眼前には広く悠々とした海が見慣れた光景として広がっていた。 俺はゆったりとした海をきつく睨みつけている。 あと一歩が踏み出せず、俺はただ砂浜に立ち尽くした。 風が吹き、磯の香りが俺の鼻をくすぐる。あまりにも穏やか過ぎるその情景は俺の心を麻痺させ、生きているという実感を失くす。 そして、あと一歩の勇気を奪うのだ。 「夕香里。」 俺は無意識に口をついて出た言葉に激しい空虚感を覚え、脱力した。 案の定、返事は無い。 ゆっくりと後ろを振り返ってみても、殺風景な砂浜がただ広がっているだけだった。 俺は顔を前に戻し、大きく溜め息をついた後、ふと視線を下に落とした。 足首まで砂に埋もれている。このままずっとここに立ち尽くしたら、俺は砂の固まりになれるかなぁ?何億年という時間をかけ風化し、サラサラとこの砂浜に紛れてしまうのもいいかもしれない。なぁ、夕香里。 俺は馬鹿だ。しょうもねぇ妄想だよ。なぁ夕香里。俺は分かってるんだ。 無理なんだろ?そんなことあるわけねんだよな。俺ももう子供じゃねんだ。 人間は死んだら腐るんだよ。知ってるよ、その位。 だからお前は燃やされたんだろ? 俺は燃やしたくなんかなかったのに。 腐ってもいい。蛆が湧いてもいい。どんな醜い姿になってもいい。 しゃべれなくても、笑えなくても、ただ俺の傍に居てくれれば良かったのに。ただ、それだけで良かったのに。何で燃えたんだよ。何で死んだんだよ?畜生。 俺の望みはそんなにいけないものなのか?なぁ夕香里。夕香里?何で答えてくれねんだよ! 残されたのはボロボロの骨じゃねぇか。俺はそんなお前が欲しかったわけじゃない。お前が死んだ時に俺も一緒に死んだんだ。きっと。 後は肉体を滅ぼすのみ。簡単なことだよ。俺は生きてる価値も無い。 ふと見上げた空のオレンジの端に、紫が迫ってきていた。 遠く、果てなく続く空をずっと見つめていた俺は平衡感覚を失って無様に後ろに倒れた。 ドタッという間の抜けた音と共に鈍い痛みと衝撃が背中を襲う。 俺はゆっくりと瞼を閉じた。その先にあったのは先程のオレンジと、それに迫る紫だった。 「ふは、ははは……」 突如、俺の口から小さく笑いが零れた。冷たくザラザラとした砂の感触が 肌に心地いい。 俺は目を見開いて空を見つめた。段々と紫に染まってきた空に小さく、強く 星が輝き始めていた。 「はは、悪いな夕香里。俺は―」 ―ちゃんと生きてたみたいだ。
「この度、児童ポルノに抵触するという事で、十八歳未満の力士の興行への参加が全面禁止されそうな訳だが」 理事長はお茶の位置に置かれているちゃんこを食べながら、会議室に居合わせる親方達を見渡す。 「これを何とか曲げて出させる方法はないものだろうか」 「理事長」 小柄な親方が、新しい鍋をカセットコンロに載せながら挙手をする。 「良い案があるのかね、猫柳親方」 「裸に見えるのが原因なのでしょうから、服を着てみてはいかがでしょう?」 「――服を着た股間に食い込むまわしがSMプレイを連想させるとの、児童ポルノ規制推進委員会の判断が出た」 また、小柄な親方が挙手をした。 「でしたら、まわしを廃止してはどうでしょう? 腰にベルトを巻く事で、投げ技も行えます」 「――身体と身体が密着した様子が、着衣セックスを連想させるとの、児童ポルノ規制急進愛国委員会の判断だ」 小柄な親方が、カセットコンロのガスを入れ替えながら言った。 「投げ技を禁止してはどうでしょう?」 「――張り手をされる力士の様子が、レイプを想像させるとの、児童ポルノ規制驀進愛国救世委員会の判断だ」 「だったら……ええと、だったら……」 土俵に幼さの残る顔立ちの力士二人が上がり、激しくぶつかり合う。 東の力士が吊り出そうとするところを、西の力士が巧みに足を刈り転がす。 二人は絡み合うようにして土俵の外に落ちた。 行司の勝ち名乗りに、観客の歓声が上がる。 「……結局、規制は立ち消えになりましたね」 小柄な親方は呟く。 「……感情論は、世評に封殺されるもんだな」 理事長は皮肉っぽく笑って振り返り、今日は誰も座っていない貴賓席を見つめた。
「なんと言ってもさ、線の引き方が大事だと思うのね」 相も変わらず出しっぱなしなこたつの中で先輩は呟いた 彼女が突拍子も無く発言するのはいつもの事なので僕は幼児を諭すように尋ねてみた 「何の話です?」 「だから昼の話よ」 昼、昼…何かあっただろうか… ごく普通にテレビを見ながら他愛も無い話をしていただけだったと思うが 「君が言い出したんじゃない、幸せって何なのかねぇって」 そんな重い話をしただろうか 確か僕は宝くじのCMにこういうの当たる人ってよっぽどついてるんでしょうねとか言ったぐらいしか思い当たらないけど たしかに先輩は金持ちだから幸せだとは限らないみたいな事を言ってた気がするけど 急に3時間も前のことを言われて気付けというほうが無理だろう まぁそれ位はこの人を前にしていては取るに足らないことなのであまり気にしない 「まぁ、幸せなんてものに限らず漠然としたものは全部人が個人で曖昧な定義をしている訳だ」 ソレは解る気がするたとえば先輩が三食コレでいいぐらい美味いと言う激辛スナック菓子は 一般人、とりわけ僕にとっては一袋完食するだけでも咽に咽て大変な目に合う代物だ 罰ゲームでもなければとても食べる気になれない 「じゃあ、その線引きが下手な人は一生幸せになれないなんて人もいるんでしょうか?」 ミカンを食いながら先輩は答える 「否、いないと思うよ」 「どうしてですか?」 「線引きってのは引き直すことも出来るのさ」 ミカンのスジを一つ一つ剥しながら先輩は言う 「私は昔このスジが嫌いで嫌いでしょうがなかった、けど今はそれなりに食べられる。 ちょっとズレた解釈だがみんなそんなもんさ」 「どうして、一度決めた境界線を引き直すんでしょう」 「境界線とは面白い言い方ね。そりゃそうよ、だれだって もっと幸せになりたい そう思うもんでしょ?」 「幸せになるために不味い物を美味いと思うわけですか」 「そ、ゴールの方を近づければ残りの距離が減る見たいな考え方ね」 その後も先輩は二値論的に考えれば…とか概念性に焦点を置くと…とか色々と難しい話をしていた 正直後半は何を言っているかすらよく解っていなかったが議論が終わったとき 僕は前より少し幸せになっていた気がした 結局僕にとっての境界線は先輩とこんな話をしていることなんだろう こたつに潜る先輩を見送って夕食の準備でも始めようかと支度を始めた 「ミカン切れたー、新しい段ボール開けてー」 …境界線が少しズレた気がする