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ねむる装置-warp I.木田毅

 今日もまだ生きていた。木田毅は学校に向かうまでの道々考える。剥いだ布団の隙間から忍び込む冷気に起こされたのか、それとも時間がくるとラジオの点く目覚ましに起こされたのかは今となっては思い出せない。夢の詳細も思い出せないが、ただ今朝は非常にいい夢だったような気がする。その証拠に、まだあたたかい涙が頬をつたっていたし、左眼が目やにで開かずに難儀をしたのだ。
 もう冬がくる空色、学ランを着ても涼しく感じる気候になった。ポケットに手を突っ込みたいようなそうでもないような気持ちで毅は今日の夢を掘り返す。たしか、山奥から帰ってきた観光バスだ。女の子がいたな。顔を思い出せないけど、非常に愛らしい顔だった気がする。小学生の時に体操クラブに通っていたときの、ずっと毅になついていたダウン症の娘。おかしいな、きっともっと違う娘だったように思うのだけれども、輪郭が同じだからなのだろうか。
 毅の住む二丁目から四丁目へ。ひとつ通りを越えると中学校まで一直線の道だ。段々知った顔が増えてくる。見比べて今日の夢の登場人物に組み合わせてみる。どれも合わなくて安心する。目覚めた時の涙の感触が、こいつらにあったら、きっとがっかりするだろう。
 校門、生活指導の教員に頭を下げて言葉ともならない声をあげる。入口から左手が校庭、右手に二棟の校舎が並ぶ。時計は七時二十五分。早々と南側の校舎から歌声がする。合唱大会まであと9日、の垂れ幕は昨日のままだ。まだ放送委員は学校に来ていないようだ。
 昇降口に前島隆がいる。毅と同じバスの部だ。よう、と声をかける。
「また揉めんじゃないぞ、ただでさえ時間が無いんだし」
 隆には答えずに階段を上がる。一歩一歩踏みしめるごとに錘を科せられるようだ。上履きのゴムで足場を捉えて、ふくらはぎに体重を任せる。朝の空気は背中から立ち上る熱気とまじりあって、より寒い。悪いのは当然やつらじゃないか。くだらない話とわがままで、時には火の点いたように騒ぎ出す。
 毅の中学校では毎年十一月、市の公会堂を借りてのクラス対抗合唱コンクールがある。課題曲と自由曲の二曲、学校の授業はもとより、朝連放課後練はあたりまえ、果ては休日にも各々仲間内で寄り添って練習するグループもあるという。あるという、とはいうものの毅は参加したことが無い。母親が当麻薬局の裏の駐車場でひとかたまりの女子が歌っているのを観たというのを聞いただけだ。いいわねぇ街じゅうあんなんだと。半分は賛成である。でも、そうまでして得るものがあるのか、というのが、もう半分の気持ちである。得るもの以上に、失うものが多かったと思うのだ。毅は。
 集合は四十分だったが、四十五分位にどやどやとかたまって人が入ってきて、また待たされる。だが、悪い気はしていない。
 関真美が、いないのだ。
「じゃ、初めに一回通してみよう」
 クラスの人気者から毎年指揮者の坂井、の持ってきたキーボードに取り付いた赤根、の小さい頃からピアノを習っていた指先からはじめの音。ユニゾンなので全員Dだ。――澄まない。校門を開くようなざらざらした音で、坂井は「まぁいいや」という顔をした。キーボードを振り向くと赤根は眠そうな顔で指揮者に気づいていない。おい、と呼びかけて向き上がった顔にはうっすら隈が出来ている。指揮者のゆるくそろえた指が振り上がる振り下がる、前奏、高音部からミディアムロウ、きっちり四小節、坂井の顔が向き直る。と、〇、五拍遅れて息を吸う音がする。都合一拍遅れる。ちゃんと拍を取っているものもいたが毅も含めた小数で、へひゃひゃひゃ、と指揮者が噴出して手を下ろす。全体的に空気がふにゃふにゃとして、ついてしまった皺を引き延ばすのに時間が掛かる。ほら、指揮者が指すときにはちゃんと呼吸を準備しておいて。じゃ、もう一回頭から。頭からも何も歌い出しで止まってしまったのだが、坂井は坂井なりに任務を全うしようとしているのだと思う。クラスメイトから指揮者の顔に戻る。アルトパートの女子が喋りつづけているのを見てクラスメイトの顔にまた崩れる。あ、はい、だなんて可愛い声を出して口を水平に結ぶ、水平なのは口だけであとは弧を描いて歪んでいるのが佐藤真希、隣にいるのが香田木綿子。これにもうひとり、関麻美がくわわるといつもの三人組になる。関の内臓に食い込む包丁のようなまなざしに胃がぎりぎりと切り刻まれる。昨日のあの焦燥、クラスの大半が集まる中で怒鳴り散らした毅、揚々とかばんを手に帰ろうとする横目で机を蹴り上げる関の真っ赤な顔を見て爽快な気分でいたのだ。あの関に、毅を嫌い、蔑んだ女どもに一矢報いてやった、そう思うと晴れ晴れとした気持ちだった。きっと怒り狂った関は、仲間内のA組の松葉やD組の関本に、あの木田ブタケシの野郎に怒鳴り散らされた、と怒り狂うあまりに泡を吹いて倒れて、ひどく頭を打って入院してしまったに違いない、と想像したし、そうであったらいいな、と思い直した。別段こっちはバスパートのパートリーダーであったし、クラス練習が終わった後での各パートリーダーごとの総括で喋ったのだからこちらには何の非も無いのだ。自分がうるさがられていることは重々承知だったが、それで自分の何もかもを否定されて泣き寝入りするくらいならば、一時でも奴らがへこむ姿を見るほうが気持ちが楽だった。それにだって、自分は正しいのだから。
 練習は二回通したっきりで、それで終いになった。

