わが家が猫に取り囲まれた。それもちょっとやそっとの数じゃない。垣根近くの茂みでチョロチョロ動くので、よく分からないが、十数匹、いや二十匹近くはいる。よく見ると、やけに小さい奴もいれば、首にリボンを付けたシャム猫風の奴もいる。飼い猫だろうか。いやいや、凶暴そうな野良猫もいる。そいつらが「ミャー、ミャー」「ギャー」「ミャーオ」とさまざまに雄叫びをあげながら、わが庭を占拠しているではないか。「シッ、シッ」と追い払ったが、動ずる気配はない。やつらが明確な意思をもって、対峙しているのは明らかだった。そう、わが家は正体不明の猫の軍団に包囲されたのだ。「気味が悪いわ。」妻がつぶやいた。よく見ると、そのうちのボスとおぼしき一匹が、庭石の上に乗っかり、辺りを睥睨している。猫のくせにやけに堂々として、生意気なやつだ。あいつが軍団長か。目を合わせた途端「ウギャーオ」と敵意むき出しで牙をむいた。アッ、あのときの牙だ。私は、小指のズキズキ感と共に、昨日のことを思い出して、背筋が寒くなった。昨日は、秋晴れのもと「クリーン大作戦」と称した町内会あげての清掃作業が実施されたのだった。何となく気は進まなかったが、妻に背中を押されて自宅周辺の草刈りを始めた。鎌を振るってしばらくのことだった。草むらの中から「シュワーッ」という威嚇音がしたかと思う間もなく、軍手をはめた左手の小指に鈍痛が走った。驚いて草むらに目をこらすと、動物の大きな口と牙がはっきりと見てとれた。トラ模様で、やけに図体のでかい野良猫だった。ほどなく噛まれたところからズキズキとした痛みが走り、シャクではあったが、自宅に手当に走った。傷の手当を受けながら、妻に冗談半分「猫のタタリかも。」と話した。前日の朝、店の横に「トラ猫です。もらって下さい。」と書かれた段ボールが置かれたが、拾い手はなく、夕方、中の仔猫を保健所に持って行ったからだ。夜の静寂の中に「ミヤーオ」「ミャーォ」と訴えかけるような鳴き声が響く。自宅の雨水管の枡から出られなくなっている仔猫に気がついたのは、その日夜遅くのことだった。闇の中で、他に猫の気配はなかった月明かりを頼りに、枡の蓋を開けて、出られるようにと木の板を置いた。翌朝、猫の気配はなく、私は出勤した。あの大きな野良猫が突然現れ、チョコンと頭を下げるようにしてすぐに立ち去ったと妻に聞かされたのは、帰宅してすぐのことだった。
※作者付記: 初めての作品です。実際にあった出来事をもとに書いてみました。
何気ない世間話を必死で話すあまり、相手が退屈しているなんて気づきもしなかった。いつも忙しくて、会える時間が限られているから、気持ちがせっついていたのかも知れない。顔を見た瞬間からほとんど息継ぎもせずに、口から言葉がスルスルと出て行った。ダイニングバーに入った時も、出る時も会わなかった時間を埋め尽くそうと、話を積もらせた。 高い位置にある視線は何度となく重なり合い、ただ、それだけでも幸せを感じてしまう。なのに、どこか呆れた顔をされると、涙が溢れそうになった。 こんなに想っているのは自分だけなのじゃなかと、一方的なのだろうかと思わずにはいられない。長く、そして途切れ途切れの二人の時間は、二人の距離まで奪っていきそうで、怖くてたまらないのだ。どんなことを語ろうが、「あなたはどう思っているの?」という一言だけは、決して唇から離れることはなかった。 手に持ったコーヒーに映った空。その汚れた夜空の向こうに、数滴の光が輝いている。けれど、今見えている光は幻なのかもしれない。ただ、まだそこに在る様な虚像を見ているだけで、本当はもうとっくに無くなっているかも知れない。冷たい風に吹かれる度、現実に引き戻される。 手を繋ごうと思えば、届く距離。だけど、心はどこかずっと遠くの方にある。空を掴むような恋愛に、自信を失くしてしまったといえば簡単で。あっけなく、この手さえ離してしまえば、すぐに済んでしまう。しかし、そんなことをできるほど、安っぽい感情は持ち合わせていない。沈むように重くて強い気持ちが、この身を雁字搦めしてるからこそ、悩まずにはいられない。悲しみを連ねるように、眉間に皺を刻む。 静かな沈黙の中、ふっと煙のような鼻歌が漂った。たどたどしいメロディー。