第6回テーマ:「三日月の重みをしなふすゝきかな」(「寒山落木 卷一」正岡子規)
「正岡子規、ねぇ……」 私は呟いた。 「うん」 三日月じゃ、ないけど。 そう静かに言ってノボルは半欠けの月を見上げた。 彼はこうやって会話の端々でさらっと古典文学や俳句なんかを引用できてしまう人だ。それは決して厭味な感じではないのだけれど、私はいつも少し気後れしてしまう。いい人なんだけどな。私は前を歩く彼の背中を見て思う。 ついこの間まで暑さに喘いでいたのに今夜は随分と涼しい。酒に酔って火照った体にも肌寒く感じ、私は羽織った薄いニットの前を合わせた。今日のように飲み会帰りにノボルに送ってもらうことはこれまでに何度もあった。二人で食事に行ったこともある。仕事でも信頼がおけるし、穏やかで気遣いの出来る人だ。でも私は未だに彼のもの静かな雰囲気に慣れることがない。嫌う理由もないのになんとなく、呼吸のしづらい居心地の悪い空気。 「子規はね、野球が好きだったんだ」 唐突にノボルは言った。無類の野球好きであり、今年は高校選手権の決勝戦に涙した私はその言葉に思わず顔を上げる。彼は微笑んでいた。相変わらず涼しげで、野球観戦の熱狂的な盛り上がりなんかとは縁の遠そうな笑み。 「100年以上昔の話だよ。日本に野球が入ってきた頃の熱心な選手だったんだって。関連した句も詠んでるしね。かなり好きだったみたい」 「そうなんだ……なんか意外」 「面白いでしょ?」 それは本当に考えもしなかったことだった。同じ日本に生まれたはずなのにどこか別の世界の人のように思っていた正岡子規という人が急に身近になった気がした。人とは現金なものだ。 「それに、その当時初めて野球っていう表記をしたのは子規なんだ」 「そうなの?」 「うん、自分の幼名と引っかけてね」 言ってノボルはくくっと笑い声を漏らした。 「?」 「野球って言う漢字の、野はノ。球はボール。ノ・ボール。昇。僕の名前はそこから来てるんだって」 「……それってダジャレじゃない?」 私もぷっと吹き出してしまい、二人して笑う。 「うん。親がそういうユーモアのある子規が大好きだったんだ。幼名から、っていうよりはそっちのダジャレからとったんだって」 「そっちなんだ」 「そう、自分の子供の名前だよ?何考えてんだろ」 その話が妙に笑いのツボに入って、すすきが傍らで揺れる中私たちはいつまでもケラケラと笑い続けた。 「子規っていう名前だって由来が面白くてさ……」 「へー、どんな?」 空気がふっと柔らかくなった、その夜だった。
まだ暑さの残る初秋の夜のことである。蓬髪の若き破戒僧が一人村外れに在るこの破れ寺を今宵の宿に定めた。先の大いくさに焼け落ちた山門をくゞり、本堂の縁側に腰かけると、矢傷の残る古びた柱のひとつに背をもたせて、荒れ果てた庭に向つて若木の枝のような四肢を投げ出した。疲れ切つた僧はすぐにうとゝゝとまどろみかけたが、叢を分け入る小さな足音に瞼を上げた。うす闇にかすんで、藪の小枝のごとき手足を襤褸に包んだ背の低い爺が、童の頭ほどある大きな徳利を下げてゐる。獺が後足立つたような風体である。その縮れた白い無精鬚の口元が嗤つた形のまゝ「佳い月だ」と謂つた。日没の朱が溶けた藍闇の西空に三日の細月が架かり、辺りの雲が硫黄色に染められてゐる。なるほど寥々たる月だが、あやかしの類の裂けた口を思はせ些か気味が悪い。そう訝しんでゐるのが伝わつたのであろうか、爺は口の中でくくくと嗤い小さな黒目をくるりと回した。 縁側に上がりこんだ爺は懐から欠けた白磁の盃を出して徳利からなみゝゝと注ぎ込んだ。そのまゝ呑むかと思えば手招きして盃を指すので、鬚に頬を寄せて獣くさい息を我慢し乍ら覗き込むと絃のごとき月が見事に映つてゐる。