行きましょう。 あの人から訃報が届きました。老眼鏡がもう手放せないと言うのに、裸眼でも私の瞳の中にあの人の名前が入り込んできました。それだけ、私はその文字を脳味噌の中に何度も反芻していたのです。 あの人は、私の幼馴染でした。戦争が始まって出兵すると、そのまま終戦後も行方知れずになってしまいました。私は結婚して、その土地を離れることになりました。でも、私はどこかであの人が生きていると確信していました。 数年後、私は再び私とあの人が生まれ育ったその場を訪れました。すっかり変わってしまった町並みを歩いていると、ふと、目の前をあの人が歩いてきたのです。 そこだけ、時が止まったような感覚でした。実際私の歩みは止まり、後ろから歩いてきた人にぶつかるまで、私は身動きが取れませんでした。 「…お久しぶりですね」 仕立てのいいスーツに身を包んだ彼は、私のように驚いた風ではなく、つい昨日会ったばかりの友人のように、穏やかな微笑を浮かべました。私の風貌も彼の風貌もすっかり変わってしまっていると言うのに、お互いがお互いをはっきりと認識していました。 「今まで一体どうして…」 私はわけも分からず泣きそうになるのを堪えて、声を絞り出しました。彼は軽く身の上を語ってくれましたけれど、その話は私の頭の上をすり抜けました。 「こんなところで長話もなんですから、どこかへ一緒に行きませんか?」 彼のその誘いに、私は乗ればよかったのです。けれど、ふと頭に旦那と子どもの顔が過ぎりました。 私は、首を横に振りました。 「そうですか」 残念と言う風でもなく――それでもどこか寂しそうに、彼は言いました。私達は、互いに連絡先を交換して別れたのです。 それが最後でした。もう、五十年も前の話です。 その夜に、私は夢を見ました。あの人が、やはり穏やかに微笑んで、私の目の前に立っていました。もう八十も過ぎた老人のはずなのに、あの日と同じ仕立てのいいスーツを着た、若々しい姿でした。 「一緒に行きませんか?」 気付けば、私もあの日と同じ格好をしていました。曲がっていた腰も真っ直ぐで、顔に手をやると、皺一つありませんでした。 「行きましょうか」 不思議なほどに、私はすんなりとその言葉を言えました。 「…私はこの言葉を言うのに、半世紀もかかりましたよ」 「でしょうね。私は半世紀も待っていましたから」 私たちはそう言って、笑いあったのです。
先週、東京に雪がパラパラ舞ったと思ったら、今日の東京は春の陽気である。街行く人のファッションは、明る目の春の洋服に身を包んだ人もいれば、暗ら目の色で全身を包んだ人と、少し街全体がアンバランスな感じが受けてとれた。 私とケンジは今日、高校をさぼり新宿駅西口前の広場で、パイプベンチに腰掛ながら通行人をただ何するともなく無言で見ていた。 携帯電話を耳に当てながら、忙しそうに早歩きで目の前を通り過ぎて行く、スーツに身を包んだサラリーマン。 お洒落に洋服を着こなしている二人の若い女性に、ナンパを始めた茶髪のチャラチャラした若い男が二人。 「なあ、ケンジ。アイツらナンパ成功すると思う?」 「99%無理だね!」ケンジは、ニヤつきながら私の目を見て言った。なぜ?と聞く私にケンジは 「どう見ても、釣り合わないじゃん!」 「そうか? じゃ残りの1%はなんだ?」 「まあ、もうすぐ昼だし、昼飯をご馳走してもらうだけの1%だよ」 「有り得るな! なあ、ケンジ、俺腹へってきたよ。マックでも行かないか?」と聞く私にケンジは、ニヤつきながら私を見て、ほら、あのチャラ男達、相手にされなかったよと言って、顎をチャラ男達の方に向けた。二人組の女は向こうの方に去って行き、二人のチャラ男は舌打ちをしているのが見えた。 ケンジは声を出さずに楽しそうに笑いながら「いいよ!マックでも行くか」と言った。 私が、パイプベンチから腰を上げると、ケンジが舌打ちをした。 「どうしたんだケンジ!」私が訝しがりながらケンジに聞くと、顎を交差点の向こう側にある交番に向けた。 「あの警官、さっきから俺達見てるんだよ。ムカつくな!」 「学生服着て、昼間にここにいるからだろ!」 「なあ、ちょっとあの警官を絶叫させてやろうぜ!」 何する気だよ、やめとけよと言う私の意見を聞かず、ケンジは交差点を渡って、交番の方に一人で歩いて行った。 私は、ケンジが何をする気なのか心配で、ケンジの姿を見ていたが、人ごみに紛れてケンジの姿を見失った。 しばらく私は一人になり、視線を右に向けると、先程のチャラ男達が、別の若い女二人にナンパをしていた。 私は、今度はナンパが成功するか見届けていると、突然 「ひえ〜!」と言う絶叫が交差点の向こう側から聞こえ、視線をそちらに向けると、ケンジが警官の尻に、両手の人差し指を重ね、指浣腸しているのが見えた。警官は、足をガクガクしながらよろめいて、地面に膝をついた。ケンジは、その場で立ち上がり、私の方に体を向け、重ねた人差し指を空高く掲げ、「一撃必殺指浣腸!」と叫んだ。 すぐに、ケンジは交番にいた別の警官に取り押さえられた。 その後、親や学校の先生にこっ酷くケンジは叱られた。