だけど、耳をくすぐる鼻歌はどこか温かくて、思わず微笑んでしまう。それに、彼は「何、笑っているの?」と不思議そうな顔をした。 あぁ、そうか。あぁ、なんてくだらない。束の間でもいい、あなたの傍にいたい。今はそれでいいじゃない。これ以上望んでも、仕方がない。鼻歌一つで、私の不安は掻き消されてしまう。あなたが原因なら、あなたに解決してもらおう。紙コップを握りつぶした。 彼の腕に手を掴んで、押しながら歩き出す。「どこへ行くんだよ?」「このずっと、ずっと先よ。」 私の言葉に、彼は「え?」と聞き返すけど、笑って誤魔化してやった。光は、あると信じて。
※作者付記: 二人のうち、彼女の密かな不安話。恋愛(距離)は、時間には奪わせたくないって事です。
涙が流れそうになって、瞬きをやめた。見つめた画面の先には白い紙が映るだけで、誰もいない。こうして書き記しているうちに、埋まっていく虫の会合みたいな羅列は、絵で言えば一滴ずつ絵の具をキャンパスに落としてゆくのと同じで、出来上がった時に見直した時に初めて色や形が見える。書いている途中には何も無い。こうして書き綴る中で、結果として彼になれば良い。白い紙の上に彼を書くのがどれだけ難しい事か。彼の髪の色も、その肌の色も、その姿、形。それ以上にその動き。表情から見る感情さえ記すことが真似になる世の中だという事。なんてうざったい常識を持ち合わせているのであろう、自分は。私の周りには赤いCDと、緑で統一されたベッドと、マフラー、エアコンのリモコン、抱き枕にする人形。彼の姿は勿論無いわけで、私が触れるのは柔らかくも固くもない、パソコンのキーボードだけだ。想像だけはよくする。この背中に掛けた布団が、いつの間にか人の体温を持つような錯覚は、どこの誰でも経験している事なのだから、私はただそれが、「人の体温を持った」という切り抜きの表現をしたいだけ。その体温は間違いなく布団の所持物になるのだから。自分以外を置きたいだけだ。表現出来なくても知っている事実は書き記す必要は無い。もしかしたら、姿形や仕草や感情もそれに属するのだから、常識は表記を法でくくるのかもしれない。私は触れた事の無い彼の肌の感触を勝手に作り上げる。無意識という固執の証明の中で、彼は私を抱きしめた。背に回った腕は筋がとおり、頬に押し付けられた胸板は綿の薄いシャツ越しに、暖かくて、広い。鼓動が聞こえた気もした。彼が私の名を呼ぶ声も聞いた。自分の友人を呼ぶように私の名を普通に呼んだ。その首筋に触れると、自分のものと変わらぬ肌の感触もしたし、温もりもあった。皮膚は乾いてるわけでもなく、ひび割れも無く、緩んで垂れている事もなかった。指を這わせると、ベタつくわけでもなく、滑らせる事が出来る。触れた髪は少し固めで、短く刈られた襟足はブラシかなにかのように弾力があってこそばゆい。フワフワと優しく手の平で毛先に触れると、チクチクとした。手をつなぐと一皮ぐらい手の皮は厚くて、節くれだってゴツゴツとした手。指が長く指を組む様に手を握ると私の手の甲の半分は覆った。気が済んだら目を閉じる。目を開けたら起き上がって、起き上がったらそれは夢になるだけ。
メリーゴーランドに乗りたくなった。 強化プラスチック製人造馬の固く冷たい手触りを持ち、上下に動きながら回転するという、本来乗り物が打ち消す方向で進化している筈の、空想科学読本辺りに分析させれば、恐らく脳が崩れて五分で死ぬとか計算されそうな動きをする、回転とか木馬とかちょっとエロっぽい語句でも表現されるあのメリーゴーランドに乗ってみたくなった。 しかしそれは、まったくもって叶えられない妄想だ。 実際には乗りに行く訳がない。 妙な話だ。 メリーゴーランドに乗る、こんな簡単な事が、どうして出来ないのだろう。 本当はあまり乗りたくないという事もあるが、しかし、それがどうしたというのだ。 世の中に、メリーゴーランドに乗るよりも嫌な事は山ほどあり、それを人は結構やっているではないか。 金がないのか? そんな事はない。 自分の収入はワーキングプアと良い勝負には違いないが、それでも遊園地に行ってメリーゴーランドに乗るだけなら、せいぜいが三〇〇〇円だ。 