 五階から三階へ。下るエスカレーターの視線の先には二人の人間が座っている。ひとりはほっかむりをしたおばさんで、その後ろにはひとまわり図体のでかい男が同じように座っている。なんだろうと思ってみていると、エスカレーターの出口でおばさんはついと立ち上がる。手には雑巾を持っている。ああそうか、エスカレーターを拭いているのか、と思うと後ろの男はタイミングを外してそのままごろりと横に倒れこんだ。おばさんは手を貸そうとして、自分よりおおきな体格を持ち上げるのは無理と判断して手を離した。通り過ぎるときにふたりの手元をちらと見る。局地的に黒ずんだ布切れは、今まさに黒く染まりだしたふうであった。
 毅の用があったのは駅ビルの五階でも三階でもない四階で、四階の本屋を物色してからわざわざ飲食店のならんだ五階へあがり、そこから三階までのエスカレーターをたのしむのである。広がる空間の壁には誰のものとも知れない十二星座の画があって、美術の成績がさしてよくもない毅にであっても、うまくないように思えた。
 エスカレーターからエスカレーターへ。三階から駅に向かう扉を抜けて脇へ曲がる。三階から一階へ、駅前の大通りを眼下にだんだんと降りていく。夏には阿波踊りも催される大通り、はるか奥のT字路まで見通して、毅は少し気の晴れる思いがする。目の高さが送電線から街灯、街灯から商店の看板と移っていくうちに、拭い去った憂鬱がまたひとつひとつ身にかえってくるようで、エレベーターを降りる頃には、吹き荒れるビル風に身を縮めて歩くのである。
 いくら合唱コンクールで学校中が盛り上がっているとはいえ、授業が減るわけでもテストがなくなるわけでもない。公立小中の持ち上がりで安穏としていた中学生にも、ひとつのハードルを越える時期が同時に訪れるわけだ。毅にとっての数学は長い間放置していた虫歯のようで、平均点でこぼこだった点数が二学期の中間テストで一気に落ち込み、いよいよ逃げ場が無くなった。隆も通っているという個別指導塾に通い出して二週間、疲れた腰や咽を引きずってビル風の中を歩くと、宵の冷気が生地を透って震えた。コンビニの昼間のような看板を通り過ぎると一つ暗がりがあって、塾の入った雑居ビルが口を開いている。風圧で重いガラス戸、ぐっと力を込めた先、エレベーターの前で一人立っているのは、今日、結局学校には現れなかった麻美だった。毅も慌てて戸を閉めようとするが、室内で温まった空気と外の吹き荒びではどうしようもない。吹き込んだ風にこちらを見た麻美の表情がみるみる強張ってあたりを見回すが、裏手の非常口の前には警備員室がある。エレベーター乗場しかない一階フロアで一人泣きそうな顔の関を見て、毅はふいに獲物を見つけた猫の気持ちになる。お前らのわがまま勝手のおかげで、俺がこんなに真面目にやっていても報われず、不愉快なのはみんなみんなお前ら三人のせいじゃないか。戸の外でじっとしていると、麻美は後ろ手でエレベーターのボタンをさぐって、来た箱に乗り込んでしまった。箱の中から出てきた作業服の男がぎょっとした顔で麻美をかわす。
 鉄扉がゆっくりと閉まったあとから追いかける。一本違いでも塾のロビーに麻美の姿はなく、じきに担当の山内先生が出てきたので、ついて勉強ブースの中にはいらざるを得なかった。たくさんのついたてで区切られた室内には下は小学生から上は大学受験を控えた高校生までごった返しているけれども、第六感的な「気配」は感じられなかった、が、刹那、ブースの中央を通る確実な気配があった。こちらには気がつかない風の関麻美が、ソバージュの女先生に連れられて、毅の脇を急ぎ足に通って、壁一枚はさんだ机に陣取ったのだ。季節柄には少々早いカシミアの黒コートで、ポケット周りの水滴が視界にひっかかった。トイレに行っていたのだろう。癇障りな声の端々、きっときっときっと、自分の話をしているのに違いないと思ったとたんにあのう先生、木田君っているでしょ。あの人同じ中学なんですけど、ここに入ったのってけっこう最近ですか? あ、やっぱり? ううん、全然別にどうでもっつーかすっげえウゼェんすよ。
 翌日「アタシ、木田ブタケシに塾の帰りに襲われたんです」という爆弾が学校を席捲する。来るべき冤罪に備えて、深く深く眠れ、毅。


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