殺すんだ殺すんだ。 雨の中、白い息が上がる。 鞘を被せたままの包丁は大きくて、手の中で何度も滑った。 泥をはね散らかして走る。墓地のほうへ。 そこに、あいつがいる。 あいつを今日こそ殺すんだ。 今日は父さんの葬式だった。 父さんはトラックの追突で死んだ。 事故だってみんな言う。 だけど違うんだ。 父さんは変わってしまった。 あいつに会って変わってしまった。 新しい黒い上着は、水を吸って重かった。 これをおれに着せたとき、叔母さんは、かわいそうにまだ小さいのに、目頭を押さえた。 あの子も、あんな女にだまされなければ、無理しなかったろうにねえ。 おれと父さんと、二人で楽しかったのに。 おれと父さんと、二人で楽しかったのに。 母さんが死んでずっと二人で、そこにあの女が現れた。 そんなのいらないのに、勝手にメシ作ったり洗濯したり、いつの間にか一緒に住んでた。 ひろも新しい母さん欲しいだろう。 父さんは聞いた。手はあの女の肩を抱いていて、答える前に嬉しそうに笑った。 ばちがあたったんだ。 ひろちゃん、あの女は優しい声で呼んだ。 よろしくね。 新しい革靴で、踵がこすれて痛かった。きっと皮がべろりと剥けている。 草ぼうぼうの墓地に入った。 どこもかしこもびしょびしょだ。 奥のほう、ぴかぴかの、父さんのための石。 その前に、傘もささずに立っている。 あの女が立っている。 こっちを見た。 口が動いて、ひろちゃん、おれの名前を呼んだのがわかった。 家目当てとかのっとりとか。 陰口なんて気にするな。あの女が泣くたび、父さんは背中を優しくさすった。 俺は、お前たちのために頑張るから。 上着の下の包丁を握り締めた。 水たまりに構わず、あの女はふらふらこっちに歩いてくる。真黒い服の端から水が滴っている。 ばちがあたったんだ。 おいしい弁当とか、怪我の手当てとか。 怖い夢を見たときに、一緒に眠ってくれることとか。 いつもいい匂いがすることとか。 好きになっちゃ、いけなかったのに。 地面を踏みしめ、あの女を見上げた。 あの女はおれの前にしゃがんだ。 そうしてびしょびしょの冷たい腕で、ためらいなくおれを抱きしめた。 濡れた腕の中で、包丁の柄を強く握った。 涙が出た。 ほっぺたの上で、冷たい雨に、温かい涙が混じった。 母さん。 初めて呼んだ。声がかすれた。 包丁を放して、抱きついた。 一緒に泣いた。
私は今、人生の重大な選択を強いられている。 その選択がどっちに転んでも私にとってプラスになるのであれば、私は大いに喜んで選択しただろう。 しかし、今回は違う。 どちらに転んでも私にはマイナスにしかならないのだ・・・ 会社はどうして私を選んだのだろうか? 同期と比較してみても、とりわけ目立つことはなかった。 ただ、大きな失敗をしたということもない。 どんなに悪くても真ん中ぐらいの位置には常にいた。 そんな私がナゼ・・・ 私は全ての責任を押し付けられようとしている。 そんな私に与えられた選択肢は2つ。 「退職」か「闘う」かである。 この選択を迫られるようになってからは、周りの反応もいささか冷たくなったように感じる。 私を見る目はもうすでに会社の一員を見る目ではない。 これも会社の差し金なのだろうか? 初めは「退職」でもいいと思っていた頃もあった。 今回のことについては、多少なりとも私にも責任はあるし、ちょうど会社にも嫌気が差していた頃だったからだ。 しかし、家のことを考えれば簡単に辞めるというわけにもいかない。 こんなご時勢に転職なんて簡単に口に出せれど、実行するのはなかなか難しいからだ。 「じゃあ・・・どうする?」 一人で悩んでいたときであった。 周りは誰も相談にも乗ってくれず、妻に言うわけにもいかない。 そんな孤独な環境が私をあんな行動をとらせたのかもしれない・・・ 私は一人の占い師に出会ったのだ。 決して占って欲しかったわけではなかった。 ただ、話相手が欲しかっただけかもしれない。 そして、何より私がこの占い師に引き付けられたのはあの一言。 「闘いなさい」 たったそれだけだった。 でも、私にとっては人生で初めて言われた言葉でもあった。 