朝目覚めると、毛布と同じくらいの特大サイズの紙が乗っていた。 『おまえを殺す』 記された真っ赤な文字。たったこれだけの言葉を読み取ったその瞬間、僕の頭は冴え渡り、全身、悪寒が走った。 僕は、しきりに辺りを窺った。僕のベッドの上に紙を置いたという事は、確実にその脅迫状の主は、部屋の中に侵入しているのだ。部屋を見回すと、一目でその異変に気づいた。窓が、ほぼ全面、無残に割られている。 「……」 ここから侵入したという事は、完全に間違いなさそうだ。しかしながら、これほどまで豪快に窓を破られていながら、ぐっすりと眠りこけていた自分の鈍感さに、ほとほと呆れてしまう。って、今は、それどころではない。 僕は、台所まで駆け出すと、包丁を手に取った。みすみす殺されてたまるか。洗面所の前を通り過ぎたその時、鏡に映った自分を目の端にとらえた。なんと、僕の両頬が赤く腫れ上がっている。 「痛ててて……」 不思議なもので、それまで何ともなかったのに、傷を負っていると分かった瞬間、痛み出すのである。病は気から、とは、まさにその通りだな。って、今は、それどころではない。 犯人の奴は、寝ている僕の頬を袋叩きにしたのだ。無抵抗な人間に手を上げるなんて。それにしても、往復ビンタされても目覚めない僕って、どれだけ鈍感なんだ。って、今は、それどころではない。僕は本来の目的を思い出し、勢い良く、外へ飛び出した。 そこには、今まさに包丁を振り下ろさんとする男と、地面に蹲って震えている老婆の姿があった。 「そこまでだ!!」 僕は、男の腕をねじ上げた。男は、抵抗もせずに泣き崩れた。 「……ありがとうございます」 「え?」 「本当は……。誰かに止めてもらいたかったんです」 「……」 「あなた、何しても起きないから……」 「あ……」 「でも、こうしてあなたは間に合った」 「そ、そうですね」 男は謝罪すると、素直に連行された。 「オマヱさん」 僕は、未だに怯えている老婆、武田オマヱさんに呼びかけた。 「もう大丈夫ですよ」 「感謝しています。助けてくださって」 まさに危機一髪だった。間に合わなかったら、僕は自分の鈍感さを呪っていただろう。 「是非、お礼がしたいので、今度、お茶でも」 「いえいえ。気を遣わずに」 「そんな事言わずに、ね?」 「じゃあ、お言葉に甘えて」 この時、僕は気づくべきだった。妙に色気じみて、恍惚とした老婆の表情に。僕は自分の鈍感さを呪った。
舞い散る桜の花びらがキレイだった。 彼女の髪を揺らす風も 暖かくなってきた日差しも おとぎの国みたいだ。 他愛もない話をして笑い合う二人。 繋いだ手から伝わる彼女の体温。 揺れる髪から覗く微笑。 心がお腹いっぱいで温かくなって 桜色の絨毯を二人で歩いてく。 白い砂浜を二人裸足で歩く。 足が熱いと言う彼女。 その顔は嬉しそう。 眩しく照らす太陽みたいで 心の気温も上がってく。 日が沈んで星が煌く頃。 二人海岸で花火。 打ち寄せる波の音。 花火で見える君の笑顔。 見上げる星の煌きのようで 心に満天輝いていて。 不安定な白のキャンバス 二人の足跡を描いてく。 木漏れ日が降り注ぐ。 変わっていく葉っぱの色。 彼女は好きな色を楽しげに話してく。 繋がる二人の腕に落ち葉一つ。 落ち葉を拾いくるくる回す彼女。 子供っぽい彼女の顔。 寄り添ってくる彼女。 心の距離も近くなり 紅葉みたいな顔になって 茶色の楽器を二人で鳴らし歩いてく。 吐き出す息が白く儚い。 街のイルミネーションが彼女を照らす。 彼女の頬は寒さで少し赤くなってて 雪を待ってる彼女の微笑には良く似合ってる。 いつもより重なって寄り添う二人。 伝わる体温と鼓動が一つになったかのようで。 不意に降る雪。 見つめる彼女。 心が締め付けられる。 それは不快ではなくて ずっと感じていたいと思った。 抱きしめた彼女も同じだといい。 言葉に出さず白い世界が二人を包んでく。 どこにでもある話。 ありふれていて 特別ではない。 けれど特別な話。 二人の物語。
