同寮の西谷くんは身長がとても低い。 僕も背が高い方ではないが、西谷くんの顔がちょうど僕の肩辺りにくるものだから、悪気はないのに急に振り向いたときに肘打ちを見舞ってしまうことが何度かあった。 おかげで僕と西谷くんの間には、常に微妙な距離感が保たれているのだが、その距離が少しだけ縮まるのは、たいてい色恋に纏わる話をするときだ。 そんな西谷くんが、最近気になっているのが事務の麻実さんだというのを聞いたときは買ったばかりの缶コーヒーを落としそうになった。 身長は辛うじて同じぐらいではあるが、麻実さんは年上の僕らに対しても気兼ねなくはっきり言う女性である。おかげで事務所の緊迫感が保たれていると上司から聞いたことがあるぐらいだ。 確かに美人ではあるけれど、僕は苦手なタイプなこともあって麻実さんが話題にのぼることはまずないと思っていたので、西谷くんがすでに麻実さんの家族構成から好きなお笑い芸人までリサーチ済みとは意外だった。 西谷くんは小さいだけあってたまに驚くほど俊敏な動きを見せるときがある。まさか日曜日にデートをすることまで決まっていたとは、口に含んだコーヒーを少なめにしておいて助かった。 こんなところまで動きが早いとは今まで西谷くんをみくびっていたようだ。何よりあの麻実さんが西谷くんの誘いを承諾して、しかも休日を一日空けてまでデートするなんて、これはもしかすると西谷くんが素人童貞(デリヴァリーヘルスはよく利用するらしい)を捨てる可能性だってあるかもしれない。 僕の方が俄然盛り上がってしまったのだが、これからというときに休憩時間終了のチャイムが鳴ってしまう。 こんなチャンスは滅多にない。いやもう訪れないかもしれない。ただ相手が麻実さんとなると一筋縄ではいかないだろう。仕事中も西谷くんへどうアドバイスすべきかばかり考えていたのに、残業が終わるとすでに西谷くんは退勤したあとだった。 月曜日、いつものように古臭いイージーリスニングが流れる中、足早に先を急ぐ人の波に押し流されていた。 安全掲示板を左に曲がると人波は途切れ、後ろから人が近付いてくる気配を感じた。名前を呼ばれていつものように振り返ると、肘に何か硬いものが当たる感触が......。 またやってしまったようだ。そこには左頬を押さえて、しかめっ面をしている西谷くんがいたのだが、その表情は次第にはにかんだ笑顔に変わっていくのだった。
彼女と二人でお茶をするのはもう何回目になるだろう ごく自然な手付きでコーヒーを差し出すと彼女は無言のまま砂糖入れに手を伸ばした メーカーを脇に寄せて彼女がせかせかとスプーンを回すのを眺める 彼女も私も使わないのだが置物として置いてあるミルクポットに何気なく目をやる 曇り一つ無い鏡面に反射して彼女の顔が歪んで見える 思わず笑いそうになって顔を戻すと彼女に睨まれていた 「ゴメンナサイ…」 不可抗力にもほどがあると思う 目線だけで僕を叱りつけた事に満足したのか 彼女はふんっと一息ついてコーヒーをすすり始めた 彼女は普通に飲もうとしているが 僕は知っている 彼女が先週あたりから体重を気にして入れる砂糖を二粒ほど減らしたことを 見る間にしわが出来るほど彼女の眉根が寄っていく コーヒーを飲むのを一時中断し、噴出すのをこらえることに専念した 「何がそんなにおかしいの」 「いやいや、何でもありませんよ」 彼女は納得いかないという顔をしながらまたコーヒーをすする 苦さに慣れてきたのか眉間のしわも解かれていた 苦いならミルクでも入れればいいのに 「コーヒーはミルクが入ってもコーヒーなの」 やば、声出てたか? 「でも、それが人なら、私なら、私は何かが混ざっても私なのかしら…」 「混ざる?」 彼女はそこで一口コーヒーを口につけるとその中身に視線を落とした 恐らく水面に写る自分を見ているのではなかろうか 残念ながら僕には彼女が何を言いたいのか解らなかった 手はコップを掴んだまま視線をさまよわせ 彼女はミルクポットを手に取ろうか取るまいか悩んでいるようだった 僕がポットを掴むと小さく あ と声を漏らしていた ホントはブラック派なのだがと心の隅で思いながらミルクを注いでいく 「入れるも入れないも自由だろ、好きにしたらいい」 彼女はそう言う事が言いたいんじゃないと言いたげな顔をしていた 奇遇だが僕もそういう事を言いたかったわけじゃない 「あーつまりだ、青汁が美味とか、カレーが飲み物って言う奴だっているってことだ」 何となく伝わっただろうか 「コーヒーだってカフェモカだってココアだって、何になったって似たようなもんだ」 「…そうね、私もせめて美味しくなれればいいなぁ…」 話題を逸らすための突っ込み待ち発言だったが乗っかられてしまった あまり好きでないミルク入りコーヒーをすすって場を持たせたのは コーヒーを覗く彼女の顔に見惚れたわけではなく きっと返す言葉が思い浮かばなかっただけだ
昔、あるところに男が病気のおっとうと暮らしておったと。 おっとうは酒好きで陽気じゃったが、病気になってからはすっかり元気がなく、寝たきりになっておった。 男は畑仕事の他に、笠を編んだり、草鞋を編んだりして金を作り、薬を買ってはおっとうにのませておったが、良くなる様子はさっぱりなかった。 せめて好きな酒でも飲ませてやりたいと思うたが、薬を買えば金は残らん。心を痛める日々じゃった。 そんなある日。 柴刈りに出た男は、珍しい薬草か、金になる山菜でもないかと、いつもよりも山の深くに入って行ったと。 あと少し先、まだ先、もう少し先、と歩くうちにずいぶん山奥まで来てしもうて、すっかりくたびれてしまったと。 男がひと休みして、竹筒の水筒の水を飲もうとすると。 「……しもうた!」 手がすべって、水筒が落ちて、水がすっかり流れ出てしもうたと。 「草の茎でも、かじるしかないかの」 けれど、飲めないとなると、なお飲みたくなる。 男が諦めきれない様子で水筒を眺めていると。 微かに音が聞こえて来たと。 「む?」 男は音の方に進んで行く。 どんどん音は大きく、大きくなって行く。 歩いていた男も、ついに走り出し、どんどん走るうちに、木々がぱっと開けたところに出たと。 「やっぱりじゃ!」 そこには、滝があったと。 男は滝に近づこうとして、ふと足を止めたと。 滝の水が、何か変わった、えもいわれぬ匂いがするんじゃ。 「……これは、酒、じゃ」 驚いた事に、滝の水は、酒になっておった。 「これで、おっとうに酒を飲ませる事が出来る」 男が滝の水をくもうと手を伸ばすと。 男の影が滝の水に落ちた。 と。 主が出て来て、男をひとのみにしてしまったと。 次に賢い男が来て、主をどうにか倒し、酒を手には入れるんじゃが、先の男が生き返る訳でもなかったと。 そうそう旨い話はないものじゃ。 どっとはらい。