そして、この言葉によって私の「退職」だけだった選択肢に、新たに「闘う」が加わったのだ。 私の人生からすれば信じられない選択肢であった。 悔しかったわけでも、許せないわけでもなかった。 ただ、闘うということを避けていた私の本能にあの占い師が火をつけたのだ。 先日、もう一度会おうと占い師を訪れたがもうそこにはあの姿はなかった。 しかし、私は闘うだろう。 どうせ初めから一人なのだ。 他の誰かと助け合いながら生きていくのが人生ならば、一人で何かと闘うのもまた一つの人生だと私は思う。 多くの人は言うだろう。 「バカだと」 けれど、闘うことに期待感さえ感じ始めている私を止めることは出来ない。 今、歯車はゆっくりと動き出した。
「昌一郎、ご飯できたで」母親が部屋に突然入ってきた。その時昌一郎は部屋で荷造りの途中であった。ノックをせずに入ってくる母親に昌一郎は嫌な態度を見せつつ、リビングに向かった。食卓の中央にはたこ焼き器が置いてあり、父親が竹串でたこ焼きを焼いていた。晩御飯になんでたこ焼きやねん。昌一郎は不快感を覚えながらも椅子に座った。「明日から一人暮らしやね。しっかりするんやで」母親は父親にビールを注ぎながら言った。昌一郎は何も言わず頷いた。いつからであろう。両親のことを毛嫌いするようになったのは。でもそれも今日で終わり、明日からは親元を離れ大学生として一人暮らしするのだ。昌一郎は黙々と焼かれたたこ焼きを食べた。「昌一郎、たこ焼き食べにいつでも戻ってこい」突然父親が勇気を振り絞ったかのような声で言った。昌一郎は一瞬驚き、普段は目も合わすのが嫌な父親の目も見た。父親の目は何かを訴えたそうであった。明日からは住み慣れた関西を離れ、見ず知らずの土地で一人生活するのだ。たこ焼きと父親の言葉がその現実を昌一郎に強烈に理解させた。そしてその瞬間忘れていた両親の愛情を自然と受け入れた感じがした。
ある女子大生は終電を取逃がし微妙な関係の男の子に連絡をするかどうか迷っている。 ある少女は怖い夢を見てママとパパの部屋へ急ぐ。 あるコンビニ店員は床を掃除しながら外国に行くならお金が幾らいるのかと漠然と考えている。 ある居酒屋店員は新しいバイトの女の子をどうやって口説こうかと思案している。 ある路上ミュージシャンはギターケースにあと300円入ったらコーヒーを買いにいこうと次の曲を選ぶ。 あるサラリーマンは週一の休みを寝て過ごしてしまった事を少し後悔しながらちょっとだけゲームをする。 ある少年は目が覚めて宇宙の端の事や死の事を考えて眠れなくなる。 ある苦学生はコインランドリーで元カノの体を思い出して少し勃起する。 あるOLはグースカ寝る彼氏を横目でみながら部屋を片付けてあげている。ついでに朝ご飯も作っておいてあげるつもりだ。 ある女子高生は先輩に誘われて初めてのお酒と初めてのキスを体験する。 ある塾講師はテストの採点の事をすっかり忘れて市川昆監督の金田一シリーズを初めから見ている。そして次の日怒られる。 ある古本屋店員は本に押し潰される夢を見ている。その胸には愛フェレットが寝そべっている。 ある愛玩動物はご主人の胸の上で鼻をヒクヒクさせていい夢を見ている。 あるマジシャンは新しいマジックを5歳の息子を無理矢理起こして披露する。そして嫁に怒られる。 ある泥棒は引き出しを下から順に開けている。 ある警備員は「おばけなんてなーいさっ♪」と急に歌いパートナーのウケを取る。 ある郵便屋さんはもう寝ている。 ある魚屋さんももう寝ている。 ある飼い犬はご主人が駅に着いたのを察知してウキウキ玄関へ迎えに行く。 あるインテリアデザイナーは「人の家の事なんて知るかーっ」と荒れている。 あるマッサージ師も「人の凝りの事なんて知るかーっ」と荒れている。 あるタクシー運転手は客に怖い話をして喜んでいる。 ある映画館館長はお気に入りのフィルムをこっそりかけて観ている。 ある受験生は息抜きに飼い猫と遊ぶ。 ある飼い猫は飼い主と遊んだせいで集会に遅れ、皆から猫パンチをくらう。 ある芸人は最高のギャグを思い付くが勢い余って立ち上がった瞬間忘れてしまって本気で泣く。 ある団地では子供達の秘密結社が夜の闇に紛れて行動を開始する。 ある動物園では動物達の静かなざわめきが響いている。 ある小説家を夢見るフリーターはある夜の出来事を妄想する。 ナイト‐グッドナイト
