第8回体感1000字小説バトル
 投票〆切り4月末日/参加した人は投票よろしくね!
  INDEX
 エントリ 作者 作品名 文字数 得票なるか! ★ 
 1 桜木ゆゆ  雨  1029   
 2 猫目丸  後ろ向き、ちょっとだけ前向き。  804   
 3 順平  幸せな日常生活     
 4 西丹有倖  白砂世界  1005   
 5 かずひ  ペンギン少年  1000   
 6 満峰貴久  一度でいいから見てみたい  1000   
 7 玖珂陸  ハイジャッカー  1022   
 8 福トラ  雨の日、晴れの日  738   
 9 埴輪遥二  ハッピー・バースディ  1165   
 10 Taka-Ok  続 3Dinternet の旅。  656   
 11 川口みづき  襲  701   
 12 3月兎  カタログ  1000   
 13 おんたけ  二十歳  661   
 14 牛を飼う男  道  688   
 15 如月ワダイ  恋愛(?)風味  1253   
 16 Jinsei  春の風の歌  1277   

訂正、修正等の通知は掲示板では見逃す怖れがあります。必ずメールでお知らせください。
「インディ−ズ、行かせてください有頂天」。ボタンを押して投票ページに行こう!! 読者のひと押しで作者は歓喜悶え間違いなし!!
感想はたった一言「えかった!」「いい!」「面白い!」「天才だ!」「悶えた!」など簡単でオーケー。末尾に!をつけるのがコツなのです。
その回の作品参加作者は必ず投票。QBOOKSの〈人〉としての基本です。文句言わない!

バトル結果ここからご覧ください。




Entry1

桜木ゆゆ

梅雨の季節だった。
覚えてるのは、雨の音だけ。
あたしは泣きじゃくりながら、真っ赤な顔を見られたくなくて、うつむいてた。
彼の足元だけを見ていた。
いやだ。別れたくなぃよぉ。
みすてないで。
色んな想いがぐちゃぐちゃのでろでろになって、
あまり働かない頭を支配していた。
声にならない。
泣いてちゃ駄目だって思っても駄目だ。
そんなあたしに愛想が尽きたのか、彼がくるりと向きを変えて歩き出した。
慌ててあたしは、やっぱり泣いてうつむきながら、後を追いかける。
あたしたち二人は傘を持っていなかったから、すごく変に見えただろう。
それとも、あの時間にあの場所に、それも雨が降っているところに、
いる人なんていなかったのかもしれない。
だけれどその時のあたしは、そんなことを考え合わせる能力を持っていなくて、
縺れる脚を無理やり前へ押し出していた。
小さいあたしは、なかなか彼に追いつけない。
いつも歩く速さをあわせてくれた人。
やさしさに気付かなかったばかなあたし。
もう遅いんだ。大切なものは、いつだってそうだ。
走る。
近づく、彼の、背中が。
だけど、触れることは許されなくて。
歩く。
遠のく。
走る。
近づく。
あたしは泣くことを止めて、追いかけるのに必死になってきた。
はぁ。はぁ。はぁ。
聞こえるのはあたしの息遣い、鼓動。
振り向いてください、お願い。
見捨てないでください、あたしを。
置いてかないで。
近づきたい。触りたい。抱きしめたい。キスしたい。
あの声で話しかけて。
あたしの名前を呼んで。
だんだん目の前が涙と雨で滲んでくる。
よく見えない。
おいて、いかないで・・・
彼の背中が滲む、ゆれる、消える・・・・・
あたしは走ってるの?歩いてるの?とまってるの?
涙が、あふれた・・・・・・
つまずいて、あたしの目の前は地面になる。
それでも彼は振りもしない。
わずかに見えていた彼が視界から消える。
涙の粒が水溜りに吸い込まれる。
たたなきゃぁ。行ってしまう。
はしらなきゃぁ。追いつけない。
そう思ってるのに・・・
膝が震える。立ち上がれない。
「・・・か・・ないで・・・」
搾り出す、のどの奥から。
声を!もっと声を!
雨、かき消さないで!!!
「いかないでぇ・・・」
彼の足は止まりそうにない。
あたしの声は悲鳴に近い。
「おいてか・・・ないで・・・」
涙があとから伝って落ちる。
あたしは嗚咽を上げた。
愛しい、愛しい、愛しい・・・・
目をあけていられなくて。頭を上げていられなくて。
覚えているのは、雨の音だけ。
走ってくる彼の足音は、聞こえなかった・・・


Entry2
後ろ向き、ちょっとだけ前向き。
猫目丸

「どこ行く?」
僕は答えない。僕には選択権はないからだ。いや、自分でなくしただけなんだけど。ただ、曖昧な笑みを返す。
「じゃあ、マックにしよっか?」
「それでいい。」
僕らはマ○ドナルドで軽く昼食をとることにした。僕の奢りだ。そうでもしなければ彼女と友達ではいられなくなるような気がして、僕は彼女に何もかも与え続ける。

会話の主導権を握るのはいつも彼女だ。僕は時々見当違いのことを喋るだけ。僕にはひとと話す能力すらないのだ(わかってるならそれを変えろ)。自分でも自分が何を考えているのかわからない(逃げてるだけだ)。いや、何も考えてないのだろう。空っぽだ(正当化だ)。
僕は本当に笑っているのだろうか?
そして、緊張感と自己嫌悪に満ちた楽しい会話(僕にとっては)が終わる。永遠に続くものなどない。それがいいのか悪いのか、僕にはわからない。僕はただ従うだけだ。