「智紀、お年玉幾ら貰った?」 親戚一家が帰った後、佐々木響子がコタツに入りつつ尋ねる。 「えーとね、これだけ」 智紀はポチ袋を見せる。 「じゃあ、これだけ預かるわね」 響子は紙幣を何枚か抜き取る。 「えー! ぜんぶつかいたいよ」 「だーめ。智紀に渡すと全部無駄遣いしちゃうんだから。本当に必要になった時まで貯金しておいてあげるから」 「うーん……」 智紀は少し考え込みつつ、残ったポチ袋の中身を見る。まだ何枚が紙幣は入っていた。 「わかった」 その翌年。 「智紀、お年玉」 親戚が帰った後、響子が手を出す。 「はい」 智紀はポチ袋を渡す。 「あら、これだけなの? もう千円出しなさい」 「ええっ?」 「安心なさい、本当に大事な時になったら、きちんと貯金おろしてあげるから!」 「……はあい」 智紀は自分の財布から、紙幣を取り出し、響子に手渡した。 更に翌年。 「智紀、お金出して」 響子が声をかける。 「いや、お母さん、今年、お婆ちゃんが死んじゃったから、お年玉とか全然ないよね?」 智紀はみかんをむきながら言う。 「正月に親にお金を渡すのは当たり前でしょう?」 「ええっ? お年玉を貯金するって事で」 「そりゃ貯金してるわよ、なんかあったらあげるわよ。でも、今は出しなさい」 「……本当にオレにくれるの?」 「貯金を渡さないなんて誰が言ったの!」 「言っては、いないけど」 「大体、正月にお金を渡すのは、あなたの為じゃなくて、私の為でしょう。助け合いの精神よ。自分一人が良ければ良いなんて、そんな自分勝手な子に育てた覚えはないわ」 更に次の年。 響子が智紀のバッグを開けて、財布を出す。 「ちょっ、お母さん!」 智紀は響子から財布を取り返す。 「何よ、払わないの? 最低でも二十五年は支払わないと、貯金返さないわよ。そうなったら、今まで私に預けたお金、パアよ。自己責任なんだから、その時になって泣いても知らないわよ。ご近所に親不孝者、親不孝三兄弟だって言いふらすわよ!」 「わか……分かったよ、払うよ」 もっと次の年。 「お母さん、給食費支払ってって、先生が」 おずおずと智紀が切り出す。 「余分なお金払う余裕ないのよ」 響子はコタツにあたりながら、寝転がっている。 「だったらほら、お年玉貯金、あれから出してよ」 「そんなもん、貰った覚えないわよ」 家計簿を開いて、響子は智紀に突き付ける。 「ほら、あんたからお金貰ったなんて、どこにも書いてないでしょ」 「だってちゃんと覚えてるし」 「分かったわよ、お年玉貯金っていう名目でお金が欲しいなら、お金渡しなさい、そのお金の一部で通帳作って恵んであげるから」 響子は背を向けると、大きな屁を一つした。
『RETURN POINT』 でかでかと黄色い文字で木製の看板に書かれた標識 下には 後半分です。ガンバレ! と書かれている 長い長い道を走ってきて見えたそこは折り返しだった やっと半分まで来た その気の緩みがいけなかった 足が止まってしまった 伸びきった足は棒のように自由が利かず不安定に思えた 少しでも安定を増すため両方のひざに手を突いて俯く 安心して目を閉じると早鐘のように胸を打つ鼓動といつまでたっても収まらない荒い息が頭にまで響く 騒がしい外野の音だけでふらついてしまう 俺はこんな所で何をやっているんだろう? そんな疑問が頭をよぎる 空の高い所では鳥が鳴いている ビィーンと糸が伸びきったような感覚が頭中を駆け巡る まるで俺を絡めとろうとするクモの巣の様だ 体の節々がじくじくと痛い、痛く感じる 頭のどこかで誰かが囁く声がする 『君は十分がんばったじゃないか』 別の誰かが言った 『これからまたあの道を走るのか?』 また別の誰かが呟いた 『今からじゃとてもトップになんて立てないぞ?』 