※作者付記:市川昆監督のご冥福をお祈りいたします。
まさかひとくい人種に捕まるとは思わなかった。 連中は、○○星の××地域に存在する、法律的に我らと同等の権利を持つべきであると規定されている生き物のうちの、一部族だ。 彼らは、文明の発達の仕方が歪んでいるせいか、客人を地面に埋めてもてなす事を至上の喜びとしている。 誰が付けたか、人杭人種。 ひとくい人種は、わたしを土に掘られた穴の中に置き、次々に土をかけはじめた。 うぷっ、顔にかかってる顔に! 言ってみても、翻訳装置を装備していない彼らはどこ吹く風、正しく話にならない。 我々よりもずっと大きな身体をしているせいか、その感覚器はお粗末で、翻訳装置なしに我らの声を聞く事が出来ない。加えて動きが非常に素早く、何かを訴える前によそへ行ってしまう。 たちまち身体の八割方が土の中に埋められてしまった。 ひとくい人種が食事を持って来た。 友好的には違いないが、意思疎通の意図がないため、翻訳装置が読解不能のサインを出すばかり。 まあ、悪意がないならそれほど怖れる事もないのだが。 話し合いは難しそうなので、地力で脱出を試みる事にする。 身体の大半を土に埋められ、身動きもほとんど取れないのを、少しづつ動かして土を弛める。 よし、これで、うん、何とか。 あっ、またひとくい人種が! と……また、埋められてしまった。 次こそっ、よっ、とっ、はっ! あ。 またか。 何しろ連中、動きが素早すぎるのだ。 やはり、きちんと話し合うしかないのだろうか。だが、良かれと思ってやっている事を止めさせるのは困難だ。 例えば、おかずのお裾分け、絵画のプレゼント、演奏会のチケット。善意には違いない、しかし、迷惑極まりない。 食事と飲み物を出される。 まずくはないが、しかし、そういう問題ではない。 土に埋め、自由を奪うのが人をもてなす態度かと、非常に腹立たしくなって来るが、文化の違いと理解し、我慢するしかないか。 星を隔てると習慣が違う。習慣が違う事が気に入らなければ、じっくり時間をかけて知らせるしかない。このせっかちなひとくい人種がそれを待ってくれるかどうか、甚だ疑問ではあるのだが、大きな心で挑むしかない。 「――ヤンさん、何かおかしいと思ったら、これ違うよ、第十八星系の植物性人類だよ」 「あちゃー、そうでしたか? こりゃ失敗。てっきり高麗人参だとばかり」 「かなり怒ってそうだよ」 「あー、まあ、歓迎の印だった、とか何とか言い訳しとくよ。先人に倣って」
僕には夢がある。自ら手放してしまった夢。そう、その夢は、もう明日には覚めてしまう。 中学2年生の頃、僕は、同じクラスになった村上廣美に一目で恋に落ちた。なぜか運命を感じた。気づけば、いつも彼女の事を目で追い、いつも彼女の事を考えていた。 ある時、クラス中に、僕が村上を好きなのだという噂が流れた。僕は意地を張り、必死にそれを否定した。噂のせいで、村上を想う素直な気持ちが、汚されたような気がした。 それからしばらく経った、ある日の放課後。図書室に続く廊下に、村上が立っているのが見えた。彼女は、僕に気づくと、弱々しく微笑んで静かに口を開いた。 「今、帰り?」 「……あぁ、うん」 僕は照れ隠しに、ぶっきらぼうに答えた。 「一緒に……帰らない?」 「……何で」 何が、何で、だ。どうして、こんな言葉が出たのか分からない。村上が困った顔をしている。当たり前だ。僕は、村上を困らせて、どうしたいんだ。 「あの……私、田島君に、話したい事があって」 「……何?」 「あのね……。私、田島君のこと……」 村上は黙った。顔を赤らめている村上を見て、大きな期待が浮かんだが、頭の中に響く級友達の嫌な笑い声がそれをかき消した。その瞬間、僕は、村上を残して走り去っていた。 それ以来、僕は、村上を目で追う事も、話しかける事もしなくなった。どうしてこんなに周囲の目が怖いのか、気持ちと裏腹の態度を取らなければならないのか、自分に問い質しても答えは出なかった。 