駅まで送ると、彼女は、
「バイバイ。またね。」
と言って去ろうとする。僕は、
「バイバイ。次会うのは葬式でかもね。」
と言って返す。彼女は駆け寄って来て、
「ダメだよ〜」
とかなんとか言うと、
「じゃね。」
と言って去っていった。
今ので少しは心配してもらえただろうか? と思う。そして自己嫌悪。
本っ当にクズだ。死にたいなら早く死ね。お前はどれだけ周りに迷惑かけたら気が済むんだ。
一通り自分を責めるのが済んで、僕は歩き出す。こんなことをしてる暇はない。行かなきゃならない所があるんだ。僕は彼女が好きだ。でも、僕はこれから先も、ずっと彼女に告白することはないだろう。告白した瞬間にこの関係も壊れるだろうから。
彼女が僕を好きになるはずはない。絶対に。僕は彼女とずっと友達でいたい。だから、僕を蝕んでいる、この「好き」という気持ちを、少しずつ殺していく。いつか、きっと彼女を完全に好きじゃなくなることができるだろう。その時、僕は笑って彼女に言おう、
「君を好きだった時があったんだよ。」
と。


Entry3
幸せな日常生活
順平

『死にたい』

 その一文を見た僕の目は、パソコンの画面に釘付けになった。自殺をする意思を見せる記事をを書き込む奴はこの掲示板では珍しくない。たいていの場合、荒らしなのだが、中には本気の者もいる。以前テレビのニュースで言っていたではないか。自殺をした女子高生が、自殺の意思をパソコンのサイトの掲示板に書き込んでいた、と。だが、こいつは荒らしだ。なにしろ三十行以上使い、『死にたい』と書き込んでいるのだから。

『何で死にたいの?』

 我ながら馬鹿なことをしていると思う。更新ボタンを押すと、書き込みが増えていた。

『死にたいから』

 こいつ、馬鹿だ。死にたい奴は死なせておけ、僕の知ったことじゃない。だが、指は心の声に逆らい、キーボードを叩いている。

『何で?相談に乗るよ』

 乗りたくねぇよーーー!なに考えてんだ、こらー!
 自分に突っ込むのが馬鹿らしくなり、僕は接続を切ってしまった。相談なんかに乗ってたまるか。まったく、匿名の掲示板での書き込みをすると心にもないことを書き込んでしまう。僕の悪い癖だ。

 朝。また嫌な一日が始まる。目覚ましに起こされ、制服に着替え、寒い外へと出て行く。バスの中ではよぼよぼの年寄りに足を踏まれ、香水くさい豚女が体にぶつかってくる。
 予備校についても真面目に勉強している奴なんかいない。女は携帯の呼び出し音を鳴らしまくり、男は女の体を見てばかり。そのうえクソ面白くもない話題で盛り上がり、僕まで会話に引き込もうとする。迷惑だ!
 
 僕は『死にたい』と書き込んだ奴の気持ちが分かったような気がした。

 また、僕はパソコンに向かう。昨日と同じサイトの掲示板を開く。ノックもなしに入ってきた母親は、僕を引きこもりだといって怒る。勝手に怒っとけ。
 今日も、掲示板では『死にたい』という書き込みが書いてあった。僕は、その書き込みに対し、昨日とは別の言葉を返した。僕の本音だ。

『勝手に死んでろ。この荒らし野郎、他人の迷惑も考えろ』

 僕はパソコンから離れられない。うるさい母親や、臭い豚女や、よぼよぼじいさんに携帯女、煩悩男どもに振り回されずにすむ。

 翌日、パソコンの掲示板の書き込みにショックを受けて自殺をした主婦のニュースがテレビで流れた。僕は、掲示板を開いてみたが、『死にたい』という書き込みはどこにも書かれていなかった。