独りで行くのが恥ずかしいから? それは大きい部分を占めるが、そんなものは、取材とかネタとか何とか人生のスパイスとかありとあらゆる名目で自分を切り替えればさしたる問題にはならない。 よく、「男一人で行くのは云々」「男同士で行くのは云々」というスポットがあるが、その実あまり他人は気にしていないし、気にしたとしてもその気にした人間と再び合う事などありはしないのだ。 時間がないのか? そんな事はない。人間やる気になれば、北海道日帰りツアーだって、二十四時間で韓国旅行だって出来るのだ。 しかし多分、メリーゴーランドに乗りには行かない。 思うに、人が行動する時としない時には、深く険しい谷のようなものがあるのだろう。 どんなに出来そうでも、やらない、それはもはや「やれない」と言うべき状況に達しているのではないかと思うのである。 簡単だからやってみろ、そんな風に言う人がいる。だが、やっていない時点でそれは例えようもなく難しい事なのではなか。それを解さずに要求する事は、一種の人格否定に繋がるのではないか。そして、世の中になんとそのような無法がまかり通る状況が多い事か! 人類の進歩と発展の為には、或いはメリーゴーランドに乗るが如き行為が必要なのかも知れない。「――井口、これは遠足の作文なのか?」「はぁ、遠足の翌日の僕の脳内を描写した作文ですが、何か?」
「ちょうだい」そう言うと我が娘は小さな可愛らしい手のひらを目いっぱい広げてきた娘は何でも欲しがる欲しがりやさんなのだ「はい」その手のひらに余るほどの大きいもみじを載せてやると娘は目を輝かせてキャーキャーと走り出したもみじを指先でくるくると回し走り回る娘に笑みを送りながら公園の中を見回す雪も降り出す様な季節に好き好んで公園まで出歩くのは感覚の鈍い爺さんぐらいのものだった鯉に餌をやる年寄りの余命を眺めていてもしょうがないので娘に視線を戻そうとするが娘が見当たらない何処まで行ったのだろうぐるりと回りを見回しても見つからないので呼んでみることに公園の外にまで行っていたら大変だ「おーい」「はーい」すぐに返事が返ってきた、よく出来た娘だ声のした方に真直ぐ向かうと草むらの影で娘はしゃがみこんでいたこちらに気付くと娘は顔を上げて振り向いた娘の胸の中には小さなダンボールと哺乳類が一匹眠たそうな顔をしていた親猫がそうするようにひょいとその猫をつまみ上げ顔を見てみるふっ、中々可愛らしいが家の娘とは比べ物にならんなそんなことを考えながら雌雄チェックなどをしていると服のすそを引っ張られたもちろん我が娘だ、物欲しそうな顔でこちらに手を広げている「ちょうだい」流石に少し渋る、生き物を飼うのは並大抵なことではないだが「ほしーの」「…いいよ」気付けば猫は娘の手の内に渡っていた娘の出す必殺技の前には数秒耐えるのが限界だった頭の中で動物は情操教育にいいんだとか言い訳が浮かんでは消えていったその間に娘は猫を抱えたまま、またキャーキャーと走り回りに行ってしまった苦笑いをかみ殺していると、ニヤリと笑ってこちらを見ている老人と目が合いとても気まずくなったなんだかいたたまれなくなってきたのでそろそろ帰ろうかと思う「おーい、そろそろ帰るぞー」「はーい」「にゃー」実に素直でよろしい『もうちょっと』とか言われたらどうしようかと思っていた、コレも猫効果だろうとてとてと娘は駆け寄ってくると「はい」と猫を突き出してきたはて、もういらないのだろうか?少し逡巡していると娘は膨れっ面で猫を抱きなおすと片手で猫を支え空いた片手を突き出してきたまた何か欲しいのかと思ったがいつもの『ちょうだい』がない「手!」「あぁ」そこまで言われてやっと気付いた猫を受け取ると片手で持ち直し空いた片手を娘とつないで帰った娘の手は抱いていた猫より暖かかった