その知らせは、何の心の準備もしていない時に、僕の耳に届いた。村上の引越し。愚かな僕に、天罰が下ったかのように思えた。大きな衝撃だった。 その後も僕は変われなかった。意気地のない自分を呪った。後悔の日々は確実に過ぎ、そして明日、村上はこの場所を去ってしまう。たった一言でいい。村上に告げなくてはならない。本当はずっと好きだった、と。 放課後、今にも教室を去ろうとする村上の後姿を、僕は呼び止めた。 「村上!」 気がつくと、僕はベッドの上にいた。 「夢か……」 隣を見ると、彼女はぐっすり眠っている。 「廣美。時間だよ」 肩を揺すると、彼女は眠そうに起き上がった。 「ん。おはよう」 「おはよう」 「どうしたの?」 「何が?」 「嬉しそう」 「いや。すごく懐かしい夢を見たからさ」 「どんな夢?」 「ちょっとね」 僕は小さく笑った。 「おかしな人」 静かに微笑み、立ち上がった廣美の後姿が、あの日の彼女と重なって見えた。
星一つ見えない夜空を仰ぐ。 明日は晴れるだろうか。 なんて、関係ないか。今日で終わるんだから。 「……寒い」 数時間は経っただろうか。日はとうに暮れて、校舎から人の気配も消えた。このご時世、守衛が屋上に見回りにも来ないなんてどうなんだろう。まぁ、好都合だけど。寒さで固くなった腰を持ち上げ、立ち上がる。 吐息は白く、大気に溶けていく。 うんざりだ。 父がストレスからか家庭内で荒れるようになり、母はよく分からない高額の水を飲むようになった。呆れかえった私がその水を捨ててしまうと、母はあらぬ方に向けて両手で拝み、どうか娘を救って欲しいと泣き喚いた。 その母の姿を見て、私は気付いてしまった。もう世界は終わってしまったんだと。いっそ誰かを殺してから死んでやろうかとも思ったけど、死んだ後なんて何の意味も無い。 世界はあまりにも多くのもので溢れていて、いつしか私の心は曇ってしまった。 騒々しい世界の中にあって、最後はせめて安らかな夜を願う。 フェンスに足をかけ、その先の世界を見下ろす。点々とした街の灯りが、地面を支配していた。星の無い夜空よりよっぽど星空のようで笑えてくる。 寒くも無いのに、全身が震えていた。おかしいな、未練なんて何も無いはずなのに。 誰か、悲しんでくれるかな。 世界を変えるため、外へと一歩を踏み出す。 身体の力を抜いた時、ふと思った。 ―――一体、誰がこんな世界を望んだのだろう? 世界がバランスを失い、力に引き込まれる。 空へ、墜ちる。 ゴツンっ。 ……痛い。 「ははは」 すぐに現実に引き戻され、下らなくなって笑いが込み上げる。 私が落ちたのは、世界の外側。けれど、フェンスと屋上の淵の間。たった五十センチの隙間に引っかかってやんの。頭はズキズキするけど、コブができる程度で終わるだろう。 要は、死ねなかったのだ。結局、死ぬ事さえできないなんて。 「それでも生きろってか……」 分かったよ、まだ頑張るって。 なんで、こんなに必死に生きてるんだろうとか、考えてみる。 理由なんてどこにも無くて、見つからなくて、それでもいいやなんて思えたりもする。 先は長い。ゆっくり探してみるか。 一度終わらせてしまった世界。もう一度、始める事はできるのだろうか。 星一つ見えない夜空を仰ぐ。 明日は、晴れるだろうか。 畜生、地味にコブが痛いじゃないか。 あ、一つだけ、星見つけた。
煙草をふかしながら病院の中庭を歩く午後 丁度あくびが出たときだった 「ちょっと歩き煙草はやめなさいよ」 ベンチで寝むりこけていた少女が言い放った 少女は眉根を寄せてなおも目を瞑っている そこで傍にある杖と耳から垂れるイヤホンを見つけ少女が眠っていたわけではないことに気づいた 「すんません」 平謝りして少し足が疲れたことにづいた 「隣いい?」 