 僕は、次の日にはニュースの事を忘れていた。


Entry4
白砂世界
西丹有倖

 皆、一様に同じ盲目の眼で天を仰いでいた。老人から赤ん坊までがそうして一点を見つめている。僕たちは、灰白色のコンクリートに群がるそれらを遠くから見つめていた。
「なぁカイ」
答えを期待せずにリクが僕に尋ねる。
「何あれ?」
「知らないよ」
僕は、しかし、何となく此処が生きた世界でないとわかっていた。
 あの群れが求めているのは、天からの光か?
 ふと思い付いた考えはどうでも良いものだった。
「俺ら、死んだのかな」
リクも同様のことを考えていたらしい。
「死んだんじゃないの」
特別な感慨も無かった。灰色の空は重苦しく、生き物のあらゆる活力を吸い込む。僕は完全に思考が停滞していて、泣きも笑いも不能となった。
 もし此処があの世であっても、何故僕たちの命が果てたのか憶えていない。
「悲しい」
リクが呟いた。確かに僕も、漠然と悲しい気はした。しかしそれを、どうすることも思い付けない。
 その時、腐った眼の女が歩み寄ってきた。
「あんたたちも、来てしまったのね・・・」
そう云って僕の腕を掴もうとした瞬間、女は白砂となって崩れ落ちた。戸惑う僕たちに、襤褸布を腰に巻いた老人が、こちらも死んだ眼で話し始めた。僕たちもこんな眼をしているのだろうか。
「あぁ良かったねぇ、あの人遺体が見付かったんだ」
老人は紙束を差し出した。簡素な新聞だ。この世界のものだろう。
 一体こんな眼でどうやって読むのだろうと目を遣った第一面に、遺体発見の見出しがあった。
「・・・姉ちゃん」
とうの昔に行方不明になっていた姉の遺体が山奥から発見されたという内容の記事だった。たった今、砂となったあの女は、
「姉ちゃん・・・だったかもしれない」
呆然と立ち尽くす僕に老人は諭した。
「此処にいるのは、死んでも誰にも遺体を認められずにいる者達だ。遺体が見つけられれば成仏出来る」
 僕の思考は矢張り正常に働かず、姉の面影に涙の気配すら感じなかった。
 光はまだ来ない。
 僕は漸く思い出していた。世の中が戦争をしていたことを。戦乱の中で、僕は親友のリクを撃ち、その直後に自害した。横でリクが呻いている。僕は別れの時を知った。
 そろそろ見つかる。
 僕の体も溶け出した。指先から消えてゆく。リクが落ちた。僕も落ちてゆく。二人で。二人同時に発見されたのだ。二人で共に弔われ、極楽へゆける・・・
「リク・・・」
熱い雫が、既に溶けかかった僕の頬を濡らす。滲んだ世界の遥か遠くで、淀んだ天から光が差した。


Entry5
ペンギン少年
かずひ

 夜更けの美術館通り。イオニア式の柱の陰に、モノクロームの塊を見た。
 ペンギンのぬいぐるみかと思って手を伸ばした。

 人間の少年だった。



 回れ右して立ち去ろうとしたが、コートの裾を掴まれた。

「おいオッサン。何だ今のは」

 ギリ、と睨み上げてくる。思わず顔を逸らすと、深夜営業のベーグル屋台の灯が目に入った。
 そうだ、コーヒーでも買って帰ろう。今夜は冷える。

「おい!」

 怒りを帯びる少年の声。
 仕方ない。正直に謝ってさっさと逃げよう。

「悪い。間違えた」
「……誰と」
「ペンギンと」
「はあ?!」
「すまん。黒白の服着てるからそう見えた」
 少年は自分の黒い上着と白いシャツに目をやり、
「って、ふざけんな。こんな赤毛のペンギンいるか」
「いるさ。マカロニペンギン属は、頭部にハデな橙色の飾り羽を持ち、尚且つ目つきが悪いのが特徴だ」

 沈黙。

「……アンタなぁ」

 謝罪失敗。



 右手にホットチョコレート。左手にコーヒー。
「ほら」
 甘い香に咽せながら差し出した紙コップを、少年は無言で受け取った。
 意外に慎ましかった要求(1$相当)に安堵しつつ
「これで放免か?」
「甘い。人をペンギンなんかと間違えた罪は重いんだよ」
 やれやれ。
 少年と同じ柱に凭れた。背中が冷たい。コーヒーを啜りながら見れば、少年の背中も震えていた。――いつからここに座ってるんだか。
「なあ」
 無視されたが構わず続けた。
「ここで何してるんだ?」


「誰か待ってるのか?」


「家出じゃないよな?」


「ペンギン嫌いか?」
「大嫌いだ」
 こんな時だけ即答か。
「何で嫌いなんだ」
「飛べないから」
 ああ、ね。
「それは誤解だ、マカロニ」
「マカロニ言うな」
「いいか、ペンギンは飛べないんじゃない。飛ばないんだ。あの翼は飛翔用でなく泳ぐ為のヒレ! 彼らは空仕様から海仕様に体を進化させた、実に優秀な鳥なんだぞ」
 少年は空のカップを握り潰し、顔も上げずに
「要は、逃げたんだろ。空から」
 おいおい。
「どうしてそう否定的なんだ。未来ある青少年が」