「母上」 「なんだい、金太郎?」 「よく考えると、私は父親に会った事がないのですが、どうしたのでしょう?」 「お前の父親は、竜なのですよ」 「え、え、えええ!?」 「母が、夢の中で契りを結んだ後、身ごもったのです」 「わ……分かりました、それは理解しました。けれどその後、あまり面倒を見ては下さいませんでしたね? もっぱら、森の生き物達の中に放り込まれて、狩猟や採集に明け暮れていましたが、一体何をなさっていたのです?」 「……それは」 「教えて下さい」 「その……男漁りを」 「……そうですか」 「い、いや、そういう意味じゃあないのですよ。手頃な食べでのありそうなのを選んで、獲っていたのです。きちんと干したり塩漬けにしたりして、出来るだけ獲る回数を減らしていましたし」 「え、ええ!? そっちの方が引くわ! どんな食生活ですか!」 「でも山姥ってそういうものですし」 「って、山姥だったんですか、母上?」 「知らなかったかしらね?」 「だとすると、私には人間の血は一滴も……」 「入っていません」 「……うわー、なんですかそれ、聞いてませんよ……もう、あああ、どうしよう。山の動物達、私を『人間なのにスゲー』って持ち上げてくれてんですよ? それが山姥と竜の子? そんなの強くて当たり前じゃないですか。ただのズルじゃないですか、クマがリスをねじ伏せていい気になってるってレベルじゃないですか、うわぁ、恥ずかしい、恥ずかしぃぃぃぃ!」 「金太郎……お腹空いたから、もう行って良いかい?」 「……山姥脳めぇぇ」
朝礼でタイムリミットは本日中と宣告された俺は休憩をとることもせず、 朝からキーボードを叩き続けている。 始業から数時間経過したが指の動きは止まる事なく、むしろ時計を見るたびにワンタッチペースが速くなっていく。 これは昼飯は食えんな。 そんな雑念すらも無駄と言わんがごとき動きで次々と資料、報告書、提出書類をまとめていく、 その膨大な量を前にして応援無しに片付けることができるのは俺ぐらいなものだろう。 と若干自分に酔うことでテンションを維持し続ける。 「あの、大丈夫ですか?」 俺があまりにも鬼気迫る勢いでパソコンとランデブーしていたものだから、 事務の女の子が妬いてしまったらしい。 オイオイ職場であんまりアグレッシブなアピールは控えてくれよ。 「まぁ、なんとかなるよ昼飯食う暇はなさそうだけど。」 「そんなにですか…ちょっとコーヒー入れてきますね。」 その優しさで後8時間戦える。 彼女がコーヒーを入れてきたらデータ処理を行っていこう、 頭を使う処理はある程度息を抜きながらでないと余計時間を食う。 「どうぞ、すこし砂糖多目にしておきました。」 「ありがとう。」 画面からは目を離さず答えとにかく数値を追い続ける。 必要データを抜き取り、計算式を放り込み、解り易い形にしていく。 お偉いさんを納得させるためには何よりも努力したと思わせなければならない。 今しているのは言って見れば努力の痕を刻んでいるだけなのかもな。 おっとよそ事を考えている余裕は無い。 ついでに昼飯を食いに行く時間も無い。 ん? 「コレ…コンビニのおにぎりですけどよかったら食べてください。」 「助かる。」 「晩御飯はちゃんとしたの食べましょうね、奢りますから。」 正直シーチキンマヨが無いことが遺憾に思えたが、 そんな事よりも栄養源を得られることのほうが何倍も大事だった。 おにぎりは包みが剥されているだけでなく、チンまでされていた。 … おにぎりに食らい付きそのチープな味が口内に広がった時、 俺の中のリミッターが外れた。 今までの倍能力以上の指捌き、脳処理、視認識、により、 土下座を覚悟していたところが刻限の1時間前には完成していた。 上司に提出して今日の仕事は終わり、定時上がりだ。 「部長、朝の件、完了致しました。」 「あーこの資料なんだがね、データが最新のものでなかったらしくてね、少し直してくれんか?」 … 「私、8時までなら待ちますよ。」 どうやらもう一つリミッターを外すことになりそうだ。