妻は癌を患っていた。幾度かの手術にもう妻の体力は限界に近かった。手術はもう無理だと、医者に言われた。妻が日に日に衰えていくのがわかった。 そんなある日、私が見舞いに行くと、 「――今日、死神が来たの」青白い顔に浮かぶ桃色の唇を震わせながら妻は言った。 訝しげな顔をする私に、 「私の命はあと三日なのよ」と妻は弱々しく言った。 私は、何も言わずに妻を抱きしめた。しばらくそのまま無言で、お互いの温もりを確かめ合うように…… その日は、病院で妻と出会った頃の思い出を語り明かした。 次の日、「流れ星が見たい」と妻が言うので、朝一番に退院して今はもう誰も住まない妻の故郷に帰る事にした。私が運転する車で揺られるあいだ、妻は具合が悪いにも係わらず、顔色変えず耐えていたのであろう。途中休んでは運転して、休んでは運転して、妻の故郷につく頃には日も暮れかかっていた。 夜の帳が下りた後、小川の辺の茂みに二人で座って、空を見上げると都会では見られない洗練された星々が見えた。 「折角の流れ星が涙で見えない」と妻は言った。私は、ハンカチでそっと妻の目頭を押さえた。 「明日は、何がしたい?」私は、妻に問う。 「明日は、貴方の笑顔を見ていたい」妻は、答えた。 次の日、私は出来るだけ笑顔でいた。妻と料理を作ったり、テレビを見たりして笑顔を絶やさないようにした。 夜寝床に着くと、私は妻と手を繋いで寝ることにした。 「明日は、何がしたい?」私は、妻に問う。 「明日も、このまま手を離さないで下さい」妻は、答えた。 ――そして次の日、私と手を繋いだまま妻は逝った。 「ありがとう。あなた」 私は、妻が笑顔のまま目を閉じていくのを見守った。そしてしばらくそのままでいた。 いつしか妻の手からは温もりが無くなっていた。私は、固くなって動かない妻の手を離すと独り呟いた。 「――死神よ」静寂の中、黒い影の形をしたものが現れた。 「私にはもう思い残すことは無い」 「お前の命は、あと一日ある……」 「いいんだ、死神よ。私にはもう思い残すことは無い。妻があんなに良い笑顔で天国へ逝ったのだから」 「……」影は何も答えない。 「私は、お前に感謝している。妻よりも一日でも遅く私を迎えに来てくれたのだから」 私の所にも、死の宣告を告げる使者が来ようとは思いもしなかった。 しかし、私は妻の死さえ看取ればそれでいい。 ありがとう死神よ。
※作者付記:始めまして!
「うぃー、戻りましたー」 スーツに付いた雨粒をハンカチで拭きながら、オフィスに田代が戻って来る。 「お疲れー、田代。ちょっとPC借りてっぞ」 同僚の渡辺は、田代のデスクでパソコンに向かっている。 「なんだ渡辺、自分のはどうした?」 渡辺のパソコンは、猫のキャラクタが真っ暗な画面を走り回るスクリーンセーバーが表示されている。 田代は、マウスを軽く机で滑らせ、スクリーンセーバーを止める。と、モニタにはデフラグの実行画面が現れた。 「ああ……なるほど」 「あっ、またかよ」 田代のパソコンを操作をしながら、渡辺は舌打ちする。 「どうした?」 「なあ田代」 手をキーボードに載せたままで、渡辺は田代の方に顔を向ける。 「お前のPCの辞書登録って何なの? 『あ』で『ありがとうございました』とか、『こ』で『今後とも海原商事のお引き立てをよろしくお願い致します』とか」 「入力の手間が省けるだろ」 「日本語入力がマイクロソフトIMEだから、文節区切り間違えて頻繁に変換されんだよ」 「何にどれが当たってるか覚えれば速いんだって」 「どの辺の文字に当たってんだ?」 「ん? 全部だよ」 「やり過ぎだろ、常識的に考えて……んじゃ、例えば『じ』は?」 「『時節柄、風邪等流行っておりますが、お身体にお気を付けてお過ごし下さい』」 「『ろ』は?」 「『老人保健施設やまもみじ2F フロアリーダー 山根様』」 「『に』は?」 「『荷物の発送完了しました、三日以内には到着の予定です』」 「ふうん……そうだ、『ん』はどうなんだ?」 「『ンジャメナ』」 「一生に何回使うんだそれ」
んー。 いい天気だ。 小鳥もさえずってるし。 透き通る風は心地よい。 歩く山道はふかふかとしているし。 卸したての靴ともいい具合だ。 本当に着てよかった。 一時間後… ゼェゼェ。 雲行きが怪しい。 鳥、っていうか鳥か? あのギャーギャーうるせぇの。 風っつーかもはや暴風? 嵐? だし。 山道、いや獣道はぐずぐずで今にも足を取られそうだし。 もちろん靴はぐちょぐちょのドロドロだ。 なんだよもう。 来なきゃよかったよ。 家で布団に包まってねてればよかったよ。 コレで熊とかにでもであった日にゃあ 『ガサガサ』 … 『のっしのっし』 ほらもう! 来たよ! 最悪だよ! 終わったよ! せめて今もってるのがただの杖じゃなくてドラゴンスレイヤーとかだったら立ち向かう気にもなるのに! 「まちたまえ。」 恐怖のあまり幻聴が聞こえたようだ。 「この通り私は人語が理解できる。できればその杖を収めてくれまいか?」 何だこの熊? 流暢な日本語使ってきやがった。 「驚かせてすまない、だがこちらも身の危険を感じたのでね。」 「いや危険なのは俺のほうだろ。」 「何を言うかこれほど紳士的に構えた熊を相手にして」 相手が熊な時点で危険すぎるだろ。 「っつーか涎だらだらで言われても説得力にかけるんですけれど。」 「おっと失礼、発情期なモノでね。」 別の危険が一つ増えちまった。 寒さとは別の振るえが出てきやがった。 「安心してくれていい。異種間交配には学術的な興味しかない。」 もうやめてくれよ! ていうかお前メスなの? それともどっちでもいける熊なの? 「というか君が悪いんだぞ。私がわざわざこんな山道を外れた所でマーキングしてるというのに。」 うん、語りながら木の皮爪で剥ぐのはただの威嚇としか思えない。 「いい加減その物騒なものをこちらに向けるのをやめてくれないか。」 「お前が後ろ向いたら考えてやるよ。」 「そうやって後ろからブスリ! というわけだね。」 「杖でブスリは一般人には無理だよ! 俺は家に帰りたいだけだよ!」 「あぁ、なんだ迷子か、だったらあの高い木を目指して真直ぐ行けば山道に出るよ。」 「本当か!恩に着るぞ!」 こんな非常識生物の目の前にいるのゴメンだ。さっさと行こう。 … 「何でついて来るんだよ。」 「君のケツを眺めていたら何と言うかこう、込みあがってきてね。」 俺は全速力で走ったが野生の熊にかなうはずもなかった。 そして所詮は野生の熊。いくら理知的であろうとその本能にかなうはずもなかった。