第5回テーマ:「stand by me」
放課後の音楽室は湿った胎内にいるような息苦しさだ。詰め込まれた黴臭い管楽器と汗ばむ夏服のおしゃべりが、生ぬるい和音を延々と垂れ流している。音合わせの時間はいつも、熱帯の密林に土葬されているみたいだと思う。練習の終わりを告げるパートリーダーのとろんとした声を聞いて、汗のにじむ椅子から立ち上がり音楽室を出る。相棒の金色の木管を握り締めたまま、中学の校舎が見える河川敷に立つと、南岸の化学工場から粘っこく匂う風が頬を舐める。あの工場はもう何十年も毒を吐いているけれど、それでも学校にいるよりましだと思う。 振り返ると、灰色にかすむグラウンドの真ん中に、今日も赤いランニングが佇んでいる。既に練習を終えた仲間は隅でふざけあっているのに、彼はトラックで独り目を閉じ、確認するようにゆっくりと細長い四肢をストレッチしている。校内ではあまり見かけないから、たぶん先輩なのだろう。彼のしなやかに張りつめた筋肉が私の呼吸を少しだけ楽にする。目を閉じ、脳裏に彼の姿を浮かべたままフルートを唇にあてた。 私の一吹きが大気を穿つ。彼は走り出した。八百メートル選手の彼はトラックをきっかり四周する。大気を掴むような一周目。支配する二周目、思うまま操作する三周目。そして引き裂き破壊する四周目。生まれ出てなお胎内に憂いているような学校にあって、研ぎ澄まされた彼の走りだけが純粋で、そして美しい。私は吹き続ける。繰り返す主題の抑揚は切り裂く刃となる。二合、三合、絡みつく虚空と剣を交えるうちに音楽室の情景が消える。一切の欺瞞やごまかしが粉々に飛び散る。それは偽の安息への拒絶だ。 彼の鍛え抜かれた下肢はいよいよ力強く大地を蹴りたて、ぐんぐん伸びるスピードは大気を圧倒する。ラストスパートだ。私は吹き続ける。吹き続け、拒み続ける。私を包む羊膜は凍てつき、砕け落ち、虹色のかけらとなって気道を刺す。でも私は止まらない。金管の裂けんばかりに虹色を爆発させる鋭く長いコーダ。彼がゴールの先にある何かを貫く弾丸となって一気に駆け抜ける。ぬめる内臓を破壊しつくして、私たちはこの世界に新しく生まれるのだ。 ゆっくりと虹のかけらを吐きながら目を開けると、彼はまだグラウンドに佇んでいた。私を、じっと見ている、そんな気がしたけれど、汗に濡れた赤いランニングから目を離せない。彼の筋肉が、彼の呼吸が虹色に煌いて、私はそれをずっと見ていたかった。
誰かに似ている、と思った。 信号待ちをしていた。ふと目をやった隣に並んだ私と同い年くらいなのであろう彼はひょろっと背が高かった。少し癖があるらしい髪は長め、浅黒い細い腕に夏用の学生服がしっくりと馴染んでいる。 じっと見つめ過ぎてしまったらしく、彼はこちらを向くと大きな眼鏡の奥のレンズで少し歪んだ瞳で訝しげにこちらを見つめ返した。 「あ」 眼鏡だ。私の脳裏に映画のワンシーンがよぎった。4人の少年達。そうか。スティーブン・キング。スタンドバイミーだ。彼の顔の半分ほども占拠しているように思える太い黒ブチの古めかしい眼鏡。それは映画に出てくる4人の少年達、そのうち1人が掛けているあの大きな眼鏡に似ていたのだ。他の3人は日本人の私には見ている間さっぱり見分けがつかなかったし、名作であるという評判の割にはなんだか内容もよく覚えていない。だがあの眼鏡の彼だけは強烈な印象を持って私の脳裏に焼き付いていたらしい。名前は、なんと言ったっけ。「……あの」 彼の顔を、正確には彼の眼鏡を穴の開く程に見つめながら必死に記憶を手繰っていた私は彼の遠慮がちな声に急に我に帰った。 「あ……ごめんなさい。