清安寺という寺の和尚は、狐使いにて有りしとぞ。
橋本正左衛門、ふと出会いてより懇意となりて、おりおり夜ばなしに行きしに、ある夜五六人寄り合いて話し居たりしに、和尚の曰く、
「御慰みに芝居を御目にかくべし」
と云いしが、たちまち座敷芝居の体と変わり、道具立ての仕懸け、鳴り物の拍子、色々の高名の役者どもの出でて動く体、正身の歌舞伎にいささか違うことなし。客は思いよらず面白きこと限りなく、居合わせし人々大いに感じたりき。
正左衛門は、例の不思議を好む心から分けて悦び、それよりまた習いたしと思う心おこりて、しきりに行き訪いしを、和尚、その内心を覚りて、
「そなたには飯綱の法、習いたしと思わるるや、さあらば先ず試みに三度試し申すべし。明晩より三夜続けて来たられよ、これをこらえ続くるなら伝授せん」
と発言せしを、正左衛門飛び立つばかり悦びて、一礼のべ、如何なることにても耐え凌ぎて、その飯綱の法習わばやと、勇み勇みて、翌日暮るるを待ちて行きければ、まず一間に籠めてひとり置き、和尚出で向かいて「この三度の責めの内、耐え難く思われなば、いつにても声を上げて許しを乞われよ」と云いて入りたり。
程なくつらつらと、鼠の幾らとなく出で来て、膝に上り袖に入り、襟を渡るなどするは、いと五月蝿く迷惑なれど、まことのものにはあらじ、よし食われても傷はつくまじと、心を据えてこらえし程に、やや暫く責めて、いずくともなく皆なくなれば、和尚出でて「いや、御気丈なることなり」と挨拶して、「明晩来られよ」とて帰しやりしとぞ。
明くる晩も行きしに、前夜のごとく一人居ると、この度は蛇の責めなり。大小の蛇いくらともなく這い出でて、袖に入り襟に纏い、悪臭きこと耐え難かりしを、これも贋物と思うばかりに、こらえ通して有りしとぞ。
いざ明晩をだに過しなば伝授を得んと、心悦びて翌晩行きしに、一人ありて待てども待てども何も出で来ず。やや退屈に思う折しも、こは如何に、早く別れし実母の、末期に着たりし衣類のまま、まなこ引きつけ小鼻落ち、唇乾き縮み歯出でて、弱り果てたる顔色容貌、髪の乱れそそけたるまで、落命の時分身に浸みて、今も忘れがたきに、少しも違わぬさまして、ふわふわと歩み出で、ただ向かいて座したるは、鼠蛇に百倍して、心中の憂い悲しみたとえがたく、すでに詞をかけんとする体、身にしみじみと心悪く、こらえかねて「真っ平御免くださるべし」と声を上げしかば、母と見えしは和尚にて、笑い座して有りしとぞ。
正左衛門面目なさに、それより後ふたたび行かざりしとぞ。