 ……長い沈黙の後、掠れた声が聞こえた。

「――未来なんて、ない」

「……何を情けないこと言っ」
「未来なんてない!」
 膝に額を押し付けて。


 その時、
 
 唐突に、判った。


 この子は、誰かを待ってるんじゃない。

 何故気付かなかった?
 黒は、黒はいつだって――遺された者の着る色じゃないか。



 蒼ざめた月が照らす中、翼をなくしたペンギンは、声を立てずに泣き続ける。


Entry6
一度でいいから見てみたい
満峰貴久

「本当だってば、確かに見たんだよ」
 冷ややかな視線を送る友人たちの中で、男は必死に説明していた。
「たまたま空を見上げたら、ぽつんと光が現れて、ジグザグに走ったり、急角度で上昇や下降を繰り返したり、いきなりものすごい速さで移動したりして、あれは絶対UFOに間違いないよ。よくテレビでUFOを撮ったビデオが出てくるだろ、あれと同じ動きだったんだ」
「そんな偶然あり得ないよ」
「そうだよ、たまたま空を見上げたらなんて、いかにも作り話ってのがバレバレじゃん」
「それに、周りにいた人が誰も気が付かないっていうのもおかしいし、昨日の昼間だったら見た人も大勢いただろうからニュースになっててもいいはずだぜ」
「ビデオにでも撮ったって言うんだったら別だけどさ、話だけじゃあなあ、証拠もなしに信じろっていわれても無理だよな」
「くっそー、ムービー付きの携帯でも持ってたら撮ってたのに」
「消えるまで見てたんだろ、他の人に知らせなかったの?」
「目を離したら見失うと思ったから、それに、そんな暇無かったよ。長く感じたけど、20秒ぐらいだったから。最後は光がブワーッと大きくなって、パコンッていう感じであっけなく消えちゃったんだもん」
「今度から、たまたま空を見上げるときは常にビデオカメラを持ち歩くことだな」
 笑い声の中で男は悔しそうに下唇を突き出した。

「所長、とうとう完成しました」
 技師は興奮した面持ちで報告した。
「これを使えば過去の歴史が一目瞭然です。いわゆる『タイムトラベル』です」 『時間旅行研究所』の所長の前にコンピューターが運び込まれた。
「これまで全世界で記録されたありとあらゆるデータがインプットされています。過去それぞれの時代の歴史、文化、宗教、思想、風俗、建物、土地の状態、そこに住む人の特徴、個人的な検索までも可能です」
 技師は得意そうにコンピューターの画面を示し、マウスを操った。
「10年前の東京を見てみましょう。このように、写真や映像でしか見られなかった世界が鮮明に見えます。町の様子から住んでいる人の動きや表情まで、このマウスを移動することで思ったとおりの場所に行けます。ズームすると、人の顔まで判別できます。見てください、この男だけ気が付いたようで、びっくりしています。きっと、この世界ではマウスポインターがUFOのように見えているのでしょう。男の顔をアップにしたまま、技師はコンピューターのスイッチを切った


Entry7
ハイジャッカー
玖珂陸

 日本から飛び立ったアメリカ行きの飛行機に、僕は乗っていた。
 アメリカ旅行で胸は高鳴っていた。そんな上機嫌な僕とは裏腹に、乗り込んだ旅客機内にはどんよりとした空気が漂っていた。失意や絶望に満ち満ちた、とでも言わんばかりに、暗い顔をした人々が、この飛行機には乗っていた。
 しかし、これからの旅行を考えると、そんなことは全く気にかからなかった。
 やがて太平洋の真ん中に来て、アナウンスが入った。
「当機は間もなく、下降を始めます」
 乗客からざわめきが起こった。どうして、海の上でこれ以上高度を下げる必要があるのだろう、と僕は思った。不思議に思い、周りの乗客の顔を見てみる。すると、彼らの顔からはどこか希望や安堵といったものが窺い知れた。ざわめきも、そのために起こったらしい。
 窓を見てみると、海面がどんどん近付いているのが分かった。まだ高度はかなりあり、不安は微塵もなかったが、何故機長がわざわざ高度を下げたのか、僕にはまるで分からなかった。
 しばらくして、再びアナウンスが入った。
「間もなく、当機は天国へ到着します」
 それは、機長からのアナウンスで僕には気の狂ったとしか思えない言葉だった。
 天国行き? 僕は咄嗟に辺りを見回した。
 すると、斜め後ろに座っていた老婆が胸を撫で下ろしながら、隣に座っていたもう一人の老婆に向かって話しかけているのが見えた。
「やっと天国へ行けるんだねぇ」
「良かったよ。これでやっと静かに死ねるんだ」そんな声がそこら中から聞こえてくる。明らかに場の雰囲気が和んでいた。
 そんな馬鹿な。これはアメリカ行きの旅客機じゃないのか?
 でも、周りの人々は口々に、楽に死ねる、とか、やっと死ねる、といったことを口走っていた。
 僕は急いで機長のいるコックピットへと向かった。僕はまだ死にたくない。人生はまだまだこれからだ。こんなところで死んでたまるか。そんな思いが、僕を突き動かした。
 僕は若いスチュワーデスを振り切ってコックピットへ侵入した。スチュワーデスの悲鳴が後ろで聞こえたが、僕は意に介さなかった。
 コックピット内に入ると、機長と副機長が驚いた顔でこちらを見た。そして、機長は機内放送用のマイクを手に取り、アナウンスを機内中に鳴り響かせた。
「ハイジャックです。ハイジャックです」

