巡り巡って、夏
暑い最中に買い物から帰ってきたら、マンションの前で男の子が一人、遊んでいた。水鉄砲をバケツにつけて、灼けたアスファルトに向けては噴射している。胸
に名札が付いていた。「すずきしゅんや」―その名前に少しだけ胸が騒いだ。
奈緒花は私に手をつながれたまま、黙って男の子の横を通り過ぎた。同世代の子供
には何かと興味のある年頃である。何とか言いそうなものなのに、などと思っている
と、階段へつながる出入り口をくぐり、集合ポストの前で立ち止まったところで、や
っと私の顔を見上げて嬉しそうに言った。
「あれが、しゅんくんなんだよ。」
「ああ、あれがしゅんくんなの。」
そう言えばさっき、男の子がちらっとナオの顔を見たような気がしたなと思う。お互いに知っていて知らん顔をしたわけだ。3歳のナオにそんなに高度なことができるとは思いも寄らなかった。
「しゅんくん」というのは同じマンションに住む5歳の男の子で、母親が働いているのでいつもはおばあちゃんが彼の面倒を見ている―というのが私がその子について知っていることの全てだ。近所に住んでいて頻繁にやってくる母が、マンションの近くでナオを遊ばせていて、そのおばあちゃんとしゅんくんに遭遇したらしい。おばあちゃん同士、ということで意気投合したのかどうかは知らないが、とにかく母はそれだけの情報を仕入れてきて私に教えた。
昼の1時半を少し回ったところである。しゅんくんは普段は幼稚園に行っているのだろう。母親が働いているというなら保育園かも知れない。今は学校も夏休みの時期だから、幼稚園もきっと休みなのだろう。保育園にも夏休みがあるのだろうか。
ナオは私に「しゅんくん」を教えてやったことが得意らしく、まだ「あれがしゅんくんなんだよ」と繰り返し言ってはぴょんぴょん飛び跳ねている。私は買い物袋を提げた手に郵便物の束を握りしめ、鍵をつかんだもう片手ではしゃぐ娘の背中を押して、やっとのことでエレベーターに乗り込んだ。ぶーんとファンが天井で回っている。どっと汗が出てきた。
かつてスズキシュンヤという名前の男を知っていた。何十万人といるのであろう、同姓同名の男のうちの一人。中学校の時のクラスメート。
中学二年生の時、彼と一度だけデートした。誘ったのは私で、夏の盛りに動物園に行った。一通り動物を見たあとはいくらか遊園地の乗り物に乗ったりしただけの、全然冴えないデート。町中の動物園で、しかも彼の家と私の家は全然逆方向だったから、動物園の真ん前にある地下鉄の駅で待ち合わせて、帰りも同じようにそこで別れた。
夏休みの一日だったのだと思う。とても暑い日だったけれど、私はその時一番のお気に入りだった白の長いスカートを穿いて出かけた。歩くとすそがひらひらするやつ。あれから十五年もたった今、どうしたことかこの夏流行りのアイテムらしく、街に出ると若い女の子も日傘をさした奥様連中も、こぞってそんな風なスカートを穿いているのを見かける。その度にちょっとした懐かしさにとらわれる。
キスしたわけでもなく、手さえもつながなかった初めてのデート。だけど大事なのは、まさにそれが私にとって初めてのデートだったということ。その日の夜は何となく眠れなくて、夜が白む頃になって結局寝床を抜け出してしまい、開け放した窓のところに座って雲を見ていた。すっかり明けてしまった空は実にきれいな水色に染まっていて、ぽつんぽつんと切れ切れに浮かんだ雲はただ果てしなく白かった。
その時の空と雲の色のことだけ、今でも時々思い出すのだ。
しゅんくんにはそれからも時々出会う。昼間外に出ると、大抵いつもその辺で遊んでいる。少し大きい男の子と連れだって自転車に乗っていることもある。地べたに座り込んだ数人がそれぞれ手に持ったゲームに熱中していることもあって、そんな時は周りに水筒やら脱ぎ捨てたシャツやらが無造作に転がっている。
しゅんくんはどうやらナオのことが気になるらしい。いつも通り過ぎる私とナオを、黙ったまま斜めにちらりと見上げる。一重まぶたの、少しひねたような目。5歳にしては大人びて見える。
ナオの方も彼の気持ちを知ってか知らずしてか、いつも黙ったままでしゅんくんのそばを通り過ぎる。そして完全に通り過ぎてしまってから、必ず私の顔を見上げて言うのだ。
「さっき、またしゅんくんがいたね。」
巡り、巡りくる夏。かつて夏とは夏休みのことだった。いつか夏休みのない人生が来るなんて想像もしなかった―傲慢な子供時代。
大人になれそうでなれなかったあの頃。友達の中にいても、ひとりでいても苦しかった。教室の開け放した窓から風が中に吹き込んで、チョークの粉で黄色く染まったカーテンを翻し、窓辺に並んだ牛乳ビンがなぎ倒されるのを、何となく遠くのものを見るような気持ちで眺めていたりした、あの頃。
私は、スズキシュンヤのことがとてもとても好きだった。
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