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第1回小説参加作品/エントリー11
カピバラ
文字数2000


晴れの日に

 昨日からの雨がまだ降り続いていた。窓の外に広がる空は重い灰色だが、夏を呼ぶこの季節の雨は、ザアザアという響きの中に、微かな高揚感をはらんでいる。

「雨が上がるとよかったのにな」
窓辺に立ってポツリともらすと、私の後ろで、ウェディングドレスに身を包んだ娘がこともなげに答えた。
「梅雨の盛りですもの、仕方ないわ。ね、お母さんは」
「義姉さんと話してる」
「叔母様、もういらしてるんだ。お父さんは挨拶に行かなくてもいいの?」
「行こうとしたのに、おまえが呼んでるって言うからこっちに来たんじゃないか」
「あ、そうか」
 アハハッと笑ってのけぞった拍子に手に、娘の持ったコップから中味がこぼれる。
「おいおい気をつけろよ、ドレスにシミができるぞ」
「大丈夫よ、水だもの」

 娘の市子は、今年で二十七歳になる。女らしく優雅にあれかし、と育てたつもりだったが、どこで間違えたのか、おおざっぱで粗雑な仕草ばかりが目立つ、なんとも騒々しい娘に成長した。何かと型破りなこの一人娘がよもや結婚できるとは思っていなかったので、娘の恋人が婚約の挨拶にやってきたときは、私のほうが頭を下げたかったほどだ。娘を嫁に出せる安堵感に満ちている今の私に、「涙の花嫁の父」なぞ縁の無い役回りだ。

「それで、何か話でもあるのか」
「うん……」
娘は珍しく口ごもった。
「あのね、お母さんのことなの」
「母さんの?」
「そう。お母さんの……病気のこと」
「――目か」

 妻は以前から目を患っており、七年前と半年前に、二回の手術を受けている。私も妻も、もう身体に不具合が出てきても珍しくはない歳だ。治療すればよくなると妻から聞いてもいたので、今まであまり気にかけていなかった。

 娘は言葉を続けた。
「本当はね、かなり悪いのよ。失明は時間の問題なの。手術すればその度に少し視力が戻るけど、何回も手術する体力はたぶんないから、もうこのままでいいって」
「母さんがおまえにそう言ったのか」
「そう。お父さんには内緒って言われてたの。でも、私もう家にいないでしょう。心
配なのよ。二人で暮らすのに大丈夫なのかしらって」
「そうか」

 妻の病も心配だったが、娘だけがそんな大事を知らされていたことに、私は動揺した。妻が、この大雑把な性質の娘を私より頼りにしているなどと、にわかには信じられなかった。そして、妻とのこれからの生活に、初めて思いを巡らせた。娘は、我が家で唯一にぎやかな存在だった。それは、私たち夫婦に活気をもたらしてもいたのだ。娘がいなくなったら、家の中は山寺の伽藍のように静かになるだろう。

「ね、お父さん」
「なんだ」
「お母さんのこと大事にしてあげて」
「言われんでも分かっとる」
「これからは二人でちゃんと助け合うのよ」
「それは父さんの台詞だ」
 娘は、それもそうよね、変なの、と言ってまた笑い出した。

軽いノックの音に続いて、介添えの女性が
「もうお時間です」
と告げた。
「よし、行くか」
私が歩き出すと、娘がそれを引きとめた。
「お父さん、腕組みましょ」
「なんだ、まだいいだろう」
「私たちが腕を組まないで歩いてるなんて変よ」
私は半ば強引に右腕を娘に取られ、そのまま控え室を出た。

 長い廊下の向こうに妻が歩いているのを認めると、娘はそちらに大声をあげて手を振った。
「お母さーん!」
私たちに気づいて、妻はこちらに歩き出した。

 「花嫁がそんな大声を出すものではない」と嗜めようとしたそのとき、ハッと私は気がついたのだ。娘は、光を失いつつある妻を思いやったのだと。
 おそらく娘は、今までずっと妻のために騒々しい振る舞いをしていたに違いない。それが家の空気を華やかにするということも、承知していたのだろう。私が知らぬところで、娘は私たちに心を砕いていたのだ。何て事だ。考えてもみなかった。
 私は初めて、娘をいじらしいと思った。そして、自らの不明を恥じた。こんな私を、妻が当てにしないのも当然だ。
 だがこれからは、妻も私も娘を頼りにするわけにはいかない。結婚式とは、親が子から独立するための儀式であるのだから。

「市子」
私は、娘に顔を向けずに言った。
「父さんたちのことは心配するな。おまえは、おまえの新しい家族のことだけを考えなさい。母さんは大丈夫だ。父さんがいるから」
これまでの娘の心配りに報いるために私が言える、精一杯の台詞だった。娘は何も答えなかった。ただ、私の右腕にかかる手に力がこもるのがわかった。

 窓の外の雨は少し強くなったようだ。しかしこれは、夏を呼ぶ雨だ。新しい季節を迎えるための禊の雨だ。私たちの門出に、これほど相応しい天気はないだろう。

 やってきた妻は、私を見るなり笑い出した。
「あらまあ、この晴れの日にそんな渋い顔をしないでくださいな、お父さん」
そうはいくか。今日は私も人前で泣いたりするのだろうか、などと考えるそばから涙ぐんでしまうこの滑稽さを、他にどうやってごまかせばいいというのだ。




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