爺が盃を口に運ぶと、ちゞれ鬚の口の両端がにゅうと釣りあがり、酒の面に映る月をするりと呑んだ。幾度も乾した爺は生暖かい息を吐き、盃を僧に突き出した。酌まれた酒を僧は喉の奥へ一息に流し込む。安茶屋の濁酒とはものが違う。薫り高き鮮やかな甘露であった。吹き始めた風が火照つた頬を撫でる。細い月明かりに芒が揺れて淡く光つていた。 遣れ寺にさかづき居りし秋の夜 嗤つた唇のまゝ爺が朗々と詠んだ。僧はしばし黙つて盃を玩んでいたが、凛とした声で、 見あぐるやまことの月のかかりしにさかづき映し影を詠うや これを聞くや爺は薄い眉をひょいと上げ無精鬚を掻いていたが、 見あぐるにとどかぬ月を如何せんさかづき映し影を詠うも 「虚も実もありはせぬ。全ては己が眼に映りし空也」 爺は盃をふうと吹いた。 ざわりという音に振り返ると芒が大きく揺れている。否、どうしたことか、芒の上に架かる絃月もまた中天にゆらゝゝと波立つていた。風が凪いで月はまた空に凍りつき、それを芒が受け止めたように撓つた。 気づくと僧はひとり破れ寺に遺されてゐた。爺の座つてゐた辺りに古びた木切れがあり、一つの句が書きつけられてあつた。 さかづきのうつし世にありすゝき垂る
午後の会議の後半で、部長に押し切られる形となり、来月からの転勤を承諾させられた。部長は満足気に事の首尾を専務に報告した後、負い目を感じたのか、肩を叩いて、 「どうだい、帰りに一杯」 と誘って来た。 カウンターに二人で座ると、訳ありげな雰囲気を敏感に察知したママもマスターもこちらには寄りつかず、テーブルの客相手に盛り上がったり、奥でチマチマと働いたりしていた。 別にこれといった話題も浮かばず、うわさ話、遠い戦争、教育論、自民党、プロ野球と小一時間を過ごした後、 「三年、いや二年半で必ず呼び戻すから、本社育ちの気概を持って、ひと暴れしてきてくれ」 と励まされ、店を出た。 妻には夕方、 「帰宅遅延、夕食不要」 とメールした。 まだ早いし、酔い覚ましにもなるので、川沿いの道を遠回りして帰ることにした。見事な三日月が出ていた。 「三日月の……」 大学のサークルで、私のペンネームは「三日月」妻のペンネームは「香奈」だった。 娘は来年高校受験、志望校も決まった。息子は今年、家から通える大学に入った。妻は、三度目の転職先でやっと落ち着いたようだ。飼犬は三歳、年老いた母が独りで暮らす実家まで車で四十分。金魚五匹……。 「単身赴任」 それはもう、相談するまでも無い決定事項のようなものだ。だが、帰宅後、直ぐにではなくても明朝には、少なくともこの週末のうちに、妻に告げなければならない。 「今さらどうして……」 大きな瞳を見開いた妻の不思議顔が浮かぶ。色々と不満を述べるだろう。子供達の教育問題、母の体調、飼犬の散歩、全てを放棄するのかと、詰め寄ってくるかもしれない。いや、違いない。 「『……重みにしなふすゝきかな』これ、私のことなんです。三日月先輩」 そんなことを言って、大きな瞳で私を見つめる香奈、笑っていた。 「どうしてって、どうしても断わって下さいな。『家族がありますから』って、『母が病気ですから』でもいいわ。とにかく、断わって下さい」 『子供の教育上、大切な時期ですから』 『妻がノイローゼで……』 妻の旧姓は「鈴木」 「『三日月の重みにしなふ鈴木香奈』ね、私が先輩の重みに撓っちゃうんです」 思い出の妻は、ケタケタと笑い、私は言い訳を考え続けた。 『娘が不良少年に騙されて……』 『母が振り込め詐欺に弱くて……』 『犬の散歩が……』 『人生が……』 『金魚が……』 そして、月末の引越しの段取りも考えつつ、帰路を辿った。