その、つい、その、あなたの顔が知り合いに似ていたもので……つい」 しどろもどろに言い訳する。 「いや、」 短く言って彼は、軽く笑んでちらりと白い歯を見せた。その様はますます映画の「眼鏡くん」に似ていた。 「女の子に急に見つめられたからさ、照れちゃった」 おどけた風に言って肩をすくめる仕草をした。私は思わず笑ってしまった。眼鏡に似合わず意外と軽い感じだった。ひとしきり笑いあった後、 「ところでさ、それってナンパ?」 唐突に言われた。「は?」 「だってさ、知り合いに〜とかナンパの常套句じゃない?」 にやにやとしながら「眼鏡くん」は言う。そんなの聞いた事ないと答えると、 「じゃあさ、オレがナンパするよ。おねーちゃんお茶でもしないー?」 なんだかやたら古典めいた台詞だ。面白そうなので頷いてみた。「眼鏡くん」はちょっと驚いたような顔をしたけれど、すぐにまたにやっと笑った。 「バイト代出たばっかなんだ。奢りだからまかしといて」 古めかしい眼鏡とは似合わないおどけた表情が好みだった。たまにはこんなのもいいじゃん。私も笑って彼に並ぶ。信号がやっと青に替わる。 私たちは音程の外れたとおりゃんせのメロディーが響き始めた横断歩道を渡って「お茶をしに」出かけた。
街道に出ると、大型が我がもの顔で飛ばしていた。助手席でサブちゃんが抱え込んだポリタンを叩きながら、舌を器用に震わせて繰り返しているのが、ギロの音色だとわかったので、僕は口でベースを合わせて、イントロを三回繰り返したところで、サブちゃんが歌いだした。 うぇんざ、ない、はず、かむ…… Stand By Me B.E.King 「なあ、ヨシクニ君、自転車の荷台は『助手席』たあ言わねんじゃねえか。読んでる人が誤解すんぞ」 ワンコーラス終ったところでサブちゃんが言った。 「でも、荷台って書くと実用自転車だってばれちゃうし、人間には見栄があるから、第一、二人乗りは交通違反だし……」 「バカ言ってんじゃねえよ、これからもっとすげえ法律違反しに行くんだから。大事の前の小事だ。堂々と書けよ」 そう言ってサブちゃんは、ツーコーラス目に入った。 幼なじみ(小中同級)のサブちゃんが、今夜突然「火ぃ点けに行くから」と家に来た。 『以前からイケスカねえ』上司に今日、『高校中退』というサブちゃんの人生の中で一番触れられたくない部分を『憧れの陽子先輩』の前で暴かれ『顔からマグマを噴く程』の『大恥をかかされた』そうだ。それで、そいつを『火炙りに処す』べく、住所を調べたら、実用自転車で一時間程の所だったので『ヨシクニ君にお願いするに至った』と拝まれた。事前準備として道中『ガソリンを調達』すべく、大きいポリタンと短いホースも携えていた。 だーりんだーりん、すたんばぁぁみぃ、おおー サブちゃんはその陰湿な目的とは裏腹に異常に上機嫌だった。 「放火って、重いらしいよ。罪……」 「んなことは、先刻御承知だよ。昔は火付盗賊改方、今は甲殻機動隊が担当してんだ。捕まったら十年は刑務所暮らしだな。あはははは」 「刑務所じゃあ、サブちゃんの好きなオールディーズも聴けないよ」 「ヨシクニ君、バカをお言いでないよ。俺の音楽には、何とかポットとかいらねえんだ。音楽は、いつもハートに詰ってんから、たとえ刑務所に入ろうが、人生は音楽と二人三脚なんだぜ」 うぇんえばゆいんたぁぼぉうぉんちゅー、すたんばぁぁみぃー その後、上司宅近くで、路上駐車の燃料タンクをこじ開け、ホースを口で吸ってポリタンに移そうとして、加減したつもりが、思いっきりガソリンを飲み込んでしまい、サブちゃんは救急車で運ばれ、胃洗浄。『火付盗賊』は『窃盗未遂&全治一週間』となった。