QBOOKS体感バトル

第2回小説参加作品/エントリー2
野風花
文字数1265


葎草橋通りが近づいて蝉の声が高くなってきた。背中からは保育園帰りの息子が、今日友だちと蝉を何匹捕まえたかという話を熱心に語りかけてくる。それは凄いねえ、と顔を向けて相槌を打ち前に向き直ると、わたしはその葎草橋通りに自転車で走り込んだ。
 白壁と高い木々が作る狭い空間に降る何百もの蝉の鳴き声にたちまち耳が塞がる。湿った空気の匂いは、いつでもわたしを小学生に戻そうとしているようだ。
 少し先を、日傘を差した小さなお婆さんが腰を折り歩いて行く。東京とはいえ、田舎要素の濃いこの街に、そういうお年寄りは多い。
 白壁が切れ、道が緩く曲がる所でお婆さんに並んだ。その途端、聴覚が麻痺し、息苦しくなり、目の前が真っ暗になった。それは本当に一瞬のことで、すぐにわたしの目の前は明るくなり、呼吸も戻った。が、どういうことだろう、わたしの見ている見慣れた景色の中に、自転車に乗ったわたしと息子の姿がある。
 何故こんなことに。わたしは視線を来た方に向けた。まるで道の入口が閉じたかのように、ぽっかりと誰もいない。不思議なことにさっきのお婆さんさえ見えない。
「ねえ、待ってよ。」
視界の中を小さくなっていく自分に呼びかけようとしても声にならず、駈けようとしても足が重くままならない。
「ごめんなさいね。こんなことになるなんて。」
優しく穏やかな声に話しかけられ、びくっとするが誰もいない。
「わたしも驚いているの、とても。」
まるで自分が喋っているようにその声は響く。まさか、わたしはお婆さんの体に入ってしまったの?
「信じられないでしょうね。こんなこと。でも、聞いてくださる?」
どうして、そんなに落ち着いていられるのか、わたしには理解出来ない。でも声が出ないのだから頷くしかない。
「今までも、時々お見かけしていたの。その度に羨ましくて。もう遠い昔ですけど、わたしと息子にも、あんなに優しい時間があったなあって、見ているだけでこちらまでしあわせを分けてもらっていたんですよ。今しか無い、大切な時間ですよ。」
その方の穏やかさが移ったかのように、わたしは二心同体のその方に心で応えた。
「わたしにも、いつか思い出すときが来るんでしょうね。」
 その頃、この街や人はどれだけ変わっているだろう。あの丘陵、川、そしてあの木々と蝉の声は・・・。
 急に音が戻り、風の無い蒸し暑い夕方を、わたしはペダルを漕いでいる。蝉の声が遠くなり、振り返るとお婆さんは、生け垣に見え隠れしながらゆっくりゆっくり歩いている。
「ねえ、わかった? 帰ったらアイスだよ。」
「え。ああ、ごめん、ごめん。かあちゃんぼおっとしちゃった。」
「まったくもお、かあちゃんてばー。」
 駐車場の端に大きなひまわりが咲き、わたしの頭の中には下敷きにされた田圃の風景が浮かぶ。
「かあちゃん、はじっこ通って!」
とっさに自転車を道の端に寄せると、梨畑のスプリンクラーから勢いよく水が飛んでくる。
「わーい、気持ちいいー。」
「ねー。」
さあ、次の角を曲がれば家が見えてくる。ただいま。



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