ノック
会社からの一方的な通告で、私はこの暑い最中、一軒のアパートへと引越した。社宅よりも断然にいい部屋を格安の家賃で借りられたのは、世の無情と夏の暑さに愚痴をこぼしていた私にとって、たった一つの幸運だった――この時は、そう思った。
「その部屋……出るんですって」
私が挨拶に行くと、右隣の住人は前置きもなくそう言った。
「出るって……なにが?」
と、私が聞き返すと、隣人はさも当然といった顔する。
「出るっていったら、幽霊に決まってるでしょ」
「幽霊? ハハ、まさか」
私は隣人の、冗談にしてはやり過ぎな口調に適当な笑いを返して、その場を後にした。
……だが、どうやら冗談ではなかったらしい。その後、左隣の住人から聞いた話によれば、この部屋に越してきた人は誰も、一週間と経たずに、逃げ出すように引越していってしまうのだそうだ。なんでも、以前この部屋に住んでいた子供が不慮の事故で亡くなって以来、毎晩、その子供の幽霊がやって来るのだという。
(面白いじゃないか)
話を聞いて、私は強がりではなく、そう思った。
オバケとか幽霊を信じていないわけではない。ただ、既にいなくなった人間よりも恐ろしいものを知っているだけだ。生きている人間ほど恐ろしいものはない――この時はまだ、そう思っていた。
――トントン
夜、寝苦しい暑さに閉口していたところ、不意に玄関のドアが叩かれた。
「誰ですか、こんな夜中に?」
…………
私の誰何に、ノックの主は答えない。それで私は直感した。
(ははあ、さては、こいつが噂の幽霊だな)
幽霊とはいえ、所詮は子供。私は眠くなるまでの暇つぶしに、ひとつ幽霊と話してみようと思った。
「おい、おまえ……幽霊だろ」
――トントン
答えの代わりにノックが返ってくる。
「そうか……おまえ、喋れないのか。じゃあ、俺の言葉に“イエス”だったらドアを叩く。“ノー”だったら叩かない――で答えてくれ。わかったか?」
――トントン
“イエス”だ。
「そうか、わかったか。じゃあ……もう一度訊くが、おまえは幽霊だな?」
――トントン
「おまえが死んだときって、まだ小学生だったんだっけか?」
――トン トン トン
間を置いて三回のノック。
「何だ、それは……ああ、そうか。小学三年生だったんだな?」
――トントン
「そうか小三か……遊びたい盛りだったろうになぁ。あっ――こうやって化けて出ているのは、まだ遊び足りないからだろ?」
――トントン
「それで毎晩、こうやって化けて来ていたのか……しかし、幽霊とはいえ、まだ小学生の子供だぞ。ちょっとくらい付き合ってやってもいいだろうに……まったく、前の住人どもは薄情な奴らだ! なあ、おまえだって別に俺を取り殺そうってんじゃないんだろ? ただ、遊び相手が欲しいだけなんだよな?」
――トントン
「ほうら、やっぱり。幽霊だとか何とかいっても、単に一人で寂しがっているだけじゃないか」
…………
ノックはない。
「ん……違うのか? おまえ、一緒に遊んでくれる友達がいなくて寂しいんじゃないのか?」
…………
「そうか、友達はいるのか。そいつは良かった。今も一緒にいるのか?」
トントン
「へえ……で、何人いるんだ? 一人、二人?」
…………
「あれ、返事がない……何だ、やっぱり友達いないの――」
訊かなければ良かった――そう思った時は手遅れだった。
ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン
地鳴りの如く打ち鳴らされるドアを呆然と見つめたまま、私はいつの間にか気を失っていた。
次の朝、私はまだ梱包も解いていなかった荷物を抱えて、社宅へと逃げ出した。
――この夜以来、私は生きている人間を恐いと思うことがなくなった。
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