 飛行機に乗っていた人々が、不安げな顔をしたのを、僕は知らない。ただ海面が刻一刻と僕の眼下に迫ってくる。
 僕は自分一人の命を守るために操縦桿を握っていた。


Entry8
雨の日、晴れの日
福トラ

「外は雨が降っているよ。」
「あなたと同じ空間にいたく無いのよ。」
「それなら何処へ行っても同じだよ。この世界は、何処でも繋がったひとつの空間じゃないか。それに、ここには傘も無いよ。」
「あなたの顔が見えない場所なら、何処でもいいのよ。」
「それなら、やっぱり何処へ行っても同じだよ。僕の顔は、君の頭の中に記憶されてしまっているだろう。笑った顔も、怒った顔も、君が僕を完全に忘れる事は出来ないよ。」
「わたしは、あなたの事が嫌いなのよ。昨日までは好きだったけど、今は嫌いなの。だから、あなたの事なんてすぐに忘れてしまうわ。」
「でも、ここに傘は無いよ。」
「雨に濡れるくらい何でもないのよ。雨はいずれ止むし、濡れた髪も服も乾くでしょ。同じように、いずれあなたもわたしの事なんて忘れるわよ。人の記憶なんてそんな物だし、物事なんてそんなに意味のある事なんて滅多に無いのよ。」
「僕の中の君の記憶は、そんなに単純じゃ無いよ。」
「そうかしら?そんなふうに思うのも今だけよ。忘れてしまえば何も無かったのと一緒よ。」
「君が僕の事を完全に忘れてしまうなんて悲しすぎるよ。そんなのは僕には耐えられないよ。」
「わかったわ。それじゃあ、今日みたいな雨の日には、あなたの事を思い出すようにするわ。あなたは晴れの日には、わたしの事を考えていて。」
「それじゃ、やっぱり僕らはすれ違いになってしまうね。」
「仕方が無いのよ。」
「せめて、雨が止んで虹が出ている間だけは、お互いの事を考えようよ。」
「そうね、そのくらいならいいわよ。空に虹が架かっている間だけね。」
「きっとだよ。」
「きっとね。それじゃ、もう行くわ。」
「気を付けて、風邪などひかないようにね。」
「大丈夫。こんなの何でもない事よ。」
「さようなら。」
「さようなら。」


Entry9
ハッピー・バースディ
埴輪遥二

「決めた。俺、子供産む」
 ヒロシは突然そう言って、音を立てて長椅子から立ち上がったので、僕は座ったまま彼の腕を優しく掴み、諭すようにこう言った。
「男は子供、産めないんだよ?」
「じゃあ俺、女になる」
「どうやって」
「手術とかあるじゃん」
「性転換しても子供は産めないだろ」
「そうなの? ほんとにそうなの?」
「多分」
「ほんとか? 知ったかぶるなよ?」
 そこまで念を押されると甚だ怪しくなってきた。そもそも性転換手術というのは性器を付け替えるということなんだろうか。だとしたら移植される女性器というのはどんな女に付いていた物なんだろう。ぜひ写真とか見てみたいな……なんて僕までぐるぐるいろいろ考えてしまったので僕はヒロシの頭を軽く小突いた。
「痛い」
「まず座れや。な?」
 素直に座ったヒロシは、心なしか涙目だ。
「何でまたそんなこと言い出したんだ?」
「俺も子供欲しいんだもん」
「彼女に産んでもらえばいいだろ。結婚してさ」
「そうじゃなくて」
「何だよ」
「俺は、お前の子供が、欲しいんだ」
「はぁ?」
 ヒロシの目がまっすぐ僕を見つめている。ただならぬ雰囲気の中で僕は激しく混乱した。突然何を言い出すんだろうこいつは。
「……ずっと」
 僕達は普通の男同士のシンユウだったはずだ。
「……ずっと」
 やめろもう。これ以上喋るな。
「好きだったんだよ―――!!」
 瞬間、空気が凍りついた。真夜中近くだったので病院内にはそれほど人はいなかったが、それでも僕達は近くにいた十数人の目を確実に釘付けにさせた。
 とにかく何か言わなければ。言葉を模索していると、ちょうど分娩室のランプが消えるのが目に入った。数秒後、ドアが勢いよく開いて中年の看護婦が満面の笑顔で僕に言った。
「おめでとうございます! 元気な男の子ですよ」
 そのまま逃げるように分娩室に入ると、理子はヘッドレストに顔を伏せて、なんだか震えているようだった。慌てて駆け寄ると、なんと彼女は息も絶え絶えに笑っていた。
「あはは、くっ……くるし……痛いっつーのもう、バカー!」
「何笑ってんだよ」
「だってヒロシ……あんたのこと、すっ好きだって! あはははいたたた……」
「聞こえてたのか」
「どうするの?」と、理子はいたずらっぽく笑う。
「どうもこうも……」
「おい理子! 俺は負けねーからな!」
 ヒロシの怒鳴り声が響いた。そして廊下を走り去っていくスリッパの音。僕は理子の肩に、そっと手を置いて言った。
「負けるなよ」
「大丈夫。あれがあるもん」
 理子は傍らの籠の中にいる、奇妙な生き物を指差して言った。産まれたての赤ちゃん。
 帰りのタクシーの中で、ヒロシのことを少し考えたが、やがて面倒くさくなって眠ってしまった。どのみち今の僕にとっては、産まれた子供の方が大切なのだから。産まれる筈のないヒロシの子供の事なんか、考えたって仕方ないさ。


Entry10
続 3Dinternet の旅。
Taka-Ok

「リッチマンでもpoormanでも、インスピレーションは同じようにおこる」
僕は大スキな、デザイナーの言葉を神に思う。

 PC 「windows」の首位を奪ったOS 「WARP」
PCのモニターに構成される空間、文字は一切使用しない。
 
 「たみ?何枚買ったの?」みらいはテーブル越しに言った。
ぼくは音楽を選ぶ時、ジャケットを見てCDを買う、ジャケ買いしかしない。
文字は嘘だらけだから。
 「3枚だけだよ」みらいはずっとHMVで本を見ていた。
茶店を出て、二人で渋谷の坂を下る。