はぁはぁはぁ… 騒がしい周りの喧騒の中で自分の呼吸音だけがやたらはっきり聞こえる たとえこのままつぶれても誰も文句なんて言わないだろう セイゼイ潰れた俺自身が笑われるくらいだ、だったら… 体がぐらつく 倒れてしまえ倒れてしまえ倒れてしまえ 耳元でそんな声が聞こえる… 「ガンバレ!」 耳にハッキリと聞こえたその声にハッとして顔を上げる 何処から聞こえたのか解らなかった 幻聴かもしれないし、もしかしたら俺に対してじゃなかったのかもしれない けれど確かに聞こえて確かに俺は顔を上げられた 釣鐘のように重く感じていたというのに 視界は黒いだけのアスファルトから看板の文字のアップに切り替った 目の前にはいっぱいの… さっきと同じ言葉が頭に浮かんだ 俺はこんな所で何をやっているんだろう? ひざにあった手を握り開きしてみる、感覚がある、痛くない 絡まる糸で一番細い糸が一本切れた気がする もう頑張れないのか? いや、まだまだ頑張れる、頑張り足りない またあの道をたどるだけじゃないか 一度来れたんだ、何度だって行ける筈だ、行けないはずがない トップになれない? そんなこと誰が決めた? いつ決めた? ふざけるな、なってみせるさ、やってみせるさ 次々と絡まる糸は千切れ、終には全て引きちぎれた 気付けば足が動いていた 後どれくらいあるかなんて忘れてしまったがとにかく前へ前へと体が動く まだまだ勝負はこれからだ!
「別にいいよ。あんたよりもいい男、捕まえてやるんだから」 6年間も片思いしていた初恋の相手にフラれた時、言ってやったセリフだ。 このセリフを口から吐き出して、片思いと同じ6年が過ぎたけれど、未だ私は恋人もいない。 全くモテないわけじゃない。そこそこ告白だってされる。 でも、思ってしまうのだ。 この男では、初恋のあの男に勝らない!! 交際を断った後で気づく。「何が?」 いったい何処が劣っているのか。容姿?性格?頭の良さ? あの男って、そんなにいい男だったっけ? ついついため息が出てしまう。 「はぁぁ」 「すいません。長くて」 「あ、いえ、ごめんなさい。そんなつもりでは…」 しまった。また一人で答えの出ない思考にトリップしていた。 PCを設定してくれているお兄さんが愛想笑いをする。 PCを新調したのはいいのだけれど、何だかんだと設定が自分で出来なくて、業者の人に設定しに来てもらったのだ。 お兄さんはPC画面を「もう飽きた」って顔をしながらマウスをカチカチと鳴らす。 私たちの会話はそれだけで途切れた。 初恋の男ってどんな顔だったっけ。 私は必死に考える。 顔…は思い出せないけど。確か、鬼ごっこしてる時、一緒に二階の窓から飛び降りて、アイツだけ骨を折ったんだ。馬鹿なヤツ。 そうだ、何か変な癖もあったな。唇ペロっと舐める癖。あれ、止めればいいのに。 アイツがいっつも鞄に付けてた恐竜のキーホルダー、あれ私があげたんだよな。 何で上手くいかなかったんだろう。 あんなに「好き」だと、恋に舞い上がっていたのに。今ではその「好き」は幻のように、虚ろに心の中を泳いでいる。まるで夢の中の出来事だったみたいだ。 「好き」自体が、何なのか解らなくなっている。 まるで、蜃気楼みたいに、幽霊みたいに、はたまた虹のように、夢のように、実体が無い。 ふと、業者のお兄さんが私を見ていることに気づいた。 私が視線を上げると、パッと目を逸らした。 私は何だか楽しくなった。 「終わりました?」 「あの… もう少しです」 バツが悪そうにPC画面に顔を向ける。その眉の形が可愛い。 ふっと足に目をやると、形の良い足首がズボンの裾から覗いていた。 あぁ、綺麗な踝だなぁ。 そう思うのとほぼ同時に、お兄さんは話し掛けてきた。 「あの、一人暮らしです? ご出身は、何処です?」 他愛の無い会話。 これって現実ね。フワフワしていない。これって恋になるかしら? まぁ、いいわ。 踝が初恋の男よりも魅力的だもの。