QBOOKS体感バトル

第1回小説参加作品/エントリー1
オキャーマ君
website:http://www5.ocn.ne.jp/~nobotyan/anna.html 狭間の異怪たち
文字数2000


深夜バスの男

 田舎へ向かう長距離バスの出発時間が午後五時半、仕事が終わって駆け込むにはぎりぎりの時間だった。
 このバスは、目的地まで夜を徹してノンストップで走る。車中で一眠りすると、もうそこは都会から数百キロも離れた山岳の別世界だ。私は週末をそこのペンションで過ごす予定だった。妻と子供は一足先にそこで待っているはずである。
 車内の客はまばらで、適当な席を見つけて座ると途端に汗が噴き出し、胸がつぶれそうになった。この前、駈けたのはいつだったか、思い出す事もできない。
 国道に出る手前で、乗客がさらに乗り込んできた。あっという間にバスは満車になった。

 この季節、夕方六時を過ぎると早くも日が暮れる。
 一通り客が乗ると、バスの照明が少し暗くなった。後は眠るだけだが、問題はすんなりと眠る事ができるかどうかだった。私は、いつも使っている睡眠薬と水筒を鞄から取り出した。
 ふと気づくと、目の前に一人の男が立っている。
「ここ空いていますか」
 私は頷いて、窓際へ少し詰めた。若い男だったがすごく痩せていて、女性のように端正な顔だちは、近頃流行のミュージシャンのようにも見えた。
 すぐに眠れそうにない私は、変に隣の男に気を取られてしまう前に睡眠薬を飲み乾すことにした。

 悪夢を見た。
 が、それがどんなものだったのか、覚えていない。夢と現実の狭間の中から唸り声が徐々に大きくなって、目を開くとバスの中にいた。その時、やっと自分がどこにいるのかを思い出す事ができた。
 唸り声は耳元から現実の音となって聞こえていた。隣の男が額に珠のような脂汗をにじませて、苦痛に顔を歪めていたのである。
「だいじょうぶですか」
 私は思わず声をかけた。
「申し訳ありません。起こしてしまって」
「どこか痛むのですか」
「いえ、乗り物酔いです。先ほど、食べ過ぎました。胸がつかえている上に、体調も良くなかったものですから」
 それだけ言うと、すぐに男はしゃべれなくなった。口元を指差して、何か言いかけているが言葉にならない。私はそのジェスチャーを察して、鞄の中からビニール袋を取り出した。
 そのまま手渡すと、男はあわただしく口に近づけた。
「げげえーっ」
 すさまじい勢いで嘔吐した。
 ビニール袋が瞬く間に赤く染まる。なんと、男の吐いたのは多量の血だ。
 私は、かつて仕事で医療現場に関係していた事がある。その浅はかな経験から、いくつかの病気を思い浮かべていた。そのどれだとしても、直に命に関わるものばかりだ。
 男は、袋の口を固く縛って座席の下に置いた。
「乗り物酔いどころではない。すぐバスを止めて、救急車を呼びましょう」
 話し掛ける自分の声がうわずっているのがわかった。男は逆に落ち着きを取り戻したようである。
「いえ、本当に構わないのです。もうじき、バスが着きますから、それまでの辛抱です。ご迷惑をおかけしました」
 腕時計を見ると、もう午前五時になっている。そろそろ最初の停留場に着く頃だ。しかし、あたりはまだ暗い。
「本当に大丈夫なのですか」
「大丈夫です。ただの乗り物酔いです」
 実をいうと、もし彼が死を前にした病気だとしたら、どちらにせよもはや手後れであろうと私は思っていた。彼があくまでも大丈夫だといい切るのなら、これ以上事を荒立てない方がいいのかもしれない。
 それに話をしている間にも、男の顔つきは見る見る平静に戻っていくようだった。少し安心して、私はさらにしゃべりかけた。
「次で降りると、家までは近いのですか」
「はい」
「そうですか、それならいい。できれば家までお送りしたいのですが、私の行くのはそこからまだ二時間も先ですので……」
「いえ、ご心配には及びません。ところで、観光ですか?」
 唐突な質問に私は、ちょっと面食らってしまった。
「ええ、週末を田舎で過ごそうと思いまして」
「そうですか」と、 男は頬をわずかに崩していった。
「僕は逆です。週末になると都会の喧燥が恋しくなるのです。何しろあまり人がいない田舎の山中に住んでいるものですから」

 私たちの会話はその程度で終わった。バスがすぐに男の降りる停留場に到着したからである。
「いらぬおせっかいに聞こえるかもしれませんが、まず病院へ寄られた方がいいでしょう」
 バスから降りかける男の背中に、私はもう一度声をかけた。
「ありがとうございます」といって、振り返った男の表情に初めて笑顔が浮かんだ。
 そのパス停で、乗客の半分以上が降りた。
 窓を覗くと、男の姿は人の集団と暗闇に紛れてもう見分けがつかない。窓の外はなかなか朝がこない。
 バスはすぐに次の停留所を目指して走り出した。
 私は睡眠不足のためにくらくらしている頭で、ふと考えた。
「ひょっとしたら、乗り物酔いというのは、本当の事だったのかもしれない」

 あの時、さっきの男が笑った口の端から、糸切り歯が異様に長く、そして、あまりにも不自然に光って見えたからである。




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