深い紺色でできた暗闇の中、明らかにこの場を照らすには足りていない街灯が、二人が座っているベンチの周辺を照らしている。 二つのベンチ、 一つのブランコ、 一つの砂場、 一つの水飲み場、 二人の人間。 高速道路の下を刳り貫いて出来上がった空間に無理矢理作られたこの公園は、まるで深海のようだ。昼間でも陽があまり射さないのに、ましてや夜になるとこの世界は誰も居ないのではないかと思える程に静かな空間へと変わる。 光が射す事が無くなり、命は息絶え、それでも耐えうる事ができる生物だけがここには居る事を赦される。そして、その生物は外の世界、つまり浅瀬には決して出る事ができない。深海で生きる事ができる代わりに、他の世界では生きる事ができないのだ。 誰も近寄る事も出来ず暗闇でしか生きる事ができない生物だけが死までの長い時を生き続ける、そんな世界なんだと。 だからこそ僕は、僕たちはここに存在している。外の世界に耐えられなくなり、ここにやってのだ。 隣に座る彼女の水色のワンピースは赤黒いシミでとても酷いものになっていた。 ようやく、彼女は自由になったんだ。 彼女は、何も悪くない。 それなのに、世界は彼女を弾劾するだろう。 彼女を押さえつけていたのは父親だろうか、母親だろうか、それとも、彼女と関係のない第三者だろうか。 細かい事情を僕は知らない。 けれど、彼女の気持ちは分かる。 要するに彼女はその足枷を、解いてきたんだ。自分を押さえつけていた存在を、無くして来たのだろう。 それは危機回避行動であって、倫理にそった行動ではない。自分を押さえつける存在を排除しだだけで、仕方のない事だ。 それなのに、この世界はそれを罪だと言って、彼女を裁こうとするだろう。 彼女は、ただ自由を欲しただけなのに、それでも世界は間違いなく彼女を罪人だと断定するだろう。 世間は、彼女をネジが弛んでしまい、自制のきかなくなった機械のようなものとして見るだろう。 そして、その壊れてしまった部分を修理しようと施設に入れて、彼女の本能的な心理を無理矢理、洗い流してしまおうとするだろう。 僕には、どうしてもそれが耐えられなかった。彼女にどうしようもない程の親近感が湧いていた。 酸化した血で黒くなった手を握る。 彼女は、何も悪くない。 悪いのはこの外の世界だ。 深い深い海の底、 僕たちはただじっと外の世界に怯えていた。
正午。 雨が降っていた。 この時期にしては珍しいそれは、どうやら止む気がないようだった。 俺は雨が嫌いなので、ものすごく憂鬱だった。 憂鬱。 憂鬱。 憂鬱。 仕方ない、切り替えよう。 家に持ち帰った仕事を、一つずつ片付けていく。 無機質なキーボードと淡々と向き合いながら。 三時。 未だに激しく雨が降る。 家のチャイムが鳴った。 ドアを開けると案の定。 藍梨(あいり)。 白いコートに身を包み、「来ちゃった」と笑う。 家の鍵を渡していなくて良かったと最近思う。 ナニをしているときに突然入って来られたら困る。 付き合い始めて早くも1年が経とうとしている。 彼女は俺よりも2歳年下で、年相応に可愛い。 とりあえずあがってもらうが、俺は仕事の途中だったので、彼女を半ば無視する形で再開する。 数分はソファでじっとしていたが、飽きたらしく、冷蔵庫や戸棚の中をがさごそと物色する藍梨。 お前はお預けを食らった猫か。 頬に熱い感触が来たと思った瞬間、首をそちらへ回すと、いたずら好きの子供の顔でこちらを見ている。 両手に温かい紅茶のマグカップを持って。 ちょうど咽喉が渇いていたので、俺は有難く受け取った。 五時。 いつの間にかあの憂鬱な土砂降りは止んだようだ。 窓から茜色の空が見え、思わず目を細める。 藍梨が外へ出ようとしていたので、慌てて玄関へ向かう。 どうやら、近くの公園で夕焼けをのんびり眺めようと思ったらしい。 せっかく玄関まで来たので、靴箱の上に放ってあった黒いコートを羽織り、俺も行くことにした。 ドアの鍵を閉める。 ジーンズのポケットにしまおうとすると、彼女は俺の右手を止めた。 そしてにやりと口の端を上げ、鍵を奪い、自分のバッグにしまい込む。 ……そろそろ潮時か。 これから彼女には俺のいろいろな顔を見せることになるな、と少し不安になったが、たぶん大丈夫だろうという当てのない確信をする。 夕焼けは案の定綺麗だった。 おまけに、細いが、虹も出ていた。 藍梨は無邪気にはしゃぐ。 白い息を吐きながら、公園を通る数人の子供達と一緒に、虹の色を数えている。 突然彼女は不安気な顔を俺に向けた。 しかしそれも一瞬、微笑み直し、「帰ろっ」と言う。 帰るところは……俺の家? もう沈もうとする太陽に後押しされて、俺達は手を繋ぎ、歩いた。