが17歳の鼻に突き刺さった。白い食器棚の小さな引き出し、その中のこげ茶の網籠から握るところがピンク色のキティちゃんのスプーンを取り出して、焼酎をすくって飲み込んだ。舌が熱くなって、喉と胃までそれが伝わった。涙腺を侵して、涙を出した。涙はどんどん出てきて、声を出した。はっきりしている意識の中ではあったけど、あたしはのたうち、ずっと呻きながら叫びながら泣きじゃくっていた。翌日は絶対学校に行くつもりは無かったのに朝五時に起きて自分の顔を鏡に映したら昨晩泣いた顔とは思えないほどスッキリしていたので登校した。鳥が一羽先頭をきっている。群れへの風の抵抗を弱くするためらしい。昨日休み時間に彼がボクシングのステップの練習をふざけてしているところを見かけた。傍にいたい。じゃれあってる友達、でいい。これは愛だと思う。愛を知った。恋を憎んだ。今日、鳥と共に夕日が溶けていった。
数学の授業中、彼女は眠たげに頭を揺らしながら、ノートをとっているようだった。 左前方の席にいる彼女の手を見ると、全ての指に絆創膏が貼ってあった。何故そうなっているかは知っている。彼女がクラスで浮いていることも、貧血気味で身体が弱いのも、昼休みになると屋上へと続く階段の踊り場にいるのも知っている。そこで何をしているのかも。 と、若気の至りでストーカー的なことを考えていると、授業が終わった。 で、僕は覚悟を決めたような気分で屋上へと続く階段を見上げている訳だ。 屋上の扉は施錠されているから誰もこの先へ進もうとは思わない。だから秘め事にはおあつらえ向きの場所だ。この先に彼女はいる。 よし、と呟き、一段目に足を掛けた。 あんまり見ないで欲しいんだけど、と冷たい声で彼女は言った。 僕は目を離せず、ごくりと喉を鳴らした。 彼女は左手の五指に一匹ずつヒルを這わせていた。 緑色のヒルの身体が、嚥下する喉のように脈動する。彼女はそれを、近くにいるモノを眺める、というような目で見ていた。「何、用?」「瀉血療法って言うんだっけ、それ」 つまらなそうに彼女は頷く。ちなみに瀉血療法とは、治療の目的で患者の静脈血の一部を体外に除去することである。日本でも、古くからその為にヒルが使われてきた。「皆噂してるでしょ、ヒルを指につける変態がいるって」「いや、綺麗だと思うよ。絵になってる」「……は?」 指に付いたヒルを剥がして、水の入った瓶に入れようとしていた彼女の手が止まった。怪訝そうな表情をしている。 僕はもう一度彼女を見詰めた。 冬の弱い日差しが彼女を照らしている。抗凝固物質ヒルジンにより血が止まらない吸血痕を、赤い舌が舐め、血液が頬を伝う。 その情景が心の琴線を掻き鳴らす。彼女が指を舐める舌の動きに鼓動が高鳴り、青白い肌と赤黒い静脈血とのコントラストには溜息が出る。 僕は今、自分の不勉強を呪う。 絵の腕があれば、どれだけの時間を費やそうともこの光景を描こう。 写真が撮れれば、何枚でも何千枚でも、指の骨が折れるまでシャッターを押そう。 音楽が出来るなら、作詞し、作曲し、音を伝える全てのものが無くなるまで、歌い、演奏しよう。 ああ、しかし僕にはどれも出来ない。今日までの僕の人生を、僕は呪おう。 それを聞いた彼女は三分程楽しそうに笑ってから言った。「なら詩を書いたらいいよ、さっきのはすごくよかった」
窓の外には白い妖精たちが自分の仲間を増やし大きくなっていた。石油ストーブの上でタップを踏み出すヤカンと勢いよく赤くなる火の子達。真っ白な雪のキャンバスに私は窓に息を吐きかけ指で文字を書いては消えていく時間を眺めていた。 奥の部屋からカップとティースプーンがぶつかる音がだんだんと近づいてきた。「おっ!なんだ」雪が降っているせいかデートに出かけない姉がティーパックとお菓子を持ってきた。「誰よ。その真治って子は?あなたの彼氏は幹也君じゃないの?」小学生が同級生をつつくように私に絡んできた。「いいじゃない。お姉ちゃんには関係ないでしょう」姉は私にお湯を入れたカップを渡してきた。軽く私は頭をさげ、ミルクを紅茶の中へと注ぐ。私はこのミルクが混ざる経過が好きだった。同色の紅茶の世界に白色のミルクが突然お邪魔をする。きっと、紅茶たちは初め慌てふためくのが目に浮かぶ。しかし、後から入ってきたミルクは遠慮して自分達の色を紅茶の色に近づこうとする。外の雪のように仲間を増やしてくのがきっと楽しいのだと思う。そんな、物語を考えるのが好きな私にとって、この時の流れは至福の一時でもあった。「あれ。どうしたの?飲まないじゃない。熱かった?」カップの中を覗いていた私にお姉ちゃんは話し掛けてきた。「ねえ。お姉ちゃんはなんで今の彼氏と付き合っているの?」突然の質問に目を丸くしたお姉ちゃんはいきなり笑い出した。「あはは。どうしたの。あんたがそんな話をするなんて」私が恋愛話をするのが意外だったのか、お姉ちゃんは持っていたカップを机に置いて、改めて笑う姿を私に見せてきた。「なによ。せっかく相談に乗ってもらおうと思ったのに」私が窓へと目をそらすとお姉ちゃんは笑いながらも謝ってきたのでとりあえず視線をカップへと戻した。「それは決まってるじゃない。好きだからよ。っというか厳密に言うと一緒にいて楽なのが一番かな」思ったより真面目な回答をしてくれたお姉ちゃんに一瞬戸惑ったが、やる事もなかった時間つぶしのお姉ちゃんに思い切って話をする事にした。「お姉ちゃんに聞いてもらいたい話があるんだけど」「お!どうしたの?突然真剣な顔になって」っと、お姉ちゃんも冗談のように最初の方は話を聞いていたが、私の顔の真剣さを感じ取ったのかあんまり笑わなくなっていた。部屋の中には、私の声とやかんの音。そして時々通り過ぎる車の音が響き渡っていた。