 今日買った音楽を流して、みらいのことを思い出した。

 OS WARPはぼく好みだ。
アイコン風のオブジェクトを感覚でクリックして行くと、文字が無い為か
、行きたい場所へ最短で行ける。
ジャケットを見てその中の音楽が想像できてしまう様に、慣れてくれば
デザインは何かのメッセージを発している事が見えてくる。
 
共通のデザインセンスが、検索能力を速くする。
言葉の検索のyahooやGoogle、時間がかかりすぎた事を思い出す。

時間を表すアイコンをクリックする。

OS WARPは全て大きな7つ。デザインや
ラインやカラーの振分けで、完結している。

時間を表すアイコンをクリックする。

みらいの持つ時間のフィーリングはまだ見えないけれど
ぼくの持つ時間のそれは、少しずつ見えてきた様に思う。
  
ネットのどこかのユーザーに流す。ONしているURLに。
PCのプログラムから見ていくと、時間にはユーザーの選んでいく順序から
いくつかの大きなパターンがある様だ。


Entry11

川口みづき

 ちりちりちり。
猫の蘇芳の首につけられた鈴が風に揺れる。茜は蘇芳を抱いて来たことを後悔した。
目の前の障子が、かたっと鳴る。
部屋に入れという姉の合図だ。
そっと部屋の様子を覗くだけにしようと思っていたのに。
しかし今夜は新月。この暗い廊下に長々といては、何が出てくるかわからない。最近、夜道を歩けば必ずと言っていいほど鬼が出るというではないか。
蘇芳を抱いたまま、恐る恐る姉の部屋の障子を開けた。
香は静かに部屋の中央に伏せっていた。色とりどりの着物の間からかすかに覗く、姉の口元は、笑っていた。
やはりだ。茜は舌打ちしたい気分に駆られた。姉は今晩ここを出ていくつもりなのだ。私と梔子を残して。
「茜」
香が紅い唇を開く。茜には、その紅がひどく不吉なものに見えた。
「梔子のことお願い」
茜は黙って頷いた。梔子は、茜の妹だ。頼りない、周りのことも、自分のことも、何も理解できない赤子のような妹B(I%%%%%%!#$=$NKe$r!";P$OL5@UG$$K$b<+J,$K2!$7IU$1$F$$$3$&$H$7$F$$$k$N$@!#
しかし怒りは湧いてこなかった。いずれこうなることを予感していたからかもしれない。
蘇芳を抱いたまま、茜は姉の部屋を後にした。
この家の女は、声を出してはいけない。
その掟を、つい先刻初めて破った姉の、自分の名を呼ぶ声を茜は反芻していた。物静かで美しい立ち居振る舞いにはそぐわない、ざらざらとして、背筋をそっと愛撫するような濡れた声。その響きは廊下の先の暗闇と混ざり合って一つになり、甘い痺れをもたらすものだった。
「茜」B(I%%%%%%H`=w$N@<$O!"$-$C$H0l@8<+J,$NL>$r8F$SB3$1$k!#$=$l$@$1$rNH$K!"0+$O[i;R$HFs?M$G@8$-$F$$$+$M$P$J$i$J$$!#
この広い屋敷に縛られたままで。


Entry12
カタログ
3月兎

 つかの間の休憩時間、ダイレクトメールで送りつけられたカタログを眺めていた。
「あなたもすぐに出来るようになる」
を、うたい文句に並んでいる商品は、どれもこれも少なからず憧れるものばかりだ。

『三ヶ国語マスター』
 これで貴方もすぐに三ヶ国語が話せるようになる。
内容 英語、スペイン語、仏語の日常会話のみ。
注意 読み書き編は別売りとなっております。

 科学技術の研究が進んだ今日では、ある程度の能力を外部データとして複製、保存する事が可能になっている。それを容易に利用することができる技術まで開発された。要するに特殊能力の切り売りが可能になっているのだ。
 脳に直接挿入する事で、一切の努力なしにありとあらゆる才能を身につけることが出来る。
 便利な世の中になったものだ。高価ではあるが利用者は途切れる事がない。
 並ぶあらゆる能力は、値段もよいが利便性希少性も共に高い。
 何ヶ国語も喋れたなら、世界中を巡っても不自由しないに違いない。海外での優雅な生活に思いを馳せつつ次のページをめくる。

『六法全書マスター』
 これがあれば弁護士不要。法律を味方につけよう。
内容 六法全書の全て。但し現法での内容です。
注意 改訂された場合は最新のものをお求めください。
   尚、判例類は別売りとなっております。

 思わず溜息をついて見入った。
 法律だって身につけておいて損はないはずだ。
 判事や検事を相手に裁判で大活躍、なんてこともありえるわけで。羨望と嫉妬の眼差しをあびて世間を闊歩する姿を思い浮かべると、これもいいなぁ、と思う。
 何気なく次のページをめくると、突然カラーから白黒の印刷に変わり、値段が安価になった。

