本を探す
誰かが、俺の引き出しから本を抜き取った。
気づいたのは夜勤が始まる直前だった。俺は二人の同僚とひとつの机を共有してい
た。俺達は、大手都市銀行のコンピュータ室でマシン・オペレータとして働いてい
る。オペレータは、二十四時間稼働する五台の超大型コンピュータに合わせて三人一
組のチームに振り分けられ、朝と昼と夜、それぞれがマシンに付き添うのだ。その早
番、遅番、夜勤番の働く男三人に対して机はひとつ。出勤している誰かが使えればい
いからだ。
机には三人の男がそれぞれ使えるように、引き出しが三つ備わっている。無論、た
いしたものは入っていない。他人の欲望の対象になりそうなものは、鍵の掛かるロッ
カーにしまうのがマナーだ。引き出しに入れておくのは、欲望をそそらない、働く男
に役立つものたち。つまり、マシンの操作マニュアル、就業規則集、庶務の女の子に
突っ返された残業の申告書、交通費の請求書、緑茶のティーバッグ、醤油のミニパッ
ク、静電気防止用スプレー(億単位の値段のコンピュータが並ぶ部屋では、帯電した
ズボンを穿いた男より、下半身を露出した男の方が歓迎される。俺達は一時間おきに
ズボンにスプレーを吹きつけることを奨励されていた。もちろん冗談だよ、これは)
などなど……。
俺はその中に本を紛れこませておいた。いつか、手の空いたときに読もうと思って
いたのだ。(そして、そんな時間は終ぞ訪れなかった。)
本は、転職していった上司がくれたものだった。ハードカバーの翻訳物で、厚さが
三センチもあって、おまけに上下巻の二冊組だった。タイトルは忘れてしまったが、
白を基調にしたきれいな装丁で、表に金髪でグラマーな若い女のイラストが描かれて
いたのを覚えている。(女の瞳は青かったが、険があった。スカートがまくれて太腿
があらわになったセクシーな姿のまま、彼女はじとっとした冷たい目で俺を見据えて
いた。性悪女みたいに。)
いつのまにか、コンピュータ室に人が増えていた。勤務交代の点呼が始まっていた
のだ。俺は、仕事の引き継ぎを行う男達のあいだを駆け回って、本の行方を問い質し
たい衝動に駆られた。だが、同僚の中に本を読む者はいなかった。俺にしたって、小
学生の頃から二十八歳の現在に至るまで、最後まで読み通せた本は三冊もない。騒ぎ
立てても、顰蹙を買うだけなのは目に見えていた。
読めもしないものに執着するなんて、柄にもない――。俺は密かにそうつぶやき、
ひとり照れた。本だって読んでくれる人間の手に渡った方が幸せなはずだ。そうだろ
う?
点呼が終わった。俺は、遅番の男からマイクロフォンを譲り受け、オペレータ席に
座ってモニター画面のチェックを始めた。担当のコンピュータ内で走っているジョブ
は二五五、待ちジョブは三三二だ。夜の十一時にしてはいい傾向だ。今日は誰もトラ
ブルを起こしていないらしい。もちろん俺以外には、ということだが……。
午前二時過ぎ、俺は隣の席にいる串本という男を誘って、食堂に向かった。夜勤番
は、午前二時前後に一時間の休憩を取ることになっている。普通の勤め人なら昼食を
とる時間だから、たっぷりした夜食をとる奴もいるし、食事は諦めて仮眠をとる奴も
いる。俺は、弁当を食う串本の横でコーヒーを飲んでいることが多かった。
七階の食堂は、建物の中で唯一窓のある場所だった。自動販売機で紙コップに入っ
たコーヒーを買い、中央のテーブル席にいた串本の隣に戻った時、俺は窓際の席にい
た若い男に目を奪われた。
男は本を読んでいた。表紙は白で、ハードカバーらしい厚みがあった。が、距離が
ありすぎて、自分の所有していた本だという確信は持てなかった。五分ほど逡巡した
挙げ句、俺は諦めて目をそらそうとした。その時、不意に串本が弁当から顔をあげ
た。
「何を見てるんだ?」
「あー、いや、月を……だ」
俺はざまなくうろたえ、男の座る窓辺を指さした。
本に熱中する男の頭のむこうに、夜の空が広がっている。紙のように薄い雲の中
で、月が白く光っていた。男の頭の真横にあるせいで、月はひどく膨張して見えた。
男は白い曼珠沙華のような月の傍らで、ひたすらページを繰っていた。
串本は、月と本を読む若い男を交互に眺め、「変わった奴だよな」とつぶやいた。
「何でだよ?」
「本なんか読んでるじゃん」
俺にはうまく反論できなかった。串本は気にする様子もなく、弁当箱に蓋をする
と、灰皿を引き寄せて煙草に火を付けた。窓際の男は、相変わらず夢中になって本を
読んでいた。(コイヲスルヒトノヨウニ。)俺は彼から目を離せなかった。
次の交代の点呼の時、俺は新しい上司に残業を頼まれて断り切れず、結局、昼過ぎ
まで仕事をして、建物を出た。
バスがなかったので、駅まで歩いた。歩く俺を、何台ものトラックが追い越してい
った。俺は砂埃を浴びながら歩き続けた。空高く昇りつめた太陽が、アスファルトを
焦がした。革靴の中は汗でどろどろだったが、靴を脱がないだけの分別はまだあっ
た。しかし、駅に着いた俺は、いつもとは反対のホームに立った。
渋谷で電車を降り、人の波にそって歩き始めた。センター街を抜け、狭い坂を登る
と、パルコがあった。パルコ・ブックセンターぐらい、俺だって知ってる。
俺は地下に降りていって、本や雑誌の積み上げられた棚を見つけた。ひと通り回っ
てみたが、俺を密かに夢中にさせていたあの性悪女のような本は、どこにもなかっ
た。
読みたい本がないなら、自分で書くしかないだろう?
そういうわけで俺は書き始めた。
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