青天の下、緋袴を履いた巫女が山道を歩んでいた。
鳥の羽音と獣の呻き声が騒々しく響いている。
巫女は騒々しい山の声を黙殺して歩を進めた。
草木を踏み分け、山の中腹にある石碑を見つけると足を止める。
手前に老婆が一人佇み、手を合わせていた。
巫女はそのまま近づいて声を掛ける。
「貴方はこの石碑が何であるのかご存知なのですか?」
すると老婆はそこで初めて巫女の存在に気が付き、驚いて振り返った。
「この石碑をご存知なのですか?」
巫女はもう一度同じ質問を繰り返す。
かましい鳥獣の声を切り裂きよく通る、凛とした澄んだ声だった。
老婆は拝んでいた手を下ろして答える。
「詳しくは知りません。けれど、」
老婆は石碑に向き直り、言葉を続ける。
「この石碑に何かあれば村に大災害が起こると祖父から聞いております。」
そこで老婆は狼狽えたように声を震わせ、
「それなのに、今日来てみましたら、昨晩の地鳴りで…」
と言葉を詰まらせた。
巫女は目を眇めて石碑を見る。
石碑には罅が入っていた。
巫女は無念そうに瞼を閉じた。
鳥達の荒れ狂った鳴き声が聞こえている。
遠くで獣が吠え立てていた。
巫女は背後の音を押しやって静かに真実を口にする。
「ここには荒魂が祀られ封じられていました。」
老婆は目を見開いて巫女を見た。
「それでは、やはり…」
老婆は唇を震えさせて問う。
巫女は唇を噛み、悔しさを滲ませながら判じた。
「まもなくこの一帯は大きな土砂崩れに見舞われるでしょう。」
老婆は慌てふためき、
「こうしてはおれん。村の者に知らせねば。」
巫女に一礼すると、危なげな足取りで山を転ぶように急ぎ降りていく。
それを見送った巫女は、目を閉じ、呼気を整えた。
やがて鳥達の声が聞こえなくなり、静寂が場を満たす。
巫女は緩々と目を開いた。
瞳は、陽光を受け銀色を帯びていた。
巫女は徐に右腕を前に差し出す。
握った右手から伸びた薬指と人差し指が山裾の集落を指し示した。
そして風音のような声を発すると、巫女は右腕を横一線に振り抜く。
すると、その動作に呼応するように風が山裾から吹き上がってきた。
風に載って幾人もの声が届けられる。
「あの婆さん、まだあの迷信を信じてるらしいぜ。」
嘲笑う男の声。
「こんな雲一つない日に土砂なんてくるもんか。」
馬鹿にした女の声。
「とうとう頭がいかれちまったんしゃないかね。」
それは老若男女の嗤い声。
巫女は右腕を静かに降ろし、固く目を瞑った。
そして再び瞼を持ちあげると、その瞳にもう銀色の光はなく唯々漆黒を宿していた。
巫女はゆっくりと来た道を引き返し始める。
黒雲が急速に広がる空の下、生き物たちが逃げ去った後の山は、奇妙な静寂に包まれていた。