『コミュニケーション能力マスター』
内容 人間との関係を円滑に進める為の能力が向上します。
注意 人によって反応は違います。絶対の保証はありません。

 これは廉価な分、絶対といえない不完全なものらしい。
 でも、誰とでの仲良くなれるなんて羨ましい能力だ。今は苦手な相手とだって友達になれるかもしれないのだから。全員でなくとも大多数となら円滑な人間関係を維持できるわけだ。不完全でもこれなら良い。
 そのとき、背後から声がした。
「おい、食事が終わったぞ。そろそろ片付けてくれ」
「はい、ただいま」
 席を立ち、「電子脳最新機能ソフト一覧・家庭用アンドロイド専用」と表紙に印刷されたカタログを閉じて、急いでダイニングルームへ向かった。


Entry13
二十歳
おんたけ

やっと迎えた二十歳の誕生日。なんともいえない興奮状態でやっと自分が大人になれた気がした。
でも・・・翌朝の目覚めは最悪だった。
目覚まし時計にたたき起こされ、目が覚めきらないうちに薄汚れた作業着に着替えながらタバコに火をつける。今までと何も変わらない日々の生活が目の前に広がっていった。
それまでに考えていた二十歳がどういうものだっだかなんて覚えていないけど、もっと変わるんだと思っていた。
その最悪の一日の中で、自分でも驚くような新しい発見があったことは唯一自分が大人になったことを自覚させてくれた。
駅の待合室でタバコをすう高校生や短いスカートで平気な顔して地べたに座り込む中学生を見たときに、思わず注意したくなった・・・。
あんなとこに座って恥ずかしくないのか? タバコは二十歳からって決まってるって知らないんじゃないのか?
そんなこともわからないんだな・・・・・・・ガキだな・・・・・・・・わからない?          そんなばかな!
違う・・・・・わかってる・・・・・・でも何か楽しかった・・・みんなで集まってどうでもいいこと話したり・かっこよくタバコすってみたり・・・俺もそうだったな・・・・・・!?
「そうか・・・、大人ってこういうものなのか! 自分のことは棚に上げて人に怒りとか、いやみとかぶつけて満足する・・・俺も大人になったんだな! これが大人か・・・そっか・・・」

二十歳・・・大人になって初めてわかった・・・・・・・・・
大人になんてならなければよかった・・・


Entry14

牛を飼う男

 私の前にはとても長い道が続いている。
 この道は奇妙なことに、幅が5メートルぐらいしかない。
 外側は暗い闇に覆われているので、進むことが出来ない。いや・・・たぶん私の足がすくんでしまうのだろう。なぜかこの闇に恐怖を感じるのだ。
 道は特に曲がり角もなく、段差があるわけでもない。ただ延々と直進が続いている。
 私はこの直進の道をもう長い間歩きつづけている。

 ・・・実はさっきから私の後をついてきている者がいるのだ。
 誰なのかはわからない。後ろを振り向く勇気もない。ただ気配だけを感じることができる。
 不思議と後ろの人間には不安を感じない。だが、どうしても対面することができない。いくら考えても理由は出てこなかった。
 今の私はもう彼に会うことを諦めているのかもしれない・・・

 後ろの彼は確か5年も前からついてきているような気がする。
 彼は必死で何かを私に言っている。私はその言葉を聞こうともせず、前の道を歩きつづけている。なぜ聞かないかというと、彼の言葉は私にとって空気でしかないからだ。つまり、理解不能なのだ。

「ん?・・・」

 後ろの気配が消えた。もしかすると外側の闇へと入りこんだのかもしれない。といことは、私の事を諦めたということなのだろうか。
 ふと、寂しさが私を襲う。だけど私は知っている。また私の後ろをついてくる者が現れることを・・・根拠もなく考えてしまう。

 私は考えた。道を進むのを止め、この外側の闇に足を踏み込もうかと。しかし、恐ろしくて踏みとどまってしまう。

 私は永遠に引きこもりの道を歩くのだろうか?自らの幻想的までに高くなった自尊心を守るために・・・

 私の問いに答える者は誰もいない。


Entry15
恋愛(?)風味
如月ワダイ

 あの時僕はまだ小さくて、自分がどんな過ちを起こしているかもわかっていなかったんだ。君がこんなにも愛しくて大好きなのに。

 いつも君は僕に、
「私は貴方が何を考えているかわからないわ」と、言っていた。
 でも僕は本当はわかっているんだろう? なんて、都合の良いように本気で考えていたんだ。だから君の不安なんて気づくはずもないし、自分の傲慢さにも気づけなかった。

 そして当然のことながら別れの時がやってきた。傲慢な僕を許せるほど君は大人ではなかったし、人の気持ちがわかる僕でもなかったから。そして僕の最後の言葉、今考えるとなんて最低だろうって思う。
「別れる? そう、僕は来るもの拒まず去るもの追わずだから良いよ」
「……相変わらずね。さようなら」
 そう言って君は涙を溜めた強い瞳を向けて去って行った。本当は別れたくなんてなかった。だけど、すがりついているそんな僕を想像することが、とても恥かしくて、惨めでどうしても言えなかったんだ。僕は本当に子供で強がる術しか知らないから。でも、それによって君を傷つけていたなんてことは、今の今まで気がつかなかった。
 だってそうだろ? 僕は君に誰でも良いと言っているんだから。別に君なんて好きでも嫌いでもなかったって。ただ自分が傷つくのが怖かっただけなのに。なんて情けないんだろう、僕は男失格だ。