「ご自由にどうぞ」 と言うと彼女は立ち上がった、どうやら嫌われたようだ と、そこで俺の悪戯心が顔を出す 俺は彼女の後ろをついて歩き出した が すぐに彼女は足を止めて振り返った 「見えてないと思って…ついて来ないで下さい」 どうやら足音が聞こえていたらしい 今度は十分に距離をとってついていく 病院の中に入ったのでスリッパは履かずに追いかける 見失わないようにある程度近づいたが気づかれてはないようだった 少女は個室の一つに入っていった 数秒置いて部屋をノックするとすぐに返事があった 笑い声を堪えながらドアをゆっくりと押し開くと 「馬鹿じゃないの」 開いたドアで死角になった所から突然声をかけられ悲鳴じみた声を上げてしまう 我ながら情けない 「ど、どうしてわかっ」 「声もかけずに入ってくるような知り合いはいないわ」 全部を言い切る前に彼女は一喝した 「で、何のよう? 変な用だったら人呼ぶけど」 彼女の右手にはナースコールが握られている 「いやいやいや! 決してそんな何かしようとした訳ではなくて」 「訳ではなくて?」 「だから…その…」 言い訳に四苦八苦していると 彼女の体が小刻みに揺れだした かと思うと部屋中に爆笑が響いた 「ひぃひぃ…テンパリ過ぎ…ひぃー…お腹よじれる」 そんな声出してましたか 「もー涙出たじゃない」 「知らんわ」 「自己紹介ね、私は渡辺ってネームプレートで分かるか、君は?」 「藤森だけど」 彼女は一瞬思案して呟いた 「じゃワトソンね」 「ってワトソン?」 「渡辺の友達そのいくつだったかの略」 名前意味ねぇ 「いつから俺はお前の友達になったんだ?」 「下僕のがいい?」 といってナースコールをちらつかせる渡辺 「ワトソンでお願いします」 どうせ見えないので頭は下げないでおいた 「ちゃんと頭下げてほしいなぁ」 「へ? あれ? なんで?」 彼女は笑顔たっぷりで俺に言った 「見えないなんて言ってないよ」 口をあんぐりとあけた俺はポツリと漏らした 「盲目なのは俺の方?」 助手か下僕か知らないがこの先彼女の手足にされるのは目が見えなくても分かった
ずっと昔から言われ続けてきたように地球最後の日はちゃんとやってきた。その時を迎えるまでの時間も僅かだが与えられた。 最初にその兆しを発見したのがもう誰かは正確にはわからない。星々の輝きに魅せられて夜空を見上げたその先に、地球に近づく美しい尾を引く彗星があっただけのことだ。 様々な機関が計測と予測の結果でた答えは実に簡単なものだった。まだこの小さな星から赤子の散歩程度にしか外へ出ることの出来ない人類にとって、地球が消滅するという答えの意味は実に簡単だ。 残された時間はわずか。もうすぐ彗星が衝突する。これは本当にどうしようもないことだ。逃れることの出来ない運命でもそれでも人々は必死に逃れようとする。シェルターを掘ってみたり、彗星にありったけのミサイルを撃ってみたり、神のみわざに縋ってみたりと色々と試せるだけのことをした。しかしそれらの手段は何の効果もあげることはなく、彗星の進路は変わらない。 終わりが近づく地球では、それぞれがそれぞれに残された時間を生き、そしてこれからもずっとそれが永遠であるとことを望んだ。そう、いつだって永遠は望まれる。 彗星表面の氷が溶け、青白くキラキラとした尾が伸びている。地球、それが彗星の遥か遠く外宇宙からの旅の終着点だ。そこには何者の意志も意図も介在してはいない。多くの物理的要素の複合物がこの悲劇の正体で、結末でもある。 見晴らしのいい丘の上のロッジで老いた夫婦が夜空を見ている。周囲の避難の懇願を断り、夏によく家族で泊まりに来たロッジにやってきた老夫婦だ。妻の入れたコーヒーを手に二人は初めてこの場所を訪れたあの夏と同じ様に夜空を見る。 夜空は青く輝いている。彗星は空全体の色彩を変えてしまった。そこにあるのは幾千幾万の色彩の渦とこの星で見る最後の光だ。 老夫婦は肩を寄り添い、静かにその時を待つ。 「いままで様々な美しいものを見て来たつもりだった。でもこの空に輝いているあの彗星の光はなんだ。人生で感じて来た多くのものを失わせる意味を持つこの光はなんと美しいのだろう。最後に見る景色がこんなにも美しいということはきっとそれはとても幸せなことだろうね」 その日、地球は最後を迎えた。 衝突の際の閃光は星々の輝きに更なる輝きを与え、遠く別の星で夜空の輝きに見せられた何者かに感動の一片を与えた。 その者は言う。 「嗚呼、なんて美しい星々の輝きだろう」