「って言っている気がしない?」
「はぁ?」
 カフェの中にいる僕と凛子は昼の太陽に照らされて、スポットライトを浴びているような気分になる。凛子といると僕はいつも光に照らされている気がする。だからもしかしたら彼女はこの世界の主役なのかもしれないと、最近思い始めた。
「だからさ、凛子の食べているスパゲッティの麺たちだよ。今まで若い女の子達に大人気だったから気にもしなかったけど、食べられる瞬間って人で言うと死を意味するだろ? 死の前って結構色々考えるみたいだからさ」
「何、気持ち悪いこと言ってるのよ?」
 そう言って凛子はスパゲッティをかき混ぜてからため息をつき、食べるのをやめてしまった。そう、彼女は優しいんだ。人殺し……いや、麺殺しなんてできない。
「で、買ってくれたんでしょうね? プラトンのバック」
「あ……」
「買ってないの!? あれだけ言っておいたのにっ!! もう、何のために私がここにいると思ってるのよ」
 大声を出し立ち上がる。
「僕に会うためだよ」
 そう言って凛子の手を握り、僕にできる限りの魅力的な笑みを浮かべる。と、同時に彼女の平手が僕の頬に勢いよく飛んできた。
「んなわけないでしょ! ったく時間を無駄にしちゃったじゃないのよ」
 凛子は怒ってカフェを出て行ってしまった。
 う〜ん、また怒らせちゃったよ。でも、
「愛してるよ、凛子」
 後悔したくないから言葉に出してみた。けど、これが凛子に聞えていたらきっとゴミ箱でも投げられるんだろうなと思うと苦笑してしまう。だって彼女は照れ屋だから。そして僕は一人太陽の日差しをみつめ足元に隠していたプラトンのバックを日陰に隠した。

「君には負けないよ」 


Entry16
春の風の歌
Jinsei

 君の憂鬱はいつも突然だった。
 春の初めの突風みたいに。
 地上のあらゆるものが舞い上げられ、倒され、落下した。

「ほっておいてよ」と君は言う。「もうわたしのことに構わないで」
 そして僕の買ってきたケーキを開けもしないで床に叩き付けた。僕は箱の中のショートケーキのことを想像した。暗い箱の中でどんなにショートケーキが歪められてしまったかを。
「どうしてケーキなんか。見たくも食べたくもないわ」
 君は大きな声で叫んだ。風が窓を揺らし、カタカタと乾いた音を立てた。
「もうケーキじゃないよ。ただのクリームの固まりだ」
「お願いだから、ほっておいて。あなたなんか大嫌い」


 僕は一人暗いリビングで彼女のことを思う。彼女は今、寝室で何をしているのだろう、と思う。さっきまで彼女の泣き声が聞こえていた。長くすすり泣くような声だった。風が木や枝や葉や花を揺するように、きっと彼女の肩も揺れている。
 月の光がリビングにおぼろげな影を作っていた。
 どうして風の強い春の日の夜は美しいのだろう。あらゆるもの、月も、耐えている草も、寝付けない小鳥たちも。

 そして、もちろん彼女も。
 彼女の憂鬱は、時として彼女自身をも傷つけた。
 彼女自身を舞い上げ、倒し、落下させた。
 そのことでどんなに苦しんだろう。
 どんなに彼女自身が損なわれてしまっただろう。
 それでも、と僕は思った。それでも彼女は美しい。


 風が止んだ。
 コーヒーを持って寝室に入ってみると、君はベッドの上で少し眠そうな顔をしていた。泣いたあとの少し眠そうな顔。僕はそれを愛しいと思う。
「何をしてたの?」僕は暖かいコーヒーを君に飲ませた。
「泣いてたのよ、わかるでしょう?」
 カーテンを開けると寝室にも薄い光が射し込んだ。月の弱い、やさしい光。
 僕らはしばらく無言で抱きあった。君も僕も、やさしく穏やかな光に包まれながら。
「少し眠った方がいいよ」
「あなたのそばで?」君は僕にもたれたまま震える小さな声で話した。
 もちろん、僕のそばで。
 僕のそばにいてほしい。


「子供の頃ね、恐い夢を見るといつも姉のベッドに入ったの。姉は二階の部屋だったから廊下を一生懸命走ってね。わんわん泣きながら」
 君の手のひらが僕のお腹をさすった。君の眠りそうな細い声が暗闇から聞こえてくる。
「だから、姉がいないとき、たとえば姉がお泊りだったり学校の行事とかで家にいないときは夜が恐かったの。夜のあいだずっと起きてようと頑張ったけど、いつもいつのまにか寝てしまって、それで決まって恐い夢を見るの」
「僕がいるよ」
 そう言ってから、僕は君の髪を撫ぜた。
 暗くてうまく見えないけれど、確かに君は僕のとなりに寝ていて、僕を見つめている。
「寝ないでわたしを見ていてくれる?」
 うん、僕はうなずく。
「わたしが恐い夢をみたら、すぐに助けてくれる? 手をずっと握っていてくれる?」


 かすかな風の音がした。
 やさしいやさしい、春のあたたかい、撫でるような風。
 耐えていた草を癒し、寝付けない小鳥たちをそっと寝かしつける風。
 僕は君の手を握ったまま、春の風の歌をいつまでも聴いていた。


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